2025年05月05日
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)
近江国守護佐々木氏のうち、北近江を統治した佐々木京極氏の拠点であった上平寺城跡を訪問しました。
北近江の守護町上平寺一帯は、わが国における戦国大名のあり方がわかる遺跡群として、山頂の上平寺城跡だけでなく、麓の京極氏館跡・庭園跡と南西尾根上の家臣屋敷、山岳寺院弥高寺跡が、平成16 年(2004)2月27日に国の史跡に指定されています。
本日は京極氏館、上平寺城跡及び弥高寺跡を訪問し、その総歩行歩数は15,000歩でした。
上平寺集落には、北近江の戦国大名・京極高清が築いた居館(日常の住まい)である京極氏館や家臣屋敷、城下町の遺跡が残されています。また、ここから約1時間登った所には、 戦いに備えた山城・上平寺城(桐ヶ城)跡や弥高寺跡があります。
京極氏は、仁治2年(1241)に近江守護佐々木信綱の四男氏信が、愛知川以北六郷(伊香・浅井・坂田・犬上・ 愛知・高島)を与えられたのが始まりです。
室町時代に入ると京極導誉が幕府中央で活躍し、本家の佐々木六角氏をしのぐ勢力を持ちます。
京極導誉
当初、近江における京極氏の拠点は柏原館(米原市清滝)でしたが、戦国時代の幕開けとなった応仁文明の乱(1467~77)以降、北近江の戦国大名として歩みはじめ、これに伴って館と家臣屋敷を整備したのが、ここ「京極氏館」です。
永正2年(1505)、家督争いで永く続いていた京極家の内紛を日光寺(米原市日光寺)の講和で収めた京極高清は、柏原館(米原市清滝)を廃し、美濃国との国境近くで山岳寺院上平寺があった坂田郡上平寺(米原市上平寺)に守護所「京極氏館」を構えるとともに、背後の尾根(刈安尾)上に「詰め城」の上平寺城を築城し、館の南側には家臣や町人が住む守護町「上平寺」を造りました。
また、弥高山から派生する別尾根には、中世山岳寺院を京極氏或いは浅井氏が城塞化した「弥高寺」が存在します。
16世紀初頭の約20年間、京極高清の統治のもと、守護所が置かれた上平寺は北近江の政治拠点として平穏に栄えました。しかし、大永3年(1523)、高清を補佐する上坂信光の専横に対する不満から、浅見・浅井・三田村・堀氏などが、クーデターを起こし上平寺城は攻め落とされ、京極氏館は焼失廃絶したと考えられています。 その後、北近江では、小谷城の浅井亮政が台頭し、北近江の政治の実権は、浅井氏に移ります。
ちなみに、京極家は高清の孫高次・高知兄弟によって再興され、丸亀藩(香川県)など4つの大名家として明治維新を迎えます。
下の『上平寺城絵図』(米原市指定文化財)は、京極氏館がなくなって百年ぐらいあとに描かれたものです(絵図はクリックにより拡大します)。
上平寺城跡/江州伊富貴山之図写として、付近を含む拡大可能な詳しい絵図を、こちらのリンクからもみることができます。
絵図は伊吹山頂を北に、上平寺城と京極氏館を中心に描き、その南に城下町、西に家臣屋敷、東は河戸川(藤古川)をはさんで長福寺跡、いちばん南には越前街道(北国脇往還)が描かれています。
絵図から、京極氏館には「伊吹大権現(伊吹神社)」と「(上平寺)本堂」、御廟所(高清の墓所)があり、その下に京極氏の「御屋形(京極氏館)」と庭園、「隠岐屋敷」「弾正屋敷」「蔵屋敷」「厩」などがあったことがわかります。また、内堀をはさんで京極氏館の南、現在の上平寺集落には武家屋敷や町屋敷が、さらに外堀があって市や民家がならぶ城下町が広がり、その南端に東国と北陸を結ぶ主要道「越前街道(北国脇往還)」 を取り込んでいることがわかります。
京極氏館跡
館跡付近地図(図はクリックすると拡大します。): 伊吹神社境内全域が御屋形(京極氏館)跡で、庭園を伴った京極氏の住まいや蔵屋敷、隠岐屋敷や弾正屋敷といった家臣団の屋敷が建ちならんでいたようです。地図内の本堂とは「上平寺」本堂で、伊吹神社(伊吹大権現)と神仏習合により同居していました。「上平寺」は、弥高寺などと同様に伊吹山寺のひとつとされ、古くは大谷寺と称しました。当初は山腹(現在の上平寺城跡)にあったものが、山麓(京極氏館)に再建されたものと思われ、集落内には寺院関連の地名が見られます。守護(京極氏)居館整備に伴い信仰を受け、京極氏館廃絶後も高清の菩提寺となりました。
城下町は「諸士屋敷(武家屋敷)」「町屋敷(商工業者)」「市店民屋(市や民家)」に分かれていました。
このように、上平寺は、北近江で最初に築かれた「都市」ということができます。
ここから実際の訪問です。京極氏史跡見学者用駐車場(伊吹山駐車場)に自家用車を駐車し、内堀跡を渡って京極氏館跡の訪問です。
内堀跡: 伊吹神社石柱前の小水路(写真の水路)が内堀跡で、京極氏館と城下を区画しています。内堀跡の橋を渡り二ノ御門跡を通ると、すぐに小さな上平寺薬師堂が右側にあります。明治の神仏分離令で小さくなって降ろされた上平寺本堂です。
弾正屋敷(大津屋敷)跡: 薬師堂北(奥)側が弾正屋敷跡で、『改訂坂田郡志』第3巻の巻頭図版には「上平館古図」があり、当該地を「大津屋敷」と記載しています。古図の元本の所在は分かりませんが、伝承地名として「オオツ屋敷」があります。江戸時代、このあたりは畑だったといわれています。
隠岐屋敷跡: 写真は北側から見た屋敷跡で、左側(東側)に土塁が巡らされていることがわかります。京極氏館跡内では唯一明確な土塁を伴う削平地です。「隠岐」氏は米原市長岡に居館を構えていたとされます。
蔵屋敷跡: 道に沿って石積があります。右の建物は上平寺地蔵堂です。
京極氏館跡: 京極高清が北近江支配の拠点として整備した館であり、家臣屋敷や城下町とともに伊吹山の山ろくに展開しています。館には、池や中島、景石を備えた庭園があり、鑑賞だけではなく、遊興や武家の儀礼の場としての役割もありました。また、有事の際に用いる山城(上平寺城)を併せて整備しています。居住空間(館)・儀礼の場(庭)・防衛空間(城)を持つ構造は、御所や管領邸を模しており、公権力の高さを示しています。
館区域での発掘調査では、直径20~50cmの礎石25点が出土し、束柱の礎石が良好に残る縁のまわる建物と、これと並ぶ小規模な建物の2棟があったと推定されています。建物のまわりからは、「ハレの場」 で使用する土師皿(かわらけ)がまとまって出土していることから、庭園を観賞し、宴や儀式をおこなうための建物(会所)だったと考えられます。
大永3 年(1523)に家臣の造反によって廃絶したと考えられています。

五輪塔(墓石)群: 付近に散在していたものを地主が集めたものと言われています。
京極氏館内庭園跡: 池泉観賞式の庭園で、背後の河戸谷の四季を借景にして庭園を愛でながら、宴や武家の儀式がおこなわれました。
京極氏館跡の庭園は、類例の少ない戦国時代の武家庭園のなかで、作庭時期が判明する貴重な名園です。しかし、とくに立石の向こうの北側の池周辺の小さな庭石は、戦前に庭作りのために持ち去られているようです。
南の池の平坦地に立つと、それぞれ別々に配置されているように見える景石が一方向を向いて、その石の一番形の良い面が見えるように配置されているとのことです。
虎石: 2つの池の間にあるこの巨石は、身を反らして吠える虎のように傾いた立石で、組み合わせられた平石とともに、豪壮な景観をかもしだしています。
一説には、この石組は蓬莱思想を示す鶴石や亀石であったともいわれています。こうした館に伴う庭園は、守護ないしは幕府に連なる有力武士の館に通例のものでした。
上平寺城跡
滋賀県で最も高い場所(標高約660m)に造られた城跡の1 つです。城が存続していた段階では「かりやす城」、あるいは「かりやす尾城」と呼ばれ、「上平寺城」の名称は、近世の地誌において初めて登場するようです。さらに、「上平寺城」という名についても本来は伊吹山寺に関わる上平寺という寺院名であり、その寺院を利用して築城されたことにより、上平殿と称されたものが、後に上平寺城と呼称されるようになったようです。
京極高清が山麓の館(京極氏館)とあわせ、戦いに備えて「詰めの城」として整備しましたが、後に浅井長政が織田信長と対峙するため、付近の長比城とともに、朝倉氏の造営手法(畝状竪堀)を借りて、城塞化を更に進めたと言われています。したがって、現在見られる遺構は浅井長政時代のものといえます。
しかし、竹中重治(半兵衛)による調略により、城主 堀秀村・樋口直房は織田信長に寝返り、改修も虚しく2城とも戦うことなく開城されています。
上平寺城跡縄張図(図はクリックすると拡大します。): 上平寺城跡は、直線の南北道路の左右に、小規模な郭が展開する構造であることから、中世前期の山岳寺院を改変したと考えられ、さらに、要所が堀切・竪堀・畝状竪堀によって防御された連郭式の城郭で、土塁を屈曲させて虎口の防御を強化しています。
①三の丸南畝状竪堀の1つ: 縄張図を見るとこの辺りから上平寺城跡の区域となります。この竪堀は上平寺城跡の竪堀群では最大で、上部先端が登ってきた登城道により分断されています。
②三の丸東側下段廓: 縄張図の小屋敷に当たります。
③三の丸から二の丸へ至る土橋状土塁と竪堀: 上平寺城は京極高清が山麓に京極氏館や城下町を整備した際、戦いに備えた「詰の城」として築きました。その後、元亀元年(1570)には、浅井長政が織田信長の近江侵攻を阻止するために、朝倉氏の援助をうけて改修されています。おそらく、後者によるものと思われます。
④二の丸虎口: ここは城跡の見どころのひとつで上平寺城跡中心部への虎口で、ここを通り二の丸南部に入ります。細い土橋で竪堀を渡ると、正面と側面を厚くて高い土塁で囲まれた枡形に入り込み、城内からの攻撃にさらされることになります。
⑤二の丸内南部から⑥二の丸北部上段への土橋状土塁
⑥二の丸北部上段と西側土塁: 二の丸と主郭の間は、この写真の先の東西に走る竪堀により切断されています。『上平寺城絵図』では写真の郭の東部(右側)郭に「二」(=二の丸)の文字が記載されていますが、文献によってはここを主郭の一部として取り扱うものもあります。
⑦主郭南西竪堀: 二の丸と主郭を分断する竪堀の1つです。
⑧主郭西側虎口: 主郭には虎口は東西2ヶ所に設けられ、切岸で急になった斜面を登ると写真の西側虎口にたどり着きます。
⑨主郭南側土塁: 主郭の周囲には低い土塁が巡らされ、さらに郭内部は3段に構築されています。写真は3段のうち最も南側の段です。
⑩主郭東側虎口: 3段に段築された主郭内部の一番南側の段は東西虎口からの進入路として構築されたようです。また、主郭の周囲の切岸は非常に高く、かつ急傾斜となっています。これは主郭が最も尾根筋に近い位置に配されたことによるものです。
⑪主郭背後大堀切と土橋: 城の北の尾根筋を防御するため設けられた堀切です。
ここから上平寺城跡を後にして、弥高寺跡へと移動しました。
弥高寺跡
弥高寺は、伊吹山の尾根に広がる寺院で、、寺伝によると役行者を開基とし、伝説的な山林修行者・三修が草創した伊吹山寺の系譜をひく近江最古の山岳寺院のひとつとされ、中世伊吹修験の中心的寺院でした。太平寺・長尾寺・観音寺とともに伊吹四ヶ寺に数えられます。寺院の本堂基壇状の高まりを頂点に、直線的に走る南北の独立した道の左右に、小規模な削平地が規則正しく展開するあり方が、中世前期の山寺の形式であるとされます。
応仁の乱以降、京極家の内紛では山城として機能していたようで、明応4年(1495)に京極政経が「弥高寺より進み」、翌年には京極高清が弥高寺に「御陣」を構えていることが記録にみえます。弥高寺は寺院ではありますが、上平寺城と谷を挟んで対面する位置にあり、戦国時代には京極氏が上平寺の館の背後の弥高寺に障子堀状の空堀や土塁、枡形などを整え、城郭に改修しました。15世紀末の記録から、京極氏がしばしば弥高寺に陣を張ったことがわかります。
さらに、浅井氏によっても、城郭にみられるような枡形虎口状の大門や本堂西側の畝状竪堀群と背後の大堀切など城塞化が図られたようで、寺域の縁辺部を厳重に防御しています。
寺院は京極氏の退転後も存続し、天文5年(1536)の記録には47の坊院がありました。しかし、浅井氏の滅亡(1573)後、時を経ずして天正8年(1580)に現在の西山麓に移転しました。
弥高寺跡縄張
上平寺城跡から西に見える弥高寺跡: 弥高寺跡は木が切り払われ整備されていますので、遠くから見ても僧坊跡が雛壇状に残されていることがわかります。
上平寺城跡から弥高寺跡へと西に向って谷を越え移動しました。
①行者谷入定窟(郭30): 行者谷は弥高寺跡の東にあり、東西約35m、奥行き約5mの平地です。中央に池状遺構、行者の水と呼ばれる湧水と写真の入定窟(高僧が禅定に入る石室)があります。この石窟の扉は閉じられ錠が掛けられていますが、中は切石を組んだ小窟で、人がかがんでようやく入れる大きさです。そこには高下駄を履いた左手に巻物、右手に錫杖を持つ陶製の役行者像が納められています。
②本堂跡(郭1): 近江最古の山岳寺院のひとつで、中世伊吹修験の中心的寺院でした。郭状遺構は、ほぼ南面し、東西辺および南辺には北から張り出た自然地形を利用し、それに続ける形で土を盛るなどして基底部幅3~4m・高さ1~1.5mの土塁がめぐらされています。
本堂跡の発掘調査では、直径90cm前後の礎石が検出されましたが、 残り具合が悪く間隔も統一されていないため本堂の構造は不明です。基壇側面では2段の石積みが検出され、そこまで縁が張り出した大きな建物であったと考えられています。
本堂跡の西側斜面には畝状竪堀群が設けられています。
②本堂跡(郭1)から見える風景: 本日は午後天気が悪くなるとの予報で、かすんでいますが、遠くに米原市にあるエレベーターメーカー研究施設の高い塔が見えました。
③本堂跡(郭1)虎口: 大門跡からここまで直線の参道が伸びています。
④本堂跡(郭1)背後(北側上段)僧坊跡: 本堂背後には、郭81,82があり、さらに背後が巨大な大堀切で区切られています。
⑤参道東側僧坊跡(地元でいう東坊寺)本堂跡下段: 郭29に石が見えますが、これは石が組まれた直径9mの池状遺構です。
⑥参道西側僧坊跡(地元でいう西坊寺)本堂下段(現地説明板の写真を掲載): 僧坊跡郭2の発掘調査では、手前と奥に2棟の建物があり、南北3間×東西6間の庫裏と仏堂を兼ね備えた礎石建物(僧坊)が検出されました。 庫裏では火床(囲炉裏)跡が山岳寺院ではじめて発見されました。 出土遺物は、明かりとりの土師皿や貯蔵用の甕などが多くを占めますが、中国から輸入された青磁の碗や、香炉・花瓶などの仏具、仏像の宝冠や錫杖の石突などもあります。また、古銭や釘も多く見つかっています。その年代は、15~16世紀前半が中心です。
⑦大門より上には、参道沿いに60を超える僧坊跡が、本堂を頂点にして扇形に展開しています。
大門跡から約120m上に登った参道に沿う土塁(郭39)の発掘調査では、その下部が石垣になっていることがわかりました。
⑦参道の発掘状況(写真上: 郭39)と大門付近の屈曲した参道と土塁(写真下)
⑦上方から撮影した大門跡内側: 上から見ると参道は右に屈曲されています。
⑦大門跡外(下)側: 弥高寺本堂へ向かう参道を大きく左に屈曲させた大門跡は、 前面に長大な空堀を巡らせ、要所に石垣を用いた巨大な土塁で囲む城郭の枡形虎口状の空間を形成しています。
戦国時代には京極氏と浅井氏により弥高寺が城郭に改修され、設けられたものです。また、大門跡南西側面にも随所に竪堀が設けられており、寺域内部の改変を最低限に抑えながら縁辺部を厳重に防御しています。
これらの城郭関連遺構は京極氏や浅井氏により弥高寺が城として改修されたことを物語るものです。
この後、大門跡からは本堂跡に向かって戻り、さらに上平寺城跡にこれまで進んだ道を後戻りしました。
伊吹神社
鳥居: 京極氏館跡まで戻り、伊吹神社を見学しました。
伊吹神社本殿へ: 本殿は鳥居から階段を登り、2段高い場所にありますが、元は写真の狛犬のある段(鳥居から1段上)にあり、神仏分離令の影響で、明治30年か33年に現在地(鳥居から2段上)にまで上がりました。
本殿: 伊吹神社本殿ですが、現在のこの段には京極氏菩提寺の「上平寺」本堂がありました。
伊吹神社横にある京極氏一族の墓: 京極氏館跡上段で、現在の伊吹神社南にある京極氏一族の墓と伝えられる五輪塔(墓石)です。
「上平寺城絵図」にも「御廟所」の記載があり、もともとここに京極高清(「環山寺殿」)の墓石がありました。江戸時代に丸亀藩主・京極高豊が、京極氏の菩提寺徳源院に歴代藩主の墓を整備したときに、高清(「環山寺殿」)の墓石は移されました。
残る5基の五輪塔の1つには「浄光院殿芳室宗口大禅尼 永正三年(1506)四月七日」の銘が刻まれており、京極氏ゆかりの女人の墓と伝えられています。
伊吹神社最高所石碑: 京極氏一族の墓所よりさらに高い場所に石碑が建てられていますが、説明などはありませんでした。ここには、金毘羅社の石の祠が祀られ、勧請時期は不明ですが、この場所は勧請時に削平されて造られたようです。
以上、上平寺城跡と弥高寺跡の見学を終えて、本日の予定は終了しました。駐車場に戻ると天気予報どおり雨が降り出しましたので、昼食に名物の伊吹そばを食べ、自宅へと帰宅しました。
文責 岡島 敏広
参考文献
伊吹町教育委員会編 京極氏の城・まち・寺 サンライズ出版
滋賀県教育委員会編 埋蔵文化財活用ブックレット9 (近江の城郭4) 京極氏遺跡群
国指定史跡京極氏遺跡分布調査報告書
北近江の守護町上平寺一帯は、わが国における戦国大名のあり方がわかる遺跡群として、山頂の上平寺城跡だけでなく、麓の京極氏館跡・庭園跡と南西尾根上の家臣屋敷、山岳寺院弥高寺跡が、平成16 年(2004)2月27日に国の史跡に指定されています。
本日は京極氏館、上平寺城跡及び弥高寺跡を訪問し、その総歩行歩数は15,000歩でした。
上平寺集落には、北近江の戦国大名・京極高清が築いた居館(日常の住まい)である京極氏館や家臣屋敷、城下町の遺跡が残されています。また、ここから約1時間登った所には、 戦いに備えた山城・上平寺城(桐ヶ城)跡や弥高寺跡があります。
京極氏は、仁治2年(1241)に近江守護佐々木信綱の四男氏信が、愛知川以北六郷(伊香・浅井・坂田・犬上・ 愛知・高島)を与えられたのが始まりです。
室町時代に入ると京極導誉が幕府中央で活躍し、本家の佐々木六角氏をしのぐ勢力を持ちます。
京極導誉

当初、近江における京極氏の拠点は柏原館(米原市清滝)でしたが、戦国時代の幕開けとなった応仁文明の乱(1467~77)以降、北近江の戦国大名として歩みはじめ、これに伴って館と家臣屋敷を整備したのが、ここ「京極氏館」です。
永正2年(1505)、家督争いで永く続いていた京極家の内紛を日光寺(米原市日光寺)の講和で収めた京極高清は、柏原館(米原市清滝)を廃し、美濃国との国境近くで山岳寺院上平寺があった坂田郡上平寺(米原市上平寺)に守護所「京極氏館」を構えるとともに、背後の尾根(刈安尾)上に「詰め城」の上平寺城を築城し、館の南側には家臣や町人が住む守護町「上平寺」を造りました。
また、弥高山から派生する別尾根には、中世山岳寺院を京極氏或いは浅井氏が城塞化した「弥高寺」が存在します。
16世紀初頭の約20年間、京極高清の統治のもと、守護所が置かれた上平寺は北近江の政治拠点として平穏に栄えました。しかし、大永3年(1523)、高清を補佐する上坂信光の専横に対する不満から、浅見・浅井・三田村・堀氏などが、クーデターを起こし上平寺城は攻め落とされ、京極氏館は焼失廃絶したと考えられています。 その後、北近江では、小谷城の浅井亮政が台頭し、北近江の政治の実権は、浅井氏に移ります。
ちなみに、京極家は高清の孫高次・高知兄弟によって再興され、丸亀藩(香川県)など4つの大名家として明治維新を迎えます。
下の『上平寺城絵図』(米原市指定文化財)は、京極氏館がなくなって百年ぐらいあとに描かれたものです(絵図はクリックにより拡大します)。
上平寺城跡/江州伊富貴山之図写として、付近を含む拡大可能な詳しい絵図を、こちらのリンクからもみることができます。

絵図は伊吹山頂を北に、上平寺城と京極氏館を中心に描き、その南に城下町、西に家臣屋敷、東は河戸川(藤古川)をはさんで長福寺跡、いちばん南には越前街道(北国脇往還)が描かれています。
絵図から、京極氏館には「伊吹大権現(伊吹神社)」と「(上平寺)本堂」、御廟所(高清の墓所)があり、その下に京極氏の「御屋形(京極氏館)」と庭園、「隠岐屋敷」「弾正屋敷」「蔵屋敷」「厩」などがあったことがわかります。また、内堀をはさんで京極氏館の南、現在の上平寺集落には武家屋敷や町屋敷が、さらに外堀があって市や民家がならぶ城下町が広がり、その南端に東国と北陸を結ぶ主要道「越前街道(北国脇往還)」 を取り込んでいることがわかります。
京極氏館跡
館跡付近地図(図はクリックすると拡大します。): 伊吹神社境内全域が御屋形(京極氏館)跡で、庭園を伴った京極氏の住まいや蔵屋敷、隠岐屋敷や弾正屋敷といった家臣団の屋敷が建ちならんでいたようです。地図内の本堂とは「上平寺」本堂で、伊吹神社(伊吹大権現)と神仏習合により同居していました。「上平寺」は、弥高寺などと同様に伊吹山寺のひとつとされ、古くは大谷寺と称しました。当初は山腹(現在の上平寺城跡)にあったものが、山麓(京極氏館)に再建されたものと思われ、集落内には寺院関連の地名が見られます。守護(京極氏)居館整備に伴い信仰を受け、京極氏館廃絶後も高清の菩提寺となりました。
城下町は「諸士屋敷(武家屋敷)」「町屋敷(商工業者)」「市店民屋(市や民家)」に分かれていました。
このように、上平寺は、北近江で最初に築かれた「都市」ということができます。

ここから実際の訪問です。京極氏史跡見学者用駐車場(伊吹山駐車場)に自家用車を駐車し、内堀跡を渡って京極氏館跡の訪問です。
内堀跡: 伊吹神社石柱前の小水路(写真の水路)が内堀跡で、京極氏館と城下を区画しています。内堀跡の橋を渡り二ノ御門跡を通ると、すぐに小さな上平寺薬師堂が右側にあります。明治の神仏分離令で小さくなって降ろされた上平寺本堂です。

弾正屋敷(大津屋敷)跡: 薬師堂北(奥)側が弾正屋敷跡で、『改訂坂田郡志』第3巻の巻頭図版には「上平館古図」があり、当該地を「大津屋敷」と記載しています。古図の元本の所在は分かりませんが、伝承地名として「オオツ屋敷」があります。江戸時代、このあたりは畑だったといわれています。

隠岐屋敷跡: 写真は北側から見た屋敷跡で、左側(東側)に土塁が巡らされていることがわかります。京極氏館跡内では唯一明確な土塁を伴う削平地です。「隠岐」氏は米原市長岡に居館を構えていたとされます。

蔵屋敷跡: 道に沿って石積があります。右の建物は上平寺地蔵堂です。

京極氏館跡: 京極高清が北近江支配の拠点として整備した館であり、家臣屋敷や城下町とともに伊吹山の山ろくに展開しています。館には、池や中島、景石を備えた庭園があり、鑑賞だけではなく、遊興や武家の儀礼の場としての役割もありました。また、有事の際に用いる山城(上平寺城)を併せて整備しています。居住空間(館)・儀礼の場(庭)・防衛空間(城)を持つ構造は、御所や管領邸を模しており、公権力の高さを示しています。
館区域での発掘調査では、直径20~50cmの礎石25点が出土し、束柱の礎石が良好に残る縁のまわる建物と、これと並ぶ小規模な建物の2棟があったと推定されています。建物のまわりからは、「ハレの場」 で使用する土師皿(かわらけ)がまとまって出土していることから、庭園を観賞し、宴や儀式をおこなうための建物(会所)だったと考えられます。
大永3 年(1523)に家臣の造反によって廃絶したと考えられています。

五輪塔(墓石)群: 付近に散在していたものを地主が集めたものと言われています。

京極氏館内庭園跡: 池泉観賞式の庭園で、背後の河戸谷の四季を借景にして庭園を愛でながら、宴や武家の儀式がおこなわれました。
京極氏館跡の庭園は、類例の少ない戦国時代の武家庭園のなかで、作庭時期が判明する貴重な名園です。しかし、とくに立石の向こうの北側の池周辺の小さな庭石は、戦前に庭作りのために持ち去られているようです。
南の池の平坦地に立つと、それぞれ別々に配置されているように見える景石が一方向を向いて、その石の一番形の良い面が見えるように配置されているとのことです。

虎石: 2つの池の間にあるこの巨石は、身を反らして吠える虎のように傾いた立石で、組み合わせられた平石とともに、豪壮な景観をかもしだしています。
一説には、この石組は蓬莱思想を示す鶴石や亀石であったともいわれています。こうした館に伴う庭園は、守護ないしは幕府に連なる有力武士の館に通例のものでした。

