2024年10月21日
2024年10月8日(火)長野県信州松代城訪問
個人旅行で、昨日の信濃国小諸城に引き続き、松代城を訪問しました。
松代城は日本100名城に選定され、No.26です。
また、松代城では本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されています。
松代城は千曲川東方にある平城で、北信濃を支配するために永禄3年(1560)、甲斐の武田晴信(信玄)が越後の上杉謙信との「川中島の戦い」(1553-1564)の際に武田方の拠点として築城した「海津(かいづ)城」が松代城のはじまりとされています。
信玄の死後には、戦国の動乱とともに城主はめまぐるしく変転しました。
森忠政が城主となった慶長5年(1600)には二の丸・三の丸を整備し、石垣に築きなおして「待城」と改名、次の松平忠輝の時には「松城」と呼ばれるようになりましたが、元和8年(1622)に真田信之が上田城より移り、第3代藩主真田幸道のときに、幕命により「松代城」と改名されました。
武田晴信(信玄) 真田信之

松代城は戦国時代に築城されて明治時代まで存続した城で、300年以上の間、北信濃における拠点的な場所でした。千曲川によって形成された自然堤防の頂部(中央部)に方形の石造りの本丸を築き、土造りの二の丸・三の丸からなります。
松代城絵図: 絵図はクリックすると拡大します。
廃城後は建物を失ったために、城としての景観を大きく損なっていましたが、長野市は文化遺産を後世に伝えるため、平成の大普請(環境整備工事)を行い、城跡を修理・復元しました。本丸の太鼓門と北不明門等の城門や木橋、石垣、二の丸土塁、堀などは江戸時代終わりごろの姿に限りなく近い状態で再現されています。
松代城は背後を流れる千曲川がたびたび洪水を起こしたため、その修復と千曲川の改修を何度も行っています。中でも「戌の満水」と呼ばれる寛保2年(1742)の被害は大きく、幕府に城普請の許可を得るとともに、1万両の拝借金を許されました。なお、二の丸を焼失した寛永2年(1625)、本丸・二の丸・三の丸を焼失した享保2年(1717)、花の丸を焼失した嘉永6年(1853)など、城内での火災もたびたび起こっています。
こうした浸水被害を受ける本丸にかわり、江戸時代の中頃からは本丸の南西にあった花の丸御殿が藩主の政務の場及び生活の場となりました。
江戸時代末期の松代城のイメージ: 下図はクリックすると拡大します。
明治5年(1872)に廃城となった松代城は、城内の土地・建物を順次払い下げられ、桑畑として開墾され、建物も取り壊されました。また、御殿が存在した花の丸は、明治6年(1873)に放火され焼失してしまいました。
松代城の建物で現在まで残っているのは、三の堀の外に建てられていた新御殿(真田邸)などわずかです。昭和56年(1981)、本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿と共に国史跡に指定されました。また、平成24年(2012)3月の長野電鉄屋代線の廃線を受け、平成27年(2015)には、二の丸南東部や三ケ月堀、丸馬出しなどを含む範囲が追加指定を受けています。
北不明門(きたあかずのもん): 手前の表門(枡形門)と奥の北不明門(櫓門)。城郭北側駐車場より訪問しましたので、北不明門側からの見学となります。
本丸の裏口(搦手)に位置する門で、太鼓門と同様に櫓門と表門(枡形門)の2棟による構成です。18世紀中ごろに行われた千曲川改修以前は、門が河川敷に接していたことから、「水之手御門」と呼ばれることもありました。
絵図史料をもとにして、当時の門礎石をそのまま利用して忠実に復元されています。
北不明門(櫓門)枡形側: 櫓門は石垣に渡らずに独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門です。
北不明門本丸内側
本丸戌亥櫓(いぬいやぐら)の櫓台: 北不明門の西に隣接していた松代城で最も高い櫓の跡です。絵図面では2階建ての隅櫓(すみやぐら)が建っていたとあり、川中島平を広く一望できたと考えられます。 野面積みで積まれた櫓台の石垣は抜本的な積み直しはおこなわれず、欠落した小石の挿入程度にとどめられています。
海津城址の碑: 海津城は山本勘助が築城し、甲州流築城の模範になったといわれる名城です。川中島平全体をにらむ、戦略的に重要な地点にあり、三方を山に囲まれ、西は南北に流れる千曲川という自然の地形を巧みに利用した堅固な造りでした。海津城と称されるように、かつては海のごとき千曲川のほとりにありましたが、寛保年間の瀬直しにより城は川岸から離れました。
山本勘助

