2024年11月25日
2024年11月23日三雲城址戦国のろしと秋野菜収穫体験(湖南市)
JR西日本ふれあいハイキング「三雲城址戦国のろしと秋野菜収穫体験」(湖南市)が開催されました。参加者は事前予約による28名で、集合場所のJR三雲駅で、湖南市観光協会が参加受付を行った後、参加者は2班に分かれ、以下のコースに従い、三雲城址を中心にJR三雲駅近辺の野洲川南岸を巡りました。総歩行歩数は18,000歩でした。
JR三雲駅→三雲屋敷跡→三雲城址→弘法杉→秋野菜収穫体験
→天保義民之碑→JR三雲駅
三雲城(吉永城)は、近江の戦国大名 佐々木六角氏の宿老として名を馳せた甲賀五十三家に数えられる三雲氏の居城として知られています。
三雲氏は蒲生氏とともに、六角氏の京都での軍事行動において中心的な役割を果たし、幕府や貴族とも直接的なつながりが認められ、京都でもその存在が知られていました。観音寺騒動後、六角氏の権力が動揺するなかで、三雲氏は軍事・外交上の力量でもって当主の六角氏を支え続け、三雲周辺は近江に侵攻する織田信長に対する六角方の抵抗の拠点となりました。
三雲城想像図をジオラマ化したものが、城の付近の湖南市三雲まちづくりセンターに展示されていますので、それを示します。
三雲城は三雲氏の主家である安土の観音寺城主・六角高頼の逃げ込み用の本城として、六角高頼の命により長亨2年(1488)に三雲典膳(てんぜん)が築いた典型的な山城で、東西約300m、南北約200mにも及ぶ広大な城域を有していました。
また、三雲城は六角氏の甲賀郡を中心とした甲賀作戦の中核となった城です。この作戦は近隣勢力から六角氏居城の観音寺城が攻撃された時、観音寺城での籠城戦を取らず、逃亡して敵を甲賀の山中に誘い込み兵站線を伸ばし、ゲリラ戦法で叩くもので、「呼び込み軍法」という六角氏固有の積極策です。三雲城は六角氏が逃亡する城として度々史料に登場し、六角氏は文明3年(1471)から天正2年(1574)の間に十数度の甲賀作戦を実施したと考えられます。
特に効果的であったのは長享元年(1487)9代将軍足利義尚の近江親征の際に、巧妙なゲリラ戦で幕府軍を撃退したときで、作戦の最後となったのは天正2年(1574)は織田軍の佐久間信盛に三雲氏が降った時となります。永禄11年(1568)9月12日に佐久間信盛によって攻められた際も六角承禎、義弼が逃れてきたという記録(氏郷記)や、野洲川を渡って岩根山麓から六角氏本城の観音寺城へ通じる「観音寺道」(横関~三雲)が少し残されています(本文最後に記載した「参考」もご覧ください)。
三雲氏は織田信長の京都侵攻に際して最後まで主君の六角氏に従ったことから、元亀元年(1570)に織田方の家臣の佐久間信盛の攻撃を受けて三雲城は山裾にある三雲屋敷(湖南市三雲字西山)と共に落城しました。
ハイキングはJR三雲駅より出発し、駅から西の方に向かいますが、途中、三雲城城主であった三雲氏代々の「五輪塔」の墓が残る永照院の横を通りました。
永照院
三雲屋敷跡: 永照院の北西の住宅地内に不釣合の写真のような竹藪が残され、「城の藪」と呼ばれています。これが三雲氏の平時の居館の三雲屋敷で、この藪から刀鑓の断片数個が発見されたりしていますが、城域の東側は県道4号線と宅地造成により消滅しています。
三雲屋敷は永正年間(1504~21)に三雲典膳の養子源内左衛門行定により築城されましたが、上述のように元亀元年(1570)に佐久間信盛の攻撃を受け落城しています。
上写真竹藪は1948年の航空写真(国土地理院より)では、丸で示した位置に当たります。永照院前から県道4号線(旧国道1号線)を横断、野洲川を渡り岩根山東麓より大谷ブドウ園の南側を経て、六角氏本城の観音寺城へ通じる小道は六角氏が往来したことから「観音寺道」と呼ばれ、現在も一部残されています(甲賀郡志)。
永照院からの観音寺道: 水路に沿ってトンネルを越えると永照院に行きます(三雲まちづくりセンター裏で撮影)。
野洲川方面への観音寺道: 水路に沿って先に進むと野洲川に到達します(三雲まちづくりセンター裏で撮影)。
八丈岩(縄張図内記号E)からの狼煙(のろし)の様子: さらに、西に進みました。JR西日本ふれあいハイキングが実施された本日に限らず、11月23日には毎年滋賀県の山城が参加して「のろし駅伝」が実施されています。第23回の本年は三雲城がスタートの狼煙を揚げる当番で、10:00に狼煙を揚げ、時間をおいて次の竜王町にある星ケ崎城に引き継がれました。
三雲城址に向かう途中、三雲城から狼煙が揚がっているのが麓から見られました(10:04撮影)。
三雲城登城口へ: このあと三雲城登城口を目指して登ります。
登城口での狼煙のデモンストレーション: 登城口に到着した時には、三雲城の狼煙は終了しておりましたので、城郭整備されている地元吉永区の皆様が、特別にJR西日本ふれあいハイキング参加者向けに、狼煙を再度揚げてくださいました。この後、登城ですが、まず八丈岩の方に向かいました。
下に福永清治先生の作図をもとにして、現地に掲示されている表示に合わせて改変した縄張図を示します。図はクリックすると拡大します。
城の縄張の中心部は、5ヶ所の郭(くるわ)によって構成されており、北側の郭(郭1)は約50mx40mの広さがあり井戸も残っています。また、郭1の東部分には三方を巨大な石材を用い、野面積みによって築かれた22.4m x 12mの大きな枡形遺構(虎口、縄張図内記号D)が残っています。
城の構造は、基本的には中世の山城ですが、枡形虎口や外郭ラインの一部に大きな石で積まれた高い石垣が築かれています。この部分は、後に織豊系城郭の影響を受けて改築されたと考えられています。六角氏の没落後、三雲成持は織田信雄(のぶかつ)、蒲生氏郷に仕えたことから、この時に改修されたと考えられます。
A: 石垣による突出部、B: 石垣を伴う土塁、C: Bの土塁の延長線上の石垣、D: 石垣による枡形虎口、E: 巨大な岩盤(八丈岩)
三雲城現況概要図
八丈岩(縄張図内記号E): 山麓からもその威容が見える巨石「八丈岩」(左写真)です。ここからは視界が良いので、三雲城では見張り台として用いられていたものと思われます。
作家の司馬遼太郎が昭和37年(1962)に著した小説「風神の門」に出てくる忍者 猿飛佐助は、城主 三雲成持の甥 三雲佐助賢春と記述されており、佐助が修行したであろう八丈岩は、「落ちそうで落ちない、倒れそうで倒れない」ことから合格祈願のパワースポットとして近年脚光を浴びています。
八丈岩の裏側には刻まれた六角氏の家紋(四つ目結)が残されています(右写真に示した白丸内で、写真をクリックすると写真が拡大します。)。六角氏の城であったことが分かります、