上平寺城跡
滋賀県で最も高い場所(標高約660m)に造られた城跡の1 つです。城が存続していた段階では「かりやす城」、あるいは「かりやす尾城」と呼ばれ、「上平寺城」の名称は、近世の地誌において初めて登場するようです。さらに、「上平寺城」という名についても本来は伊吹山寺に関わる上平寺という寺院名であり、その寺院を利用して築城されたことにより、上平殿と称されたものが、後に上平寺城と呼称されるようになったようです。
京極高清が山麓の館(京極氏館)とあわせ、戦いに備えて「詰めの城」として整備しましたが、後に浅井長政が織田信長と対峙するため、付近の長比城とともに、朝倉氏の造営手法(畝状竪堀)を借りて、城塞化を更に進めたと言われています。したがって、現在見られる遺構は浅井長政時代のものといえます。
しかし、竹中重治(半兵衛)による調略により、城主 堀秀村・樋口直房は織田信長に寝返り、改修も虚しく2城とも戦うことなく開城されています。
上平寺城跡縄張図(図はクリックすると拡大します。): 上平寺城跡は、直線の南北道路の左右に、小規模な郭が展開する構造であることから、中世前期の山岳寺院を改変したと考えられ、さらに、要所が堀切・竪堀・畝状竪堀によって防御された連郭式の城郭で、土塁を屈曲させて虎口の防御を強化しています。

①三の丸南畝状竪堀の1つ: 縄張図を見るとこの辺りから上平寺城跡の区域となります。この竪堀は上平寺城跡の竪堀群では最大で、上部先端が登ってきた登城道により分断されています。

②三の丸東側下段廓: 縄張図の小屋敷に当たります。

③三の丸から二の丸へ至る土橋状土塁と竪堀: 上平寺城は京極高清が山麓に京極氏館や城下町を整備した際、戦いに備えた「詰の城」として築きました。その後、元亀元年(1570)には、浅井長政が織田信長の近江侵攻を阻止するために、朝倉氏の援助をうけて改修されています。おそらく、後者によるものと思われます。

④二の丸虎口: ここは城跡の見どころのひとつで上平寺城跡中心部への虎口で、ここを通り二の丸南部に入ります。細い土橋で竪堀を渡ると、正面と側面を厚くて高い土塁で囲まれた枡形に入り込み、城内からの攻撃にさらされることになります。

⑤二の丸内南部から⑥二の丸北部上段への土橋状土塁

⑥二の丸北部上段と西側土塁: 二の丸と主郭の間は、この写真の先の東西に走る竪堀により切断されています。『上平寺城絵図』では写真の郭の東部(右側)郭に「二」(=二の丸)の文字が記載されていますが、文献によってはここを主郭の一部として取り扱うものもあります。

⑦主郭南西竪堀: 二の丸と主郭を分断する竪堀の1つです。

⑧主郭西側虎口: 主郭には虎口は東西2ヶ所に設けられ、切岸で急になった斜面を登ると写真の西側虎口にたどり着きます。

⑨主郭南側土塁: 主郭の周囲には低い土塁が巡らされ、さらに郭内部は3段に構築されています。写真は3段のうち最も南側の段です。

⑩主郭東側虎口: 3段に段築された主郭内部の一番南側の段は東西虎口からの進入路として構築されたようです。また、主郭の周囲の切岸は非常に高く、かつ急傾斜となっています。これは主郭が最も尾根筋に近い位置に配されたことによるものです。

⑪主郭背後大堀切と土橋: 城の北の尾根筋を防御するため設けられた堀切です。

ここから上平寺城跡を後にして、弥高寺跡へと移動しました。
弥高寺跡
弥高寺は、伊吹山の尾根に広がる寺院で、、寺伝によると役行者を開基とし、伝説的な山林修行者・三修が草創した伊吹山寺の系譜をひく近江最古の山岳寺院のひとつとされ、中世伊吹修験の中心的寺院でした。太平寺・長尾寺・観音寺とともに伊吹四ヶ寺に数えられます。寺院の本堂基壇状の高まりを頂点に、直線的に走る南北の独立した道の左右に、小規模な削平地が規則正しく展開するあり方が、中世前期の山寺の形式であるとされます。
応仁の乱以降、京極家の内紛では山城として機能していたようで、明応4年(1495)に京極政経が「弥高寺より進み」、翌年には京極高清が弥高寺に「御陣」を構えていることが記録にみえます。弥高寺は寺院ではありますが、上平寺城と谷を挟んで対面する位置にあり、戦国時代には京極氏が上平寺の館の背後の弥高寺に障子堀状の空堀や土塁、枡形などを整え、城郭に改修しました。15世紀末の記録から、京極氏がしばしば弥高寺に陣を張ったことがわかります。
さらに、浅井氏によっても、城郭にみられるような枡形虎口状の大門や本堂西側の畝状竪堀群と背後の大堀切など城塞化が図られたようで、寺域の縁辺部を厳重に防御しています。
寺院は京極氏の退転後も存続し、天文5年(1536)の記録には47の坊院がありました。しかし、浅井氏の滅亡(1573)後、時を経ずして天正8年(1580)に現在の西山麓に移転しました。
弥高寺跡縄張

上平寺城跡から西に見える弥高寺跡: 弥高寺跡は木が切り払われ整備されていますので、遠くから見ても僧坊跡が雛壇状に残されていることがわかります。

上平寺城跡から弥高寺跡へと西に向って谷を越え移動しました。

①行者谷入定窟(郭30): 行者谷は弥高寺跡の東にあり、東西約35m、奥行き約5mの平地です。中央に池状遺構、行者の水と呼ばれる湧水と写真の入定窟(高僧が禅定に入る石室)があります。この石窟の扉は閉じられ錠が掛けられていますが、中は切石を組んだ小窟で、人がかがんでようやく入れる大きさです。そこには高下駄を履いた左手に巻物、右手に錫杖を持つ陶製の役行者像が納められています。

②本堂跡(郭1): 近江最古の山岳寺院のひとつで、中世伊吹修験の中心的寺院でした。郭状遺構は、ほぼ南面し、東西辺および南辺には北から張り出た自然地形を利用し、それに続ける形で土を盛るなどして基底部幅3~4m・高さ1~1.5mの土塁がめぐらされています。
本堂跡の発掘調査では、直径90cm前後の礎石が検出されましたが、 残り具合が悪く間隔も統一されていないため本堂の構造は不明です。基壇側面では2段の石積みが検出され、そこまで縁が張り出した大きな建物であったと考えられています。
本堂跡の西側斜面には畝状竪堀群が設けられています。

②本堂跡(郭1)から見える風景: 本日は午後天気が悪くなるとの予報で、かすんでいますが、遠くに米原市にあるエレベーターメーカー研究施設の高い塔が見えました。

③本堂跡(郭1)虎口: 大門跡からここまで直線の参道が伸びています。

④本堂跡(郭1)背後(北側上段)僧坊跡: 本堂背後には、郭81,82があり、さらに背後が巨大な大堀切で区切られています。

⑤参道東側僧坊跡(地元でいう東坊寺)本堂跡下段: 郭29に石が見えますが、これは石が組まれた直径9mの池状遺構です。

⑥参道西側僧坊跡(地元でいう西坊寺)本堂下段(現地説明板の写真を掲載): 僧坊跡郭2の発掘調査では、手前と奥に2棟の建物があり、南北3間×東西6間の庫裏と仏堂を兼ね備えた礎石建物(僧坊)が検出されました。 庫裏では火床(囲炉裏)跡が山岳寺院ではじめて発見されました。 出土遺物は、明かりとりの土師皿や貯蔵用の甕などが多くを占めますが、中国から輸入された青磁の碗や、香炉・花瓶などの仏具、仏像の宝冠や錫杖の石突などもあります。また、古銭や釘も多く見つかっています。その年代は、15~16世紀前半が中心です。

⑦大門より上には、参道沿いに60を超える僧坊跡が、本堂を頂点にして扇形に展開しています。
大門跡から約120m上に登った参道に沿う土塁(郭39)の発掘調査では、その下部が石垣になっていることがわかりました。

⑦参道の発掘状況(写真上: 郭39)と大門付近の屈曲した参道と土塁(写真下)

⑦上方から撮影した大門跡内側: 上から見ると参道は右に屈曲されています。

⑦大門跡外(下)側: 弥高寺本堂へ向かう参道を大きく左に屈曲させた大門跡は、 前面に長大な空堀を巡らせ、要所に石垣を用いた巨大な土塁で囲む城郭の枡形虎口状の空間を形成しています。
戦国時代には京極氏と浅井氏により弥高寺が城郭に改修され、設けられたものです。また、大門跡南西側面にも随所に竪堀が設けられており、寺域内部の改変を最低限に抑えながら縁辺部を厳重に防御しています。
これらの城郭関連遺構は京極氏や浅井氏により弥高寺が城として改修されたことを物語るものです。

この後、大門跡からは本堂跡に向かって戻り、さらに上平寺城跡にこれまで進んだ道を後戻りしました。
伊吹神社
鳥居: 京極氏館跡まで戻り、伊吹神社を見学しました。

伊吹神社本殿へ: 本殿は鳥居から階段を登り、2段高い場所にありますが、元は写真の狛犬のある段(鳥居から1段上)にあり、神仏分離令の影響で、明治30年か33年に現在地(鳥居から2段上)にまで上がりました。

本殿: 伊吹神社本殿ですが、現在のこの段には京極氏菩提寺の「上平寺」本堂がありました。

伊吹神社横にある京極氏一族の墓: 京極氏館跡上段で、現在の伊吹神社南にある京極氏一族の墓と伝えられる五輪塔(墓石)です。
「上平寺城絵図」にも「御廟所」の記載があり、もともとここに京極高清(「環山寺殿」)の墓石がありました。江戸時代に丸亀藩主・京極高豊が、京極氏の菩提寺徳源院に歴代藩主の墓を整備したときに、高清(「環山寺殿」)の墓石は移されました。
残る5基の五輪塔の1つには「浄光院殿芳室宗口大禅尼 永正三年(1506)四月七日」の銘が刻まれており、京極氏ゆかりの女人の墓と伝えられています。

伊吹神社最高所石碑: 京極氏一族の墓所よりさらに高い場所に石碑が建てられていますが、説明などはありませんでした。ここには、金毘羅社の石の祠が祀られ、勧請時期は不明ですが、この場所は勧請時に削平されて造られたようです。

以上、上平寺城跡と弥高寺跡の見学を終えて、本日の予定は終了しました。駐車場に戻ると天気予報どおり雨が降り出しましたので、昼食に名物の伊吹そばを食べ、自宅へと帰宅しました。
文責 岡島 敏広
参考文献
伊吹町教育委員会編 京極氏の城・まち・寺 サンライズ出版
滋賀県教育委員会編 埋蔵文化財活用ブックレット9 (近江の城郭4) 京極氏遺跡群
国指定史跡京極氏遺跡分布調査報告書
2025年04月26日
2025年4月2日(水)香川県讃岐国引田城跡訪問(東かがわ市)
個人旅行で徳島県勝瑞城館跡に引き続き、讃岐国引田(ひけた)城跡を訪問しました。
引田城は、慶長期の城郭の特徴が良好に保存されているだけでなく,豊臣系大名の経済・軍事政策や領国支配体制の理解に重要であることから、令和2年(2020)国指定史跡に指定されています。
また、続日本100名城に選定され、No. 177です。
引田城は、天正年間の土佐国長宗我部氏による讃岐国侵攻の際に重要な軍事拠点となったことが知られています(下記年表参照)。
豊臣秀吉による四国平定後の天正15年(1587)、播磨国加里屋(兵庫県赤穂市)から家臣の生駒親正が讃岐国を治めることとなりました。
生駒氏は讃岐国を治めるために、慶長年間(1596~1615)に高松城と並行して、西讃に丸亀城、東讃に引田城を築きます。東讃地方の支城として生駒氏による領国支配の拠点として利用されていましたが、一国一城令により、1615年に廃城となりました。
生駒親正
引田城は、中世より播磨灘の要地であった引田港の北側を囲むよう、岬状に突き出た城山(標高82m)山頂に築かれた戦国時代末期から江戸時代初期(16世紀末期~17世紀初期)にかけての城跡です。山頂から播磨灘、讃岐山脈、引田港、引田のまち並みが一望できるという、瀬戸内海海運のネットワークを強く意識した播磨灘の要衝、国境付近という軍事・経済上の拠点に立地しています。
城主は下記年表の記載のように、寒川氏、三好氏、仙石氏、長宗我部氏と変遷し、上記のように四国平定後に生駒親正が入りました。
年表はクリックすると拡大します。
引田城跡の各曲輪には、生駒氏が慶長年間(1596~1615)に築いた野面積石垣が残されており、総延長は約600mに及びます。出土品として、曲輪には礎石や多くの瓦が出ていることから、瓦葺きの礎石建物が建てられていたことも明らかとなっています。これらの築城技術は織田信長の安土城築城から始まり、織田信長・豊臣秀吉方勢力により築かれた織豊系城郭と呼ばれる城郭の特徴です。
豊臣秀吉家臣の生駒氏が築いた曲輪や石垣が残されていることで、織豊系城郭の全国的な普及を捉え、豊臣系大名の経済・軍事政策や領国支配体制を知る上で引田城跡は貴重な山城といえます。
さらに、引田には城とともに城下町がつくられました。引田には碁盤目状の町割や地名に城下町の名残をとどめています。
引田城跡散策マップ: 今回利用した登山道とは異なりますが、引田城には玄関谷から大手道(ピンクのラインの道)を通ると、尾根を削平しながら計画的にU字形に配置された北二の丸、南二の丸、本丸、東の丸の各曲輪(マップの黄色部分)に到達します。貯水池である化粧池も整備されています。マップはクリックすると拡大します。
今回の訪問では、現地で入手したマップ(下マップ)に従い、コースを反時計回りで巡りましたので、その順で見学した地点につきご報告します。
しかし、曲輪の呼称が変更されているようで、入手したマップ上の曲輪の呼称と、現地の案内表示の対応がわかりにくい所がありました。そのため、見学には注意が必要です。
①引田港側登山口: 登山口駐車場に乗用車を駐車し、写真の幟と民家の間を左に進んで登山開始です。
引田港: 本丸は、引田(ひけた)の町から最もよく見える位置にあり、 権力を示すのに適した場所です。逆に登山道途中のマップ②の地点からの風景ですが、城の方からも町や港の眺望が抜群です。
③本丸石垣: 本丸石垣を積み上げる際に、生駒氏は野面積みと隅角部分には算木積の技術を用いています。 引田城の石垣には、城山周辺の和泉層群の砂岩と礫岩を利用して築いています。
③本丸石垣上: 平らな上段で円形の弧を描いている石は、引田城跡のある城山が大正12年(1923) に久邇宮良子殿下(昭和天皇皇后) の行啓予定地となったことから築かれた「西櫓」、「六角堂」ともいわれる展望台跡です。
城山一帯は、大正時代から昭和時代の初めに引田城山公園として展望台や遊歩道が整備されました。 そのため、現在の登山道は築城当時のものではなく、公園化されたときに整備されたものと考えられています。
③上掲本丸石垣上から見える風景
④本丸内の祠: この祠のある辺りで天守台の表示がありましたが、この岩は小さすぎるようです。結局はそれらしいものを見つけられず、天守台を通り過ぎてしまいました。後に詳細な地図(発掘調査報告書)で確認するとここから少し進んだ進路の南側に「いろんば(色見場)」と呼ばれる天守台があったようです。
天守台が存在することから、この周辺は城内でも最も主要な曲輪と位置づけられます。
⑤本丸城山三角点: 本丸内に城山の標高82.3mの三角点がありました。別の詳細な地図によれば、標高82.3mのこの辺りが天守台「いろんば」のようです。残念ながら、判明したのは事後でしたので、天守台の石垣等を確認することはできませんでした。
本丸南東突端からの風景と石垣: 天守台跡からさらに南東方向に下って行くと、視界が開け、突端部分は石垣で固められています。

⑥化粧池: 化粧池は、引田城のお姫様や女中たちがこの池の水を使って化粧していたと伝えられています。水不足を克服するために築かれた人工の貯水池です。現地案内では「石囲い」と書かれているように、石垣で囲まれています。
⑥化粧池石垣(南側): この化粧池南側の石垣は、ほかの石垣より、後世に築かれたものです。
⑦引田鼻灯台: この灯台は、昭和29(1954)3月26日に設置、初点灯されました。地元引田港に出入りする漁船が危険な岩礁を確認して航行するには大切な存在です。
この周辺には「俵ころがし」と呼ばれる坂があり城山公園として利用されていたときには展望台がありました。この古写真からは、展望台は次の東の丸上段にあったように見えます。
⑧東の丸上段: 東の丸は、上中下3段の曲輪から構成されています。 「東櫓」とも呼称され、火薬を保管した煙硝蔵など軍事施設があったと推定されています。
⑧東の丸中段: 中段は俗に「うまつなぎ」と呼称されており、櫓がありました。ここからは建物の礎石や瓦が出土しています。写真では遊歩道に礎石が2つ見えています。
⑨北二の丸上段石垣: 今回通っていませんが、大手道を登ると、道の左右に北二の丸と南二の丸の石垣が広がります。 このうち、北二の丸には上段2~3m(この写真)、下段5~6mの石垣が残されています。上段の石垣は城内でも大きな石材が使われていますが、現在シートが掛けられ養生中です。下の案内資料写真参照。
なお、北二の丸では発掘調査により、建物の礎石と多くの瓦が発見されています。石垣で囲まれた北二の丸及び南二の丸は、御殿があった場所と推定されています。
案内資料の写真北二の丸上段石垣(左)、 北二の丸下段石垣(右)
⑨北二の丸下段石垣: 北曲輪側から撮影。下段の高石垣では間詰め石が丁寧に詰められています。
⑨北二の丸下段石垣: 大手門側から撮影。写真より手前に、城の出入口(大手門)跡とそれに到達する大手道があります。大手門跡の左右に北二の丸と南二の丸の石垣が広がります。
⑨北二の丸上下段石垣: 上段石垣の養生が上に見えています。
⑩大手門跡内側北: 南二の丸と北二の丸という二つの曲輪に挟まれた位置に大手門が存在したと考えられています。写真は北二の丸側で、大手門跡の周辺には大きな石材が散乱ています。 石垣に使用する石の大きさによって城主の権威を示そうとしています。
⑪北曲輪: 北曲輪には石垣が築かれていません。このことから、北曲輪は石垣を備えた織豊期引田城以前の土づくりの引田城の遺構と考えられます。
この後、田の浦野営場側登山口に向かいました。
引田城想像図: 大正時代に描かれた引田城の想像図が描かれています。発掘調査前で、後世の想像図であるため、建物の構造の信ぴょう性は高くありませんが、U字形の「曲輪の配置」はほぼ的確にとらえています。
少し具体的にイメージするため、この図に朱書きで「現在」呼ばれている曲輪名を記入してみました。
以上、引田城跡の見学を終えて、本日の予定は終了しました。この後は滋賀県の自宅へと帰宅しました。
本日は阿波国勝瑞城館跡も訪問しましたので、歩行歩数を分けることができませんが、2城で10,000歩歩きました。
文責 岡島 敏広
引田城は、慶長期の城郭の特徴が良好に保存されているだけでなく,豊臣系大名の経済・軍事政策や領国支配体制の理解に重要であることから、令和2年(2020)国指定史跡に指定されています。
また、続日本100名城に選定され、No. 177です。
引田城は、天正年間の土佐国長宗我部氏による讃岐国侵攻の際に重要な軍事拠点となったことが知られています(下記年表参照)。
豊臣秀吉による四国平定後の天正15年(1587)、播磨国加里屋(兵庫県赤穂市)から家臣の生駒親正が讃岐国を治めることとなりました。
生駒氏は讃岐国を治めるために、慶長年間(1596~1615)に高松城と並行して、西讃に丸亀城、東讃に引田城を築きます。東讃地方の支城として生駒氏による領国支配の拠点として利用されていましたが、一国一城令により、1615年に廃城となりました。
生駒親正

引田城は、中世より播磨灘の要地であった引田港の北側を囲むよう、岬状に突き出た城山(標高82m)山頂に築かれた戦国時代末期から江戸時代初期(16世紀末期~17世紀初期)にかけての城跡です。山頂から播磨灘、讃岐山脈、引田港、引田のまち並みが一望できるという、瀬戸内海海運のネットワークを強く意識した播磨灘の要衝、国境付近という軍事・経済上の拠点に立地しています。
城主は下記年表の記載のように、寒川氏、三好氏、仙石氏、長宗我部氏と変遷し、上記のように四国平定後に生駒親正が入りました。
年表はクリックすると拡大します。

引田城跡の各曲輪には、生駒氏が慶長年間(1596~1615)に築いた野面積石垣が残されており、総延長は約600mに及びます。出土品として、曲輪には礎石や多くの瓦が出ていることから、瓦葺きの礎石建物が建てられていたことも明らかとなっています。これらの築城技術は織田信長の安土城築城から始まり、織田信長・豊臣秀吉方勢力により築かれた織豊系城郭と呼ばれる城郭の特徴です。
豊臣秀吉家臣の生駒氏が築いた曲輪や石垣が残されていることで、織豊系城郭の全国的な普及を捉え、豊臣系大名の経済・軍事政策や領国支配体制を知る上で引田城跡は貴重な山城といえます。
さらに、引田には城とともに城下町がつくられました。引田には碁盤目状の町割や地名に城下町の名残をとどめています。
引田城跡散策マップ: 今回利用した登山道とは異なりますが、引田城には玄関谷から大手道(ピンクのラインの道)を通ると、尾根を削平しながら計画的にU字形に配置された北二の丸、南二の丸、本丸、東の丸の各曲輪(マップの黄色部分)に到達します。貯水池である化粧池も整備されています。マップはクリックすると拡大します。
今回の訪問では、現地で入手したマップ(下マップ)に従い、コースを反時計回りで巡りましたので、その順で見学した地点につきご報告します。
しかし、曲輪の呼称が変更されているようで、入手したマップ上の曲輪の呼称と、現地の案内表示の対応がわかりにくい所がありました。そのため、見学には注意が必要です。

①引田港側登山口: 登山口駐車場に乗用車を駐車し、写真の幟と民家の間を左に進んで登山開始です。

引田港: 本丸は、引田(ひけた)の町から最もよく見える位置にあり、 権力を示すのに適した場所です。逆に登山道途中のマップ②の地点からの風景ですが、城の方からも町や港の眺望が抜群です。

③本丸石垣: 本丸石垣を積み上げる際に、生駒氏は野面積みと隅角部分には算木積の技術を用いています。 引田城の石垣には、城山周辺の和泉層群の砂岩と礫岩を利用して築いています。

③本丸石垣上: 平らな上段で円形の弧を描いている石は、引田城跡のある城山が大正12年(1923) に久邇宮良子殿下(昭和天皇皇后) の行啓予定地となったことから築かれた「西櫓」、「六角堂」ともいわれる展望台跡です。
城山一帯は、大正時代から昭和時代の初めに引田城山公園として展望台や遊歩道が整備されました。 そのため、現在の登山道は築城当時のものではなく、公園化されたときに整備されたものと考えられています。

③上掲本丸石垣上から見える風景

④本丸内の祠: この祠のある辺りで天守台の表示がありましたが、この岩は小さすぎるようです。結局はそれらしいものを見つけられず、天守台を通り過ぎてしまいました。後に詳細な地図(発掘調査報告書)で確認するとここから少し進んだ進路の南側に「いろんば(色見場)」と呼ばれる天守台があったようです。
天守台が存在することから、この周辺は城内でも最も主要な曲輪と位置づけられます。

⑤本丸城山三角点: 本丸内に城山の標高82.3mの三角点がありました。別の詳細な地図によれば、標高82.3mのこの辺りが天守台「いろんば」のようです。残念ながら、判明したのは事後でしたので、天守台の石垣等を確認することはできませんでした。

本丸南東突端からの風景と石垣: 天守台跡からさらに南東方向に下って行くと、視界が開け、突端部分は石垣で固められています。


⑥化粧池: 化粧池は、引田城のお姫様や女中たちがこの池の水を使って化粧していたと伝えられています。水不足を克服するために築かれた人工の貯水池です。現地案内では「石囲い」と書かれているように、石垣で囲まれています。

⑥化粧池石垣(南側): この化粧池南側の石垣は、ほかの石垣より、後世に築かれたものです。

⑦引田鼻灯台: この灯台は、昭和29(1954)3月26日に設置、初点灯されました。地元引田港に出入りする漁船が危険な岩礁を確認して航行するには大切な存在です。

この周辺には「俵ころがし」と呼ばれる坂があり城山公園として利用されていたときには展望台がありました。この古写真からは、展望台は次の東の丸上段にあったように見えます。

⑧東の丸上段: 東の丸は、上中下3段の曲輪から構成されています。 「東櫓」とも呼称され、火薬を保管した煙硝蔵など軍事施設があったと推定されています。

⑧東の丸中段: 中段は俗に「うまつなぎ」と呼称されており、櫓がありました。ここからは建物の礎石や瓦が出土しています。写真では遊歩道に礎石が2つ見えています。

⑨北二の丸上段石垣: 今回通っていませんが、大手道を登ると、道の左右に北二の丸と南二の丸の石垣が広がります。 このうち、北二の丸には上段2~3m(この写真)、下段5~6mの石垣が残されています。上段の石垣は城内でも大きな石材が使われていますが、現在シートが掛けられ養生中です。下の案内資料写真参照。
なお、北二の丸では発掘調査により、建物の礎石と多くの瓦が発見されています。石垣で囲まれた北二の丸及び南二の丸は、御殿があった場所と推定されています。

案内資料の写真北二の丸上段石垣(左)、 北二の丸下段石垣(右)

⑨北二の丸下段石垣: 北曲輪側から撮影。下段の高石垣では間詰め石が丁寧に詰められています。

⑨北二の丸下段石垣: 大手門側から撮影。写真より手前に、城の出入口(大手門)跡とそれに到達する大手道があります。大手門跡の左右に北二の丸と南二の丸の石垣が広がります。

⑨北二の丸上下段石垣: 上段石垣の養生が上に見えています。

⑩大手門跡内側北: 南二の丸と北二の丸という二つの曲輪に挟まれた位置に大手門が存在したと考えられています。写真は北二の丸側で、大手門跡の周辺には大きな石材が散乱ています。 石垣に使用する石の大きさによって城主の権威を示そうとしています。

