2022年10月31日
2022年10月29日(土)第98回例会「清水山城館跡」
「清水山城館跡」を探訪地として、10月29日(土)第98回例会を開催しました。清水山城は有名な六角氏(佐々木信綱の三男が祖)や京極氏(四男が祖)が属する近江源氏佐々木氏の一族、佐々木越中氏(信綱の次男が祖=高島氏)により築かれた高島平野最大の山城で、その全域が国史跡に指定されています。例会の担当学科は草津校43期地域文化及び健康づくり学科で、参加メンバーは常連の42,43期生(それぞれ5, 27名)に加え、44期生23名が今回初めて参加しました(計55名)。新旭森林スポーツ公園に10時過ぎに集合し、挨拶・ラジオ体操を済ませ、3班に分かれて、清水山城主郭を目指しました。
途中、清水山城築城以前に存在していた比叡山西塔末寺であった天台寺院 清水寺(せいすいじ)の遺物である石仏が立並ぶ地蔵谷を経由して、
清水寺寺坊跡地に建てられた武家屋敷跡の東屋敷越中殿(下写真)、西屋敷加賀殿(いずれも小字名)の土塁を眺めながら進み、主郭に到着しました。
主郭では書院造風大型建物の礎石を確認しました。
ここの発掘調査では信長による落城直前までの年代に一致する陶磁器類が出土していることから、落城までここで生活が営まれていたことがわかります。城主佐々木越中氏は浅井氏と共に織田信長に敵対し、1572年7月の戦いに敗れ没落しましたが、その最後は、城が焼けていないことから、「信長公記」の高島攻めが伝える信長の大船に攻められて戦わずして逃亡し、明智光秀に占領されたことがわかります。
主郭で集合写真を撮りましたが、
ここからの眺望は抜群で、大船が出港した対岸の彦根松原だけでなく、琵琶湖のほぼ全域が見渡せました。55mの大船がじわじわこちらに攻め寄せてくるのを見るのは、さぞかし恐ろしかったことでしょうし、戦意を喪失してもおかしくありません。
主郭到着後、希望者は順次、主郭・2郭間の小さな堀切(下写真)を越えて2郭へと移動し、
2郭・3郭間にある深さ10mもの大堀切の底へと昇降体験を行いました。
当時、ロープは当然ありませんから、体験者の皆さんは、この城を攻めるのは如何に難しいか体感できたはずです。
昼食後、清水山城楽クラブの皆様が準備して下さった温かい飲み物の接待を受けました。また、信長との戦いに備え、朝倉氏が協力して改修したと考えられる、主郭東面の県内では数少ない畝状竪堀(畝状空堀)前で、集合写真を撮影しました。
最後に、麓まで下り、駐車場近くの神社(大将軍社)に立ち寄りましたが、そこには「御屋敷」「犬馬場」という小字名の場所が残されていることから、「清水山城館」には、麓に「御屋敷」(公的な主殿、会所)と弓の鍛錬場があり、山上の主郭には常御殿(大奥のような私的生活空間)が建てられていたと推察され、今回の探訪で戦国時代の「清水山城館」の様子をイメージできました。
この後、ここ大将軍社で、会はお開きとしまして、自家用車又はJRで、各自帰途につきました。
最後に、もう一度、本当に素晴らしかった清水山城主郭からの眺望をご覧いただき終わりとします。本会の準備・運営に協力いただきました皆様、参加いただき会を楽しく盛り上げていただいた皆様に感謝いたします。

次回例会は2022年11月15日(観音寺城址と観音正寺)に予定されています。 文責 岡島 敏広

途中、清水山城築城以前に存在していた比叡山西塔末寺であった天台寺院 清水寺(せいすいじ)の遺物である石仏が立並ぶ地蔵谷を経由して、

清水寺寺坊跡地に建てられた武家屋敷跡の東屋敷越中殿(下写真)、西屋敷加賀殿(いずれも小字名)の土塁を眺めながら進み、主郭に到着しました。

主郭では書院造風大型建物の礎石を確認しました。

ここの発掘調査では信長による落城直前までの年代に一致する陶磁器類が出土していることから、落城までここで生活が営まれていたことがわかります。城主佐々木越中氏は浅井氏と共に織田信長に敵対し、1572年7月の戦いに敗れ没落しましたが、その最後は、城が焼けていないことから、「信長公記」の高島攻めが伝える信長の大船に攻められて戦わずして逃亡し、明智光秀に占領されたことがわかります。

主郭で集合写真を撮りましたが、

ここからの眺望は抜群で、大船が出港した対岸の彦根松原だけでなく、琵琶湖のほぼ全域が見渡せました。55mの大船がじわじわこちらに攻め寄せてくるのを見るのは、さぞかし恐ろしかったことでしょうし、戦意を喪失してもおかしくありません。

主郭到着後、希望者は順次、主郭・2郭間の小さな堀切(下写真)を越えて2郭へと移動し、

2郭・3郭間にある深さ10mもの大堀切の底へと昇降体験を行いました。

当時、ロープは当然ありませんから、体験者の皆さんは、この城を攻めるのは如何に難しいか体感できたはずです。

昼食後、清水山城楽クラブの皆様が準備して下さった温かい飲み物の接待を受けました。また、信長との戦いに備え、朝倉氏が協力して改修したと考えられる、主郭東面の県内では数少ない畝状竪堀(畝状空堀)前で、集合写真を撮影しました。

