2023年04月01日
2023年3月30日(木)第103回例会「田中城跡と石仏の宝庫玉泉寺」
城郭探訪会第103回例会が高島市安曇川町の田中城と玉泉寺を探訪地として、草津校43,44期地域文化学科と健康づくり学科の合同担当により開催されました。今回は56名(42期11名、43期21名、44期24名)の会員が参加しました。本例会は下見を実施しております。その模様はこちらをご覧ください。
田中城は、高島七頭(高島氏を中心として、平井(能登氏)、朽木、永田、横山、田中、山崎氏)のうちの田中郷の領主・田中氏の居城で、泰山寺野台地から舌状にのびる支丘の先端部に築かれた中世末期の山城です。現在も上寺(うえでら)集落西側の山間部に、その遺構を残しています。『近江輿地志略』には、「この城 上の城と号し、南市村城を下の城と称す」と記されることから、地元の伝承として古くから「上の城」や、地名から「上寺城(うえでらじょう)」とも呼ばれています。
JR安曇川駅西口に集合し、田中城の簡単な説明の後、城まで約4km歩きますので、柔軟体操で体をほぐします。
本日巡るコースを以下に示します。田中城訪問後に、玉泉寺、下ノ城集落、南市を訪問します。3班に別れ行動しましたが、玉泉寺を出た後、班によりコースに少し違いがありましたので、青又は黄色でそのコースを示しています。
Googleマップによる下図は、クリックで拡大します。
JR安曇川駅から田中城までは、長い直線道路を黙々と歩きました。
上寺バス停留所での田中城の説明
ここから「ボランティアガイド トラベル高島」の同姓Kさん2名(YK, SK)のガイドさんにご案内いただきました。城は鎌倉時代後期、田中播磨守実氏(さねうじ)により築城されたとのことです。
田中城の縄張りを下に示します。ほぼ頂上にある田中城主郭から東方に広がる山腹一帯には、地名の由来となった上寺である天台密教の山岳寺院「松蓋寺(しょうがいじ)」の寺坊跡があり、田中城はこの遺構を利用し築造されたと推定されています。 図はクリックすると拡大します。
松蓋寺は「高嶋七ヵ寺」の1つで、今は下地図➉の観音堂一宇が残されているだけです。城の縄張には、この観音堂➉のさらに下方に広がる寺の遺構を城に再利用した郭(i)と、観音堂背後の尾根上に遺された元来から城として機能していた遺構(ii)がありますが、大部分は寺の遺構を利用した郭(i)です。
i. 観音堂よりも一段下方、山裾に広がる遺構群は、寺坊跡を利用して、土塁や堀を付け足したもので、屋敷跡と考えられる遺構です。その一段上には観音堂➉の前面に広がる遺構群があり、ここも土塁で区画された大きな郭や、郭群の周囲には堀や土橋⑤、武者隠し④などの遺構が見られます。観音堂➉の左手には寺の塔が立っていたと思われる基壇状の遺構や礎石が見られます。
ii. ここからさらに一段上がった尾根上には四つの郭が連続して築かれており、さらに上方には、土塁で囲まれた虎口状の施設を挟んで、地図上で「天主跡」と表示されている主郭⑪があります。その背後は馬の背状の通路になっており、通路の先端には尾根を切断した大堀切があり、主郭背後の防備を固めています。
①田中城入口石碑: 田中城跡入口です。ここで集合写真を撮影しました。イノシシなどの動物による麓の農作物の被害防止のため、城跡はフェンスで囲われており、扉を開けて中に入ります。
この入口の手前のお家に、登山者用に上に示しました「田中城跡歴史ハイキングMAP」が設置され、自由に持ち帰ることができるようになっていました。
②登城道を登って、見張所跡などのある平坦地にまで行きます。
③金刀比羅宮: 観音堂に向かうほぼ直線の②の登城道から北に外れて、観音堂手前にある一段低い郭群に入ると郭の土塁上に、神仏習合の神金毘羅権現が祀られています。讃岐の金刀比羅宮から海上交通の守り神として勧請されたもので、琵琶湖や安曇川の運航の安全を祈願したものと思われます。この辺りの郭は土塁で区画されています。
④武者隠し: 土塁が浸食により低くなってしまっていますが、観音堂手前の郭群の北の端に位置します。
⑤土橋: 武者隠し④のさらに北の先で、写真のように山をこちらから土橋⑤に沿って下ると突然、急な谷になっています。逆に登ってきた攻め手は傾斜が緩やかになってホッとします。しかし、この細い土橋に沿って一列に通るときには見えないよう、土橋の山(南)側に武者隠し④が設けられており、守兵はそこに隠れて、弓や鉄砲又は一斉攻撃で突き落とすなどで攻め手を撃退します。武者隠しは近江の城では事例の少ないものです。このように、田中城は同時期の山城と比べて、標高は低いですが、城域の要所に堀切、土塁、武者隠しなど外敵を防ぐための遺構が見られ、相当の規模を誇る城郭であったことがうかがえます。