⑪北曲輪: 北曲輪には石垣が築かれていません。このことから、北曲輪は石垣を備えた織豊期引田城以前の土づくりの引田城の遺構と考えられます。

この後、田の浦野営場側登山口に向かいました。
引田城想像図: 大正時代に描かれた引田城の想像図が描かれています。発掘調査前で、後世の想像図であるため、建物の構造の信ぴょう性は高くありませんが、U字形の「曲輪の配置」はほぼ的確にとらえています。
少し具体的にイメージするため、この図に朱書きで「現在」呼ばれている曲輪名を記入してみました。

以上、引田城跡の見学を終えて、本日の予定は終了しました。この後は滋賀県の自宅へと帰宅しました。
本日は阿波国勝瑞城館跡も訪問しましたので、歩行歩数を分けることができませんが、2城で10,000歩歩きました。
文責 岡島 敏広
2025年04月22日
2025年4月2日(水)徳島県阿波国勝瑞城館跡訪問(板野郡藍住町)
個人旅行で徳島県徳島市の阿波国一宮城跡に引き続き、阿波国勝瑞(しょうずい)城館跡を訪問しました。
勝瑞城館跡は、平城跡と居館跡が平成13年(2001)に国の史跡に指定され、その後の発掘で新規確認された部分が平成19年(2007)に追加指定されています。また、続日本100名城に選定され、No. 175です。
勝瑞城館は室町時代の阿波国守護細川氏及びその後の三好氏が本拠とした徳島県内に残る中世城郭の中では珍しい平城で、平地の要塞というよりも、守護の居館、政庁としての性格の強い城館です。城館の構えは広大で、室町時代の守護所の様態をよく伝える貴重な遺構です。
勝瑞の地は、吉野川の本支流に囲まれ、水運の便に恵まれた土地で、畿内で活躍した細川 ・三好両氏は、畿内から多くの物資や文化をもたらせ、畿内と直結した文化都市として全盛を誇りました。そのことは発掘調査で出土した遺物からもうかがえます。また、城下には多くの寺院が建ち並び、市が賑わい、かなりの城下町が形成されていました。本丸跡の周辺には寺院跡をはじめ各種の遺跡や伝承が残されています。
南北朝時代、足利尊氏の命によって阿波に入った細川氏は、当初秋月(現在の阿波市土成町秋月付近)に守護所を構えますが、その後、勝瑞に守護所を移します。守護所の勝瑞への移転時期はいろいろな説がありますが、現在のところ15世紀前葉と考えられています。その後、勝瑞城館を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えました。勝瑞城館は、京都の管領屋形に対して、阿波屋形または下屋形とも呼ばれました。応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子晴元党の拠点となりました。
阿波細川家は、管領である細川宗家の有力な庶流として幕府の政治にも関与するなど、畿内を中心に活躍しました。しかし、細川宗家の家督争いによる内紛が勃発し、細川一族は衰退に向かうことになります。
細川成之(しげゆき): この頃、秋月から勝瑞へ移転したと考えられます。
細川氏の衰退の中で頭角を現してくるのが三好氏です。三好氏は、畿内で活躍する細川氏を特に軍事面で助けましたが、阿波三好家の当主である三好義賢(後に実休と号する)は、天文22年(1553)、主家の管領細川氏之(持隆)を自害に追い込み、実質的に阿波の実権を握りました。
このころ兄の三好長慶らは度々畿内に出兵し、三好の名を天下に轟かせ、最大で阿波・讃岐・淡路・摂津・河内・和泉・山城・大和・丹波・播磨にまでその勢力は及びました。永禄3年(1560)には三好長慶の命で義賢は河内高屋城に移り、河内南部や和泉方面も勢力下に収めます。さらに、永禄4年(1561)3月には御相伴衆となりその存在がますます大きくなりますが、永禄5年(1562)3月、和泉久米田の合戦で戦死しました。
三好義賢(実休)
実休の跡を継いだ三好長治は、細川真之を擁立した反三好勢力に追い詰められ、天正5年(1577)に長原(板野郡松茂町)の地で自害します。
天正10年(1582)には、土佐の長宗我部元親は三好長治の跡を継いだ弟 十河存保(まさやす)の守る勝瑞城館に大挙して押し寄せました。8月28日、存保は中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城館に籠城しましたが、9月21日讃岐へ退きました。このことにより、勝瑞では三好氏の時代が終わり、同時に細川氏の守護所として、また三好氏の戦国城下町として発展した町も終わりを告げることとなりました。
その後、天正13年(1585)の蜂須賀家政の阿波国入部により、城下の寺院の多くは徳島城下に移転され、町は衰退しました。
勝瑞城館跡は、阿波三好家の居館跡と推定される遺跡で、 勝瑞城跡公園整備事業を契機として平成6年度から発掘調査が始まりました。調査が進むにつれ、多くの発見がありました。出土する遺物や検出される遺構の内容や規模、保存状態は全国的に見ても一級品であり、平成13 年1月29日に国史跡に指定されることとなりました。その後の調査でも貴重な発見が相次ぎ、三好氏の祈願寺である「正貴寺跡」なども追加指定を受けています。
今回は勝瑞城址を中心に訪問しました。下図はクリックすると拡大します。
勝瑞城館跡周辺案内図
ここから勝瑞城館跡の訪問です。
勝瑞城址碑: まず、勝瑞城址(見性寺境内)を訪問しました。
勝瑞義冢碑: 見性寺境内の北東隅にあります。四国正学と称された徳島藩儒官 那波魯堂(なばろどう)(1727~89)の撰、上述の戦国大名三好家の盛衰と中富川の合戦戦没者の慰霊文が漢文で記された歴史的な記録で、その碑文は名文であると親しまれてきたものです。
見性寺(けんしょうじ): 城址は見性寺の境内となっており、周囲には濠が巡り、一部土塁も残っています。見性寺は三好氏の菩提寺であり、城址の外の西方にありましたが、江戸時代中期にこの地へ移転してきました。
見性寺が所蔵する絹本着色の三好長輝(之長)・長基(元長)の肖像画は徳島県の有形文化財に指定されています。
見性寺の本堂及び庫裏の建て替えに伴う勝瑞城址の発掘調査では、地表面から約1m50㎝下の見性寺が建てられた江戸時代中期より古い地層から、16世紀末頃に作られた備前焼擂鉢が出土したことから、勝瑞城址は16世紀末に築かれたことが判明しました。すなわち、時期的に勝瑞城は細川氏や三好氏の居城として機能したものではないことを示しています(平成8年発掘調査報告)。このことは、勝瑞城が長宗我部元親の侵攻(天正10年(1582))に備えて三好氏によって築かれた防御施設であったことを示しています。
墓所: 境内には、三好氏の歴代の墓が立ち並んでおり、之長・元長・義賢・長治のものといわれています。
土塁: 現在は、土塁のこの部分だけ確認することができますが、当時は曲輪の周囲に巡らされていたことが、発掘調査によって確認されました。
土塁は濠を掘った際の土を盛り上げ、つき固めて構築されています。平成9年に土塁から濠にかけて発掘調査が実施され、当時土塁は基底部幅約11m、高さ約2.5m、 濠は上部幅約14mの大規模なものであったことが確認されました。 また、濠からは多くの瓦が出土しました。
現地説明陶板の発掘時写真
濠西側: 濠は現在も残され、見性寺の周囲を巡っています。
濠南側
濠北側
勝瑞城自体は短期間しか存続しませんでしたが、長期間存続した細川氏及び三好氏の勝瑞城館跡に移りました。
勝瑞城館跡入口石碑: 勝瑞城館は細川氏あるいは三好氏が本拠とした阿波の支配拠点です。この地域の地下には当時の遺跡が非常に良い状態で眠っており、発掘調査では屋敷地を囲む濠や庭園、建物跡などが見つかり、素焼きの土器皿や備前焼、瀬戸美濃焼、中国製の磁器などたくさんの生活道具も出土しました。
勝瑞城館跡会所建物立体表示: 勝瑞城館跡は、三好氏の居館跡と推定されています。発掘調査では16世紀中葉頃から徐々に拡張され、最終的には幅10mを超す大規模な濠で区画された複数の曲輪からなる城館の姿が想定されています(上記の勝瑞城館跡周辺案内図参照)。下の写真は勝瑞城館跡の中の南西区域で会所建物が立体的に展示されたものです。
土塁を持たない勝瑞城館跡では池泉庭園(東側礎石建物群南側)と枯山水庭園(会所建物南側)の二つの庭園が確認されたり、茶道具や香道具の出土が見られるなど、三好氏の優雅な生活が垣間見られます。
以上、勝瑞城・館跡の見学を終えて、本日は次に東かがわ市の引田城を訪問する予定です。
文責 岡島 敏広
勝瑞城館跡は、平城跡と居館跡が平成13年(2001)に国の史跡に指定され、その後の発掘で新規確認された部分が平成19年(2007)に追加指定されています。また、続日本100名城に選定され、No. 175です。
勝瑞城館は室町時代の阿波国守護細川氏及びその後の三好氏が本拠とした徳島県内に残る中世城郭の中では珍しい平城で、平地の要塞というよりも、守護の居館、政庁としての性格の強い城館です。城館の構えは広大で、室町時代の守護所の様態をよく伝える貴重な遺構です。
勝瑞の地は、吉野川の本支流に囲まれ、水運の便に恵まれた土地で、畿内で活躍した細川 ・三好両氏は、畿内から多くの物資や文化をもたらせ、畿内と直結した文化都市として全盛を誇りました。そのことは発掘調査で出土した遺物からもうかがえます。また、城下には多くの寺院が建ち並び、市が賑わい、かなりの城下町が形成されていました。本丸跡の周辺には寺院跡をはじめ各種の遺跡や伝承が残されています。
南北朝時代、足利尊氏の命によって阿波に入った細川氏は、当初秋月(現在の阿波市土成町秋月付近)に守護所を構えますが、その後、勝瑞に守護所を移します。守護所の勝瑞への移転時期はいろいろな説がありますが、現在のところ15世紀前葉と考えられています。その後、勝瑞城館を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えました。勝瑞城館は、京都の管領屋形に対して、阿波屋形または下屋形とも呼ばれました。応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子晴元党の拠点となりました。
阿波細川家は、管領である細川宗家の有力な庶流として幕府の政治にも関与するなど、畿内を中心に活躍しました。しかし、細川宗家の家督争いによる内紛が勃発し、細川一族は衰退に向かうことになります。
細川成之(しげゆき): この頃、秋月から勝瑞へ移転したと考えられます。

細川氏の衰退の中で頭角を現してくるのが三好氏です。三好氏は、畿内で活躍する細川氏を特に軍事面で助けましたが、阿波三好家の当主である三好義賢(後に実休と号する)は、天文22年(1553)、主家の管領細川氏之(持隆)を自害に追い込み、実質的に阿波の実権を握りました。
このころ兄の三好長慶らは度々畿内に出兵し、三好の名を天下に轟かせ、最大で阿波・讃岐・淡路・摂津・河内・和泉・山城・大和・丹波・播磨にまでその勢力は及びました。永禄3年(1560)には三好長慶の命で義賢は河内高屋城に移り、河内南部や和泉方面も勢力下に収めます。さらに、永禄4年(1561)3月には御相伴衆となりその存在がますます大きくなりますが、永禄5年(1562)3月、和泉久米田の合戦で戦死しました。
三好義賢(実休)

実休の跡を継いだ三好長治は、細川真之を擁立した反三好勢力に追い詰められ、天正5年(1577)に長原(板野郡松茂町)の地で自害します。
天正10年(1582)には、土佐の長宗我部元親は三好長治の跡を継いだ弟 十河存保(まさやす)の守る勝瑞城館に大挙して押し寄せました。8月28日、存保は中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城館に籠城しましたが、9月21日讃岐へ退きました。このことにより、勝瑞では三好氏の時代が終わり、同時に細川氏の守護所として、また三好氏の戦国城下町として発展した町も終わりを告げることとなりました。
その後、天正13年(1585)の蜂須賀家政の阿波国入部により、城下の寺院の多くは徳島城下に移転され、町は衰退しました。
勝瑞城館跡は、阿波三好家の居館跡と推定される遺跡で、 勝瑞城跡公園整備事業を契機として平成6年度から発掘調査が始まりました。調査が進むにつれ、多くの発見がありました。出土する遺物や検出される遺構の内容や規模、保存状態は全国的に見ても一級品であり、平成13 年1月29日に国史跡に指定されることとなりました。その後の調査でも貴重な発見が相次ぎ、三好氏の祈願寺である「正貴寺跡」なども追加指定を受けています。

今回は勝瑞城址を中心に訪問しました。下図はクリックすると拡大します。
勝瑞城館跡周辺案内図

ここから勝瑞城館跡の訪問です。
勝瑞城址碑: まず、勝瑞城址(見性寺境内)を訪問しました。

勝瑞義冢碑: 見性寺境内の北東隅にあります。四国正学と称された徳島藩儒官 那波魯堂(なばろどう)(1727~89)の撰、上述の戦国大名三好家の盛衰と中富川の合戦戦没者の慰霊文が漢文で記された歴史的な記録で、その碑文は名文であると親しまれてきたものです。

見性寺(けんしょうじ): 城址は見性寺の境内となっており、周囲には濠が巡り、一部土塁も残っています。見性寺は三好氏の菩提寺であり、城址の外の西方にありましたが、江戸時代中期にこの地へ移転してきました。
見性寺が所蔵する絹本着色の三好長輝(之長)・長基(元長)の肖像画は徳島県の有形文化財に指定されています。
見性寺の本堂及び庫裏の建て替えに伴う勝瑞城址の発掘調査では、地表面から約1m50㎝下の見性寺が建てられた江戸時代中期より古い地層から、16世紀末頃に作られた備前焼擂鉢が出土したことから、勝瑞城址は16世紀末に築かれたことが判明しました。すなわち、時期的に勝瑞城は細川氏や三好氏の居城として機能したものではないことを示しています(平成8年発掘調査報告)。このことは、勝瑞城が長宗我部元親の侵攻(天正10年(1582))に備えて三好氏によって築かれた防御施設であったことを示しています。

墓所: 境内には、三好氏の歴代の墓が立ち並んでおり、之長・元長・義賢・長治のものといわれています。

土塁: 現在は、土塁のこの部分だけ確認することができますが、当時は曲輪の周囲に巡らされていたことが、発掘調査によって確認されました。

土塁は濠を掘った際の土を盛り上げ、つき固めて構築されています。平成9年に土塁から濠にかけて発掘調査が実施され、当時土塁は基底部幅約11m、高さ約2.5m、 濠は上部幅約14mの大規模なものであったことが確認されました。 また、濠からは多くの瓦が出土しました。
現地説明陶板の発掘時写真

濠西側: 濠は現在も残され、見性寺の周囲を巡っています。

濠南側

濠北側

勝瑞城自体は短期間しか存続しませんでしたが、長期間存続した細川氏及び三好氏の勝瑞城館跡に移りました。
勝瑞城館跡入口石碑: 勝瑞城館は細川氏あるいは三好氏が本拠とした阿波の支配拠点です。この地域の地下には当時の遺跡が非常に良い状態で眠っており、発掘調査では屋敷地を囲む濠や庭園、建物跡などが見つかり、素焼きの土器皿や備前焼、瀬戸美濃焼、中国製の磁器などたくさんの生活道具も出土しました。

勝瑞城館跡会所建物立体表示: 勝瑞城館跡は、三好氏の居館跡と推定されています。発掘調査では16世紀中葉頃から徐々に拡張され、最終的には幅10mを超す大規模な濠で区画された複数の曲輪からなる城館の姿が想定されています(上記の勝瑞城館跡周辺案内図参照)。下の写真は勝瑞城館跡の中の南西区域で会所建物が立体的に展示されたものです。
土塁を持たない勝瑞城館跡では池泉庭園(東側礎石建物群南側)と枯山水庭園(会所建物南側)の二つの庭園が確認されたり、茶道具や香道具の出土が見られるなど、三好氏の優雅な生活が垣間見られます。

以上、勝瑞城・館跡の見学を終えて、本日は次に東かがわ市の引田城を訪問する予定です。
文責 岡島 敏広
2025年04月20日
2025年4月1日(火)徳島県阿波国一宮城跡訪問(徳島市)
個人旅行で高知県安芸市安芸城跡に引き続き、阿波国一宮城跡を訪問しました。
一宮城は、昭和29年(1954)8月6日、徳島県指定史跡に指定されています。また、続日本100名城に選定され、No. 176です。
一宮城は南北朝時代の築城とされ、阿波国守護である小笠原長房の四男小笠原長宗が一宮宗成を滅ぼし、南朝:延元3年、北朝:暦応元年(1338)にこの地に城郭を築いて移り住み、一宮神社の分霊を城内に奉祀しました。その後小笠原長宗は一宮氏を称し、天正7年(1579) に土佐の長宗我部元親が侵攻するまで、小笠原氏の末裔である一宮氏が代々居城とし、神職も兼ねていたようです。
戦国時代には一宮城は三好氏と長宗我部元親の攻防の舞台となりました。天正10年(1582)に阿波を占拠した長宗我部元親は、一宮城に兵を配置し、豊臣氏の四国平定に対する防衛の拠点としました。
長宗我部元親が羽柴秀吉に降伏後、一宮城は天正13年(1585) に阿波に入国した蜂須賀家政の最初の居城となり、 阿波支配の拠点として大改修を開始しましたが、翌年の徳島城完成後には本拠を移すことになります。そして、その支城である阿波九城の一つとなり重要視され、家臣の益田長行が城主を務めました。
しかし、元和元年(1615)の一国一城令を受けて廃城となります。
蜂須賀家政
一宮城跡は徳島市の南西部、鮎喰川右岸にある東竜王山系の尾根先端に位置する中世山城です。 標高144mの本丸を中心に、明神丸(二の丸)、才蔵丸(三の丸)、小倉丸、 椎丸、水ノ手丸などの曲輪やそれらを防御する竪堀、土塁などが東西800m、南北500mの範囲の尾根筋上に配置されており、徳島県最大の規模と堅牢さを誇ります。
平成29年(2017)度から5か年計画で発掘調査が行われており、その報告がリンク先にまとめられております。
なお、本丸から北東より500mの平地部にある寄神社周辺には、御殿居(里城)とよばれる居館跡推定地が広がっています。
一宮城跡縄張図: 登山口で入手した地図で、上が南、下が北で方位が逆になっています。この地図のコースに従い時計回りに巡りました。
地図はクリックすると拡大します。
一宮城跡には、阿波国一之宮の一宮神社東にある登山口から登城します。
一宮城跡登山口
倉庫跡(西): 登山道を登ると最初に倉庫跡に到着します。一宮城跡には倉庫跡が2箇所あり、この曲輪は必ずしも平坦ではなく自然の尾根に少し手を加え平地にした程度のものです。普段は穀類や戦闘用の道具類を保管していた所です。両方の倉庫跡とも登城道の要所に置かれていましたが、 戦いの折に焼かれたといわれ、地名として「ヤケムギ」とも呼ばれて、以前には雨の後などに炭化麦が出土していました。
倉庫跡から眺めた一宮城跡東方面の風景
才蔵丸と東向き展望台(写真の建物): 次に到達する主要曲輪が才蔵丸で、三の丸とも呼ばれています。
標高は129.2mです。曲輪の形態は自然地形に沿った不整形で東西に細長く、曲輪内は平坦ではなく東方向にやや傾斜しています。虎口は西端に1箇所あり、堀切に面しています。才蔵丸の東の端には一段下がって曲輪を配され、北側の稜線上には堀切があり、稜線上からの侵入者を防御しています。
堀切: この堀切は上の明神丸から続く尾根を鉈で切ったように山を切り崩して作られています。 堀切によって才蔵丸は明神丸から孤立した曲輪となっています。左側が才蔵丸、右側が明神丸で、明神丸の虎口に行くにはここから後戻りする必要がありました。
明神丸(写真は南西向きに撮影): 標高は140.9m、本丸との高低差は3.4mで、本丸より明神丸が東北にあることから眺望がよくなっています。二の丸とも呼ばれています。
明神丸の周囲にはほぼ一周する細い帯曲輪が取り巻いています。また、北側の尾根からの侵入を防ぐための空堀と階段状の曲輪が配置され、北西方向にも二重の空堀が設けられています。
令和元年(2019)の発掘調査結果では、東西4間、南北4間の建物礎石又は礎石痕が明神丸で確認されました。 礎石痕は碁盤の目のように約2m間隔で25箇所あり、うち17箇所で礎石が発掘されています。礎石の多くは山下から運び上げられた比較的厚みのある円礫を用い、岩盤を削って設置されています。一宮城跡では瓦が全く出土していないことから、この建物は板葺きの建物であったと考えられます。
明神丸の盛土内からは、土師器皿や中国産の輸入陶磁器、肥前系磁器皿などが出土し、その年代は16世紀代から17世紀前半であることから、明神丸の曲輪や建物跡は蜂須賀家政の居城から廃城までの間に整備されたものと考えられました。明神丸には「剣山遙拝所」があったという伝承はありますが、庭園に用いられるような玉石や飛び石が配置されていたことから、蜂須賀氏が山頂からの眺望を楽しむ集会所として整備された可能性が考えられています。
明神丸からの南西方面の風景
明神丸(二の丸)から本丸までの帯曲輪虎口: 本丸までの間を繋ぐ長さ64m、幅13mの削平した帯曲輪があります。本丸の防御の意味から重要な曲輪で、明神丸の南側に、帯曲輪への虎口が1箇所あり、そこは石段になっています。
本丸跡東面石垣: 本丸は最高所に位置し、写真のように本丸跡の周囲には阿波青石(緑泥片岩)の石垣が組まれています。手前は上述の帯曲輪。
この現在残っている本丸の石垣などの遺構は、蜂須賀家政の阿波入国後の修築によるものです。本丸の東側には写真のように1箇所だけ虎口が設けられており、そこは櫓門になっておりました。
本丸構造: 石垣に沿っての本丸の大きさは、東北(図の下(虎口)側)では36m、西北(図右側)では23mあります。
本丸跡東面から北東面石垣: 上の本丸構造の図の下側の石垣を撮影しました。写真をクリックすると拡大します。
本丸跡階段上から虎口を見る: 石垣の高さは、本丸跡の南辺で5mほどです。
本丸跡南面石垣: 5mほどの高さがあります。
本丸跡若宮神社: 一宮城廃城後には若宮八幡宮と呼ばれていました。一宮大明神の大宮司小笠原長宗公から成祐公まで十一代の城主がお祀りされています。
本丸跡上からの北方面風景: 本丸跡において、平成30年(2018)の発掘調査が行われました。その結果、本丸御殿のものとみられる礎石(建物の土台になる石)や礎石痕が確認され、それらは東西 4間(8m)、南北6間(10m)の範囲に分布しており、礎石は15個、礎石痕は7箇所でした。礎石の多くは山下から運び上げられた比較的厚みのある円礫を用い、岩盤を削って設置しています。 いずれも約1.9mのほぼ等間隔で並び、御殿は約80平方mと推測されます。
また、一宮城跡では瓦が全く出土していないことから、建物は板葺き屋根の本丸御殿で、壁は土壁であったと考えられます。戦国時代の山城で本丸に御殿を置く例は全国でも珍しいもので、本丸跡の石垣の組み方が徳島城と似ていることから、蜂須賀氏による建設と考えられ、石垣の構築年代から、本丸御殿も蜂須賀氏が概ね文禄~慶長期に整備したものと考えられます。
本丸造成の盛土内からは、16世紀代の土師器皿や備前焼大甕、瀬戸焼天目茶碗、中国産輸入陶磁器(青磁碗、染付皿)などが出土しています。
釜床跡: 本丸跡の西側で一段下がった場所に釜床曲輪があります。城の炊事場の跡で、北の斜面は石垣で築かれています。本丸跡の虎口にある石段、本丸跡の礎石、そして釜床の石組は同世代の遺構と考えられています。
この後の釜床跡から小倉丸までの見学コース
本丸跡南側の堀切: 一宮城跡では最大の堀切で、堀切の方向に進むと才蔵丸に戻ります。
小倉丸虎口: 小倉丸は本丸の南側を防御するように作られた細長い曲輪です。小倉丸において、この後訪問する貯水池の方向である西南には高さ2mの土塁が巡らされています。他方、味方のいる本丸側には土塁はありません。
虎口は中央部にこの1箇所があり、土塁の長さは内側で58m、土塁は直線的なものではなく、地形に応じて少しずつ湾曲しています。また土塁の北西に突出して櫓台があります。
今回はこの虎口から先には行っていないことから、曲輪の様子を直接確認できていません。
小倉丸の蜂須賀氏入城以前の状況を確認するため、令和2年(2020)の発掘調査が小倉丸で実施されています。小倉丸の腐葉土直下から石敷き遺構が確認され、小倉丸は数回に分けて改修されていたことがわかりました。また、土塁については、筋状に岩盤を残しつつその上に土を盛って構築する手法がとられ、小倉丸西側斜面に広がる横堀や土塁と併せて非常に大規模な作事(土木工事) が行われていたことが確認されました。
このことから、小倉丸は空堀、土塁、そして櫓台から横矢をかける構造に造られており、一宮城の南方面防御の重要な拠点であったことがわかります。
小倉丸西側空堀: 小倉丸西南の土塁の外側には写真の空堀が巡らされています。この空堀は横移動が可能な通路としても利用されていたようで、西南の虎口と連結しています。
椎丸(しいのまる)への分岐: 小倉丸からさらに西方向に進むと、椎丸・水ノ手丸へ進む道と貯水池へ向かう道に分かれていたことから、椎丸の方に進みました。
椎丸: ここ椎丸と先に水ノ手丸がありますが、この先に難所があるとの警告表示があったことから、ここで引き返し分岐点まで戻って貯水池に向かいました。
椎丸と水ノ手丸の双方の曲輪とも貯水池を守るように配されており、土塁や竪堀、堀切で防御しています。椎丸は主要6曲輪の中で最も小さく東西、南北20mです。
双方とも本丸方向にそれぞれ虎口を開けています。
水ノ手丸: 貯水池へ向かう途中、水ノ手丸へ登る道の表示がありましたので、見上げてみました。上方にあります。
貯水池と堤跡(上流方向を撮影しています): 十分な水が確保できることが山城の必須条件で、この貯水池の下手(写真手前側)には水を溜めるための土手が築かれていました。現在、土手は切られていますが、当時は大きな貯水池がありました。水は南の谷から覚で引いたといわれています。
一宮城では、この貯水池を馬蹄形に囲むように、小倉丸、椎丸、水ノ手丸が配されており、またそれらの曲輪を連結するような小さい曲輪もあって防御施設が作られていました。この貯水池があったことから、四国平定時、長宗我部軍は豊臣秀長の猛攻に耐える事が出来たと考えられてます。
陰滝(いんだき)(上から撮影): 上手の貯水池(写真右)から水が下へと流れ落ちています。
陰滝下から撮影: 貯水池は、周囲の曲輪とこの岩壁によって強固に守られていました。ここは採石場の跡だともいわれます。
宮の奥の枝垂桜: 陰滝を過ぎると下山の傾斜も緩やかとなり、一宮城跡の見学も終了です。
森から出た所に枝垂桜が咲き誇って疲れを癒してくれました。
以上、一宮城跡の見学を終えて、日も暮れ始めていましたので、この後は本日の宿へと移動しました。
本日は土佐国安芸城と北川村「モネの庭」マルモッタン、室戸岬も訪問しましたので、歩行歩数を分けることができませんが、2城と植物園等を含めて、13,000歩歩きました。
明日は徳島県板野郡藍住町にある勝瑞(しょうずい)城を訪問する予定です。
文責 岡島 敏広
一宮城は、昭和29年(1954)8月6日、徳島県指定史跡に指定されています。また、続日本100名城に選定され、No. 176です。
一宮城は南北朝時代の築城とされ、阿波国守護である小笠原長房の四男小笠原長宗が一宮宗成を滅ぼし、南朝:延元3年、北朝:暦応元年(1338)にこの地に城郭を築いて移り住み、一宮神社の分霊を城内に奉祀しました。その後小笠原長宗は一宮氏を称し、天正7年(1579) に土佐の長宗我部元親が侵攻するまで、小笠原氏の末裔である一宮氏が代々居城とし、神職も兼ねていたようです。
戦国時代には一宮城は三好氏と長宗我部元親の攻防の舞台となりました。天正10年(1582)に阿波を占拠した長宗我部元親は、一宮城に兵を配置し、豊臣氏の四国平定に対する防衛の拠点としました。
長宗我部元親が羽柴秀吉に降伏後、一宮城は天正13年(1585) に阿波に入国した蜂須賀家政の最初の居城となり、 阿波支配の拠点として大改修を開始しましたが、翌年の徳島城完成後には本拠を移すことになります。そして、その支城である阿波九城の一つとなり重要視され、家臣の益田長行が城主を務めました。
しかし、元和元年(1615)の一国一城令を受けて廃城となります。
蜂須賀家政

