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2024年01月18日

2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

城郭探訪会第112回例会が、大津市の坂本城址を探訪地として、草津校44期地域文化学科により開催されました。今回は88名(43 期22 名、44 期37 名、45 期29 名)の多数のレイカディア大学城郭探訪会員が参加し、筆者は43期OBとして参加しました。
参加者が多いことから、比叡山坂本観光ボランティアガイドさん6名にご説明いただきましたのに加えて、「坂本城を考える会」より坂本城に詳しい3名のガイドさんからも城址のご説明をいただきました。

坂本城は元亀2年(1571)の比叡山焼き打ち後、織田信長に滋賀郡支配を命じられた明智光秀が比叡山麓の坂本に築城(元亀4年にほぼ完成)したもので、この後、琵琶湖の周囲に形成される「琵琶湖城郭ネットワーク」の最初の城です。
明智光秀は織田軍団では最新参者でしたが、比叡山焼き打ち時、焼き打ちのみならず、周辺の土豪の調略など、勝利に最も貢献したことから、論功行賞により有力武将で最初に新規築城の城持ち大名となりました。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

生源寺境内での第112回例会注意事項説明: 坂本観光協会①に集合し、となりの生源寺境内⑬で本日のコース等の全体説明を受けました。6班に別れて各班1名のガイドさんの説明を受け探訪開始です。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

私たちが回ったコースは以下のとおりで、地図も掲載します。

①坂本観光協会⇒②作り道⇒③御殿馬場⇒④滋賀院門跡⇒⑤慈眼堂⇒⑥十三体石仏群⇒権現馬場⇒⑦松馬場⇒ ⑧酒井神社、両社神社⇒⑨坂本城址⇒⑩本丸跡⇒⑪北国海道⇒⑫聖衆来迎寺(森可成の墓)⇒⑬生源寺

地図はクリックすると拡大します。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

出発地点の坂本観光協会(日吉馬場)周辺はタイトルにあるように、石積み(穴太衆積み)のある門前町が広がっています。坂本の町は、山麓の日吉大社と参道である日吉馬場を主軸として、北から八条通り、日吉馬場、御殿馬場(滋賀院通り)、権現馬場、松ノ馬場という東西方向の通りに、街道筋である作り道が南北方向に直交して、町の骨格を構成しており、これに滋賀院と数多の里坊が集積して町を構成しています。
日吉馬場は坂本の中で最も広い通りで、町の背骨ともいえる中心的な位置にあり、西の山麓側は日吉大社につながり、比叡山頂に伽藍を広げる延暦寺への参道でもあり、通りの軸線は、比叡山頂にある東塔の本堂根本中堂を向いています。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

②作り道沿いの鶴㐂蕎麦: 享保元年(1716)初代鶴屋喜八が創業し300年以上の歴史を誇る蕎麦屋さんです。延暦寺や日吉大社の門前町として賑わった作り道の沿道には、いまでも老舗の蕎麦屋や和菓子店、町屋などが連なっています。
「作り道」とは、この辺りにあった南大寺が火事で焼失、その後に作られた道というのが名前の由来だそうです。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

③御殿馬場: 作り道から滋賀院門跡(御殿)へと続くことから名づけられています。作り道からの馬場入口には門があります。琵琶湖側の作り道に面した鳥居と石畳、そして沿道に連なる石垣と白塀が、日吉馬場に比べて、より閉鎖性の高い硬質な空間をつくりだしています。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

穴太(あのう)衆積み(滋賀院門跡前で撮影)の説明: 坂本を他の街と趣を異ならせて、歴史的景観を醸しているものが、通りや里坊に見られる独特の石積みです。穴太衆積みは自然石の面を巧みに生かした「野面積み」の一種ですが、素朴で柔かい風合いながら強固な積み方として知られています。坂本の隣町・穴太に6世紀頃から住んでいたとされる渡来系の人々は、当時から石積みを得意とし、延暦寺創建時の土木工事や戦国時代の城壁普請といった実績により、石工技術者集団「穴太衆」と呼ばれるようになったのだそうです。この技術を現代に受け継いでいるのが、坂本にある(株)粟田建設さんで、粟田家の家訓として先祖代々「石の声を聴き、石の行きたいところに石を置け」という言葉が伝えられています。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

