2023年12月03日

2023年12月1日(金)第111回例会「安土城と信長の館」

城郭探訪会第111回例会が、近江八幡市の安土城址と信長の館を探訪地として、草津校44期園芸学科Bと陶芸学科の共同主催により開催されました。今回は67名(43~45期生)のレイカディア大学城郭探訪会員が参加し、筆者はOBとして参加しました。
安土城については、中井均先生の講義をすでに受けたことがあります。その模様はこちらをご覧ください。
また、安土城下町も巡っております。その様子はこちら

例会実施における注意事項の説明を受け(写真右下)出発です。

安土城址石碑(昭和2年3月建立)    111回例会開始

安土城織田信長によって天正4年(1576)に安土山に建造された城で、坂本城(元亀2年(1571)築城)、長浜城(天正元年(1573)築城)、大溝城( 天正6年(1578)築城)の3城とともに近江支配のために琵琶湖を取り囲むように配置された4城(信長の「琵琶湖城郭ネットワーク」)のうちの織田信長自身が住む城で、3番目に築城されています。

大手口で入山料を支払い入山です。2006年までは無料だったそうですが、発掘調査が終わってから後は、入山料を徴収するようになり、現在はこの入口からのみの入山で、百々橋口からは登城できません。

安土城址入口

本日は67名の参加ですので、多人数が一箇所に集中するのを避けるために3班に別れて安土城址を巡ります。筆者の所属した第3班はパンフレットにある通常の登城コース(伝大手道)とは違え、伝羽柴秀吉邸跡の奥の「帰路」を逆に辿り、まず百々橋口に回り、信長公記でいう登城道から登ります(右下地図)。この登城道は、信長が安土城を百文の入場料をとって有料で公開したとき、見物人が殺到して石段が崩れ死者が出たという話のある道です。
本ブログでは、このあと「伝・・・」と呼ぶ地名は、安土城のパンフレットでの名称にも用いられていますが、廃城となった後である江戸時代に描かれた地図に基づく名称であり、当時の絵師の想像も紛れ込んでいることから、必ずしも安土城の正しい地名を表しているとは限りません。

登城道の石段を登って行くと、まず仁王門(重要文化財)があります。この仁王門の棟木には「元亀二年七月甲賀武士山中俊好建立」(元亀二年は1571年)と記載されています。山中氏は「柏木三家」と称される一族であることから、甲賀市(甲賀郡)水口の柏木神社から移築されたものとの伝承があります。

ただし、この仁王門は元は神社の楼門ですから、元来金剛力士像は設置されておりません。これらの金剛力士像(重要文化財、応仁元年(1467)作)も、どこからか持ってこられたものと言われていますが、出所はわかりません。

急な登城道を登ると表門跡にたどり着き、その先の右側に三重塔(重要文化財)があります。

この三重塔も湖南市(甲賀郡)長寿寺より移築されたものと伝承されています。長寿寺には礎石が残されており、元の長寿寺塔址の発掘調査の結果、判明した礎石配置が摠見寺三重塔柱間寸法に一致したことから、長寿寺由来の可能性が非常に高いと考えられます。また、三重塔四天柱などに残る墨書銘に文安5年(1448)その他の年記が見られ、三重塔はほぼ15世紀半ばの建物であると考えられます。

火災により焼失した本堂跡を左に見て先に進みます。焼失した本堂の2階には「盆山」が祀られていたという話があります(木曽路名所図会の摠見寺)。焼失後は伝大手道沿いの伝徳川家康邸跡に仮本堂が建てられています。

織田信忠邸跡: ここで登城道と伝大手道が合流し、天主へと向かいます。

天主周辺の御殿配置推定図(信長公記の記載に基づいた加藤理文先生による図): 図はクリックすると拡大します。織田信忠邸から登ると、図の左(西)側の伝黒鉄門跡にたどり着きます。

伝黒鉄門: ここの石垣に用いられている石はこれまでとは異なり、大きくりっぱなものが使われており、城の中心に近づいていることを感じさせます。

伝黒鉄門(上記地図の「表の御門」辺り): 伝黒鉄門の辺りは枡形虎口となっています。

伝二の丸石垣: 上地図の「二の御門」辺りです。左の石垣は伝二の丸の石垣です。先に進むと仏足石があります。

伝本丸・伝二の丸へ: 上地図の「三の御門」への階段で、ここを登ると信長公記でいう「御白洲」です。

伝二の丸・信長公本廟: まず、一気に伝二の丸にまで登り、そこに建立された信長公本廟を訪れます。信長公本廟は羽柴秀吉が建てたもので、おそらく、秀吉は信長の居所(本丸御殿)がここであったことを知っていたことから、この場所が選定されたものと思われます。

天主台から見る信長公本廟

織田信長墓(京都寺町阿弥陀寺): ちなみに、上の信長公本廟とは別に、京都寺町阿弥陀寺に信長の墓があると伝わります。
写真右が信長墓、左は信忠墓。阿弥陀寺を創建した玉誉清玉は、織田家で育ち、その庇護にて僧となり、信長は京における織田家菩提寺として阿弥陀寺を整備しました。また、正親町帝の信頼篤く、東大寺再建の勧進職に任じられた高僧です。天正10年6月2日(本能寺の変)の際に、玉誉清玉は本能寺(京都市中京区油小路通蛸薬師下る山田町513)に駆けつけますが時遅く、信長公は自刃した後で、森蘭丸はじめ近習の武士に遺骸を託され、阿弥陀寺に運びます。同日明智光秀に会い、本能寺・二条城にて討死の100余名の供養を申し出、許可され、遺骸を運び、共に供養・埋葬したと伝わります。