郭5: 八丈岩から馬の背道を通って、郭5に行きます。郭5は面積では郭1より広いのですが、削平が不十分で緩斜面となっており、ここは守備兵の駐屯地や兵站地として用いられたと考えられます。
主郭(郭1)枡形虎口(縄張図内記号D): 郭1への入口で、 22.4m x 12mの大きさです。郭1に入るには枡形内で2度の屈曲を強いて、敵兵の直進を阻止しています。郭1は約50mx40mの広さがあります。
郭1枡形虎口内石垣: 説明板左の石の上部に矢穴跡があり、この石は天然石のままではなく、人により割られて、形が整えられていることがわかります。
郭1北西側土塁(縄張図内記号B): 郭1のこの土塁が背後を防備しており、郭1は面積が広く、石垣が多用されていることから、主郭は次に訪れる最高所の郭2、3、4ではなく、この郭1と考えられます。
郭1石垣(縄張図内記号C): 土塁の延長線上の石垣: 三雲城は信長軍により落城後、天正年間(1573年〜)には廃城となりましたが、天正13年(1585)に甲賀市水口町に豊臣秀吉の家臣の中村一氏が水口岡山城を築いた際に三雲城の中心の郭群周辺と出郭間の資材や石垣等が用材として持ち去られたと言われています。
郭1井戸: 虎口の内側には、御殿が建ちそうな大きな郭があり、写真のように直径1.9m深さ6.2mの井戸も残っています。井戸の内側は野面積の石垣で囲われています。
郭2: 城の立地はすばらしく、麓の街道や野洲川を行き交う人々の往来を監視することができます。
そのため、この郭2は、NHK連続テレビ小説「スカーレット」でロケ地しとて使われ、戸田恵梨香さんが夕日を見つめながら信楽に別れを告げ、陶器の断片を見つける場面がここで撮影されました。その説明が右の看板で表示されています。
郭2の石垣(縄張図内記号A): 郭2から少し先(北側)に下りて行くと石垣が残されています。三雲城の石垣は、それらの積み方から見て、六角氏のものではなく、織豊政権の改変と考えられます。六角氏没落後、三雲成持が豊臣政権のもと織田信雄・蒲生氏郷に仕えて、その後、江戸時代にも一千石の旗本として生き残ったことを考えると、ここが地域拠点として織豊系城郭に改変されたことも自然の成り行きと考えられます。
郭3への尾根上通路: 城の東側が見渡せる郭3へは土橋様の切岸が施された尾根を通って行きます。
郭3: 城の東側を見張る見張り台として用いられたと思われます。
郭4への通路と堀切: 写真で階段が設置されていることから分かるように、郭4への通路は堀切が切られて、一旦下りて登る必要があり、容易には行き来できないようになっています。
郭4: 郭4は城が使用されていた当時は樹木がなく、南側が見渡せたものと思われますが、現在は樹木で回りは見えません。
このあと、大手道を通って登城口まで戻りましたが、郭5より下の部分では、途中、写真にあるようないくつもの新しい石垣が積まれていました。
近代石垣: 近世以後も三雲城址で採石が盛んで、一帯が屑石による砂防用石垣で覆われている現状から、城址は長年の破壊を受けたことがわかります。そのような変容の結果として、城址の現状は土塁や石垣の一部と井戸が残るのみとなっています。
郭1周辺は基本的には変化していないと思いますが、1980年代に調査・作成された時の縄張図がありましたので、参考までに示します。
以上の情報をまとめ、三雲城の様子をまとめた想像図を以下に示します。
三雲城址訪問後は、そのまま大砂川に沿って山を下り、弘法杉を見た後、野菜収穫を体験しました。野菜としては、サツマイモとジャガイモをショベルで掘り起こして収穫し、個々に持ち帰っていただきました。
天保義民之碑: 最後に、近江天保一揆で亡くなった犠牲者を弔う碑を訪問しました。一揆は近江野洲郡・栗太郡・甲賀郡の農民4万人が、江戸時代後期、江戸幕府による不当な検地に抗議して起こしました。一揆は成功し、農民の要求は聞き届けられましたが、一揆後、一揆指導者や参加者に対する幕府の苛烈な取り調べにより亡くなったたくさんの犠牲者を弔っています。
ここで、一揆の経緯の説明を聞きました。
以上、本日は、湖南市の野洲川南岸にある三雲城址、弘法杉と天保義民之碑を巡りました。訪問後、スタート地点のJR三雲駅に戻って解散となりました。
お疲れさまでした。
文責 岡島 敏広
参考: 近江八幡市安土町石寺の観音寺城麓にある道標の記載事項(写真正面)「左 くハんおんし すく ゑち川」(=左 観音寺 まっすぐ 愛知川)、(向かって左面)「すく 大つ 右八まん 長命寺」(=まっすぐ大津 右八幡 長命寺)、(民家に隠れた右面)「(梵字)すく くハんおんし道」とあり、「すく」とは「まっすぐ」という意、「くハんおんし道」は「観音寺道」のことで、観音寺城麓の石寺から観音寺道が始まっています。
JR三雲駅→三雲屋敷跡→三雲城址→弘法杉→秋野菜収穫体験
→天保義民之碑→JR三雲駅
三雲城(吉永城)は、近江の戦国大名 佐々木六角氏の宿老として名を馳せた甲賀五十三家に数えられる三雲氏の居城として知られています。
三雲氏は蒲生氏とともに、六角氏の京都での軍事行動において中心的な役割を果たし、幕府や貴族とも直接的なつながりが認められ、京都でもその存在が知られていました。観音寺騒動後、六角氏の権力が動揺するなかで、三雲氏は軍事・外交上の力量でもって当主の六角氏を支え続け、三雲周辺は近江に侵攻する織田信長に対する六角方の抵抗の拠点となりました。
三雲城想像図をジオラマ化したものが、城の付近の湖南市三雲まちづくりセンターに展示されていますので、それを示します。