一宮城跡は徳島市の南西部、鮎喰川右岸にある東竜王山系の尾根先端に位置する中世山城です。 標高144mの本丸を中心に、明神丸(二の丸)、才蔵丸(三の丸)、小倉丸、 椎丸、水ノ手丸などの曲輪やそれらを防御する竪堀、土塁などが東西800m、南北500mの範囲の尾根筋上に配置されており、徳島県最大の規模と堅牢さを誇ります。
平成29年(2017)度から5か年計画で発掘調査が行われており、その報告がリンク先にまとめられております。
なお、本丸から北東より500mの平地部にある寄神社周辺には、御殿居(里城)とよばれる居館跡推定地が広がっています。
一宮城跡縄張図: 登山口で入手した地図で、上が南、下が北で方位が逆になっています。この地図のコースに従い時計回りに巡りました。
地図はクリックすると拡大します。

一宮城跡には、阿波国一之宮の一宮神社東にある登山口から登城します。
一宮城跡登山口

倉庫跡(西): 登山道を登ると最初に倉庫跡に到着します。一宮城跡には倉庫跡が2箇所あり、この曲輪は必ずしも平坦ではなく自然の尾根に少し手を加え平地にした程度のものです。普段は穀類や戦闘用の道具類を保管していた所です。両方の倉庫跡とも登城道の要所に置かれていましたが、 戦いの折に焼かれたといわれ、地名として「ヤケムギ」とも呼ばれて、以前には雨の後などに炭化麦が出土していました。

倉庫跡から眺めた一宮城跡東方面の風景

才蔵丸と東向き展望台(写真の建物): 次に到達する主要曲輪が才蔵丸で、三の丸とも呼ばれています。
標高は129.2mです。曲輪の形態は自然地形に沿った不整形で東西に細長く、曲輪内は平坦ではなく東方向にやや傾斜しています。虎口は西端に1箇所あり、堀切に面しています。才蔵丸の東の端には一段下がって曲輪を配され、北側の稜線上には堀切があり、稜線上からの侵入者を防御しています。

堀切: この堀切は上の明神丸から続く尾根を鉈で切ったように山を切り崩して作られています。 堀切によって才蔵丸は明神丸から孤立した曲輪となっています。左側が才蔵丸、右側が明神丸で、明神丸の虎口に行くにはここから後戻りする必要がありました。

明神丸(写真は南西向きに撮影): 標高は140.9m、本丸との高低差は3.4mで、本丸より明神丸が東北にあることから眺望がよくなっています。二の丸とも呼ばれています。
明神丸の周囲にはほぼ一周する細い帯曲輪が取り巻いています。また、北側の尾根からの侵入を防ぐための空堀と階段状の曲輪が配置され、北西方向にも二重の空堀が設けられています。
令和元年(2019)の発掘調査結果では、東西4間、南北4間の建物礎石又は礎石痕が明神丸で確認されました。 礎石痕は碁盤の目のように約2m間隔で25箇所あり、うち17箇所で礎石が発掘されています。礎石の多くは山下から運び上げられた比較的厚みのある円礫を用い、岩盤を削って設置されています。一宮城跡では瓦が全く出土していないことから、この建物は板葺きの建物であったと考えられます。
明神丸の盛土内からは、土師器皿や中国産の輸入陶磁器、肥前系磁器皿などが出土し、その年代は16世紀代から17世紀前半であることから、明神丸の曲輪や建物跡は蜂須賀家政の居城から廃城までの間に整備されたものと考えられました。明神丸には「剣山遙拝所」があったという伝承はありますが、庭園に用いられるような玉石や飛び石が配置されていたことから、蜂須賀氏が山頂からの眺望を楽しむ集会所として整備された可能性が考えられています。

明神丸からの南西方面の風景

明神丸(二の丸)から本丸までの帯曲輪虎口: 本丸までの間を繋ぐ長さ64m、幅13mの削平した帯曲輪があります。本丸の防御の意味から重要な曲輪で、明神丸の南側に、帯曲輪への虎口が1箇所あり、そこは石段になっています。

本丸跡東面石垣: 本丸は最高所に位置し、写真のように本丸跡の周囲には阿波青石(緑泥片岩)の石垣が組まれています。手前は上述の帯曲輪。
この現在残っている本丸の石垣などの遺構は、蜂須賀家政の阿波入国後の修築によるものです。本丸の東側には写真のように1箇所だけ虎口が設けられており、そこは櫓門になっておりました。

本丸構造: 石垣に沿っての本丸の大きさは、東北(図の下(虎口)側)では36m、西北(図右側)では23mあります。

本丸跡東面から北東面石垣: 上の本丸構造の図の下側の石垣を撮影しました。写真をクリックすると拡大します。

本丸跡階段上から虎口を見る: 石垣の高さは、本丸跡の南辺で5mほどです。

本丸跡南面石垣: 5mほどの高さがあります。

本丸跡若宮神社: 一宮城廃城後には若宮八幡宮と呼ばれていました。一宮大明神の大宮司小笠原長宗公から成祐公まで十一代の城主がお祀りされています。

本丸跡上からの北方面風景: 本丸跡において、平成30年(2018)の発掘調査が行われました。その結果、本丸御殿のものとみられる礎石(建物の土台になる石)や礎石痕が確認され、それらは東西 4間(8m)、南北6間(10m)の範囲に分布しており、礎石は15個、礎石痕は7箇所でした。礎石の多くは山下から運び上げられた比較的厚みのある円礫を用い、岩盤を削って設置しています。 いずれも約1.9mのほぼ等間隔で並び、御殿は約80平方mと推測されます。
また、一宮城跡では瓦が全く出土していないことから、建物は板葺き屋根の本丸御殿で、壁は土壁であったと考えられます。戦国時代の山城で本丸に御殿を置く例は全国でも珍しいもので、本丸跡の石垣の組み方が徳島城と似ていることから、蜂須賀氏による建設と考えられ、石垣の構築年代から、本丸御殿も蜂須賀氏が概ね文禄~慶長期に整備したものと考えられます。
本丸造成の盛土内からは、16世紀代の土師器皿や備前焼大甕、瀬戸焼天目茶碗、中国産輸入陶磁器(青磁碗、染付皿)などが出土しています。

釜床跡: 本丸跡の西側で一段下がった場所に釜床曲輪があります。城の炊事場の跡で、北の斜面は石垣で築かれています。本丸跡の虎口にある石段、本丸跡の礎石、そして釜床の石組は同世代の遺構と考えられています。

この後の釜床跡から小倉丸までの見学コース

本丸跡南側の堀切: 一宮城跡では最大の堀切で、堀切の方向に進むと才蔵丸に戻ります。

小倉丸虎口: 小倉丸は本丸の南側を防御するように作られた細長い曲輪です。小倉丸において、この後訪問する貯水池の方向である西南には高さ2mの土塁が巡らされています。他方、味方のいる本丸側には土塁はありません。
虎口は中央部にこの1箇所があり、土塁の長さは内側で58m、土塁は直線的なものではなく、地形に応じて少しずつ湾曲しています。また土塁の北西に突出して櫓台があります。
今回はこの虎口から先には行っていないことから、曲輪の様子を直接確認できていません。
小倉丸の蜂須賀氏入城以前の状況を確認するため、令和2年(2020)の発掘調査が小倉丸で実施されています。小倉丸の腐葉土直下から石敷き遺構が確認され、小倉丸は数回に分けて改修されていたことがわかりました。また、土塁については、筋状に岩盤を残しつつその上に土を盛って構築する手法がとられ、小倉丸西側斜面に広がる横堀や土塁と併せて非常に大規模な作事(土木工事) が行われていたことが確認されました。
このことから、小倉丸は空堀、土塁、そして櫓台から横矢をかける構造に造られており、一宮城の南方面防御の重要な拠点であったことがわかります。

小倉丸西側空堀: 小倉丸西南の土塁の外側には写真の空堀が巡らされています。この空堀は横移動が可能な通路としても利用されていたようで、西南の虎口と連結しています。

椎丸(しいのまる)への分岐: 小倉丸からさらに西方向に進むと、椎丸・水ノ手丸へ進む道と貯水池へ向かう道に分かれていたことから、椎丸の方に進みました。

椎丸: ここ椎丸と先に水ノ手丸がありますが、この先に難所があるとの警告表示があったことから、ここで引き返し分岐点まで戻って貯水池に向かいました。
椎丸と水ノ手丸の双方の曲輪とも貯水池を守るように配されており、土塁や竪堀、堀切で防御しています。椎丸は主要6曲輪の中で最も小さく東西、南北20mです。
双方とも本丸方向にそれぞれ虎口を開けています。

水ノ手丸: 貯水池へ向かう途中、水ノ手丸へ登る道の表示がありましたので、見上げてみました。上方にあります。

貯水池と堤跡(上流方向を撮影しています): 十分な水が確保できることが山城の必須条件で、この貯水池の下手(写真手前側)には水を溜めるための土手が築かれていました。現在、土手は切られていますが、当時は大きな貯水池がありました。水は南の谷から覚で引いたといわれています。
一宮城では、この貯水池を馬蹄形に囲むように、小倉丸、椎丸、水ノ手丸が配されており、またそれらの曲輪を連結するような小さい曲輪もあって防御施設が作られていました。この貯水池があったことから、四国平定時、長宗我部軍は豊臣秀長の猛攻に耐える事が出来たと考えられてます。

陰滝(いんだき)(上から撮影): 上手の貯水池(写真右)から水が下へと流れ落ちています。

陰滝下から撮影: 貯水池は、周囲の曲輪とこの岩壁によって強固に守られていました。ここは採石場の跡だともいわれます。

宮の奥の枝垂桜: 陰滝を過ぎると下山の傾斜も緩やかとなり、一宮城跡の見学も終了です。
森から出た所に枝垂桜が咲き誇って疲れを癒してくれました。

以上、一宮城跡の見学を終えて、日も暮れ始めていましたので、この後は本日の宿へと移動しました。
本日は土佐国安芸城と北川村「モネの庭」マルモッタン、室戸岬も訪問しましたので、歩行歩数を分けることができませんが、2城と植物園等を含めて、13,000歩歩きました。
明日は徳島県板野郡藍住町にある勝瑞(しょうずい)城を訪問する予定です。
文責 岡島 敏広
2025年04月17日
2025年4月1日(火)高知県土佐国安芸城跡訪問(安芸市)
個人旅行で高知県高知市高知城に引き続き、高知県安芸市安芸城跡を訪問しました。
安芸城跡は中世の安芸氏が築いた城山部分と、江戸時代に土佐藩家老であった五藤氏により整備された土居により構成されます。「土居」とは、土手に囲まれた領主屋敷のことを指します。
本日はこの後の訪問予定と時間の関係で、城山部分の訪問は諦め土居のみを訪問しました。
安芸城は、鎌倉時代の延慶元年(1308)、安芸親氏によって築かれたといわれ、戦国時代まで安芸氏の居城でした。
安芸氏は、壬申の乱 (672) で敗れ、土佐へ流された蘇我赤兄の子孫と伝えられています。戦国期には土佐七雄の一人に数えられ、「安芸五千貫」を領有する大豪族として安芸郡ばかりでなく、香美郡の東部にまで進出し、土佐国東部で最大の勢力を誇るようになりました。安芸城最後の城主安芸備後守国虎は、西部に隣接し土佐の覇権を狙う長宗我部元親と激しく対立、抗争を繰り返します。安芸国虎は一条兼定と結び、八流の戦い(八流崩れ)と呼ばれる長宗我部氏討伐の合戦を起こしましたが、逆に安芸城を攻められる結果となりました。永禄12年(1569) 7月、ついに7000人余の大軍を率いた元親軍に攻められ、24日間の籠城の末、元親に寝返る者も出たことから、将兵の助命を条件に降伏を申し出、自らは菩提寺である浄貞寺で自刃し安芸氏は滅びました。
安芸国虎と長宗我部元親の攻防(図はクリックすると拡大します)
落城後は元親の弟である香宗我部親泰が安芸城に入城し、「安芸」を「安喜」と改め、長宗我部氏が約30年間支配して、阿波進攻の拠点として用いました。
関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601) に長宗我部氏に代わって山内一豊に土佐一国が与えられると、山間部が多く東西に広い土佐国を治めるため、佐川、宿毛、窪川、本山、安芸(安喜)の5箇所の城に家老または重臣を配置しました。これら5箇所の城には、家老屋敷を中心に小規模な城下町も形成されました。安芸(安喜)を預けられた重臣の五藤為重は、この地に千百石の知行で配されました。五藤為重は居留地として安喜城を選びます。
しかし、元和元年(1615)に一国一城令により安喜城は廃城になりましたが、城を「土居」と称して、内堀に囲まれた土居内を整備し、改修や修復が繰り返されて屋敷が幕末まで構えられました。
※江戸時代は「安芸」と「安喜」がともに使われていました。
※元亀元年(1570)、越前(福井県)朝倉氏攻めの際、一豊は敵を討ち取ったものの、左の目尻から右の奥歯にかけて矢を射られました。家臣の五藤為浄はその矢を抜こうとしますが、なかなか抜けず、一豊の言葉に従い、わらじをはいたまま一豊の顔を踏み矢を抜き取りました。土佐藩主となった一豊は、為浄の武功を重んじて、五藤家に安芸を預けました。
安芸城(土居)跡は、高知県安芸平野のほぼ中央にあり、標高約41m、東西100m、南北190mの楕円形をした平山城で、頂上の詰からは安芸平野や太平洋が一望できます。詰のほか、二の段、三の段などの曲輪や堀切、虎口、土塁などの遺構、追手門の枡形が良好に残り、 昭和44年(1969)安芸市の保護有形文化財(史跡)に指定されました。
以下の2つの絵図は江戸時代の異なる2時期に描かれた安芸城の図です。
安芸土居構之図(江戸時代前期)(安芸市立歴史民俗資料館蔵)の部分改変図: 現在の縄張とは異なっています。(図はクリックすると拡大します)
安喜土居内外細図(江戸時代後期)の部分改変図: 上掲江戸時代前期の状態から「南三壇目」が削られ、曲輪名が変更されて現在の姿に近くなっています。また、時期により五藤家屋敷の配置も変更されています。(図はクリックすると拡大します)
ここから現地の訪問です。
当初安芸城跡の訪問は予定にありませんでしたが、室戸岬へ行く途中に「野良時計」というのがあるということで安芸市に立ち寄りました。その周辺には城郭と武家屋敷があるとの説明がありましたので散策してみました。「野良時計」の後、それらを訪問します。
「野良時計」: まだ家ごとに時計がなかった頃、土地の地主であった畠中源馬は時計に興味をもち、アメリカから八角形の掛け時計を取り寄せました。それを幾度も分解しては組み立てて仕組みを覚え、自作の大時計を作ることを思い立ちました。
分銅も歯車もすべて手作りし、一人で写真のように作りあげたのは明治20年頃のことです。壊れてはいないものの、操作が難しく交換部品もないことから、現在は動かされていませんが、今でも周辺の人々には「野良時計」として親しまれています。
「野良時計」のある所から城下町(土居廓中、どいかちゅう)を抜けて北に歩いて行きますと、安芸城跡があります。
西(領主五藤家屋敷)側の堀に接した腰巻石垣と土塁: 安芸城跡は堀と土塁(水に接する部分は石垣)に囲まれています。安芸城跡を取り囲む土塁、堀、追手の桝形などは、安芸氏により整えられたものを基本としていると考えられています。
堀: 夏には白いハスの花が咲くようです。
土橋: 堀を渡って追手の桝形に続く土橋です。
追手門枡形外側
追手門枡形内側
城山三ノ段石垣: 上掲の江戸後期の安喜土居内外細図や下記の五藤家屋敷での説明のように、現在は城山南端部(写真手前の梅林辺り)が削られて石垣が積まれています。
筆者は城山は訪問しておりませんので、城山の様子を紹介した別のブログをこちらに示します。
五藤家屋敷: 現在、安芸城跡城山の南麓、堀の内側に占める屋敷地(土居)のほぼ中央に東西棟で建っています。
発掘調査報告書によれば、戦国期安芸氏の土居については、城山は現在の土居構えの南堀部分までのび、土居はその東麓北よりで、東と南は湿地の自然の要害に守られた小規模な掘立柱を中心としたものであったと考えられています。
安芸に置かれた五藤氏は、山内氏と同じく尾張の出身で、寛文10年(1670)頃土佐藩の家老となり、幕末まで藩の要職を務めました。
入国直後に掘立であった土居内屋敷は、礎石に変えられ、整備がなされてゆきましたが、地形的に急激な拡大整地はなされず、安芸氏の土居を踏襲したものでした。
時期は不明ながら、火災による焼失後に大規模な整地が断行され、城山南端部の削り取りによる低地部の埋め立てと嵩上げがすすめられて、土居の面積も確保され、現状の土居構えの景観に整備されたと考えられています。
五藤氏は、土居の外側には、家臣団の居住地である廓中(かちゅう)を整えました。これが土居廓中です。
土居廓中(かちゅう)の集落構成
土居廓中は、安芸城(土居)に置かれた五藤氏の城下町で、城下は武家地のみで構成されています。
町人地は2kmほど南の安芸浦や、土居廓中までの街道沿いに形成されました。
土居廓中周辺は条里制の遺構がよく残る古代から開けた土地で、城山を背にして、城の南東から西にかけて広がっています。主要な道路として、土居廓中の南正面と堀に面した東西道路2本、城の正面と土居廓中の西部を貫く南北道路2本があります。
町は南正面にあたる南町(前町)、西側の西町、東側の東町、城の西側で西町の北にあたる北町に分かれます。
城の正面の東西には「菜園所」がありました。
土居廓中には、武家屋敷が並ぶ町割と、江戸時代末期から昭和初期にかけての建物が残され、狭い通りに沿って石溝や生垣、塀等が連なる武家地特有の歴史的風致を今日に良く伝えています。
地元住民が昭和49年(1974)結成した「ふるさと土佐土居廓中保存会」により保存されてきた歴史的な町並みは、安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区とされ、平成24年(2012)7月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
土居廓中西部貫通道路沿いの野村家住宅入口(写真右建物、南側から撮影): 2本の南北道路のうちの1つ、西部の道路沿いで、ウバメガシや土用竹の生垣で囲まれた町なみは、武家屋敷の面影をとどめています。
野村家は、四ツ辻南東の角地にあり、西と北の2 面で道路に面しており、屋敷への出入口となる家門は西側のこの写真の道路に面しています。
野村家住宅北西角風景(写真左建物、北側から撮影): 真っすぐのびるのは、西部の道路です。
■野村家の歴史
ここ野村家は、与力・騎馬として五藤家に仕えた上流の家臣であり、地元の財政、家臣の人事等の惣役(元締)を行っていたといわれます。
家屋は幕末の建造らしく、終戦後に炊事場と縁側が一部改造されましたが、間取り等は当時の武家様式がみられます。
野村家は香美郡山北村(現香南市)の出身で、五藤氏の土佐入国後に登用され、五藤家の財政や家臣の人事などに関わる役を担っており、元禄10年(1697)には騎馬50石であったといいます。
現在地を屋敷としたのは19世紀初頭と考えられています。
塀重門(へいじゅうもん): 家門から中に入ると柱2本、両開きの扉2個からなるシンプルな門があります。
■野村家の屋敷構え: 主屋は、屋敷地のほぼ中央部に、正面を西に向けて建てられています。
主屋の南側には庭が、北側には裏庭(菜園)が広がっています。
また、西側の道路に沿って風呂便所、物置、米蔵、薪置場などの附属屋が並んでいます。
主屋は、建物の南北で使われ方が異なっています。
主屋南側部分は、「玄関」「次の間」「表の間」と続く座敷です。南側の庭の緑に面し環境の良い部屋になっており、主人の執務や来客の応接などに使用された「公的に使用される部屋」でした。
他方、北側部分は「居間」「納戸」「茶の間」「かまや」で、主屋北側の裏庭(菜園)や附属屋に面した、主に家族の生活に使用された「私的な部屋」でした。
屋敷地におけるこうした建物の構成や配置は、土居廓中の武家屋敷の典型的なものと言えます。
主屋南側部分(「公的に使用される部屋」)の玄関: 武家地であることから、刀による立ち回りが困難となるよう、玄関は3畳と狭く作られています。
主屋南側部分(「公的に使用される部屋」)の表の間
主屋北側部分(「私的な部屋」)の納戸(写真手前)、居間(写真奥2室)
以上、土佐国安芸城(土居)跡と城下町(土居廓中)の武家屋敷の見学を終えました。
この後は計画に従い、室戸岬を経由して徳島県阿波国一宮城へと移動しました。
文責 岡島 敏広
安芸城跡は中世の安芸氏が築いた城山部分と、江戸時代に土佐藩家老であった五藤氏により整備された土居により構成されます。「土居」とは、土手に囲まれた領主屋敷のことを指します。
本日はこの後の訪問予定と時間の関係で、城山部分の訪問は諦め土居のみを訪問しました。
安芸城は、鎌倉時代の延慶元年(1308)、安芸親氏によって築かれたといわれ、戦国時代まで安芸氏の居城でした。
安芸氏は、壬申の乱 (672) で敗れ、土佐へ流された蘇我赤兄の子孫と伝えられています。戦国期には土佐七雄の一人に数えられ、「安芸五千貫」を領有する大豪族として安芸郡ばかりでなく、香美郡の東部にまで進出し、土佐国東部で最大の勢力を誇るようになりました。安芸城最後の城主安芸備後守国虎は、西部に隣接し土佐の覇権を狙う長宗我部元親と激しく対立、抗争を繰り返します。安芸国虎は一条兼定と結び、八流の戦い(八流崩れ)と呼ばれる長宗我部氏討伐の合戦を起こしましたが、逆に安芸城を攻められる結果となりました。永禄12年(1569) 7月、ついに7000人余の大軍を率いた元親軍に攻められ、24日間の籠城の末、元親に寝返る者も出たことから、将兵の助命を条件に降伏を申し出、自らは菩提寺である浄貞寺で自刃し安芸氏は滅びました。
安芸国虎と長宗我部元親の攻防(図はクリックすると拡大します)

落城後は元親の弟である香宗我部親泰が安芸城に入城し、「安芸」を「安喜」と改め、長宗我部氏が約30年間支配して、阿波進攻の拠点として用いました。
関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601) に長宗我部氏に代わって山内一豊に土佐一国が与えられると、山間部が多く東西に広い土佐国を治めるため、佐川、宿毛、窪川、本山、安芸(安喜)の5箇所の城に家老または重臣を配置しました。これら5箇所の城には、家老屋敷を中心に小規模な城下町も形成されました。安芸(安喜)を預けられた重臣の五藤為重は、この地に千百石の知行で配されました。五藤為重は居留地として安喜城を選びます。
しかし、元和元年(1615)に一国一城令により安喜城は廃城になりましたが、城を「土居」と称して、内堀に囲まれた土居内を整備し、改修や修復が繰り返されて屋敷が幕末まで構えられました。
※江戸時代は「安芸」と「安喜」がともに使われていました。
※元亀元年(1570)、越前(福井県)朝倉氏攻めの際、一豊は敵を討ち取ったものの、左の目尻から右の奥歯にかけて矢を射られました。家臣の五藤為浄はその矢を抜こうとしますが、なかなか抜けず、一豊の言葉に従い、わらじをはいたまま一豊の顔を踏み矢を抜き取りました。土佐藩主となった一豊は、為浄の武功を重んじて、五藤家に安芸を預けました。
安芸城(土居)跡は、高知県安芸平野のほぼ中央にあり、標高約41m、東西100m、南北190mの楕円形をした平山城で、頂上の詰からは安芸平野や太平洋が一望できます。詰のほか、二の段、三の段などの曲輪や堀切、虎口、土塁などの遺構、追手門の枡形が良好に残り、 昭和44年(1969)安芸市の保護有形文化財(史跡)に指定されました。
以下の2つの絵図は江戸時代の異なる2時期に描かれた安芸城の図です。
安芸土居構之図(江戸時代前期)(安芸市立歴史民俗資料館蔵)の部分改変図: 現在の縄張とは異なっています。(図はクリックすると拡大します)

