2025年02月24日

2025年2月17日(月)三上陣屋跡訪問(野洲市)

三上陣屋(みかみじんや)跡を訪れました。三上陣屋は、滋賀県野洲市三上(近江国野洲郡)にあった陣屋で三上藩の藩庁です。通称近江富士と呼ばれる三上山の西麓に築かれていました。

三上藩主遠藤家は美濃国郡上八幡城主でしたが、元禄5年(1692)3月遠藤常久が7歳で嗣子がないまま没し、幕府によりお取り潰しとなりました。しかし、先祖の遠藤慶隆の功績が認められ、一族の遠藤胤親(たねちか)を大垣新田藩主戸田氏成の養子とし、常陸国・下野国に1万石が与えられて存続しました。
この遠藤胤親の所領1万石が元禄11年(1698)近江に移され(志賀(しが)、甲賀、野洲、栗太(くりた)4郡内で1万石を領有)、野洲郡三上に陣屋を構えて、三上藩(別称甲賀(こうか)藩)が立藩されました。
嘉永5年12月(1853年2月)第5代藩主で若年寄遠藤胤統(たねのり)のときには2千石の加封があり、1万2千石となりました。
また、慶応4年(1868)第6代藩主の遠藤胤城(たねき)(下写真)の時には佐幕派であったことから、明治新政府に朝敵と見なされて所領を没収されましたが、同年罪は許され領地は返還されました。明治3年(1870)、和泉国吉見へ移されています。
          第6代藩主 遠藤胤城

三上陣屋(明治3年4月から吉見藩三上出張所)
文化12年(1815)の刊行近江名所図会4 野洲川/三上山: 三上陣屋の様子を知る手がかりはほぼありませんが、下の図会は江戸時代の三上山、御上神社及び塀で囲まれた「三上陣屋」の様子を描いています。しかし、この図は少しデフォルメされており、この図のうち三上山だけを三上陣屋の前まで右方向に移動させると実際の配置に近くなります。
なお、図会はクリックすると原文にリンクし閲覧が可能です。

三上陣屋復元概要図 (現状の地図に陣屋の区域を記載したもので、図はクリックすると拡大します。): 書籍の『東氏・遠藤氏と三上藩(銅鐸博物館)』には、「三上藩の陣屋屋敷は南北21間(約38m)東西20間(約36.2m) 一反四畝歩で、元禄11年(1698)主に大谷六右衛門が提供した」とあります。
図の黒い線は小川・水路を表しています。図中説明の陣屋「表門」は湖南市常永寺に移築され現存し、「裏門」や「蔵」、「塀」は近隣の民家に移築されていましたが、現在は取り壊され、陣屋区域内にあった「長屋」も解体されました。上記書籍には、解体前の陣屋移築建物のいくつかの写真が掲載されています。
現在は堀跡と思われる小川が残るほかは宅地となり、陣屋の明確な遺構は残っておりません。
江戸時代(享保11年)の三上村絵図に描かれている大石のざくずれ石が当時の姿を唯一しのばせる遺構となっています。

享保11年三上村絵図陣屋付近部分(図はクリックにより拡大)

   三上陣屋跡北側の大石(ざくずれ石)

国土地理院 昭和22年(1947)航空写真に説明を追記(写真はクリックすると拡大): この時期の航空写真(下写真)には現在の国道8号線はなく、江戸時代に近い地形を表しているものと思われます。三上陣屋の範囲を破線の枠で示しました。このように陣屋の区域の形はわかりますが、すでに民家があり、江戸時代の絵図・明治期の地図等にも建築物の配置は描かれておらず、結論として陣屋の建物については不明です。

ところで、三上陣屋で起こった有名な事件は近江天保一揆です。
不正な検地により、一揆の原因を作った市野茂三郎をはじめとする検地の見分役人一行は、三上陣屋から北に直線距離で約50mの大庄屋大谷邸をはじめ周辺の5軒に分宿していました。
他方、この事件のもう一人の中心人物土川平兵衛邸は、陣屋から北西1km程の小字「小中小路」集落(下の写真外)の一角にありました。
一揆では検地の中止を求める野洲・栗太・甲賀の3郡の2万5千人とも4万人とも言われる百姓たちが三上陣屋に集まり、彼らに対して、三上藩郡奉行(こおりぶぎょう)平野八右衛門が応対しました。集まった農民は整然としており、陣屋に近い寳泉寺では、瓦などに若干の被害があった程度でした。

三上陣屋長屋: 長屋は西側堀沿いに建てられ、廃藩前は家臣の居宅となっていました。平成5年(1993)に取り壊されました。

上掲の長屋撤去後の石垣と西側堀(現在): 上記白黒写真の横断歩道上より西側堀を南方向に撮影

西側堀(北方向を撮影)

南側堀

表門跡へと繋がる通路: 手前(南側)に裏門、奥(北側)に表門がありました。三上陣屋の門と伝えられるものが、湖南市岩根にある常永寺(表門の移築門として現存)と、陣屋跡の直ぐ東側の民家(裏門)に移築されていましたが、民家移築の裏門の方は平成25年(2013)頃に取り壊されました。

東側堀(北方向を撮影): 南側堀がここから北へと回り込んでいます。

高札場跡: 民家の塀の前で矢印を付けた場所に高札場がありました。この民家の立地は陣屋門前の広場に当たります。

三上陣屋移築表門(湖南市岩根にある常永寺山門): 城門に多く用いられる高麗門形式で、明治6年(1873)に移築されました。
本瓦葺の軒先瓦などに遠藤氏の紋瓦が用いられています。

近江天保一揆関連

一揆指導者11名リスト: 指導者は罪人としてリストの11名が江戸送りとなりました。

土川平兵衛の墓: 昭和57年(1982)建立。
天保13年(1842)、江戸幕府により行なわれる検地において、見分役人が極めて不当であったことから、土川平兵衛は三郡の庄屋を糾合して、検地の中止を嘆願しようとしました。しかし、集まった農民が4万人に達して見分役人の旅舎を襲うことになり、検地実施の「10万日の延期」の証文を獲得しました。
後に、罪人として捕らわれる者が数千人に上り、過酷な拷問で死亡する者が40名あまりおりました。発起人土川平兵衛ら主要な11人は江戸送りとなり、江戸に到着する前に死亡した人もおりました。土川平兵衛は江戸に送られてから1月余り後に裁きを待たず獄死し、小塚原に梟首されました。
近江天保一揆当時は、5代藩主遠藤胤統が幕府の若年寄であったこともあり、関係者への処罰が大きかったといわれます。

天保義民之碑(湖南市三雲): 天保義民とは、野洲・栗太・甲賀三郡で、飢饉に苦しむ百姓が年貢増徴を防ぐために一揆を起こし、この一揆で、犠牲になった人々のことです。
天保義民之碑は、写真の湖南市のものに加えて野洲市及び甲賀市にもあります。

                            文責 岡島 敏広

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2025年01月21日

2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問

個人旅行で、沖縄県石垣島の①フルスト原(バル)遺跡、②八重山蔵元、③宮良殿内(みやらどぅんち、めーらどうぬじい)を訪問しました。

フルスト原遺跡は、島民の間では、オヤケアカハチの居館跡だと言い伝えられています。

オヤケアカハチ(遠弥計赤蜂)
オヤケアカハチは波照間島に生まれ、その後石垣島の大浜を拠点として勢力を持ち、琉球王府に反旗を翻した豪傑です。八重山島は1390年以来、琉球中山王に入貢し、以後毎年貢納していましたが、1500年の尚真(しょうしん)王の頃、大浜村のオヤケアカハチは2~3年間中山への貢租を怠りました。そのため、1500年2月2日、尚真王が派遣した大里按司を大将とする征討軍により滅ぼされたと琉球王国の歴史書『球陽』に記録されています。

