2022年12月24日
2022年12月21日(火)小堤城山城と岩倉城訪問
43期地域文化学科有志で、野洲市小堤城山城を訪れました。参加メンバーの中には、専門講座での発表内容の取材を目的とした人もおります。
城のある野洲郡東部は六角氏被官の馬淵氏の支配地で、馬淵氏の家臣であった永原氏が文亀年間(1501年~1504年)の頃から次第に勢力を拡大します。そして、文亀2年(1502)守護代伊庭氏の反乱を機に独立し、大永年間(1521~1528)頃から六角氏と直接主従関係を結びました。その後は、永原氏は家臣団の中でも中心的な位置にまで上り詰め、平素は現在の祇王小学校辺りにあった永原城に居住し野洲郡全体に影響力を持ちましたが、戦時の詰城として小堤城山城を築いたと考えられます。
しかし、六角勢は元亀元年(1570)に織田信長により攻められ、「野洲川の戦い」で柴田勝家、佐久間信盛の率いる織田勢に惨敗し、永原城は佐久間信盛に与えられ、永原氏嫡流は没落しました。しかし、永原氏一族の大半は、織田信長の近江侵攻から織田方につき、その後、信長家臣の佐久間信盛の与力となったとされます。
永原氏没落後の野洲郡は佐久間信盛が支配し、この際小堤城山城は織田勢に接収され、改修されたと推測されます。
他方、永原氏は、織田信長の近江侵攻で一旦流浪の身となりますが、後に赦されて永原城に復帰し、3千石を得たそうです。その後、山崎の戦に参戦し、討死にし滅亡したそうです。
小堤城山城へは、国道8号線沿いの平田機工より登山道に入り、城のある城山に登城開始です。ちなみに、城山の東のすぐ近く(500mほど)に馬淵氏の岩倉城があり、その城のある山は、古城山(ふるしろやま)と呼ばれています。こちらも訪問します。
登山口に掲示されていた小堤城山城の縄張図を示します。山麓から尾根に挟まれた主郭の曲輪13まで1本の城道が通り、両側に曲輪が配される構造です。また、尾根を土塁に見立て、谷筋にある曲輪群を防御しています。尾根を土塁に見立てる縄張も六角氏の観音寺城に似ており、永禄年間(1558~1570)に積まれたとみられる石垣の多さは、六角氏家臣の城の中でも群を抜いています。築城には六角氏の意図が反映しているとも考えられ、室町幕府による享徳元年(1487)の六角征伐以降の六角氏の支城体制、永原氏の家臣団の中での位置付けを考える上で興味深いものです。
ところで、現地では、各曲輪にこの縄張図に記載されている番号の立て札が掲示され、現在どの曲輪にいるのかがわかりやすくなっています。曲輪は①山頂の北西・南東方向にのびる曲輪群(曲輪18~28)、②中腹の尾根上に置かれた曲輪群(曲輪13~17)、③中腹から山麓に連なる曲輪群(曲輪RL-1~RL-12)の3つに大別されます。
③の中腹から山麓では、目立つ石垣等はありませんでしたが、②に切り替わる目前のL-12,R-12の曲輪間から主郭(曲輪13)を見ると石垣が見えています。
主郭(曲輪13)の麓(北)側石垣です。六角氏は近江の寺院勢力下の石工集団を再編して観音寺城の石垣を構築したとされており、甲賀郡の山間地を有事の退去先としていました。織田信長の近江侵攻時もこの方策をとっており、甲賀郡の土豪の支援を受けながら、平野部の奪回に向けて抵抗を続けていました。ここ小堤城山城と、石垣が同様に使用されている三雲城築城の背景には、六角氏がこうした戦いでの臨時拠点の構想も存在したものと思われ、おそらく、この小堤城山城の石垣も六角氏から何らかの協力を受けていたものと思われます。
登ってきた城道は曲輪直下で折れ曲がり、虎口まで直進させない設計になっていますので、主郭(曲輪13)を右(西)側から回り登ります。主郭とみられる曲輪13の西側面の切岸沿いは、大きな立派な石材が用いられ、見せる要素も感じられます。主郭より上方の曲輪には、石垣が多用され、使用されている石材は城域周辺で豊富に産出される花崗岩で、基本的には自然石による野面積の石垣です。
主郭(曲輪13)の上に到達しました。主郭は山頂ではなく、中腹尾根上の城内最大の曲輪と考えられています。縄張りの特徴として、六角氏の本拠である観音寺城と同様に、近江の天台宗寺院境内構造に酷似しており、寺院では直線道両側の曲輪が僧坊跡で、行き止まりが寺院の本堂・金堂跡に当たります。
主郭(曲輪13)より上は、②の中腹の尾根上に置かれた曲輪群の区域となります。
②の区域に入るため、曲輪14(左)と16(右)の間の堀切へと登りました。小堤城山城は城の随所が石垣で固められているのが大きな特徴で、堀切に面して、櫓台と思われる石垣による突出部(写真左側の曲輪14と堀切の向こうの曲輪15)があります。曲輪14(左)には上がることができ、そこからの眺望は良かったのですが、樹木が邪魔をして見えにくい状態でした。
もう一つ眺望の良い曲輪15に向かいます。曲輪15は4つの側面とも石垣で固められており、写真は曲輪15の北東面の石垣です。
写真は堀切になっている南西面の石垣です。
曲輪15上に立ち、眺望を楽しみました。