安喜土居内外細図(江戸時代後期)の部分改変図: 上掲江戸時代前期の状態から「南三壇目」が削られ、曲輪名が変更されて現在の姿に近くなっています。また、時期により五藤家屋敷の配置も変更されています。(図はクリックすると拡大します)

ここから現地の訪問です。
当初安芸城跡の訪問は予定にありませんでしたが、室戸岬へ行く途中に「野良時計」というのがあるということで安芸市に立ち寄りました。その周辺には城郭と武家屋敷があるとの説明がありましたので散策してみました。「野良時計」の後、それらを訪問します。
「野良時計」: まだ家ごとに時計がなかった頃、土地の地主であった畠中源馬は時計に興味をもち、アメリカから八角形の掛け時計を取り寄せました。それを幾度も分解しては組み立てて仕組みを覚え、自作の大時計を作ることを思い立ちました。
分銅も歯車もすべて手作りし、一人で写真のように作りあげたのは明治20年頃のことです。壊れてはいないものの、操作が難しく交換部品もないことから、現在は動かされていませんが、今でも周辺の人々には「野良時計」として親しまれています。

「野良時計」のある所から城下町(土居廓中、どいかちゅう)を抜けて北に歩いて行きますと、安芸城跡があります。
西(領主五藤家屋敷)側の堀に接した腰巻石垣と土塁: 安芸城跡は堀と土塁(水に接する部分は石垣)に囲まれています。安芸城跡を取り囲む土塁、堀、追手の桝形などは、安芸氏により整えられたものを基本としていると考えられています。

堀: 夏には白いハスの花が咲くようです。

土橋: 堀を渡って追手の桝形に続く土橋です。

追手門枡形外側

追手門枡形内側

城山三ノ段石垣: 上掲の江戸後期の安喜土居内外細図や下記の五藤家屋敷での説明のように、現在は城山南端部(写真手前の梅林辺り)が削られて石垣が積まれています。
筆者は城山は訪問しておりませんので、城山の様子を紹介した別のブログをこちらに示します。

五藤家屋敷: 現在、安芸城跡城山の南麓、堀の内側に占める屋敷地(土居)のほぼ中央に東西棟で建っています。
発掘調査報告書によれば、戦国期安芸氏の土居については、城山は現在の土居構えの南堀部分までのび、土居はその東麓北よりで、東と南は湿地の自然の要害に守られた小規模な掘立柱を中心としたものであったと考えられています。
安芸に置かれた五藤氏は、山内氏と同じく尾張の出身で、寛文10年(1670)頃土佐藩の家老となり、幕末まで藩の要職を務めました。
入国直後に掘立であった土居内屋敷は、礎石に変えられ、整備がなされてゆきましたが、地形的に急激な拡大整地はなされず、安芸氏の土居を踏襲したものでした。
時期は不明ながら、火災による焼失後に大規模な整地が断行され、城山南端部の削り取りによる低地部の埋め立てと嵩上げがすすめられて、土居の面積も確保され、現状の土居構えの景観に整備されたと考えられています。

五藤氏は、土居の外側には、家臣団の居住地である廓中(かちゅう)を整えました。これが土居廓中です。
土居廓中(かちゅう)の集落構成
土居廓中は、安芸城(土居)に置かれた五藤氏の城下町で、城下は武家地のみで構成されています。
町人地は2kmほど南の安芸浦や、土居廓中までの街道沿いに形成されました。
土居廓中周辺は条里制の遺構がよく残る古代から開けた土地で、城山を背にして、城の南東から西にかけて広がっています。主要な道路として、土居廓中の南正面と堀に面した東西道路2本、城の正面と土居廓中の西部を貫く南北道路2本があります。
町は南正面にあたる南町(前町)、西側の西町、東側の東町、城の西側で西町の北にあたる北町に分かれます。
城の正面の東西には「菜園所」がありました。
土居廓中には、武家屋敷が並ぶ町割と、江戸時代末期から昭和初期にかけての建物が残され、狭い通りに沿って石溝や生垣、塀等が連なる武家地特有の歴史的風致を今日に良く伝えています。
地元住民が昭和49年(1974)結成した「ふるさと土佐土居廓中保存会」により保存されてきた歴史的な町並みは、安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区とされ、平成24年(2012)7月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
土居廓中西部貫通道路沿いの野村家住宅入口(写真右建物、南側から撮影): 2本の南北道路のうちの1つ、西部の道路沿いで、ウバメガシや土用竹の生垣で囲まれた町なみは、武家屋敷の面影をとどめています。
野村家は、四ツ辻南東の角地にあり、西と北の2 面で道路に面しており、屋敷への出入口となる家門は西側のこの写真の道路に面しています。

野村家住宅北西角風景(写真左建物、北側から撮影): 真っすぐのびるのは、西部の道路です。

■野村家の歴史
ここ野村家は、与力・騎馬として五藤家に仕えた上流の家臣であり、地元の財政、家臣の人事等の惣役(元締)を行っていたといわれます。
家屋は幕末の建造らしく、終戦後に炊事場と縁側が一部改造されましたが、間取り等は当時の武家様式がみられます。
野村家は香美郡山北村(現香南市)の出身で、五藤氏の土佐入国後に登用され、五藤家の財政や家臣の人事などに関わる役を担っており、元禄10年(1697)には騎馬50石であったといいます。
現在地を屋敷としたのは19世紀初頭と考えられています。
塀重門(へいじゅうもん): 家門から中に入ると柱2本、両開きの扉2個からなるシンプルな門があります。

■野村家の屋敷構え: 主屋は、屋敷地のほぼ中央部に、正面を西に向けて建てられています。
主屋の南側には庭が、北側には裏庭(菜園)が広がっています。
また、西側の道路に沿って風呂便所、物置、米蔵、薪置場などの附属屋が並んでいます。
主屋は、建物の南北で使われ方が異なっています。
主屋南側部分は、「玄関」「次の間」「表の間」と続く座敷です。南側の庭の緑に面し環境の良い部屋になっており、主人の執務や来客の応接などに使用された「公的に使用される部屋」でした。
他方、北側部分は「居間」「納戸」「茶の間」「かまや」で、主屋北側の裏庭(菜園)や附属屋に面した、主に家族の生活に使用された「私的な部屋」でした。
屋敷地におけるこうした建物の構成や配置は、土居廓中の武家屋敷の典型的なものと言えます。

主屋南側部分(「公的に使用される部屋」)の玄関: 武家地であることから、刀による立ち回りが困難となるよう、玄関は3畳と狭く作られています。

主屋南側部分(「公的に使用される部屋」)の表の間

主屋北側部分(「私的な部屋」)の納戸(写真手前)、居間(写真奥2室)

以上、土佐国安芸城(土居)跡と城下町(土居廓中)の武家屋敷の見学を終えました。
この後は計画に従い、室戸岬を経由して徳島県阿波国一宮城へと移動しました。
文責 岡島 敏広
2025年04月14日
2025年3月31日(月)高知県土佐国高知城訪問(高知市)
個人旅行で高知県南国市岡豊(おこう)城跡に引き続き、高知城を訪問しました。
高知城の建造物15棟が昭和9年(1934)1月30日に国の重要文化財に指定されています。現存12天守の1つで、かつ、全国に4棟のみ残る御殿(高知城、二条城、掛川城、川越城)のうちのひとつでもあります。このようなことから、高知城は日本100名城に選定され、No. 84です。
高知城の地には、当初、大高坂(おおたかさ)城と呼ばれる城が築かれていました。最初の築造時期は南北朝時代で、大高坂城は中世の城であって合戦時にのみ作られる臨時的な軍事施設で、武士が平素に生活する「館」とは区別されるものでした。
土佐の戦国大名として台頭した長宗我部元親は天正16年(1588)、岡豊城(おこうじょう)からここへ本拠地を移そうとしましたが、低湿地の山麓は工事が難航し、わずか数年後には代わりに港(浦戸湾)に臨む浦戸城を選びました。
元親より家督を譲られた四男の長宗我部盛親は関ヶ原の戦いで敗れた西軍に与して改易され、代わって、遠州掛川5万石の山内一豊が慶長6年(1601)土佐国を与えられ土佐藩を立てました。
当時の土佐は、長宗我部氏の除封に伴い混乱状態にあり、山内一豊は弟の康豊を先に派遣、長宗我部元親の遺臣による浦戸城明け渡しを拒む一揆(浦戸一揆)を鎮圧する一方、旧体制を踏襲する方針を示し懐柔に務めました。
山内一豊自らは慶長6年(1601)正月に入国、浦戸城に入城しました。 その後、一豊は大高坂山で築城に取り掛かり、慶長8年(1603)に本丸や二ノ丸は完成しましたが、城全体の完工は慶長16年(1611)、一豊の没後で二代目藩主の忠義の代になっていました。
山内一豊
山内一豊騎馬像: この銅像は大正2年(1913)に建設された銅像の原形をもとにして平成8年(1996)9月20日に再建除幕されたものです。
正保城絵図 土佐国城絵図(1644)の一部に説明を付け改変。この図はクリックすると拡大します。
高知城の図には高知城図もあり、それぞれリンク先で原図を閲覧できます。
ここから、訪問した各地点につき解説してゆきます。
高知城内堀跡: 昭和20(1945)年7月4日の大空襲により、市街地の大部分が瓦礫の山と化した高知市は、戦後、市街地の復興再建にあたりました。
市街地を復興するにあたり、連合軍の軍政部は、瓦礫を高知公園の内堀に廃棄、埋め立てし、県庁への往来を容易にするよう指示したといいます。 こうして、藤並神社の東側にあった、広さ12間(約21.8m)の内堀は、昭和22年(1947)に埋め立てられ、写真右に写る藤並公園が昭和37年(1962)に開設されました。
追手門(重要文化財)外側: 慶長年間創建、寛文4年(1664)に再建されたもので、当城では珍しく大きな石を積んだ石垣で枡形を構成し、内部が見通せないように右側に建てられた城の正面です。
重層で入母屋造り、その木割りは太く堂々とし、襷を用いた主柱や門扉、冠木などには要所に銅製の飾り金具を取付けています。
追手門の両側に繋がる矢狭間塀も国の重要文化財に指定されています。
追手門内側
追手門門扉: 要所に銅製の飾り金具を取付けられています。
石樋: 高知県は全国でも有数の多雨地帯のため、高知城は特に排水には注意が払われています。
下写真の石樋は、排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護しています。このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で、他の城郭では見ることのできない珍しいものです。
石樋は本丸や三ノ丸などを含め現在16ヶ所確認されていますが、下になるほど排水量が多くなるため、写真の石樋が一番大きく造られています。
山内千代の像(杉ノ段):
杉ノ段にはかつて杉の巨木がたくさんあったのでこの名があります。
銅像の山内一豊の妻は、弘治3年(1557)生まれで、通称千代といわれていますが、これを裏づける確かな資料はありません。出身についても通説では近江国(滋賀県)浅井氏の家臣若宮友興の娘とされていますが、近年では美濃国(岐阜県)八幡城主遠藤氏の娘ともいわれています。幼い頃父を失い、17~18歳の頃一豊と結婚、貧しい暮らしの中で家を守り、戦いに明け暮れる一豊の出世を助けた逸話が残されています。中でも結婚の時持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、それが織田信長の目にとまって出世の糸口になった逸話は広く知られています。
また、関ヶ原の戦いの前に、笠の緒によりこめた手紙で関東にいる一豊に大阪方の情報を知らせ、その進路を決定づけさせたことが一豊の土佐一国領主への道を開くことになりました。手芸や文筆にもすぐれ、賢夫人として知られています。この銅像は昭和40年(1965)2月26日に除幕されました。
杉ノ段の井戸: 杉ノ段の二ノ丸へ上る道の南側に残る井戸は、深さ約18mあります。城内には14の井戸があったと言われ、そのうちこの井戸が一番高く水質も良かったので、毎日午前10時、正午・午後4時の3回この井戸水を汲み、藩主の住む二ノ丸御殿に運んだといわれます。このことから「井戸ノ段」とも呼ばれました。
将軍家から下賜された「御鷹之鶴」を迎える際には藩主自らこの井戸段に出向いたといわれます。また、藩主のお国入りや出駕の際には、ここに一族が出迎えや見送りに出向いてきました。
北の部分には塗師部屋があり、また長崎から求めてきた舶来品を入れる長崎蔵がありました。
三ノ丸石垣(写真右)と天守東面: 右の三ノ丸は、慶長6年(1601)の築城開始から10年を要して最後に完成しました。面積は4,641㎡、出隅部分の石垣の高さは約13m。 石垣に使用されている石材は主にチャートですが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、自然石を用いた野面積みによって多くの面が構築されています。また、三ノ丸には、1,815㎡の壮大な御殿が建築されていました。
三ノ丸の石垣は、慶安3年(1650)、宝永4年(1707)に地震や豪雨により崩壊し、修理された記録が見られます。平成12年度の修理では、割れたり、孕んだ石が多く、崩落の危険性が確認されたことから、鉄門付近から東面の花壇前まで実施され、「割れた石」以外は元の石を使用し、原状復旧を基本として実施されました。平成16年には、穴太衆の野面積みの技法を現代に伝える石工が携わって改修工事が実施されました。
鉄門跡(鉄門内側から撮影): 写真の場所には左右の高い石垣をまたいで入母屋造り二階建ての門が設けられていました。ここは二ノ丸や本丸に通じる重要な位置にあたることから、石垣は整然と築かれていて、門扉には多くの鉄板が全体に打ち付けられていたので、鉄門と称されました。小さな枡形を形作る門の内側には番所があって、弓・鉄砲を持った番人と足軽が詰めていました。
門内に入ると右側と正面の石垣の上には矢狭間塀がめぐらされていて、侵入した敵を3方面から攻撃できるようになっていました。左に曲がって石段(写真右の石段)を上ると、矢狭間塀のためにニノ丸方面の道は見えず、むしろ詰門(本丸・二ノ丸間)への石段が連続して見えるので、自然と本丸・二ノ丸間の詰門の方向に導かれるように巧妙に設計されていました。
鉄門は石段の中間から二階に上がれるように設計されており、そのあたりの石には切り出した時の矢穴の跡がそのまま残っているものがみられます。
上方より見た詰門(黒い建物): 右下の木の下に鉄門があります。侵入した敵は木の下の鉄門から直線的に左の黒い詰門に向かってしまいますが、実は二ノ丸(写真上方の曲輪)、次に本丸を目指すには写真上方に向かう石段を登って行く必要があります。
写真左手前には本丸の東多聞、廊下門が見えます。
詰門(重要文化財): 本丸と二ノ丸の間にある空堀に建てられ、それらを繋ぐ櫓門のことで、二階北面は二ノ丸、南面は本丸の廊下門に接続しています。建築年は享和2年(1802)で江戸時代には「橋廊下」とも呼ばれ、上部は廊下橋になっています。
二階が登城した武士の詰所となっていたことから、現在は詰門と称しています。この建物は、上記のような機能を持つことから、全国の城郭建築の中でも特殊な櫓門として知られています。
一階の写真に見えるこちら側、東の出入口は右寄りに設け、裏側西の出入口は中央につけられていて、筋違いとなっています。これは攻め上ってきた敵が容易に通り抜けられないようにという防衛上の配慮によるものです。また、東から一階のこの門を突破しても容易に本丸には行けないようになっています。
一階部分の南寄りは籠城のための塩を貯蔵するようになっていました。中二階部分は窓もなく物置であったと考えられます。二階は二ノ丸から本丸への通路です。また、東面(写真のこちら側)に3カ所、西面(写真の裏側)に5カ所の隠し銃眼(狭間)も設けられています。
二ノ丸入母屋造の廊下橋入口: 写真は二ノ丸から本丸への入口です。
この二ノ丸に建てられていたニノ丸御殿は、政務をとる表御殿と藩主が日常の生活をする奥御殿が連続して建てられており、一部二階建てになっていました。総面積は1,233㎡もありましたが、明治6年(1873) 公園化にともないすべての建物が撤去されました。
廊下橋内部(空堀上にあり、北方向・ニノ丸方向を撮影): 詰門二階部分で廊下橋としての役割も担っていました。この二階部分は、藩主のもとに向かう家老の待合場所で、内部の3室を畳敷きとし、家老・中老・平侍と身分に応じて詰める場所が定められていました。 板の間の東南隅(写真手前側)には非常の場合の階下への抜道が設けられています。
廊下門(重要文化財): 詰門・廊下橋の出口
上方から光景で時計回りに本丸御殿、黒鉄門、西多聞、廊下門
昭和大修理前の左から詰門・廊下門・西多聞と背後の天守古写真
高知城天守西面(重要文化財)と本丸御殿(重要文化財): 本丸は標高44.4m、変形の土地で総面積は約1,580㎡あります。
その中に天守をはじめとして本丸御殿・東西多聞・廊下門・黒鉄門・納戸蔵などが配置され、外回りは銃眼のついた矢狭間でつないでいます。本丸のすべての建造物が完全な形で残されているのは全国12の城郭の中でもこの高知城だけであり、たいへん貴重な遺構で、それらは国指定重要文化財となっています。
本丸の建物は慶長6年(1601)創建、享保12年(1727)火災のため全焼、寛延2年(1749)前後の再建ですが、創建当時の規模をそのまま残しています。
外観四層、内部は三層六階の天守の高さは18.5mで、山内一豊が加増・転封前に居城としていた掛川城(静岡県)を模したといわれます。他の城郭に見られるような天守台はなく、北面の石垣から直接建ち上げる形にしており、入口は本丸御殿に接しています。建坪は168.18㎡、延べ面積499.84㎡です。
最上階外側の四面には高欄のついた回り縁をめぐらし、外に出て展望することができるようになっています。
第三層の寄棟(よせむね)部分は東西に唐破風を置くなど、外観を美しく見せる工夫が各所に施されています。
天守北面: 二階大屋根と最上層にそれぞれ銅製の鯱を置き、大屋根の南北に千鳥破風が設けられています。
二階大屋根の鯱
四階内部破風の間
東多聞外部
東多聞内部: 内部は展示室として使用されています。
本丸御殿(重要文化財): レイアウト図はクリックにより拡大します。本丸御殿の書院造は、寝殿造を母体として発展したもので、室町時代にその形式が生まれ近世に武家の住宅様式として完成しました。それは、大・小両書院を中心に玄関や台所などを配した一連の建物群で、個々の建物(書院)は、畳敷きのいくつかの部屋の集合によって構成されます。特徴として、部屋の外回りの建具に舞良戸・明障子・雨戸が立てられ、内部は間仕切が増えて大小の部屋ができ、間仕切には襖・明障子が用いられます。柱は角柱で壁は張紙が貼られ障壁画などによって装飾されます。また、天井には格天井が用いられます。
書院造は主室の床を一段高くして上段とすることや座敷飾りの位置、装飾などにより、身分と格式の序列を表現しており、武家の権威を象徴する建築様式です。
御茶所: 三ノ間(手前の部屋)に接した非常に狭い空間でした。
二ノ間(手前)と藩主の御座所の上段ノ間(奥)
上段ノ間を横から撮影: 奥の扉は上段ノ間に接する帳台構え(武者隠し)
黒鉄門(重要文化財)本丸内側: 本丸南側を固める裏門で、守りを堅固にするため、扉の外側には、黒漆で塗られた鉄板が打ち付けられています。この様子から、黒鉄門と名付けられたものと考えられています。
二階部分は、武者が隠れることが出来る様になっており、門の外側に石落としが設けられるなど防御性の高い門となっています。
黒鉄門門扉
黒鉄門(重要文化財)本丸外側と黒鉄門東南矢狭間塀(重要文化財)
天守東南矢狭間塀(重要文化財)南東部分
天守東南矢狭間塀(重要文化財)東部分
以上、黒鉄門から本丸を出て鉄門跡まで戻りました。ここで、高知城の見学を終えて、この後は本日の宿へと移動しました。
本日は岡豊(おこう)城と牧野植物園も訪問しましたので、歩行歩数を分けることができませんが、2城と植物園で、15,000歩歩きました。
明日は室戸岬を経由して徳島県まで移動し、徳島市にある一宮城を訪問する予定です。
文責 岡島 敏広
高知城の建造物15棟が昭和9年(1934)1月30日に国の重要文化財に指定されています。現存12天守の1つで、かつ、全国に4棟のみ残る御殿(高知城、二条城、掛川城、川越城)のうちのひとつでもあります。このようなことから、高知城は日本100名城に選定され、No. 84です。
高知城の地には、当初、大高坂(おおたかさ)城と呼ばれる城が築かれていました。最初の築造時期は南北朝時代で、大高坂城は中世の城であって合戦時にのみ作られる臨時的な軍事施設で、武士が平素に生活する「館」とは区別されるものでした。
土佐の戦国大名として台頭した長宗我部元親は天正16年(1588)、岡豊城(おこうじょう)からここへ本拠地を移そうとしましたが、低湿地の山麓は工事が難航し、わずか数年後には代わりに港(浦戸湾)に臨む浦戸城を選びました。
元親より家督を譲られた四男の長宗我部盛親は関ヶ原の戦いで敗れた西軍に与して改易され、代わって、遠州掛川5万石の山内一豊が慶長6年(1601)土佐国を与えられ土佐藩を立てました。
当時の土佐は、長宗我部氏の除封に伴い混乱状態にあり、山内一豊は弟の康豊を先に派遣、長宗我部元親の遺臣による浦戸城明け渡しを拒む一揆(浦戸一揆)を鎮圧する一方、旧体制を踏襲する方針を示し懐柔に務めました。
山内一豊自らは慶長6年(1601)正月に入国、浦戸城に入城しました。 その後、一豊は大高坂山で築城に取り掛かり、慶長8年(1603)に本丸や二ノ丸は完成しましたが、城全体の完工は慶長16年(1611)、一豊の没後で二代目藩主の忠義の代になっていました。
山内一豊

山内一豊騎馬像: この銅像は大正2年(1913)に建設された銅像の原形をもとにして平成8年(1996)9月20日に再建除幕されたものです。

正保城絵図 土佐国城絵図(1644)の一部に説明を付け改変。この図はクリックすると拡大します。
高知城の図には高知城図もあり、それぞれリンク先で原図を閲覧できます。

ここから、訪問した各地点につき解説してゆきます。
高知城内堀跡: 昭和20(1945)年7月4日の大空襲により、市街地の大部分が瓦礫の山と化した高知市は、戦後、市街地の復興再建にあたりました。
市街地を復興するにあたり、連合軍の軍政部は、瓦礫を高知公園の内堀に廃棄、埋め立てし、県庁への往来を容易にするよう指示したといいます。 こうして、藤並神社の東側にあった、広さ12間(約21.8m)の内堀は、昭和22年(1947)に埋め立てられ、写真右に写る藤並公園が昭和37年(1962)に開設されました。

追手門(重要文化財)外側: 慶長年間創建、寛文4年(1664)に再建されたもので、当城では珍しく大きな石を積んだ石垣で枡形を構成し、内部が見通せないように右側に建てられた城の正面です。
重層で入母屋造り、その木割りは太く堂々とし、襷を用いた主柱や門扉、冠木などには要所に銅製の飾り金具を取付けています。
追手門の両側に繋がる矢狭間塀も国の重要文化財に指定されています。

追手門内側

追手門門扉: 要所に銅製の飾り金具を取付けられています。

石樋: 高知県は全国でも有数の多雨地帯のため、高知城は特に排水には注意が払われています。
下写真の石樋は、排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護しています。このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で、他の城郭では見ることのできない珍しいものです。
石樋は本丸や三ノ丸などを含め現在16ヶ所確認されていますが、下になるほど排水量が多くなるため、写真の石樋が一番大きく造られています。

山内千代の像(杉ノ段):
杉ノ段にはかつて杉の巨木がたくさんあったのでこの名があります。
銅像の山内一豊の妻は、弘治3年(1557)生まれで、通称千代といわれていますが、これを裏づける確かな資料はありません。出身についても通説では近江国(滋賀県)浅井氏の家臣若宮友興の娘とされていますが、近年では美濃国(岐阜県)八幡城主遠藤氏の娘ともいわれています。幼い頃父を失い、17~18歳の頃一豊と結婚、貧しい暮らしの中で家を守り、戦いに明け暮れる一豊の出世を助けた逸話が残されています。中でも結婚の時持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、それが織田信長の目にとまって出世の糸口になった逸話は広く知られています。
また、関ヶ原の戦いの前に、笠の緒によりこめた手紙で関東にいる一豊に大阪方の情報を知らせ、その進路を決定づけさせたことが一豊の土佐一国領主への道を開くことになりました。手芸や文筆にもすぐれ、賢夫人として知られています。この銅像は昭和40年(1965)2月26日に除幕されました。

杉ノ段の井戸: 杉ノ段の二ノ丸へ上る道の南側に残る井戸は、深さ約18mあります。城内には14の井戸があったと言われ、そのうちこの井戸が一番高く水質も良かったので、毎日午前10時、正午・午後4時の3回この井戸水を汲み、藩主の住む二ノ丸御殿に運んだといわれます。このことから「井戸ノ段」とも呼ばれました。
将軍家から下賜された「御鷹之鶴」を迎える際には藩主自らこの井戸段に出向いたといわれます。また、藩主のお国入りや出駕の際には、ここに一族が出迎えや見送りに出向いてきました。
北の部分には塗師部屋があり、また長崎から求めてきた舶来品を入れる長崎蔵がありました。

三ノ丸石垣(写真右)と天守東面: 右の三ノ丸は、慶長6年(1601)の築城開始から10年を要して最後に完成しました。面積は4,641㎡、出隅部分の石垣の高さは約13m。 石垣に使用されている石材は主にチャートですが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、自然石を用いた野面積みによって多くの面が構築されています。また、三ノ丸には、1,815㎡の壮大な御殿が建築されていました。
三ノ丸の石垣は、慶安3年(1650)、宝永4年(1707)に地震や豪雨により崩壊し、修理された記録が見られます。平成12年度の修理では、割れたり、孕んだ石が多く、崩落の危険性が確認されたことから、鉄門付近から東面の花壇前まで実施され、「割れた石」以外は元の石を使用し、原状復旧を基本として実施されました。平成16年には、穴太衆の野面積みの技法を現代に伝える石工が携わって改修工事が実施されました。