15世紀、八重山諸島は各地に首長が並び立ち、勢力を争っていました。石垣島大浜地域のオヤケアカハチが勢力を拡大し、八重山統一を目指したオヤケアカハチは、琉球王府の圧政に反旗を翻して、琉球王府に従う四ケ村(新川・石垣・大川・登野城)の領主を石垣島より追放し、人格者として信頼の厚かった石垣島の川平村領主をも討ち滅ぼしました。宮古島の首長仲宗根豊見親(とぅゆみゃ)は脅威を感じ、琉球王府にアカハチ征討軍の派遣を要請しました。王府は貢租を拒み続けるオヤケアカハチ軍の討伐に軍船46隻、兵三千余名を那覇港から派遣し、宮古軍も加えてアカハチ軍を攻めました。アカハチ軍の兵が次々討たれるなか、孤立無援となったオヤケアカハチは底原(すくばる)で最期を遂げたといわれます。
このように豪傑で有名であったオヤケアカハチは、困窮に苦しむ農民たちのために武力で琉球王府に立ち向かいましたが、ついに戦いに敗れ命を落としました。この後、石垣島は琉球王府の完全な支配下に入りました。
伝えられているように、フルスト原は琉球王府軍との壮絶な戦いの場となり、『球陽』の記録した「嶮岨を負い、大海に面して軍勢を整えていた」アカハチ軍の夢の後を今に伝えています。

石垣市大浜のオヤケアカハチの碑

フルスト原遺跡: 石垣島の南側、字大浜に所在し、昭和53年(1978)3月3日に国指定の史跡となりました。
遺跡の北(地図左)から東側(地図上)にかけては断崖となっており、西(地図下)から南側(地図右)にかけてはゆるやかな斜面となって旧石垣空港へと続いています。遺跡は、宮良湾に面した標高20~25m前後の眺望の利く石灰岩の丘陵上に形成された屋敷囲いの石積みを伴う集落跡で、グスクと考えられていました。
史跡指定面積は約12.3haで、その中に広がる石塁(石様の囲い)遺構が連結していることが特徴で、一見、沖縄本島などにみられる「グスク」に類似しています。
現在の研究では、いわゆる城郭としての機能よりも、集落としての要素が強いと考えられています。

石垣市内の遺跡には、石塁のない集落跡も見られ、この遺跡で生活していた集団は石積技術を持っている点で違いが見られます。しかし、周辺の集落遺跡と同じような生活用品(土器や中国産陶磁器など)が、石塁内より数多く出土すること、武器にあたるものが見られないことから、石灰岩丘陵の断崖上で進入路を限定して、石積みを配する防御性を備えた集落跡と考えられています。(地図はクリックすると拡大します。)

フルスト原集落は13世紀から16世紀にかけて利用されました。発掘調査の結果、石・貝・骨を利用した道具類や陶磁器も出土しており、陶磁器は13~16世紀初頭のものが含まれ、15世紀の陶磁器が多く確認されていることから、このころに最盛期を迎えたと考えられています。
これら出土品により集落の始まりは少なくとも13世紀頃にまで遡ると考えられ、15世紀には最盛期を迎えて、16世紀には集落としての利用を終えて、集落は廃棄されました(1500年のオヤケアカハチの乱との整合性は疑問?)。
琉球王国時代となった以降の18・19世紀には、遺跡の一部は墓地或いは拝所として利用され、古墓が確認されています。明治時代初期の琉球併合により日本国となり、20世紀前半には沖縄戦に関する付属施設用地として利用されました。

「フルスト原遺跡 北側入口」: 写真のように標識のある北側の入口から遺跡に入ります。この先に続く遺跡までの進入路は、戦時中、軍用飛行機を移動するための進路として利用されていたもので、遺跡東側には駐車場が整備されていますが、進入路を自動車でそのまま進入できます。

遺跡に近接する旧石垣空港は、もともと昭和18年(1943)に海軍飛行場として建設されました。そのため、戦時中には滑走路などが攻撃を受け、そのたびに爆撃痕を埋めるため、フルスト原遺跡から石灰岩塊を運んで施設を補修したそうです。そのほかにも、畑に利用されたりする中で、石積みはかなり形を変えてしまいました。

現在、15基確認されている石塁の内、7基(第1、2、3、4、5、10、15号)が復原されています。石積みは、一部に自然の岩盤を上手く取り入れ、野面積(のづらづみ)により囲っています。高さは発掘調査により確認された根石を基礎とし、古老の記憶にある6~7尺(1尺=30.3cm)を参考に、地上高1.8m前後で以下の写真のように復原されました。
くるわ遺跡の規模は、南北に900m、東西に約200mと広大な範囲に及んでいます。
1976年に実施された調査では、郭を思わせる石塁区画、城門、石墓などの遺構が確認されています。城門は、北東部で確認されています。

フルスト原第10号石塁: この第10号石塁を含む第7号~第15号石塁は、崖から離れた側の遺跡の最も高い地点に位置し、石塁が集中して細胞状に15号石塁にまで伸びて連結しています(第10、15号石塁以外は未復原であることから、写真ではこれらの間は空間が空いています)。

フルスト原第15号石塁

石塁区画は崖の縁辺部で5基(第1、2、3、4、5号)、崖から20mほど奥まった所で10基の計15基が確認されています。一区画の石積みの規模は20m四方です。幅3~4m、高さ1.5mほどで、琉球石灰岩の野面積となっています。
1982年に石塁遺構の一部が発掘調査され、石塁内から掘立柱建物跡が検出されています。遺物としては土器、輸入陶磁器などが出土しています。

フルスト原第4号石塁: 遺跡入口(北)側から第4号~第1号石塁と並んでいますが、これらの木の生えた背後は崖となっています。また、第4号・第3号と第2号・第1号は対になっています。第5号石塁は第4号より遺跡入口方向に190m離れた所に築かれていますが、この空間にも、数基の石塁が存在したようで、遺構が存在しないのは、後世の採石で破壊されたことによります。

フルスト原第3号石塁

フルスト原第2号石塁: 崖沿いの第2号石塁と下写真の第1号石塁の内部から柱穴群が見つかっています。特に第2号石塁では、約100個の柱穴と炉跡があり、柱を固定する楔(くさび)石も残されていました。
建てられていた建物としては中柱を持つ円形の建物と、地表に石灰岩の露頭が多く見られることから、土間敷でなく高床の建物があったものと推定されています。

フルスト原第1号石塁


②石垣市内八重山博物館隣の八重山島蔵元跡にも訪れました。
蔵元とは琉球王府が属島とした離島地域に設置した離島統治のための出先機関です。方言では『ウラ』と呼ばれます。

当初、竹富島に設置されていましたが、1543年に石垣島大川村に移転され、1633年に現在の位置に移転されました。そこから明治に入り、廃藩置県までの248年間、琉球王府から役人が2年任期で派遣されていたといいます。その後(1880)、蔵元構内には、沖縄県庁の分庁として八重山島役所も設けられました。
蔵元の南の道は、船で到着した役人を歓迎する道で、真泊御嶽の西から蔵元までの総延長約500m・幅約10mの大道路であったとされています。

八重山島蔵元の歴史: 尚真王を25年にわたって支えた西塘(にしとう)が勲功を認められて王府の代官である武富大首里大屋子の頭職(かしらしょく)に任じられた際に、西塘の出身地である竹富島に蔵元をおきました。その後、竹富港の整備が難しく、1543年 に石垣島の大川村へ移転しました。1633年に蔵元は八重山キリシタン事件で処刑された本宮良頭石垣永将の屋敷跡である現在の石垣市立八重山博物館の隣の場所に移転されました。1771年になると明和の大津波により大きな被害を受けたため、一時的に高台になっている大川村の文嶺へ移転し、その後、1775年に大川村のフンナへ移転しました。1815年には利便性を鑑みて現在の八重山博物館隣地に戻り、1897年に廃止されました。

八重山島蔵元跡: 蔵元跡は、発掘調査後、現在は市営駐車場になっています。

蔵元跡発掘調査状況: この地には2つの遺構があるはずですが、明和津波直後の地層は失われていたことから、写真は1815年復帰後の遺構です。

蔵元の南門と時報楼の古写真


宮良殿内(みやらどぅんち、めーらどうぬじい): 首里王府時代に八重山は、宮良間切、大浜間切、石垣間切の3つの行政区に分かれ、それぞれの間切の頭職(かしらしょく)の私邸を殿内と称しました。宮良殿内は首里の士族屋敷をまねた建築とされ、宮良家8世の宮良親雲上当演(みやらぺーちんとうえん)が宮良間切の地頭職(八重山頭職)にあった文政2年(1819)頃に建造されました。