       本能寺跡の碑

伝二の丸東溜り・天主台西側(地図の「御白洲」): 右の石垣は天主台石垣で、左手前の大きな石は「蛇石」ではないかと言われている石です。しかし、蛇石としては下のジオラマにあるように、1万余人で引き上げたというには小さく、天主台か、信長の居所(本丸御殿の伝二の丸/信長公本廟)の下に埋められているのではないかと考えられています(ただし、天主台の下は調査で埋める余地がないと判断されています)。ガイドさんによると、この写真の石は、天主台から崩れ落ちた石ではないかとのことでした。
また、天主台の西面(天主台と手前の石の間)に沿って礎石列が残されており、その礎石列は、この周辺の調査の出土品と信長公記の記述に基づいて、「御白洲」から伝二の丸の信長居所(本丸御殿)へ向かう階段であったという説が出されています。
伝二の丸は伝本丸より高い位置にあり、天主を含めた信長のプライベートな居所となった「奥御殿」と考えられます。

蛇石引上げの様子(ジオラマ): 安土城天主 信長の館に展示

天主台鈍角隅石垣: 安土城の天主台は変形で、鈍角の隅石垣は珍しいとのことでした。

伝本丸(南殿)からの伝三の丸(江雲寺御殿)を望む: 南殿は政庁として正式な対面を行う「表御殿」、江雲寺御殿は行事等を開催する「会所」として利用されていたと考えられます。
江雲寺とは、六角定頼の法名で、信長は亡き六角定頼の菩提寺である江雲寺を第一級応接用の御殿としてここに移築し、ここで徳川家康一行を接待しています。

伝本丸東虎口門を登り伝本丸から天主台へ

天主台北東の発掘現場: 伝本丸東虎口門を登った所で、発掘調査の現場が見られました。天主が焼け落ちたとき、こちらの方に倒れたと伝えられていることから、天主の手がかりが得られないかと期待しての調査です。
気長に、これから20年かけて調査するとのことです。

天主台虎口踊り場に敷き詰められた笏谷石: 天主台への階段に笏谷石が敷き詰められていました。ここは建物の内部であったと考えられ、雨で濡れると石の特徴の美しい緑色になります。
この笏谷石は柴田勝家が信長に切石数百を7月11日に進上したと信長公記巻十四に記載されていますので、間違いなく信長公記記載の切石そのものと考えられます。

安土城天主礎石: 礎石群中央部を撮影したものです。中央部は礎石が1つ抜けており、これは城の設計段階からのものです。

天守指図: 加賀藩作事奉行などを務めた池上家に伝わるもので、江戸時代中期の写本とされます。各階の平面図には安土城とは書かれていませんが、石垣の形状が一致しているうえ、信長公記との整合性も高いものです。愛知産業大学学長 故内藤 昌氏による遺跡発掘調査、実測調査の結果、この指図が「安土城」のものであることが解明されました。その地階部分を下に示しますが、中央に宝塔が描かれており、その上階は吹き抜けとして描かれていることから、中央の宝塔部分には柱が不要であることと一致します。
図は上方が北(琵琶湖は北西方向)

伝大手道周辺地図: 天主台訪問の後は、織田信忠邸まで戻り、伝大手道に沿って下り、入口まで戻ります。

伝大手道(下から上方を見上げて撮影)

伝羽柴秀吉邸上段と礎石: 入口近くの伝羽柴秀吉邸まで戻りました。伝羽柴秀吉邸は一等地にあり、2段となっています。上段には建物の礎石が見えますが御殿跡と考えられます。

伝羽柴秀吉邸下段: こちらには厩があったと思われる構造となっています。この下段から金箔瓦も見つかっていて、明智光秀や羽柴秀吉にも金箔瓦を使わせなかった信長のことを考えると、ここは信長の館であったと考えられます。

伝前田利家邸: こちらは正面が伝羽柴秀吉邸だから、江戸時代の人は仲の良かった前田利家の館であろうと軽い気持ちで名づけたものと思われます。

この後、昼食をはさんで、安土城天主 信長の館を訪問しました。
安土城模型: 模型が展示されていましたが、静嘉堂文庫所蔵の「天守指図」に基づいた内藤昌先生の復元案で、これが最も有名です。天主

安土城5階部分: 1992 年スペイン万博に出展された実物大の安土城天主最上部2層をここに移築し展示していおりました。写真は5階部分で、仏教の世界観による理想郷を象徴しています。ここに展示されている5階部分には新たに発掘された当時の瓦をもとに、焼き上げから再現した「庇屋根」が取付けられています。

安土城6階部分: 6階部分内部には信長が狩野永徳に描かせた「金碧障壁画」を再現し、新たに金箔10万枚を使用した「外壁」、「金箔の鯱を載せた大屋根」が取り付けられています。

この信長の館見学の後、館前で例会は解散となりました。
例会実施にご尽力いただきました城郭探訪会44期園芸学科B及び陶芸学科の皆様に感謝いたします。
                              文責 岡島敏広

次回は、2024年1月14日(日)に坂本城探訪が計画されています。

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Posted by joukaku at 20:36 Comments(0)例会
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