⑥堀切: 観音堂➉のある郭とその麓(東)側の郭を断ち切るように、堀切が設けられ、観音堂のある郭に到達するには、急な斜面を這い上がるか、次の石段を上るしかありません。ここは田中城の紹介でよく撮影されるスポットのひとつです。
⑦堀切を北側から南側へ下り、再度、観音堂手前の郭内に入ります。
⑧阿弥陀如来坐像: いつ頃のものかわかりませんが、観音堂への階段の横で、観音堂➉への参拝者を見守っています。写真奥に見える小さな人は、⑦の堀切を下りてきた人たちです。
⑨観音堂への階段: 観音堂には石造りの阿弥陀如来坐像を横に見て石段を上ってゆきます。参加者から質問を受けましたが、この階段は天然石ではなく切り石が用いられていることから、新しく作られた物と思われます。
➉松蓋寺観音堂: 松蓋寺は天平3年(731)に僧良弁が建立しましたが、室町時代頃には衰退し廃寺と化して、現在はこの観音堂が残るのみです。このあと、高島方面が見える見張所を通過し、主郭を目指しました。
⑪主郭: 見張所からは観音堂➉の背後の急坂になった尾根をロープを頼って主郭部へ登ります。主郭の標高は220m、平地の標高が160mで、両者の比高差はわずか60mです。主郭では、写真のとおり、琵琶湖を含めて、安曇川の町が見渡せました。本日は快晴で、遠くには伊吹山も見え、ここで集合写真を撮影しました。
見晴らしの良い主郭で、楽しい昼食のひと時を持ちました。この間にガイドさんが信長公記に記載されている田中城についてのお話をしてくださいました。その内容は本ブログの最後にまとめて記載しました。
田中城下山の後は、田中氏ゆかりの玉泉寺を訪れました。
玉泉寺: 創建は奈良時代の天平年間で行基が開祖と伝えられ、享禄4年(1531)の大火により寺地を失いましたが、天文2年(1533)に、田中城の城主であった田中下野守理春(しもつけのかみみちはる)が荒廃を嘆き、再興したと伝承しています。
玉泉寺境内の本堂前には、「鵜川四十八体石仏」(高島市)と同じ坐像形式の石仏五体が南面して並んでいます。
五智如来と呼ばれ、左から阿弥陀如来・薬師如来・大日如来・弥勒菩薩・釈迦如来です。室町時代後期の作で、製作には「鵜川四十八体石仏」と石工技術を同じくする集団の影響が考えられます。このほかにも、墓地内で多種多様な石仏を見ることができる高島では指折りの石仏スポットと言えます。
五智如来前で集合写真を撮影しました。
左から無量寿善逝如来(阿弥陀如来の別名)、宝塔、五重層塔、宝塔が立ち並んでいます。
木村住職の講話と田中吉政の戒名(複製): 本堂でご住職に講話をいただきました。ご住職は戒名を示されていますが、田中郷にゆかりのある田中吉政公のもので、菩提寺からいただいたのだそうです。ちなみに、その菩提寺は福岡県柳川市にあります。また、木村住職はブログ"玉泉寺「住職日記」"を書かれていて、滋賀咲くブログでは上位にランキングされています。
講話の後、ご住職から法語をいただきました。
田中城主、田中下野守理春(しもつけのかみみちはる)の墓: 講話の後、墓地にある田中城主の墓に案内してくださいました。代々の住職の墓の横にあり、特別に扱われていました。しかし、ご住職はお墓とおっしゃっておりましたが、武家の墓の形式とは異なることから、理春公にゆかりのある何らかの碑ではないかと思われます。
下ノ城集落: 玉泉寺を離れた後は、JR安曇川駅をめざして戻りますが、その途中に今回訪問した田中城の「上の城」に対する、大字田中のほぼ中央にある「下ノ城」という集落を訪れました(下図左上の青で囲まれた区域)。
織田信長が登場するまでは、城は、山城と平地や麓にある館がセットで築かれ、この「下ノ城」が平地の館に当たります。『近江輿地志略』に「南市村城を下の城と称す」と記述されていますが、この後に通過する「南市」には城郭が築かれた形跡がないことから、下ノ城集落に位置する田中氏館が『近江輿地志略』のいう「下の城」であると考えられています。田中氏館が存在した痕跡は、地表には見受けられませんが、その付近には「北堀」「東堀」「南堀」「堀之内」という堀の存在を示す小字名が残されており、この範囲に田中氏の居館が存在していたと考えられています。また、 「堀」という地名がそれぞれ付くことから、周囲に堀を巡らす居館であったことが伺えます。西堀という字名はありませんが、江戸後期の田中村絵図には「西ノ口」という地名が残されており、その地域の中に田中氏の居館の正面入り口が存在したことが伺えます。