琉球王府時代の住宅建築は、階級による規格があり、宮良殿内はそれらの規格を度外視して建てられていたことから、琉球王府が身分不相応として5度にわたり取り壊しを命じました。当主は屈せずにいましたが、検使(王府派遣の行政監察官)富川親方の厳命により、明治8年(1875)頃やむなく茅葺に改修したと伝わりますが、王府解体後の明治33年(1900)に再び瓦葺に戻しています。
首里士族層の屋敷が戦災により失われたなか、旧宮良殿内は王府時代の士族屋敷を保存した沖縄における殿内構造の唯一の建物として、国の重要文化財に指定されています。

屋敷入口の本瓦葺四脚門を入ると、ピーフンと呼ばれる築地塀があり、中門扉が設けられています。この扉は、旧盆の祖霊の送り迎えや葬儀の際の出棺、嫁を出す時に限って開かれます。

主屋は本瓦葺木造平屋建で、建築材のほとんどは島産のイヌマキ材が使われていますが、一番座と二番座を仕切る中戸には屋久杉の1枚板が用いられています。

石灰岩の巨石を配した京都風の枯山水の日本庭園は国の名勝に指定されています。


以上、石垣島のフルスト原遺跡、それと蔵元跡及び宮良殿内を訪問しました。
訪問後の文献類の調査で、フルスト原遺跡は残念ですが、グスクそのものではなく、「グスク様」の集落遺跡であると分かりました。
                            文責 岡島 敏広

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Posted by joukaku at 07:15 Comments(0)その他

2025年01月20日

2025年1月14日(火)沖縄県竹富島(竹富町)の小城盛(クスクムイ)と蔵元

個人旅行で、沖縄県竹富町竹富島の①小城盛(クスクムイ)と②蔵元を訪問しました。

小城盛(クスクムイ又はクスクムリ): 小城盛と書いてクスクムリ(またはクスクムイ)と読みます。
竹富島: 沖縄県八重山郡竹富町竹富にある琉球王国時代の遠見の番人の詰め所、遠見番所(とおみばんしょ)です。
世持御嶽の裏手にある火番盛(ひばんむい)です。「火番盛」とは火を焚く丘という意味を持ちます。地元では遠見台のことを火番盛と呼び、火番盛は他の島々にもあり、石垣島に限らず、八重山の他の島々でそう呼ばれる傾向があります。これらを合わせて「先島諸島火番盛」として国の文化財に指定されています。
昔、電話など連絡方法がない時代に、ここで付近の海上を行く貢船や異国船を監視し、それらが通った際、また、何か有事のことが起こった際には、狼煙をあげて石垣島の蔵元に通報するために、火番所の役割として建てられた場所でした。上面には方位を刻んだ石もあります。

<歴史>
『球陽』という琉球の古文書には、1644年、船(主に異国船)が見えた時に素早く中山(王府)に情報を伝達する手段として遠見台を作ったことが記されています。宮古、八重山を含む先島諸島は、地理的条件から、スペインや中国(清国)の寄港を想定して遠見台が設置されたそうです。琉球列島の最西端に位置し、東シナ海の緊張に直面する地域で、要所であるという認識でした。
この時期に遠見台が作られた理由については、江戸幕府の鎖国政策が深くかかわっているといわれます。鎖国体制下において、同施設は、薩摩藩支配下の琉球王府によって設置され、王府から派遣された与人(副首長)と、目差(補佐)が常駐し海上交通の監視・通報(烽火)機能を担いました。役割は、竹富島に発着する船舶管理に加え、人頭税の徴収であったとされます。

小城盛南東面

小城盛南面

小城盛上部の石碑

小城盛階段

小城盛天面

当時、こういった役割の見張り台は八重山諸島の島々にあり、黒島にあるプズマリ、与那国島にあるグテイクチデイ、波照間島にあるコート盛などが同様のもので観光ポイントとして有名です。もちろんそういった役割の場所のため、見晴らしもとても良いです。竹富島を含めた先島諸島火番盛は、「対外関係と鎖国体制の完成を示す遺跡として重要である」として、平成19年(2007)3月23日に国指定史跡となりました。その後、追加指定されて、現在は19箇所がセットで国指定史跡に指定されています。


竹富島蔵元: 八重山統治の最初の役所(番頭)の跡地で、カイジ(皆治)浜(星砂の浜)の入口近くにあり、かつて八重山を統治した初代頭職、西塘(にしとう)氏が役所として使っていた場所です。県の指定文化財にもなっていますが、1543年に石垣島に移され、現在は石垣が残るのみとなっています。
尚真王を25年にわたって支えた西塘(にしとう)が勲功を認められて王府の代官である武富大首里大屋子の頭職に任じられた際に、西塘の出身地である竹富島に蔵元をおきました。その後、竹富港の整備が難しく、1543年 に石垣島の大川村へ移転しました。1633年に蔵元は八重山キリシタン事件で処刑された本宮良頭石垣永将の屋敷跡である現在の石垣市立八重山博物館の隣の場所に移転されました。1771年になると明和の大津波により大きな被害を受けたため、一時的に高台になっている大川村の文嶺へ移転し、その後、1775年に大川村のフンナへ移転しました。1815年には利便性を鑑みて現在の八重山博物館隣地に戻ってきました。

                            文責 岡島 敏広

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2024年10月28日

2024年10月25日(金)レイカディア地域文化43期'24秋のバス旅行「尾州犬山城とひつまぶしの旅」(愛知県)

レイカディア地域文化学科43期生で秋のバス旅行に出かけ、愛知県犬山市にある犬山城と青塚古墳を訪問しました。お昼は折角愛知県を訪れましたから、「ひつまぶし」を味わいました。

犬山城(いぬやまじょう)は、尾張国と美濃国の境、現在で言えば愛知県犬山市で、木曽川南岸の地「犬山」にあった日本の城です。江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつで、現存する天守では最古です。また、城跡は「犬山城跡」として国の史跡に指定され、天守が国宝指定された5城のうちの一つです(他は姫路城、松本城、彦根城松江城)。日本城郭では最後(2004年まで)まで個人が所有されていました。
室町時代の天文6年(1537)、織田信長の叔父、織田信康による築城で、以前は「金山越え」の伝承に基づいて最古の現存天守と言われていましたが、解体修理の結果から天守の移築は否定され、天正13年(1585)から同18年(1590)頃に切り出された木材が使われていることから、科学的に最古であることが判明しました
木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固(うしろけんご)の城」で、中山道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝として、戦国時代を通じて重要な拠点となりました。その後、犬山城主はめまぐるしく変わりましたが、江戸時代に入り、元和3年(1617)尾張徳川家の重臣成瀬正成(なるせまさなり)が拝領。このとき改良が加えられ、現在の天守の姿ができたといわれています。以後、成瀬家が幕末まで城主を務めることになります。

          成瀬正成

犬山城縄張図: 天和元年(1681)の「尾張国犬山城絵図」の天守周辺部分です。図はクリックすると拡大します。
他にも縄張図がこちらで見ることができます。

南東方向からの犬山城古写真(明治初年): 明治時代には犬山城は廃城と決定され、櫓や門などは売り払われていきましたが、いくつかの櫓の写った解体前の犬山城の古写真がありましたので示します。

国宝犬山城石碑: 登城道入口で、ここから城の実際の訪問ですが、これから訪問する区域は犬山城二の丸と本丸に当たります。犬山城第1、第2駐車場は三の丸に当たります。

猿田彦神社: 写真右手は松の丸跡になり、猿田彦大神を祀る猿田彦神社が鎮座しています。犬山猿田彦神社ともいい、三光稲荷神社の境内社ですが、独立した存在で、社務所でも三光稲荷神社と猿田彦神社を併記しています。建築、方位除け、災難除け、開運、事業発展、五穀豊穣、大漁満足、家内安全、交通安全、海上安全など、古来多くの御神徳で知られています。
写真の橋の下は堀跡で、今は道路になっており、橋を渡ったところに中門跡があります。
なお、大手門は三の丸と城外の境(犬山市福祉会館跡地)にありましたが、現存していません。

中門の辺り: 犬山城は観光ボランティアガイドさんの説明で巡りました。中門があった所には、今は案内板が立てられています。中門は、ここから先、二の丸、そして本丸へと続くという位置にある門で、櫓門だったそうです。しかもこの案内板の辺りには番屋(詰所)がありました。さらにまっすぐ登城すると空堀にぶつかりますが、その左手に小さな空間があります。今は、そこに姉妹都市の日南市から寄贈されたベンチや机が置いてありますが、この辺りには門番のための風呂があったと言われています。