元和度 松代城御本丸古図(真田信之時代): 真田信之時代に本丸にあった御殿の配置図で、図をクリックすると拡大図にリンクします。
本丸内には江戸時代中頃まで政庁や藩主の住居のための御殿がありました。調査では建物礎石や井戸跡、焼けた土壁など享保2年(1717)の火災で焼失した御殿の痕跡が数多く見つかっています。
しかし、度重なる水害の影響により明和7年(1770)に城の南西に位置した花の丸に御殿を移転しました。
太鼓門本丸内側: 太鼓門は本丸内では最も大きな門でした。本丸大手の出入り口(虎口)は、枡形に石垣をまわし、二層の櫓門(太鼓門)と枡形門(橋詰門)の2つの門で構成されています。このような枡形で本丸を厳重に守っていました。
良好に残っていた門礎石をそのまま利用し、絵図面などから、栩(とち)葺(板葺)で切妻屋根の姿を忠実に復元しています。
太鼓門の名は、藩士に登城時刻を知らせたり、緊急連絡をするための太鼓を備えていたことに由来します。
太鼓門枡形側
太鼓門前橋: 太鼓門表門(橋詰門)の前には橋が架かっていました。
内堀の調査では堀の中から30本以上の折れた橋脚が発見されています。橋脚の形状や橋脚の打ち込まれた層位の違いから、橋の架けなおしが4回以上行われたことが分かりました。このことから、災害の度に橋が崩落・破損したという当時の史料記載が裏付けられました。
発見した橋脚や江戸時代末期の絵図面をもとに前橋を忠実に復元しています。
埋門: 埋門は二の丸の土累に3か所あったようで、本丸西側に復元されています。
二の丸南門: 南門の虎口は、現在は車道に削られた形になっている丸馬出に繋がっています。丸馬出は上掲の松代城絵図とイメージ参照
真田邸(新御殿)入口: 新御殿の真田邸は幕末の元治元年(1864)、9代藩主真田幸教が、義母・貞松院(幸良の夫人)の住まいとして元治元年(1864)に建築した松代城の城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていました。御殿(主屋)は、表座敷や居間・湯殿など、江戸時代の大名邸宅の面影をよく残しています。隠居後の幸教はここを住まいとし、明治以降は伯爵となった真田氏の私宅となりました。
新御殿玄関: 正面の玄関には、広い式台が設けられています。式台は玄関の低くなった板敷の部分で、武家の家にだけ許された設備です。
また、正面玄関は江戸時代には殿様やお客様の出入りにだけ使われ、家老など上級武士でも、右の「小玄関」から出入したといわれます。
真田邸の見学後、松代城訪問はここで終わり、この後は本日の宿へと移動しました。
文責 岡島 敏広
松代城は日本100名城に選定され、No.26です。
また、松代城では本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されています。
松代城は千曲川東方にある平城で、北信濃を支配するために永禄3年(1560)、甲斐の武田晴信(信玄)が越後の上杉謙信との「川中島の戦い」(1553-1564)の際に武田方の拠点として築城した「海津(かいづ)城」が松代城のはじまりとされています。
信玄の死後には、戦国の動乱とともに城主はめまぐるしく変転しました。
森忠政が城主となった慶長5年(1600)には二の丸・三の丸を整備し、石垣に築きなおして「待城」と改名、次の松平忠輝の時には「松城」と呼ばれるようになりましたが、元和8年(1622)に真田信之が上田城より移り、第3代藩主真田幸道のときに、幕命により「松代城」と改名されました。
武田晴信(信玄) 真田信之


松代城は戦国時代に築城されて明治時代まで存続した城で、300年以上の間、北信濃における拠点的な場所でした。千曲川によって形成された自然堤防の頂部(中央部)に方形の石造りの本丸を築き、土造りの二の丸・三の丸からなります。
松代城絵図: 絵図はクリックすると拡大します。

廃城後は建物を失ったために、城としての景観を大きく損なっていましたが、長野市は文化遺産を後世に伝えるため、平成の大普請(環境整備工事)を行い、城跡を修理・復元しました。本丸の太鼓門と北不明門等の城門や木橋、石垣、二の丸土塁、堀などは江戸時代終わりごろの姿に限りなく近い状態で再現されています。
松代城は背後を流れる千曲川がたびたび洪水を起こしたため、その修復と千曲川の改修を何度も行っています。中でも「戌の満水」と呼ばれる寛保2年(1742)の被害は大きく、幕府に城普請の許可を得るとともに、1万両の拝借金を許されました。なお、二の丸を焼失した寛永2年(1625)、本丸・二の丸・三の丸を焼失した享保2年(1717)、花の丸を焼失した嘉永6年(1853)など、城内での火災もたびたび起こっています。
こうした浸水被害を受ける本丸にかわり、江戸時代の中頃からは本丸の南西にあった花の丸御殿が藩主の政務の場及び生活の場となりました。
江戸時代末期の松代城のイメージ: 下図はクリックすると拡大します。
明治5年(1872)に廃城となった松代城は、城内の土地・建物を順次払い下げられ、桑畑として開墾され、建物も取り壊されました。また、御殿が存在した花の丸は、明治6年(1873)に放火され焼失してしまいました。
松代城の建物で現在まで残っているのは、三の堀の外に建てられていた新御殿(真田邸)などわずかです。昭和56年(1981)、本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿と共に国史跡に指定されました。また、平成24年(2012)3月の長野電鉄屋代線の廃線を受け、平成27年(2015)には、二の丸南東部や三ケ月堀、丸馬出しなどを含む範囲が追加指定を受けています。