下の地図をクリックするとガイドさんからいただいた周辺の小字図が見られるようにしておきました。
下ノ城集落西側入口: 現状では、周囲に住宅と田畑があるだけで、土塁など遺構が残っている様子はありませんが、平成17年の発掘調査で堀跡の一部がこの辺りで見つかっています(上記地図青色部分)。また、この地区の古老のお話では、北堀の水田では耕作中大きく沈む場所があり、農耕しづらく、この付近の地中から石仏が多く見つかるのだそうです。
南市交差点: 『近江輿地志略』では「南市村城」という名前が出ていますが、北国海道沿いで市場が開かれていた場所です。上記地図の右(東)側にある「南市」の交差点で、南北に走る北国海道の道の両側には水路があることから、この広い道幅は遠い昔から変化しておらず、この昔の常識からすると非常に広い道の両側で、南市商人や地元生産者により産物や商品を売買する市が立てられていました。このように、田中氏は地域の生産基盤の掌握だけでなく、交通路支配も大きな収入源としていました。
このあと、計画していました訪問地点はすべてクリアしましたので、出発地点のJR安曇川駅に向かい解散しました。
最後に、今回は、草津校地域文化科と健康づくり学科43,44期が2学年で協力して開催しました。天気も良く、桜が咲き乱れる中を無事に例会を終了できました。ご協力及び参加いただきました城郭探訪会の皆様及びボランティアガイド トラベル高島のYK, SK様お二人に感謝いたします。
次回例会は、2023年4月22日(土)に、水口岡山城跡・水口城跡と城下町の探訪が予定されています。 文責 岡島 敏広
参考: 文が長くなりましたので、以下は、参考として示します。
田中城は『信長公記』に3度登場しています。
1回目は元亀元年(1570)4月21日、信長が京都から越前へ向かった際に高島の「田中の城」に逗留したという記録です。このとき信長は朝倉義景を討つため越前を目指しており、途中の高島を通過し、浅井長政の勢力下にあった田中城に宿泊したと考えられます。この軍勢には後の豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康も参加していました。逗留の8日後に浅井氏が離反を起こし、田中城は信長の敵方の城となりました。この事件は「金ヶ崎の退き口」の名称で有名で、秀吉や光秀らは殿(しんがり)として残り、信長は田中氏の親戚の朽木氏(いずれも佐々木源氏)に助けられて、朽木経由で京都まで逃げ帰ります。
2回目は元亀3年(1572)3月11日で、信長が高島の地で浅井・朝倉軍を攻撃した際の記録です。このとき、信長方の明智光秀や丹羽長秀らが木戸(清水山)・田中両城を監視しています。
3回目は翌年の元亀4年(1573)7月26日、信長は長さ三十間、すなわち55mの大船で浅井長政の勢力下に置かれていた高島を湖上から攻撃し、陸からも木戸(清水山)・田中両城を攻撃したとの記録です。攻撃の結果、落城した木戸(清水山)・田中両城は明智光秀に与えられました。
さらに、『信長公記』の記述以前のことで、近年発見された熊本藩(細川家)の家老米田家に伝わる医学書『針薬方』(永禄9年)の奥書に、「明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」とあります。田中城と光秀に関するもので、文献上に光秀が登場する最古級の発見で注目されました。奥書には、沼田勘解由左衛門が田中城で光秀の口伝を記し、永禄9(1566)年10月に米田貞能が江州坂本で写したものと記されています。このことから、少なくとも1566年以前の田中城に光秀が近江国と関係をもちながら、籠城していた可能性が指摘されています。光秀がどのような立場で田中城に籠城していたかは定かではありませんが、この頃にはひとかどの武将として活躍していたようです。 以上
田中城は、高島七頭(高島氏を中心として、平井(能登氏)、朽木、永田、横山、田中、山崎氏)のうちの田中郷の領主・田中氏の居城で、泰山寺野台地から舌状にのびる支丘の先端部に築かれた中世末期の山城です。現在も上寺(うえでら)集落西側の山間部に、その遺構を残しています。『近江輿地志略』には、「この城 上の城と号し、南市村城を下の城と称す」と記されることから、地元の伝承として古くから「上の城」や、地名から「上寺城(うえでらじょう)」とも呼ばれています。
JR安曇川駅西口に集合し、田中城の簡単な説明の後、城まで約4km歩きますので、柔軟体操で体をほぐします。