登城道の第二の門・矢来門は、ここにはありませんが、あったのは高麗門(こうらいもん)です。登城道から真っ直ぐに進んで、空堀にぶつかったところを右に曲がると、矢来門が待ち構えていました。現在は礎石(そせき)がひとつだけ残っています。高麗門は機能性重視の門で、城内から外の様子を見やすいように構造が工夫され、登城道において矢来門とこの次の黒門との間で敵を囲める工夫がなされていました。現在は扶桑町専修院に移築され東門となって存在しており、右側の大扉には潜り戸があります。明治7年(1874)当時の価格で20円(現在価値は39万円ほど)で払下げられました。

松の丸表門の位置表示: 針綱神社から三光稲荷神社のあたりは、松の丸という曲輪があり、松の丸御殿がありました。この表示の場所には登城道から松の丸に出入りするための高麗門の「松の丸表門」が建っていて、この門も73円(現在価値は143万円ほど)で払下げられて移築され、一宮市の浄蓮寺山門として現存しています。鬼瓦には犬山藩成瀬公の定紋かたばみ紋があります。
松の丸は城郭部分の第1の防衛ラインで、登城道は櫓門形式の中門により出入口は厳重に守られていました。
犬山城の門についてまとめたブログを見つけましたので、詳しくはこちらをご覧ください。なお、移築され、現存している門は計5つあります。

   矢来門表示                 松ノ丸表門表示

三光稲荷神社: 創建は明らかではありませんが、天正14年(1586)の伝承があります。犬山城内三狐寺山に鎮座され(現在の丸の内緑地公園内)、古きより織田信長の叔父織田信康の崇敬殊に厚く、また犬山城主成瀬家歴代の守護神として天下泰平、五穀豊穣、商売繁昌、交通安全の祈願を籠め、数々の神宝が寄進されました。現在の地(針綱神社西)には、昭和39年(1964)10月に移築されました。神仏習合で三光寺とも称していましたが、明治時代初期の神仏分離により三光稲荷神社となりました。

横堀(空堀): 登城道北側には江戸時代から堀がありました。人工的につくった切岸や石垣とともに、本丸へ続く登城道から直進させない役割があり、鉄壁の防御を誇っていました。
かつては水堀の時代もあったようですが、後世に空堀となり、犬山城郭内で唯一埋められていない堀です。

黒門の位置表示: 江戸時代、この表示のある場所には登城道の第3の門で高麗門の「黒門」があり、今も礎石が残っています。この場所で敵を食い止めるとともに、道具櫓(現在の神社社務所の位置)や樅の丸(もみのまる)から攻撃できるなど、攻守に秀でた構造となっていました。黒門は明治9年(1876)に当時の価格で23円(現在価値は45万円ほど)で払下げられ、丹羽郡大口町の徳林寺山門として、移築されています。

針綱神社: 桐ノ丸跡にあります。太古より犬山の峰(現在の犬山城天守閣付近)に鎮座し、濃尾の総鎮守でした。創建年は不明ですが、延喜式に記載されていることから1000年以上この犬山の地に鎮座しています。
古くは現在の犬山城天守閣付近に鎮座していましたが、天文6年(1537)犬山城築城に際し、織田信康により白山平山(現在地より東方にある山)に遷座され、その後の慶長11年(1606)市内名栗町に遷座されています。そして明治維新の後の明治15年(1882)、現在の場所に再び遷座されました。過去鎮座された白山平山(小島町)と名栗町には犬山祭の際、御神輿が渡御されます。

小銃(鉄砲)櫓: 鉄筋コンクリート造りで復興されたものです。二層二階の櫓で、このすぐ下に高麗門の岩坂門があったことから、守備面で重要な櫓です。復興された櫓は茶室用の模擬櫓ですが、棟の向き、外形などは旧櫓とは異なっています。

鉄門(くろがねもん): 登城道最後の本丸入口の門で、写真のように鉄板で防御されていたことから、かつて鉄門と呼ばれていました。絵図からは門の上が櫓になっている櫓門で、写真の建物は往時の建物ではなく、鉄筋コンクリート造りで昭和40年(1965)に復興された建物です。
本丸には出入口は2つしかなく、もう一つは搦手門の七曲門です。

望楼型天守 外観三重(内部四階、石垣の中二階付)で、天守南東側に天守に直結した形で切妻の付櫓が設けられています。最上階には花頭窓が見えますが、実際には窓はなく、装飾の窓枠が付けられたものです。

内部に入り見学します。
地下1階、階段部以外の3面は石垣。地下2階からこの階までは石垣の内部です。

1階: 納戸の間、中央部には4室が配置され、その周囲は武者走りとなっています。

2階: 武具の間、中央に武具の間があり、その周囲を武者走りが廻ります。

3階: 破風の間、入母屋屋根の中にあり、望楼部分の下部になります。ガイドさんの話では、落城時には城主は窓を閉めて真っ暗にした中、ここで切腹をするとのことでした。

4階: 高欄の間、最上部の望楼部分にあたり、周囲を廻縁と高欄が巡ります。歴代の城主の肖像画が掲げられていました。4階の天井は他の現存天守と異なり、通常の住宅の天井のように天井が張られていました。ごく最近まで個人所有だったからなのだと思われます。
犬山城を楽しむためのウェブサイト」に詳しい情報がまとめられていますので、紹介いたします。

レストラン備長でのひつまぶしの昼食: お昼は折角、愛知県に来ましたから、ひつまぶしに舌鼓を打ちました。ひつまぶしの発祥には津市と名古屋市の2つの説があるようです。

青塚古墳の説明風景: 昼食後は青塚古墳を訪問し、学芸員さんによる解説を受けました。
青塚古墳は墳長123m、高さ約12mの前方後円墳で犬山市では、こちらも昭和58年(1983)に国史跡として指定されています。東海地区最大級の大きさを誇り、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いの際には秀吉陣営の砦として使用されたことから、別名「青塚砦」とも呼ばれています。

青塚古墳墳丘: 青塚古墳の約3.5km東にある尾張二宮大縣(おおあがた)神社では、「青塚古墳は大縣神社の御祭神である神裔 大荒田命(おおあらたのみこと)の墳墓である」と伝えられています。

これで計画された訪問先はすべてこなしました。
本日は、地域文化学科卒業生にふさわしい研修に主眼をおいた旅行を企画いただき、かつ、往復のバス内では楽しく過ごし親睦を深められるよう、綿密に計画いただいた幹事さん(H.S.さん、M.T.さん)をはじめ、それを支援いただいた皆様に感謝いたします。
                                     文責 岡島 敏広

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2024年10月22日

2024年10月9日(水)岐阜県飛騨高山陣屋訪問

個人旅行で、10月8日の信濃国川中島松代城に引き続き、高山陣屋を訪問しました。
幕末には全国に60数ヶ所あったと言われている代官・郡代役所跡の中で、当時の主要建物が現存しているのは、高山陣屋が日本で唯一です。
昭和4年(1929)には、国史跡に指定されています。

近世の飛騨国は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武将の金森長近を初代とし、高山城を築城後、金森氏が6代にわたって治めていました。金森氏は、山林と鉱山の開発に力を入れ、国内の経済発展に努めました。山から伐り出された材木は美濃・尾張・伊勢・越中などの諸国に売られ、飛騨国の財政を支えました。

           金森長近

高山陣屋は、江戸幕府が飛騨国を直轄領として管理するために設置した代官所・飛騨郡代役所(陣屋)です。
元来は、飛騨高山藩主であった金森氏の所有する下屋敷(向屋敷)として使われていましたが、107年間にわたって飛騨国を治めていた金森氏が元禄5年(1692)に国替えとなり、飛騨国は幕府直轄地となりました。直轄領になった理由は現在明らかではありませんが、飛騨国の豊富な山林資源が背景にあったと言われています。
幕府が飛騨を直轄領として以降、この下屋敷に代官所(陣屋)が移され、高山陣屋は伊奈忠篤らによって整備され、安永6年(1777)以降は郡代役所となりました。明治維新に至るまでの177年間に25代の代官(郡代)が江戸から派遣され、幕府直轄領の行政・財政・警察などの政務を行いました。金森時代の山林政策を引き継いだほか、山林調査や植林も行いました。郡役所・代官(郡代)役宅・御蔵等を併せて「高山陣屋」と称します。
明治維新後は、主要建物がそのまま地方官庁として使用されてきました。昭和44年(1969)に飛騨県事務所が移転したのを機に、岐阜県教育委員会は、全国にただ一つ現存する徳川幕府郡代役所を保存するため、平成8年(1996)3月まで三次にわたり復元処理を行いました。