最後に、麓まで下り、駐車場近くの神社(大将軍社)に立ち寄りましたが、そこには「御屋敷」「犬馬場」という小字名の場所が残されていることから、「清水山城館」には、麓に「御屋敷」(公的な主殿、会所)と弓の鍛錬場があり、山上の主郭には常御殿(大奥のような私的生活空間)が建てられていたと推察され、今回の探訪で戦国時代の「清水山城館」の様子をイメージできました。
この後、ここ大将軍社で、会はお開きとしまして、自家用車又はJRで、各自帰途につきました。
最後に、もう一度、本当に素晴らしかった清水山城主郭からの眺望をご覧いただき終わりとします。本会の準備・運営に協力いただきました皆様、参加いただき会を楽しく盛り上げていただいた皆様に感謝いたします。

次回例会は2022年11月15日(観音寺城址と観音正寺)に予定されています。 文責 岡島 敏広
2022年10月27日
2022年10月25日(火) 地域文化学科選択講座「甲賀の城の見方、調べ方」
中井先生によるレイカディア大学地域文化学科選択講座の第2回目の校外学習です。甲賀地域の城は一村一城で非常にたくさんの城があります。本日は甲賀の5つの城をめぐります。
最初に甲南地域市民センター前駐車場に集合し、学生は車に乗り合わせて、まず村雨城に向かい出発しました。
村雨城
この一帯は国史跡となっています。甲賀の郡中惣(ぐんちゅうそう)武士は連合して「甲賀郡中惣」という組織を作り、地域を支配していました。村雨城はその城館の1つで、甲賀武士は近江守護六角氏の主力として活躍しましたが、元亀元年(1570年)に野洲川の戦いで敗北し、信長の配下に入りました。天正13年(1585年)には秀吉による甲賀ゆれによって、中村一氏が水口岡山城主となる一方で、城主は兵農分離により改易となりました。その結果、郡中惣は終焉を迎え、城主が城を放棄し地域に残らなかったことから、伝承が途絶え村雨城主は不明となったと考えられます。しかし、村雨城が寺前城に隣接し、敵対している様子はないことから、それぞれの城主の名字が同じの仲間(同名中)であったと考えられます。


寺前(じぜん)城
寺前城では、先生が向いている東側の土塁がなくなっていますが、これは戦前に崩したという話があることから、四方を土塁で囲まれていたことが分かります。


新宮支城
新宮城に比べ南の「支城」の方が大きいですが、新宮城が先に発見されたことから、こちらは新宮支城と命名されています。「甲賀郡中惣遺跡群」の一つとして谷を挟んで北側に位置する新宮城と並んだ、いわゆる「二城並立型」を形成して、連携して防衛体制を敷いていたと思われます。







水口城本丸の現状: 現在は滋賀県立水口高校のグラウンドになっています。



最初に甲南地域市民センター前駐車場に集合し、学生は車に乗り合わせて、まず村雨城に向かい出発しました。

村雨城
この一帯は国史跡となっています。甲賀の郡中惣(ぐんちゅうそう)武士は連合して「甲賀郡中惣」という組織を作り、地域を支配していました。村雨城はその城館の1つで、甲賀武士は近江守護六角氏の主力として活躍しましたが、元亀元年(1570年)に野洲川の戦いで敗北し、信長の配下に入りました。天正13年(1585年)には秀吉による甲賀ゆれによって、中村一氏が水口岡山城主となる一方で、城主は兵農分離により改易となりました。その結果、郡中惣は終焉を迎え、城主が城を放棄し地域に残らなかったことから、伝承が途絶え村雨城主は不明となったと考えられます。しかし、村雨城が寺前城に隣接し、敵対している様子はないことから、それぞれの城主の名字が同じの仲間(同名中)であったと考えられます。


寺前(じぜん)城
寺前城では、先生が向いている東側の土塁がなくなっていますが、これは戦前に崩したという話があることから、四方を土塁で囲まれていたことが分かります。

先生は城をやっていると、その「面白味にハマってしまう。」とおっしゃって、先人により工夫された城の仕掛けを説明するため、我々を背面の虎口に連れて行ってくださいました。
本来の城道は低く掘り下げて作られており、その突き当りが正式の虎口となっていますが、城道が低いことから、それを通ると、写真に写っている背後の虎口が見えません。背面の虎口から土橋を通り、攻めて来る敵の背後から攻撃出来るような構造になっています。伊予松山城の隠門と同様の発想です。
本来の城道は低く掘り下げて作られており、その突き当りが正式の虎口となっていますが、城道が低いことから、それを通ると、写真に写っている背後の虎口が見えません。背面の虎口から土橋を通り、攻めて来る敵の背後から攻撃出来るような構造になっています。伊予松山城の隠門と同様の発想です。

新宮支城
新宮城に比べ南の「支城」の方が大きいですが、新宮城が先に発見されたことから、こちらは新宮支城と命名されています。「甲賀郡中惣遺跡群」の一つとして谷を挟んで北側に位置する新宮城と並んだ、いわゆる「二城並立型」を形成して、連携して防衛体制を敷いていたと思われます。

