2024年05月06日
2024年5月3日(金)観音寺城跡(追手道沿い曲輪)
観音寺城跡は、城郭探訪会の例会として2022年11月に北腰越登山口から繖山三角点を経由し登るコースから訪問しています。その時の様子はこちらに記載しており、また、滋賀県レイカディア大学同級生4名で2024年3月に観音寺城大土塁(北尾根道)周辺の曲輪を探訪しております。さらに、麓の観音寺城城下町石寺もこちらで訪問し、その下見も行っています。
しかし、本谷道が整備されつつあるという情報を得ましたので、麓からそれを登れないかと試してみました。結論的には、現時点では整備が未完で、どこから登れるのか分からなかったことから、今回はこれまで通っていない追手道に沿って観音寺城を探訪し、下山は赤坂道からすることとしました。
なお、観音寺城の曲輪や登城道の詳細情報は、次にまとめられています。
観音寺城は、六角氏により近江八幡市金剛寺町にあった金剛寺城(金田館)とセットでつくられ、金剛寺城が平地の城館であったのに対し、詰めの山城であった観音寺城はその後大規模に整備されたものであると考えられています。
写真は家臣を城に集住させ、石塁等を整備した六角定頼の騎馬像:
観音寺城では曲輪の名称に、「二の丸」や「三の丸」のような数字ではなく、人の名称が使用されたと伝承されています。これは、六角定頼の時代に近江の家臣団、国人衆を平定し観音寺城へ集住させ、文献上では初めて「城割」を実施したことによると推定されています。
まず、石寺集落はずれにある石寺楽市の有料駐車場に自家用車を駐車し、集落内に入ります。
すぐに、「左 くいんおんし」と書かれた道標を見かけ、それに従い観音正寺に向かって登山を開始します。
本日の探訪コース(青線は追手道に沿った登山コースと立ち寄った曲輪など、黄線は下山に使った赤坂道)を示します。約10,000歩のコースです。
図はクリックすると拡大します。
御屋形(おやかた)跡(天満宮)への石段: 石寺集落内でまず目につくのが、御屋形跡です。現在は天満宮境内となっています。「屋形」(やかた)とは、公家や武家など貴人の館のことを意味し、室町幕府及び江戸幕府においては、名門或いは功績ある武家の当主、及び大藩の藩主に許された称号または敬称であったことから、ここは六角氏当主の住んでいた館跡であると考えられます。
御屋形跡(天満宮)高石垣: 加えて、御屋形跡には「上御用屋敷」(御用屋敷=公用のために利用される屋敷)の地名が残っていることから、このことからも六角氏当主の居館跡に比定されています。
発掘調査が行われていないため、遺構の状況などは分かりませんが、山麓という立地は、まさに平時の居館であったことを想定させ、おそらく、六角氏が観音寺城を居城とした当初、この山麓居館を平時の住まいとしていたと考えられます。高石垣は埋もれていたものが発掘でここまで掘り下げられたとのことです。
追手道を登り始めました。表坂道とも呼ばれ、本谷の西に隣接する尾根道であり、この道が追手道と伝承されています。山裾の御屋形跡と、城の中心部とされる池田丸・落合丸・平井丸・本丸を結んでいます。道沿いには、城内で最大級の高さを有する大石垣があります。道沿いに点在する施設は登城道の防御というよりも、箕作山との間を走る中山道(江戸時代になるまでは東山道)への睨みを目的としたものに見えます。
老蘇の森: 繖山林道に出るまでの途中、木が途切れて見晴らしの良い地点から、蒲生野(写真に広がる平野)と老蘇の森(田畑の中にポツンとある森)が見えました。旧中山道(東山道)は、左(北)から平野の真ん中を右行(南下)し、老蘇の森に当たると、写真向こう側に避けて、そのまままっすぐ右行(南下)しています。その旧中山道(東山道)沿いには民家が立ち並んでいます。
繖山林道と本谷道の交叉点北側にある石塁が積まれた曲輪: 下に示した「観音寺登城道整備現状図」において、白線で示された本谷道(大手道と伝わる谷沿いの幹線路)に沿って登れないかと、追手道から✕印で示した地点まで繖山林道を歩いて行き現地を確認しました。しかし、本谷道に沿って北に登り始めると、道が未整備のため、すぐに「立入危険」と表示されていたことから、本谷道を登ることはあきらめました。
なお、本谷は見付谷という別名があることを裏付けるかのように、地図を見ると本谷道沿いには往来を監視する曲輪が連なっており、鉄壁の防御を感じさせられました。
「YAMAP」(ログイン必要)では、本谷道を登って追手道から下るコースの様子が紹介されています。
観音寺登城道整備現状図(2023年2月16日付状況): ✕印を示した地点は「立入危険」とされていましたので、追手道を継続して登るため、追手道入口まで林道を戻りました。残りは下の現状図の赤線で示された「既存の散策路」(追手道→観音正寺→赤坂道)に従って巡りました。図はクリックにより拡大します。
篝場(かがりば): 追手道を登ってゆくと篝場がありました。狼煙をあげる場所だそうです。
木村丸石塁: さらに進むと木村丸の表示があり、追手道から外れて、埋門を見るため木村丸を訪れました。
木村丸埋門(うずみもん) 曲輪外部(上写真)と内側(下写真): 木村丸の石塁には、トンネル状に穴が空いた埋門があります。石垣や土塀などに小さな開口部が設けられたトンネル状の門のことで、「穴門」とも呼ばれます。普段はあまり使われず、緊急の際の非常口のような役割があったと考えられます。木村丸では外部から見るとかなり埋まっていましたが、内側からはトンネル状であるのがよくわかります。
同じような虎口は、現在は崩れていますが、平井丸などにも見られ、観音寺城の特徴的な虎口の1つとなっています。