三雲城は三雲氏の主家である安土の観音寺城主・六角高頼の逃げ込み用の本城として、六角高頼の命により長亨2年(1488)に三雲典膳(てんぜん)が築いた典型的な山城で、東西約300m、南北約200mにも及ぶ広大な城域を有していました。
また、三雲城は六角氏の甲賀郡を中心とした甲賀作戦の中核となった城です。この作戦は近隣勢力から六角氏居城の観音寺城が攻撃された時、観音寺城での籠城戦を取らず、逃亡して敵を甲賀の山中に誘い込み兵站線を伸ばし、ゲリラ戦法で叩くもので、「呼び込み軍法」という六角氏固有の積極策です。三雲城は六角氏が逃亡する城として度々史料に登場し、六角氏は文明3年(1471)から天正2年(1574)の間に十数度の甲賀作戦を実施したと考えられます。
特に効果的であったのは長享元年(1487)9代将軍足利義尚の近江親征の際に、巧妙なゲリラ戦で幕府軍を撃退したときで、作戦の最後となったのは天正2年(1574)は織田軍の佐久間信盛に三雲氏が降った時となります。永禄11年(1568)9月12日に佐久間信盛によって攻められた際も六角承禎、義弼が逃れてきたという記録(氏郷記)や、野洲川を渡って岩根山麓から六角氏本城の観音寺城へ通じる「観音寺道」(横関~三雲)が少し残されています(本文最後に記載した「参考」もご覧ください)。
三雲氏は織田信長の京都侵攻に際して最後まで主君の六角氏に従ったことから、元亀元年(1570)に織田方の家臣の佐久間信盛の攻撃を受けて三雲城は山裾にある三雲屋敷(湖南市三雲字西山)と共に落城しました。
ハイキングはJR三雲駅より出発し、駅から西の方に向かいますが、途中、三雲城城主であった三雲氏代々の「五輪塔」の墓が残る永照院の横を通りました。
永照院