新宮支城本丸です。城址の遺構はほぼ完存されており、内側一辺30m、外側一辺50mの方形で、虎口(東側)の方の土塁は低いのですが、写真に写る背面(西側)は高く約8mあります。おそらく、周囲の尾根の高さを考えると、堀切や本丸などを掘り込んだ土を一部積んでいるものと思われます。
この土塁は織田信長の近江侵攻に備えて築かれたものと考えられ、高く分厚い土塁で四周を囲み、両サイドを深い堀切で防御し、新時代の技術も取り入れた甲賀の城のひとつの到達点を示しています。
この土塁は織田信長の近江侵攻に備えて築かれたものと考えられ、高く分厚い土塁で四周を囲み、両サイドを深い堀切で防御し、新時代の技術も取り入れた甲賀の城のひとつの到達点を示しています。

土塁に登り下を見下ろすと、その高さがわかります。

新宮城
方形の本丸の前(東側)に平坦な2つの曲輪を連ね、本丸への進入路を屈曲させて、枡形状虎口を造っています。写真は三の丸から見たL字状に2回屈曲した二の丸の虎口を示しています。
方形の本丸の前(東側)に平坦な2つの曲輪を連ね、本丸への進入路を屈曲させて、枡形状虎口を造っています。写真は三の丸から見たL字状に2回屈曲した二の丸の虎口を示しています。

水口城
水口城は3代将軍徳川家光の上洛時の将軍宿泊用として寛永11年(1634)に築かれたお茶屋と呼ばれる宿館で、幕府直営で小堀遠州政一と中井大和守が作事にあたり、本丸と二の丸の二郭で構成されていました。本丸には京都の二条城を小型にしたような御殿、本丸の四隅には一重櫓が建てられていました。しかし、家光以降将軍の上洛はなく、明治維新後の廃藩置県を経て廃城となりました。明治7年(1874)には公売に付され、御殿は解体され、その玄関は市内の蓮華寺に移築されています。また、廃城後約1世紀の歳月を経て、再評価の声が高まり、昭和47年(1972)に城跡が県指定史跡となりました。
現在の水口城は、外桝形である出丸を利用して、そこに売却され文具店の建物となっていた旧乾櫓の部材が平成3年(1991)再移築され建てられました。本来出丸には番所しかなかったようですが、本来の場所とも姿も異なる存在しなかった二重櫓とした「復興乾櫓」です。水口城資料館として利用されています。
乾櫓の部材は水口城資料館の二階で見ることができます。
水口城は3代将軍徳川家光の上洛時の将軍宿泊用として寛永11年(1634)に築かれたお茶屋と呼ばれる宿館で、幕府直営で小堀遠州政一と中井大和守が作事にあたり、本丸と二の丸の二郭で構成されていました。本丸には京都の二条城を小型にしたような御殿、本丸の四隅には一重櫓が建てられていました。しかし、家光以降将軍の上洛はなく、明治維新後の廃藩置県を経て廃城となりました。明治7年(1874)には公売に付され、御殿は解体され、その玄関は市内の蓮華寺に移築されています。また、廃城後約1世紀の歳月を経て、再評価の声が高まり、昭和47年(1972)に城跡が県指定史跡となりました。

現在の水口城は、外桝形である出丸を利用して、そこに売却され文具店の建物となっていた旧乾櫓の部材が平成3年(1991)再移築され建てられました。本来出丸には番所しかなかったようですが、本来の場所とも姿も異なる存在しなかった二重櫓とした「復興乾櫓」です。水口城資料館として利用されています。
乾櫓の部材は水口城資料館の二階で見ることができます。

水口城ジオラマにあるように、本来は本丸の四隅には一重櫓が建てられていましたし、出丸には櫓がありませんでした。
水口城ジオラマ南側からの風景: 写真の大半は本丸で、杮葺きの本丸御殿が建てられていました。
水口城ジオラマ南側からの風景: 写真の大半は本丸で、杮葺きの本丸御殿が建てられていました。

水口城ジオラマ北東側からの風景: 現水口城入口になっている大手口は写真左で、搦手口は写真右

水口城本丸の現状: 現在は滋賀県立水口高校のグラウンドになっています。

水口城搦手口からの土橋: 土橋を渡って、本丸跡から二の丸跡(左の檜林)に向かって進んでいます。

この檜林になっている部分は二の丸で、水口に入封した加藤明友は、将軍の御殿の本丸に住むのは恐れ多いとこちらの二の丸に御殿を建てました。

乾櫓台: 廃城後は本丸の石垣は売却されて石が取り去られていますが、出丸と写真の乾櫓の石垣は残されています。ただし、写真の乾櫓石垣底部の布積み部分は元の石垣ですが、上部の落とし積となっている所は、取り去られた部分を明治になってから修復したものです。また、石垣の面が綺麗に整っていますが、これは積み上げられた後に、表面をノミではつって整えたもので、ノミの跡が見えます。ここに、水口城資料館の部材を用いた一重櫓が建てられていました。