鉄門跡(鉄門内側から撮影): 写真の場所には左右の高い石垣をまたいで入母屋造り二階建ての門が設けられていました。ここは二ノ丸や本丸に通じる重要な位置にあたることから、石垣は整然と築かれていて、門扉には多くの鉄板が全体に打ち付けられていたので、鉄門と称されました。小さな枡形を形作る門の内側には番所があって、弓・鉄砲を持った番人と足軽が詰めていました。
門内に入ると右側と正面の石垣の上には矢狭間塀がめぐらされていて、侵入した敵を3方面から攻撃できるようになっていました。左に曲がって石段(写真右の石段)を上ると、矢狭間塀のためにニノ丸方面の道は見えず、むしろ詰門(本丸・二ノ丸間)への石段が連続して見えるので、自然と本丸・二ノ丸間の詰門の方向に導かれるように巧妙に設計されていました。
鉄門は石段の中間から二階に上がれるように設計されており、そのあたりの石には切り出した時の矢穴の跡がそのまま残っているものがみられます。

上方より見た詰門(黒い建物): 右下の木の下に鉄門があります。侵入した敵は木の下の鉄門から直線的に左の黒い詰門に向かってしまいますが、実は二ノ丸(写真上方の曲輪)、次に本丸を目指すには写真上方に向かう石段を登って行く必要があります。
写真左手前には本丸の東多聞、廊下門が見えます。

詰門(重要文化財): 本丸と二ノ丸の間にある空堀に建てられ、それらを繋ぐ櫓門のことで、二階北面は二ノ丸、南面は本丸の廊下門に接続しています。建築年は享和2年(1802)で江戸時代には「橋廊下」とも呼ばれ、上部は廊下橋になっています。
二階が登城した武士の詰所となっていたことから、現在は詰門と称しています。この建物は、上記のような機能を持つことから、全国の城郭建築の中でも特殊な櫓門として知られています。
一階の写真に見えるこちら側、東の出入口は右寄りに設け、裏側西の出入口は中央につけられていて、筋違いとなっています。これは攻め上ってきた敵が容易に通り抜けられないようにという防衛上の配慮によるものです。また、東から一階のこの門を突破しても容易に本丸には行けないようになっています。
一階部分の南寄りは籠城のための塩を貯蔵するようになっていました。中二階部分は窓もなく物置であったと考えられます。二階は二ノ丸から本丸への通路です。また、東面(写真のこちら側)に3カ所、西面(写真の裏側)に5カ所の隠し銃眼(狭間)も設けられています。

二ノ丸入母屋造の廊下橋入口: 写真は二ノ丸から本丸への入口です。
この二ノ丸に建てられていたニノ丸御殿は、政務をとる表御殿と藩主が日常の生活をする奥御殿が連続して建てられており、一部二階建てになっていました。総面積は1,233㎡もありましたが、明治6年(1873) 公園化にともないすべての建物が撤去されました。

廊下橋内部(空堀上にあり、北方向・ニノ丸方向を撮影): 詰門二階部分で廊下橋としての役割も担っていました。この二階部分は、藩主のもとに向かう家老の待合場所で、内部の3室を畳敷きとし、家老・中老・平侍と身分に応じて詰める場所が定められていました。 板の間の東南隅(写真手前側)には非常の場合の階下への抜道が設けられています。

廊下門(重要文化財): 詰門・廊下橋の出口

上方から光景で時計回りに本丸御殿、黒鉄門、西多聞、廊下門

昭和大修理前の左から詰門・廊下門・西多聞と背後の天守古写真

高知城天守西面(重要文化財)と本丸御殿(重要文化財): 本丸は標高44.4m、変形の土地で総面積は約1,580㎡あります。
その中に天守をはじめとして本丸御殿・東西多聞・廊下門・黒鉄門・納戸蔵などが配置され、外回りは銃眼のついた矢狭間でつないでいます。本丸のすべての建造物が完全な形で残されているのは全国12の城郭の中でもこの高知城だけであり、たいへん貴重な遺構で、それらは国指定重要文化財となっています。
本丸の建物は慶長6年(1601)創建、享保12年(1727)火災のため全焼、寛延2年(1749)前後の再建ですが、創建当時の規模をそのまま残しています。
外観四層、内部は三層六階の天守の高さは18.5mで、山内一豊が加増・転封前に居城としていた掛川城(静岡県)を模したといわれます。他の城郭に見られるような天守台はなく、北面の石垣から直接建ち上げる形にしており、入口は本丸御殿に接しています。建坪は168.18㎡、延べ面積499.84㎡です。
最上階外側の四面には高欄のついた回り縁をめぐらし、外に出て展望することができるようになっています。
第三層の寄棟(よせむね)部分は東西に唐破風を置くなど、外観を美しく見せる工夫が各所に施されています。

天守北面: 二階大屋根と最上層にそれぞれ銅製の鯱を置き、大屋根の南北に千鳥破風が設けられています。

二階大屋根の鯱

四階内部破風の間

東多聞外部

東多聞内部: 内部は展示室として使用されています。

本丸御殿(重要文化財): レイアウト図はクリックにより拡大します。本丸御殿の書院造は、寝殿造を母体として発展したもので、室町時代にその形式が生まれ近世に武家の住宅様式として完成しました。それは、大・小両書院を中心に玄関や台所などを配した一連の建物群で、個々の建物(書院)は、畳敷きのいくつかの部屋の集合によって構成されます。特徴として、部屋の外回りの建具に舞良戸・明障子・雨戸が立てられ、内部は間仕切が増えて大小の部屋ができ、間仕切には襖・明障子が用いられます。柱は角柱で壁は張紙が貼られ障壁画などによって装飾されます。また、天井には格天井が用いられます。
書院造は主室の床を一段高くして上段とすることや座敷飾りの位置、装飾などにより、身分と格式の序列を表現しており、武家の権威を象徴する建築様式です。

御茶所: 三ノ間(手前の部屋)に接した非常に狭い空間でした。

二ノ間(手前)と藩主の御座所の上段ノ間(奥)

上段ノ間を横から撮影: 奥の扉は上段ノ間に接する帳台構え(武者隠し)

黒鉄門(重要文化財)本丸内側: 本丸南側を固める裏門で、守りを堅固にするため、扉の外側には、黒漆で塗られた鉄板が打ち付けられています。この様子から、黒鉄門と名付けられたものと考えられています。
二階部分は、武者が隠れることが出来る様になっており、門の外側に石落としが設けられるなど防御性の高い門となっています。

黒鉄門門扉

黒鉄門(重要文化財)本丸外側と黒鉄門東南矢狭間塀(重要文化財)

天守東南矢狭間塀(重要文化財)南東部分

天守東南矢狭間塀(重要文化財)東部分

以上、黒鉄門から本丸を出て鉄門跡まで戻りました。ここで、高知城の見学を終えて、この後は本日の宿へと移動しました。
本日は岡豊(おこう)城と牧野植物園も訪問しましたので、歩行歩数を分けることができませんが、2城と植物園で、15,000歩歩きました。
明日は室戸岬を経由して徳島県まで移動し、徳島市にある一宮城を訪問する予定です。
文責 岡島 敏広
2025年04月12日
2025年3月31日(月)高知県土佐国岡豊城跡訪問(南国市)
個人旅行で3月30日の広島県福山城に引き続き、高知県岡豊(おこう)城を訪問しました。
岡豊城跡は続日本100名城に選定され、No. 180です。
岡豊城跡は長宗我部氏が居城とした山城で、四国の戦国期城郭を代表する遺跡です。長宗我部氏が土佐一国から四国に支配を広げる過程で、織豊体制に組み込まれる変遷が分かるなど、極めて重要な城跡であるということから、平成20年(2008)7月28日国指定史跡となりました。
戦国時代に四国の覇者となった長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、天文8年(1539年)、長宗我部国親(くにちか)の長男として岡豊(おこう)に生まれました。
父の長宗我部国親は、他の戦国群雄が割拠する中、軍事・外交の手腕を発揮し、着実にその支配圏を広げていましたが、永禄3年(1560)、土佐中央部の覇権をかけた本山氏との激戦の最中に突如病死しました。
ただちに元親が家督を相続し、長宗我部家第21代当主となりました。 その後、元親は父の志を継いだ戦で本山氏から朝倉城を奪い、 土佐中央部を手中に収めます。
また、本山氏、安芸氏、津野氏ら他の有力国人を相次いで降伏・滅亡させ、天正3年(1575)、念願の土佐統一を果たしました。
長宗我部元親 高知県立歴史民俗資料館前銅像

長宗我部氏によって岡豊山に岡豊城が築かれた明確な時期は不明ですが、調査の結果では13世紀~14世紀の築城と考えられています。
また、長宗我部氏が岡豊城に拠点を構えた15世紀後半から、永正5~6年(1508~9)に一度落城した時期(長宗我部元秀の頃)を含め、後に再興され、大高坂城に移転する天正16年(1588)頃まで城は存続し機能していたものと考えられています。
岡豊城は、詰、ニノ段、三ノ段、四ノ段を中心とした主郭部(下図 "一")、
伝厩跡曲輪(下図 "三")や伝家老屋敷曲輪(下図 "二")を中心とした2箇所を副郭とする連郭式構造の城郭です。 城の南麓(下記地図上側)は国分川が西流(下図右方向)し、湿地帯が形成され、自然の防御施設となっています。
岡豊城跡散策ルート: 散策は図に矢印を記載したように、高知県立歴史民俗資料館から進みました。
高知県立歴史民俗資料館→①ニノ段→③詰下段→⑥詰→④⑤三ノ段
→⑦⑨四ノ段南部・北部→⑪伝厩跡曲輪→高知県立歴史民俗資料館
岡豊城跡縄張図(縄張図はクリックすると拡大します。): 本日巡った曲輪を縄張図内に示します。図中のオレンジやピンクの太線は竪堀、黄色の太線は土塁を示し、朱書き丸数字は今回訪問時に写真撮影した場所です。
図の上が南、下が北です。(図はクリックすると拡大します。)

①二ノ段: ニノ段は歴史民俗資料館の南側で登山口から最も近く、堀切によって⑥詰・③詰下段からへだてられた下段の曲輪(土塁や堀などで囲まれた城の一区画)です。
長さ45m、最大幅20mのほぼ三角形で、南部には高さ60cmの土塁が30mにわたり残っていました。昭和60年(1985)と昭和63年(1988)に行われた発掘調査により、土塁は幅が約3m、高さが1mであったことがわかりました。写真奥に土塁が見えます。
建物跡などの遺構は発見されませんでしたが、焼土や炭化物を含む土の中からは、瓦や土師質土器、陶磁器など多くの遺物が見つかりました。深いところでは、地下1.8mから遺物が出土したことから、二ノ段は⑥詰などから運ばれた土が盛られて造られ、土塁に囲まれた広い空間は、兵溜まりの場所であったと考えられます。
①二ノ段からの東方向の眺め: ニノ段から見える眺めは、土佐の国の中でも美しく豊かな地域であり、「土佐のまほろば」と言われ、史跡・文化財が数多く残された歴史上重要な一帯です。
ここからは、土佐で最も古い寺院跡の一つとされる比江廃寺跡、土佐国分寺跡、土佐国府跡などを望むことができます。
②堀切・井戸: 堀切は、尾根などを横堀によって断ち切り、敵の侵入を防ぐ施設で、 岡豊城跡のこの堀切は⑥詰と①二ノ段の間の1本、他に北に延びる尾根上(小曲輪の辺り)に2本、伝厩跡曲輪の北西部などに造られています。岡豊城跡の堀切はいずれも幅3~4m、 深さ2m前後あります。
写真では堀切の手前に井戸の一部が見えますが、井戸は堀切のほぼ中央部に掘られており、方形をしています。上部は幅3m、底部は0.8mで、①ニノ段からの深さは4.7mです。岩盤を3.6mほど掘り込んでおり、岩盤の上には、堀切を区切るように北(左のニノ段側)に2段、南(右の詰側)に3段の石積がみられます。井戸の底は、岩盤で湧き水はなく、雨水をためる溜井として使われていたようです。
③詰下段 礎石建物跡: 詰の東の一段低いところにある曲輪を、詰下段と呼んでいます。詰に付随する曲輪で、詰下段は、①二ノ段から詰への出入り口を守るための曲輪であったと考えられています。
ここで礎石の上に柱を建てた礎石建物跡1棟や土塁、段状遺構、土坑が確認され、さらに、④三ノ段への通路と考えられる遺構も確認されました。
写真の礎石建物跡は、2間(5.8m)×5間(9.2m)、面積は約53㎡、東側の土塁(写真左)と西側の詰斜面(写真右)に接して建てられ、建物が詰下段全体を占めています。礎石は、40~60cmの割石が使われ、5間の一辺には半間ごとに礎石が置かれています。
土塁(写真左)はおよそ幅2.5m、高さ1m以上と考えられ、基部には土留めのために2~3段の石積みがあります。
④三ノ段(南部): 三ノ段は詰の南と西を囲む曲輪で、南部(④)は幅5m、西部(⑤)は幅3~8mの帯状となっています。
発掘調査では、西部に礎石建物跡1棟と中央部に詰への通路となる階段跡、土塁の内側に石積が発見されました(下写真⑤)。
⑤三ノ段の詰への通路となる階段(南・西部の中央部): 階段跡は岩盤を削り、両側は野面積の石積となっています。階段跡の北(写真左側)には下の三ノ段(西部)礎石建物跡が接しており、④三ノ段(南部)からの通路はこの階段を通り、⑥詰へと登るようになっています。発掘時からは復元され整えられています。
⑤三ノ段(西部)礎石建物跡(階段跡から撮影): 三ノ段では、西部の北半分に礎石建物跡が1棟発見されました。この建物は、三ノ段の幅いっぱいに建てられています。大きさは南北が9間(16.9m)で、幅は北半部が4間(8.6m)、南半部が3間(6.2m)と2つの部分に分かれています。
建物跡の面積は125㎡と大きく、⑥詰(写真手前側)に接しています。礎石は、50~60cmの割石と非常に大きく、半間おきに置かれています。北半部(写真右側)では礎石間に列石がみられます。建物跡からは、鉄鍋や石臼など生活を知ることのできる遺物が出土しています。
西部の土塁の石積は、径20~30cmの割石が 1m位積まれ、北半部(写真右側)は良好に残っていましたが、南半部(写真左側)はほとんど崩れていました。
⑥詰(南東方向を撮影): 詰は岡豊城跡の中心となる曲輪で、標高97mの岡豊山の頂上部にあります。
1辺40mのほぼ三角形状で、東には①二ノ段、南から西にかけては④⑤三ノ段、⑦⑧⑨四ノ段が詰を取り巻くように造られています。
発掘調査では、石敷(いしじき)遺構(建物の基礎)と礎石建物跡が発見されました。また、地鎮の遺構や溜井(雨水を溜めた井戸)とみられる土坑(穴)、柱穴なども発見されています。
西部(写真右側で写っていません)には、土塁が残されていますが、築城当時は周囲に巡らされていたものと考えられます。出土遺物には、「天正三(年)・・・」(1575)の年号のある瓦をはじめ、土師質土器、陶磁器、銭貨、懸仏などがあります。
⑥詰礎石建物跡(南方向を撮影): 礎石建物跡は詰の西南部で発見されました。この建物跡の南端(写真奥)は、40~60cmの割石を幅1~1.5m、長さ16mに敷いた石敷(いしじき)遺構で、その北側には建物跡の礎石がつづいています。
建物跡は、5間×4間 (10.4m×7.2m) と1間×1間 (1.4m×2.0m)の2棟で、 それぞれの面積は75㎡と3㎡です。これらの2棟は石敷遺構でつながれた東西(写真左右)方向の大きな建物で、石敷遺構は建物の基礎として造られたものです。南側(写真奥)には土壁などの強固な外壁をもっていたとみられます。 詰の建物跡は、その位置や基礎から判断すれば、近世城郭の天守の前身ともみられる 2層以上の建物であったと考えられます。
写真右(西側)に小さな青色陶板の説明板が見えますが、これは地鎮の遺構です。この背後に土塁が見えます。
⑥詰の地鎮の遺構: 地鎮の遺構では、12枚の土師質土器が土坑(穴)に入れられており、 その中に91枚の中国からの渡来銭が納められていました。これらの土師質土器や渡来銭は築城のときに土地の神を鎮める祭りに使われたものと考えられます。
高知県立歴史民俗資料館発行「岡豊城跡」より
⑦四ノ段南部: ④三ノ段南部を囲むように造られた曲輪です。
四ノ段は中央部にある次の⑧虎口によりこの「南部」と⑨の「北部」に二分されています。南部は、南北32m、東西約16mです。南部からは、土塁裾部の割石が確認されましたが、建物跡などは確認されませんでした。
⑦長宗我部氏岡豊城址の碑(裏側): 四ノ段南部に建てられています。
⑧四ノ段虎口(⑨四ノ段北部より撮影): 城の出入り口のことを虎口と呼び、もとは小口と書いていましたが、 後に虎口の字を用いるようになりました。虎口は、敵から攻められないような造りになっています。
特に⑨の四ノ段北部に入るこの虎口は、食い違いの折れをもたせた枡形虎口の構造となっており、防御性が一段と高くなっています。
土佐では、この虎口が岡豊城で初めて取り入れられました。
⑨四ノ段北部: 四ノ段の北部は、方形の曲輪で、約12m×15mの広さです。
発掘調査により北部曲輪からは、土塁、礎石建物跡1棟、土坑1基、粘土盛土遺構1基、集石遺構1基が確認されました。
⑩竪堀(上方・⑦⑧⑨四ノ段方向を撮影): 岡豊城跡にはたくさんの竪堀がありますが、四ノ段から下りて伝厩跡曲輪への移動途中で上方に竪堀が見られましたので撮影しました。
⑪伝厩跡曲輪: この曲輪は、⑥詰の西南に位置する出城で、通称伝厩跡曲輪と呼ばれています。
長軸30m、短軸 17mの楕円形の曲輪で、急な斜面に囲まれ、北西の2重の堀切と南斜面の畝状竪堀群により守りを固めています。
戦いの時には、西方からの攻撃に対し、⑥詰を中心とする本城を守る出城として、重要な位置を占めていたと考えられます。
なお、写真に見える石碑は「岡豊公園征清凱旋碑」で、岡豊出身の兵士が海を渡って戦役で活躍したことをほめたたえる碑です。
⑪伝厩跡曲輪展望台から見える伝厩跡曲輪と東方向の風景
伝厩跡曲輪から見る岡豊山(岡豊城跡主郭): 北東方向に見える岡豊山(⑥詰、④⑤三ノ段及び⑦⑧⑨四ノ段側)です。
以上、これまで巡った縄張の情報に基づいて描かれた岡豊城の想像復元図がありましたので掲載します。
高知県立歴史民俗資料館発行「ふらり散策綴り」より(図はクリックすると拡大します):
この後、岡豊城跡から高知県立歴史民俗資料館へと下山し、本日の次の訪問地の高知城へと移動しました。
文責 岡島 敏広
岡豊城跡は続日本100名城に選定され、No. 180です。
岡豊城跡は長宗我部氏が居城とした山城で、四国の戦国期城郭を代表する遺跡です。長宗我部氏が土佐一国から四国に支配を広げる過程で、織豊体制に組み込まれる変遷が分かるなど、極めて重要な城跡であるということから、平成20年(2008)7月28日国指定史跡となりました。
戦国時代に四国の覇者となった長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、天文8年(1539年)、長宗我部国親(くにちか)の長男として岡豊(おこう)に生まれました。
父の長宗我部国親は、他の戦国群雄が割拠する中、軍事・外交の手腕を発揮し、着実にその支配圏を広げていましたが、永禄3年(1560)、土佐中央部の覇権をかけた本山氏との激戦の最中に突如病死しました。
ただちに元親が家督を相続し、長宗我部家第21代当主となりました。 その後、元親は父の志を継いだ戦で本山氏から朝倉城を奪い、 土佐中央部を手中に収めます。
また、本山氏、安芸氏、津野氏ら他の有力国人を相次いで降伏・滅亡させ、天正3年(1575)、念願の土佐統一を果たしました。
長宗我部元親 高知県立歴史民俗資料館前銅像


長宗我部氏によって岡豊山に岡豊城が築かれた明確な時期は不明ですが、調査の結果では13世紀~14世紀の築城と考えられています。
また、長宗我部氏が岡豊城に拠点を構えた15世紀後半から、永正5~6年(1508~9)に一度落城した時期(長宗我部元秀の頃)を含め、後に再興され、大高坂城に移転する天正16年(1588)頃まで城は存続し機能していたものと考えられています。
岡豊城は、詰、ニノ段、三ノ段、四ノ段を中心とした主郭部(下図 "一")、
伝厩跡曲輪(下図 "三")や伝家老屋敷曲輪(下図 "二")を中心とした2箇所を副郭とする連郭式構造の城郭です。 城の南麓(下記地図上側)は国分川が西流(下図右方向)し、湿地帯が形成され、自然の防御施設となっています。
岡豊城跡散策ルート: 散策は図に矢印を記載したように、高知県立歴史民俗資料館から進みました。
高知県立歴史民俗資料館→①ニノ段→③詰下段→⑥詰→④⑤三ノ段
→⑦⑨四ノ段南部・北部→⑪伝厩跡曲輪→高知県立歴史民俗資料館
岡豊城跡縄張図(縄張図はクリックすると拡大します。): 本日巡った曲輪を縄張図内に示します。図中のオレンジやピンクの太線は竪堀、黄色の太線は土塁を示し、朱書き丸数字は今回訪問時に写真撮影した場所です。
図の上が南、下が北です。(図はクリックすると拡大します。)

①二ノ段: ニノ段は歴史民俗資料館の南側で登山口から最も近く、堀切によって⑥詰・③詰下段からへだてられた下段の曲輪(土塁や堀などで囲まれた城の一区画)です。
長さ45m、最大幅20mのほぼ三角形で、南部には高さ60cmの土塁が30mにわたり残っていました。昭和60年(1985)と昭和63年(1988)に行われた発掘調査により、土塁は幅が約3m、高さが1mであったことがわかりました。写真奥に土塁が見えます。
建物跡などの遺構は発見されませんでしたが、焼土や炭化物を含む土の中からは、瓦や土師質土器、陶磁器など多くの遺物が見つかりました。深いところでは、地下1.8mから遺物が出土したことから、二ノ段は⑥詰などから運ばれた土が盛られて造られ、土塁に囲まれた広い空間は、兵溜まりの場所であったと考えられます。

①二ノ段からの東方向の眺め: ニノ段から見える眺めは、土佐の国の中でも美しく豊かな地域であり、「土佐のまほろば」と言われ、史跡・文化財が数多く残された歴史上重要な一帯です。
ここからは、土佐で最も古い寺院跡の一つとされる比江廃寺跡、土佐国分寺跡、土佐国府跡などを望むことができます。

②堀切・井戸: 堀切は、尾根などを横堀によって断ち切り、敵の侵入を防ぐ施設で、 岡豊城跡のこの堀切は⑥詰と①二ノ段の間の1本、他に北に延びる尾根上(小曲輪の辺り)に2本、伝厩跡曲輪の北西部などに造られています。岡豊城跡の堀切はいずれも幅3~4m、 深さ2m前後あります。
写真では堀切の手前に井戸の一部が見えますが、井戸は堀切のほぼ中央部に掘られており、方形をしています。上部は幅3m、底部は0.8mで、①ニノ段からの深さは4.7mです。岩盤を3.6mほど掘り込んでおり、岩盤の上には、堀切を区切るように北(左のニノ段側)に2段、南(右の詰側)に3段の石積がみられます。井戸の底は、岩盤で湧き水はなく、雨水をためる溜井として使われていたようです。

③詰下段 礎石建物跡: 詰の東の一段低いところにある曲輪を、詰下段と呼んでいます。詰に付随する曲輪で、詰下段は、①二ノ段から詰への出入り口を守るための曲輪であったと考えられています。
ここで礎石の上に柱を建てた礎石建物跡1棟や土塁、段状遺構、土坑が確認され、さらに、④三ノ段への通路と考えられる遺構も確認されました。
写真の礎石建物跡は、2間(5.8m)×5間(9.2m)、面積は約53㎡、東側の土塁(写真左)と西側の詰斜面(写真右)に接して建てられ、建物が詰下段全体を占めています。礎石は、40~60cmの割石が使われ、5間の一辺には半間ごとに礎石が置かれています。
土塁(写真左)はおよそ幅2.5m、高さ1m以上と考えられ、基部には土留めのために2~3段の石積みがあります。

④三ノ段(南部): 三ノ段は詰の南と西を囲む曲輪で、南部(④)は幅5m、西部(⑤)は幅3~8mの帯状となっています。
発掘調査では、西部に礎石建物跡1棟と中央部に詰への通路となる階段跡、土塁の内側に石積が発見されました(下写真⑤)。

⑤三ノ段の詰への通路となる階段(南・西部の中央部): 階段跡は岩盤を削り、両側は野面積の石積となっています。階段跡の北(写真左側)には下の三ノ段(西部)礎石建物跡が接しており、④三ノ段(南部)からの通路はこの階段を通り、⑥詰へと登るようになっています。発掘時からは復元され整えられています。

⑤三ノ段(西部)礎石建物跡(階段跡から撮影): 三ノ段では、西部の北半分に礎石建物跡が1棟発見されました。この建物は、三ノ段の幅いっぱいに建てられています。大きさは南北が9間(16.9m)で、幅は北半部が4間(8.6m)、南半部が3間(6.2m)と2つの部分に分かれています。
建物跡の面積は125㎡と大きく、⑥詰(写真手前側)に接しています。礎石は、50~60cmの割石と非常に大きく、半間おきに置かれています。北半部(写真右側)では礎石間に列石がみられます。建物跡からは、鉄鍋や石臼など生活を知ることのできる遺物が出土しています。
西部の土塁の石積は、径20~30cmの割石が 1m位積まれ、北半部(写真右側)は良好に残っていましたが、南半部(写真左側)はほとんど崩れていました。

⑥詰(南東方向を撮影): 詰は岡豊城跡の中心となる曲輪で、標高97mの岡豊山の頂上部にあります。
1辺40mのほぼ三角形状で、東には①二ノ段、南から西にかけては④⑤三ノ段、⑦⑧⑨四ノ段が詰を取り巻くように造られています。
発掘調査では、石敷(いしじき)遺構(建物の基礎)と礎石建物跡が発見されました。また、地鎮の遺構や溜井(雨水を溜めた井戸)とみられる土坑(穴)、柱穴なども発見されています。
西部(写真右側で写っていません)には、土塁が残されていますが、築城当時は周囲に巡らされていたものと考えられます。出土遺物には、「天正三(年)・・・」(1575)の年号のある瓦をはじめ、土師質土器、陶磁器、銭貨、懸仏などがあります。