三雲屋敷跡: 永照院の北西の住宅地内に不釣合の写真のような竹藪が残され、「城の藪」と呼ばれています。これが三雲氏の平時の居館の三雲屋敷で、この藪から刀鑓の断片数個が発見されたりしていますが、城域の東側は県道4号線と宅地造成により消滅しています。
三雲屋敷は永正年間(1504~21)に三雲典膳の養子源内左衛門行定により築城されましたが、上述のように元亀元年(1570)に佐久間信盛の攻撃を受け落城しています。

上写真竹藪は1948年の航空写真(国土地理院より)では、丸で示した位置に当たります。永照院前から県道4号線(旧国道1号線)を横断、野洲川を渡り岩根山東麓より大谷ブドウ園の南側を経て、六角氏本城の観音寺城へ通じる小道は六角氏が往来したことから「観音寺道」と呼ばれ、現在も一部残されています(甲賀郡志)。

永照院からの観音寺道: 水路に沿ってトンネルを越えると永照院に行きます(三雲まちづくりセンター裏で撮影)。

野洲川方面への観音寺道: 水路に沿って先に進むと野洲川に到達します(三雲まちづくりセンター裏で撮影)。

八丈岩(縄張図内記号E)からの狼煙(のろし)の様子: さらに、西に進みました。JR西日本ふれあいハイキングが実施された本日に限らず、11月23日には毎年滋賀県の山城が参加して「のろし駅伝」が実施されています。第23回の本年は三雲城がスタートの狼煙を揚げる当番で、10:00に狼煙を揚げ、時間をおいて次の竜王町にある星ケ崎城に引き継がれました。
三雲城址に向かう途中、三雲城から狼煙が揚がっているのが麓から見られました(10:04撮影)。

三雲城登城口へ: このあと三雲城登城口を目指して登ります。

登城口での狼煙のデモンストレーション: 登城口に到着した時には、三雲城の狼煙は終了しておりましたので、城郭整備されている地元吉永区の皆様が、特別にJR西日本ふれあいハイキング参加者向けに、狼煙を再度揚げてくださいました。この後、登城ですが、まず八丈岩の方に向かいました。

下に福永清治先生の作図をもとにして、現地に掲示されている表示に合わせて改変した縄張図を示します。図はクリックすると拡大します。
城の縄張の中心部は、5ヶ所の郭(くるわ)によって構成されており、北側の郭(郭1)は約50mx40mの広さがあり井戸も残っています。また、郭1の東部分には三方を巨大な石材を用い、野面積みによって築かれた22.4m x 12mの大きな枡形遺構(虎口、縄張図内記号D)が残っています。
城の構造は、基本的には中世の山城ですが、枡形虎口や外郭ラインの一部に大きな石で積まれた高い石垣が築かれています。この部分は、後に織豊系城郭の影響を受けて改築されたと考えられています。六角氏の没落後、三雲成持は織田信雄(のぶかつ)、蒲生氏郷に仕えたことから、この時に改修されたと考えられます。

三雲城現況概要図

八丈岩(縄張図内記号E): 山麓からもその威容が見える巨石「八丈岩」(左写真)です。ここからは視界が良いので、三雲城では見張り台として用いられていたものと思われます。
作家の司馬遼太郎が昭和37年(1962)に著した小説「風神の門」に出てくる忍者 猿飛佐助は、城主 三雲成持の甥 三雲佐助賢春と記述されており、佐助が修行したであろう八丈岩は、「落ちそうで落ちない、倒れそうで倒れない」ことから合格祈願のパワースポットとして近年脚光を浴びています。
八丈岩の裏側には刻まれた六角氏の家紋(四つ目結)が残されています(右写真に示した白丸内で、写真をクリックすると写真が拡大します。)。六角氏の城であったことが分かります、