2022年10月15日
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」
レイカディア大学地域文化学科選択講座の校外学習で登る小谷城の地図を下に示します。10:00にふもとの戦国ガイドステーションに集合し、そこから「番所」まで車で登り、「山王丸」まで徒歩で登る予定です。
本日訪問する小谷城の最後の城主は、有名な浅井長政です。
本日は講師の中井先生が城の見方を直々に指導してくださいます。まずは、コースの説明から始まりました。
今、私たちのいる「番所」には「現在地」と示されています。ただ、小谷城各所に付けられた名前は、江戸時代の彦根藩の侍がその当時の常識で名付けたもので、「本当の小谷城の機能」を示しているのかどうかは疑問ということでした。
下図は江戸時代に描かれた彦根藩所有の江陽浅井郡小谷山古城図で、曲輪の命名当時の様子をそのまま表しています。
「番所」へは小谷城への間道が集中し、城の主要部への入口に位置します。
「番所」から少し登ったところに見晴らしの良い場所があり、紅白の旗の間(南西方向)に虎御前山が見えます。小谷城の戦いのときには、小谷城の目と鼻の先のここに織田信長が本陣として砦を作り、にらみ合いました。こんなに近くでは、どんどん砦が構築されたり、敵兵が活動しているのが良く見え、小谷城側の兵は動揺したのではないかと思います。ちなみに、先生は山城では曲輪には内部が見られないように木を残し、切岸の部分は木につかまって登ってくるのを避けるため、木は切ってしまうものであるとおっしゃっていました。赤旗の右(西方向)に見える山は、浅井家重臣の阿閉貞征の籠る山本山城のあった山本山で、小谷城を援護する位置にあります。しかし、阿閉貞征は調略により織田方へ寝返り、それがきっかけで、小谷城が落城しました。小谷山のふもとの田畑の部分は小谷城城下町でした。現在の田畑には小字名がありますが、長浜にも全く同じ小字名の所があり、小谷城落城後に、秀吉により城が長浜城に移されると、この小谷城下町もそのまま移されたことを示しています。
先に進むと「馬洗池」(縄張図では「馬荒池」)があります。先生のお話では「馬が上がれないように山城にしているので、馬はおらず、馬洗池の名はおかしい。」とのことです。
馬洗池~大堀切の縄張図
この池は二段になっていて、石垣の見える上段で雨水を集めて泥などを沈殿させた後、今は藻が生えている手前(下段)の池に上澄みのきれいな水を溜めて飲料水としていたとのことです。これでも以前に比べ水はきれいになっており、昔はイノシシが泥浴びするヌタ場だったそうです。

次は、浅井長政が自刃したと伝えられる「赤尾屋敷跡」に行きました。ここには「浅井長政公自刃之地」と書かれた碑が立てられており、1573年9月1日信長の兵に攻められ、長政は本丸に戻ることができず、ここで自刃したと説明されていました。享年29歳でした。浅井配下の地侍・嶋氏に伝わる『嶋記録』には、『長政ハ アツカヒ(扱)ニテ(=仲裁にて) ノキ給(=退去する) 約束也シカ(=約束であったが)、信長公 高キ所ニアカリ居テ、赤尾美作、浅井石見ヲ 隔テサセ(=引き離して) イケトルヲ 見テ(=生け捕るのを見て)、長政ハ 家へ下リ入、切腹トソ・・・』とその最後が記述されています。
「桜馬場」は馬洗池のすぐ上にあり、南北に長い曲輪ですが、先生は「ここは馬場でない証拠を見せてあげましょう」とおっしゃって、皆を連れて行った場所は、写真のように建物の礎石があり、それがこの曲輪で大きな割合を占めていることから、こんな建物のある所で馬が走れるわけがないとのことです。また、礎石は山から採れる石ではなく、柱を立てるのに都合よい滑らかな河原石を、わざわざふもとから運び上げています。
「桜馬場」から「大広間」への入り口は「黒金門」です。「くろがね」とは鉄を表し、門に鉄板が巻かれていたことを想像させますが、この名前は江戸時代の常識から来たもので、長政の時代は白木であったかもしれないとのことでした。石垣が崩れていますが、秀吉が長浜に移るとき、「浅井氏の時代は終わった」ということを明示するため、「破城」により壊されています。この「黒金門」の左横に徳川宗家16代家達(いえさと)公の揮毫による大きな「小谷城跡之碑」が建てられています。1929(昭和4)年に建てられたものです。徳川宗家には浅井氏の江姫の血が入り関係が深いという気持ちから依頼されたものでしょう。
「大広間」は御殿(城主の私的空間)であったと考えられます。ここからは37,000点の遺物が発掘されており、大半がかわらけ(煤が付いていたらあかり用、なければ使い捨ての酒杯)ですが、陶磁器なども見つかっています。また、建物の礎石や見つかった陶磁器に焼けた跡がないことから、ドラマなどとは違い、小谷落城時、火がかけられていないことは間違いありません。こちらは私的空間であるのに対して、家の応接間に当たる公的空間は、麓にあった「御屋敷」であったと考えれています。
ここ「大広間」で、笏谷石(福井の有名な緑色の石で、朝倉義景より送られたものと思われます)の敷石の破片を見つけました。敷石は御殿の通路に使われていたものでしょう。ノミで成形された跡が残っています。これらの遺物より、ここで、お市の方や万福丸、浅井三姉妹の優雅な生活がなされていたことは間違いないでしょう。
「本丸」(鐘丸)です。本丸と名付けられていますが、本来の機能は鐘丸の名の通り、鐘のすえられた櫓があったと想像されます。
本丸と中丸の間は、山の上側(北側)から大広間(御殿の曲輪)を攻められないよう、大堀切で中丸から切られており、本丸の西側は石垣によるS字状になった虎口、東側は写真のように今では崩れて傾斜が緩くなっていますが、登れない切岸とし、終点は堀切を削り残して行き止まりにしてありました。
「刀洗池」の碑を横に見ながら、「中丸」から「京極丸」に入ります。
「中丸」奥の「刀洗池」も飲料水を溜めていた池と考えられます。

