2023年04月21日
2023年4月18日(火)佐和山城下町(琵琶湖側)
本日は、レイカディア大学の課題学習での7回目の校外活動となります。
午前中の彦根城下町散策に引き続き、今度は佐和山城下町の情報収集のため、城下町を学ぶ課題学習グループ"沙沙貴組"4名プラス特別参加のK.Y.さん計5名は、琵琶湖側にある佐和山城下町を巡りました。
なお、佐和山城下町については、下見を実施しており、その内容については、次のリンク先: 琵琶湖側、鳥居本側をご覧ください。
龍潭寺駐車場に車を駐車しスタートです。
佐和山城は石田三成との関係が有名で、語られることが多いですが、最後の城主は井伊直政(なおまさ)です。
以下の地図(赤矢印)に従い、琵琶湖側佐和山城下町を巡ります。地図はいずれも図をクリックすることにより拡大します。
また、松原内湖は埋め立てられていますが、あまり開発が進んでいなかった1946年に撮影されたこの周辺の拡大可能な航空写真(国土地理院)へのリンクも付けておきました。
現況を示す赤色立体図
古地図
①佐和山城への登山口に当たる龍潭寺(りょうたんじ)(臨済宗)に入ると、春のすがすがしい青モミジの木陰に据えられた石田三成像が出迎えてくれます。本日は佐和山城方面への登山ではなく、琵琶湖側にある佐和山城の城下町を見て回ります。
①龍潭寺山門: 建立当時の山門は佐和山城城門を移築したものでしたが、享保20年(1735年)に再建されていることから、現在は移築門そのものではなくなっています。龍潭寺はもともと井伊谷(いいのや、浜松市引佐町)にも存在し、そちらから5世昊天を招いて、こちら彦根の龍潭寺が元和3年(1617年)に建立されました。
①山門内側: 内側に回ると薬医門であることがわかります。
②清凉寺: 井伊家の菩提寺として、また、慶長7年(1602年)に亡くなった父井伊直政の墓所として直孝(なおたか)が開基した曹洞宗永平寺派の寺院です。釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)を本尊とし、諸国から高僧を招いたので修行道場としての名声が高まり、多い時には2百余名の雲水が修行をしていたといわれます。この寺の前辺りは、佐和山城下町の時代、石ケ崎町と呼ばれ、鍛冶屋が多く、井伊家が彦根城に移るときには、町ごと中堀と外堀の間の内町に移されています。
②清凉寺正面山門は「唸り門」と言い、江戸時代の焼失までは、島左近邸の屋敷門が移築・使用されていました。島左近邸時からのタブの老木(禅堂に向かって右側の木)も残っています。島左近の本名は清興。石田三成の臣下で、三成4万石の禄高の時に2万石の俸禄で仕官したとされ、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われました。関ヶ原の戦いの時には石田軍の主力として大いに奮戦しますが、鉄砲による狙撃で負傷、最後は敵陣へ突撃して討ち死にとなりました(生き延びたという説もあります)。
さらに、清凉寺には七不思議があります。
・ 壁の月-方丈の外壁に月の形をしたシミが出来、塗りなおしても同じシミが出来る
・ 左近の南天-島左近縁の南天に触れると腹痛になるとされる
・ 唸り門-当初、島左近邸の表門を山門とした為、唸り声が聞こえたという
・ 洗濯井戸-島左近縁の井戸の水に汚れものを浸すと一晩で綺麗になった
・ 佐和山の黒雲-佐和山城縁の品々が佐和山から沸き上がった黒雲に持ちさられた
・ 木娘-本堂前のタブの木は、毎夜女性に姿を変え参拝者を誑かせた
・ 血の池-佐和山城落城の際、多くの血が流込み、覗くと血みどろの女性の顔が映る
唸り門
タブの老木
左近の南天?: 写真奥がタブで、手前が樹齢500年の南天と言われますが、実際は梅の木で根元に小さなナンテンが生えていました。
②井伊家代々の墓所: 初代井伊直政の墓所は、写真奥の木の下で特別に石柱の柵で囲われた所です。

③百間橋跡石碑: 清凉寺側からJRの踏切を渡り、住宅地ゴミステーションの間にひっそり立てられていましたが、橋跡の石碑がありました(左写真)。右写真は豊郷町豊会館にある実物の欄干で、大洞弁財天近くの湿地から発見されました。上の古地図にも描かれていますが、石田三成の頃には松原内湖に百間橋が掛けられていました。昭和初期まで存在していたことを示す古写真も残されています(下写真参照)。ただし、正しい解説はこちらのp.18をご覧ください。。

