2025年02月17日
2025年2月15日(土)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第2回「横山城跡」参加
滋賀県主催の「近江の城」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第2回「横山城跡」に、第1回「田中城跡」に引き続き参加しました。
横山城の詳しい築城年月は不詳ですが、京極氏の支城の1つであったと思われます。この京極氏の有力家臣団であった浅井氏が、京極氏のお家騒動を機に台頭することになり、永正14年(1517)に浅井亮政(すけまさ)が城を奪ったとされます。
永禄4年(1561)の浅井長政の時代になってから、横山城は改修されて小谷城の出城の役目を担っていました。
浅井亮政
元亀元年(1570)6月28日の姉川の戦いの後には、木下藤吉郎秀吉が浅井長政から奪取した横山城(北城)の城代に任じられ、城郭の構造から、秀吉により南城が追加されたと考えられています。
浅井長政 木下藤吉郎秀吉

本日巡るコースは以下の通り、日吉神社から横山城に登り、北城と南城を巡って、坂下登山口に下ります。本日の総歩行歩数は9,000歩でした。
石田会館→日吉神社登山口→北城→南城→坂下登山口(観音寺道)
→坂下バス停→石田会館→石田神社(地図はクリックにより拡大します)

最初、石田会館に集合し、松下浩先生による横山城の簡単な説明の後、現地を訪問しながら、その各地点についての解説をお聞きします。
本日は寒波の合間で幸運にも晴天に恵まれました。この講座には47名が参加しましたが、参加者の中からは、登山道の雪についての質問も出ました。結果的には、雪により登山が困難になることもなく、目標地点をすべてクリアして終了することができました。

石田会館石田三成像: 本日の主題とは異なりますが、石田会館は石田町の石田屋敷跡に建てられ、三成の生い立ちやその生き様について様々な展示がなされています。
また、石田屋敷は石田町小字治部に位置し、小字治部の南部が石田会館の前庭であって、そこにこの銅像や石碑の立つ築山があります。写真の銅像は京都大徳寺三玄院で発掘された石田三成の頭蓋骨を参考に作られたものです。
石田屋敷ジオラマ(手前が北、奥が南): 会館内部には、写真のような石田屋敷の模型や石田三成についての絵巻パネルや鎧、ゆかりの古文書などの関連資料や大徳寺三玄院で発掘された三成の頭蓋骨の写真などが展示されていました。
堀端池(治部池): 会館の西にあるこの池は石田屋敷の唯一の現存する痕跡で、その名前から堀の跡と考えられます。石田と言えば石田三成が有名ですが、父の石田正継は浅井長政の家臣でしたが、浅井氏滅亡後は木下藤吉郎秀吉に従いました。
日吉神社: 石田会館から北に移動すると「石田治部少輔三成屋敷跡」の石碑があります。そこから東に向かうと、写真の石碑が見える日吉神社に到達します。横山城跡へは神社境内にある登山口より登ります。
横山ハイキング道(石田・日吉神社口)ルート: 横山城跡へは、境内にある鳥居手前で右に曲がり進みます。
登山開始: 登山途中に広場があり、表示に従い城跡を目指します。
途中の展望台からの眺め(西側): 竹生島が見えました。
横山城縄張図(縄張図はクリックにより拡大します。): 今回は図の下側から曲輪に入り、主郭(横山丘陵最高点)に到達後、右側に進みます。
北城曲輪①: 右の木の後方、小さく人の見える辺りに土塁があり、雪が融け土塁が窪んでいる箇所は曲輪①への虎口となります。
北城の見どころは、曲輪①の先、曲輪②との間にあるこの二重堀切です。
北城二重堀切西側(橋が架けられている) 東側

北城曲輪②へ登る途中の斜面: 二重堀切を渡り、曲輪②へと登ってゆきます。
北城曲輪②の土塁上に立つ松下先生: 松下先生は先に登り、曲輪②の土塁上で待っているのが進行方向に見えました。
北城についての説明: 北城は西からの侵入に二重堀切や土塁を設け、六角氏の勢力範囲の南側を意識して、南側にのみ土塁や帯曲輪が設けられていることから、六角氏と戦った浅井長政により改修されたと考えられます。
北城曲輪②より北城主郭へ急斜面を登る: 主郭へは写真のように急斜面を登る必要があり、主郭から南城へ下りる時も急で、主郭の防御が堅いことを示しています。
北城主郭: 横山丘陵最高点の312mの主郭に到達しました。この時期、東側には雪で白くなった伊吹山が見えました。
姉川の戦いの前には、ここに浅井氏家臣の上坂氏・三田村氏・野村氏が籠城していました。姉川の戦いは、この籠城軍を取り巻く織田・徳川軍の後詰として、浅井・朝倉軍が南下したことから勃発しています。
北城主郭より南城へ下りました: 南城へ向かうため、主郭より南側に150m程下りる途中、周囲から横山城跡の位置の目印となる赤白に彩色された鉄塔が見えました。
次に南城主郭へ登ります。こちらも北城と同様、斜面が急で、登山者を補助するためロープが張られていました。
大原観音寺観音像: 南城主郭に到達すると、そこには大原観音寺の「西国三十三番観音巡拝コース」が設置されており、ここ南城主郭に満願となる三十三番谷汲山(たにぐみさん) 華厳寺の観音様が祀られていました。
大原観音寺鐘楼: また、城跡に見た目の新しい鐘楼があるのは意外ですが、この鐘は姉川の戦い以降に戦没した武士や、他国との戦争で戦士した軍人の冥福を祈り、今も誰でもつける梵鐘です。
この鐘楼は昭和初期に昭道和尚が過去の歴史を偲んで寄進されたもので、昭和12年(1937)に地域住民により城跡まで鐘楼を運んだと伝わっています。戦争に入るとお寺の梵鐘は国家により強制的に供出され、様々な武器兵器に使われましたが、歴史ある古い大原観音寺の梵鐘は供出を免れました。同様に横山城跡の梵鐘も、昭道和尚の請願「戦没した武士の霊と、他国との戦争で戦士した軍人の霊を、誰もが鐘をついて冥福を祈り追弔するための梵鐘」という主張により供出を免れて、現在まで残っています。この鐘楼は昭和末期に地域住民により改修されましたが、再び倒壊の危険性が出てきた為に平成26年(2014)に再び改修されました。
南城主郭西側土塁(北向きに撮影): 城郭の話に戻りますが、姉川の戦いの後には、木下藤吉郎秀吉は浅井長政から奪取した横山城の城代に任じられ、浅井氏との攻防戦に従事しました。ここで志賀の陣の間、浅井軍が東岸を南下しないよう守備し、その後は浅井氏攻めの最前線として機能しました。
南城は主郭に軽い段差があり、井戸跡も残っています。また、土塁や曲輪を多用し、周囲に竪堀が配され複雑な構造となっています。
南城主郭西側竪堀③(北向きに撮影)
南城主郭東側曲輪群④(主郭東側土塁上より撮影): 雪により雛壇になっているのが確認し易くなっています。
南城主郭より坂下登山口(南方向)へ下山: 主郭から現在は階段が取り付けられていますが(階段は写真より手前)、雪で滑らないよう注意ながら急な斜面を下りました。本日は訪問しませんが、すぐに、大原観音寺へと向かう道が分岐しています。南城主郭も歩いてみることで、防御面で急斜面を利用し堅く守られた主郭であることが分かりました。
西側光景: 坂下登山口へ向かう尾根筋の途中、樹木がなくなり展望台が設置されていました。ここからは、写真のように竹生島や菅浦が見えます。
東側の展望も良く、雪の伊吹山が見えました。
南城南方の堀切: 参加者は左側から下りてきました。このあと、谷筋(観音寺道)に沿って西側方向に坂下登山口まで下山し、下山し終わったところで講座参加者は解散となりました。
石田三成一族供養塔: 解散後、滋賀県文化スポーツ部の方に連れられて石田会館に戻りましたが、会館近くに石田神社がありましたので、そこに建立されている石田三成一族供養塔を見学して帰宅の途につきました。
この供養塔は、昭和16年(1941)に隣接する八幡神社の地中より、五輪塔がバラバラに破壊された形で発掘されたものです。五輪塔には石田三成に係る文字が刻まれていることから、関ヶ原の戦いの後、徳川方の追及を恐れて埋められ、地元では「これに触れると腹が痛くなる」と言い伝えられて、発掘を堅く戒められていたものです。
文責 岡島 敏広
横山城の詳しい築城年月は不詳ですが、京極氏の支城の1つであったと思われます。この京極氏の有力家臣団であった浅井氏が、京極氏のお家騒動を機に台頭することになり、永正14年(1517)に浅井亮政(すけまさ)が城を奪ったとされます。
永禄4年(1561)の浅井長政の時代になってから、横山城は改修されて小谷城の出城の役目を担っていました。
浅井亮政

元亀元年(1570)6月28日の姉川の戦いの後には、木下藤吉郎秀吉が浅井長政から奪取した横山城(北城)の城代に任じられ、城郭の構造から、秀吉により南城が追加されたと考えられています。
浅井長政 木下藤吉郎秀吉


本日巡るコースは以下の通り、日吉神社から横山城に登り、北城と南城を巡って、坂下登山口に下ります。本日の総歩行歩数は9,000歩でした。
石田会館→日吉神社登山口→北城→南城→坂下登山口(観音寺道)
→坂下バス停→石田会館→石田神社(地図はクリックにより拡大します)


最初、石田会館に集合し、松下浩先生による横山城の簡単な説明の後、現地を訪問しながら、その各地点についての解説をお聞きします。
本日は寒波の合間で幸運にも晴天に恵まれました。この講座には47名が参加しましたが、参加者の中からは、登山道の雪についての質問も出ました。結果的には、雪により登山が困難になることもなく、目標地点をすべてクリアして終了することができました。

石田会館石田三成像: 本日の主題とは異なりますが、石田会館は石田町の石田屋敷跡に建てられ、三成の生い立ちやその生き様について様々な展示がなされています。
また、石田屋敷は石田町小字治部に位置し、小字治部の南部が石田会館の前庭であって、そこにこの銅像や石碑の立つ築山があります。写真の銅像は京都大徳寺三玄院で発掘された石田三成の頭蓋骨を参考に作られたものです。

石田屋敷ジオラマ(手前が北、奥が南): 会館内部には、写真のような石田屋敷の模型や石田三成についての絵巻パネルや鎧、ゆかりの古文書などの関連資料や大徳寺三玄院で発掘された三成の頭蓋骨の写真などが展示されていました。

堀端池(治部池): 会館の西にあるこの池は石田屋敷の唯一の現存する痕跡で、その名前から堀の跡と考えられます。石田と言えば石田三成が有名ですが、父の石田正継は浅井長政の家臣でしたが、浅井氏滅亡後は木下藤吉郎秀吉に従いました。

日吉神社: 石田会館から北に移動すると「石田治部少輔三成屋敷跡」の石碑があります。そこから東に向かうと、写真の石碑が見える日吉神社に到達します。横山城跡へは神社境内にある登山口より登ります。

横山ハイキング道(石田・日吉神社口)ルート: 横山城跡へは、境内にある鳥居手前で右に曲がり進みます。

登山開始: 登山途中に広場があり、表示に従い城跡を目指します。

途中の展望台からの眺め(西側): 竹生島が見えました。

横山城縄張図(縄張図はクリックにより拡大します。): 今回は図の下側から曲輪に入り、主郭(横山丘陵最高点)に到達後、右側に進みます。

北城曲輪①: 右の木の後方、小さく人の見える辺りに土塁があり、雪が融け土塁が窪んでいる箇所は曲輪①への虎口となります。

北城の見どころは、曲輪①の先、曲輪②との間にあるこの二重堀切です。
北城二重堀切西側(橋が架けられている) 東側


北城曲輪②へ登る途中の斜面: 二重堀切を渡り、曲輪②へと登ってゆきます。

北城曲輪②の土塁上に立つ松下先生: 松下先生は先に登り、曲輪②の土塁上で待っているのが進行方向に見えました。

北城についての説明: 北城は西からの侵入に二重堀切や土塁を設け、六角氏の勢力範囲の南側を意識して、南側にのみ土塁や帯曲輪が設けられていることから、六角氏と戦った浅井長政により改修されたと考えられます。

北城曲輪②より北城主郭へ急斜面を登る: 主郭へは写真のように急斜面を登る必要があり、主郭から南城へ下りる時も急で、主郭の防御が堅いことを示しています。

北城主郭: 横山丘陵最高点の312mの主郭に到達しました。この時期、東側には雪で白くなった伊吹山が見えました。
姉川の戦いの前には、ここに浅井氏家臣の上坂氏・三田村氏・野村氏が籠城していました。姉川の戦いは、この籠城軍を取り巻く織田・徳川軍の後詰として、浅井・朝倉軍が南下したことから勃発しています。

北城主郭より南城へ下りました: 南城へ向かうため、主郭より南側に150m程下りる途中、周囲から横山城跡の位置の目印となる赤白に彩色された鉄塔が見えました。

次に南城主郭へ登ります。こちらも北城と同様、斜面が急で、登山者を補助するためロープが張られていました。

大原観音寺観音像: 南城主郭に到達すると、そこには大原観音寺の「西国三十三番観音巡拝コース」が設置されており、ここ南城主郭に満願となる三十三番谷汲山(たにぐみさん) 華厳寺の観音様が祀られていました。

大原観音寺鐘楼: また、城跡に見た目の新しい鐘楼があるのは意外ですが、この鐘は姉川の戦い以降に戦没した武士や、他国との戦争で戦士した軍人の冥福を祈り、今も誰でもつける梵鐘です。
この鐘楼は昭和初期に昭道和尚が過去の歴史を偲んで寄進されたもので、昭和12年(1937)に地域住民により城跡まで鐘楼を運んだと伝わっています。戦争に入るとお寺の梵鐘は国家により強制的に供出され、様々な武器兵器に使われましたが、歴史ある古い大原観音寺の梵鐘は供出を免れました。同様に横山城跡の梵鐘も、昭道和尚の請願「戦没した武士の霊と、他国との戦争で戦士した軍人の霊を、誰もが鐘をついて冥福を祈り追弔するための梵鐘」という主張により供出を免れて、現在まで残っています。この鐘楼は昭和末期に地域住民により改修されましたが、再び倒壊の危険性が出てきた為に平成26年(2014)に再び改修されました。

南城主郭西側土塁(北向きに撮影): 城郭の話に戻りますが、姉川の戦いの後には、木下藤吉郎秀吉は浅井長政から奪取した横山城の城代に任じられ、浅井氏との攻防戦に従事しました。ここで志賀の陣の間、浅井軍が東岸を南下しないよう守備し、その後は浅井氏攻めの最前線として機能しました。
南城は主郭に軽い段差があり、井戸跡も残っています。また、土塁や曲輪を多用し、周囲に竪堀が配され複雑な構造となっています。

南城主郭西側竪堀③(北向きに撮影)

南城主郭東側曲輪群④(主郭東側土塁上より撮影): 雪により雛壇になっているのが確認し易くなっています。

南城主郭より坂下登山口(南方向)へ下山: 主郭から現在は階段が取り付けられていますが(階段は写真より手前)、雪で滑らないよう注意ながら急な斜面を下りました。本日は訪問しませんが、すぐに、大原観音寺へと向かう道が分岐しています。南城主郭も歩いてみることで、防御面で急斜面を利用し堅く守られた主郭であることが分かりました。

西側光景: 坂下登山口へ向かう尾根筋の途中、樹木がなくなり展望台が設置されていました。ここからは、写真のように竹生島や菅浦が見えます。
東側の展望も良く、雪の伊吹山が見えました。

南城南方の堀切: 参加者は左側から下りてきました。このあと、谷筋(観音寺道)に沿って西側方向に坂下登山口まで下山し、下山し終わったところで講座参加者は解散となりました。