曲輪15から眼下に見える白い建物は村田製作所で、国道8号線に面していますので、中山道(城のあった当時は東山道)の様子が見ることができます。左の向こうに見える山は八幡山です。
石垣が積まれているのは、北側ばかりではなく、①の区域(山頂)の曲輪24と曲輪25の間の南斜面(希望ケ丘公園)側にもあります。
頂上の曲輪24まで来ました。山頂の曲輪24の東側には、高さ1.2mを測る石垣が構築されています。
小堤城山城の立地は野洲郡・蒲生郡・甲賀郡を隔てる鏡山山系の北端付近、標高286m地点に築かれ湖南の平野部を眼下に置いています。山麓の北側500mには中山道(当時は東山道)と東海道への間道が走り、湖東・湖南そして甲賀地方ともつながっていた要衝の地です。さすがに、山頂からの眺望は抜群で、北側(少し右より)には八幡山、その左(写真のほぼ中央)に小さく水茎岡山城が築かれた岡山が見えます。
南側は、また、三上山越しに、栗東及び草津方面が見えて、街道の広範囲の様子を見張ることができます。
小堤城山城(城山)をJR篠原駅近く(城の北側)から見ました(写真中央の頂上が削平された山)。右に三上山が見えますが、かなり離れた所からでも城山が見えますので、逆に城からは遠くまで見渡せ、街道の監視にはうってつけの立地であることがわかります。また、この後に訪問する岩倉城は、小堤城山城の山(城山)の左の肩となっている所(古城山)で、こちらも同様に街道の監視に適した場所であることがわかります。
小堤城山城(城山)を南から見た写真です。城山からかなりの範囲が監視できていることがわかります。
岩倉城は、小堤城山城から尾根続きで近くにありますので、こちらも訪問しました。小字岩倉にあり、西方は小堤、辻町に接し、東は立石山に接しています。
小堤山城が後に西方500mの尾根伝いに築かれてからは、同城の出城となったようで、北東と北西に開口する虎口付近には戦国末期に後補された石積が残っているとのことですが、今回は確認していません。小堤城山城からの尾根を通り、古城山標高259mの標識を見て、尾根を下り、南側の虎口から城に入ります。
岩倉城の築城年代ははっきりしませんが、滋賀県中世城郭分布調査3では、正安2年(1300)築城の岩蔵城、もしくは応永8年(1401)築城の弥勒寺城のいずれかに該当するものと考えています。両城とも六角氏が築き家臣の馬淵氏が守備したと伝えられますが、馬淵氏はその後嫡流六角氏に仕え、馬淵氏の城であることから古城の名があります。写真は南側土塁です。
頂上近くに池があり、この桜本池は、明治時代の記録では、「桜本の池」と称し、干ばつの時も水が枯れたことがないと言い伝えられています。
桜本坊跡、岩倉城跡の表示が木に掛けられ、人が歩いているのは北側土塁です。
桜本坊は応永年間(1394~1428)に岩蔵寺(がんぞうじ)が再興されたときに造られた六坊の一つで、古城山山頂に位置します。桜本坊は他の坊が荒廃し消滅する中で最後まで続き、明治新政府の神佛分離令により神道化し、桜本社と称することになりました。明治27年には瓦葺の小さな社殿が建立され、例祭行事(古城祭)の他、大干ばつ時には雨乞い祭りも行われました。しかし、第二次大戦の頃、その例祭行事が断絶してしまい、その後は古城山山頂周辺に石積、社殿の瓦、それに石灯籠を残すのみになりました。写真はその名残と思われます。
一部の写真は、一緒に参加されたKOさんのものを使用させていただきました。参加の皆様、お疲れ様でした。 文責 岡島 敏広
城のある野洲郡東部は六角氏被官の馬淵氏の支配地で、馬淵氏の家臣であった永原氏が文亀年間(1501年~1504年)の頃から次第に勢力を拡大します。そして、文亀2年(1502)守護代伊庭氏の反乱を機に独立し、大永年間(1521~1528)頃から六角氏と直接主従関係を結びました。その後は、永原氏は家臣団の中でも中心的な位置にまで上り詰め、平素は現在の祇王小学校辺りにあった永原城に居住し野洲郡全体に影響力を持ちましたが、戦時の詰城として小堤城山城を築いたと考えられます。
しかし、六角勢は元亀元年(1570)に織田信長により攻められ、「野洲川の戦い」で柴田勝家、佐久間信盛の率いる織田勢に惨敗し、永原城は佐久間信盛に与えられ、永原氏嫡流は没落しました。しかし、永原氏一族の大半は、織田信長の近江侵攻から織田方につき、その後、信長家臣の佐久間信盛の与力となったとされます。
永原氏没落後の野洲郡は佐久間信盛が支配し、この際小堤城山城は織田勢に接収され、改修されたと推測されます。
他方、永原氏は、織田信長の近江侵攻で一旦流浪の身となりますが、後に赦されて永原城に復帰し、3千石を得たそうです。その後、山崎の戦に参戦し、討死にし滅亡したそうです。
小堤城山城へは、国道8号線沿いの平田機工より登山道に入り、城のある城山に登城開始です。ちなみに、城山の東のすぐ近く(500mほど)に馬淵氏の岩倉城があり、その城のある山は、古城山(ふるしろやま)と呼ばれています。こちらも訪問します。