郭5: 八丈岩から馬の背道を通って、郭5に行きます。郭5は面積では郭1より広いのですが、削平が不十分で緩斜面となっており、ここは守備兵の駐屯地や兵站地として用いられたと考えられます。

主郭(郭1)枡形虎口(縄張図内記号D): 郭1への入口で、 22.4m x 12mの大きさです。郭1に入るには枡形内で2度の屈曲を強いて、敵兵の直進を阻止しています。郭1は約50mx40mの広さがあります。

郭1枡形虎口内石垣: 説明板左の石の上部に矢穴跡があり、この石は天然石のままではなく、人により割られて、形が整えられていることがわかります。

郭1北西側土塁(縄張図内記号B): 郭1のこの土塁が背後を防備しており、郭1は面積が広く、石垣が多用されていることから、主郭は次に訪れる最高所の郭2、3、4ではなく、この郭1と考えられます。

郭1石垣(縄張図内記号C): 土塁の延長線上の石垣: 三雲城は信長軍により落城後、天正年間(1573年〜)には廃城となりましたが、天正13年(1585)に甲賀市水口町に豊臣秀吉の家臣の中村一氏が水口岡山城を築いた際に三雲城の中心の郭群周辺と出郭間の資材や石垣等が用材として持ち去られたと言われています。

郭1井戸: 虎口の内側には、御殿が建ちそうな大きな郭があり、写真のように直径1.9m深さ6.2mの井戸も残っています。井戸の内側は野面積の石垣で囲われています。

郭2: 城の立地はすばらしく、麓の街道や野洲川を行き交う人々の往来を監視することができます。
そのため、この郭2は、NHK連続テレビ小説「スカーレット」でロケ地しとて使われ、戸田恵梨香さんが夕日を見つめながら信楽に別れを告げ、陶器の断片を見つける場面がここで撮影されました。その説明が右の看板で表示されています。

郭2の石垣(縄張図内記号A): 郭2から少し先(北側)に下りて行くと石垣が残されています。三雲城の石垣は、それらの積み方から見て、六角氏のものではなく、織豊政権の改変と考えられます。六角氏没落後、三雲成持が豊臣政権のもと織田信雄・蒲生氏郷に仕えて、その後、江戸時代にも一千石の旗本として生き残ったことを考えると、ここが地域拠点として織豊系城郭に改変されたことも自然の成り行きと考えられます。

郭3への尾根上通路: 城の東側が見渡せる郭3へは土橋様の切岸が施された尾根を通って行きます。

郭3: 城の東側を見張る見張り台として用いられたと思われます。

郭4への通路と堀切: 写真で階段が設置されていることから分かるように、郭4への通路は堀切が切られて、一旦下りて登る必要があり、容易には行き来できないようになっています。

郭4: 郭4は城が使用されていた当時は樹木がなく、南側が見渡せたものと思われますが、現在は樹木で回りは見えません。

このあと、大手道を通って登城口まで戻りましたが、郭5より下の部分では、途中、写真にあるようないくつもの新しい石垣が積まれていました。
近代石垣: 近世以後も三雲城址で採石が盛んで、一帯が屑石による砂防用石垣で覆われている現状から、城址は長年の破壊を受けたことがわかります。そのような変容の結果として、城址の現状は土塁や石垣の一部と井戸が残るのみとなっています。

郭1周辺は基本的には変化していないと思いますが、1980年代に調査・作成された時の縄張図がありましたので、参考までに示します。

以上の情報をまとめ、三雲城の様子をまとめた想像図を以下に示します。

三雲城址訪問後は、そのまま大砂川に沿って山を下り、弘法杉を見た後、野菜収穫を体験しました。野菜としては、サツマイモとジャガイモをショベルで掘り起こして収穫し、個々に持ち帰っていただきました。

天保義民之碑: 最後に、近江天保一揆で亡くなった犠牲者を弔う碑を訪問しました。一揆は近江野洲郡・栗太郡・甲賀郡の農民4万人が、江戸時代後期、江戸幕府による不当な検地に抗議して起こしました。一揆は成功し、農民の要求は聞き届けられましたが、一揆後、一揆指導者や参加者に対する幕府の苛烈な取り調べにより亡くなったたくさんの犠牲者を弔っています。
ここで、一揆の経緯の説明を聞きました。