石田三成一族供養塔: 解散後、滋賀県文化スポーツ部の方に連れられて石田会館に戻りましたが、会館近くに石田神社がありましたので、そこに建立されている石田三成一族供養塔を見学して帰宅の途につきました。
この供養塔は、昭和16年(1941)に隣接する八幡神社の地中より、五輪塔がバラバラに破壊された形で発掘されたものです。五輪塔には石田三成に係る文字が刻まれていることから、関ヶ原の戦いの後、徳川方の追及を恐れて埋められ、地元では「これに触れると腹が痛くなる」と言い伝えられて、発掘を堅く戒められていたものです。

文責 岡島 敏広
2025年01月28日
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加
滋賀県主催の「近江の城」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」に参加しました。
田中城は歴史上史料に4度登場し、明智光秀に係わりの深い城です。
なお、その史料の内容は本文の最後にまとめて示しました。
本日巡るコースは以下の通り、高島市安曇川町の田中城を訪問し、その後、下ノ城集落、南市を訪れます。本日の総歩行歩数は15,000歩でした。
JR安曇川駅→田中城→下ノ城集落→南市→JR安曇川駅(地図はクリックにより拡大します)

最初、JR安曇川駅西口に集合し、松下浩先生による田中城の簡単な説明の後、実地に訪問しながら、その各地点においても解説をお聞きします。
今回は60名が参加しました。
なお、筆者は田中城には以前に2度訪問しております。その時の模様もまとめておりますので、興味のある方はこちら(下見、例会本番)をご覧ください。
田中城は、近江源氏佐々木氏の一族で高島七頭(高島氏を中心として、平井(能登氏)、朽木、永田、横山、田中、山崎氏)のうちの田中郷の領主・田中氏の居城で、湖西平野の西に位置する泰山寺野台地から舌状にのびる標高約240m の支丘の先端部に築かれた中世末期の山城です。現在も上寺(うえでら)集落西側の山間部に、その遺構を残しています。城は鎌倉時代後期、田中播磨守実氏(さねうじ)により築城されました。
『近江輿地志略』には、「この城 上の城と号し、南市村城を下の城と称す」と記されることから、地元の伝承として古くから「上の城」や、地名から「上寺城(うえでらじょう)」とも呼ばれています。
元亀争乱の中で、田中城は織田軍の攻撃を受け、最後に城は明智光秀に与えられました。 城は、i.山腹に広がる東側の郭群と ii.尾根上に伸びる西側の郭群に大別されます。
JR安曇川駅から田中城まで(3.5km)は、長い直線道路を黙々と歩きました。
上寺バス停留所での松下先生による田中城の説明
i. 東側の郭群は、西端に位置する松蓋寺の遺構とされる観音堂を頂点に、斜面が削平されて土塁に囲われた方形の郭が並列しています。寺院の遺構を利用したものと思われます。
ii. 西側の郭群は尾根上に土塁や空堀で囲われた郭が並ぶ城郭の遺構で、i に比べ時代的に新しいと考えられます。
松下先生は i. 東側の郭群は田中氏時代のもので、ii. 西側の郭群は明智光秀によって整備されたと考えておられます。
田中城の縄張り(田中城跡見学ルート図)を下に示します。
ほぼ頂上にある田中城主郭Gから東方に広がる山腹一帯には、地名の由来となった上寺である天台密教の山岳寺院「松蓋寺(しょうがいじ)」の寺坊跡があり、田中城は当初この遺構を利用し築造されたと推定されています。
図はクリックすると拡大します。
入口石碑: ①田中城入口石碑: 田中城跡入口です。イノシシなどの動物による麓の農作物の被害防止のため、城跡はフェンスで囲われており、扉を開けて中に入ります。
この入口の手前のお家に、登山者用の「田中城跡歴史ハイキングMAP」が設置され、自由に持ち帰ることができるようになっています。
ここからまず松蓋寺跡と考えられる麓の東側の郭群 i を見学します。
A郭の見張所跡: 入口より松蓋寺の参道であったと考えられる登城道を上って、見張所跡などのある平坦地(A郭)にまで行きます。
A郭: 少し進んで登城道から見下ろしたA郭です。
B郭: 田中城跡見学ルート図に従い、A郭の後、登城道より平虎口を通ってB郭に入りました。ここで、松下先生の説明を聞きました。
B郭→C郭への平虎口: 2つの郭の間の平虎口を通り、北側のC郭へ入ります。この辺りの虎口は「平虎口」と単純で、より古い時代のものであることを示しています。
C郭: 松下先生はここが明智光秀が入城する前の田中氏時代の主郭と考えておられました。その根拠は、
①大手側は登城道との間にB郭やD郭が緩衝地帯としてあり守られている。
②搦手側は帯郭や土橋・堀切となって厳重に守られている。
③面積が最も広い。
などが挙げられます。
C郭から西側郭外に出てD郭土塁の堀切(南側)を見ました: D郭の次に訪問する観音堂のある郭(D郭上)とD郭の土塁の連結を断ち切るように、堀切が写真のように設けられ、観音堂のある郭に到達するには、急な斜面を這い上がるか、次に上る石段を使用するしかありません。
ここは田中城の紹介でよく撮影されるスポットのひとつです。
D郭: 堀切から下方のD郭を眺めました。
D郭側から堀切を見上げました: 堀切のある北側から南側へと下り、観音堂の一段下のD郭内に入ります。
水の手: D郭南側下方には小川が流れていて、「水の手」という表示が掲げられていました。山城では限られた水源となります。
観音堂への階段: D郭の上にある松蓋寺観音堂には、石造りの阿弥陀如来坐像を横に見ながら石段を上ってゆきます。
石造阿弥陀如来坐像: 風化の具合から、石段を作られた時と同様、新しいものと思われますが、観音堂への登り口横で、観音堂への参拝者を見守っています。
松蓋寺観音堂: 松蓋寺は「高嶋七ヵ寺」の1つで、天平3年(731)に僧良弁が建立しましたが、室町時代頃には衰退し廃寺と化して、現在はこの観音堂一宇が残されているだけです。
このあと、観音堂の南側(写真左側)上段の寺の塔が立っていたと思われる基壇状遺構を通過して、高島方面が見える見張所のあるE郭まで行き、主郭Gを目指しました。
ここまでは、観音堂の下方に広がる寺坊の遺構に土塁や堀を付け足して城に再利用した古い郭(i)を見学してきました。
この後訪問するのは、時代的には、より新しい時期に城として整備された遺構(ii)となります。
E郭: 観音堂より上方のE郭からは、明智光秀により造られたと考えられる西側の郭群となります。観音堂からさらに一段上がった尾根上には4つの郭が連続して築かれており、さらに上方には、土塁で囲まれた虎口状の施設を挟んで、地図上で「G郭」と表示されている主郭Gがあります。
F郭: 「田中城跡見学ルート図」で見ると新しい時代の郭のうち、E郭から数えると3つ目の郭です。この後、急坂になった尾根をロープを頼って主郭G虎口まで登ります。
主郭G虎口: 写真に見える登城道らしき道をまっすぐには進まず、現在は標識がありますので、それに従い、右に90°曲がって主郭Gに入って行きます。
主郭G: 主郭Gの標高は220m、平地の標高が160mで、両者の比高差はわずか60mです。見晴らしの良い主郭Gでは、写真のとおり、琵琶湖を含めて、安曇川の町が見渡せました。遠くにはこの時期雪で白くなった伊吹山も見えます。
のろし台、つぶて石: 主郭G上方のこののろし台は戦国時代にはなかったものと思われますが、ここに据えられているのろし台は、勤労感謝の日に琵琶湖周辺の山城が連携して実施する「琵琶湖一周のろし駅伝」用のものです。
地点G-Hの間の切岸: 主郭Gの訪問後、さらに西方に進みます。主郭Gの背後は馬の背状の通路になっています。通路の先端には尾根を切断した堀切Hがあり、土橋Hも架けられ主郭G背後の防備を固めています。
堀切H: この馬の背状の通路に通じる泰山寺野台地へ警戒として切られたものと考えられます。
堀切Hに架かる土橋で、参加者が土橋の上に立っています。この周辺に落ちている石や土から露出している石は、不思議なことに山から取れる石ではなく、安曇川から運ばれたような角の取れた川原石でした。土橋を作るのに運び込まれたのでしょうか?また、上記のろし台にあったつぶて石もかなりの割合が川原石でした。
ここが田中城の最西端となります。ここからは田中城跡入口まで戻り、そこから田中下ノ城に向かいました。
田中下ノ城: 先に訪問した田中城の「上の城」に対するもので、大字田中のほぼ中央にある「下ノ城」という集落に向かいました。
田中下ノ城は、田中城の山麓から2.3km北東に進んだ平地に位置します。写真は下地図の①地点で東向きに歩行中の参加者を撮影したものです。写真の道路左の畑は「字戌亥堂」で、道路右の畑は「字堀の内」に当たります。電柱左側に見える民家は下ノ城集落の「字下ノ城」に位置しています。
この「下ノ城」の字名から、写真の民家の辺りに城(又は居館)があったと推定されます。周囲に残る水路は堀の痕跡とも考えられますが、現在は明瞭な城郭遺構は残っていません。
当時の城の構成に倣うと、田中城が合戦時に籠る山城であるのに対し、こちらは平時に暮らす居館とも考えられますが、両社の距離があまりに離れていることから、もとは平地に暮らしていたものが、戦国時代末期に山城に居住場所を移したものではないかと松下先生は考えておられます。
現在の下ノ城周辺地図: 上記写真は地図の①の地点付近を歩く参加者を撮影したものです。
織田信長が登場するまでは、城は、山城と平地や麓にある館がセットで築かれ、この「下ノ城」が平地の館に当たります。しかし、松下先生は上述のように2つの城の間の距離から、平地に暮らしていたものが、戦国時代末期に山城の居住場所を移したと考えておられます。
『近江輿地志略』に「南市村城を下の城と称す」と記述されていますが、この後に通過する「南市」には城郭が築かれた形跡がないことから、下ノ城集落に位置する田中氏館が『近江輿地志略』のいう「下の城」であると考えられています。田中氏館が存在した痕跡は、地表には見受けられませんが、その付近には下地図にあるように「北堀」「東堀」「南堀」「堀之内」という堀の存在を示す小字名が残されており、この範囲に田中氏の居館が存在していたと考えられています。また、 「堀」という地名がそれぞれ付くことから、周囲に堀を巡らす居館であったことが伺えます。西堀という字名はありませんが、江戸後期の田中村絵図には「西ノ口」という地名が残されており、その地域の中に田中氏の居館の正面入り口が存在したことも伺えます。
写真は地図の②の地点で西向きに風景を撮影。道路左の畑は「字南堀」で、道路右や写真に写る建物は「字下ノ城」に当たる地に建てられています。現状では、「字下ノ城」には住宅があるだけで、土塁など遺構が残っている様子はありませんが、平成17年の発掘調査で住宅周辺で堀跡の一部が見つかっています。
また、この地区の古老のお話では、北堀の水田では耕作中大きく沈む場所があり、農耕しづらく、この付近の地中から石仏が多く見つかるのだそうです。
②の地点で、南向きに撮影。左の畑は「字東堀」で、人のいる右道路のさらに右向こうは字南堀」に当たります。
高島南市と近江の中世商業
近江は東西日本のほぼ中央に位置し、東西を結ぶ多くの街道が通ります。また琵琶湖水運を通じて日本海と伊勢湾を結ぶ、南北の流通の要衝でもありました。
東西南北の物流の要である近江には、古くから各所を拠点とする商人が活動していました。中でも五箇商人[八坂・薩摩(彦根市)、田中江(近江八幡市)、小幡(東近江市)、高島南市(高島市)]と四本商人[沓掛(愛荘町)、小幡・保内・石塔(東近江市)]は流通路の独占をめぐって激しく争いを繰り広げていました。
『近江輿地志略』では「南市村城」という名前が出ていますが、写真の南市は北国海道沿いで市場が開かれていた場所です。広い道幅は現代になって整備されたものではなく、遠い昔から変化しておりません。昔の常識からすると非常に広い道で、その両側で、南市商人や地元生産者により産物や商品を売買する市が立てられていました。このように、領主の田中氏は地域の生産基盤の掌握だけでなく、交通路支配も大きな収入源としていました。
ここで、訪問予定はすべて終了で、講座参加者は解散となり、このあと、出発地点のJR安曇川駅に向かいました。
次回は、長浜市横山城跡が計画されています。
文責 岡島 敏広
参考: 以下、参考として田中城に関係する史料の内容を示します。
田中城は『信長公記』に3度登場しています。
1回目は 元亀元年 「四月廿日、信長公京都より直に越前御進発。坂本を打越し、其日和邇に御陣取。廿一日高嶋の内田中が城に御泊り。廿二日若州熊河松宮玄蕃所御陣宿。廿三日佐柿粟屋越中所に至つて御着陣。翌日御逗留。」
元亀元年(1570)4月21日、信長が京都から越前へ向かった際に高島の「田中の城」に逗留したという記録です。このとき信長は朝倉義景を討つため越前を目指しており、途中の高島を通過し、浅井長政の勢力下にあった田中城に宿泊したと考えられます。この軍勢には後の豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康も参加していました。逗留の8日後に浅井氏が離反を起こし、田中城は信長の敵方の城となりました。この事件は「金ヶ崎の退き口」の名称で有名で、秀吉や光秀らは殿(しんがり)として残り、信長は田中氏の親戚の朽木氏(いずれも佐々木源氏)に助けられて、朽木経由で京都まで逃げ帰ります。
2回目は元亀三年 「三月十一日、志賀郡へ御出陣。和邇に御陣を移させられ、木戸・田中推詰め、御取仰付けられ、明智十兵衛・中川八郎右衛門・丹羽五郎左衛門、両三人取出にをかせられ、」
元亀3年(1572)3月11日で、信長が高島の地で浅井・朝倉軍を攻撃した際の記録です。このとき、信長方の明智光秀や丹羽長秀らが木戸(清水山)・田中両城を監視しています。
3回目は元亀四年 「七月廿六日、信長公御下り、直に江州高嶋表彼大船を以て御参陣。陸は御敵城木戸・田中両城へ取懸け攻められ、海手は大船を推付け、信長公御馬廻を以てせめさせらるべき処、降参申し罷退く。則、木戸・田中両城明智十兵衛に下さる。」
翌年の元亀4年(1573)7月26日、信長は長さ三十間、すなわち55mの大船で浅井長政の勢力下に置かれていた高島を湖上から攻撃し、陸からも木戸(清水山)・田中両城を攻撃したとの記録です。攻撃の結果、落城した木戸(清水山)・田中両城は明智光秀に与えられました。
さらに、『信長公記』の記述以前のことで、近年発見された熊本藩(細川家)の家老米田家に伝わる医学書『針薬方』(永禄9年)の奥書に、「明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」とあります。田中城と光秀に関するもので、文献上に光秀が登場する最古級の発見で注目されました。奥書には、沼田勘解由左衛門が田中城で光秀の口伝を記し、永禄9(1566)年10月に米田貞能が江州坂本で写したものと記されています。このことから、少なくとも1566年以前の田中城に光秀が近江国と関係をもちながら、籠城していた可能性が指摘されています。光秀がどのような立場で田中城に籠城していたかは定かではありませんが、この頃にはひとかどの武将として活躍していたようです。 以上
田中城は歴史上史料に4度登場し、明智光秀に係わりの深い城です。
なお、その史料の内容は本文の最後にまとめて示しました。

本日巡るコースは以下の通り、高島市安曇川町の田中城を訪問し、その後、下ノ城集落、南市を訪れます。本日の総歩行歩数は15,000歩でした。
JR安曇川駅→田中城→下ノ城集落→南市→JR安曇川駅(地図はクリックにより拡大します)

最初、JR安曇川駅西口に集合し、松下浩先生による田中城の簡単な説明の後、実地に訪問しながら、その各地点においても解説をお聞きします。
今回は60名が参加しました。
なお、筆者は田中城には以前に2度訪問しております。その時の模様もまとめておりますので、興味のある方はこちら(下見、例会本番)をご覧ください。