先生が中丸での説明の途中で明の磁器(高価な輸入品)の破片(白と青の破片: 染付)が埋まっているのを見つけられました。
次に「京極丸」に上り、その次は「小丸」です。
「京極丸」は京極円(つぶら)とも呼び、守護の京極氏(京極高清、高延)に用意した曲輪で屋敷があったと説明されていますが、実質はここに幽閉したと考えられます。東側には大きな土塁があります。「京極丸」の中には池のような窪みが見られましたが、ここは未発掘で発掘許可が下りないそうです。おそらく、飲料水用の池か、或いは庭園であったかもしれないとのことです。
「小丸」は「京極丸」と「山王丸」の間にあり、二代城主浅井久政が引退後居住した所で、1573年8月27日に木下藤吉郎(当時)に下の京極丸より攻められ、鶴松太夫の介錯により49歳で自刃しています。
こんな所で気づきましたが、案内板は先生が執筆されているのですね。
「山王丸」虎口: 下の写真は本日の最終目的地の山王丸です。山王丸東面の大石垣も訪問しますが、本日の予定では縄張図の六坊には訪問しません。
ここの最頂部に山王権現(現小谷神社として麓に下りています)が秀吉により祀られたことから、そのように呼ばれています。このようなことから、小谷城落城から長浜城に移るまで、秀吉は小谷城に住んでいたことがわかります。この辺りも長浜城への引っ越し時に行われた破城により石垣が崩されていますが、
先生は「破城の手抜き工事の結果をご覧に入れましょう」と、「山王丸」の東面(西面は浅井領内に面し堅い防御が不要なのに対し、東は外敵に備えている)の大石垣が見られるところに連れて下さいました。上の方の石垣は崩されて足元に落ちていますが、かなりの割合が崩されずに残っています。浅井氏の石垣の特徴は、六角氏と異なり、矢穴のない石垣(割っていない自然石)を野面積みしています。浅井氏の技術で、湖北ではここ小谷城以外に、鎌刃城でも見られます。
最後に、「山王丸」の大石垣と比較できるよう、並べて「本丸」の石垣を下に示します。石の大きさが「本丸」とは言いながらも上の写真の「山王丸」の石に比べて小さく、「本丸」の威信を示すのにはふさわしくないことから、また、鐘丸とも呼ばれていたことも考慮され、先生は本当の本丸は「山王丸」であったと考えておられます。
このあと、これまで上がってきたコースを逆戻りし、本日の校外学習を終えました。お疲れさまでした。
次回校外学習は2022年10月25日(寺前・村雨城跡、新宮・新宮支城跡、水口城跡)に予定されています。 文責 岡島 敏広
追加情報: 別の日(2023年10月31日)に小谷城の遺構が移築されている2寺(長浜市実宰院、米原市福田寺)を訪問しました。
搦手門(裏門)表: 実宰院(じっさいいん)(当時は実西庵)は浅井長政の姉にあたる阿久姫が昌安見久尼と称して出家した庵。寺院は小谷山実宰院と改称され宗派も曹洞宗に改宗し、現在に至っています。秀吉よりの朱印状も伝わります。小谷城落城前夜、浅井長政は姉である昌安見久尼に三姉妹と母お市の方を匿ってもらうよう依頼しました。そして三姉妹とお市の方はともに、城を脱出し実宰院で匿われ、体の大きな昌安見久尼は、追っ手が来たとき法衣で隠して守ったとされています。
小谷山実宰院の門は小谷城の搦手門が移築されて、現在も存在しています。寺の本尊の観音菩薩も小谷城京極丸に安置されていたものです。
搦手門(裏門)裏: 薬医門であることがわかります。
浅井御殿: 浅井長政の次男万寿丸(後の正芸)が住職を務めたと伝わる米原市の福田寺(ふくでんじ)の書院は桁行16.269メートル、梁間12.075メートル、その南側に鞘の間をつけ、東には玄関巾2間が附属しています。内部は、田の字型に8間に区切り、西端の2間は床を一段高くして上段の間となっています。この建物は、小谷城より移築した浅井長政寄進のものと伝えられ「浅井御殿」とよばれています。
本日訪問する小谷城の最後の城主は、有名な浅井長政です。

本日は講師の中井先生が城の見方を直々に指導してくださいます。まずは、コースの説明から始まりました。

今、私たちのいる「番所」には「現在地」と示されています。ただ、小谷城各所に付けられた名前は、江戸時代の彦根藩の侍がその当時の常識で名付けたもので、「本当の小谷城の機能」を示しているのかどうかは疑問ということでした。

