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2024年06月17日

2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

草津校44期園芸学科Bと陶芸学科の共同担当で第116回例会が6月15 日(土)に開催されました。74名の参加で、コースの歩行歩数は9,400歩でした。
なお、宇佐山城跡探訪は2022年5月の第93回例会でも訪問しており、その様子はこちら

宇佐山城跡は大津市街の西北、近江神宮の西に位置する標高335m の宇佐山山頂にあります。織田信長が上洛を目論む浅井・朝倉連合軍への対抗と、延暦寺の監視のため、森可成(もりよしなり)に命じて築城させた山城です。

          森可成
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

例会開始: 近江神宮の駐車場に集合し、コースの説明及び柔軟体操の後、出発です。本日のガイドさん4名は、いずれも我々レイカディア大学のOBでした。筆者の班を案内いただいた方は大学だけでなく、城郭探訪会のOBでもありました。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

近江神宮楼門: 例会への参加者が多人数であったことから、約半数が先に宇佐山城に登城し、残りの半数の私たちはその間、近江神宮と宇佐八幡宮を参拝しました。先に登城した班は、逆に宇佐山城を巡った後、宇佐八幡宮と近江神宮を参拝します。
近江神宮は、天智天皇をお祭りする神社創建の運動が起こり、昭和15年(1940)鎮座した新しい神宮です。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

近江勧学館でのかるた試合: 近江神宮は、小倉百人一首の巻頭を飾る「秋の田の かりほの庵の 苫を荒み わが衣手は 露にぬれつつ」を詠んだ天智天皇が御祭神で、社務所の前にはこの歌の碑も建てられています。
そのため、「かるたの殿堂」と呼ばれ、競技かるたの日本一を競う「競技かるた名人位・クイーン位決定戦」を始め、数々の大会が開催されています。本日も勧学館でかるたの試合が行われていました。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

宇佐八幡宮(むし八幡宮)への案内: 次に、宇佐山の麓にある宇佐八幡宮を近江神宮から近道して訪れます。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

宇佐八幡宮: 急坂を登頂途上、「宇佐山」の由来になった宇佐八幡宮があり、立ち寄りました。治暦(じりゃく)元年(1065)源頼義が宇佐山に祠宇(しう)を建て、豊前国宇佐神宮を勧請したことから、この山を宇佐山と呼びます。
特に子供の疳の虫(かんのむし)や夜泣きの「虫封じ」にご利益があり、「虫八幡」とも呼ばれています。 かわいい「神鳩」を神棚に祀って拝むと強い子供になるとのことです。
織田信長の頃、この後で訪問する宇佐山城に係る戦乱で、社殿は一度ことごとく焼失しています。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

八幡様のお使いは鳩で、本殿横の棚には名前と年齢を記して、子どもの生育を祈る土鳩(土人形)が奉納されズラリと並んでいました。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

宇佐山城のある宇佐山: この後、宇佐山城に登城します。写真中央の宇佐山山頂に塔が見えますが、城の本丸(主郭)には、NHK TV 中継塔が建てられ、それが目印となっています。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

宇佐山城縄張図: 宇佐山城は、信長の命により森可成が永禄13年(1570)に築いたとされます。比叡山の南東に位置する宇佐山山頂に築かれ、山麓には宇佐山を迂回するようにして京都に通じる現在の「山中越え」が通っています。湖西と京都を結ぶルートであり、交通上の重要性はいうまでもありません。信長は宇佐山城を、朝倉・浅井連合軍を筆頭とする反信長勢力に備え、京都から岐阜を結ぶ拠点としたのでしょう。
「多聞院日記」には「今道(崇福寺・志賀の大仏の横を通る旧山中越え)とワラ坂(逢坂越え)を封鎖して、新城の山麓に新道が付け替えられた」と記され、都に通じる往来を強く意識して二道を監視する重要な役割を持つ城だったことが推察できます。「新道」(現在の「山中越え」)は縄張図のこのまま上方(西側)を通り、城は新道を見下ろせるようになっています。縄張図はクリックにより拡大します。
現在、山頂の本丸(主郭)跡にはTV 中継塔が建っています。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

登城途中で見える竪堀: 登城途中に、敵兵の斜面での横移動を防ぐ竪堀が見られ、この竪堀は山上から麓の方まで長い距離掘られたものでした。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

本丸(主郭)石垣: 宇佐山城の石垣は坂本の町に向いた面のみに積まれていますが、現在残る状況から高さを推定復元しても山麓から映えるように見えるようなものではなかったと考えられます。
これらはすべて本丸(主郭)へと向かうメインルート沿いに集中していることから、登城者に対する視覚的威圧の意味合いが大きかったと思われます。