滋賀院門跡勅使門: 京阪電鉄坂本駅の南西すぐの所にあります。滋賀院門跡(もんぜき)とは、天台宗で、天台座主(ざす)(=住職)が常住する延暦寺運営の中枢がおかれた寺院のことです。皇族や摂関家などの子弟が出家して相承される寺院を「門跡寺院」と呼び、天台座主職には親王などが就任することが多く、真言宗における仁和寺や大覚寺、天台宗においては滋賀院とともに大原三千院なども門跡寺院として有名です。
もとは京都の北白川にあった法勝寺(ほうしょうじ)を、江戸時代初期に現在地に移し、のち後水尾(ごみずのお)上皇から滋賀院の号を賜わりました。江戸時代末まで天台座主となった皇族代々の居所であったことから特に高い格式を誇ります。
坂本の町には、穴太衆積み石垣が見事な里坊が数多く残っていますが、中でも滋賀院門跡はひときわ背の高い石垣と白壁に囲まれ、延暦寺の本坊らしい堂々とした外構えを見せています。約2万平方メートルという広大な境内には、内仏殿・宸殿・書院・庫裏(くり)・土蔵などが立ち並びます。
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慈眼堂: 織田信長の焼き討ちにより荒廃した延暦寺の再興に尽力した慈眼大師天海の廟(びょう)所で、江戸時代初期の禅宗様を基本とする仏堂です。美しい紅葉でも知られています。
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十三体石仏群: 慈眼堂境内には高島市から移された鵜川四十八体石仏群のうちの13体の阿弥陀如来坐像があるほか、歴代天台座主の墓、桓武天皇の供養塔、徳川家康供養塔、紫式部供養塔なども残されています。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

桓武天皇供養塔        清少納言、和泉式部、    紫式部の塔
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⑦松ノ馬場: 権現馬場を琵琶湖(東)に向かって下り、さらに南側に移動して松ノ馬場まで来ました。ここからは琵琶湖の景色が良く見えます。昔は下阪本の三津浜の湊(後述の七本柳鳥居の辺り)から上陸した参詣の人々は、この松ノ馬場を登り、作り道を北進して日吉馬場に入ったといわれています。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

酒井神社: 松ノ馬場を琵琶湖に向かって下り、向かい合う酒井神社、両社神社の所まで来ました。
酒井神社は織田信長の比叡山焼き打ちによって罹災しましたが、天正16年(1588)に再建され、現在の本殿は、棟札によって、元和6年(1620)に広島藩主浅野長晟によって旧広島藩主先祖(父)浅野長政の下阪本村領受の由緒を以って、建立されたことが知られます。現在の社地に移されたのもこの時です。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

両社神社: 両社神社も現在の本殿は元和6年(1620)に広島藩主浅野長晟によって建立されました。 このときに酒井神社から独立し、広島藩主浅野公崇敬の社で、廃藩迄は累代同藩より営繕費を奉るのを常例としていました。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

ここから、坂本城の話となります。

酒井神社、両社神社の間の琵琶湖(東)に向かう道路(両社川)、神社東(琵琶湖)側南北道路及び東南寺川が坂本城中堀跡で、東側南北道路(中堀跡)を南に歩いて、坂本城址公園に向かいます。
下写真の道路が中堀跡で、写真左(琵琶湖)側は二の丸、右(比叡山)側は三の丸(2024.2.7三の丸石垣が確認されました)になります。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

後述する発掘調査が行われる前は、坂本城廃城後、城跡は整備されて田畑や住宅地に変わってしまい地上にまったく痕跡を残さず、その位置や規模などが不明の『幻の城』となっていました。