田中城は、近江源氏佐々木氏の一族で高島七頭(高島氏を中心として、平井(能登氏)、朽木、永田、横山、田中、山崎氏)のうちの田中郷の領主・田中氏の居城で、湖西平野の西に位置する泰山寺野台地から舌状にのびる標高約240m の支丘の先端部に築かれた中世末期の山城です。現在も上寺(うえでら)集落西側の山間部に、その遺構を残しています。城は鎌倉時代後期、田中播磨守実氏(さねうじ)により築城されました。
『近江輿地志略』には、「この城 上の城と号し、南市村城を下の城と称す」と記されることから、地元の伝承として古くから「上の城」や、地名から「上寺城(うえでらじょう)」とも呼ばれています。
元亀争乱の中で、田中城は織田軍の攻撃を受け、最後に城は明智光秀に与えられました。 城は、i.山腹に広がる東側の郭群と ii.尾根上に伸びる西側の郭群に大別されます。
JR安曇川駅から田中城まで(3.5km)は、長い直線道路を黙々と歩きました。

上寺バス停留所での松下先生による田中城の説明
i. 東側の郭群は、西端に位置する松蓋寺の遺構とされる観音堂を頂点に、斜面が削平されて土塁に囲われた方形の郭が並列しています。寺院の遺構を利用したものと思われます。
ii. 西側の郭群は尾根上に土塁や空堀で囲われた郭が並ぶ城郭の遺構で、i に比べ時代的に新しいと考えられます。
松下先生は i. 東側の郭群は田中氏時代のもので、ii. 西側の郭群は明智光秀によって整備されたと考えておられます。

田中城の縄張り(田中城跡見学ルート図)を下に示します。
ほぼ頂上にある田中城主郭Gから東方に広がる山腹一帯には、地名の由来となった上寺である天台密教の山岳寺院「松蓋寺(しょうがいじ)」の寺坊跡があり、田中城は当初この遺構を利用し築造されたと推定されています。
図はクリックすると拡大します。

入口石碑: ①田中城入口石碑: 田中城跡入口です。イノシシなどの動物による麓の農作物の被害防止のため、城跡はフェンスで囲われており、扉を開けて中に入ります。
この入口の手前のお家に、登山者用の「田中城跡歴史ハイキングMAP」が設置され、自由に持ち帰ることができるようになっています。
ここからまず松蓋寺跡と考えられる麓の東側の郭群 i を見学します。

A郭の見張所跡: 入口より松蓋寺の参道であったと考えられる登城道を上って、見張所跡などのある平坦地(A郭)にまで行きます。

A郭: 少し進んで登城道から見下ろしたA郭です。

B郭: 田中城跡見学ルート図に従い、A郭の後、登城道より平虎口を通ってB郭に入りました。ここで、松下先生の説明を聞きました。

B郭→C郭への平虎口: 2つの郭の間の平虎口を通り、北側のC郭へ入ります。この辺りの虎口は「平虎口」と単純で、より古い時代のものであることを示しています。

C郭: 松下先生はここが明智光秀が入城する前の田中氏時代の主郭と考えておられました。その根拠は、
①大手側は登城道との間にB郭やD郭が緩衝地帯としてあり守られている。
②搦手側は帯郭や土橋・堀切となって厳重に守られている。
③面積が最も広い。
などが挙げられます。

C郭から西側郭外に出てD郭土塁の堀切(南側)を見ました: D郭の次に訪問する観音堂のある郭(D郭上)とD郭の土塁の連結を断ち切るように、堀切が写真のように設けられ、観音堂のある郭に到達するには、急な斜面を這い上がるか、次に上る石段を使用するしかありません。
ここは田中城の紹介でよく撮影されるスポットのひとつです。

D郭: 堀切から下方のD郭を眺めました。

D郭側から堀切を見上げました: 堀切のある北側から南側へと下り、観音堂の一段下のD郭内に入ります。

水の手: D郭南側下方には小川が流れていて、「水の手」という表示が掲げられていました。山城では限られた水源となります。

観音堂への階段: D郭の上にある松蓋寺観音堂には、石造りの阿弥陀如来坐像を横に見ながら石段を上ってゆきます。

石造阿弥陀如来坐像: 風化の具合から、石段を作られた時と同様、新しいものと思われますが、観音堂への登り口横で、観音堂への参拝者を見守っています。

松蓋寺観音堂: 松蓋寺は「高嶋七ヵ寺」の1つで、天平3年(731)に僧良弁が建立しましたが、室町時代頃には衰退し廃寺と化して、現在はこの観音堂一宇が残されているだけです。
このあと、観音堂の南側(写真左側)上段の寺の塔が立っていたと思われる基壇状遺構を通過して、高島方面が見える見張所のあるE郭まで行き、主郭Gを目指しました。

ここまでは、観音堂の下方に広がる寺坊の遺構に土塁や堀を付け足して城に再利用した古い郭(i)を見学してきました。
この後訪問するのは、時代的には、より新しい時期に城として整備された遺構(ii)となります。
E郭: 観音堂より上方のE郭からは、明智光秀により造られたと考えられる西側の郭群となります。観音堂からさらに一段上がった尾根上には4つの郭が連続して築かれており、さらに上方には、土塁で囲まれた虎口状の施設を挟んで、地図上で「G郭」と表示されている主郭Gがあります。

F郭: 「田中城跡見学ルート図」で見ると新しい時代の郭のうち、E郭から数えると3つ目の郭です。この後、急坂になった尾根をロープを頼って主郭G虎口まで登ります。

主郭G虎口: 写真に見える登城道らしき道をまっすぐには進まず、現在は標識がありますので、それに従い、右に90°曲がって主郭Gに入って行きます。

主郭G: 主郭Gの標高は220m、平地の標高が160mで、両者の比高差はわずか60mです。見晴らしの良い主郭Gでは、写真のとおり、琵琶湖を含めて、安曇川の町が見渡せました。遠くにはこの時期雪で白くなった伊吹山も見えます。

のろし台、つぶて石: 主郭G上方のこののろし台は戦国時代にはなかったものと思われますが、ここに据えられているのろし台は、勤労感謝の日に琵琶湖周辺の山城が連携して実施する「琵琶湖一周のろし駅伝」用のものです。

地点G-Hの間の切岸: 主郭Gの訪問後、さらに西方に進みます。主郭Gの背後は馬の背状の通路になっています。通路の先端には尾根を切断した堀切Hがあり、土橋Hも架けられ主郭G背後の防備を固めています。

堀切H: この馬の背状の通路に通じる泰山寺野台地へ警戒として切られたものと考えられます。

堀切Hに架かる土橋で、参加者が土橋の上に立っています。この周辺に落ちている石や土から露出している石は、不思議なことに山から取れる石ではなく、安曇川から運ばれたような角の取れた川原石でした。土橋を作るのに運び込まれたのでしょうか?また、上記のろし台にあったつぶて石もかなりの割合が川原石でした。
ここが田中城の最西端となります。ここからは田中城跡入口まで戻り、そこから田中下ノ城に向かいました。

田中下ノ城: 先に訪問した田中城の「上の城」に対するもので、大字田中のほぼ中央にある「下ノ城」という集落に向かいました。
田中下ノ城は、田中城の山麓から2.3km北東に進んだ平地に位置します。写真は下地図の①地点で東向きに歩行中の参加者を撮影したものです。写真の道路左の畑は「字戌亥堂」で、道路右の畑は「字堀の内」に当たります。電柱左側に見える民家は下ノ城集落の「字下ノ城」に位置しています。
この「下ノ城」の字名から、写真の民家の辺りに城(又は居館)があったと推定されます。周囲に残る水路は堀の痕跡とも考えられますが、現在は明瞭な城郭遺構は残っていません。
当時の城の構成に倣うと、田中城が合戦時に籠る山城であるのに対し、こちらは平時に暮らす居館とも考えられますが、両社の距離があまりに離れていることから、もとは平地に暮らしていたものが、戦国時代末期に山城に居住場所を移したものではないかと松下先生は考えておられます。

現在の下ノ城周辺地図: 上記写真は地図の①の地点付近を歩く参加者を撮影したものです。

織田信長が登場するまでは、城は、山城と平地や麓にある館がセットで築かれ、この「下ノ城」が平地の館に当たります。しかし、松下先生は上述のように2つの城の間の距離から、平地に暮らしていたものが、戦国時代末期に山城の居住場所を移したと考えておられます。
『近江輿地志略』に「南市村城を下の城と称す」と記述されていますが、この後に通過する「南市」には城郭が築かれた形跡がないことから、下ノ城集落に位置する田中氏館が『近江輿地志略』のいう「下の城」であると考えられています。田中氏館が存在した痕跡は、地表には見受けられませんが、その付近には下地図にあるように「北堀」「東堀」「南堀」「堀之内」という堀の存在を示す小字名が残されており、この範囲に田中氏の居館が存在していたと考えられています。また、 「堀」という地名がそれぞれ付くことから、周囲に堀を巡らす居館であったことが伺えます。西堀という字名はありませんが、江戸後期の田中村絵図には「西ノ口」という地名が残されており、その地域の中に田中氏の居館の正面入り口が存在したことも伺えます。

写真は地図の②の地点で西向きに風景を撮影。道路左の畑は「字南堀」で、道路右や写真に写る建物は「字下ノ城」に当たる地に建てられています。現状では、「字下ノ城」には住宅があるだけで、土塁など遺構が残っている様子はありませんが、平成17年の発掘調査で住宅周辺で堀跡の一部が見つかっています。
また、この地区の古老のお話では、北堀の水田では耕作中大きく沈む場所があり、農耕しづらく、この付近の地中から石仏が多く見つかるのだそうです。

②の地点で、南向きに撮影。左の畑は「字東堀」で、人のいる右道路のさらに右向こうは字南堀」に当たります。

高島南市と近江の中世商業
近江は東西日本のほぼ中央に位置し、東西を結ぶ多くの街道が通ります。また琵琶湖水運を通じて日本海と伊勢湾を結ぶ、南北の流通の要衝でもありました。
東西南北の物流の要である近江には、古くから各所を拠点とする商人が活動していました。中でも五箇商人[八坂・薩摩(彦根市)、田中江(近江八幡市)、小幡(東近江市)、高島南市(高島市)]と四本商人[沓掛(愛荘町)、小幡・保内・石塔(東近江市)]は流通路の独占をめぐって激しく争いを繰り広げていました。
『近江輿地志略』では「南市村城」という名前が出ていますが、写真の南市は北国海道沿いで市場が開かれていた場所です。広い道幅は現代になって整備されたものではなく、遠い昔から変化しておりません。昔の常識からすると非常に広い道で、その両側で、南市商人や地元生産者により産物や商品を売買する市が立てられていました。このように、領主の田中氏は地域の生産基盤の掌握だけでなく、交通路支配も大きな収入源としていました。

ここで、訪問予定はすべて終了で、講座参加者は解散となり、このあと、出発地点のJR安曇川駅に向かいました。
次回は、長浜市横山城跡が計画されています。
文責 岡島 敏広
参考: 以下、参考として田中城に関係する史料の内容を示します。
田中城は『信長公記』に3度登場しています。
1回目は 元亀元年 「四月廿日、信長公京都より直に越前御進発。坂本を打越し、其日和邇に御陣取。廿一日高嶋の内田中が城に御泊り。廿二日若州熊河松宮玄蕃所御陣宿。廿三日佐柿粟屋越中所に至つて御着陣。翌日御逗留。」
元亀元年(1570)4月21日、信長が京都から越前へ向かった際に高島の「田中の城」に逗留したという記録です。このとき信長は朝倉義景を討つため越前を目指しており、途中の高島を通過し、浅井長政の勢力下にあった田中城に宿泊したと考えられます。この軍勢には後の豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康も参加していました。逗留の8日後に浅井氏が離反を起こし、田中城は信長の敵方の城となりました。この事件は「金ヶ崎の退き口」の名称で有名で、秀吉や光秀らは殿(しんがり)として残り、信長は田中氏の親戚の朽木氏(いずれも佐々木源氏)に助けられて、朽木経由で京都まで逃げ帰ります。
2回目は元亀三年 「三月十一日、志賀郡へ御出陣。和邇に御陣を移させられ、木戸・田中推詰め、御取仰付けられ、明智十兵衛・中川八郎右衛門・丹羽五郎左衛門、両三人取出にをかせられ、」
元亀3年(1572)3月11日で、信長が高島の地で浅井・朝倉軍を攻撃した際の記録です。このとき、信長方の明智光秀や丹羽長秀らが木戸(清水山)・田中両城を監視しています。
3回目は元亀四年 「七月廿六日、信長公御下り、直に江州高嶋表彼大船を以て御参陣。陸は御敵城木戸・田中両城へ取懸け攻められ、海手は大船を推付け、信長公御馬廻を以てせめさせらるべき処、降参申し罷退く。則、木戸・田中両城明智十兵衛に下さる。」
翌年の元亀4年(1573)7月26日、信長は長さ三十間、すなわち55mの大船で浅井長政の勢力下に置かれていた高島を湖上から攻撃し、陸からも木戸(清水山)・田中両城を攻撃したとの記録です。攻撃の結果、落城した木戸(清水山)・田中両城は明智光秀に与えられました。
さらに、『信長公記』の記述以前のことで、近年発見された熊本藩(細川家)の家老米田家に伝わる医学書『針薬方』(永禄9年)の奥書に、「明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」とあります。田中城と光秀に関するもので、文献上に光秀が登場する最古級の発見で注目されました。奥書には、沼田勘解由左衛門が田中城で光秀の口伝を記し、永禄9(1566)年10月に米田貞能が江州坂本で写したものと記されています。このことから、少なくとも1566年以前の田中城に光秀が近江国と関係をもちながら、籠城していた可能性が指摘されています。光秀がどのような立場で田中城に籠城していたかは定かではありませんが、この頃にはひとかどの武将として活躍していたようです。 以上
2024年12月18日
2024年12月10日(火)地域文化学科45期生校外学習 近江の江戸期の城「彦根城の見方、調べ方」
本日は滋賀県レイカディア大学中井均先生による地域文化学科45期生の彦根城での校外学習です。筆者はその学習サポーターとして学生に付き添いました。今回の校外学習での総歩行歩数は8,500歩でした。
ちなみに、本年の中井先生の授業では、甲賀の城、小谷城、岐阜城、安土城の4城を訪問した後の最後の訪問地となります。
この彦根城は、筆者も現役時代の中井先生の授業で訪問しており、その時(2022年)の彦根城についての授業内容はこちらで確認していただけます。
さらに、彦根城下町も課題学習(レイカディア大卒業研究)や城郭探訪会でも訪問しており、町については、次の2つ(1、 2)で、ご確認いただけます。
彦根城は、井伊直政の正室の子である井伊直継(のちに、直勝)により築城されました。しかし、築城当時、直継は若年であったことから、井伊直政が関ケ原の傷で亡くなるに当たり、筆頭家老の木俣土佐守守勝〔きまたとさのかみもりかつ〕は後事を託されました。そのときの直政の遺言は佐和山から磯山への城の移築でしたが、木俣守勝はその移築計画を徳川家康にはかり、許可を得て慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2キロメートルのここ彦根山において、築城工事を始めました。
木俣土佐守守勝(関ケ原合戦図の部分)
その後、徳川家康と秀忠は、直政嫡子の直継の柔和な性格を危惧し、母と共に安中(群馬県安中市)に移封して、直政と侍女の子である井伊直孝(下図)に藩主を交代させ2代目としています。この移封時に、井伊家譜代の家臣は直継に付き従って安中に移っています。
彦根藩井伊家はこうして直孝の子孫が継承し明治維新に至ります。
井伊直孝
まず、集合場所である表門橋前二の丸駐車場に集まり、中井先生に挨拶して授業の開始です。
本日は主に彦根城の内堀内を巡り学習します。
今回の学習コース全体を把握するため、パンフレットの彦根城城内図にコースを書き込み示しました。コース図はクリックすると拡大します。
別途、古絵図の城内絵図も拡大して確認していただけます(「御城内御絵図」)。
①表門橋から、モミジの左に表御殿の屋根が見えます。彦根藩の政庁であるとともに藩主の居館(きょかん)でもあった建物で、昭和62年(1987)2月に復元され、現在は彦根城博物館になっています。その中で唯一、能舞台だけは江戸時代のオリジナルの建物で、明治以降、博物館ができる前は井伊神社に移され、彦根市内の神社を転々としますが、博物館建設を機に本来の場所に移築復元されました。
明治9年の彦根城解体前のオリジナルの表御殿です。
これから、彦根城へ登城ですが、表門の内側の枡形に入りました。ここは表門橋を渡ってすぐの冠木門と二階表門櫓の櫓門の2つの門に挟まれた枡形空間で、ここから下写真のように②登り石垣を見ることができます。
登り石垣: 彦根城には全国的にも珍しい登り石垣が、5箇所に築かれています。登り石垣は、豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮侵略の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城(わじょう)」において顕著に見られるもので、高さ1~2メートルの石垣が山の斜面を登るように築かれています。斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれました。
国内では彦根城の他には、朝鮮に渡った経験のある大名が築城した洲本城(兵庫県)、伊予松山城(愛媛県)、竹田城や米子城(鳥取県)にしか見ることができません。井伊氏は朝鮮に渡っていませんが、彦根城築城を主導した公儀奉行が朝鮮に渡っており、採用しています。この登り石垣の上には、さらに瓦塀が築かれていたようです。
下写真は②表門付近で、二階表門櫓跡横の登り石垣です。城の南側からの侵入・斜面の横移動を防ぐためのもので、左(南)側に竪堀も掘られています。
本日4箇所の登り石垣を確認しましたので、それらを学習コースとは別に、続けてお示しします。
③2つ目の鐘の丸西(二階大手門櫓跡横)の登り石垣を上方から見ています。
③【写真左】これも2つ目の鐘の丸西(二階大手門櫓跡横)の登り石垣を、今度は大手門(下側)から見ています。
なお、この写真上方の鐘の丸西面の石垣には、佐和山城を崩して持ち込まれた移築石垣が混ざっていることが確認されています。
④【写真右】3つ目の出曲輪東側(黒門付近)の登り石垣です。石垣の右(琵琶湖)側に竪堀が掘られ、琵琶湖側から来る敵を封鎖しています。