大石垣: この先訪れる池田丸から2段下がった曲輪には通称大石垣と呼ばれる高石垣があります。これは城内でも有数の立派な石垣です。
扉石郭の扉石
扉石郭には、扉のような形をした巨石が横たわっています。その重量からして扉には使えそうにはありませんが、この曲輪の名の所以です。吉田勝著「近江観音寺城」には、もともとこの扉石は2個あったが、その1つが馬場邸(曲輪)に運ばれ、現在ある「佐々木城址」の標石として使われていると記されています。
また、残った1つの扉石は2010年4月24日時点で2つに割れているとの記録があります。
池田丸追手道虎口: 池田丸は曲輪の周囲を石塁で囲い、このように虎口を伴っていますが、簡易な平虎口が基本です。
池田丸内から見る石塁: 周囲を石塁で囲っていました。
池田丸排水口: 池田丸内の石塁沿いには、排水口も設けられておりました。
落合丸から平井丸への石段: 池田丸を出て、落合丸前を追手道に沿って歩いています。正面の石塁は平井丸のもの
平井丸虎口: 平井丸の虎口は、城内でも最も巨大な石を用いた立派な平虎口です。
平井丸内部上段曲輪
平井丸外部石塁: 平井丸前を三の丸に向かう道(追手道)で、向こうに石段が見えます。その先に本丸へ向かう大石段があります。
次の写真は本丸へ向かう大石段ですが、排水路も設けられておりました。
本丸は江戸時代の古絵図に「本城」と記されていることから、城の中核部分と思われていますが、ここよりも高い地点にも曲輪が存在すること、この場所が曲輪の分布する範囲の西端に位置することなどから、城の中核部分として理解してよいかは疑問が持たれていました。
他方、他の曲輪が谷筋に位置し、天台寺院の構造を基にしたものであるのに対して、池田丸・平井丸・本丸は尾根筋を削平した所に存在しており、その位置や構造から、城主のために新しく作られた曲輪とも考えられます。本丸の虎口も簡易な平虎口が基本ですが、本丸の北から桑実寺に向かう場所に位置する裏虎口(搦手口)は、石塁をずらして配置する食い違い虎口となっています。ただし、周囲の状況からみて後から改修されたものである可能性があります。
本丸大石段 本丸大石段排水路

大夫殿井戸: 本丸搦手口にあります。今でもきれいに澄んだ水をたたえていました。
この後、観音正寺の境内を通って、赤坂道の方から下山しました。
閼伽坂見附: 赤坂道の途中にある見附で、見附とは、見張りの番兵を置いた軍事施設で、赤坂道の見張り場所として石塁が積まれています。
赤坂道: 観音正寺の参道。観音正寺の境内につながる道であり、登城道では無いとされていますが、よく整備されており現在では観音寺城域に入るためのメインルートとして使われています。道沿いには、上記のように赤坂見付などの石垣が見られ、登城道としての風格を併せ持っています。
赤坂道を過ぎると、石寺の日吉神社に到達し、本日の観音寺城訪問は終了しました。
石寺集落内では旬のタケノコが無人販売されていましたので、買って帰りました。
文責 岡島敏広
しかし、本谷道が整備されつつあるという情報を得ましたので、麓からそれを登れないかと試してみました。結論的には、現時点では整備が未完で、どこから登れるのか分からなかったことから、今回はこれまで通っていない追手道に沿って観音寺城を探訪し、下山は赤坂道からすることとしました。
なお、観音寺城の曲輪や登城道の詳細情報は、次にまとめられています。
観音寺城は、六角氏により近江八幡市金剛寺町にあった金剛寺城(金田館)とセットでつくられ、金剛寺城が平地の城館であったのに対し、詰めの山城であった観音寺城はその後大規模に整備されたものであると考えられています。
写真は家臣を城に集住させ、石塁等を整備した六角定頼の騎馬像:
観音寺城では曲輪の名称に、「二の丸」や「三の丸」のような数字ではなく、人の名称が使用されたと伝承されています。これは、六角定頼の時代に近江の家臣団、国人衆を平定し観音寺城へ集住させ、文献上では初めて「城割」を実施したことによると推定されています。