高山陣屋見取図: 見取図中の丸数字は、以下に記載している説明の番号と一致しています。また、高山陣屋見取図の古図は次のリンクから見ることができます。御陣屋絵図

高山陣屋ジオラマ

①高山陣屋趾碑: 高山陣屋の史跡碑を見ながら、表門を通って陣屋に入ります。

②表門: 表門は天保3年(1832)に再建されたものが現存しています。

③門番所: 同じく天保3年(1832)に建てられました。表門のすぐとなりにあり、門番(もんばん)が交代でつめていました。

④玄関: 高山は「天領」と呼ばれる天下人(=徳川将軍)の直轄領で、玄関幕には葵紋が掲げられています。江戸時代にはこの紋章は徳川一門の施設でしか掲げることができませんでした。
高山陣屋内には役所部分だけで玄関が7ヶ所あり、身分によって出入りする場所が決められていました。入館時に使用する玄関の間に直結する入り口は、代官・郡代もしくは幕府から派遣された巡見使(じゅんけんし)だけが通ることができました。

⑤御役所(おやくしょ): 代官・郡代、その部下である手附(てつき)・手代(てだい)が執務する部屋で役所の中枢部です。手附・手代は、代官・郡代などの部下として実務を担当した下級役人で、年貢徴収や山林の管理、土木行政、警察や裁判まで地方行政にまつわるさまざまな実務を行っていました。
ここは文化13年(1816)に建てられました。

⑥北の御白州(きたのおしらす): 御白州は取り調べを行ったり、判決を言い渡した場所です。裁判における法廷の役割を果たした部屋とされています。 御白洲は陣屋内に2ヶ所あり、こちらは御役所前にあり、特に人どうしのもめごとを解決するところでした。時には,表彰などもこの場で行われました。村からの訴えや願いごとを受ける、今で言うところの役所の窓口となる場所です。

⑦帳綴場(ちょうつづりば)から見た庭と玄関: 帳綴場は、幕府に提出する文章類を作成する役人が使用した部屋です。写真奥に紫地に白の葵紋が掲げられた玄関が見え、その手前の格子は北の御白州の外側からの様子に当たります。

⑧座敷: 代官・郡代が客を接待したとされる部屋です。また、部下との相談の場としても用いられました。

⑨台所: 代官・郡代とその家族の食事を用意する場所です。展示されている食器や破片は郡代役宅跡の発掘調査により出土したものです。

御白州: こちらでは罪を犯した人の取り調べや裁きが行われ、いわゆる法廷の役割を果たしました。江戸時代の取り調べは、自白が重視されていました。そのため自白が得られない場合には厳しい拷問が課される場合もあったようです。
ただし、高山陣屋に置かれた拷問道具は、人々を威圧するために置かれていたと考えられており、実際は牢屋内(現在の上一之町・海老坂付近)で行われていたとのことです。
時代劇などに登場する御白州は、その名の通り白い砂が敷かれていますが、高山陣屋の御白州は白くありません。飛騨の国には海がなく、御白州に敷くための白い砂が十分に手に入りません。そのため河原のぐり石を敷いて代用しました。
また、飛騨国が雪国であることから、屋根がないと冬場雪に埋もれ使い物にならなくなるという実用的な理由から、建物の中に御白州が作られました。
さらに、島流しの刑などが出ると海がないため、まずはこの場に置いてあるような籠で罪人を江戸まで輸送するところから始めたそうです。

➉拷問方法が絵にして掲示されていました。

御蔵(おんくら): 近隣の村々から納められた年貢米を収納する米蔵です。
幕府直轄領となった直後の元禄8年(1695)に高山城三之丸より移築されました。創建は三之丸が築造された慶長年間(1600年頃)と考えられ、現存する江戸時代の米蔵(土蔵)として全国でも最古・最大級を誇ります。
御蔵の特徴的な板葺き屋根は、釘を使わずに板を木の棒と石で押さえる「石置長榑葺(いしおきながくれぶき)」という葺き方を採用しています。材料には、油分を多く含み水をはじく利点を生かしてヒノキ科のネズコが利用されていました。しかし、最近ではサワラやスギも利用します。板は5年単位で上下・表裏を返して20年もの間、素材を生かすこの工法を現在も守り続けられています。

高札: 御蔵の中には、高山の宮川に架かる赤い中橋の袂にあった高札場の高札も展示されていました。高札は幕府が決めた掟や禁制などを周知徹底させるために、それを板に墨で書いた掲示板です。町の中心地に高札場を設置し、そこに掲示されました。

ここで高山陣屋の見学は終わり、その後、本日は想定外でしたが秋の高山祭の開催日(10月9~10日)に当たりましたので、下のように高山祭を見て自宅へと帰宅することにしました。

                            文責 岡島 敏広


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2024年10月21日

2024年10月8日(火)長野県信州松代城訪問

個人旅行で、昨日の信濃国小諸城に引き続き、松代城を訪問しました。
松代城は日本100名城に選定され、No.26です。
また、松代城では本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されています。

松代城は千曲川東方にある平城で、北信濃を支配するために永禄3年(1560)、甲斐の武田晴信(信玄)が越後の上杉謙信との「川中島の戦い」(1553-1564)の際に武田方の拠点として築城した「海津(かいづ)城」が松代城のはじまりとされています。
信玄の死後には、戦国の動乱とともに城主はめまぐるしく変転しました
森忠政が城主となった慶長5年(1600)には二の丸・三の丸を整備し、石垣に築きなおして「待城」と改名、次の松平忠輝の時には「松城」と呼ばれるようになりましたが、元和8年(1622)に真田信之上田城より移り、第3代藩主真田幸道のときに、幕命により「松代城」と改名されました。

 武田晴信(信玄)             真田信之

松代城は戦国時代に築城されて明治時代まで存続した城で、300年以上の間、北信濃における拠点的な場所でした。千曲川によって形成された自然堤防の頂部(中央部)に方形の石造りの本丸を築き、土造りの二の丸・三の丸からなります。

松代城絵図: 絵図はクリックすると拡大します。

廃城後は建物を失ったために、城としての景観を大きく損なっていましたが、長野市は文化遺産を後世に伝えるため、平成の大普請(環境整備工事)を行い、城跡を修理・復元しました。本丸の太鼓門と北不明門等の城門や木橋、石垣、二の丸土塁、堀などは江戸時代終わりごろの姿に限りなく近い状態で再現されています。
松代城は背後を流れる千曲川がたびたび洪水を起こしたため、その修復と千曲川の改修を何度も行っています。中でも「戌の満水」と呼ばれる寛保2年(1742)の被害は大きく、幕府に城普請の許可を得るとともに、1万両の拝借金を許されました。なお、二の丸を焼失した寛永2年(1625)、本丸・二の丸・三の丸を焼失した享保2年(1717)、花の丸を焼失した嘉永6年(1853)など、城内での火災もたびたび起こっています。
こうした浸水被害を受ける本丸にかわり、江戸時代の中頃からは本丸の南西にあった花の丸御殿が藩主の政務の場及び生活の場となりました。

江戸時代末期の松代城のイメージ: 下図はクリックすると拡大します。
明治5年(1872)に廃城となった松代城は、城内の土地・建物を順次払い下げられ、桑畑として開墾され、建物も取り壊されました。また、御殿が存在した花の丸は、明治6年(1873)に放火され焼失してしまいました。
松代城の建物で現在まで残っているのは、三の堀の外に建てられていた新御殿(真田邸)などわずかです。昭和56年(1981)、本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿と共に国史跡に指定されました。また、平成24年(2012)3月の長野電鉄屋代線の廃線を受け、平成27年(2015)には、二の丸南東部や三ケ月堀、丸馬出しなどを含む範囲が追加指定を受けています。

北不明門(きたあかずのもん): 手前の表門(枡形門)と奥の北不明門(櫓門)。城郭北側駐車場より訪問しましたので、北不明門側からの見学となります。
本丸の裏口(搦手)に位置する門で、太鼓門と同様に櫓門と表門(枡形門)の2棟による構成です。18世紀中ごろに行われた千曲川改修以前は、門が河川敷に接していたことから、「水之手御門」と呼ばれることもありました。
絵図史料をもとにして、当時の門礎石をそのまま利用して忠実に復元されています。