本日巡るコースを以下に示します。田中城訪問後に、玉泉寺、下ノ城集落、南市を訪問します。3班に別れ行動しましたが、玉泉寺を出た後、班によりコースに少し違いがありましたので、青又は黄色でそのコースを示しています。
Googleマップによる下図は、クリックで拡大します。

JR安曇川駅から田中城までは、長い直線道路を黙々と歩きました。

上寺バス停留所での田中城の説明
ここから「ボランティアガイド トラベル高島」の同姓Kさん2名(YK, SK)のガイドさんにご案内いただきました。城は鎌倉時代後期、田中播磨守実氏(さねうじ)により築城されたとのことです。

田中城の縄張りを下に示します。ほぼ頂上にある田中城主郭から東方に広がる山腹一帯には、地名の由来となった上寺である天台密教の山岳寺院「松蓋寺(しょうがいじ)」の寺坊跡があり、田中城はこの遺構を利用し築造されたと推定されています。 図はクリックすると拡大します。
松蓋寺は「高嶋七ヵ寺」の1つで、今は下地図➉の観音堂一宇が残されているだけです。城の縄張には、この観音堂➉のさらに下方に広がる寺の遺構を城に再利用した郭(i)と、観音堂背後の尾根上に遺された元来から城として機能していた遺構(ii)がありますが、大部分は寺の遺構を利用した郭(i)です。
i. 観音堂よりも一段下方、山裾に広がる遺構群は、寺坊跡を利用して、土塁や堀を付け足したもので、屋敷跡と考えられる遺構です。その一段上には観音堂➉の前面に広がる遺構群があり、ここも土塁で区画された大きな郭や、郭群の周囲には堀や土橋⑤、武者隠し④などの遺構が見られます。観音堂➉の左手には寺の塔が立っていたと思われる基壇状の遺構や礎石が見られます。
ii. ここからさらに一段上がった尾根上には四つの郭が連続して築かれており、さらに上方には、土塁で囲まれた虎口状の施設を挟んで、地図上で「天主跡」と表示されている主郭⑪があります。その背後は馬の背状の通路になっており、通路の先端には尾根を切断した大堀切があり、主郭背後の防備を固めています。

