2025年02月24日
2025年2月17日(月)三上陣屋跡訪問(野洲市)
三上陣屋(みかみじんや)跡を訪れました。三上陣屋は、滋賀県野洲市三上(近江国野洲郡)にあった陣屋で三上藩の藩庁です。通称近江富士と呼ばれる三上山の西麓に築かれていました。
三上藩主遠藤家は美濃国郡上八幡城主でしたが、元禄5年(1692)3月遠藤常久が7歳で嗣子がないまま没し、幕府によりお取り潰しとなりました。しかし、先祖の遠藤慶隆の功績が認められ、一族の遠藤胤親(たねちか)を大垣新田藩主戸田氏成の養子とし、常陸国・下野国に1万石が与えられて存続しました。
この遠藤胤親の所領1万石が元禄11年(1698)近江に移され(志賀(しが)、甲賀、野洲、栗太(くりた)4郡内で1万石を領有)、野洲郡三上に陣屋を構えて、三上藩(別称甲賀(こうか)藩)が立藩されました。
嘉永5年12月(1853年2月)第5代藩主で若年寄の遠藤胤統(たねのり)のときには2千石の加封があり、1万2千石となりました。
また、慶応4年(1868)第6代藩主の遠藤胤城(たねき)(下写真)の時には佐幕派であったことから、明治新政府に朝敵と見なされて所領を没収されましたが、同年罪は許され領地は返還されました。明治3年(1870)、和泉国吉見へ移されています。
第6代藩主 遠藤胤城
三上陣屋(明治3年4月から吉見藩三上出張所)
文化12年(1815)の刊行近江名所図会4 野洲川/三上山: 三上陣屋の様子を知る手がかりはほぼありませんが、下の図会は江戸時代の三上山、御上神社及び塀で囲まれた「三上陣屋」の様子を描いています。しかし、この図は少しデフォルメされており、この図のうち三上山だけを三上陣屋の前まで右方向に移動させると実際の配置に近くなります。
なお、図会はクリックすると原文にリンクし閲覧が可能です。
三上陣屋復元概要図 (現状の地図に陣屋の区域を記載したもので、図はクリックすると拡大します。): 書籍の『東氏・遠藤氏と三上藩(銅鐸博物館)』には、「三上藩の陣屋屋敷は南北21間(約38m)東西20間(約36.2m) 一反四畝歩で、元禄11年(1698)主に大谷六右衛門が提供した」とあります。
図の黒い線は小川・水路を表しています。図中説明の陣屋「表門」は湖南市常永寺に移築され現存し、「裏門」や「蔵」、「塀」は近隣の民家に移築されていましたが、現在は取り壊され、陣屋区域内にあった「長屋」も解体されました。上記書籍には、解体前の陣屋移築建物のいくつかの写真が掲載されています。
現在は堀跡と思われる小川が残るほかは宅地となり、陣屋の明確な遺構は残っておりません。
江戸時代(享保11年)の三上村絵図に描かれている大石のざくずれ石が当時の姿を唯一しのばせる遺構となっています。
享保11年三上村絵図陣屋付近部分(図はクリックにより拡大)
三上陣屋跡北側の大石(ざくずれ石)
国土地理院 昭和22年(1947)航空写真に説明を追記(写真はクリックすると拡大): この時期の航空写真(下写真)には現在の国道8号線はなく、江戸時代に近い地形を表しているものと思われます。三上陣屋の範囲を破線の枠で示しました。このように陣屋の区域の形はわかりますが、すでに民家があり、江戸時代の絵図・明治期の地図等にも建築物の配置は描かれておらず、結論として陣屋の建物については不明です。
ところで、三上陣屋で起こった有名な事件は近江天保一揆です。
不正な検地により、一揆の原因を作った市野茂三郎をはじめとする検地の見分役人一行は、三上陣屋から北に直線距離で約50mの大庄屋大谷邸をはじめ周辺の5軒に分宿していました。
他方、この事件のもう一人の中心人物土川平兵衛邸は、陣屋から北西1km程の小字「小中小路」集落(下の写真外)の一角にありました。
一揆では検地の中止を求める野洲・栗太・甲賀の3郡の2万5千人とも4万人とも言われる百姓たちが三上陣屋に集まり、彼らに対して、三上藩郡奉行(こおりぶぎょう)平野八右衛門が応対しました。集まった農民は整然としており、陣屋に近い寳泉寺では、瓦などに若干の被害があった程度でした。
三上陣屋長屋: 長屋は西側堀沿いに建てられ、廃藩前は家臣の居宅となっていました。平成5年(1993)に取り壊されました。