以上、本日は、湖南市の野洲川南岸にある三雲城址、弘法杉と天保義民之碑を巡りました。訪問後、スタート地点のJR三雲駅に戻って解散となりました。
お疲れさまでした。
文責 岡島 敏広
参考: 近江八幡市安土町石寺の観音寺城麓にある道標の記載事項(写真正面)「左 くハんおんし すく ゑち川」(=左 観音寺 まっすぐ 愛知川)、(向かって左面)「すく 大つ 右八まん 長命寺」(=まっすぐ大津 右八幡 長命寺)、(民家に隠れた右面)「(梵字)すく くハんおんし道」とあり、「すく」とは「まっすぐ」という意、「くハんおんし道」は「観音寺道」のことで、観音寺城麓の石寺から観音寺道が始まっています。

2024年11月19日
2024年11月14日(木)城郭OB第84回例会「近江日爪城址」
高島市のほぼ中央、新旭町饗庭(あいば)の日爪(ひづめ)集落南西の饗庭野台地の「城山」(熊野山)と呼ばれる東側山腹に立地する日爪城を探訪地とし、レイカディア大学41期生主催により、城郭探訪OB会第84回例会が開催されました。今回は48名のOB会会員が参加しました。
例会では参加者はJR新旭駅に集合し、そこからスタートして、日爪城を訪問した後、JR新旭駅にまで戻りました。例会の総歩行歩数は12,000歩でした。
日爪城は南谷遺跡背後の尾根上に築かれ、西側の主郭と東曲輪群(下図)とに大別されます。東曲輪群の東端に大規模な堀切と土塁があり、主郭でもその南西側のL字形の土塁と四条の堀切により厳重に防御しています。
さらに、日爪城から約1km南には、国史跡の清水山城館跡が残され、眼前には西近江路が通っています。急斜面に囲まれ、防御性の高い造りの日爪城は、清水山城館跡の出城とも伝えられ、その役割、存在価値が注目される山城の一つといえます。
日爪城城郭部分の縄張図
貞治6年(1367)に饗庭氏が日爪右京介為治を地頭代として日爪村に住まわせ、室町時代に書かれた史料に「山門領荘官」として登場する日爪氏が、日爪城の創建に関わったと推定されています。この日爪氏は、中世、新旭町北部一帯を支配下においていた饗庭氏の一族であると伝わっています。
永禄年間(1558~70)には山門の代官であった吉武壱岐守の子息の西林坊・定林坊・宝光坊が饗庭の村々に分れて住み、そのうち西林坊が日爪村にいたとされます。日爪氏と西林坊が同一人物かどうかは不明です。
三氏は「饗庭三坊」と呼ばれ、それぞれが住んだ由来のある村には発掘調査などにより山城や館の存在が確認されています。
また、日爪城の築城時期は不明ですが、高島の地においては16世紀中頃に築城の動きが活発化したことから、日爪城もこの頃本格的に築城されたものと推測され、このとき浅井・朝倉氏もしくは高島七頭の影響を受けて改修された可能性が指摘されています。
また、日爪城と饗庭三坊との関係を考える資料として、元亀3年(1572)の「明智光秀書状写」『細川家文書』に織田信長の命を受けた明智光秀は「饗庭三坊の城下まで放火し、敵城三箇所落去した」との記載があり、日爪城の落城・廃城が推測されます。
本日の登城コース: 日爪城の登城では地図の丸番号①~⑮の順に訪れ、これら地図中の丸番号は、下記の本文説明・写真の番号とも一致します。
地図はクリックにより拡大します。
JR新旭駅前で参加者を2班に班分け後、日爪城の説明を聞き、出発です。
登城口は日爪区農村集落センター前から西に別れて民家と民家の間の農道を通り山(西)の方に向かいます。
①着き当たりにフェンス扉がありますがそこからは入らず、標識の誘導に従い、左(南)に行くともう一つフェンス扉が見えてきます。ここから登城します。少し進むと地蔵の納められた②祠が見えてきます。
日爪城のある「城山」(熊野山)の斜面部から山麓にかけて(右写真の進行方向左の麓側に)は、今回は訪問していませんが、日爪城以前に存在した「高島七カ寺」と呼ばれる天台宗の有力寺院の1つ「大慈(谷)寺」の寺坊跡に比定される平坦面を利用した曲輪群が残っています。