①田中城入口石碑: 田中城跡入口です。ここで集合写真を撮影しました。イノシシなどの動物による麓の農作物の被害防止のため、城跡はフェンスで囲われており、扉を開けて中に入ります。
この入口の手前のお家に、登山者用に上に示しました「田中城跡歴史ハイキングMAP」が設置され、自由に持ち帰ることができるようになっていました。

②登城道を登って、見張所跡などのある平坦地にまで行きます。

③金刀比羅宮: 観音堂に向かうほぼ直線の②の登城道から北に外れて、観音堂手前にある一段低い郭群に入ると郭の土塁上に、神仏習合の神金毘羅権現が祀られています。讃岐の金刀比羅宮から海上交通の守り神として勧請されたもので、琵琶湖や安曇川の運航の安全を祈願したものと思われます。この辺りの郭は土塁で区画されています。

④武者隠し: 土塁が浸食により低くなってしまっていますが、観音堂手前の郭群の北の端に位置します。

⑤土橋: 武者隠し④のさらに北の先で、写真のように山をこちらから土橋⑤に沿って下ると突然、急な谷になっています。逆に登ってきた攻め手は傾斜が緩やかになってホッとします。しかし、この細い土橋に沿って一列に通るときには見えないよう、土橋の山(南)側に武者隠し④が設けられており、守兵はそこに隠れて、弓や鉄砲又は一斉攻撃で突き落とすなどで攻め手を撃退します。武者隠しは近江の城では事例の少ないものです。このように、田中城は同時期の山城と比べて、標高は低いですが、城域の要所に堀切、土塁、武者隠しなど外敵を防ぐための遺構が見られ、相当の規模を誇る城郭であったことがうかがえます。

⑥堀切: 観音堂➉のある郭とその麓(東)側の郭を断ち切るように、堀切が設けられ、観音堂のある郭に到達するには、急な斜面を這い上がるか、次の石段を上るしかありません。ここは田中城の紹介でよく撮影されるスポットのひとつです。

⑦堀切を北側から南側へ下り、再度、観音堂手前の郭内に入ります。

⑧阿弥陀如来坐像: いつ頃のものかわかりませんが、観音堂への階段の横で、観音堂➉への参拝者を見守っています。写真奥に見える小さな人は、⑦の堀切を下りてきた人たちです。

⑨観音堂への階段: 観音堂には石造りの阿弥陀如来坐像を横に見て石段を上ってゆきます。参加者から質問を受けましたが、この階段は天然石ではなく切り石が用いられていることから、新しく作られた物と思われます。

➉松蓋寺観音堂: 松蓋寺は天平3年(731)に僧良弁が建立しましたが、室町時代頃には衰退し廃寺と化して、現在はこの観音堂が残るのみです。このあと、高島方面が見える見張所を通過し、主郭を目指しました。

⑪主郭: 見張所からは観音堂➉の背後の急坂になった尾根をロープを頼って主郭部へ登ります。主郭の標高は220m、平地の標高が160mで、両者の比高差はわずか60mです。主郭では、写真のとおり、琵琶湖を含めて、安曇川の町が見渡せました。本日は快晴で、遠くには伊吹山も見え、ここで集合写真を撮影しました。