⑥詰礎石建物跡(南方向を撮影): 礎石建物跡は詰の西南部で発見されました。この建物跡の南端(写真奥)は、40~60cmの割石を幅1~1.5m、長さ16mに敷いた石敷(いしじき)遺構で、その北側には建物跡の礎石がつづいています。
建物跡は、5間×4間 (10.4m×7.2m) と1間×1間 (1.4m×2.0m)の2棟で、 それぞれの面積は75㎡と3㎡です。これらの2棟は石敷遺構でつながれた東西(写真左右)方向の大きな建物で、石敷遺構は建物の基礎として造られたものです。南側(写真奥)には土壁などの強固な外壁をもっていたとみられます。 詰の建物跡は、その位置や基礎から判断すれば、近世城郭の天守の前身ともみられる 2層以上の建物であったと考えられます。
写真右(西側)に小さな青色陶板の説明板が見えますが、これは地鎮の遺構です。この背後に土塁が見えます。

⑥詰の地鎮の遺構: 地鎮の遺構では、12枚の土師質土器が土坑(穴)に入れられており、 その中に91枚の中国からの渡来銭が納められていました。これらの土師質土器や渡来銭は築城のときに土地の神を鎮める祭りに使われたものと考えられます。
高知県立歴史民俗資料館発行「岡豊城跡」より

⑦四ノ段南部: ④三ノ段南部を囲むように造られた曲輪です。
四ノ段は中央部にある次の⑧虎口によりこの「南部」と⑨の「北部」に二分されています。南部は、南北32m、東西約16mです。南部からは、土塁裾部の割石が確認されましたが、建物跡などは確認されませんでした。

⑦長宗我部氏岡豊城址の碑(裏側): 四ノ段南部に建てられています。

⑧四ノ段虎口(⑨四ノ段北部より撮影): 城の出入り口のことを虎口と呼び、もとは小口と書いていましたが、 後に虎口の字を用いるようになりました。虎口は、敵から攻められないような造りになっています。
特に⑨の四ノ段北部に入るこの虎口は、食い違いの折れをもたせた枡形虎口の構造となっており、防御性が一段と高くなっています。
土佐では、この虎口が岡豊城で初めて取り入れられました。

⑨四ノ段北部: 四ノ段の北部は、方形の曲輪で、約12m×15mの広さです。
発掘調査により北部曲輪からは、土塁、礎石建物跡1棟、土坑1基、粘土盛土遺構1基、集石遺構1基が確認されました。

⑩竪堀(上方・⑦⑧⑨四ノ段方向を撮影): 岡豊城跡にはたくさんの竪堀がありますが、四ノ段から下りて伝厩跡曲輪への移動途中で上方に竪堀が見られましたので撮影しました。

⑪伝厩跡曲輪: この曲輪は、⑥詰の西南に位置する出城で、通称伝厩跡曲輪と呼ばれています。
長軸30m、短軸 17mの楕円形の曲輪で、急な斜面に囲まれ、北西の2重の堀切と南斜面の畝状竪堀群により守りを固めています。
戦いの時には、西方からの攻撃に対し、⑥詰を中心とする本城を守る出城として、重要な位置を占めていたと考えられます。
なお、写真に見える石碑は「岡豊公園征清凱旋碑」で、岡豊出身の兵士が海を渡って戦役で活躍したことをほめたたえる碑です。

⑪伝厩跡曲輪展望台から見える伝厩跡曲輪と東方向の風景

伝厩跡曲輪から見る岡豊山(岡豊城跡主郭): 北東方向に見える岡豊山(⑥詰、④⑤三ノ段及び⑦⑧⑨四ノ段側)です。

以上、これまで巡った縄張の情報に基づいて描かれた岡豊城の想像復元図がありましたので掲載します。
高知県立歴史民俗資料館発行「ふらり散策綴り」より(図はクリックすると拡大します):

この後、岡豊城跡から高知県立歴史民俗資料館へと下山し、本日の次の訪問地の高知城へと移動しました。
文責 岡島 敏広
2025年04月09日
2025年3月30日(日)広島県備後国福山城訪問(福山市)
個人旅行で龍野城に引き続き、令和4年(2022)8月28日に「令和の大普請」によってリニューアルされたという広島県福山市福山城を訪問しました。
福山城は日本100名城に選定され、No. 71です。
幕府は元和5年(1619)8月に、毛利、浅野、池田などの西国の外様大名を押さえるために、広島城の無断修理で減転封した福島正則に代えて、徳川家康の従兄弟水野勝成を備後10万石の領主として大和郡山城より転封しました。
水野勝成は、安土桃山時代から江戸時代前期に活躍した戦国武将です。備後国福山藩(現在の広島県福山市)の初代藩主であり、幕末の館林藩士・岡谷繁実が作成した「名将言行録」には、誰にも止められない暴馬という意味を持つ「倫魁不羈(りんかいふき)」と記されています。
そして、山陽道と瀬戸内海の海路に睨みを利かせるため福山城を築城させました。
福山城は西国鎮衛として幕府の威厳を示すため、10万石では考えられない規模の巨城で、慶長20年(1615)の一国一城令発布後の元和8年(1622)に竣工し、新規築城による大規模な近世城郭では最後の例となりました。
なお、歴代の福山城城主には幕末の黒船来航時、老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した阿部正弘もおります。
正保城絵図備後国福山城図の一部の改変図(1644): 詳細な城の説明図や福山城の古写真はこちらから見ることができます。
なお、この絵図は1644年のもので、現在見られる福山城は明治の廃城時の姿と思われることから、鐘櫓や御湯殿のように訪問して見られる現在の建物とは異なるところがあります。
福山城古写真(大正時代): 明治の廃城時に近い姿と思われます。
入口から見てゆきます。
筋鉄(すじがね)御門(国重要文化財)表側: 筋鉄御門は本丸へ入る正門で築城当時の姿を今に残す国の重要文化財です。
柱の角に鉄と扉に筋鉄を打ちつけていることから、その名が生まれました。門柱や梁には硬くて太く丈夫なケヤキが用いられ、脇戸を設け、門扉には十数条の筋鉄が打ちつけられています。外観は伏見櫓と同様に柱形や長押(なげし)を漆喰で塗り出し、方杖(ほうづえ)は無く、窓は素木(しらき)です。狭間は設けていませんが、窓の格子を三角形にすることで射撃の効率を図っています。屋根瓦には水野家の家紋である「立ち沢瀉」が使用されています。
明治6年(1873)の廃城令での取り壊しを免れ、昭和8年(1933)に伏見櫓と御湯殿とともに旧国宝に指定されました。さらに、伏見櫓や鐘櫓とともに昭和20年(1945)8月8日の福山空襲を免れ、国の重要文化財となって昭和26年(1951)から解体修理が行われました。その際に、多くの材が交換されてはいますが、当初材を多く残しており、これらは別の建物から再利用された転用材が含まれることが分かりました。転用の柱は、西面南側窓に外部からも確認できます。
筋鉄御門内側
天守から見た伏見櫓、筋鉄御門と鐘櫓
伏見櫓(国重要文化財)西面(二之丸より撮影): 伏見城松の丸にあったものを福山城に移建した痕跡が残る全国に例のない貴重な建物です。武具庫として使用されていたといわれ、内部には敵の侵入を阻む防御システムも完備されています。3重3階構造で、1階と2階の幅が同じで、その上に小さな3階をのせた望楼型で、国の重要文化財に指定されています。
伏見櫓南東面
伏見櫓北面
鐘櫓(市重要文化財)北西面(二之丸より撮影): 本丸西側に位置し、はじめは鐘を吊り太鼓を懸け、時の鐘と半時(1時間)の太鼓を打っていたといわれます。石見国(島根県西部) 大森銀山の応急監督を命ぜられ、人数をくりだす必要があったためといわれます。
福山城を描く最古の絵図である「正保城絵図」には描かれていないものの、水野家時代後期の絵図では「釣鐘」と書いているのが確認出来ます。阿部家時代の絵図(元文年間絵図)では、 上階の屋根を檜皮葺か柿葺で描いています。
城内に独立した鐘楼を設ける例はいくつかありますが、多聞櫓(阿部家藩主時代の名称: 渡櫓)の動線上に設けられた櫓としては全国でも珍しいものです。写真手前西側の棟は火灯(かとう)櫓(阿部家藩主時代の名称: 內九番二重御櫓)へ続く多聞櫓の一部です。
江戸時代には太鼓も常備されており、半時(約1時間)の太鼓を打ったと「福山領分語伝記」 は書き、「佐原家文書」では「鐘太鼓櫓」とも書いています。
明治6年(1873)の廃城令では取り壊されず残され、昭和20年(1945)8月8日福山空襲にも焼失を免れました。
内部は時鐘番(鍾搗き番)の住居として改変されていました。その後、荒廃が進み昭和54年(1979)に修理され、銅板葺きに改められて福山市の重要文化財に指定されました。鐘は、儒者山室如斎(やまむろじょさい)、菅茶山の銘を刻んだものもありましたが現在は無銘です。現在、鐘搗きは自動化され1日に午前6時・正午・午後6時・午後10時の4回時を告げています。
鐘櫓東面
御湯殿内側: 御湯殿は、本丸南側中央に位置し、本丸(伏見)御殿の一部です。
近世地誌である「備陽六郡志」をはじめ多くの史料に、伏見城からの移築であると記された「伏見城から移建された」と伝わる建造物で、国宝に指定されていました。
建物は物見部分と風呂屋部分に分かれ、物見部分は全国の城郭でも珍しい石垣から張り出した「懸造」となっていて、福山城の南からの景観を特徴づけています。その上段からは城下が一望できました。「懸造」は石垣の上に張り出した建築方法で、福山城以外では仙台城にしかない珍しいものです。また、風呂屋部分は蒸し風呂でしたが、明治以降は料亭として使用されたために内部は改変され詳細な記録は残っていません。全国的に見ても風呂屋の遺構は極めて少ないものです。
明治6年(1873)の廃城令による取り壊しを免れ、以降「清風楼」という名の料亭となりました。天守に続いて昭和8年(1933)には伏見櫓や筋鉄御門とともに旧国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)8月8日の福山空襲により焼失し、昭和41年(1966)に天守や月見櫓とともに再建されました。
資料不足のため細部に違いはあるものの、当時の雰囲気をよく再現しています。
天守から見た月見櫓と鏡櫓
月見櫓: 月見櫓は福山城本丸南東隅に位置する二重櫓であり、その北側(写真左側)には付櫓を備えています。多くの文献に伏見櫓と同じく京都伏見城から移築されたと書かれ、近世地誌である「備陽六郡志」には、 伏見城から移築された櫓には「戸柱などに松の丸との書付があった」と記されています。
明治初期に撮影された古写真によると、1階の壁は伏見櫓などとは異なり、柱形(はしらがた)や長押(なげし)を塗り出さない大壁造です。南面に石落としがあり、古い建築様式をもっています。1階屋根には壮大な唐破風が据えられています。2階は天守最上階と同じく壁を設けず、南面と西面には高欄付の縁を巡らせた優美な姿でした。
水野家時代の絵図にも「月見櫓」と書かれ、その名のとおり月見を目的とした櫓ですが、追手側(南)も南西の町人屋敷の広がる入江方面も展望出来る東南隅に築かれ、藩主の到着を見極める役割を持つ「着見櫓」のことであるとも言われています。
明治6年(1873)の廃城後もしばらく残されていましたが、その後取り壊され明治21年(1888)に「葦陽館」と呼ばれる貸席が建てられました。昭和20年(1945)8月8日の福山空襲で葦陽館は焼失し、昭和41年(1966)には天守や御湯殿とともに再建されました。令和の大普請で外観・内装等が改修されました。
鏡櫓: 本丸東の中央に位置する鏡櫓は、他からの移築の伝承はなく、築城時の新築と考えられます。
古写真を見ると、1階東側の屋根には小さな破風を設け、屋根の収まりが極めて特徴的な外観です。明治6年(1873)の廃城令で取り壊され、その跡地は遥拝所となりましたが、昭和48年(1973)に福山市名誉市民・村上銀一の寄付により再建されました。現在は文書館として1974年4月2日に開館し、福山藩関連文書の展示公開・収蔵をしています。
天守南面(南東から)と石垣: 石垣の積み方には、自然の石をそのまま積み上げた「野面積」、少し表面を加工した「打込接」、完全に石を加工した「切込接」の3つに分類されます。福山城の多くは石の角を加工し、すき間を少なくした「打込接」です。
本丸、二之丸の石垣のほとんどは、往時のまま残されており、南側からは三之丸の石垣を含め、「一二三段」と呼ばれる平山城特有の見事な城郭でした。
天守南面正面から: 現在は最上階に廻縁(まわりえん)が露出状態でありますが、古写真ではそれが開閉できる板張りの壁で覆われていたように見えます。
天守西面
天守東面
天守北面: 北側壁面は5階除く1階から4階までの全面が、全国でも唯一で極めて特殊な総鉄板張りとなっています。他に類例がありません。その目的は、風雨への備えであるとともに、天守の位置が本丸の北側に寄っているため、外部から直接天守が攻撃されることへの備えでした。
鉄板は縦130cm、横11.4cmを基本とする細長い板を横に並べ、上下に重ねる「羽重ね」でした。令和の大普請においては、残された古写真や他城の鉄板の調査、当時の鉄板との比較検証などが行われ、特殊な塗装を施して往時の質感・素材感などを再現しました。鉄板の素材は安全性・再現性に配慮して、JFEスチール(東京)から寄贈された約2千枚の亜鉛メッキ鋼板「ガルバリウム鋼板」を使用し、往時の姿の復元的整備が行われました。
オリジナル天守北面 明治初期 大普請前の再建天守北面

天守礎石: 空襲により焼失した福山城の旧天守は、城郭建築の集大成といえる建物でした。天守の中心を支える心柱と、身舎(もや)を形作る柱は、地階から最上階までほぼ位置を変えずに立ち、これらを太い梁でつなぐことで、構造的に安定した強固なつくりとなっていました。
その天守の柱を支えていた礎石が、天守焼失後も天守台穴蔵の中に残されており、昭和41年(1966)の鉄筋コンクリートでの再建にあたって、天守北側の写真の地に、同じ配置のまま180度向きを変えて移設され、現在に至っています。
心柱と身舎柱を支えていた19個の礎石は、正方形に近い形状で、上面を平らに整え、地上に40cmほどが露出するように据えられていました。また、身舎を囲む廊下の25個の礎石は一回り小さく、上面が平らに整えられています。
これらは天守の姿を知るうえで、重要な遺構です。
天守西面と旧内藤家長屋門古写真(昭和初期撮影の長屋門移築前): 福山城の見学を終え、駐車場に戻る途中、天守西のふくやま美術館近くの人気のない所に旧内藤家長屋門がありました。下はその説明にある古写真です。再建天守や再建櫓よりは価値のある建物かと思いますので、写真撮影しました。
旧内藤家長屋門: この長屋門は福山城の西外堀北側に面した位置にあった武家屋敷・内藤家の長屋門で、福山城の片隅に残されていました。
内藤家は、阿部家が宝永7年(1710) 福山藩主に封じられた際に隋従し、以後明治4年(1871)の廃藩まで家臣として仕えました。
平屋建てで東西に長く、東西に袖塀が付いています。中央に引き戸があり、東西に畳敷きの居室を設けています。東(写真右)側は内藤家で働く人が居住する部屋で、4畳半と3畳の2部屋に分かれ、西(写真左)側には土間と、客を連れてきた人に休憩してもらう6畳部屋が作られています。いずれの部屋も入口は北側で、南側上方には武者窓が3か所開かれ、白壁と腰下板張りとともに、外観の美しさを形成しています。
昭和50年(1975)、福山市重要文化財に指定され、翌年に解体修理が行われました。その後、現在の位置に移築されました。その際、「弘化三年」 (1846)の墨書が発見され。 江戸時代後期の建築であることが明らかになりました。
昭和20年(1945)の戦災で城下町の風情を喪失した福山にあって、藩政時代を偲ぶにふさわしい貴重な建造物となっています。
以上、福山城の見学を終えて、この後は本日の宿へと移動しました。
本日は龍野城も訪問しましたので、歩行歩数を分けることができませんが、2城で、9,300歩歩きました。
明日は高知県まで移動し、南国市にある岡豊城を訪問する予定です。
文責 岡島 敏広
福山城は日本100名城に選定され、No. 71です。
幕府は元和5年(1619)8月に、毛利、浅野、池田などの西国の外様大名を押さえるために、広島城の無断修理で減転封した福島正則に代えて、徳川家康の従兄弟水野勝成を備後10万石の領主として大和郡山城より転封しました。
水野勝成は、安土桃山時代から江戸時代前期に活躍した戦国武将です。備後国福山藩(現在の広島県福山市)の初代藩主であり、幕末の館林藩士・岡谷繁実が作成した「名将言行録」には、誰にも止められない暴馬という意味を持つ「倫魁不羈(りんかいふき)」と記されています。

そして、山陽道と瀬戸内海の海路に睨みを利かせるため福山城を築城させました。
福山城は西国鎮衛として幕府の威厳を示すため、10万石では考えられない規模の巨城で、慶長20年(1615)の一国一城令発布後の元和8年(1622)に竣工し、新規築城による大規模な近世城郭では最後の例となりました。
なお、歴代の福山城城主には幕末の黒船来航時、老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した阿部正弘もおります。
正保城絵図備後国福山城図の一部の改変図(1644): 詳細な城の説明図や福山城の古写真はこちらから見ることができます。
なお、この絵図は1644年のもので、現在見られる福山城は明治の廃城時の姿と思われることから、鐘櫓や御湯殿のように訪問して見られる現在の建物とは異なるところがあります。

福山城古写真(大正時代): 明治の廃城時に近い姿と思われます。

入口から見てゆきます。
筋鉄(すじがね)御門(国重要文化財)表側: 筋鉄御門は本丸へ入る正門で築城当時の姿を今に残す国の重要文化財です。
柱の角に鉄と扉に筋鉄を打ちつけていることから、その名が生まれました。門柱や梁には硬くて太く丈夫なケヤキが用いられ、脇戸を設け、門扉には十数条の筋鉄が打ちつけられています。外観は伏見櫓と同様に柱形や長押(なげし)を漆喰で塗り出し、方杖(ほうづえ)は無く、窓は素木(しらき)です。狭間は設けていませんが、窓の格子を三角形にすることで射撃の効率を図っています。屋根瓦には水野家の家紋である「立ち沢瀉」が使用されています。
明治6年(1873)の廃城令での取り壊しを免れ、昭和8年(1933)に伏見櫓と御湯殿とともに旧国宝に指定されました。さらに、伏見櫓や鐘櫓とともに昭和20年(1945)8月8日の福山空襲を免れ、国の重要文化財となって昭和26年(1951)から解体修理が行われました。その際に、多くの材が交換されてはいますが、当初材を多く残しており、これらは別の建物から再利用された転用材が含まれることが分かりました。転用の柱は、西面南側窓に外部からも確認できます。

筋鉄御門内側

天守から見た伏見櫓、筋鉄御門と鐘櫓

伏見櫓(国重要文化財)西面(二之丸より撮影): 伏見城松の丸にあったものを福山城に移建した痕跡が残る全国に例のない貴重な建物です。武具庫として使用されていたといわれ、内部には敵の侵入を阻む防御システムも完備されています。3重3階構造で、1階と2階の幅が同じで、その上に小さな3階をのせた望楼型で、国の重要文化財に指定されています。

伏見櫓南東面

伏見櫓北面

鐘櫓(市重要文化財)北西面(二之丸より撮影): 本丸西側に位置し、はじめは鐘を吊り太鼓を懸け、時の鐘と半時(1時間)の太鼓を打っていたといわれます。石見国(島根県西部) 大森銀山の応急監督を命ぜられ、人数をくりだす必要があったためといわれます。
福山城を描く最古の絵図である「正保城絵図」には描かれていないものの、水野家時代後期の絵図では「釣鐘」と書いているのが確認出来ます。阿部家時代の絵図(元文年間絵図)では、 上階の屋根を檜皮葺か柿葺で描いています。
城内に独立した鐘楼を設ける例はいくつかありますが、多聞櫓(阿部家藩主時代の名称: 渡櫓)の動線上に設けられた櫓としては全国でも珍しいものです。写真手前西側の棟は火灯(かとう)櫓(阿部家藩主時代の名称: 內九番二重御櫓)へ続く多聞櫓の一部です。
江戸時代には太鼓も常備されており、半時(約1時間)の太鼓を打ったと「福山領分語伝記」 は書き、「佐原家文書」では「鐘太鼓櫓」とも書いています。
明治6年(1873)の廃城令では取り壊されず残され、昭和20年(1945)8月8日福山空襲にも焼失を免れました。
内部は時鐘番(鍾搗き番)の住居として改変されていました。その後、荒廃が進み昭和54年(1979)に修理され、銅板葺きに改められて福山市の重要文化財に指定されました。鐘は、儒者山室如斎(やまむろじょさい)、菅茶山の銘を刻んだものもありましたが現在は無銘です。現在、鐘搗きは自動化され1日に午前6時・正午・午後6時・午後10時の4回時を告げています。

鐘櫓東面

御湯殿内側: 御湯殿は、本丸南側中央に位置し、本丸(伏見)御殿の一部です。
近世地誌である「備陽六郡志」をはじめ多くの史料に、伏見城からの移築であると記された「伏見城から移建された」と伝わる建造物で、国宝に指定されていました。
建物は物見部分と風呂屋部分に分かれ、物見部分は全国の城郭でも珍しい石垣から張り出した「懸造」となっていて、福山城の南からの景観を特徴づけています。その上段からは城下が一望できました。「懸造」は石垣の上に張り出した建築方法で、福山城以外では仙台城にしかない珍しいものです。また、風呂屋部分は蒸し風呂でしたが、明治以降は料亭として使用されたために内部は改変され詳細な記録は残っていません。全国的に見ても風呂屋の遺構は極めて少ないものです。
明治6年(1873)の廃城令による取り壊しを免れ、以降「清風楼」という名の料亭となりました。天守に続いて昭和8年(1933)には伏見櫓や筋鉄御門とともに旧国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)8月8日の福山空襲により焼失し、昭和41年(1966)に天守や月見櫓とともに再建されました。
資料不足のため細部に違いはあるものの、当時の雰囲気をよく再現しています。

天守から見た月見櫓と鏡櫓

月見櫓: 月見櫓は福山城本丸南東隅に位置する二重櫓であり、その北側(写真左側)には付櫓を備えています。多くの文献に伏見櫓と同じく京都伏見城から移築されたと書かれ、近世地誌である「備陽六郡志」には、 伏見城から移築された櫓には「戸柱などに松の丸との書付があった」と記されています。
明治初期に撮影された古写真によると、1階の壁は伏見櫓などとは異なり、柱形(はしらがた)や長押(なげし)を塗り出さない大壁造です。南面に石落としがあり、古い建築様式をもっています。1階屋根には壮大な唐破風が据えられています。2階は天守最上階と同じく壁を設けず、南面と西面には高欄付の縁を巡らせた優美な姿でした。
水野家時代の絵図にも「月見櫓」と書かれ、その名のとおり月見を目的とした櫓ですが、追手側(南)も南西の町人屋敷の広がる入江方面も展望出来る東南隅に築かれ、藩主の到着を見極める役割を持つ「着見櫓」のことであるとも言われています。
明治6年(1873)の廃城後もしばらく残されていましたが、その後取り壊され明治21年(1888)に「葦陽館」と呼ばれる貸席が建てられました。昭和20年(1945)8月8日の福山空襲で葦陽館は焼失し、昭和41年(1966)には天守や御湯殿とともに再建されました。令和の大普請で外観・内装等が改修されました。

鏡櫓: 本丸東の中央に位置する鏡櫓は、他からの移築の伝承はなく、築城時の新築と考えられます。
古写真を見ると、1階東側の屋根には小さな破風を設け、屋根の収まりが極めて特徴的な外観です。明治6年(1873)の廃城令で取り壊され、その跡地は遥拝所となりましたが、昭和48年(1973)に福山市名誉市民・村上銀一の寄付により再建されました。現在は文書館として1974年4月2日に開館し、福山藩関連文書の展示公開・収蔵をしています。

天守南面(南東から)と石垣: 石垣の積み方には、自然の石をそのまま積み上げた「野面積」、少し表面を加工した「打込接」、完全に石を加工した「切込接」の3つに分類されます。福山城の多くは石の角を加工し、すき間を少なくした「打込接」です。
本丸、二之丸の石垣のほとんどは、往時のまま残されており、南側からは三之丸の石垣を含め、「一二三段」と呼ばれる平山城特有の見事な城郭でした。

天守南面正面から: 現在は最上階に廻縁(まわりえん)が露出状態でありますが、古写真ではそれが開閉できる板張りの壁で覆われていたように見えます。

天守西面

天守東面

天守北面: 北側壁面は5階除く1階から4階までの全面が、全国でも唯一で極めて特殊な総鉄板張りとなっています。他に類例がありません。その目的は、風雨への備えであるとともに、天守の位置が本丸の北側に寄っているため、外部から直接天守が攻撃されることへの備えでした。
鉄板は縦130cm、横11.4cmを基本とする細長い板を横に並べ、上下に重ねる「羽重ね」でした。令和の大普請においては、残された古写真や他城の鉄板の調査、当時の鉄板との比較検証などが行われ、特殊な塗装を施して往時の質感・素材感などを再現しました。鉄板の素材は安全性・再現性に配慮して、JFEスチール(東京)から寄贈された約2千枚の亜鉛メッキ鋼板「ガルバリウム鋼板」を使用し、往時の姿の復元的整備が行われました。

オリジナル天守北面 明治初期 大普請前の再建天守北面


天守礎石: 空襲により焼失した福山城の旧天守は、城郭建築の集大成といえる建物でした。天守の中心を支える心柱と、身舎(もや)を形作る柱は、地階から最上階までほぼ位置を変えずに立ち、これらを太い梁でつなぐことで、構造的に安定した強固なつくりとなっていました。
その天守の柱を支えていた礎石が、天守焼失後も天守台穴蔵の中に残されており、昭和41年(1966)の鉄筋コンクリートでの再建にあたって、天守北側の写真の地に、同じ配置のまま180度向きを変えて移設され、現在に至っています。
心柱と身舎柱を支えていた19個の礎石は、正方形に近い形状で、上面を平らに整え、地上に40cmほどが露出するように据えられていました。また、身舎を囲む廊下の25個の礎石は一回り小さく、上面が平らに整えられています。
これらは天守の姿を知るうえで、重要な遺構です。