②南谷遺跡のねごやの地蔵の祠: 城跡の山麓、現在の日爪集落の南西背後の竹やぶ付近には、「ネゴヤ」と呼ばれる場所があり、ここは城の創立に関わった日爪氏の館跡と伝わります。「ネゴヤ」は「寝小屋」とも考えられ、日爪氏の常住の館跡である可能性が高いと考えられています。
地域では、この場所は、明徳2年(1391)建立と伝わる「慈恩寺跡」とも伝えられ、早い段階で何らかの施設が建てられていたことがわかります。ここには、南谷遺跡(日爪のねごや)の説明板もあり、この地蔵さんからは日爪城に向かう道が続いています。
③「日爪城主郭」への方向を示す標識が立てられた東曲輪群横堀東側の土塁: 東曲輪群は、南北約58mの横堀(堀切)によって尾根の東端が遮断されていますが、その手前にはほぼ同じ長さの土塁が平行して築かれています。この土塁上を東曲輪群虎口に向かって進みました。
④麓からの土橋に繋がる横堀東側土塁の虎口: 現在私たちが登城する通路として、歩きやすい横堀東側土塁上を歩いて登城しますが、このようにえぐれて⑤土橋に直結している部分が土塁に見られましたので、ここは虎口と思われました。
⑤土塁を繋ぐ横堀に渡された土橋: 横堀(堀切)には土橋が残されており、この先は曲輪に登る通路に直結していることから、大手の遺構だと推定されています。
⑥土橋を渡って東曲輪群虎口へ
⑦東曲輪群虎口
⑧東曲輪群北西側面: 標高195mのこの東曲輪群と次の訪問地の主郭が山城の中心です。
⑨東曲輪群の曲輪内
⑩東曲輪群・主郭間に渡された土橋を通って主郭へ
⑪主郭: 標高207mにあり、東西約20m×南北約38mの長方形の区画で、西・南面にL字形の土塁がめぐらされています。現在、曲輪内平坦地には鉄塔が建てられています。
⑫主郭L字形土塁北西側: ここを歩いて、主郭西側の四条堀切へ向かいます。
⑬主郭北西側堀切(写真奥)と土塁(手前)
⑭主郭南西側四条堀切(主郭から外側を眺めた光景): 主郭から南西方向の尾根は、四条の堀切と土塁によって厳重に防御し、同様に東曲輪群の東端も、⑤土橋の所にある大規模な堀切により遮断し防御しています。
写真内の白い矢印は四条の堀切の位置を示しています。
⑮主郭南西側四条堀切(外側より主郭を眺めた光景):
写真内の白い矢印は四条の堀切の位置を示しています。
主郭見学終了時、正午を回っていましたので、この後、下山し、御祭神が仁徳天皇の若宮八幡社で昼食を取りました。若宮八幡社は明細書によれば創祀年代不詳ですが、社伝によると正平22(貞治6)年(1367)に日爪右京佐為治が創建とのことで、役人として入部の際勧請とも、また元中8年産土神として大阪高津宮より仁徳天皇を勧請したとも伝えられます。日爪氏がこの地域を統括していたことがわかります。
若宮八幡社訪問後は、JR新旭駅に戻り、本日の例会は解散となりました。
例会実施にご尽力いただきました41期OB会員の皆様に感謝いたします。
文責 岡島敏広
次回は、2024年12月5日(木)に佐和山城址探訪が計画されています。
例会では参加者はJR新旭駅に集合し、そこからスタートして、日爪城を訪問した後、JR新旭駅にまで戻りました。例会の総歩行歩数は12,000歩でした。
日爪城は南谷遺跡背後の尾根上に築かれ、西側の主郭と東曲輪群(下図)とに大別されます。東曲輪群の東端に大規模な堀切と土塁があり、主郭でもその南西側のL字形の土塁と四条の堀切により厳重に防御しています。
さらに、日爪城から約1km南には、国史跡の清水山城館跡が残され、眼前には西近江路が通っています。急斜面に囲まれ、防御性の高い造りの日爪城は、清水山城館跡の出城とも伝えられ、その役割、存在価値が注目される山城の一つといえます。
日爪城城郭部分の縄張図

貞治6年(1367)に饗庭氏が日爪右京介為治を地頭代として日爪村に住まわせ、室町時代に書かれた史料に「山門領荘官」として登場する日爪氏が、日爪城の創建に関わったと推定されています。この日爪氏は、中世、新旭町北部一帯を支配下においていた饗庭氏の一族であると伝わっています。
永禄年間(1558~70)には山門の代官であった吉武壱岐守の子息の西林坊・定林坊・宝光坊が饗庭の村々に分れて住み、そのうち西林坊が日爪村にいたとされます。日爪氏と西林坊が同一人物かどうかは不明です。
三氏は「饗庭三坊」と呼ばれ、それぞれが住んだ由来のある村には発掘調査などにより山城や館の存在が確認されています。
また、日爪城の築城時期は不明ですが、高島の地においては16世紀中頃に築城の動きが活発化したことから、日爪城もこの頃本格的に築城されたものと推測され、このとき浅井・朝倉氏もしくは高島七頭の影響を受けて改修された可能性が指摘されています。
また、日爪城と饗庭三坊との関係を考える資料として、元亀3年(1572)の「明智光秀書状写」『細川家文書』に織田信長の命を受けた明智光秀は「饗庭三坊の城下まで放火し、敵城三箇所落去した」との記載があり、日爪城の落城・廃城が推測されます。
本日の登城コース: 日爪城の登城では地図の丸番号①~⑮の順に訪れ、これら地図中の丸番号は、下記の本文説明・写真の番号とも一致します。
地図はクリックにより拡大します。