見晴らしの良い主郭で、楽しい昼食のひと時を持ちました。この間にガイドさんが信長公記に記載されている田中城についてのお話をしてくださいました。その内容は本ブログの最後にまとめて記載しました。

田中城下山の後は、田中氏ゆかりの玉泉寺を訪れました。
玉泉寺: 創建は奈良時代の天平年間で行基が開祖と伝えられ、享禄4年(1531)の大火により寺地を失いましたが、天文2年(1533)に、田中城の城主であった田中下野守理春(しもつけのかみみちはる)が荒廃を嘆き、再興したと伝承しています。
玉泉寺境内の本堂前には、「鵜川四十八体石仏」(高島市)と同じ坐像形式の石仏五体が南面して並んでいます。
五智如来と呼ばれ、左から阿弥陀如来・薬師如来・大日如来・弥勒菩薩・釈迦如来です。室町時代後期の作で、製作には「鵜川四十八体石仏」と石工技術を同じくする集団の影響が考えられます。このほかにも、墓地内で多種多様な石仏を見ることができる高島では指折りの石仏スポットと言えます。

五智如来前で集合写真を撮影しました。

左から無量寿善逝如来(阿弥陀如来の別名)、宝塔、五重層塔、宝塔が立ち並んでいます。

木村住職の講話と田中吉政の戒名(複製): 本堂でご住職に講話をいただきました。ご住職は戒名を示されていますが、田中郷にゆかりのある田中吉政公のもので、菩提寺からいただいたのだそうです。ちなみに、その菩提寺は福岡県柳川市にあります。また、木村住職はブログ"玉泉寺「住職日記」"を書かれていて、滋賀咲くブログでは上位にランキングされています。

講話の後、ご住職から法語をいただきました。

田中城主、田中下野守理春(しもつけのかみみちはる)の墓: 講話の後、墓地にある田中城主の墓に案内してくださいました。代々の住職の墓の横にあり、特別に扱われていました。しかし、ご住職はお墓とおっしゃっておりましたが、武家の墓の形式とは異なることから、理春公にゆかりのある何らかの碑ではないかと思われます。

下ノ城集落: 玉泉寺を離れた後は、JR安曇川駅をめざして戻りますが、その途中に今回訪問した田中城の「上の城」に対する、大字田中のほぼ中央にある「下ノ城」という集落を訪れました(下図左上の青で囲まれた区域)。
織田信長が登場するまでは、城は、山城と平地や麓にある館がセットで築かれ、この「下ノ城」が平地の館に当たります。『近江輿地志略』に「南市村城を下の城と称す」と記述されていますが、この後に通過する「南市」には城郭が築かれた形跡がないことから、下ノ城集落に位置する田中氏館が『近江輿地志略』のいう「下の城」であると考えられています。田中氏館が存在した痕跡は、地表には見受けられませんが、その付近には「北堀」「東堀」「南堀」「堀之内」という堀の存在を示す小字名が残されており、この範囲に田中氏の居館が存在していたと考えられています。また、 「堀」という地名がそれぞれ付くことから、周囲に堀を巡らす居館であったことが伺えます。西堀という字名はありませんが、江戸後期の田中村絵図には「西ノ口」という地名が残されており、その地域の中に田中氏の居館の正面入り口が存在したことが伺えます。
下の地図をクリックするとガイドさんからいただいた周辺の小字図が見られるようにしておきました。

下ノ城集落西側入口: 現状では、周囲に住宅と田畑があるだけで、土塁など遺構が残っている様子はありませんが、平成17年の発掘調査で堀跡の一部がこの辺りで見つかっています(上記地図青色部分)。また、この地区の古老のお話では、北堀の水田では耕作中大きく沈む場所があり、農耕しづらく、この付近の地中から石仏が多く見つかるのだそうです。