下図は江戸時代に描かれた彦根藩所有の江陽浅井郡小谷山古城図で、曲輪の命名当時の様子をそのまま表しています。

「番所」へは小谷城への間道が集中し、城の主要部への入口に位置します。

「番所」から少し登ったところに見晴らしの良い場所があり、紅白の旗の間(南西方向)に虎御前山が見えます。小谷城の戦いのときには、小谷城の目と鼻の先のここに織田信長が本陣として砦を作り、にらみ合いました。こんなに近くでは、どんどん砦が構築されたり、敵兵が活動しているのが良く見え、小谷城側の兵は動揺したのではないかと思います。ちなみに、先生は山城では曲輪には内部が見られないように木を残し、切岸の部分は木につかまって登ってくるのを避けるため、木は切ってしまうものであるとおっしゃっていました。赤旗の右(西方向)に見える山は、浅井家重臣の阿閉貞征の籠る山本山城のあった山本山で、小谷城を援護する位置にあります。しかし、阿閉貞征は調略により織田方へ寝返り、それがきっかけで、小谷城が落城しました。小谷山のふもとの田畑の部分は小谷城城下町でした。現在の田畑には小字名がありますが、長浜にも全く同じ小字名の所があり、小谷城落城後に、秀吉により城が長浜城に移されると、この小谷城下町もそのまま移されたことを示しています。

先に進むと「馬洗池」(縄張図では「馬荒池」)があります。先生のお話では「馬が上がれないように山城にしているので、馬はおらず、馬洗池の名はおかしい。」とのことです。
馬洗池~大堀切の縄張図

この池は二段になっていて、石垣の見える上段で雨水を集めて泥などを沈殿させた後、今は藻が生えている手前(下段)の池に上澄みのきれいな水を溜めて飲料水としていたとのことです。これでも以前に比べ水はきれいになっており、昔はイノシシが泥浴びするヌタ場だったそうです。

次は、浅井長政が自刃したと伝えられる「赤尾屋敷跡」に行きました。ここには「浅井長政公自刃之地」と書かれた碑が立てられており、1573年9月1日信長の兵に攻められ、長政は本丸に戻ることができず、ここで自刃したと説明されていました。享年29歳でした。浅井配下の地侍・嶋氏に伝わる『嶋記録』には、『長政ハ アツカヒ(扱)ニテ(=仲裁にて) ノキ給(=退去する) 約束也シカ(=約束であったが)、信長公 高キ所ニアカリ居テ、赤尾美作、浅井石見ヲ 隔テサセ(=引き離して) イケトルヲ 見テ(=生け捕るのを見て)、長政ハ 家へ下リ入、切腹トソ・・・』とその最後が記述されています。

「桜馬場」は馬洗池のすぐ上にあり、南北に長い曲輪ですが、先生は「ここは馬場でない証拠を見せてあげましょう」とおっしゃって、皆を連れて行った場所は、写真のように建物の礎石があり、それがこの曲輪で大きな割合を占めていることから、こんな建物のある所で馬が走れるわけがないとのことです。また、礎石は山から採れる石ではなく、柱を立てるのに都合よい滑らかな河原石を、わざわざふもとから運び上げています。

「桜馬場」から「大広間」への入り口は「黒金門」です。「くろがね」とは鉄を表し、門に鉄板が巻かれていたことを想像させますが、この名前は江戸時代の常識から来たもので、長政の時代は白木であったかもしれないとのことでした。石垣が崩れていますが、秀吉が長浜に移るとき、「浅井氏の時代は終わった」ということを明示するため、「破城」により壊されています。この「黒金門」の左横に徳川宗家16代家達(いえさと)公の揮毫による大きな「小谷城跡之碑」が建てられています。1929(昭和4)年に建てられたものです。徳川宗家には浅井氏の江姫の血が入り関係が深いという気持ちから依頼されたものでしょう。

「大広間」は御殿(城主の私的空間)であったと考えられます。ここからは37,000点の遺物が発掘されており、大半がかわらけ(煤が付いていたらあかり用、なければ使い捨ての酒杯)ですが、陶磁器なども見つかっています。また、建物の礎石や見つかった陶磁器に焼けた跡がないことから、ドラマなどとは違い、小谷落城時、火がかけられていないことは間違いありません。こちらは私的空間であるのに対して、家の応接間に当たる公的空間は、麓にあった「御屋敷」であったと考えれています。

ここ「大広間」で、笏谷石(福井の有名な緑色の石で、朝倉義景より送られたものと思われます)の敷石の破片を見つけました。敷石は御殿の通路に使われていたものでしょう。ノミで成形された跡が残っています。これらの遺物より、ここで、お市の方や万福丸、浅井三姉妹の優雅な生活がなされていたことは間違いないでしょう。

「本丸」(鐘丸)です。本丸と名付けられていますが、本来の機能は鐘丸の名の通り、鐘のすえられた櫓があったと想像されます。

本丸と中丸の間は、山の上側(北側)から大広間(御殿の曲輪)を攻められないよう、大堀切で中丸から切られており、本丸の西側は石垣によるS字状になった虎口、東側は写真のように今では崩れて傾斜が緩くなっていますが、登れない切岸とし、終点は堀切を削り残して行き止まりにしてありました。