⑤4つ目の出曲輪西側、西の丸三重櫓下の登り石垣です。石垣の左(琵琶湖)側に竪堀も掘られ、琵琶湖側から来る敵を封鎖しています。登り石垣の先には西の丸三重櫓があります。
これで彦根城5箇所の登り石垣のうち、4箇所を見学しました。
残りの1つは表御殿裏にあります。
⑥入場券提示後、表門からの登城道を山切岸を左に見ながら坂を上ります。山切岸は彦根城の特徴です。4-9間(8-17m)の高さで山全体に切岸が施されていることから、山の斜面を登るのは不可能で、彦根城には限られた経路からしか登ることができません。
⑦「鐘の丸」と「太鼓丸」の間の大堀切にたどり着きました。
大堀切: 彦根城を縄張り、つまり城本来の軍事的な防衛施設として見ると、その発達した様子がわかります。南北に長い尾根を整地して、曲輪を連ねた連郭式〔れんかくしき〕の平山城で、南から「鐘の丸」「太鼓丸」「本丸」そして「西の丸」が直線的に連なり、「本丸」の前後で地続きとならないよう、彦根山の尾根を断ち切る大堀切が切られています。
現在、「鐘の丸」と「太鼓丸」の間の大堀切におり、大堀切に架かる橋(昭和40 年(1965)建設)と天秤櫓を見上げていますが、「御城内御絵図」を拡大して見ると、この架け橋は往時は両側に壁があり屋根の付いた「廊下橋」で、中の人の動きが外からは見えないようにしてありました。
この橋の辺りを境にして、「太鼓丸」の左右で石垣の積み方が変わっています。写真向こう(表門)側は井伊直継により築城された当時の古いもの(野面積み)、手前(大手門)側は幕末の積み直しによるもの(落とし積み)です。石垣はこれまで16回崩れて積み直されています。
⑦現在の橋脚はコンクリート台に載せていますが、オリジナルの廊下橋は石垣の写真に白矢印で示すように、石垣の窪みに橋脚を載せていました。
③の鐘の丸西の登り石垣を上方から見るために、大手口に続く登城道を少し下り、天秤櫓を見上げたところです。
天秤櫓の二重櫓の窓が真正面に位置し、この登城道は二重櫓から真っすぐ鉄砲で侵入者を狙えるよう設計されていることがわかります。
本丸に向かうには大堀切から一旦「鐘の丸」に登り、180°ターンして(させられて)、再度、先ほどの大堀切の方向に向かい、廊下橋を渡って天秤櫓(てんびんやぐら)に入ります。
⑧鐘の丸井戸: 築城工事が開始された年の慶長9年(1604)末には、早くも鐘の丸の御広間(7間半×11間)が完成し、井伊直継は、さっそく佐和山城から鐘の丸に移っています。そして2年後の慶長11年(1606)頃、本丸に天守が完成すると、天守前に新たに御広間(6間×15間)が建立され、直継は再び移ってそれを御殿としています。当初から本丸に御殿を建立するという計画があって、鐘の丸の御広間はあくまで仮の御殿であったのだと考えられます。
しかし、ここ鐘の丸には「大広間」や「御守殿」などの建物も、徳川秀忠の娘和子(まさこ)の皇室への入内に当たって、京への途上の宿泊施設として造営されました。ところが、京へは東海道を使用したことから彦根城に立ち寄ることはなく、その建物は一度も使用されることなく大広間は享保17年(1732)に解体され、江戸に運ばれて彦根藩江戸屋敷の広間に転用されました。写真は鐘の丸に建物が建てられたことから掘られた井戸です。
「鐘の丸」とは鐘楼が存在したことから名づけられていますが、この場所からでは鐘の音が城下(特に北側)にいきわたらなかったため、より高所の太鼓丸の現在の位置に移設されています。
また、鐘の丸は大坂城真田丸などでも有名な武田氏の城の作り方(早川幸豊による甲州流)の「丸馬出」を、彦根城での曲輪として実現したものです。
⑨天秤櫓: 廊下橋に接続する櫓門部分を中央に、大手門・表門からの両坂道に面している多聞櫓の角を二重櫓とすることで左右対称となっており、それが天秤櫓の名の由来となっています。天秤櫓が築かれるのは、築城の開始から数年後と考えられています。彦根藩主井伊家の家譜である『井伊年譜』には、この櫓が長浜城の大手門を移築したものであると記され、また、棟瓦の鬼板に長浜城主内藤信正の藤の丸(内藤藤)の家紋の入った紋瓦が遺されており、元和元年(1615)長浜城廃城に伴い移築されたものと考えられます。しかし、昭和30年代の解体修理では、移築された建物であることは確認されましたが、天秤櫓の前身が『井伊年譜』の記載どおり長浜城大手門と断定するには至っていません。
彦根城の正面である大手門と表門からの敵に対しては、両者が合流する天秤櫓の外側に先ほど通過した大堀切で切られています。現在は橋が架かっていますが、この橋を落とせば天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸方面へ侵入できません。
同様に、搦め手(からめて:裏手)からの敵に対しては、西の丸の三重櫓の外に大堀切があり、本丸方面への侵入を阻んでいます。
⑨天秤櫓内に入りました。中井先生の前の四角い穴は天秤櫓内の隠狭間です。隠狭間はここと天守内に設けられていますが、特に天守では外観の美しさが大切であることから、天守近くの天秤櫓も含め隠狭間とされています。
また、人の高さ(頭近く)の横木までは土壁が分厚く塗られており、それより上の壁は薄くなっています。そのようにしているのは、鉄砲玉の貫通の防御を考慮してのものです。天秤櫓内は純粋に軍事施設であることから、簡素で天井は張られていません。
⑩次に訪れる太鼓門は、天守がある本丸表口をかためる櫓門で「本丸」への最終の門です。城内合図用の太鼓を置いたところから名付けられたと言われています。
写真は「本丸」の外側から撮影していますが、外枡形となっており、場所によっては石垣を積むだけでなく、天然の岩を削って枡形を作り、また、排水も岩を削って溝を作っています。
なお、彦根城の石垣には彦根藩の石切り場のあった荒神山より切り出された湖東流紋岩が用いられています。風化した表面は白っぽくなっていますが、石を割ると内部はネズミ色をしています。櫓など建物の軒下の石垣では風雨による風化が遅れることから、同じ石でも風化の進んだ白色や進んでいないネズミ色の石の混じった石が見られます。
⑩太鼓門内側及び続櫓: 櫓門の背面は解放され、高欄付きの廊下となっており、櫓では大変稀な構造となっています。通常の櫓門は石垣の上に櫓が載っているだけで、縁のある例は他にありません。
なお、解体修理に伴う部材調査により、どこかの城門を移築したものであることが判明しています。
⑪本丸に入りましたが、多数の学生の足元に見える石は本丸御殿跡の礎石で、ここに一部二階の本丸御殿が建てられ、彦根城築城当初、井伊直継をはじめ藩主はここに住んでいました。台所や長局も付設されており、主だった家臣や侍女たちもここに詰めたと考えられます。
天守はこの位置からは御殿の屋根越しでしか見えませんでした。この御殿は幕末まで存在していましたが、大坂夏の陣が終わり大坂との緊張が無くなって後、参勤交代などで大坂よりも江戸を重視するようになると、江戸側の麓の表門の方に表御殿が建てられ、移っています。
⑫いよいよ天守ですが、通常表門から入り天守をめざすと、下写真の天守左側面(南面)を見ます。しかし、そちら側は正面ではありません。天守台は尾張衆により積まれたものです。
⑫天守南・東面: 天守には破風がたくさん用いられて、大きく見えるようにしていますし、花頭窓も通常の城では最上階に設けられますが、最上階の三階に加えて二階にも用いられています。また、三階には外には出ることが出来ませんが、飾りとして高欄付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置いたつくりになっています。
彦根城天守は戦いで落ちない目出度い天守であるとして大津城天守を、徳川家康が井伊家に与え、移築したものですが、大津城は四重五階であったものを、彦根城では材木だけを用いて三重三階に作り変えています。
⑫天守西面: 下は天守の西面です。彦根城は関ケ原合戦後、大阪の豊臣秀頼を仮想敵と想定して建てられた城であることから、西側が大手側(正面)であり、さらに、長方形の天守であることから、南・北面よりも大きく、かつ豪華に見えます。
⑫天守北面: 西の丸や琵琶湖から見える姿になります。
⑫天守内に入りましたが、⑨の天秤櫓と同じで、狭間を隠狭間にしています。彦根城天守内部には何もありませんでしたが、天守には物置のように歴代の城主の甲冑が納められていたと古文書に記録されているそうです。
⑬西の丸三重櫓外観: 西の丸の北西に建つ櫓で、さらに西に張り出した出曲輪との間に深い大堀切が設けられています。西方の搦め手(裏手)からの敵に備えた守りの要でした。三重櫓は、この搦め手を見下ろす位置に設けられ、平時には琵琶湖を監視する役目もありました。
⑬西の丸三重櫓三階内部
⑭現在、西の丸と出曲輪との間に架かる木造橋が傷んでおり修復工事中のため、西の丸を天守まで戻り、「井戸曲輪」から黒門を目指して北側に下りました。写真は「井戸曲輪」の内側よりその門と西の丸東面石垣を見たものです。
⑭敵が井戸曲輪にまで登ってくる坂道は、写真のように「くの字状」に曲げられて、ようやく上写真の井戸曲輪の門に辿り着くと通路が細く、門を通れるのはたった1人、門を通り抜けても正面にある天守続櫓や多聞櫓の狭間が真正面です。鉄砲での狙い撃ちを受け命はありません。
⑭「井戸曲輪」の外からの東側石垣の眺望で、「井戸曲輪」と「本丸着見櫓台」の石垣が見えています。江戸時代にはこちら側は琵琶湖に面したことから周辺の切岸は総石垣で組まれました。
中井先生のお話では、以前ここには樹木が生えており、折角の壮大な石垣が見えなかったことから、彦根市から現在のように眺望の良い景観とするため、樹木伐採の相談を受けたそうです。しかし、先生ご自身は樹木には明るくなく、貴重な樹木は伐採してはいけないと、その筋の専門家にも議論に入ってもらったそうです。すると、今度は樹木によっては猛禽類が営巣する木にしていることもあるからということで、鳥類の専門家にも参加してもらった上で、1年間巣作りの様子を観察して、ようやく樹木伐採に至ったそうです。
彦根城北側の干拓前の松原内湖で、手前には楽々園が見えます。
⑮私たちは、そのまま「くの字状」の坂道を下まで下りて黒門にまで行きます。
12月ですが、本年は暖冬のため、たくさんの紅葉が見られましたし、写真のように赤いモミジの絨毯が土手に美しく敷き詰められていました。
黒門の古写真を示しました。今は城内に桜が植えられたり、広葉樹が生えていますが、当時は、松を植えるのが奨励されていました。松は縁起が良いこともありますが、よく燃えて薪にできます。古写真にはたくさんの松が生えているのが見えます。
現在は黒門には櫓門などの建物はなく、門の跡があるだけです。
⑯山崎曲輪(山崎郭): 黒門よりさらに北に向かって、山崎曲輪にまで来ました。ここは、佐和口の彦根市開国記念館横にある木俣屋敷が移転前にあった場所です。大坂冬の陣から凱旋した井伊直孝は、当時の藩主直継をはばかり、当時は天守横にあった御殿には入らず、この山崎曲輪にあった木俣家で迎えられ寄宿したといわれています。
木俣屋敷は元和年間(1615~1624)に佐和口門脇の現在地へ移ったと「井伊年譜」等に伝わります。
⑰山崎口冠木門内側: かつて山崎門がありました。内堀を渡って本丸に入る門は大手口、表門口、裏門口、黒門口、山崎口の5箇所に設けられていましたが、その内、山崎口に現存する門です。この冠木門は城下から移設されたと伝わりますが、詳細は明らかでありません。
江戸~明治時代には下の古写真のように内堀に木造橋が架けられていましたが、現在は架橋されておりません。
⑰山崎口冠木門外側
山崎口古写真: 山崎曲輪にあった三重櫓(左)と山崎門と木造橋(右)とが写っています。
⑱写真は水門跡で「御城内御絵図」では「埋御門」があったと描かれています。舟を用いた米の搬出・搬入に使用された門で、米の運搬には経路が長くなることから枡形にはなっていません。現在は門の左右の石垣が残っており、門の内側は梅林になっています。元は幕府からの預かり米5万石を保管するための公儀御用米の米蔵が17棟建てられていました。「御城内御絵図」では、門の外側には船着場としての石段が描かれ、水門からやや離れた所に「御番所」が描かれています。
彦根城築城当初は重臣の鈴木主馬と川手主水の屋敷が在ったところであり、その時には水門が無かったものと考えられます。井伊直継の安中移封に伴い鈴木主馬も従い、その後、彦根藩が幕府からの預かり米5万石を得た時点で当該地に米蔵が築造されました。米蔵水門もこの時点で新設されたものと考えられます。
ちなみに、現在においても米蔵が残されている城は、1つだけで二条城です。
⑲大手口横の二重櫓跡と多聞櫓跡の石垣: 櫓に昇降するため、雁木という階段状の石造物が設けられています。いざという時、多くの兵が一気に櫓内に駆け込み、城を守るという設計になっています。
下大手口古写真の二重櫓・多聞櫓の裏側に当たります。
⑲大手口古写真: 大手門は彦根城の南西に位置し当時は大坂城への抑えから、軍事的に重要な位置を占めました。一の門と二の門からなる枡形門で一の門には付櫓を配し、二の門は櫓門として厳重な押さえとし、大手橋に平行するように二重櫓と多聞櫓を配置することで敵からの進入を阻止するような工夫が見られます。
豊臣家が滅ぶと次第に大手口の重要性が失われましたが、正式的な門は大手門とされ、朝鮮使節団の一行の宿営地も大手筋の寺院などを利用しています。
⑲大手門跡: 櫓門であった二の門の跡です。
⑲大手口枡形と大手門橋: 大手門橋の左側に一の門がありました。
大手門橋を渡り出発地点の表門橋に向かっていますが、彦根城で見られるめずらしい石垣の積み方の説明を受けました。
堀の水面に接しているのが「腰巻石垣」、その上の緑の土塁のさらに上にあるのが「鉢巻石垣」で関東に多い様式です。
⑳表門橋を通り過ぎ、最後に馬屋を訪問しました。写真は馬屋の長屋門で表御殿の付属施設としてここに設置され、藩主の馬を飼育した施設です。屋根の葺き替えの痕跡から、元禄13年(1700)頃に建てられたと推定されています。明和4年(1767)に二の丸佐和口多聞櫓が焼失した際、同櫓に隣接した馬屋の部分が焼失し、明和年間(1764~1772)に再建されました。
天守は「現存12天守」と言われ、12残されているのが有名ですが、この写真の馬屋はここ彦根城にしか残されていない唯一のもので、国の重要文化財に指定されています。ちなみに、お城の御殿は4つ残されているのだそうです。
写真は馬屋内部で、21頭収容できました。
この後、再度、朝に集合した二の丸駐車場にまで戻り、学習は終了し解散となりました。
お疲れさまでした。
文責 岡島 敏広
ちなみに、本年の中井先生の授業では、甲賀の城、小谷城、岐阜城、安土城の4城を訪問した後の最後の訪問地となります。
この彦根城は、筆者も現役時代の中井先生の授業で訪問しており、その時(2022年)の彦根城についての授業内容はこちらで確認していただけます。
さらに、彦根城下町も課題学習(レイカディア大卒業研究)や城郭探訪会でも訪問しており、町については、次の2つ(1、 2)で、ご確認いただけます。
彦根城は、井伊直政の正室の子である井伊直継(のちに、直勝)により築城されました。しかし、築城当時、直継は若年であったことから、井伊直政が関ケ原の傷で亡くなるに当たり、筆頭家老の木俣土佐守守勝〔きまたとさのかみもりかつ〕は後事を託されました。そのときの直政の遺言は佐和山から磯山への城の移築でしたが、木俣守勝はその移築計画を徳川家康にはかり、許可を得て慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2キロメートルのここ彦根山において、築城工事を始めました。
木俣土佐守守勝(関ケ原合戦図の部分)