登山口に掲示されていた小堤城山城の縄張図を示します。山麓から尾根に挟まれた主郭の曲輪13まで1本の城道が通り、両側に曲輪が配される構造です。また、尾根を土塁に見立て、谷筋にある曲輪群を防御しています。尾根を土塁に見立てる縄張も六角氏の観音寺城に似ており、永禄年間(1558~1570)に積まれたとみられる石垣の多さは、六角氏家臣の城の中でも群を抜いています。築城には六角氏の意図が反映しているとも考えられ、室町幕府による享徳元年(1487)の六角征伐以降の六角氏の支城体制、永原氏の家臣団の中での位置付けを考える上で興味深いものです。
ところで、現地では、各曲輪にこの縄張図に記載されている番号の立て札が掲示され、現在どの曲輪にいるのかがわかりやすくなっています。曲輪は①山頂の北西・南東方向にのびる曲輪群(曲輪18~28)、②中腹の尾根上に置かれた曲輪群(曲輪13~17)、③中腹から山麓に連なる曲輪群(曲輪RL-1~RL-12)の3つに大別されます。

③の中腹から山麓では、目立つ石垣等はありませんでしたが、②に切り替わる目前のL-12,R-12の曲輪間から主郭(曲輪13)を見ると石垣が見えています。

主郭(曲輪13)の麓(北)側石垣です。六角氏は近江の寺院勢力下の石工集団を再編して観音寺城の石垣を構築したとされており、甲賀郡の山間地を有事の退去先としていました。織田信長の近江侵攻時もこの方策をとっており、甲賀郡の土豪の支援を受けながら、平野部の奪回に向けて抵抗を続けていました。ここ小堤城山城と、石垣が同様に使用されている三雲城築城の背景には、六角氏がこうした戦いでの臨時拠点の構想も存在したものと思われ、おそらく、この小堤城山城の石垣も六角氏から何らかの協力を受けていたものと思われます。

登ってきた城道は曲輪直下で折れ曲がり、虎口まで直進させない設計になっていますので、主郭(曲輪13)を右(西)側から回り登ります。主郭とみられる曲輪13の西側面の切岸沿いは、大きな立派な石材が用いられ、見せる要素も感じられます。主郭より上方の曲輪には、石垣が多用され、使用されている石材は城域周辺で豊富に産出される花崗岩で、基本的には自然石による野面積の石垣です。

主郭(曲輪13)の上に到達しました。主郭は山頂ではなく、中腹尾根上の城内最大の曲輪と考えられています。縄張りの特徴として、六角氏の本拠である観音寺城と同様に、近江の天台宗寺院境内構造に酷似しており、寺院では直線道両側の曲輪が僧坊跡で、行き止まりが寺院の本堂・金堂跡に当たります。
主郭(曲輪13)より上は、②の中腹の尾根上に置かれた曲輪群の区域となります。