天守西面と旧内藤家長屋門古写真(昭和初期撮影の長屋門移築前): 福山城の見学を終え、駐車場に戻る途中、天守西のふくやま美術館近くの人気のない所に旧内藤家長屋門がありました。下はその説明にある古写真です。再建天守や再建櫓よりは価値のある建物かと思いますので、写真撮影しました。

旧内藤家長屋門: この長屋門は福山城の西外堀北側に面した位置にあった武家屋敷・内藤家の長屋門で、福山城の片隅に残されていました。
内藤家は、阿部家が宝永7年(1710) 福山藩主に封じられた際に隋従し、以後明治4年(1871)の廃藩まで家臣として仕えました。
平屋建てで東西に長く、東西に袖塀が付いています。中央に引き戸があり、東西に畳敷きの居室を設けています。東(写真右)側は内藤家で働く人が居住する部屋で、4畳半と3畳の2部屋に分かれ、西(写真左)側には土間と、客を連れてきた人に休憩してもらう6畳部屋が作られています。いずれの部屋も入口は北側で、南側上方には武者窓が3か所開かれ、白壁と腰下板張りとともに、外観の美しさを形成しています。
昭和50年(1975)、福山市重要文化財に指定され、翌年に解体修理が行われました。その後、現在の位置に移築されました。その際、「弘化三年」 (1846)の墨書が発見され。 江戸時代後期の建築であることが明らかになりました。
昭和20年(1945)の戦災で城下町の風情を喪失した福山にあって、藩政時代を偲ぶにふさわしい貴重な建造物となっています。

以上、福山城の見学を終えて、この後は本日の宿へと移動しました。
本日は龍野城も訪問しましたので、歩行歩数を分けることができませんが、2城で、9,300歩歩きました。
明日は高知県まで移動し、南国市にある岡豊城を訪問する予定です。
文責 岡島 敏広
2025年04月07日
2025年3月30日(日)兵庫県播磨国龍野城訪問(たつの市)
個人旅行で、兵庫県たつの市龍野城を訪問しました。
龍野城の歴史は中世赤松氏が城主であった鶏籠山(けいろうさん)城に始まり、蜂須賀氏をはじめとする羽柴秀吉子飼いの武将たち、関ヶ原合戦後には、池田輝政の家老、本多氏、小笠原氏、岡部氏、京極氏と歴戦の大名が入城しました。
なお、山城のある鶏籠山の名前はその形が鶏の伏せ籠に似ていることに由来します。
赤松氏の後も山城(鶏籠山城)が利用されていましたが、山上から今回訪問した麓に城が移動したのは、元和3年(1617)に本多政朝(まさとも)が入城した際に麓で新たな城(龍野城)が築かれたと考えられます(龍野城物語 たつの市立龍野歴史文化資料館編 2011)。
本多政朝
しかし、万治元年(1658)に京極高和の丸亀移転の際に龍野城は破却されました。
寛文12年(1672)に信濃飯田から脇坂安政が藩主になると城も再建され、現在見られる山麓居館部のみの陣屋形式の城郭に改修されました。また、この際、山頂の鶏籠山城は放棄されました。
その後、幕末まで脇坂氏が藩主を務め、維新後は明治4年(1871)に廃城となり、建物は競売により取り壊され、大手門(浄栄寺に移築)から冠木門(かぶきもん、かぶらぎもん)(因念寺に移築)に至る中間部に裁判所が立てられました。外堀も一部を残して埋め立てられました。明治末に城内に旧制龍野高等女学校が置かれた時、新たに進入道路が新設されるなど縄張は絵図から大きく変更されています。
昭和50年(1975)より5年間に城は整備され、城壁、埋門、多聞櫓や本丸御殿などが「再建」されていき、現在の本丸御殿は昭和54年(1979)に「再建」されたものです。しかし、二重隅櫓(絵図にない模擬櫓)は後に建築されたものです。なお、「再建」に当たっては、現在残る絵図を参考にして、すべて木造、土壁で建てられています。
また、城下町は令和元年(2019)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。龍野城と城下町の情報
城主がたびたび変更となっていることから、残された複数の城郭絵図を見比べると、以下の絵図のように年代により縄張や普請も変更されています(龍野城物語 たつの市立龍野歴史文化資料館編 2011)。
播州立野城図 江戸初期 正保-明暦(1640-50)頃: 京極高和の頃 (図はクリックにより拡大します)
播州竜野城図 江戸中期-末期: リンクによりこの頃の絵図を見ることができます。
龍野城郭之図 明治4年(1871): 龍野藩10代(最後)の藩主 脇坂 安斐(やすあや)の頃 (図はクリックにより拡大します)
多聞櫓: 龍野城は山麓に築かれた城で、二段構築の本丸の東南に二の丸を配した梯郭式(ていかくしき)の造りで、写真は二の丸にある龍野歴史文化資料館前の「再建」多聞櫓です。この後に撮影した建物は、二重隅櫓を除き、いずれも再建されたものになります。
「埋門(うずみもん)」外側: 絵図に基づき再建された櫓門で、東(右)側に「続櫓」が付随して横矢を掛けられるようにした門です。
「埋門」内側
本丸御殿: 昭和54年(1979)に再建された御殿です。
本丸御殿玄関: 御殿の玄関は、賤ヶ岳の七本槍の一人で藩祖脇坂安治が建立した京都妙心寺隣華院の大玄関を参考にしたと言われています。
本丸御殿内中庭: 枯山水の中庭がありました。
本丸御殿内上段の間: 御殿の間取りが絵図にないので、推定により作られたものと思われますが、現在の御殿の北西隅にある藩主の間です。
鶏籠山古城への登山口: 次の裏門の手前には龍野城の前身である山城「鶏籠山城」の登城口があります。今回は訪問しませんでした。
高麗門形式の裏門(再建): 本丸西側の搦手、外からは「錣(しころ)坂」を登り切った所にあります。
二重隅櫓東面: 東側(正面)だけ「入母屋造り」になった変則的な造りです。次の北面と比較ください。
二重隅櫓北面: 東側(左側)だけ「入母屋造り」になった変則的な造りで、次に示す表の顔とは違う姿を見せます。
二重隅櫓北面を城外から見ました。「裏門」を出て歩いている道は「錣(しころ)坂」で、坂を下った所に搦手門である「錣坂門」がありました。その錣坂門は、兵庫県揖保郡太子町の蓮光寺に山門として移築され現存しています。
さらに真っ直ぐ進むと右手に薬医門形式の「家老門」が屋内運動場(体育館)の門として建っております。その場所は宝暦2年(1752)の絵図では「新御屋敷」、寛政10年(1798)の絵図では「脇坂久五郎」邸でした。
二重隅櫓南(右)面と西(左)面: 敷地の南西端には美しくて龍野城のシンボル的写真としてよく用いられますが、実際には存在しなかった模擬「二重隅櫓」が建てられています。こちら側には唐破風が2箇所あります。
龍野城訪問後は、武家屋敷資料館やうすくち龍野醤油資料館(下記)を訪問しました。
うすくち龍野醤油資料館: ヒガシマル醤油の展示施設で、ヒガシマルの社名・商標は、明治維新の折、前身である淺井醤油に対して、龍野藩(播磨国)から払い下げられた直営醤油醸造所「物産蔵」が、揖保川の東側に蔵があり「東蔵」と呼ばれたことに由来しています。
加えて、太陽が東から昇るように、「社運が旭日昇天の勢いなれかし」の願いも込めて定められたものとなっています。
これまで見てきたたつの市の伝統的風景の維持に対し、ヒガシマル醤油(株)の貢献が大きいようです。
資料館内部の醤油仕込蔵
龍野城・資料館訪問後は、本日の次の訪問地の福山城へと移動しました。
文責 岡島 敏広
龍野城の歴史は中世赤松氏が城主であった鶏籠山(けいろうさん)城に始まり、蜂須賀氏をはじめとする羽柴秀吉子飼いの武将たち、関ヶ原合戦後には、池田輝政の家老、本多氏、小笠原氏、岡部氏、京極氏と歴戦の大名が入城しました。
なお、山城のある鶏籠山の名前はその形が鶏の伏せ籠に似ていることに由来します。
赤松氏の後も山城(鶏籠山城)が利用されていましたが、山上から今回訪問した麓に城が移動したのは、元和3年(1617)に本多政朝(まさとも)が入城した際に麓で新たな城(龍野城)が築かれたと考えられます(龍野城物語 たつの市立龍野歴史文化資料館編 2011)。
本多政朝

しかし、万治元年(1658)に京極高和の丸亀移転の際に龍野城は破却されました。
寛文12年(1672)に信濃飯田から脇坂安政が藩主になると城も再建され、現在見られる山麓居館部のみの陣屋形式の城郭に改修されました。また、この際、山頂の鶏籠山城は放棄されました。
その後、幕末まで脇坂氏が藩主を務め、維新後は明治4年(1871)に廃城となり、建物は競売により取り壊され、大手門(浄栄寺に移築)から冠木門(かぶきもん、かぶらぎもん)(因念寺に移築)に至る中間部に裁判所が立てられました。外堀も一部を残して埋め立てられました。明治末に城内に旧制龍野高等女学校が置かれた時、新たに進入道路が新設されるなど縄張は絵図から大きく変更されています。
昭和50年(1975)より5年間に城は整備され、城壁、埋門、多聞櫓や本丸御殿などが「再建」されていき、現在の本丸御殿は昭和54年(1979)に「再建」されたものです。しかし、二重隅櫓(絵図にない模擬櫓)は後に建築されたものです。なお、「再建」に当たっては、現在残る絵図を参考にして、すべて木造、土壁で建てられています。
また、城下町は令和元年(2019)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。龍野城と城下町の情報
城主がたびたび変更となっていることから、残された複数の城郭絵図を見比べると、以下の絵図のように年代により縄張や普請も変更されています(龍野城物語 たつの市立龍野歴史文化資料館編 2011)。
播州立野城図 江戸初期 正保-明暦(1640-50)頃: 京極高和の頃 (図はクリックにより拡大します)

播州竜野城図 江戸中期-末期: リンクによりこの頃の絵図を見ることができます。
龍野城郭之図 明治4年(1871): 龍野藩10代(最後)の藩主 脇坂 安斐(やすあや)の頃 (図はクリックにより拡大します)

多聞櫓: 龍野城は山麓に築かれた城で、二段構築の本丸の東南に二の丸を配した梯郭式(ていかくしき)の造りで、写真は二の丸にある龍野歴史文化資料館前の「再建」多聞櫓です。この後に撮影した建物は、二重隅櫓を除き、いずれも再建されたものになります。

「埋門(うずみもん)」外側: 絵図に基づき再建された櫓門で、東(右)側に「続櫓」が付随して横矢を掛けられるようにした門です。

「埋門」内側

本丸御殿: 昭和54年(1979)に再建された御殿です。

本丸御殿玄関: 御殿の玄関は、賤ヶ岳の七本槍の一人で藩祖脇坂安治が建立した京都妙心寺隣華院の大玄関を参考にしたと言われています。

本丸御殿内中庭: 枯山水の中庭がありました。

本丸御殿内上段の間: 御殿の間取りが絵図にないので、推定により作られたものと思われますが、現在の御殿の北西隅にある藩主の間です。

鶏籠山古城への登山口: 次の裏門の手前には龍野城の前身である山城「鶏籠山城」の登城口があります。今回は訪問しませんでした。

高麗門形式の裏門(再建): 本丸西側の搦手、外からは「錣(しころ)坂」を登り切った所にあります。

二重隅櫓東面: 東側(正面)だけ「入母屋造り」になった変則的な造りです。次の北面と比較ください。

二重隅櫓北面: 東側(左側)だけ「入母屋造り」になった変則的な造りで、次に示す表の顔とは違う姿を見せます。

二重隅櫓北面を城外から見ました。「裏門」を出て歩いている道は「錣(しころ)坂」で、坂を下った所に搦手門である「錣坂門」がありました。その錣坂門は、兵庫県揖保郡太子町の蓮光寺に山門として移築され現存しています。
さらに真っ直ぐ進むと右手に薬医門形式の「家老門」が屋内運動場(体育館)の門として建っております。その場所は宝暦2年(1752)の絵図では「新御屋敷」、寛政10年(1798)の絵図では「脇坂久五郎」邸でした。

二重隅櫓南(右)面と西(左)面: 敷地の南西端には美しくて龍野城のシンボル的写真としてよく用いられますが、実際には存在しなかった模擬「二重隅櫓」が建てられています。こちら側には唐破風が2箇所あります。

龍野城訪問後は、武家屋敷資料館やうすくち龍野醤油資料館(下記)を訪問しました。
うすくち龍野醤油資料館: ヒガシマル醤油の展示施設で、ヒガシマルの社名・商標は、明治維新の折、前身である淺井醤油に対して、龍野藩(播磨国)から払い下げられた直営醤油醸造所「物産蔵」が、揖保川の東側に蔵があり「東蔵」と呼ばれたことに由来しています。
加えて、太陽が東から昇るように、「社運が旭日昇天の勢いなれかし」の願いも込めて定められたものとなっています。
これまで見てきたたつの市の伝統的風景の維持に対し、ヒガシマル醤油(株)の貢献が大きいようです。

資料館内部の醤油仕込蔵

龍野城・資料館訪問後は、本日の次の訪問地の福山城へと移動しました。
文責 岡島 敏広
2025年02月24日
2025年2月17日(月)三上陣屋跡訪問(野洲市)
三上陣屋(みかみじんや)跡を訪れました。三上陣屋は、滋賀県野洲市三上(近江国野洲郡)にあった陣屋で三上藩の藩庁です。通称近江富士と呼ばれる三上山の西麓に築かれていました。
三上藩主遠藤家は美濃国郡上八幡城主でしたが、元禄5年(1692)3月遠藤常久が7歳で嗣子がないまま没し、幕府によりお取り潰しとなりました。しかし、先祖の遠藤慶隆の功績が認められ、一族の遠藤胤親(たねちか)を大垣新田藩主戸田氏成の養子とし、常陸国・下野国に1万石が与えられて存続しました。
この遠藤胤親の所領1万石が元禄11年(1698)近江に移され(志賀(しが)、甲賀、野洲、栗太(くりた)4郡内で1万石を領有)、野洲郡三上に陣屋を構えて、三上藩(別称甲賀(こうか)藩)が立藩されました。
嘉永5年12月(1853年2月)第5代藩主で若年寄の遠藤胤統(たねのり)のときには2千石の加封があり、1万2千石となりました。
また、慶応4年(1868)第6代藩主の遠藤胤城(たねき)(下写真)の時には佐幕派であったことから、明治新政府に朝敵と見なされて所領を没収されましたが、同年罪は許され領地は返還されました。明治3年(1870)、和泉国吉見へ移されています。
第6代藩主 遠藤胤城
三上陣屋(明治3年4月から吉見藩三上出張所)
文化12年(1815)の刊行近江名所図会4 野洲川/三上山: 三上陣屋の様子を知る手がかりはほぼありませんが、下の図会は江戸時代の三上山、御上神社及び塀で囲まれた「三上陣屋」の様子を描いています。しかし、この図は少しデフォルメされており、この図のうち三上山だけを三上陣屋の前まで右方向に移動させると実際の配置に近くなります。
なお、図会はクリックすると原文にリンクし閲覧が可能です。
三上陣屋復元概要図 (現状の地図に陣屋の区域を記載したもので、図はクリックすると拡大します。): 書籍の『東氏・遠藤氏と三上藩(銅鐸博物館)』には、「三上藩の陣屋屋敷は南北21間(約38m)東西20間(約36.2m) 一反四畝歩で、元禄11年(1698)主に大谷六右衛門が提供した」とあります。
図の黒い線は小川・水路を表しています。図中説明の陣屋「表門」は湖南市常永寺に移築され現存し、「裏門」や「蔵」、「塀」は近隣の民家に移築されていましたが、現在は取り壊され、陣屋区域内にあった「長屋」も解体されました。上記書籍には、解体前の陣屋移築建物のいくつかの写真が掲載されています。
現在は堀跡と思われる小川が残るほかは宅地となり、陣屋の明確な遺構は残っておりません。
江戸時代(享保11年)の三上村絵図に描かれている大石のざくずれ石が当時の姿を唯一しのばせる遺構となっています。
享保11年三上村絵図陣屋付近部分(図はクリックにより拡大)
三上陣屋跡北側の大石(ざくずれ石)
国土地理院 昭和22年(1947)航空写真に説明を追記(写真はクリックすると拡大): この時期の航空写真(下写真)には現在の国道8号線はなく、江戸時代に近い地形を表しているものと思われます。三上陣屋の範囲を破線の枠で示しました。このように陣屋の区域の形はわかりますが、すでに民家があり、江戸時代の絵図・明治期の地図等にも建築物の配置は描かれておらず、結論として陣屋の建物については不明です。
ところで、三上陣屋で起こった有名な事件は近江天保一揆です。
不正な検地により、一揆の原因を作った市野茂三郎をはじめとする検地の見分役人一行は、三上陣屋から北に直線距離で約50mの大庄屋大谷邸をはじめ周辺の5軒に分宿していました。
他方、この事件のもう一人の中心人物土川平兵衛邸は、陣屋から北西1km程の小字「小中小路」集落(下の写真外)の一角にありました。
一揆では検地の中止を求める野洲・栗太・甲賀の3郡の2万5千人とも4万人とも言われる百姓たちが三上陣屋に集まり、彼らに対して、三上藩郡奉行(こおりぶぎょう)平野八右衛門が応対しました。集まった農民は整然としており、陣屋に近い寳泉寺では、瓦などに若干の被害があった程度でした。
三上陣屋長屋: 長屋は西側堀沿いに建てられ、廃藩前は家臣の居宅となっていました。平成5年(1993)に取り壊されました。

上掲の長屋撤去後の石垣と西側堀(現在): 上記白黒写真の横断歩道上より西側堀を南方向に撮影
西側堀(北方向を撮影)
南側堀
表門跡へと繋がる通路: 手前(南側)に裏門、奥(北側)に表門がありました。三上陣屋の門と伝えられるものが、湖南市岩根にある常永寺(表門の移築門として現存)と、陣屋跡の直ぐ東側の民家(裏門)に移築されていましたが、民家移築の裏門の方は平成25年(2013)頃に取り壊されました。
東側堀(北方向を撮影): 南側堀がここから北へと回り込んでいます。
高札場跡: 民家の塀の前で矢印を付けた場所に高札場がありました。この民家の立地は陣屋門前の広場に当たります。
三上陣屋移築表門(湖南市岩根にある常永寺山門): 城門に多く用いられる高麗門形式で、明治6年(1873)に移築されました。
本瓦葺の軒先瓦などに遠藤氏の紋瓦が用いられています。
近江天保一揆関連
一揆指導者11名リスト: 指導者は罪人としてリストの11名が江戸送りとなりました。
土川平兵衛の墓: 昭和57年(1982)建立。
天保13年(1842)、江戸幕府により行なわれる検地において、見分役人が極めて不当であったことから、土川平兵衛は三郡の庄屋を糾合して、検地の中止を嘆願しようとしました。しかし、集まった農民が4万人に達して見分役人の旅舎を襲うことになり、検地実施の「10万日の延期」の証文を獲得しました。
後に、罪人として捕らわれる者が数千人に上り、過酷な拷問で死亡する者が40名あまりおりました。発起人土川平兵衛ら主要な11人は江戸送りとなり、江戸に到着する前に死亡した人もおりました。土川平兵衛は江戸に送られてから1月余り後に裁きを待たず獄死し、小塚原に梟首されました。
近江天保一揆当時は、5代藩主遠藤胤統が幕府の若年寄であったこともあり、関係者への処罰が大きかったといわれます。
天保義民之碑(湖南市三雲): 天保義民とは、野洲・栗太・甲賀三郡で、飢饉に苦しむ百姓が年貢増徴を防ぐために一揆を起こし、この一揆で、犠牲になった人々のことです。
天保義民之碑は、写真の湖南市のものに加えて野洲市及び甲賀市にもあります。
文責 岡島 敏広
三上藩主遠藤家は美濃国郡上八幡城主でしたが、元禄5年(1692)3月遠藤常久が7歳で嗣子がないまま没し、幕府によりお取り潰しとなりました。しかし、先祖の遠藤慶隆の功績が認められ、一族の遠藤胤親(たねちか)を大垣新田藩主戸田氏成の養子とし、常陸国・下野国に1万石が与えられて存続しました。
この遠藤胤親の所領1万石が元禄11年(1698)近江に移され(志賀(しが)、甲賀、野洲、栗太(くりた)4郡内で1万石を領有)、野洲郡三上に陣屋を構えて、三上藩(別称甲賀(こうか)藩)が立藩されました。
嘉永5年12月(1853年2月)第5代藩主で若年寄の遠藤胤統(たねのり)のときには2千石の加封があり、1万2千石となりました。
また、慶応4年(1868)第6代藩主の遠藤胤城(たねき)(下写真)の時には佐幕派であったことから、明治新政府に朝敵と見なされて所領を没収されましたが、同年罪は許され領地は返還されました。明治3年(1870)、和泉国吉見へ移されています。
第6代藩主 遠藤胤城

三上陣屋(明治3年4月から吉見藩三上出張所)
文化12年(1815)の刊行近江名所図会4 野洲川/三上山: 三上陣屋の様子を知る手がかりはほぼありませんが、下の図会は江戸時代の三上山、御上神社及び塀で囲まれた「三上陣屋」の様子を描いています。しかし、この図は少しデフォルメされており、この図のうち三上山だけを三上陣屋の前まで右方向に移動させると実際の配置に近くなります。
なお、図会はクリックすると原文にリンクし閲覧が可能です。

三上陣屋復元概要図 (現状の地図に陣屋の区域を記載したもので、図はクリックすると拡大します。): 書籍の『東氏・遠藤氏と三上藩(銅鐸博物館)』には、「三上藩の陣屋屋敷は南北21間(約38m)東西20間(約36.2m) 一反四畝歩で、元禄11年(1698)主に大谷六右衛門が提供した」とあります。
図の黒い線は小川・水路を表しています。図中説明の陣屋「表門」は湖南市常永寺に移築され現存し、「裏門」や「蔵」、「塀」は近隣の民家に移築されていましたが、現在は取り壊され、陣屋区域内にあった「長屋」も解体されました。上記書籍には、解体前の陣屋移築建物のいくつかの写真が掲載されています。
現在は堀跡と思われる小川が残るほかは宅地となり、陣屋の明確な遺構は残っておりません。
江戸時代(享保11年)の三上村絵図に描かれている大石のざくずれ石が当時の姿を唯一しのばせる遺構となっています。

享保11年三上村絵図陣屋付近部分(図はクリックにより拡大)

三上陣屋跡北側の大石(ざくずれ石)

国土地理院 昭和22年(1947)航空写真に説明を追記(写真はクリックすると拡大): この時期の航空写真(下写真)には現在の国道8号線はなく、江戸時代に近い地形を表しているものと思われます。三上陣屋の範囲を破線の枠で示しました。このように陣屋の区域の形はわかりますが、すでに民家があり、江戸時代の絵図・明治期の地図等にも建築物の配置は描かれておらず、結論として陣屋の建物については不明です。
ところで、三上陣屋で起こった有名な事件は近江天保一揆です。
不正な検地により、一揆の原因を作った市野茂三郎をはじめとする検地の見分役人一行は、三上陣屋から北に直線距離で約50mの大庄屋大谷邸をはじめ周辺の5軒に分宿していました。
他方、この事件のもう一人の中心人物土川平兵衛邸は、陣屋から北西1km程の小字「小中小路」集落(下の写真外)の一角にありました。
一揆では検地の中止を求める野洲・栗太・甲賀の3郡の2万5千人とも4万人とも言われる百姓たちが三上陣屋に集まり、彼らに対して、三上藩郡奉行(こおりぶぎょう)平野八右衛門が応対しました。集まった農民は整然としており、陣屋に近い寳泉寺では、瓦などに若干の被害があった程度でした。

三上陣屋長屋: 長屋は西側堀沿いに建てられ、廃藩前は家臣の居宅となっていました。平成5年(1993)に取り壊されました。


上掲の長屋撤去後の石垣と西側堀(現在): 上記白黒写真の横断歩道上より西側堀を南方向に撮影

西側堀(北方向を撮影)

南側堀

表門跡へと繋がる通路: 手前(南側)に裏門、奥(北側)に表門がありました。三上陣屋の門と伝えられるものが、湖南市岩根にある常永寺(表門の移築門として現存)と、陣屋跡の直ぐ東側の民家(裏門)に移築されていましたが、民家移築の裏門の方は平成25年(2013)頃に取り壊されました。

東側堀(北方向を撮影): 南側堀がここから北へと回り込んでいます。

高札場跡: 民家の塀の前で矢印を付けた場所に高札場がありました。この民家の立地は陣屋門前の広場に当たります。

三上陣屋移築表門(湖南市岩根にある常永寺山門): 城門に多く用いられる高麗門形式で、明治6年(1873)に移築されました。
本瓦葺の軒先瓦などに遠藤氏の紋瓦が用いられています。

近江天保一揆関連
一揆指導者11名リスト: 指導者は罪人としてリストの11名が江戸送りとなりました。

土川平兵衛の墓: 昭和57年(1982)建立。
天保13年(1842)、江戸幕府により行なわれる検地において、見分役人が極めて不当であったことから、土川平兵衛は三郡の庄屋を糾合して、検地の中止を嘆願しようとしました。しかし、集まった農民が4万人に達して見分役人の旅舎を襲うことになり、検地実施の「10万日の延期」の証文を獲得しました。
後に、罪人として捕らわれる者が数千人に上り、過酷な拷問で死亡する者が40名あまりおりました。発起人土川平兵衛ら主要な11人は江戸送りとなり、江戸に到着する前に死亡した人もおりました。土川平兵衛は江戸に送られてから1月余り後に裁きを待たず獄死し、小塚原に梟首されました。
近江天保一揆当時は、5代藩主遠藤胤統が幕府の若年寄であったこともあり、関係者への処罰が大きかったといわれます。

天保義民之碑(湖南市三雲): 天保義民とは、野洲・栗太・甲賀三郡で、飢饉に苦しむ百姓が年貢増徴を防ぐために一揆を起こし、この一揆で、犠牲になった人々のことです。
天保義民之碑は、写真の湖南市のものに加えて野洲市及び甲賀市にもあります。

文責 岡島 敏広