その後、徳川家康と秀忠は、直政嫡子の直継の柔和な性格を危惧し、母と共に安中(群馬県安中市)に移封して、直政と侍女の子である井伊直孝(下図)に藩主を交代させ2代目としています。この移封時に、井伊家譜代の家臣は直継に付き従って安中に移っています。
彦根藩井伊家はこうして直孝の子孫が継承し明治維新に至ります。
井伊直孝

まず、集合場所である表門橋前二の丸駐車場に集まり、中井先生に挨拶して授業の開始です。
本日は主に彦根城の内堀内を巡り学習します。

今回の学習コース全体を把握するため、パンフレットの彦根城城内図にコースを書き込み示しました。コース図はクリックすると拡大します。
別途、古絵図の城内絵図も拡大して確認していただけます(「御城内御絵図」)。

①表門橋から、モミジの左に表御殿の屋根が見えます。彦根藩の政庁であるとともに藩主の居館(きょかん)でもあった建物で、昭和62年(1987)2月に復元され、現在は彦根城博物館になっています。その中で唯一、能舞台だけは江戸時代のオリジナルの建物で、明治以降、博物館ができる前は井伊神社に移され、彦根市内の神社を転々としますが、博物館建設を機に本来の場所に移築復元されました。

明治9年の彦根城解体前のオリジナルの表御殿です。

これから、彦根城へ登城ですが、表門の内側の枡形に入りました。ここは表門橋を渡ってすぐの冠木門と二階表門櫓の櫓門の2つの門に挟まれた枡形空間で、ここから下写真のように②登り石垣を見ることができます。
登り石垣: 彦根城には全国的にも珍しい登り石垣が、5箇所に築かれています。登り石垣は、豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮侵略の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城(わじょう)」において顕著に見られるもので、高さ1~2メートルの石垣が山の斜面を登るように築かれています。斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれました。
国内では彦根城の他には、朝鮮に渡った経験のある大名が築城した洲本城(兵庫県)、伊予松山城(愛媛県)、竹田城や米子城(鳥取県)にしか見ることができません。井伊氏は朝鮮に渡っていませんが、彦根城築城を主導した公儀奉行が朝鮮に渡っており、採用しています。この登り石垣の上には、さらに瓦塀が築かれていたようです。
下写真は②表門付近で、二階表門櫓跡横の登り石垣です。城の南側からの侵入・斜面の横移動を防ぐためのもので、左(南)側に竪堀も掘られています。

本日4箇所の登り石垣を確認しましたので、それらを学習コースとは別に、続けてお示しします。
③2つ目の鐘の丸西(二階大手門櫓跡横)の登り石垣を上方から見ています。

③【写真左】これも2つ目の鐘の丸西(二階大手門櫓跡横)の登り石垣を、今度は大手門(下側)から見ています。
なお、この写真上方の鐘の丸西面の石垣には、佐和山城を崩して持ち込まれた移築石垣が混ざっていることが確認されています。
④【写真右】3つ目の出曲輪東側(黒門付近)の登り石垣です。石垣の右(琵琶湖)側に竪堀が掘られ、琵琶湖側から来る敵を封鎖しています。


⑤4つ目の出曲輪西側、西の丸三重櫓下の登り石垣です。石垣の左(琵琶湖)側に竪堀も掘られ、琵琶湖側から来る敵を封鎖しています。登り石垣の先には西の丸三重櫓があります。
これで彦根城5箇所の登り石垣のうち、4箇所を見学しました。
残りの1つは表御殿裏にあります。

⑥入場券提示後、表門からの登城道を山切岸を左に見ながら坂を上ります。山切岸は彦根城の特徴です。4-9間(8-17m)の高さで山全体に切岸が施されていることから、山の斜面を登るのは不可能で、彦根城には限られた経路からしか登ることができません。

⑦「鐘の丸」と「太鼓丸」の間の大堀切にたどり着きました。
大堀切: 彦根城を縄張り、つまり城本来の軍事的な防衛施設として見ると、その発達した様子がわかります。南北に長い尾根を整地して、曲輪を連ねた連郭式〔れんかくしき〕の平山城で、南から「鐘の丸」「太鼓丸」「本丸」そして「西の丸」が直線的に連なり、「本丸」の前後で地続きとならないよう、彦根山の尾根を断ち切る大堀切が切られています。
現在、「鐘の丸」と「太鼓丸」の間の大堀切におり、大堀切に架かる橋(昭和40 年(1965)建設)と天秤櫓を見上げていますが、「御城内御絵図」を拡大して見ると、この架け橋は往時は両側に壁があり屋根の付いた「廊下橋」で、中の人の動きが外からは見えないようにしてありました。
この橋の辺りを境にして、「太鼓丸」の左右で石垣の積み方が変わっています。写真向こう(表門)側は井伊直継により築城された当時の古いもの(野面積み)、手前(大手門)側は幕末の積み直しによるもの(落とし積み)です。石垣はこれまで16回崩れて積み直されています。

⑦現在の橋脚はコンクリート台に載せていますが、オリジナルの廊下橋は石垣の写真に白矢印で示すように、石垣の窪みに橋脚を載せていました。

③の鐘の丸西の登り石垣を上方から見るために、大手口に続く登城道を少し下り、天秤櫓を見上げたところです。
天秤櫓の二重櫓の窓が真正面に位置し、この登城道は二重櫓から真っすぐ鉄砲で侵入者を狙えるよう設計されていることがわかります。

本丸に向かうには大堀切から一旦「鐘の丸」に登り、180°ターンして(させられて)、再度、先ほどの大堀切の方向に向かい、廊下橋を渡って天秤櫓(てんびんやぐら)に入ります。
⑧鐘の丸井戸: 築城工事が開始された年の慶長9年(1604)末には、早くも鐘の丸の御広間(7間半×11間)が完成し、井伊直継は、さっそく佐和山城から鐘の丸に移っています。そして2年後の慶長11年(1606)頃、本丸に天守が完成すると、天守前に新たに御広間(6間×15間)が建立され、直継は再び移ってそれを御殿としています。当初から本丸に御殿を建立するという計画があって、鐘の丸の御広間はあくまで仮の御殿であったのだと考えられます。
しかし、ここ鐘の丸には「大広間」や「御守殿」などの建物も、徳川秀忠の娘和子(まさこ)の皇室への入内に当たって、京への途上の宿泊施設として造営されました。ところが、京へは東海道を使用したことから彦根城に立ち寄ることはなく、その建物は一度も使用されることなく大広間は享保17年(1732)に解体され、江戸に運ばれて彦根藩江戸屋敷の広間に転用されました。写真は鐘の丸に建物が建てられたことから掘られた井戸です。
「鐘の丸」とは鐘楼が存在したことから名づけられていますが、この場所からでは鐘の音が城下(特に北側)にいきわたらなかったため、より高所の太鼓丸の現在の位置に移設されています。
また、鐘の丸は大坂城真田丸などでも有名な武田氏の城の作り方(早川幸豊による甲州流)の「丸馬出」を、彦根城での曲輪として実現したものです。

⑨天秤櫓: 廊下橋に接続する櫓門部分を中央に、大手門・表門からの両坂道に面している多聞櫓の角を二重櫓とすることで左右対称となっており、それが天秤櫓の名の由来となっています。天秤櫓が築かれるのは、築城の開始から数年後と考えられています。彦根藩主井伊家の家譜である『井伊年譜』には、この櫓が長浜城の大手門を移築したものであると記され、また、棟瓦の鬼板に長浜城主内藤信正の藤の丸(内藤藤)の家紋の入った紋瓦が遺されており、元和元年(1615)長浜城廃城に伴い移築されたものと考えられます。しかし、昭和30年代の解体修理では、移築された建物であることは確認されましたが、天秤櫓の前身が『井伊年譜』の記載どおり長浜城大手門と断定するには至っていません。
彦根城の正面である大手門と表門からの敵に対しては、両者が合流する天秤櫓の外側に先ほど通過した大堀切で切られています。現在は橋が架かっていますが、この橋を落とせば天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸方面へ侵入できません。
同様に、搦め手(からめて:裏手)からの敵に対しては、西の丸の三重櫓の外に大堀切があり、本丸方面への侵入を阻んでいます。

⑨天秤櫓内に入りました。中井先生の前の四角い穴は天秤櫓内の隠狭間です。隠狭間はここと天守内に設けられていますが、特に天守では外観の美しさが大切であることから、天守近くの天秤櫓も含め隠狭間とされています。
また、人の高さ(頭近く)の横木までは土壁が分厚く塗られており、それより上の壁は薄くなっています。そのようにしているのは、鉄砲玉の貫通の防御を考慮してのものです。天秤櫓内は純粋に軍事施設であることから、簡素で天井は張られていません。

⑩次に訪れる太鼓門は、天守がある本丸表口をかためる櫓門で「本丸」への最終の門です。城内合図用の太鼓を置いたところから名付けられたと言われています。
写真は「本丸」の外側から撮影していますが、外枡形となっており、場所によっては石垣を積むだけでなく、天然の岩を削って枡形を作り、また、排水も岩を削って溝を作っています。
なお、彦根城の石垣には彦根藩の石切り場のあった荒神山より切り出された湖東流紋岩が用いられています。風化した表面は白っぽくなっていますが、石を割ると内部はネズミ色をしています。櫓など建物の軒下の石垣では風雨による風化が遅れることから、同じ石でも風化の進んだ白色や進んでいないネズミ色の石の混じった石が見られます。

⑩太鼓門内側及び続櫓: 櫓門の背面は解放され、高欄付きの廊下となっており、櫓では大変稀な構造となっています。通常の櫓門は石垣の上に櫓が載っているだけで、縁のある例は他にありません。
なお、解体修理に伴う部材調査により、どこかの城門を移築したものであることが判明しています。

⑪本丸に入りましたが、多数の学生の足元に見える石は本丸御殿跡の礎石で、ここに一部二階の本丸御殿が建てられ、彦根城築城当初、井伊直継をはじめ藩主はここに住んでいました。台所や長局も付設されており、主だった家臣や侍女たちもここに詰めたと考えられます。
天守はこの位置からは御殿の屋根越しでしか見えませんでした。この御殿は幕末まで存在していましたが、大坂夏の陣が終わり大坂との緊張が無くなって後、参勤交代などで大坂よりも江戸を重視するようになると、江戸側の麓の表門の方に表御殿が建てられ、移っています。

⑫いよいよ天守ですが、通常表門から入り天守をめざすと、下写真の天守左側面(南面)を見ます。しかし、そちら側は正面ではありません。天守台は尾張衆により積まれたものです。
⑫天守南・東面: 天守には破風がたくさん用いられて、大きく見えるようにしていますし、花頭窓も通常の城では最上階に設けられますが、最上階の三階に加えて二階にも用いられています。また、三階には外には出ることが出来ませんが、飾りとして高欄付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置いたつくりになっています。
彦根城天守は戦いで落ちない目出度い天守であるとして大津城天守を、徳川家康が井伊家に与え、移築したものですが、大津城は四重五階であったものを、彦根城では材木だけを用いて三重三階に作り変えています。

⑫天守西面: 下は天守の西面です。彦根城は関ケ原合戦後、大阪の豊臣秀頼を仮想敵と想定して建てられた城であることから、西側が大手側(正面)であり、さらに、長方形の天守であることから、南・北面よりも大きく、かつ豪華に見えます。

⑫天守北面: 西の丸や琵琶湖から見える姿になります。

⑫天守内に入りましたが、⑨の天秤櫓と同じで、狭間を隠狭間にしています。彦根城天守内部には何もありませんでしたが、天守には物置のように歴代の城主の甲冑が納められていたと古文書に記録されているそうです。

⑬西の丸三重櫓外観: 西の丸の北西に建つ櫓で、さらに西に張り出した出曲輪との間に深い大堀切が設けられています。西方の搦め手(裏手)からの敵に備えた守りの要でした。三重櫓は、この搦め手を見下ろす位置に設けられ、平時には琵琶湖を監視する役目もありました。

⑬西の丸三重櫓三階内部

⑭現在、西の丸と出曲輪との間に架かる木造橋が傷んでおり修復工事中のため、西の丸を天守まで戻り、「井戸曲輪」から黒門を目指して北側に下りました。写真は「井戸曲輪」の内側よりその門と西の丸東面石垣を見たものです。

⑭敵が井戸曲輪にまで登ってくる坂道は、写真のように「くの字状」に曲げられて、ようやく上写真の井戸曲輪の門に辿り着くと通路が細く、門を通れるのはたった1人、門を通り抜けても正面にある天守続櫓や多聞櫓の狭間が真正面です。鉄砲での狙い撃ちを受け命はありません。

⑭「井戸曲輪」の外からの東側石垣の眺望で、「井戸曲輪」と「本丸着見櫓台」の石垣が見えています。江戸時代にはこちら側は琵琶湖に面したことから周辺の切岸は総石垣で組まれました。
中井先生のお話では、以前ここには樹木が生えており、折角の壮大な石垣が見えなかったことから、彦根市から現在のように眺望の良い景観とするため、樹木伐採の相談を受けたそうです。しかし、先生ご自身は樹木には明るくなく、貴重な樹木は伐採してはいけないと、その筋の専門家にも議論に入ってもらったそうです。すると、今度は樹木によっては猛禽類が営巣する木にしていることもあるからということで、鳥類の専門家にも参加してもらった上で、1年間巣作りの様子を観察して、ようやく樹木伐採に至ったそうです。