南市交差点: 『近江輿地志略』では「南市村城」という名前が出ていますが、北国海道沿いで市場が開かれていた場所です。上記地図の右(東)側にある「南市」の交差点で、南北に走る北国海道の道の両側には水路があることから、この広い道幅は遠い昔から変化しておらず、この昔の常識からすると非常に広い道の両側で、南市商人や地元生産者により産物や商品を売買する市が立てられていました。このように、田中氏は地域の生産基盤の掌握だけでなく、交通路支配も大きな収入源としていました。

このあと、計画していました訪問地点はすべてクリアしましたので、出発地点のJR安曇川駅に向かい解散しました。
最後に、今回は、草津校地域文化科と健康づくり学科43,44期が2学年で協力して開催しました。天気も良く、桜が咲き乱れる中を無事に例会を終了できました。ご協力及び参加いただきました城郭探訪会の皆様及びボランティアガイド トラベル高島のYK, SK様お二人に感謝いたします。
次回例会は、2023年4月22日(土)に、水口岡山城跡・水口城跡と城下町の探訪が予定されています。 文責 岡島 敏広
参考: 文が長くなりましたので、以下は、参考として示します。
田中城は『信長公記』に3度登場しています。
1回目は元亀元年(1570)4月21日、信長が京都から越前へ向かった際に高島の「田中の城」に逗留したという記録です。このとき信長は朝倉義景を討つため越前を目指しており、途中の高島を通過し、浅井長政の勢力下にあった田中城に宿泊したと考えられます。この軍勢には後の豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康も参加していました。逗留の8日後に浅井氏が離反を起こし、田中城は信長の敵方の城となりました。この事件は「金ヶ崎の退き口」の名称で有名で、秀吉や光秀らは殿(しんがり)として残り、信長は田中氏の親戚の朽木氏(いずれも佐々木源氏)に助けられて、朽木経由で京都まで逃げ帰ります。
2回目は元亀3年(1572)3月11日で、信長が高島の地で浅井・朝倉軍を攻撃した際の記録です。このとき、信長方の明智光秀や丹羽長秀らが木戸(清水山)・田中両城を監視しています。
3回目は翌年の元亀4年(1573)7月26日、信長は長さ三十間、すなわち55mの大船で浅井長政の勢力下に置かれていた高島を湖上から攻撃し、陸からも木戸(清水山)・田中両城を攻撃したとの記録です。攻撃の結果、落城した木戸(清水山)・田中両城は明智光秀に与えられました。
さらに、『信長公記』の記述以前のことで、近年発見された熊本藩(細川家)の家老米田家に伝わる医学書『針薬方』(永禄9年)の奥書に、「明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」とあります。田中城と光秀に関するもので、文献上に光秀が登場する最古級の発見で注目されました。奥書には、沼田勘解由左衛門が田中城で光秀の口伝を記し、永禄9(1566)年10月に米田貞能が江州坂本で写したものと記されています。このことから、少なくとも1566年以前の田中城に光秀が近江国と関係をもちながら、籠城していた可能性が指摘されています。光秀がどのような立場で田中城に籠城していたかは定かではありませんが、この頃にはひとかどの武将として活躍していたようです。 以上
2025年2月27日(木)城郭OB第87回例会「北之庄城(岩崎山城)跡」
2024年12月5日(木)城郭OB第85回例会「佐和山城と大洞弁財天を巡る」
2024年11月14日(木)城郭OB第84回例会「近江日爪城址」
2024年10月18日(金)城郭OB第83回例会「金ヶ崎城址・金ヶ崎の退き口」(福井県)
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」
2024年12月5日(木)城郭OB第85回例会「佐和山城と大洞弁財天を巡る」
2024年11月14日(木)城郭OB第84回例会「近江日爪城址」
2024年10月18日(金)城郭OB第83回例会「金ヶ崎城址・金ヶ崎の退き口」(福井県)
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」
Posted by
joukaku
at
21:46
│Comments(0)
│例会