北不明門(櫓門)枡形側: 櫓門は石垣に渡らずに独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門です。

北不明門本丸内側

本丸戌亥櫓(いぬいやぐら)の櫓台: 北不明門の西に隣接していた松代城で最も高い櫓の跡です。絵図面では2階建ての隅櫓(すみやぐら)が建っていたとあり、川中島平を広く一望できたと考えられます。 野面積みで積まれた櫓台の石垣は抜本的な積み直しはおこなわれず、欠落した小石の挿入程度にとどめられています。

海津城址の碑: 海津城は山本勘助が築城し、甲州流築城の模範になったといわれる名城です。川中島平全体をにらむ、戦略的に重要な地点にあり、三方を山に囲まれ、西は南北に流れる千曲川という自然の地形を巧みに利用した堅固な造りでした。海津城と称されるように、かつては海のごとき千曲川のほとりにありましたが、寛保年間の瀬直しにより城は川岸から離れました。

                                   山本勘助

元和度 松代城御本丸古図(真田信之時代): 真田信之時代に本丸にあった御殿の配置図で、図をクリックすると拡大図にリンクします。
本丸内には江戸時代中頃まで政庁や藩主の住居のための御殿がありました。調査では建物礎石や井戸跡、焼けた土壁など享保2年(1717)の火災で焼失した御殿の痕跡が数多く見つかっています。
しかし、度重なる水害の影響により明和7年(1770)に城の南西に位置した花の丸に御殿を移転しました。

太鼓門本丸内側: 太鼓門は本丸内では最も大きな門でした。本丸大手の出入り口(虎口)は、枡形に石垣をまわし、二層の櫓門(太鼓門)と枡形門(橋詰門)の2つの門で構成されています。このような枡形で本丸を厳重に守っていました。
良好に残っていた門礎石をそのまま利用し、絵図面などから、栩(とち)葺(板葺)で切妻屋根の姿を忠実に復元しています。
太鼓門の名は、藩士に登城時刻を知らせたり、緊急連絡をするための太鼓を備えていたことに由来します。

太鼓門枡形側

太鼓門前橋: 太鼓門表門(橋詰門)の前には橋が架かっていました。
内堀の調査では堀の中から30本以上の折れた橋脚が発見されています。橋脚の形状や橋脚の打ち込まれた層位の違いから、橋の架けなおしが4回以上行われたことが分かりました。このことから、災害の度に橋が崩落・破損したという当時の史料記載が裏付けられました。
発見した橋脚や江戸時代末期の絵図面をもとに前橋を忠実に復元しています。

埋門: 埋門は二の丸の土累に3か所あったようで、本丸西側に復元されています。

二の丸南門: 南門の虎口は、現在は車道に削られた形になっている丸馬出に繋がっています。丸馬出は上掲の松代城絵図とイメージ参照

真田邸(新御殿)入口: 新御殿の真田邸は幕末の元治元年(1864)、9代藩主真田幸教が、義母・貞松院(幸良の夫人)の住まいとして元治元年(1864)に建築した松代城の城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていました。御殿(主屋)は、表座敷や居間・湯殿など、江戸時代の大名邸宅の面影をよく残しています。隠居後の幸教はここを住まいとし、明治以降は伯爵となった真田氏の私宅となりました。

新御殿玄関: 正面の玄関には、広い式台が設けられています。式台は玄関の低くなった板敷の部分で、武家の家にだけ許された設備です。
また、正面玄関は江戸時代には殿様やお客様の出入りにだけ使われ、家老など上級武士でも、右の「小玄関」から出入したといわれます。

真田邸の見学後、松代城訪問はここで終わり、この後は本日の宿へと移動しました。
                            文責 岡島 敏広

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2024年10月20日

2024年10月7日(月)長野県信濃国小諸城址訪問

個人旅行で、龍岡城五稜郭に引き続き、本日最後の訪問地の小諸城址を訪問しました。
小諸城は日本100名城に選定され、No.28です。

小諸城は、千曲川右岸の台地上に築かれた平山城で、城下町より低い位置にあることから、「穴城(あなじろ)」と呼ばれることもあります。現在確認できる遺構は近世以降のもので、発掘調査がなされていないことから、近世以前は詳細が不明です。
小諸城の起こりは長享元年(1487)に大井光忠が、現在の大手門北側に築いた鍋蓋城であると考えられています。その後、光為(光安)が父光忠の遺志をついで、乙女坂に支城を築き乙女坂城(又は白鶴城)と称しました。現在の小諸城跡二の丸の地がこれにあたります。
天文23年(1554)、武田信玄はこの地を攻略、佐久統治の中心として拡張整備し、信玄の東信州経営のために現在の縄張りとされました。現在残っている城跡の元になったものは、信玄の軍師であった山本勘助の縄張りだと言い伝えられていますが、根拠となる史料はありません。本丸跡懐古神社横に山本勘助が顔を映したという鏡石があります。
現在のような構えとなったのは、天正19年(1591)に入封した豊臣秀吉家臣の仙石秀久による大改修によるもので、石垣を構築した近世城郭に改修され三重天守もその頃に建てられたものです。天守には桐紋の金箔押瓦が用いられていましたが、寛永3年(1626)に落雷によって焼失しています。

           仙石秀久

その後は、松平、青山、酒井、西尾、石川の大名が封じられ、その度に修築が加えられ、元禄15年(1702)、牧野康重が入封して以来、牧野氏が10代にわたり、168年間小諸城を居城とし、明治に至りました。

寛文3年(1663)小諸御城内御絵図: 絵図はクリックすると拡大します。絵図には大手門が描かれていますが、今回は訪れておりません。
大手門は小諸城の正門で、慶長17年(1612)藩主仙石秀久が小諸城を築いた時代の建築です。小諸城の表玄関にあたり、本丸から数えて4番目の門であることから、「四之門」とも「瓦門」とも呼ばれました。平成の大修理を経て、江戸時代の姿を今も残しています。国指定重要文化財です。

三之門外側: 駐車場に近いここから実際に訪問しましたが、三之門は寄棟造りの二層の城門で、元和元年(1615)に創建されました。寛保2年(1742)の大洪水で流失し、明和2年(1765)に再建。両堀に矢狭間・鉄砲狭間が付けられた建物で、正面にある「懐古園」の大額は徳川家達の筆。こちらも国指定重要文化財です。
門の左側の石垣と塀が手前にせり出し、門前に殺到する敵に攻撃を浴びせる構造となっています。

三之門内側

二の丸跡石垣と二之門跡: 二の丸の写真の側面の石垣は明治4年(1871)北国街道整備に用いられ、崖がむき出しのままでしたが、昭和59年(1984)に元あった石よりも大きな石を用いて復元されています。

二の丸跡: 二の丸跡へ登る石段。左の石垣中には大きな鏡石が見えます。そこには、著名歌人の若山牧水の歌が刻まれています。城の石垣は、自然石を加工せずに積み上げた野面積みです。仙石秀久は慶長末期(1614~15)までに城郭や城門の整備、石垣の築造、城下町の整備など近世城郭として大改修を行い、ほぼ完成したとみられています。

南の丸跡: 小諸城建物絵図のリンク先に2つの図が示されていますが、左側は中央に二之門が描かれ、右図には南の丸の建物の様子が描かれています。

北の丸跡: 二之門跡を入って右手に番所跡があります。ここから先は本丸に通じるため、検問を行うための番所がありました。現在は弓道場として用いられています。

紅葉谷に架かる黒門橋: 本丸と二の丸を隔てる谷に架かる橋。往時は引橋になっていて、敵が迫ってきたら橋を引いて渡れないようにしました。また、橋を渡り切ったところに黒門がありました。この門は現在、正眼院に移築され現存しています。

紅葉谷: 現在、紅葉谷と呼ばれる黒門橋がかかる空堀は、左右の田切地形の谷をつなぐように、人の手で掘り割った数少ない堀です。深さは、橋下約8メートルほどであったといわれています。