「刀洗池」の碑を横に見ながら、「中丸」から「京極丸」に入ります。

「中丸」奥の「刀洗池」も飲料水を溜めていた池と考えられます。

先生が中丸での説明の途中で明の磁器(高価な輸入品)の破片(白と青の破片: 染付)が埋まっているのを見つけられました。

次に「京極丸」に上り、その次は「小丸」です。
「京極丸」は京極円(つぶら)とも呼び、守護の京極氏(京極高清、高延)に用意した曲輪で屋敷があったと説明されていますが、実質はここに幽閉したと考えられます。東側には大きな土塁があります。「京極丸」の中には池のような窪みが見られましたが、ここは未発掘で発掘許可が下りないそうです。おそらく、飲料水用の池か、或いは庭園であったかもしれないとのことです。
「小丸」は「京極丸」と「山王丸」の間にあり、二代城主浅井久政が引退後居住した所で、1573年8月27日に木下藤吉郎(当時)に下の京極丸より攻められ、鶴松太夫の介錯により49歳で自刃しています。

こんな所で気づきましたが、案内板は先生が執筆されているのですね。

「山王丸」虎口: 下の写真は本日の最終目的地の山王丸です。山王丸東面の大石垣も訪問しますが、本日の予定では縄張図の六坊には訪問しません。

ここの最頂部に山王権現(現小谷神社として麓に下りています)が秀吉により祀られたことから、そのように呼ばれています。このようなことから、小谷城落城から長浜城に移るまで、秀吉は小谷城に住んでいたことがわかります。この辺りも長浜城への引っ越し時に行われた破城により石垣が崩されていますが、

先生は「破城の手抜き工事の結果をご覧に入れましょう」と、「山王丸」の東面(西面は浅井領内に面し堅い防御が不要なのに対し、東は外敵に備えている)の大石垣が見られるところに連れて下さいました。上の方の石垣は崩されて足元に落ちていますが、かなりの割合が崩されずに残っています。浅井氏の石垣の特徴は、六角氏と異なり、矢穴のない石垣(割っていない自然石)を野面積みしています。浅井氏の技術で、湖北ではここ小谷城以外に、鎌刃城でも見られます。

最後に、「山王丸」の大石垣と比較できるよう、並べて「本丸」の石垣を下に示します。石の大きさが「本丸」とは言いながらも上の写真の「山王丸」の石に比べて小さく、「本丸」の威信を示すのにはふさわしくないことから、また、鐘丸とも呼ばれていたことも考慮され、先生は本当の本丸は「山王丸」であったと考えておられます。

このあと、これまで上がってきたコースを逆戻りし、本日の校外学習を終えました。お疲れさまでした。
次回校外学習は2022年10月25日(寺前・村雨城跡、新宮・新宮支城跡、水口城跡)に予定されています。 文責 岡島 敏広
追加情報: 別の日(2023年10月31日)に小谷城の遺構が移築されている2寺(長浜市実宰院、米原市福田寺)を訪問しました。
搦手門(裏門)表: 実宰院(じっさいいん)(当時は実西庵)は浅井長政の姉にあたる阿久姫が昌安見久尼と称して出家した庵。寺院は小谷山実宰院と改称され宗派も曹洞宗に改宗し、現在に至っています。秀吉よりの朱印状も伝わります。小谷城落城前夜、浅井長政は姉である昌安見久尼に三姉妹と母お市の方を匿ってもらうよう依頼しました。そして三姉妹とお市の方はともに、城を脱出し実宰院で匿われ、体の大きな昌安見久尼は、追っ手が来たとき法衣で隠して守ったとされています。

小谷山実宰院の門は小谷城の搦手門が移築されて、現在も存在しています。寺の本尊の観音菩薩も小谷城京極丸に安置されていたものです。

搦手門(裏門)裏: 薬医門であることがわかります。

浅井御殿: 浅井長政の次男万寿丸(後の正芸)が住職を務めたと伝わる米原市の福田寺(ふくでんじ)の書院は桁行16.269メートル、梁間12.075メートル、その南側に鞘の間をつけ、東には玄関巾2間が附属しています。内部は、田の字型に8間に区切り、西端の2間は床を一段高くして上段の間となっています。この建物は、小谷城より移築した浅井長政寄進のものと伝えられ「浅井御殿」とよばれています。

2022年10月08日
2022年9月30日(金)第97回例会「賤ヶ岳古戦場」

初秋とは言え好天に恵まれ、稜線を噴き上げる風が額の汗に気持ちの良い9月30 日(金)、第97回例会「賤ヶ岳古戦場探訪」を開催しました。賤ヶ岳古戦場は春にも訪問しております。その様子はこちらをご覧ください。また、対戦相手の柴田勝家の本陣である玄蕃尾城も別途訪問しています。
賤ヶ岳合戦では、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家が織田信長の後継者を争いましたが、七本槍と呼ばれた武将達の活躍で、秀吉軍の勝利となりました。当該合戦は、史上まれに見る山城の築城合戦とも言われるほど多くの山城(砦)が築かれ、今回はその一部と、山頂からは両軍戦陣跡となる山々と奥びわ湖一望の絶景が望める賤ヶ岳山頂(標高421m)を探訪しました。

草津校43期園芸学科A同Bで担当、42期生8名、43期生28名(その他ガイドさん3名)に参加頂きました。
JR余呉駅前に9時30分に集合し、全員での準備体操等を済ませた後、3班に分かれ、賤ヶ岳山頂を目指して9時45分より順次出発しました。
以下はJR余呉駅での1班の集合写真