昭和14年以前の百間橋(撮影年不明)、背後の山は佐和山
昭和14年の百間橋、黒い山は佐和山
城があった当時、ここからの眺望はリンク先の様なものであったと思われます。石田三成居城・佐和山城搦手鳥瞰図(石田三成同族会と友の会保管)へ
竹林の中を石田三成屋敷跡へ
④丸跡: 写真は古地図にある「丸跡」の石垣と、もう一つ下の写真は、石垣のすぐ近くで蛇谷に設置されてしまった「石田三成屋敷跡石碑」です。

⑤石田三成屋敷跡石碑: 石田三成屋敷はもちの木谷(三成屋敷の書院植込に使われていたモチノキに由来)にあったと伝えられており、石碑の設置場所は伝承の場所とは異なり、誤りと思われます。
⑥もちの木谷の本当の石田三成屋敷跡: 特に屋敷跡であることを示す石碑などはなく、畑? 又は枠で囲い立ち入らないようにしている? のでしょうか。本日、ここを訪れる前に、駅前の彦根市観光案内所で尋ねてみますと、説明してくださった方は、ここが三成の屋敷跡であると判明した時に実地に訪れてみたそうで、その時はブルーシートが敷かれていたとおっしゃっていました。
この近くには、近江鉄道線路の反対側ですが、湖東焼の窯跡も残されています。
⑦佐和山城法華丸: 石田三成屋敷跡から見える法華丸です。
佐和山城の法華丸山門の移築門: 妙源寺赤門は、ここに建てられていたと伝わっています。
⑧佐和山城本丸: 同様に石田三成屋敷跡から見える本丸です。手前の土手は近江鉄道の線路の土手です。
佐和山城大手門の移築門: 宗安寺山門(赤門)は、この佐和山の反対側(大手口)に建てられていました。
本日の佐和山城下町散策はここで終了し、午前中から午後にかけて昼食抜きでたくさん歩き、お腹もすきましたので、沙沙貴組4名は、ファミリーレストランでお腹を満たしつつ、反省会にて楽しく喉を潤しました。 文責 岡島
午前中の彦根城下町散策に引き続き、今度は佐和山城下町の情報収集のため、城下町を学ぶ課題学習グループ"沙沙貴組"4名プラス特別参加のK.Y.さん計5名は、琵琶湖側にある佐和山城下町を巡りました。
なお、佐和山城下町については、下見を実施しており、その内容については、次のリンク先: 琵琶湖側、鳥居本側をご覧ください。
龍潭寺駐車場に車を駐車しスタートです。

佐和山城は石田三成との関係が有名で、語られることが多いですが、最後の城主は井伊直政(なおまさ)です。

以下の地図(赤矢印)に従い、琵琶湖側佐和山城下町を巡ります。地図はいずれも図をクリックすることにより拡大します。
また、松原内湖は埋め立てられていますが、あまり開発が進んでいなかった1946年に撮影されたこの周辺の拡大可能な航空写真(国土地理院)へのリンクも付けておきました。
現況を示す赤色立体図

古地図

①佐和山城への登山口に当たる龍潭寺(りょうたんじ)(臨済宗)に入ると、春のすがすがしい青モミジの木陰に据えられた石田三成像が出迎えてくれます。本日は佐和山城方面への登山ではなく、琵琶湖側にある佐和山城の城下町を見て回ります。

①龍潭寺山門: 建立当時の山門は佐和山城城門を移築したものでしたが、享保20年(1735年)に再建されていることから、現在は移築門そのものではなくなっています。龍潭寺はもともと井伊谷(いいのや、浜松市引佐町)にも存在し、そちらから5世昊天を招いて、こちら彦根の龍潭寺が元和3年(1617年)に建立されました。

①山門内側: 内側に回ると薬医門であることがわかります。

②清凉寺: 井伊家の菩提寺として、また、慶長7年(1602年)に亡くなった父井伊直政の墓所として直孝(なおたか)が開基した曹洞宗永平寺派の寺院です。釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)を本尊とし、諸国から高僧を招いたので修行道場としての名声が高まり、多い時には2百余名の雲水が修行をしていたといわれます。この寺の前辺りは、佐和山城下町の時代、石ケ崎町と呼ばれ、鍛冶屋が多く、井伊家が彦根城に移るときには、町ごと中堀と外堀の間の内町に移されています。