黒門跡: このリンク先には、黒門を含む城門の絵図が示されています。

本丸跡に鎮座する懐古神社: 小諸城跡を懐古園として整備した際に、旧小諸藩の士族らにより、同藩を治めた牧野氏の歴代藩主の霊を、藩政時代から城内の鎮守神として祀られていた天満宮・火魂社と合祀して現在地に建立された神社です。

本丸跡石垣(紅葉ケ丘側): 上述のように、石垣は野面積みです。

天守台跡: 三層の天守があり、桐紋の金箔押瓦が用いられていましたが、寛永3年(1626)に落雷で焼失しました。その後は江戸幕府の政策により再建されなかったといわれています。
なお、天守台付近では豊臣政権後半期のものと思われる金箔が施された桐紋の軒丸瓦と軒平瓦が採集されています。

天守台・本丸跡石垣と馬場(右側): 馬場は本丸西側の一段低い位置にあるかなりの面積を持つ曲輪です。

この後、馬場を先に進み懐古神社に戻りました。
ここで夕刻となりましたので、小諸城の訪問は終了し、この後は、本日の宿へと移動しました。
                            文責 岡島 敏広

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2024年10月16日

2024年10月7日(月)長野県信濃国龍岡城五稜郭訪問

個人旅行で、諏訪高島城に引き続き、龍岡城五稜郭を訪問しました。
龍岡城五稜郭は続日本100名城に選定され、No.129です。

龍岡城五稜郭は、函館五稜郭とともに日本に2つしかない星形稜堡(りょうほ)の洋式城郭で貴重な国指定の史跡です。
幕末の文久3年(1863)、三河国奥殿藩の藩主・松平乗謨(のりかた)は、分領ではあっても領地の大部分を占める信濃国佐久郡への藩庁移転と陣屋新築の許可を江戸幕府から得て、田野口藩新陣屋として着工しました。
西洋の軍学に関心を寄せ、砲撃戦に対処するための築城法を学んでいた松平乗謨は、新陣屋として稜堡式城郭(星形要塞)を設計し、慶應3年(1867)に竣工しました。しかし、その年には徳川慶喜が大政奉還を行っています。
ちなみに、もう1つの有名な函館五稜郭も同じ幕末の慶應2年(1866)に完成しています。

松平乗謨: 大給 恒(おぎゅう ゆずる)に改名。三河国奥殿藩8代藩主、のちに信濃国田野口藩(龍岡藩)主。

龍岡城五稜郭絵図: 廃城前の建物配置で、下方が北。図はクリックにより拡大します。
赤く囲った「御台所」は西の方(図では右)に位置を移動して現存しています(以下に示した「御台所」の写真参照)。

龍岡城枡形外側: 上記絵図の右下の田野口村入口に当たり、ここからは、直線ではなく右に曲がって入ります。

龍岡城枡形内側

大手橋: ここから堀を渡り、星形稜堡の城郭へ入城です。

大手門跡東側の堀: 堀幅は大手橋付近が最も広9.1 mmあり、他はやや狭くなって平均7.3 mです。

大手門跡西側の堀: 先に進んでゆくと水堀はなくなっています。
すなわち、堀は北・北東・東南の3稜堡をカバーするだけしかなく、南西・西側2稜堡を囲む約200 mは未完成のままです。

内部から見る北東側土塁

御台所: 城が完成して5年経過した龍岡藩廃藩後の明治5年(1872)、建物は入札払下げとなって解体されました。御殿を構成した建物の内、写真の「御台所」は、同じ年の学制発布により学校としての使用申請が認められ残されました。長く校舎として使用されましたが、昭和4年(1929)に城郭内で位置を現在地に移され、後に半解体復元工事が行われて現存しています。

天守や目立つ石垣を持たない星型稜堡の洋式城郭である五稜郭は、やはり上方から全体を見ないとその良さがわかりません。そこで、田口城近くに設置された五稜郭展望台まで登りました。山道は大変でしたが、そこから眺めました。

龍岡城から五稜郭展望台への経路: 「五稜郭であいの館」でもらった地図を掲載します。地図はクリックにより拡大します。
徒歩では登山口から地図上で上下にはしる登山道を登り30分ほどで到達します。
車では林道清川線を使用する必要があります。林道入口は地図上部の赤く塗った道路を左方に進むと到達します。

龍岡城五稜郭の全景(五稜郭展望台より撮影): 手前に大手橋が架けられています。城内には田口小学校が建てられていますが、2023年3月小学校の統廃合に伴い閉校となりました。

参考 比較のための函館五稜郭の全景(五稜郭タワーより撮影)

林道清川線入口: 県道120号(三分中込線)沿いに入口のある林道清川線からは車で五稜郭展望台近くまで登れます。
ただし、1車線ですれ違い場所は数ケ所のみ、対向車は少ないですが、運転には注意が必要です。

田口城・五稜郭展望台方面への分かれ道: 上記入口から林道を進むと途中で分かれ道となっています。五稜郭展望台へは標識に従い右に進みます。

ここで龍岡城五稜郭訪問は終わり、この後は、本日の最後の訪問地の小諸城へと移動しました。
                            文責 岡島 敏広

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Posted by joukaku at 07:55 Comments(0)その他

2024年10月14日

2024年10月7日(月)長野県諏訪高島城訪問

個人旅行で、飯田城に引き続き、諏訪高島城を訪問しました。
諏訪高島城は続日本100名城に選定され、No.130です。

概要
諏訪湖畔に築かれた平城(水城)
築城年 文禄元年(1592)着工、慶長3年(1598)完成
築城者 豊臣秀吉の武将・日根野高吉(ひねのたかよし)
築城当時の高島城 本丸、二之丸、三之丸などの主要な郭をほぼ一直線上に連続配置した連郭式で、諏訪湖と数条の河川に囲まれた水を守りとする難攻不落の水城でした。

諏訪高島城は、諏訪郡を領していた諏訪頼忠が転封となり、代わって入った豊臣秀吉の家臣「日根野織部正高吉」により慶長3年(1598)築城され、のちには再度諏訪氏の居城となって、その威容と要害堅固を誇ってきました。
日根野高吉が築城の適地とした高島は、当時諏訪湖畔に島状を呈していたと思われる場所で「浮島」とも呼ばれ、ここには主に漁業を営む村落があったことが記録に残っています。高吉はこの村をまるごと移転させて高島城を築いたといわれています。
完成当時は、城のまわりは湖水と湿地に囲まれ、下図のようにあたかも諏訪湖中に浮かぶようであったので、別名「諏訪の浮城(うきしろ)」と呼ばれました。
慶長6年(1601)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封。再び諏訪氏がこの地の領主となり明治維新まで続くこととなりました。かつては諏訪湖に突き出した水城でしたが、江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ、水城の面影は失われました。
さらに、明治の廃藩置県により、封建制のシンボルである城郭の撤去が決定し、明治8年(1875)には天守が撤去されました。その後、諏訪市民の高島城への愛着が強く、昭和45年(1970)5月に天守が復興され、美しい姿を再び堀の水に映すようになっています。

下の「御枕屏風」に描かれた高島城からわかるように、城の北側には城下町(兼甲州道中上諏訪宿)が設けられ、城下町から城までは一本の道しかありませんでした。
城は、北から衣之渡郭(えのどくるわ)、三之丸、二之丸、本丸が一直線に並ぶ「連郭式」と呼ばれる形態です。

御枕屏風の高島城部分

本日は本丸のみを訪問し、他の郭は下に説明のみ記載します。

【本丸】三層の天守と城主の御殿や書院、政務をとる御用部屋、郡方、賄方。その他、能舞台、氷餅部屋など多くの建物がありました。現在は、高島公園となっています。図は上が南側となっています。

本丸諏訪湖側(駐車場付近)から見た②諏訪高島城天守: 天守は三層三階の望楼型天守が建てられましたが、天守をはじめ主要な建物の屋根が瓦葺きではなく、檜の薄い板を葺いた柿葺(こけらぶき)という珍しいもので(復興後は銅板葺き)だったことも、高島城の大きな特徴です。
これは、湖畔の軟弱地盤で重い瓦が使えなかったからとか、諏訪の寒冷で瓦は凍み割れてしまい、堪えられる瓦が調達できなかったためとも言われています。また、築城当時の石垣は、自然石を加工せずに積み上げた野面積(のづらづみ)でした。

   復興天守(南西面)        破却前天守古写真(北面)

破却前の高島城遠景(明治4年、1871)