駅近くの江土登山口から入山、岩崎山(高山右近の砦跡)を経て、大岩山へ向かいました。
高山右近が守った岩崎山砦での合戦風景(岐阜市歴史博物館所蔵賤ケ岳合戦図屏風より)を以下に示します。岩崎山砦を守備していた高山右近は、合戦時、これといった抵抗も見せず、秀吉方の本陣である田上山砦へと敗走したことから、柴田勝家方に寝返ったという見方もされたようです。

大岩山(中川清秀の砦跡)では、合戦後約100年を経て建立された墓・砦跡を見学し休憩しました。

ここに登場する中川清秀は茨木城主でしたが、1583年の賤ヶ岳の戦いでは秀吉方として参戦し、秀吉が岐阜城主織田信孝を攻めて留守の間、大岩山砦を守っていました。中川清秀は秀吉と兄弟のちぎりを結ぼうとしたほどの武将で、この合戦はを天下分け目の戦いであり、ぶざまな戦いをしたなら生涯の不覚になると覚悟して、大岩山砦から出撃しました。しかし、柴田勝家軍の佐久間盛政の攻撃に遭い、白兵戦の中、盛政軍の圧倒的兵力の前で奮戦虚しく討ち死にしたことから、ここに墓が建立されています。
戦いでは、佐久間盛政は、さらに勢いに乗って先ほど通り過ぎてきた高山右近の岩崎山砦(上の屏風絵)も抵抗なしに攻め落としています。
以下に、中川清秀が守る大岩山砦を佐久間盛政が包囲している合戦風景(岐阜市歴史博物館所蔵賤ケ岳合戦図屏風より)を示します。

例会では、その後、中川清秀の首洗いの池を経て、涼しげな風が吹き上る稜線を進み、最後の一寸した急坂を一気に上がると、眼下に余呉湖・波静かな奥琵琶湖、遠くに県境の山々と360度の絶景が待っていました。
12時~12時30分頃には、3班ともに順次賤ケ岳山頂に到着。班毎に、集合写真を撮影し、ガイドさんからの丁寧で興味深い説明を受け、4百年余の時間を経た歴史に思いを馳せました。
余呉湖を背景とした2班集合写真

余呉湖を背景として、ガイドさんから説明を受ける1班写真

賤ケ岳から見える琵琶湖(塩津浜)

ここ賤ケ岳の砦は、羽柴秀吉方の砦として利用され、城将は但馬国竹田城主桑山重晴、羽田長門守、浅野弥兵衛(後の浅野長政)でした。
賤ケ岳砦(岐阜市歴史博物館所蔵賤ケ岳合戦図屏風より)

頂上での絶景を満喫しながらの昼食休憩(含むトイレ)を終え、午後1時過ぎから下山の途につきました。彼の有名な七本槍の武将達が馬上駆け下りたと伝わる飯浦の切通し(少し険しい坂道)を経て、

余呉湖のほとり旧国民宿舎登山口に降り立ちました。
余呉湖周路

後は、平坦で車の通りも殆ど無く、時に赤とんぼが帽子に止まる静かな余呉湖周路を歩き(途中、尾野呂浜でトイレ休憩)、余呉駅近くの余呉湖観光館に午後3時前に無事到着。1時間に1本のJR電車の到着時間に合わせ、その場の解散となりました。
山道を含む約10㎞の行程で、日頃に無い疲労感を覚えられた方も居られたかとは思いますが、絶景の中で4百余年前の大合戦に思いを馳せ、楽しんで頂けたのでは無いでしょうか。無事に第97回例会を終えることができました。
計画してくださった草津校43期園芸学科A,Bの皆様を始め、ご参加頂いた皆様、ご支援・ご協力いただいた方々に感謝申し上げます。
なお、本文は担当学科のS.S.さん執筆のレイカディア大学城郭探訪会誌第98号をベースにして、追記等を行い作成しています。
次回例会は2022年10月29日(清水山城館跡)に予定されています。 文責 岡島 敏広
2022年10月07日
2022年10月6, 7日(木,金)オリエンテーション/クラブ紹介
彦根校の44期新入生オリエンテーションで10月6日、草津校では10月7日にクラブ紹介を行いました。
10月7日の草津校では次の順番で紹介しました。
卓球:11:10~11:15、 書道:11:15~11:20、 絵画:11:20~11:25、
グランドゴルフ:11:25~11:30、 城郭探訪:11:30~11:35
絵手紙:11:35~11:40、 フォト・ウォーク:11:40~11:45、
詩吟:11:45~11:50

以下、紹介に用いたスライドです。この紹介の結果、彦根校から10月6日に9名、草津校から10月7日に13名の新入生に入会いただきました。


発表時点では43期生会員が61名から63名に増えていました。




10月7日の草津校では次の順番で紹介しました。
卓球:11:10~11:15、 書道:11:15~11:20、 絵画:11:20~11:25、
グランドゴルフ:11:25~11:30、 城郭探訪:11:30~11:35
絵手紙:11:35~11:40、 フォト・ウォーク:11:40~11:45、
詩吟:11:45~11:50

以下、紹介に用いたスライドです。この紹介の結果、彦根校から10月6日に9名、草津校から10月7日に13名の新入生に入会いただきました。


発表時点では43期生会員が61名から63名に増えていました。