彦根城北側の干拓前の松原内湖で、手前には楽々園が見えます。

⑮私たちは、そのまま「くの字状」の坂道を下まで下りて黒門にまで行きます。
12月ですが、本年は暖冬のため、たくさんの紅葉が見られましたし、写真のように赤いモミジの絨毯が土手に美しく敷き詰められていました。

黒門の古写真を示しました。今は城内に桜が植えられたり、広葉樹が生えていますが、当時は、松を植えるのが奨励されていました。松は縁起が良いこともありますが、よく燃えて薪にできます。古写真にはたくさんの松が生えているのが見えます。
現在は黒門には櫓門などの建物はなく、門の跡があるだけです。

⑯山崎曲輪(山崎郭): 黒門よりさらに北に向かって、山崎曲輪にまで来ました。ここは、佐和口の彦根市開国記念館横にある木俣屋敷が移転前にあった場所です。大坂冬の陣から凱旋した井伊直孝は、当時の藩主直継をはばかり、当時は天守横にあった御殿には入らず、この山崎曲輪にあった木俣家で迎えられ寄宿したといわれています。
木俣屋敷は元和年間(1615~1624)に佐和口門脇の現在地へ移ったと「井伊年譜」等に伝わります。

⑰山崎口冠木門内側: かつて山崎門がありました。内堀を渡って本丸に入る門は大手口、表門口、裏門口、黒門口、山崎口の5箇所に設けられていましたが、その内、山崎口に現存する門です。この冠木門は城下から移設されたと伝わりますが、詳細は明らかでありません。
江戸~明治時代には下の古写真のように内堀に木造橋が架けられていましたが、現在は架橋されておりません。

⑰山崎口冠木門外側

山崎口古写真: 山崎曲輪にあった三重櫓(左)と山崎門と木造橋(右)とが写っています。

⑱写真は水門跡で「御城内御絵図」では「埋御門」があったと描かれています。舟を用いた米の搬出・搬入に使用された門で、米の運搬には経路が長くなることから枡形にはなっていません。現在は門の左右の石垣が残っており、門の内側は梅林になっています。元は幕府からの預かり米5万石を保管するための公儀御用米の米蔵が17棟建てられていました。「御城内御絵図」では、門の外側には船着場としての石段が描かれ、水門からやや離れた所に「御番所」が描かれています。
彦根城築城当初は重臣の鈴木主馬と川手主水の屋敷が在ったところであり、その時には水門が無かったものと考えられます。井伊直継の安中移封に伴い鈴木主馬も従い、その後、彦根藩が幕府からの預かり米5万石を得た時点で当該地に米蔵が築造されました。米蔵水門もこの時点で新設されたものと考えられます。
ちなみに、現在においても米蔵が残されている城は、1つだけで二条城です。

⑲大手口横の二重櫓跡と多聞櫓跡の石垣: 櫓に昇降するため、雁木という階段状の石造物が設けられています。いざという時、多くの兵が一気に櫓内に駆け込み、城を守るという設計になっています。
下大手口古写真の二重櫓・多聞櫓の裏側に当たります。

⑲大手口古写真: 大手門は彦根城の南西に位置し当時は大坂城への抑えから、軍事的に重要な位置を占めました。一の門と二の門からなる枡形門で一の門には付櫓を配し、二の門は櫓門として厳重な押さえとし、大手橋に平行するように二重櫓と多聞櫓を配置することで敵からの進入を阻止するような工夫が見られます。
豊臣家が滅ぶと次第に大手口の重要性が失われましたが、正式的な門は大手門とされ、朝鮮使節団の一行の宿営地も大手筋の寺院などを利用しています。

⑲大手門跡: 櫓門であった二の門の跡です。

⑲大手口枡形と大手門橋: 大手門橋の左側に一の門がありました。

大手門橋を渡り出発地点の表門橋に向かっていますが、彦根城で見られるめずらしい石垣の積み方の説明を受けました。
堀の水面に接しているのが「腰巻石垣」、その上の緑の土塁のさらに上にあるのが「鉢巻石垣」で関東に多い様式です。

⑳表門橋を通り過ぎ、最後に馬屋を訪問しました。写真は馬屋の長屋門で表御殿の付属施設としてここに設置され、藩主の馬を飼育した施設です。屋根の葺き替えの痕跡から、元禄13年(1700)頃に建てられたと推定されています。明和4年(1767)に二の丸佐和口多聞櫓が焼失した際、同櫓に隣接した馬屋の部分が焼失し、明和年間(1764~1772)に再建されました。
天守は「現存12天守」と言われ、12残されているのが有名ですが、この写真の馬屋はここ彦根城にしか残されていない唯一のもので、国の重要文化財に指定されています。ちなみに、お城の御殿は4つ残されているのだそうです。

写真は馬屋内部で、21頭収容できました。

この後、再度、朝に集合した二の丸駐車場にまで戻り、学習は終了し解散となりました。
お疲れさまでした。
文責 岡島 敏広
2024年03月22日
2024年3月16日(土)「近江の城郭~徳川家康と近江の城」姉川古戦場参加
滋賀県主催の「近江の城」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭~徳川家康と近江の城」第3回「姉川の戦いをめぐる城郭」に参加しました。
姉川の戦いは、元亀元年(1570)6月28日に近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町及び三田町一帯)で行われた織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の全面衝突と伝えられています。
しかし、「姉川の戦い」「姉川合戦」という呼称は徳川氏によるものであり、布陣した土地の名から織田・浅井両氏は「野村合戦」、朝倉氏側は「三田村合戦」と呼ばれておりました。
織田信長による越前朝倉攻めにおいて、元亀元年(1570)4月26日に浅井長政の離反が起こり、信長は「金ケ崎の退き口」で有名な撤退戦により京都を経由して、岐阜にまで撤退します。
その後、織田方の攻撃に備えて浅井方によって整備された東山道・北國脇縦貫街道沿いの長比・苅安(上平寺)両城は、織田方(竹中半兵衛)の長比城の調略により無力化され、織田軍は6月19日に岐阜を発ちました。
さらに、信長は6月21日小谷城正面の虎御前山に布陣して、小谷城下を焼き払った後、姉川の南に後退して、24日横山城を包囲し、信長自身は本日訪問する龍ケ鼻に布陣しました。この後、28日の姉川の戦いへと発展してゆきます。
浅井長政
①まず、スタート地点の北郷里まちづくりセンターで、講座開始時に岩橋隆浩先生から、「姉川の戦い」に係るコースの説明を受けました。
本日のコース(約15,000歩のコースです): 訪問コースは以下の通りで、下図はGoogleマップで描いたものです。
本文中の丸数字の番号は地図中の丸数字と一致させています。
①北郷里まちづくりセンター→②遠藤直経の墓→③龍ヶ鼻砦跡→
④陣杭の柳 織田信長本陣跡→⑥姉川古戦場跡(野村町)→⑦血川→
⑧血原公園→⑨三田村氏館跡(三田町)→①北郷里まちづくりセンター
訪問コース(上方が北): 地図はクリックすると拡大します。
浅井・朝倉軍(北)側から見た姉川の戦い布陣図(上方が南で、上図と上下が逆): 当時は浅井軍(野村)、徳川軍(岡山)の周辺は田地で足を取られ戦闘場所として不向きな土地であったのに対し、朝倉軍(三田村)、織田軍(陣杭の柳)の周辺は河原地で戦闘に向いた土地であったようです。そのため、主な戦闘は織田軍と朝倉軍の守備地周辺で行われたと考えられます。
②遠藤喜衛門直経の墓: ④信長の本陣跡の陣杭(じんご)の柳から南に300m離れたところです。姉川の戦いの際、浅井長政の重臣の遠藤直経が討たれた場所で、かつて、現在地から約40m程北の畑の中に「遠藤塚」と呼ばれる塚があり、直経の墓と伝えられてきましたが、昭和54年に「遠藤喜衛門直経之墓」が建立されました。小字も「円藤(遠藤)」といいます。平成9年、圃場(ほじょう)整備のため、現在地に移転しています。毎年7月1日に法要が営まれています。
遠藤直経は盟友織田信長を警戒し、早くから当主長政に、隙を見て信長を討つよう進言していました。一方で、信長が越前・朝倉領に侵攻した際は、すでに時期にあらずとして、信長に従うように進めましたが、結局、信長と袂を分かつこととなりました。
その直経の墓と伝えられる場所が、当時の状況を理解しにくいですが、この後訪問する③織田信長の陣所や④本陣跡のすぐ近くで、かつ、④本陣よりも後方に位置する場所にあります。
その理由としては、2つの説があります。
a. 姉川の戦いで直経が奮戦して信長軍は押し込まれ、この場所で討ち死したとの見方。
b. 姉川の戦いがはじまり、浅井軍の敗色が濃くなると、織田軍の将兵になりすまして味方の首級を一つ提げ、首実検中の信長の眼前にまで迫り、信長をねらったが、竹中重矩(半兵衛の弟)に不穏な動きを見破られ討死したとの見方。
③茶臼山古墳(龍ケ鼻陣所跡)近景: 織田信長と徳川家康は、写真の木が伐採された古墳(全長95mの前方後円墳)の後円部頂上に陣所を置きました。
また、陣所の奥の木が生えた小高い場所に龍ケ鼻砦がありました。
茶臼山古墳(龍ケ鼻陣所跡)上から見える小谷城方面の風景: 信長・家康の龍ケ鼻陣所跡は横山丘陵の北端に位置し、ここは、姉川と北国脇往還(白いビルや姉川の向こうにある道)を眼下に控える場所で、小谷城(写真中央の山)や大依山(おおよりやま: 右の白いビルの向こう緑の山裾)も一望できる好立地です。
姉川の戦い前日(元亀元年(1570)6月27日)の早朝、ここから、信長らは、浅井・朝倉軍が大依山の陣を撤収して姿を消したのを見ています。
姉川(北側)から見る横山丘陵と龍ケ鼻砦: 白いビルは上写真と同じビルで、その右、写真中央のはげ山が茶臼山古墳後円部(龍ケ鼻陣所跡)。龍ケ鼻砦は茶臼山古墳より一段高い位置にあり、龍ケ鼻古墳群を利用して築城されていますが、遺構ははっきりしません。
姉川の戦いの結果、写真右側の山上最も高所にある横山城は織田軍のものとなりました。しかし、浅井・朝倉氏の滅亡までは、「志賀の陣」や「箕浦合戦」、それに小谷城攻防戦などがあり、足懸け4年を要しました。
④姉川の戦いにおける織田信長の本陣跡: 信長・家康は、合戦当日6月28日の朝まで③龍ケ鼻陣所に陣取っていましたが、大依山から姿を消した浅井・朝倉軍の展開を知り、信長はこの地に本陣を移しました。
6月28日姉川の戦いが始まると、浅井軍は姉川を渡って、こちらの織田軍を奇襲しました。押しつ押されつの混戦となって、当初は浅井方佐和山城主の磯野員昌が、信長軍13段備えのうちの11段崩しをするなど、浅井軍が優勢であったと伝えられます(『浅井三代記』)。
この後は、先に訪問した②遠藤直経戦死伝承地の逸話へと繋がります。
④織田信長の陣杭(じんご)の柳: 案内板右にある柳は、信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承があり、「陣杭」は、本来「陣鼓」と書かれていたともいわれます。元々は現在地より10m北西にありましたが、平成9年(1997)圃場整備により現在地に移転しました。
現在の柳は平成元年(1989)に3代目の木から枝を取った4代目です。また、信長本陣の柵に使われた生木が自生したとも伝わっています。尾上柳という種類だそうです。
⑤徳川家康陣跡岡山(勝山): 元亀元年(1570)6月28日朝、姉川北岸の浅井・朝倉軍の展開を知った家康は、龍ヶ鼻砦から前進し、こちらに本陣を置きました。
激戦の結果、織田・徳川軍が勝利したことに因んで、これまでの呼び名の「岡山」を「勝山」と呼ぶようになったとされます。
今回は遠くから眺めるだけでしたが、勝山には江戸時代以来、「流岡神社」が鎮座しており、明治41年(1908)に上坂神社に合祀されました。流岡神社には織田信長が勝利祈願をしたとの社伝があり、上坂神社には織田信長が寄進した金灯籠が現存しているそうです。
姉川野村橋(渡った後、北の野村側から撮影): この後、姉川を渡り、浅井・朝倉軍側の陣を巡ります。
浅井軍は「姉川戦死者之碑」のある姉川北岸の野村に展開していました。
⑥姉川戦死者之碑(血川塚) 姉川古戦場バス停

「姉川戦死者之碑」前で、松下浩先生より姉川の戦いの説明を受けました。
江戸時代には、全面衝突し徳川軍が織田軍を助けたようなストーリーの軍記物が創出されています。江戸時代権力を持つ徳川氏の活躍を誇張するために、姉川の戦いの話は実際よりも誇張され伝えられているのではないかとお考えでした。
しかし、姉川北岸にはこの後訪問する「血川」や「血原」という地名が残されていることから、最初、優勢であった浅井軍は西美濃三人衆の側面からの攻撃により崩れ、織田軍はこの野村辺りで追撃戦を行ったと考えられます。小谷城下から50町(5km強)ほどの距離までの浅井・朝倉軍を追撃しましたが、最終的には小谷城にまでは攻め上がれないと判断して撤兵しています。
朝倉軍と徳川軍の戦いについては、⑧を参照ください。
⑦血川跡(野村): 圃場整備により「血川」そのものは失われていますが、写真の「血川」の案内板の下には、この案内板と同じ幅で、戦いで血に染まったと伝えられる「血川」が流れていました。
おそらく、信長軍に追い立てられた浅井軍の将兵の血が流れたものと考えられます。
⑧血原(血原公園): 朝倉方総大将朝倉景健(あさくら かげたけ)の本陣である⑨三田村氏館と⑤家康の陣所岡山の中間にあり、朝倉軍と徳川軍の決戦の地となった場所で、多くの戦死者の血で染まったことから「血原」と呼ばれています。
最初は朝倉軍が優勢でしたが、徳川軍の榊原康政が朝倉軍を側面から攻撃し総崩れになったとされます(『信長公記』にはない記述)。
その結果、形勢は逆転し、浅井・朝倉軍に対し織田・徳川軍が大勝したとされます。
⑨三田村氏館跡: 総大将朝倉景健は三田村の三田村氏館(現 伝正寺)に本陣を置きました。写真は方形土塁の南西部を外から撮影したものです。ここは姉川北岸で大きな勢力を持ち、姉川合戦前浅井氏方としての横山城の守将であった三田村氏の邸でした。
朝倉景健は一乗谷の戦いの後は、信長に降伏し、姓を安居と改め、所領を安堵されています。
三田村氏館跡の現状は、土塁の北側のかなりの部分が近代になって失われていますが、図のように方形の土塁であったことがわかります。邸主である三田村国定は、小谷城が落城し主家である浅井氏が滅亡した後、木下秀吉を通じて信長に投降しましたが、許されずに裏切者として殺害された(或いは戦死とも)といわれています。
姉川の戦いの後は、織田・徳川軍は、横山城下へ後退し、まもなく横山城は降伏して、信長は横山城の城番として木下秀吉を入れました。
三田村氏館跡を見学した後、本日の講座は終了・解散となり、各自、帰宅の途に就きました。
姉川の戦いは、元亀元年(1570)6月28日に近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町及び三田町一帯)で行われた織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の全面衝突と伝えられています。
しかし、「姉川の戦い」「姉川合戦」という呼称は徳川氏によるものであり、布陣した土地の名から織田・浅井両氏は「野村合戦」、朝倉氏側は「三田村合戦」と呼ばれておりました。
織田信長による越前朝倉攻めにおいて、元亀元年(1570)4月26日に浅井長政の離反が起こり、信長は「金ケ崎の退き口」で有名な撤退戦により京都を経由して、岐阜にまで撤退します。
その後、織田方の攻撃に備えて浅井方によって整備された東山道・北國脇縦貫街道沿いの長比・苅安(上平寺)両城は、織田方(竹中半兵衛)の長比城の調略により無力化され、織田軍は6月19日に岐阜を発ちました。
さらに、信長は6月21日小谷城正面の虎御前山に布陣して、小谷城下を焼き払った後、姉川の南に後退して、24日横山城を包囲し、信長自身は本日訪問する龍ケ鼻に布陣しました。この後、28日の姉川の戦いへと発展してゆきます。
浅井長政