北不明門(きたあかずのもん): 手前の表門(枡形門)と奥の北不明門(櫓門)。城郭北側駐車場より訪問しましたので、北不明門側からの見学となります。
本丸の裏口(搦手)に位置する門で、太鼓門と同様に櫓門と表門(枡形門)の2棟による構成です。18世紀中ごろに行われた千曲川改修以前は、門が河川敷に接していたことから、「水之手御門」と呼ばれることもありました。
絵図史料をもとにして、当時の門礎石をそのまま利用して忠実に復元されています。

北不明門(櫓門)枡形側: 櫓門は石垣に渡らずに独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門です。

北不明門本丸内側

本丸戌亥櫓(いぬいやぐら)の櫓台: 北不明門の西に隣接していた松代城で最も高い櫓の跡です。絵図面では2階建ての隅櫓(すみやぐら)が建っていたとあり、川中島平を広く一望できたと考えられます。 野面積みで積まれた櫓台の石垣は抜本的な積み直しはおこなわれず、欠落した小石の挿入程度にとどめられています。

海津城址の碑: 海津城は山本勘助が築城し、甲州流築城の模範になったといわれる名城です。川中島平全体をにらむ、戦略的に重要な地点にあり、三方を山に囲まれ、西は南北に流れる千曲川という自然の地形を巧みに利用した堅固な造りでした。海津城と称されるように、かつては海のごとき千曲川のほとりにありましたが、寛保年間の瀬直しにより城は川岸から離れました。
山本勘助


元和度 松代城御本丸古図(真田信之時代): 真田信之時代に本丸にあった御殿の配置図で、図をクリックすると拡大図にリンクします。
本丸内には江戸時代中頃まで政庁や藩主の住居のための御殿がありました。調査では建物礎石や井戸跡、焼けた土壁など享保2年(1717)の火災で焼失した御殿の痕跡が数多く見つかっています。
しかし、度重なる水害の影響により明和7年(1770)に城の南西に位置した花の丸に御殿を移転しました。

太鼓門本丸内側: 太鼓門は本丸内では最も大きな門でした。本丸大手の出入り口(虎口)は、枡形に石垣をまわし、二層の櫓門(太鼓門)と枡形門(橋詰門)の2つの門で構成されています。このような枡形で本丸を厳重に守っていました。
良好に残っていた門礎石をそのまま利用し、絵図面などから、栩(とち)葺(板葺)で切妻屋根の姿を忠実に復元しています。
太鼓門の名は、藩士に登城時刻を知らせたり、緊急連絡をするための太鼓を備えていたことに由来します。

太鼓門枡形側

太鼓門前橋: 太鼓門表門(橋詰門)の前には橋が架かっていました。
内堀の調査では堀の中から30本以上の折れた橋脚が発見されています。橋脚の形状や橋脚の打ち込まれた層位の違いから、橋の架けなおしが4回以上行われたことが分かりました。このことから、災害の度に橋が崩落・破損したという当時の史料記載が裏付けられました。
発見した橋脚や江戸時代末期の絵図面をもとに前橋を忠実に復元しています。

埋門: 埋門は二の丸の土累に3か所あったようで、本丸西側に復元されています。

二の丸南門: 南門の虎口は、現在は車道に削られた形になっている丸馬出に繋がっています。丸馬出は上掲の松代城絵図とイメージ参照

真田邸(新御殿)入口: 新御殿の真田邸は幕末の元治元年(1864)、9代藩主真田幸教が、義母・貞松院(幸良の夫人)の住まいとして元治元年(1864)に建築した松代城の城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていました。御殿(主屋)は、表座敷や居間・湯殿など、江戸時代の大名邸宅の面影をよく残しています。隠居後の幸教はここを住まいとし、明治以降は伯爵となった真田氏の私宅となりました。

新御殿玄関: 正面の玄関には、広い式台が設けられています。式台は玄関の低くなった板敷の部分で、武家の家にだけ許された設備です。
また、正面玄関は江戸時代には殿様やお客様の出入りにだけ使われ、家老など上級武士でも、右の「小玄関」から出入したといわれます。

真田邸の見学後、松代城訪問はここで終わり、この後は本日の宿へと移動しました。
文責 岡島 敏広
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joukaku
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