上掲の長屋撤去後の石垣と西側堀(現在): 上記白黒写真の横断歩道上より西側堀を南方向に撮影
西側堀(北方向を撮影)
南側堀
表門跡へと繋がる通路: 手前(南側)に裏門、奥(北側)に表門がありました。三上陣屋の門と伝えられるものが、湖南市岩根にある常永寺(表門の移築門として現存)と、陣屋跡の直ぐ東側の民家(裏門)に移築されていましたが、民家移築の裏門の方は平成25年(2013)頃に取り壊されました。
東側堀(北方向を撮影): 南側堀がここから北へと回り込んでいます。
高札場跡: 民家の塀の前で矢印を付けた場所に高札場がありました。この民家の立地は陣屋門前の広場に当たります。
三上陣屋移築表門(湖南市岩根にある常永寺山門): 城門に多く用いられる高麗門形式で、明治6年(1873)に移築されました。
本瓦葺の軒先瓦などに遠藤氏の紋瓦が用いられています。
近江天保一揆関連
一揆指導者11名リスト: 指導者は罪人としてリストの11名が江戸送りとなりました。
土川平兵衛の墓: 昭和57年(1982)建立。
天保13年(1842)、江戸幕府により行なわれる検地において、見分役人が極めて不当であったことから、土川平兵衛は三郡の庄屋を糾合して、検地の中止を嘆願しようとしました。しかし、集まった農民が4万人に達して見分役人の旅舎を襲うことになり、検地実施の「10万日の延期」の証文を獲得しました。
後に、罪人として捕らわれる者が数千人に上り、過酷な拷問で死亡する者が40名あまりおりました。発起人土川平兵衛ら主要な11人は江戸送りとなり、江戸に到着する前に死亡した人もおりました。土川平兵衛は江戸に送られてから1月余り後に裁きを待たず獄死し、小塚原に梟首されました。
近江天保一揆当時は、5代藩主遠藤胤統が幕府の若年寄であったこともあり、関係者への処罰が大きかったといわれます。
天保義民之碑(湖南市三雲): 天保義民とは、野洲・栗太・甲賀三郡で、飢饉に苦しむ百姓が年貢増徴を防ぐために一揆を起こし、この一揆で、犠牲になった人々のことです。
天保義民之碑は、写真の湖南市のものに加えて野洲市及び甲賀市にもあります。
文責 岡島 敏広
三上藩主遠藤家は美濃国郡上八幡城主でしたが、元禄5年(1692)3月遠藤常久が7歳で嗣子がないまま没し、幕府によりお取り潰しとなりました。しかし、先祖の遠藤慶隆の功績が認められ、一族の遠藤胤親(たねちか)を大垣新田藩主戸田氏成の養子とし、常陸国・下野国に1万石が与えられて存続しました。
この遠藤胤親の所領1万石が元禄11年(1698)近江に移され(志賀(しが)、甲賀、野洲、栗太(くりた)4郡内で1万石を領有)、野洲郡三上に陣屋を構えて、三上藩(別称甲賀(こうか)藩)が立藩されました。
嘉永5年12月(1853年2月)第5代藩主で若年寄の遠藤胤統(たねのり)のときには2千石の加封があり、1万2千石となりました。
また、慶応4年(1868)第6代藩主の遠藤胤城(たねき)(下写真)の時には佐幕派であったことから、明治新政府に朝敵と見なされて所領を没収されましたが、同年罪は許され領地は返還されました。明治3年(1870)、和泉国吉見へ移されています。
第6代藩主 遠藤胤城

三上陣屋(明治3年4月から吉見藩三上出張所)
文化12年(1815)の刊行近江名所図会4 野洲川/三上山: 三上陣屋の様子を知る手がかりはほぼありませんが、下の図会は江戸時代の三上山、御上神社及び塀で囲まれた「三上陣屋」の様子を描いています。しかし、この図は少しデフォルメされており、この図のうち三上山だけを三上陣屋の前まで右方向に移動させると実際の配置に近くなります。
なお、図会はクリックすると原文にリンクし閲覧が可能です。

三上陣屋復元概要図 (現状の地図に陣屋の区域を記載したもので、図はクリックすると拡大します。): 書籍の『東氏・遠藤氏と三上藩(銅鐸博物館)』には、「三上藩の陣屋屋敷は南北21間(約38m)東西20間(約36.2m) 一反四畝歩で、元禄11年(1698)主に大谷六右衛門が提供した」とあります。
図の黒い線は小川・水路を表しています。図中説明の陣屋「表門」は湖南市常永寺に移築され現存し、「裏門」や「蔵」、「塀」は近隣の民家に移築されていましたが、現在は取り壊され、陣屋区域内にあった「長屋」も解体されました。上記書籍には、解体前の陣屋移築建物のいくつかの写真が掲載されています。
現在は堀跡と思われる小川が残るほかは宅地となり、陣屋の明確な遺構は残っておりません。
江戸時代(享保11年)の三上村絵図に描かれている大石のざくずれ石が当時の姿を唯一しのばせる遺構となっています。