①まず、スタート地点の北郷里まちづくりセンターで、講座開始時に岩橋隆浩先生から、「姉川の戦い」に係るコースの説明を受けました。

本日のコース(約15,000歩のコースです): 訪問コースは以下の通りで、下図はGoogleマップで描いたものです。
本文中の丸数字の番号は地図中の丸数字と一致させています。
①北郷里まちづくりセンター→②遠藤直経の墓→③龍ヶ鼻砦跡→
④陣杭の柳 織田信長本陣跡→⑥姉川古戦場跡(野村町)→⑦血川→
⑧血原公園→⑨三田村氏館跡(三田町)→①北郷里まちづくりセンター
訪問コース(上方が北): 地図はクリックすると拡大します。

浅井・朝倉軍(北)側から見た姉川の戦い布陣図(上方が南で、上図と上下が逆): 当時は浅井軍(野村)、徳川軍(岡山)の周辺は田地で足を取られ戦闘場所として不向きな土地であったのに対し、朝倉軍(三田村)、織田軍(陣杭の柳)の周辺は河原地で戦闘に向いた土地であったようです。そのため、主な戦闘は織田軍と朝倉軍の守備地周辺で行われたと考えられます。

②遠藤喜衛門直経の墓: ④信長の本陣跡の陣杭(じんご)の柳から南に300m離れたところです。姉川の戦いの際、浅井長政の重臣の遠藤直経が討たれた場所で、かつて、現在地から約40m程北の畑の中に「遠藤塚」と呼ばれる塚があり、直経の墓と伝えられてきましたが、昭和54年に「遠藤喜衛門直経之墓」が建立されました。小字も「円藤(遠藤)」といいます。平成9年、圃場(ほじょう)整備のため、現在地に移転しています。毎年7月1日に法要が営まれています。
遠藤直経は盟友織田信長を警戒し、早くから当主長政に、隙を見て信長を討つよう進言していました。一方で、信長が越前・朝倉領に侵攻した際は、すでに時期にあらずとして、信長に従うように進めましたが、結局、信長と袂を分かつこととなりました。
その直経の墓と伝えられる場所が、当時の状況を理解しにくいですが、この後訪問する③織田信長の陣所や④本陣跡のすぐ近くで、かつ、④本陣よりも後方に位置する場所にあります。
その理由としては、2つの説があります。
a. 姉川の戦いで直経が奮戦して信長軍は押し込まれ、この場所で討ち死したとの見方。
b. 姉川の戦いがはじまり、浅井軍の敗色が濃くなると、織田軍の将兵になりすまして味方の首級を一つ提げ、首実検中の信長の眼前にまで迫り、信長をねらったが、竹中重矩(半兵衛の弟)に不穏な動きを見破られ討死したとの見方。

③茶臼山古墳(龍ケ鼻陣所跡)近景: 織田信長と徳川家康は、写真の木が伐採された古墳(全長95mの前方後円墳)の後円部頂上に陣所を置きました。
また、陣所の奥の木が生えた小高い場所に龍ケ鼻砦がありました。

茶臼山古墳(龍ケ鼻陣所跡)上から見える小谷城方面の風景: 信長・家康の龍ケ鼻陣所跡は横山丘陵の北端に位置し、ここは、姉川と北国脇往還(白いビルや姉川の向こうにある道)を眼下に控える場所で、小谷城(写真中央の山)や大依山(おおよりやま: 右の白いビルの向こう緑の山裾)も一望できる好立地です。
姉川の戦い前日(元亀元年(1570)6月27日)の早朝、ここから、信長らは、浅井・朝倉軍が大依山の陣を撤収して姿を消したのを見ています。

姉川(北側)から見る横山丘陵と龍ケ鼻砦: 白いビルは上写真と同じビルで、その右、写真中央のはげ山が茶臼山古墳後円部(龍ケ鼻陣所跡)。龍ケ鼻砦は茶臼山古墳より一段高い位置にあり、龍ケ鼻古墳群を利用して築城されていますが、遺構ははっきりしません。
姉川の戦いの結果、写真右側の山上最も高所にある横山城は織田軍のものとなりました。しかし、浅井・朝倉氏の滅亡までは、「志賀の陣」や「箕浦合戦」、それに小谷城攻防戦などがあり、足懸け4年を要しました。

④姉川の戦いにおける織田信長の本陣跡: 信長・家康は、合戦当日6月28日の朝まで③龍ケ鼻陣所に陣取っていましたが、大依山から姿を消した浅井・朝倉軍の展開を知り、信長はこの地に本陣を移しました。
6月28日姉川の戦いが始まると、浅井軍は姉川を渡って、こちらの織田軍を奇襲しました。押しつ押されつの混戦となって、当初は浅井方佐和山城主の磯野員昌が、信長軍13段備えのうちの11段崩しをするなど、浅井軍が優勢であったと伝えられます(『浅井三代記』)。
この後は、先に訪問した②遠藤直経戦死伝承地の逸話へと繋がります。

④織田信長の陣杭(じんご)の柳: 案内板右にある柳は、信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承があり、「陣杭」は、本来「陣鼓」と書かれていたともいわれます。元々は現在地より10m北西にありましたが、平成9年(1997)圃場整備により現在地に移転しました。
現在の柳は平成元年(1989)に3代目の木から枝を取った4代目です。また、信長本陣の柵に使われた生木が自生したとも伝わっています。尾上柳という種類だそうです。

⑤徳川家康陣跡岡山(勝山): 元亀元年(1570)6月28日朝、姉川北岸の浅井・朝倉軍の展開を知った家康は、龍ヶ鼻砦から前進し、こちらに本陣を置きました。
激戦の結果、織田・徳川軍が勝利したことに因んで、これまでの呼び名の「岡山」を「勝山」と呼ぶようになったとされます。
今回は遠くから眺めるだけでしたが、勝山には江戸時代以来、「流岡神社」が鎮座しており、明治41年(1908)に上坂神社に合祀されました。流岡神社には織田信長が勝利祈願をしたとの社伝があり、上坂神社には織田信長が寄進した金灯籠が現存しているそうです。

姉川野村橋(渡った後、北の野村側から撮影): この後、姉川を渡り、浅井・朝倉軍側の陣を巡ります。

浅井軍は「姉川戦死者之碑」のある姉川北岸の野村に展開していました。
⑥姉川戦死者之碑(血川塚) 姉川古戦場バス停


「姉川戦死者之碑」前で、松下浩先生より姉川の戦いの説明を受けました。
江戸時代には、全面衝突し徳川軍が織田軍を助けたようなストーリーの軍記物が創出されています。江戸時代権力を持つ徳川氏の活躍を誇張するために、姉川の戦いの話は実際よりも誇張され伝えられているのではないかとお考えでした。
しかし、姉川北岸にはこの後訪問する「血川」や「血原」という地名が残されていることから、最初、優勢であった浅井軍は西美濃三人衆の側面からの攻撃により崩れ、織田軍はこの野村辺りで追撃戦を行ったと考えられます。小谷城下から50町(5km強)ほどの距離までの浅井・朝倉軍を追撃しましたが、最終的には小谷城にまでは攻め上がれないと判断して撤兵しています。
朝倉軍と徳川軍の戦いについては、⑧を参照ください。

⑦血川跡(野村): 圃場整備により「血川」そのものは失われていますが、写真の「血川」の案内板の下には、この案内板と同じ幅で、戦いで血に染まったと伝えられる「血川」が流れていました。
おそらく、信長軍に追い立てられた浅井軍の将兵の血が流れたものと考えられます。

⑧血原(血原公園): 朝倉方総大将朝倉景健(あさくら かげたけ)の本陣である⑨三田村氏館と⑤家康の陣所岡山の中間にあり、朝倉軍と徳川軍の決戦の地となった場所で、多くの戦死者の血で染まったことから「血原」と呼ばれています。
最初は朝倉軍が優勢でしたが、徳川軍の榊原康政が朝倉軍を側面から攻撃し総崩れになったとされます(『信長公記』にはない記述)。
その結果、形勢は逆転し、浅井・朝倉軍に対し織田・徳川軍が大勝したとされます。

⑨三田村氏館跡: 総大将朝倉景健は三田村の三田村氏館(現 伝正寺)に本陣を置きました。写真は方形土塁の南西部を外から撮影したものです。ここは姉川北岸で大きな勢力を持ち、姉川合戦前浅井氏方としての横山城の守将であった三田村氏の邸でした。
朝倉景健は一乗谷の戦いの後は、信長に降伏し、姓を安居と改め、所領を安堵されています。

三田村氏館跡の現状は、土塁の北側のかなりの部分が近代になって失われていますが、図のように方形の土塁であったことがわかります。邸主である三田村国定は、小谷城が落城し主家である浅井氏が滅亡した後、木下秀吉を通じて信長に投降しましたが、許されずに裏切者として殺害された(或いは戦死とも)といわれています。

姉川の戦いの後は、織田・徳川軍は、横山城下へ後退し、まもなく横山城は降伏して、信長は横山城の城番として木下秀吉を入れました。
三田村氏館跡を見学した後、本日の講座は終了・解散となり、各自、帰宅の途に就きました。
文責 岡島敏広
2024年02月21日
2024年2月18日(日)「近江の城郭~徳川家康と近江の城」永原御殿参加
滋賀県主催の「近江の城」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭~徳川家康と近江の城」第2回「永原御殿跡」に参加しました。
なお、今回の講座のメインとなる永原御殿には2022年12月にも訪問しております。
織田信長が整備した下街道は、後に徳川家康が関ケ原の合戦に勝利した際、家康が京都へと凱旋する上洛道として使われ、さらに江戸時代には朝鮮通信使により朝鮮人街道として、最後に現在はこの一部が県道2号として使われています。
今回の講座では、この道を辿る形で家康が築城した永原御殿跡と、野洲出身の妓王(祇王)にまつわる主な歴史的観光スポットを巡りました。
本日のコースは、以下の通りです。
JR野洲駅北口→亀塚古墳→菅原神社→永原御殿跡→妓王寺→妓王館跡→浄専寺(永原御殿移築門)→朝鮮人街道→祇王井川→JR野洲駅北口
Googleマップにより本日のコースを描きました。

野洲駅北口に集合し、本日のコースの説明を聞いて出発です。
亀塚古墳、冨波(とば)古墳群
最初に訪れた写真の亀塚古墳は、大岩山丘陵の北西に広がる自然堤防上に築造され、周辺には古冨波山古墳や冨波古墳(墳丘部分は削られ残存しない前方後方墳)が所在しています。
江戸時代には、後円部の墳丘が亀に似た形から、字名に亀塚の名前がうまれました。古くから土取り場となっていたことから、後円部の墳丘はあまり残存していませんでした。周濠部分は水田となっていますが、幅9m近くと想定できます。試掘調査の結果、古墳の形状・埴輪の時期・須恵器から、古墳時代後期初頭の5世紀後葉~末頃に造られたと考えられます。
菅原(すがはら)神社
創祀は不詳。菅原天神とも呼ばれるこの神社には、学問の神様"菅原道真公"がまつられています。室町時代には、連歌や和歌の会が盛んに行なわれ、藤原定家や宗祇といった名高い歌人が訪れました。その中には、北村季吟の姿もあったと伝えられます。
社記によると、永原御殿の北に位置する土安(てやす)神社(菅原神社の風地境内社、明応7年(1498)小堤城主永原越前守源重秀の再建)とともに永原御殿守護の社とされ、慶安2年、先例に従って徳川家光公から八石余の朱印地を寄附されています。なお、この朱印は、明治維新には逓減禄に改められました。
明治以降、菅原・土安両社は、当時の江辺庄永原村、北村、中北村三ヶ村の村社となりました。また、上記のように永原重秀が御神像の腐蝕することを恐れ、新しい御神躰を奉製し、当社遷座の日を例祭日(四月第二の午の日)と定めて神輿の渡御が行われるに至っています。
永原御殿(ながはらごてん)
本日のメインスポットである永原御殿です。永原御殿は朝鮮人街道から西に少し外れた現在の野洲市永原にあります。慶長6年(1601)から寛永11年(1634)までの間、将軍である徳川家康(7回)、秀忠(3回)、家光(2回)が上洛する際に宿泊や休息するため、計12回利用しました。これは、御茶屋(おちゃや)御殿と呼ばれる施設で、全国的な宿駅制度が整備される以前の江戸時代初期には各地に設けられました。近江には中山道に柏原(かしわばら)御殿(絵図)、朝鮮人街道に永原御殿と伊庭(いば)御殿、東海道に水口御殿(水口城)の4カ所が造営されています。
徳川将軍上洛の際の休泊所でしたが、現在の永原御殿跡は、石垣と堀や地割の一部が残るだけで、往時の姿をうかがい知ることはできません。
文書史料によると当初から周囲に堀を設け、本丸と二の丸を備えた城郭として造営されたことが分かります。これは、宿泊だけでなく、有事には軍事施設となる役割を担っていたためと考えられます。
永原御殿を作事した京都大工頭中井家の指図によると家康と秀忠が使用した御殿は、本丸と南に突き出た二の丸からなっていましたが、寛永11年(1634)7月、家光上洛に先立って大規模な改修が行われ、本丸と二の丸を西に大きく拡張し、堀と土塁を巡らせ、本丸の北西に御殿・休憩所・御亭(おちん)を新造し、南東には三の丸を新造しました。
本丸の平面形が台形状で西辺が長くなっているのは、寛永11年の家光による作事によるもので、元は方形の単郭で、南側の二の丸は角馬出(かくうまだし)であったのではないかと言われています。
本丸御殿の配置図を示します。クリックすると拡大します。
2022年度の調査では、御殿の建築図面に記された乾角御矢倉(いぬい すみの おんやぐら)(左上の角)の推定地約100平方メートルを調査し、高さ約3メートルの土塁の上から、隅櫓(すみやぐら)の東壁と南壁の建物基礎とみられる石列(せきれつ)が出土しました。石列は東壁が11個で長さ約5.1メートル、南壁が9個で約4.6メートルでした。北側と西側の基礎は、1662年に起きた若狭・琵琶湖西岸地震で崩落したとみられます。
隅櫓に続く土塁内側の斜面裾から、2段分の石段「雁木(がんぎ)」の遺構も確認されています。1段の高さは約30センチで、約40度の勾配で、10段の階段があったとみられます。このほか、周辺から隅櫓にふかれた多数の瓦が見つかりました。見つかった遺構は、当時の御殿を伝える記録では「乾角御矢倉」という平屋のやぐらがあったとされる場所にあり、野洲市教育委員会では隅櫓が実在していたことを示す遺構だとみています。現地説明会も近く予定されているようですが、今回も2022年に訪問した時と同じ場所にブルーシートが掛けられたままでしたので、乾角御矢倉についての新しい知見や永原御殿の整備計画等(史跡永原御殿跡整備基本計画書)が報告されるものと思われます。
乾角御矢倉のあった土塁
その他、
①中枢部にあたる本丸の正門「南之御門(みなみのごもん)」の遺構が見つかっています。
②東側からは、出入り口部分の取付(とりつき)のための根石(ねいし)2カ所が検出されています。
南之御門 周辺(内部より南方向を撮影)
南之御門模型
御雪隠小便所・御休憩所辺り(西側から撮影): 幕府大工頭の中井家が記した指図(設計図)では、御休憩所は本丸最奥部にある家光の寝所とみられ、将軍専用のトイレ「御雪隠(おせっちん)小便所」も備わっています。
御亭(おちん)跡(邸宅に対する尊敬語)(南側から撮影)
竹藪が切り払われた御殿・古御殿・御小広間・御小台所の辺り
(南東から北西に向け撮影)
御殿模型(上方が北、写真左上の角が乾角御矢倉)
この永原御殿本丸については、令和10年頃まで整備を進められる予定とのことです。
永原御殿パンフレット(クリックで拡大します)