ただ、『川角太閤記』に
「(坂本)城を払ひて大津の浜に移す。其の跡に一寺建つ。今の今津堂(=東南寺)なり。古城地の時の石垣、今に存す。」
とあり、他にも『近江輿地志略』や江戸時代の紀行文にも同様のことが記載され、江戸時代から近年まで、お城が東南寺付近(この付近の小字は「城」)にあったらしいと伝承されていました。
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東南寺前「坂本城址石碑」(二の丸跡): 上記伝承に加えて、東南寺の少し北側には明智一族の墓と伝えられている明智塚が、今も祀られていることから、東南寺の辺りに坂本城があったとして、大正4年(1915)11月に東南寺前にこの坂本城址の石碑が建立されています。
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東南寺(今津堂の後身)
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

東南寺川(坂本城中堀): 東南寺の南側を坂本城址公園の北側まで流れています。公園は東南寺川の南側に位置し、二の丸の外側。縄張図からは、当時は東南寺川のこの写真の辺りや公園も含めて、琵琶湖?
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

⑨坂本城址公園に到着しました。公園には城址を示す石碑や光秀の石像がありますが、発掘調査の結果と照らし合わせると、城址に近いというだけであまり関係のない場所のようです。

公園の坂本城址石碑            明智光秀像
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日吉大社 七本柳鳥居: 公園の奥の砂浜から七本柳鳥居が見えました。毎年4月14日の日吉大社の山王祭において、神輿を船に乗せる船渡御〈ふなとぎょ〉がこの鳥居から行われます。唐崎神社の沖まで行った神輿は、そこで、「粟津の御供」を受けます。この神事の起源は、日吉大社西本宮の神を大和国の三輪よりお迎えした時に、船の漁夫〈田中恒世〉が粟飯を献じたところ、神は毎年4月14日にこの浜に出向いてくることを約束したと今に伝えられています。七本の柳はその神の降臨する木とされてきました。
戸津の桟橋から出発した船渡御は、唐崎沖で粟津御供を供えられ、若宮神社を帰着地として上陸して再び日吉大社に向かいます。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

城址公園では、「坂本城を考える会」の方から、坂本城の築城、代々の城主(明智光秀→丹羽長秀杉原家次浅野長政)、このあとに訪問する本丸跡からの出土品等の説明を受けました。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

坂本城縄張図: 坂本城址公園は色付けされた本丸南側で図の外
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

➉坂本城本丸跡石碑: キーエンス社研修所前にある石碑で、研修所建設前の昭和54年(1979)に発掘調査が実施され、焼土中から城の建物や丼戸、溝・石垣などが発見され、本丸跡であったことがわかりました。
焼土は明智光秀が山崎の戦いの敗戦後、「明智左馬助の湖水渡り」で有名な明智秀満により天主に火が放たれ、光秀の妻子もろとも落城した時のものと考えられています(琵琶湖文化館前に秀満が坂本城へ向かった出発点といわれる湖水渡りの石碑が建てられています。)。また、その焼土層の上に整地した層があり、この遺構は丹羽長秀により再建されたときのものと考えられています。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

坂本城 本丸跡石垣: 坂本城が記述される場合、平成6年(1994)夏の異常渇水時に陸化して現れた石垣の写真が頻繁に提示されますが、今回の探訪では、幸運にも昨年からの渇水により、この湖面から露出した本丸跡石垣基底部一石部分を直接観察することができました(本日1月14日時点の琵琶湖の水位は-78cm)。平成6年の渇水時には滋賀県教育委員会により調査が行われており、石列の下には湖底の軟弱地盤を補強し、沈下を防止する胴木が据えられ、小礫がちりばめられていました。まわりに見られる小石はちりばめられていた「小礫」の一部なのでしょう。「胴木」も下の拡大写真のように直接観察することができました(一番左手前の石に注目)。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