城にまつわるエピソードに移りますが、信長主力が三好三人衆との戦いに摂津に投入されている中、朝倉・浅井連合軍は、森可成が守るこの宇佐山城へ攻め寄せました。『信長公記』に「宇佐山の城・端城まで攻め上られた」という記載があります。落城には至りませんでしたが、森可成は城を出て激しく戦った末に討ち死にします。森可成の墓は聖衆来迎寺にあります。
3カ月の膠着(こうちゃく)状態の末に和議が成立して戦いが収束すると、明智光秀が近江・志賀郡を与えられ、森可成の代わりに宇佐山城の城主、その後、坂本城の城主となりました。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

本丸(主郭)石垣への通路: 写真ではわかりにくく申し訳ないですが、前回(2年前)の訪問時とは異なり、落ち葉のないことで判別できる「道」が従来の登山道から新しく伸びていました。登山道から本丸(主郭)石垣を見るために行き来するうちにできたものです。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

本丸喰違虎口付近石組み溝(NHK TV 中継塔下): TV 中継塔の建物下には、石組み溝が残されており、この南にある喰違虎口に伸びています。喰違虎口に関連する施設跡と考えられます。
また、宇佐山城では、放送施設建設に伴う発掘調査が虎口の一部で昭和43年(1968)と昭和46年(1971)の2回実施され、「虎口の石段」「虎口北側にある櫓の基礎部」「丸瓦・平瓦」が出土していることから、瓦屋根の建物や櫓が建てられていたと考えられています。。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

本丸喰違虎口付近石組み溝続き(NHK TV 中継塔から虎口へ伸びる石列部分): 写真上方の柵内(建物下、上記写真)に溝は続いています。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

本丸喰違虎口上方より: 石段を形成する石列が人の向こう側に残っています。右は土塁。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

本丸喰違虎口下方より: 石段の石列が人の手前に見え、人の左側には土塁による高まりがあり、櫓(やぐら)門の存在が想定されています。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

二の丸(副郭)石垣: ガイドさんに案内されて、宇佐山城最大の石垣を見るということで、南側の二の丸(副郭)まで行きました。北側から見た写真です。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

二の丸(副郭)石垣: 南側隅角部側から見た石垣です。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

二の丸(副郭)石垣隅角部: 隅角部は「算木積み」とは言い難い曖昧な積み方でした。安土城では「算木積み」が用いられているのに対し、ここは信長の近江では最初に石垣を用いた城であることから、時代の古さを示しているのかもしれません。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

本丸(主郭)の北にある堀切まで戻り、三の丸(出曲輪)跡に行きました。三の丸(出曲輪)跡は「宇佐山テラス」とも呼ばれ、ここから琵琶湖が一望できます。
また、三の丸(出曲輪)の北側に、櫓台と帯曲輪からなる小さな曲輪群があり(上記縄張図の右端の曲輪)、その曲輪群が『信長公記』に記されている「攻め上られた端城」と考えられています。
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

宇佐山城から下山し、最後に天智天皇(当時、中大兄皇子)が667 年遷都した近江大津宮跡(錦織遺跡)を訪れました。
発見されたのは、昭和49年(1974)、錦織一丁目の住宅地の一画で民家建替えのため、取り壊し済で、重機で地面の掘削を行おうとしていた時でした。大津京宮殿跡を求めて研究していた林博通氏(滋賀県立大名誉教授)が、その民家の所有者伊藤誠さんに調査の重要性を説明し、頼み込んで発掘調査を行いました。
その結果、下記の石碑のすぐ南隣で初めて内裏南門跡と考えられる13基の柱穴が発見されました。これらの柱はその後抜き取られたことを示す跡も残されており、焼土などの焼けた痕跡は残されていませんでした。

写真の石碑は「志賀皇宮遺跡碑」「志賀宮址碑」ですが、「日本書紀」や「万葉集」「懐風藻」には大津京の記述はあるものの、所在地が示されていなかったことから、江戸時代から議論となっており、まったくの推定で、明治28年(1895)にこれらの石碑が発掘現場の北隣の地に建立されました。石碑建立場所が上記発掘現場と偶然一致したのです。

志賀皇宮遺跡碑               志賀宮址碑
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」

ここは本日の最後の訪問地点で、京阪近江神宮前駅が近いことから、ガイドさんの説明が終了した時点で解散となりました。今回の例会では、ガイドさんから宇佐山城についての詳しい説明やその他の訪問地点のエピソード等興味深い情報が得られました。

第116回例会を計画してくださった草津校44期園芸学科B及び陶芸学科の皆様を始め、参加頂いた皆様、ご支援・ご協力いただいた方々に感謝申し上げます。

次回例会は2024年7月15日(宇佐山城跡)に予定されています。
                          文責 岡島 敏広

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