石垣補修のようす: 天明6年(1786)には大掛かりな補修によって石垣の大部分は整備されましたが、現在でもその一部が残されています。
写真の模型のように櫓を組んで、天守を持ち上げ、石垣が補修されました。

高島城北面(左から⑨角櫓、⑥冠木門・⑤冠木橋、②天守)

⑥冠木門: 本丸の正面玄関にあたります。「冠木門」とは柱に貫と呼ばれる棒を横に通した造りの門のことをいいます。信濃国諏訪郡高嶋城絵図では冠木門は棟門又は高麗門になっています。この名前は形式的なものか、初めは冠木門であったのが後から作り替えられた可能性があります。

⑥冠木門(櫓門)上部

⑤冠木橋

⑨角櫓: 本丸東側には3棟の二重櫓(角櫓、持方月櫓、富士見櫓)が置かれ櫓と櫓の間には多門櫓が配されていました。

諏訪護国神社: 創建は明治33年(1900)。諏訪地域出身の国家のために殉難した人の霊(英霊)を祀るために創られました。

⑦御川渡門跡に移築された三之丸御殿裏門: 高島城破却後、茅野市湖東の民家に移築されていた三之丸御殿裏門が、昭和63年(1988)に所有者から諏訪市に寄贈されました。
現在設置されている三之丸御殿裏門の位置が本来とは異なりますが、高島城が湖に面していた頃は、ここの位置にあった御川渡門から舟に乗ることができたそうです。

本丸諏訪湖側から見た②天守(南面)

高島城本丸以外の郭の説明を以下にまとめます。
【衣之渡郭】
内海櫓(うつみやぐら)と内海門という門があったほか、上級藩士の屋敷がありました。
【三之丸】
楼門(三之門)があり、藩主の私的空間として利用された三之丸御殿、家老の三之丸屋敷、藩の会計を預かる御勘定所などがありました。
【二之丸】
楼門(二之門)があり、家老諏訪家の二之丸屋敷、職人が詰めて働く御作事屋、貯米蔵、貯銭蔵、馬場などがありました。
【南之丸】
寛永3年(1626)に徳川家康六男の松平忠輝を預かることとなり、南之丸を増設し、監禁場所としました。以降、南之丸は、幕府から預かった流人の監禁場所として使用され、不要となったのちには薬草などの栽培場所となったとされています。

ここで諏訪高島城訪問は終わり、この後は、本日の次の訪問地の龍岡城五稜郭へと移動しました。
                            文責 岡島 敏広

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Posted by joukaku at 10:33 Comments(0)その他

2024年10月12日

2024年10月7日(月)長野県信濃国飯田(長姫)城跡訪問

個人旅行で、信濃飯田城跡を訪問しました。
飯田城は、戦国時代末期から伊那谷南部の拠点となり、下伊那では江戸時代まで残ったただ1つの城です。

城の始まりは室町時代で、飯田城はもともと修験者(しゅげんしゃ)の行場であったところを、この地方の豪族であった坂西(ばんざい)氏が城を構えたことによるといわれています。
坂西氏は、室町時代に飯田郷を治めていた豪族です。信濃守護小笠原氏の一族とも、阿波国(徳島県)出身の近藤氏の一族ともいわれていますが、天正10年(1582)に滅んだ一族のために文書が残されておらず、詳しいことはわかりません。天文23年(1553)に下伊那を支配した武田氏は、大島城(下伊那郡松川町)とともに飯田城を下伊那の拠点として整備しましたが、武田氏侵攻の直後は坂西氏が飯田城主であったようです。
永禄5年(1562)に、坂西長忠が小笠原氏の領地を侵して小笠原氏に討ち取られる事件が発生しますが、この後に武田家重臣秋山虎繁(とらしげ)が城代(じょうだい)として入城したと江戸時代の歴史書は伝えています。

   秋山虎繁(信友) 紙本著色武田二十四将図(信玄公宝物館蔵)の部分

元亀4年(1573)、秋山虎繁が美濃の岩村城(岐阜県恵那市)へ入城すると、飯田城には坂西長忠の弟、織部亮(おりべのすけ、織部亮は坂西一族とみられるが、系譜は定かでない。)が入城しました。
武田勝頼は天正3年(1575)の長篠の戦いで織田・徳川軍に大敗し、その直後に、坂西一族は武田氏から離反しました。しかし、これは事前に察知されたらしく、松尾城主小笠原信嶺(正室は武田逍遥軒信綱の息女)により鎮圧され、謀叛に加担した坂西一族はことごとく成敗されました。同時に織田軍の下伊那への侵攻に備え、保科正直(ほしなまさなお)に飯田城在城と国境防衛を命じたとされます。
その後、織田(徳川)氏時代は下条氏・菅沼氏、豊臣時代は飯田城を下伊那支配の拠点として毛利秀頼が整備し、それまで山伏丸・本丸・二ノ丸までであった飯田城に、三ノ丸とその西に追手門を設けたこと、それまであった伊勢町や番匠町に続く、本町などの城下町を建設して、現在の姿になったと考えられています。毛利氏の後、城主となった京極高知が城下町をさらに拡張しました。
関ヶ原の戦いの後、小笠原氏、脇坂氏を経て、寛文12年(1672)堀親昌(ちかひさ)が下野烏山より入封し、明治まで堀氏12代がこの地を領しました。
江戸時代末の堀親義(ちかのり)は佐幕派で、京都守護職の会津藩主松平容保の下で勤王の志士の弾圧に関与したとか、徳川慶喜の助命嘆願したことによる等の理由といわれますが、明治維新後、飯田城は徹底的に破壊され、建物は解体され、石垣は崩され堀は埋められてしまいました。現在、見ることができる遺構は多くなく、赤門として親しまれている桜丸御門や、織豊期の石垣の一部、堀の痕跡が残されています。
以上、飯田城の遺構はほとんど残されていませんが、城は連郭式の平山城で、段丘突端から山伏丸、本丸、二ノ丸、桜丸・出丸、三ノ丸で構成され、水堀の北堀・南堀で城下町と分けられていました。

飯田城縄張図

信濃国飯田城絵図: 城の様子は飯田市ホームページから絵図により御覧いただけます。

桜丸御門(通称赤門、飯田市指定文化財): 桜丸の門で宝暦4年(1754)4月に上棟され、本丸は町から遠く不便なことから、藩政末期には、ここ桜丸で政務がとられたといわれています。門は入母屋造りで瓦葺き、鬼瓦には堀氏の家紋の「向梅」が用いられています。平面は2本の鏡柱と控柱とで構成され、潜戸が設けられています。
明治になってからは、この赤門は郡役所・地方事務所等の郡衙の正門として使われてきました。
また、市内には、二ノ丸御門であった八間門をはじめ、飯田城の城門(経蔵寺山門桜丸西門(雲彩寺山門)馬場調練場の門(脇坂門))が移築されています。

桜丸御門の碑: 碑には赤門の情報と桜丸の説明が記載されています。
桜丸の向かいにあった出丸には、米蔵が置かれていましたが、出丸は半円形の堀に囲まれた郭です。この形は「丸馬出(まるうまだし)」「三日月堀」などと呼ばれる武田氏直轄の城郭に特徴的な形で、天正年間後半に築かれたとみられます。

飯田市美術博物館前(二ノ丸)の井戸跡: 歩道上に二ノ丸の井戸跡を示す印が描かれていました。この二ノ丸には家老の屋敷や御宝蔵が置かれていました。

本丸跡に建つ長姫神社: 堀氏時代には、本丸と桜丸に御殿があり、桜丸の方は若殿の御殿や隠居所に充てられました。

山伏丸に建つ旅館: 築城者の坂西氏は、上飯田の「松原宿」の飯坂(飯田市愛宕町)、現在の愛宕神社が鎮座する場所に「飯坂城」を築き居城としました。しかし、そこが手狭になったことから、現在の飯田城の山伏丸と飯坂城を交換し、飯田城(山伏丸)に移ったと伝わります。交換の相手は山伏で、山伏丸の名はこれにちなむともいわれ、そのような状況から山伏丸は古くは主郭であったといわれています。ここで、段丘突端となり、飯田城の訪問は終わりとなりました。

飯田城跡訪問後は、本日の次の訪問地の高島城へと移動しました。

                            文責 岡島 敏広

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Posted by joukaku at 12:59 Comments(0)その他
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