            上の石垣の拡大。石の下に胴木が見えます。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

この石の右下にも胴木が見えます。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

下は発掘調査の結果に基づいた中井均先生監修の坂本城復元イラストで、坂本城はこのようなイメージであったと考えられます。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

また、下は坂本城をジオラマ化したもので、坂本城は i. 琵琶湖水を引き入れた水城形式の城郭、ii. 大天主と小天主の2つの天主で構成される豪壮な城郭であったと想像されます。
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聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ): 坂本城址訪問の後は、北国海道を北上して、聖衆来迎寺を訪れました。
伝教大師最澄の創建で、源信が念仏教化の道場とし再興。入り口には旧坂本城から移築したといわれる表門があります。ここには織田信長に仕え、浅井・朝倉軍との戦いで討ち死にした森蘭丸の父、宇佐山城主森可成の墓所があることから、比叡山焼き打ちの難を逃れ、多くの寺宝が残されています。

坂本城移築城門(表側): 表門は、明智光秀が築城した坂本城の城門を移築したとの寺伝がありましたが、平成21~23年に行われた解体修理により、櫓門(やぐらもん)の二階部分を取り除き一階部分の上に本瓦葺の屋根を載せたと考えられること、使われた工具の加工痕が坂本城築城の年代と一致すること、聖衆来迎寺と明智光秀との深い繋がりがあったことから、坂本城の城門を移築したことがほぼ明らかとなりました。滋賀県内では最古の城門の遺構です。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

(裏側)裏から見ると薬医門であることが分かります。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

聖衆来迎寺開山堂: 寺蔵文書に寛永15~16年(1638~39)に再興の記述があり、桁行三間、梁間三間で、江戸時代初期を代表する優れた三間仏堂です。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

森可成墓: 宇佐山城城主であった森可成は、浅井・朝倉軍との戦いで討ち死にしました。聖衆来迎寺は比叡山と関係のある寺院ですから、信長とは敵対関係にありましたが、戦場の近くであった聖衆来迎寺の僧侶は、敵の大将・森可成の遺体を秘かに運んで手厚く葬ったと伝わります。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

生源寺: 最後に、例会開始時、集合しただけで、説明を受けていなかった生源寺に戻りました。
生源寺は、創建年代は延暦年間(782-806年)で、父・三津首百枝の居館跡で、自らの生誕地でもある当地に、天台宗開祖の最澄により建立されました。本尊は慈覚大師円仁作の十一面観音で、寺は比叡山焼き討ちで全焼しています。

伝教大師御産湯井: 境内には延暦寺を開いた伝教大師最澄が産湯を使ったという井戸が残っています。最澄は、古市郷(膳所から南郷あたり)の生まれとの記録もありますが延暦寺のお膝元・坂本には最澄出生にまつわる旧跡が多く、この他、出産時の胞衣(えな)を埋めた塚や父の屋敷跡などがあります。最澄の生誕の日は諸説あると言われていますが、生源寺では毎年8月18日に盛大な誕生会が開かれています。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

生源寺鐘楼: 下写真の破鐘(われがね)から交換されたものです。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

破鐘(われがね): 元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちの際、信長の軍勢が押し寄せるのを発見した古老が、周囲に急を告げるため、力の限り強く打ち鳴らしてヒビが入った鐘です。現在は坂本石積みの郷公園に移設されています。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

なお、今回は訪問しませんでしたが、坂本城ゆかりの城門としては、下の西教寺総門も坂本城より移築された門と伝えられています。

西教寺総門(表)
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

西教寺総門(裏): 裏から見ると高麗門であることが分かります。
2024年1月14日(日)第112回例会「坂本城址と石積みのある門前町」

今回は坂本城址の湖中の石垣を間近に見ることができ、非常にタイミングが良く充実した例会でした。実施にご尽力いただきました城郭探訪会44期地域文化科の皆様に感謝いたします。
                              文責 岡島敏広

次回は、2024年3月9日(土)に日野城址探訪が計画されています。

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