まず、石寺集落はずれにある石寺楽市の有料駐車場に自家用車を駐車し、集落内に入ります。
すぐに、「左 くいんおんし」と書かれた道標を見かけ、それに従い観音正寺に向かって登山を開始します。

本日の探訪コース(青線は追手道に沿った登山コースと立ち寄った曲輪など、黄線は下山に使った赤坂道)を示します。約10,000歩のコースです。
図はクリックすると拡大します。

御屋形(おやかた)跡(天満宮)への石段: 石寺集落内でまず目につくのが、御屋形跡です。現在は天満宮境内となっています。「屋形」(やかた)とは、公家や武家など貴人の館のことを意味し、室町幕府及び江戸幕府においては、名門或いは功績ある武家の当主、及び大藩の藩主に許された称号または敬称であったことから、ここは六角氏当主の住んでいた館跡であると考えられます。

御屋形跡(天満宮)高石垣: 加えて、御屋形跡には「上御用屋敷」(御用屋敷=公用のために利用される屋敷)の地名が残っていることから、このことからも六角氏当主の居館跡に比定されています。
発掘調査が行われていないため、遺構の状況などは分かりませんが、山麓という立地は、まさに平時の居館であったことを想定させ、おそらく、六角氏が観音寺城を居城とした当初、この山麓居館を平時の住まいとしていたと考えられます。高石垣は埋もれていたものが発掘でここまで掘り下げられたとのことです。

追手道を登り始めました。表坂道とも呼ばれ、本谷の西に隣接する尾根道であり、この道が追手道と伝承されています。山裾の御屋形跡と、城の中心部とされる池田丸・落合丸・平井丸・本丸を結んでいます。道沿いには、城内で最大級の高さを有する大石垣があります。道沿いに点在する施設は登城道の防御というよりも、箕作山との間を走る中山道(江戸時代になるまでは東山道)への睨みを目的としたものに見えます。

老蘇の森: 繖山林道に出るまでの途中、木が途切れて見晴らしの良い地点から、蒲生野(写真に広がる平野)と老蘇の森(田畑の中にポツンとある森)が見えました。旧中山道(東山道)は、左(北)から平野の真ん中を右行(南下)し、老蘇の森に当たると、写真向こう側に避けて、そのまままっすぐ右行(南下)しています。その旧中山道(東山道)沿いには民家が立ち並んでいます。

繖山林道と本谷道の交叉点北側にある石塁が積まれた曲輪: 下に示した「観音寺登城道整備現状図」において、白線で示された本谷道(大手道と伝わる谷沿いの幹線路)に沿って登れないかと、追手道から✕印で示した地点まで繖山林道を歩いて行き現地を確認しました。しかし、本谷道に沿って北に登り始めると、道が未整備のため、すぐに「立入危険」と表示されていたことから、本谷道を登ることはあきらめました。
なお、本谷は見付谷という別名があることを裏付けるかのように、地図を見ると本谷道沿いには往来を監視する曲輪が連なっており、鉄壁の防御を感じさせられました。
「YAMAP」(ログイン必要)では、本谷道を登って追手道から下るコースの様子が紹介されています。

観音寺登城道整備現状図(2023年2月16日付状況): ✕印を示した地点は「立入危険」とされていましたので、追手道を継続して登るため、追手道入口まで林道を戻りました。残りは下の現状図の赤線で示された「既存の散策路」(追手道→観音正寺→赤坂道)に従って巡りました。図はクリックにより拡大します。