②清凉寺正面山門は「唸り門」と言い、江戸時代の焼失までは、島左近邸の屋敷門が移築・使用されていました。島左近邸時からのタブの老木(禅堂に向かって右側の木)も残っています。島左近の本名は清興。石田三成の臣下で、三成4万石の禄高の時に2万石の俸禄で仕官したとされ、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われました。関ヶ原の戦いの時には石田軍の主力として大いに奮戦しますが、鉄砲による狙撃で負傷、最後は敵陣へ突撃して討ち死にとなりました(生き延びたという説もあります)。
さらに、清凉寺には七不思議があります。
・ 壁の月-方丈の外壁に月の形をしたシミが出来、塗りなおしても同じシミが出来る
・ 左近の南天-島左近縁の南天に触れると腹痛になるとされる
・ 唸り門-当初、島左近邸の表門を山門とした為、唸り声が聞こえたという
・ 洗濯井戸-島左近縁の井戸の水に汚れものを浸すと一晩で綺麗になった
・ 佐和山の黒雲-佐和山城縁の品々が佐和山から沸き上がった黒雲に持ちさられた
・ 木娘-本堂前のタブの木は、毎夜女性に姿を変え参拝者を誑かせた
・ 血の池-佐和山城落城の際、多くの血が流込み、覗くと血みどろの女性の顔が映る
唸り門

タブの老木

左近の南天?: 写真奥がタブで、手前が樹齢500年の南天と言われますが、実際は梅の木で根元に小さなナンテンが生えていました。

②井伊家代々の墓所: 初代井伊直政の墓所は、写真奥の木の下で特別に石柱の柵で囲われた所です。


③百間橋跡石碑: 清凉寺側からJRの踏切を渡り、住宅地ゴミステーションの間にひっそり立てられていましたが、橋跡の石碑がありました(左写真)。右写真は豊郷町豊会館にある実物の欄干で、大洞弁財天近くの湿地から発見されました。上の古地図にも描かれていますが、石田三成の頃には松原内湖に百間橋が掛けられていました。昭和初期まで存在していたことを示す古写真も残されています(下写真参照)。ただし、正しい解説はこちらのp.18をご覧ください。。


昭和14年以前の百間橋(撮影年不明)、背後の山は佐和山

昭和14年の百間橋、黒い山は佐和山

城があった当時、ここからの眺望はリンク先の様なものであったと思われます。石田三成居城・佐和山城搦手鳥瞰図(石田三成同族会と友の会保管)へ
竹林の中を石田三成屋敷跡へ

④丸跡: 写真は古地図にある「丸跡」の石垣と、もう一つ下の写真は、石垣のすぐ近くで蛇谷に設置されてしまった「石田三成屋敷跡石碑」です。

⑤石田三成屋敷跡石碑: 石田三成屋敷はもちの木谷(三成屋敷の書院植込に使われていたモチノキに由来)にあったと伝えられており、石碑の設置場所は伝承の場所とは異なり、誤りと思われます。

⑥もちの木谷の本当の石田三成屋敷跡: 特に屋敷跡であることを示す石碑などはなく、畑? 又は枠で囲い立ち入らないようにしている? のでしょうか。本日、ここを訪れる前に、駅前の彦根市観光案内所で尋ねてみますと、説明してくださった方は、ここが三成の屋敷跡であると判明した時に実地に訪れてみたそうで、その時はブルーシートが敷かれていたとおっしゃっていました。
この近くには、近江鉄道線路の反対側ですが、湖東焼の窯跡も残されています。

⑦佐和山城法華丸: 石田三成屋敷跡から見える法華丸です。

佐和山城の法華丸山門の移築門: 妙源寺赤門は、ここに建てられていたと伝わっています。

⑧佐和山城本丸: 同様に石田三成屋敷跡から見える本丸です。手前の土手は近江鉄道の線路の土手です。

佐和山城大手門の移築門: 宗安寺山門(赤門)は、この佐和山の反対側(大手口)に建てられていました。

本日の佐和山城下町散策はここで終了し、午前中から午後にかけて昼食抜きでたくさん歩き、お腹もすきましたので、沙沙貴組4名は、ファミリーレストランでお腹を満たしつつ、反省会にて楽しく喉を潤しました。 文責 岡島
2023年9月5日(火)長浜城下町散策
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)
2023年4月18日(火)彦根城下町
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院
2023年3月28日(火)観音寺城下町石寺と沙沙貴神社
2023年3月22日(水)八幡山城下町
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)
2023年4月18日(火)彦根城下町
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院
2023年3月28日(火)観音寺城下町石寺と沙沙貴神社
2023年3月22日(水)八幡山城下町
Posted by
joukaku
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07:48
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