②の区域に入るため、曲輪14(左)と16(右)の間の堀切へと登りました。小堤城山城は城の随所が石垣で固められているのが大きな特徴で、堀切に面して、櫓台と思われる石垣による突出部(写真左側の曲輪14と堀切の向こうの曲輪15)があります。曲輪14(左)には上がることができ、そこからの眺望は良かったのですが、樹木が邪魔をして見えにくい状態でした。

もう一つ眺望の良い曲輪15に向かいます。曲輪15は4つの側面とも石垣で固められており、写真は曲輪15の北東面の石垣です。

写真は堀切になっている南西面の石垣です。

曲輪15上に立ち、眺望を楽しみました。

曲輪15から眼下に見える白い建物は村田製作所で、国道8号線に面していますので、中山道(城のあった当時は東山道)の様子が見ることができます。左の向こうに見える山は八幡山です。

石垣が積まれているのは、北側ばかりではなく、①の区域(山頂)の曲輪24と曲輪25の間の南斜面(希望ケ丘公園)側にもあります。

頂上の曲輪24まで来ました。山頂の曲輪24の東側には、高さ1.2mを測る石垣が構築されています。

小堤城山城の立地は野洲郡・蒲生郡・甲賀郡を隔てる鏡山山系の北端付近、標高286m地点に築かれ湖南の平野部を眼下に置いています。山麓の北側500mには中山道(当時は東山道)と東海道への間道が走り、湖東・湖南そして甲賀地方ともつながっていた要衝の地です。さすがに、山頂からの眺望は抜群で、北側(少し右より)には八幡山、その左(写真のほぼ中央)に小さく水茎岡山城が築かれた岡山が見えます。

南側は、また、三上山越しに、栗東及び草津方面が見えて、街道の広範囲の様子を見張ることができます。

小堤城山城(城山)をJR篠原駅近く(城の北側)から見ました(写真中央の頂上が削平された山)。右に三上山が見えますが、かなり離れた所からでも城山が見えますので、逆に城からは遠くまで見渡せ、街道の監視にはうってつけの立地であることがわかります。また、この後に訪問する岩倉城は、小堤城山城の山(城山)の左の肩となっている所(古城山)で、こちらも同様に街道の監視に適した場所であることがわかります。

小堤城山城(城山)を南から見た写真です。城山からかなりの範囲が監視できていることがわかります。

岩倉城は、小堤城山城から尾根続きで近くにありますので、こちらも訪問しました。小字岩倉にあり、西方は小堤、辻町に接し、東は立石山に接しています。
小堤山城が後に西方500mの尾根伝いに築かれてからは、同城の出城となったようで、北東と北西に開口する虎口付近には戦国末期に後補された石積が残っているとのことですが、今回は確認していません。小堤城山城からの尾根を通り、古城山標高259mの標識を見て、尾根を下り、南側の虎口から城に入ります。
岩倉城の築城年代ははっきりしませんが、滋賀県中世城郭分布調査3では、正安2年(1300)築城の岩蔵城、もしくは応永8年(1401)築城の弥勒寺城のいずれかに該当するものと考えています。両城とも六角氏が築き家臣の馬淵氏が守備したと伝えられますが、馬淵氏はその後嫡流六角氏に仕え、馬淵氏の城であることから古城の名があります。写真は南側土塁です。

頂上近くに池があり、この桜本池は、明治時代の記録では、「桜本の池」と称し、干ばつの時も水が枯れたことがないと言い伝えられています。

桜本坊跡、岩倉城跡の表示が木に掛けられ、人が歩いているのは北側土塁です。

桜本坊は応永年間(1394~1428)に岩蔵寺(がんぞうじ)が再興されたときに造られた六坊の一つで、古城山山頂に位置します。桜本坊は他の坊が荒廃し消滅する中で最後まで続き、明治新政府の神佛分離令により神道化し、桜本社と称することになりました。明治27年には瓦葺の小さな社殿が建立され、例祭行事(古城祭)の他、大干ばつ時には雨乞い祭りも行われました。しかし、第二次大戦の頃、その例祭行事が断絶してしまい、その後は古城山山頂周辺に石積、社殿の瓦、それに石灯籠を残すのみになりました。写真はその名残と思われます。

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2025年2月15日(土)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第2回「横山城跡」参加
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加
2024年12月10日(火)地域文化学科45期生校外学習 近江の江戸期の城「彦根城の見方、調べ方」
2024年3月16日(土)「近江の城郭~徳川家康と近江の城」姉川古戦場参加
2024年2月18日(日)「近江の城郭~徳川家康と近江の城」永原御殿参加
2023年7月20-22日レイカディア大学大学祭
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加
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