篝場(かがりば): 追手道を登ってゆくと篝場がありました。狼煙をあげる場所だそうです。

木村丸石塁: さらに進むと木村丸の表示があり、追手道から外れて、埋門を見るため木村丸を訪れました。

木村丸埋門(うずみもん) 曲輪外部(上写真)と内側(下写真): 木村丸の石塁には、トンネル状に穴が空いた埋門があります。石垣や土塀などに小さな開口部が設けられたトンネル状の門のことで、「穴門」とも呼ばれます。普段はあまり使われず、緊急の際の非常口のような役割があったと考えられます。木村丸では外部から見るとかなり埋まっていましたが、内側からはトンネル状であるのがよくわかります。
同じような虎口は、現在は崩れていますが、平井丸などにも見られ、観音寺城の特徴的な虎口の1つとなっています。


大石垣: この先訪れる池田丸から2段下がった曲輪には通称大石垣と呼ばれる高石垣があります。これは城内でも有数の立派な石垣です。

扉石郭の扉石
扉石郭には、扉のような形をした巨石が横たわっています。その重量からして扉には使えそうにはありませんが、この曲輪の名の所以です。吉田勝著「近江観音寺城」には、もともとこの扉石は2個あったが、その1つが馬場邸(曲輪)に運ばれ、現在ある「佐々木城址」の標石として使われていると記されています。
また、残った1つの扉石は2010年4月24日時点で2つに割れているとの記録があります。

池田丸追手道虎口: 池田丸は曲輪の周囲を石塁で囲い、このように虎口を伴っていますが、簡易な平虎口が基本です。

池田丸内から見る石塁: 周囲を石塁で囲っていました。

池田丸排水口: 池田丸内の石塁沿いには、排水口も設けられておりました。

落合丸から平井丸への石段: 池田丸を出て、落合丸前を追手道に沿って歩いています。正面の石塁は平井丸のもの

平井丸虎口: 平井丸の虎口は、城内でも最も巨大な石を用いた立派な平虎口です。

平井丸内部上段曲輪

平井丸外部石塁: 平井丸前を三の丸に向かう道(追手道)で、向こうに石段が見えます。その先に本丸へ向かう大石段があります。

次の写真は本丸へ向かう大石段ですが、排水路も設けられておりました。
本丸は江戸時代の古絵図に「本城」と記されていることから、城の中核部分と思われていますが、ここよりも高い地点にも曲輪が存在すること、この場所が曲輪の分布する範囲の西端に位置することなどから、城の中核部分として理解してよいかは疑問が持たれていました。
他方、他の曲輪が谷筋に位置し、天台寺院の構造を基にしたものであるのに対して、池田丸・平井丸・本丸は尾根筋を削平した所に存在しており、その位置や構造から、城主のために新しく作られた曲輪とも考えられます。本丸の虎口も簡易な平虎口が基本ですが、本丸の北から桑実寺に向かう場所に位置する裏虎口(搦手口)は、石塁をずらして配置する食い違い虎口となっています。ただし、周囲の状況からみて後から改修されたものである可能性があります。
本丸大石段 本丸大石段排水路


大夫殿井戸: 本丸搦手口にあります。今でもきれいに澄んだ水をたたえていました。

この後、観音正寺の境内を通って、赤坂道の方から下山しました。
閼伽坂見附: 赤坂道の途中にある見附で、見附とは、見張りの番兵を置いた軍事施設で、赤坂道の見張り場所として石塁が積まれています。

赤坂道: 観音正寺の参道。観音正寺の境内につながる道であり、登城道では無いとされていますが、よく整備されており現在では観音寺城域に入るためのメインルートとして使われています。道沿いには、上記のように赤坂見付などの石垣が見られ、登城道としての風格を併せ持っています。

赤坂道を過ぎると、石寺の日吉神社に到達し、本日の観音寺城訪問は終了しました。
石寺集落内では旬のタケノコが無人販売されていましたので、買って帰りました。
文責 岡島敏広
2025年2月17日(月)三上陣屋跡訪問(野洲市)
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
2025年1月14日(火)沖縄県竹富島(竹富町)の小城盛(クスクムイ)と蔵元
2024年10月25日(金)レイカディア地域文化43期'24秋のバス旅行「尾州犬山城とひつまぶしの旅」(愛知県)
2024年10月9日(水)岐阜県飛騨高山陣屋訪問
2024年10月8日(火)長野県信州松代城訪問
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
2025年1月14日(火)沖縄県竹富島(竹富町)の小城盛(クスクムイ)と蔵元
2024年10月25日(金)レイカディア地域文化43期'24秋のバス旅行「尾州犬山城とひつまぶしの旅」(愛知県)
2024年10月9日(水)岐阜県飛騨高山陣屋訪問
2024年10月8日(火)長野県信州松代城訪問
Posted by
joukaku
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