JR新旭駅前で参加者を2班に班分け後、日爪城の説明を聞き、出発です。

登城口は日爪区農村集落センター前から西に別れて民家と民家の間の農道を通り山(西)の方に向かいます。

①着き当たりにフェンス扉がありますがそこからは入らず、標識の誘導に従い、左(南)に行くともう一つフェンス扉が見えてきます。ここから登城します。少し進むと地蔵の納められた②祠が見えてきます。
日爪城のある「城山」(熊野山)の斜面部から山麓にかけて(右写真の進行方向左の麓側に)は、今回は訪問していませんが、日爪城以前に存在した「高島七カ寺」と呼ばれる天台宗の有力寺院の1つ「大慈(谷)寺」の寺坊跡に比定される平坦面を利用した曲輪群が残っています。


②南谷遺跡のねごやの地蔵の祠: 城跡の山麓、現在の日爪集落の南西背後の竹やぶ付近には、「ネゴヤ」と呼ばれる場所があり、ここは城の創立に関わった日爪氏の館跡と伝わります。「ネゴヤ」は「寝小屋」とも考えられ、日爪氏の常住の館跡である可能性が高いと考えられています。
地域では、この場所は、明徳2年(1391)建立と伝わる「慈恩寺跡」とも伝えられ、早い段階で何らかの施設が建てられていたことがわかります。ここには、南谷遺跡(日爪のねごや)の説明板もあり、この地蔵さんからは日爪城に向かう道が続いています。

③「日爪城主郭」への方向を示す標識が立てられた東曲輪群横堀東側の土塁: 東曲輪群は、南北約58mの横堀(堀切)によって尾根の東端が遮断されていますが、その手前にはほぼ同じ長さの土塁が平行して築かれています。この土塁上を東曲輪群虎口に向かって進みました。

④麓からの土橋に繋がる横堀東側土塁の虎口: 現在私たちが登城する通路として、歩きやすい横堀東側土塁上を歩いて登城しますが、このようにえぐれて⑤土橋に直結している部分が土塁に見られましたので、ここは虎口と思われました。

⑤土塁を繋ぐ横堀に渡された土橋: 横堀(堀切)には土橋が残されており、この先は曲輪に登る通路に直結していることから、大手の遺構だと推定されています。

⑥土橋を渡って東曲輪群虎口へ

⑦東曲輪群虎口

⑧東曲輪群北西側面: 標高195mのこの東曲輪群と次の訪問地の主郭が山城の中心です。

⑨東曲輪群の曲輪内

⑩東曲輪群・主郭間に渡された土橋を通って主郭へ

⑪主郭: 標高207mにあり、東西約20m×南北約38mの長方形の区画で、西・南面にL字形の土塁がめぐらされています。現在、曲輪内平坦地には鉄塔が建てられています。

⑫主郭L字形土塁北西側: ここを歩いて、主郭西側の四条堀切へ向かいます。

⑬主郭北西側堀切(写真奥)と土塁(手前)

⑭主郭南西側四条堀切(主郭から外側を眺めた光景): 主郭から南西方向の尾根は、四条の堀切と土塁によって厳重に防御し、同様に東曲輪群の東端も、⑤土橋の所にある大規模な堀切により遮断し防御しています。
写真内の白い矢印は四条の堀切の位置を示しています。

⑮主郭南西側四条堀切(外側より主郭を眺めた光景):
写真内の白い矢印は四条の堀切の位置を示しています。

主郭見学終了時、正午を回っていましたので、この後、下山し、御祭神が仁徳天皇の若宮八幡社で昼食を取りました。若宮八幡社は明細書によれば創祀年代不詳ですが、社伝によると正平22(貞治6)年(1367)に日爪右京佐為治が創建とのことで、役人として入部の際勧請とも、また元中8年産土神として大阪高津宮より仁徳天皇を勧請したとも伝えられます。日爪氏がこの地域を統括していたことがわかります。

若宮八幡社訪問後は、JR新旭駅に戻り、本日の例会は解散となりました。
例会実施にご尽力いただきました41期OB会員の皆様に感謝いたします。
文責 岡島敏広
次回は、2024年12月5日(木)に佐和山城址探訪が計画されています。