享保11年三上村絵図陣屋付近部分(図はクリックにより拡大)

三上陣屋跡北側の大石(ざくずれ石)

国土地理院 昭和22年(1947)航空写真に説明を追記(写真はクリックすると拡大): この時期の航空写真(下写真)には現在の国道8号線はなく、江戸時代に近い地形を表しているものと思われます。三上陣屋の範囲を破線の枠で示しました。このように陣屋の区域の形はわかりますが、すでに民家があり、江戸時代の絵図・明治期の地図等にも建築物の配置は描かれておらず、結論として陣屋の建物については不明です。
ところで、三上陣屋で起こった有名な事件は近江天保一揆です。
不正な検地により、一揆の原因を作った市野茂三郎をはじめとする検地の見分役人一行は、三上陣屋から北に直線距離で約50mの大庄屋大谷邸をはじめ周辺の5軒に分宿していました。
他方、この事件のもう一人の中心人物土川平兵衛邸は、陣屋から北西1km程の小字「小中小路」集落(下の写真外)の一角にありました。
一揆では検地の中止を求める野洲・栗太・甲賀の3郡の2万5千人とも4万人とも言われる百姓たちが三上陣屋に集まり、彼らに対して、三上藩郡奉行(こおりぶぎょう)平野八右衛門が応対しました。集まった農民は整然としており、陣屋に近い寳泉寺では、瓦などに若干の被害があった程度でした。

三上陣屋長屋: 長屋は西側堀沿いに建てられ、廃藩前は家臣の居宅となっていました。平成5年(1993)に取り壊されました。


上掲の長屋撤去後の石垣と西側堀(現在): 上記白黒写真の横断歩道上より西側堀を南方向に撮影

西側堀(北方向を撮影)

南側堀

表門跡へと繋がる通路: 手前(南側)に裏門、奥(北側)に表門がありました。三上陣屋の門と伝えられるものが、湖南市岩根にある常永寺(表門の移築門として現存)と、陣屋跡の直ぐ東側の民家(裏門)に移築されていましたが、民家移築の裏門の方は平成25年(2013)頃に取り壊されました。

東側堀(北方向を撮影): 南側堀がここから北へと回り込んでいます。

高札場跡: 民家の塀の前で矢印を付けた場所に高札場がありました。この民家の立地は陣屋門前の広場に当たります。

三上陣屋移築表門(湖南市岩根にある常永寺山門): 城門に多く用いられる高麗門形式で、明治6年(1873)に移築されました。
本瓦葺の軒先瓦などに遠藤氏の紋瓦が用いられています。

近江天保一揆関連
一揆指導者11名リスト: 指導者は罪人としてリストの11名が江戸送りとなりました。

土川平兵衛の墓: 昭和57年(1982)建立。
天保13年(1842)、江戸幕府により行なわれる検地において、見分役人が極めて不当であったことから、土川平兵衛は三郡の庄屋を糾合して、検地の中止を嘆願しようとしました。しかし、集まった農民が4万人に達して見分役人の旅舎を襲うことになり、検地実施の「10万日の延期」の証文を獲得しました。
後に、罪人として捕らわれる者が数千人に上り、過酷な拷問で死亡する者が40名あまりおりました。発起人土川平兵衛ら主要な11人は江戸送りとなり、江戸に到着する前に死亡した人もおりました。土川平兵衛は江戸に送られてから1月余り後に裁きを待たず獄死し、小塚原に梟首されました。
近江天保一揆当時は、5代藩主遠藤胤統が幕府の若年寄であったこともあり、関係者への処罰が大きかったといわれます。

天保義民之碑(湖南市三雲): 天保義民とは、野洲・栗太・甲賀三郡で、飢饉に苦しむ百姓が年貢増徴を防ぐために一揆を起こし、この一揆で、犠牲になった人々のことです。
天保義民之碑は、写真の湖南市のものに加えて野洲市及び甲賀市にもあります。

文責 岡島 敏広
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
2025年1月14日(火)沖縄県竹富島(竹富町)の小城盛(クスクムイ)と蔵元
2024年10月25日(金)レイカディア地域文化43期'24秋のバス旅行「尾州犬山城とひつまぶしの旅」(愛知県)
2024年10月9日(水)岐阜県飛騨高山陣屋訪問
2024年10月8日(火)長野県信州松代城訪問
2024年10月7日(月)長野県信濃国小諸城址訪問
2025年1月14日(火)沖縄県竹富島(竹富町)の小城盛(クスクムイ)と蔵元
2024年10月25日(金)レイカディア地域文化43期'24秋のバス旅行「尾州犬山城とひつまぶしの旅」(愛知県)
2024年10月9日(水)岐阜県飛騨高山陣屋訪問
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2024年10月7日(月)長野県信濃国小諸城址訪問
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joukaku
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