土安(てやす)神社
永原御殿のすぐ北にある土安神社を訪問しました。
今から850年程前、江部の荘(現在の永原、中北、北)の荘司で橘次郎時長の娘、妓王(祇王、ぎおう)と妓女(姉妹)は、京の都に出て平清盛に仕えていました。ある時、妓王は清盛にふるさとの用水不足の嘆きを申し上げたところ、清盛は、さっそく、三上山のふもとを流れる野洲川より分水して水路を開通させました。工事が途中で難航した時、夢に一人の童子が現われて、工事の手法を授けたことにより水路が無事完成したもので、上流を妓王井(ぎおうい)川、下流を童子(どうじ)川と名づけ、この童子を土安(てやす)神社に祀ったと記されています。
この神社は平安の昔、菅原神社の御旅所として創建され、御祭神に祇王井川開拓の神、童子命と開拓工事の奉行の瀬尾兼康の二神が奉祭されています。 明応7年(1498)には小堤城主永原越前守源重秀が神社を再建し、その後は永原御殿守護の社とされました。
妓王寺
妓王は、「平家物語」に登場する白拍子(歌曲や舞踊などの芸で宴席に興を添える男装の遊女)で、平清盛に寵愛されました。しかし、清盛の寵は仏御前に移り、やがて妓王は清盛から遠ざけられ、母の刀自、妹の妓女とともに嵯峨往生院(祇王寺)へ仏門に入ります。当時21歳だったとされます。
こちらの妓王寺も、この「平家物語」で知られる白拍子の妓王・妓女姉妹とその母の刀自、そして、清盛の寵愛を妓王から奪った仏御前の菩提を弔うために建てられた小寺と伝えられ、妓王・妓女姉妹の木像と母の刀自、仏御前の木像が祀られています。
なお、仏門に入った後の妓王が、野洲のこちらの寺を訪れたことはないそうです。
元は妓王が建てた宝衆寺といわれ、妓王が没した翌年の建久2年(1191)宝池山妓王寺と名付けられ、長享年間に焼けた後、江戸時代の明暦2年(1656)草津の芦浦観音寺舜興が再建したといわれています。
妓王寺の拝観は予約制のため、この日は門前で説明を受けただけでした。
妓王館跡
近江国祇王村は平安時代末期の白拍子である妓王(祇王)の生誕の地です。院の北面であった父の橘次郎時長が保元元年(1156)の保元の乱で戦死したことから、妓王は妹の妓女と母刀自とともに都へ出て白拍子となり、平清盛の寵をえました。西藤島小学校の隣に、妓王とその妹の妓女が住んでいたと伝わる場所があります。上述しましたが、平清盛の心は妓王から別の白拍子である仏御前に移ってしまい、妓王は館を追い出されてしまいました。その際に障子に書き残した「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき」という歌が写真の石柱に刻まれています。
浄専寺(じょうせんじ) 伝永原御殿の門
永原御殿関連の史跡に戻りますが、江戸時代、幕藩体制が確立して以降、将軍の上洛はなくなり、貞享2年(1685)に永原御殿は廃止されました。建物は入札にかけられ、残された建物は宝永2年(1705)に全て焼き払われました。入札された建物の行方は、御殿の一部が芦浦観音寺の書院(国の重要文化財)として移築された以外には、野洲市北のこの浄専寺にある永原御殿からの移築門のみ(石垣も寺に移設)です。
痛々しくも幾つもの鉄の棒で柱が支えられた表門は、薬医(やくい)門と呼ばれる形式です。太い親柱(欅材)の間に縦格子を組んだ両開きの扉を吊り、正面に向かって左側に脇柱を立てて脇扉を設け、屋根は切妻造(きりづまづくり)で、本瓦葺(ほんがわらぶき)とする重厚な構えの門です。
表門の柱の背面や側面、柱の頂部をつなぐ冠木(かぶき)などの部材には、柄穴や埋木(うめき)が随所にあり、かなり大きな改造を受けていることが分かります。これは、現在の形式と異なる門の一部を利用したか、複数の建物の部材を寄せ集めた可能性を示しています。さらに、柱や貫、扉の格子などの部材が太いことから、城郭や武家住宅の門であった可能性は高いと考えられます。浄専寺は浄土真宗本願寺派の寺です。
朝鮮人街道
下の写真は、朝鮮人街道と祇王井川が交叉する場所を撮影しており、道路が朝鮮人街道です。
祇王井川
三上付近で野洲川から分岐(現在は石部頭首工を水源としていますが、当初は七間場辺りからの野洲川伏流の湧き水を水源としていました)し、北東の方角に流路を取って家棟(やなむね)川に接続しています。上の土安神社で説明しましたように、妓王は水不足に苦しむ故郷の人々のために、平清盛に願い出て野洲川から琵琶湖まで約12kmの水路を掘ってもらったことから、村人は妓王を讃えてこれを妓王井と名づけたと伝えられます。ただし、平安時代末に農業用水として開削されたことは事実ですが、妓王の進言によるものかは言い伝えの域を出ません。
上写真の「祇王井川」の表示の所に集合して、後の行程は野洲駅に戻るだけということで、ここで解散となり、帰宅の途に就きました。
文責 岡島敏広
なお、今回の講座のメインとなる永原御殿には2022年12月にも訪問しております。
織田信長が整備した下街道は、後に徳川家康が関ケ原の合戦に勝利した際、家康が京都へと凱旋する上洛道として使われ、さらに江戸時代には朝鮮通信使により朝鮮人街道として、最後に現在はこの一部が県道2号として使われています。
今回の講座では、この道を辿る形で家康が築城した永原御殿跡と、野洲出身の妓王(祇王)にまつわる主な歴史的観光スポットを巡りました。

本日のコースは、以下の通りです。
JR野洲駅北口→亀塚古墳→菅原神社→永原御殿跡→妓王寺→妓王館跡→浄専寺(永原御殿移築門)→朝鮮人街道→祇王井川→JR野洲駅北口
Googleマップにより本日のコースを描きました。

野洲駅北口に集合し、本日のコースの説明を聞いて出発です。

亀塚古墳、冨波(とば)古墳群
最初に訪れた写真の亀塚古墳は、大岩山丘陵の北西に広がる自然堤防上に築造され、周辺には古冨波山古墳や冨波古墳(墳丘部分は削られ残存しない前方後方墳)が所在しています。
江戸時代には、後円部の墳丘が亀に似た形から、字名に亀塚の名前がうまれました。古くから土取り場となっていたことから、後円部の墳丘はあまり残存していませんでした。周濠部分は水田となっていますが、幅9m近くと想定できます。試掘調査の結果、古墳の形状・埴輪の時期・須恵器から、古墳時代後期初頭の5世紀後葉~末頃に造られたと考えられます。

菅原(すがはら)神社
創祀は不詳。菅原天神とも呼ばれるこの神社には、学問の神様"菅原道真公"がまつられています。室町時代には、連歌や和歌の会が盛んに行なわれ、藤原定家や宗祇といった名高い歌人が訪れました。その中には、北村季吟の姿もあったと伝えられます。
社記によると、永原御殿の北に位置する土安(てやす)神社(菅原神社の風地境内社、明応7年(1498)小堤城主永原越前守源重秀の再建)とともに永原御殿守護の社とされ、慶安2年、先例に従って徳川家光公から八石余の朱印地を寄附されています。なお、この朱印は、明治維新には逓減禄に改められました。
明治以降、菅原・土安両社は、当時の江辺庄永原村、北村、中北村三ヶ村の村社となりました。また、上記のように永原重秀が御神像の腐蝕することを恐れ、新しい御神躰を奉製し、当社遷座の日を例祭日(四月第二の午の日)と定めて神輿の渡御が行われるに至っています。

永原御殿(ながはらごてん)
本日のメインスポットである永原御殿です。永原御殿は朝鮮人街道から西に少し外れた現在の野洲市永原にあります。慶長6年(1601)から寛永11年(1634)までの間、将軍である徳川家康(7回)、秀忠(3回)、家光(2回)が上洛する際に宿泊や休息するため、計12回利用しました。これは、御茶屋(おちゃや)御殿と呼ばれる施設で、全国的な宿駅制度が整備される以前の江戸時代初期には各地に設けられました。近江には中山道に柏原(かしわばら)御殿(絵図)、朝鮮人街道に永原御殿と伊庭(いば)御殿、東海道に水口御殿(水口城)の4カ所が造営されています。
徳川将軍上洛の際の休泊所でしたが、現在の永原御殿跡は、石垣と堀や地割の一部が残るだけで、往時の姿をうかがい知ることはできません。
文書史料によると当初から周囲に堀を設け、本丸と二の丸を備えた城郭として造営されたことが分かります。これは、宿泊だけでなく、有事には軍事施設となる役割を担っていたためと考えられます。
永原御殿を作事した京都大工頭中井家の指図によると家康と秀忠が使用した御殿は、本丸と南に突き出た二の丸からなっていましたが、寛永11年(1634)7月、家光上洛に先立って大規模な改修が行われ、本丸と二の丸を西に大きく拡張し、堀と土塁を巡らせ、本丸の北西に御殿・休憩所・御亭(おちん)を新造し、南東には三の丸を新造しました。
本丸の平面形が台形状で西辺が長くなっているのは、寛永11年の家光による作事によるもので、元は方形の単郭で、南側の二の丸は角馬出(かくうまだし)であったのではないかと言われています。
本丸御殿の配置図を示します。クリックすると拡大します。

2022年度の調査では、御殿の建築図面に記された乾角御矢倉(いぬい すみの おんやぐら)(左上の角)の推定地約100平方メートルを調査し、高さ約3メートルの土塁の上から、隅櫓(すみやぐら)の東壁と南壁の建物基礎とみられる石列(せきれつ)が出土しました。石列は東壁が11個で長さ約5.1メートル、南壁が9個で約4.6メートルでした。北側と西側の基礎は、1662年に起きた若狭・琵琶湖西岸地震で崩落したとみられます。
隅櫓に続く土塁内側の斜面裾から、2段分の石段「雁木(がんぎ)」の遺構も確認されています。1段の高さは約30センチで、約40度の勾配で、10段の階段があったとみられます。このほか、周辺から隅櫓にふかれた多数の瓦が見つかりました。見つかった遺構は、当時の御殿を伝える記録では「乾角御矢倉」という平屋のやぐらがあったとされる場所にあり、野洲市教育委員会では隅櫓が実在していたことを示す遺構だとみています。現地説明会も近く予定されているようですが、今回も2022年に訪問した時と同じ場所にブルーシートが掛けられたままでしたので、乾角御矢倉についての新しい知見や永原御殿の整備計画等(史跡永原御殿跡整備基本計画書)が報告されるものと思われます。
乾角御矢倉のあった土塁

その他、
①中枢部にあたる本丸の正門「南之御門(みなみのごもん)」の遺構が見つかっています。
②東側からは、出入り口部分の取付(とりつき)のための根石(ねいし)2カ所が検出されています。
南之御門 周辺(内部より南方向を撮影)

南之御門模型

御雪隠小便所・御休憩所辺り(西側から撮影): 幕府大工頭の中井家が記した指図(設計図)では、御休憩所は本丸最奥部にある家光の寝所とみられ、将軍専用のトイレ「御雪隠(おせっちん)小便所」も備わっています。

御亭(おちん)跡(邸宅に対する尊敬語)(南側から撮影)

竹藪が切り払われた御殿・古御殿・御小広間・御小台所の辺り
(南東から北西に向け撮影)

御殿模型(上方が北、写真左上の角が乾角御矢倉)

この永原御殿本丸については、令和10年頃まで整備を進められる予定とのことです。
永原御殿パンフレット(クリックで拡大します)


土安(てやす)神社
永原御殿のすぐ北にある土安神社を訪問しました。
今から850年程前、江部の荘(現在の永原、中北、北)の荘司で橘次郎時長の娘、妓王(祇王、ぎおう)と妓女(姉妹)は、京の都に出て平清盛に仕えていました。ある時、妓王は清盛にふるさとの用水不足の嘆きを申し上げたところ、清盛は、さっそく、三上山のふもとを流れる野洲川より分水して水路を開通させました。工事が途中で難航した時、夢に一人の童子が現われて、工事の手法を授けたことにより水路が無事完成したもので、上流を妓王井(ぎおうい)川、下流を童子(どうじ)川と名づけ、この童子を土安(てやす)神社に祀ったと記されています。
この神社は平安の昔、菅原神社の御旅所として創建され、御祭神に祇王井川開拓の神、童子命と開拓工事の奉行の瀬尾兼康の二神が奉祭されています。 明応7年(1498)には小堤城主永原越前守源重秀が神社を再建し、その後は永原御殿守護の社とされました。

妓王寺
妓王は、「平家物語」に登場する白拍子(歌曲や舞踊などの芸で宴席に興を添える男装の遊女)で、平清盛に寵愛されました。しかし、清盛の寵は仏御前に移り、やがて妓王は清盛から遠ざけられ、母の刀自、妹の妓女とともに嵯峨往生院(祇王寺)へ仏門に入ります。当時21歳だったとされます。
こちらの妓王寺も、この「平家物語」で知られる白拍子の妓王・妓女姉妹とその母の刀自、そして、清盛の寵愛を妓王から奪った仏御前の菩提を弔うために建てられた小寺と伝えられ、妓王・妓女姉妹の木像と母の刀自、仏御前の木像が祀られています。
なお、仏門に入った後の妓王が、野洲のこちらの寺を訪れたことはないそうです。
元は妓王が建てた宝衆寺といわれ、妓王が没した翌年の建久2年(1191)宝池山妓王寺と名付けられ、長享年間に焼けた後、江戸時代の明暦2年(1656)草津の芦浦観音寺舜興が再建したといわれています。
妓王寺の拝観は予約制のため、この日は門前で説明を受けただけでした。

妓王館跡
近江国祇王村は平安時代末期の白拍子である妓王(祇王)の生誕の地です。院の北面であった父の橘次郎時長が保元元年(1156)の保元の乱で戦死したことから、妓王は妹の妓女と母刀自とともに都へ出て白拍子となり、平清盛の寵をえました。西藤島小学校の隣に、妓王とその妹の妓女が住んでいたと伝わる場所があります。上述しましたが、平清盛の心は妓王から別の白拍子である仏御前に移ってしまい、妓王は館を追い出されてしまいました。その際に障子に書き残した「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき」という歌が写真の石柱に刻まれています。

浄専寺(じょうせんじ) 伝永原御殿の門
永原御殿関連の史跡に戻りますが、江戸時代、幕藩体制が確立して以降、将軍の上洛はなくなり、貞享2年(1685)に永原御殿は廃止されました。建物は入札にかけられ、残された建物は宝永2年(1705)に全て焼き払われました。入札された建物の行方は、御殿の一部が芦浦観音寺の書院(国の重要文化財)として移築された以外には、野洲市北のこの浄専寺にある永原御殿からの移築門のみ(石垣も寺に移設)です。
痛々しくも幾つもの鉄の棒で柱が支えられた表門は、薬医(やくい)門と呼ばれる形式です。太い親柱(欅材)の間に縦格子を組んだ両開きの扉を吊り、正面に向かって左側に脇柱を立てて脇扉を設け、屋根は切妻造(きりづまづくり)で、本瓦葺(ほんがわらぶき)とする重厚な構えの門です。
表門の柱の背面や側面、柱の頂部をつなぐ冠木(かぶき)などの部材には、柄穴や埋木(うめき)が随所にあり、かなり大きな改造を受けていることが分かります。これは、現在の形式と異なる門の一部を利用したか、複数の建物の部材を寄せ集めた可能性を示しています。さらに、柱や貫、扉の格子などの部材が太いことから、城郭や武家住宅の門であった可能性は高いと考えられます。浄専寺は浄土真宗本願寺派の寺です。

朝鮮人街道
下の写真は、朝鮮人街道と祇王井川が交叉する場所を撮影しており、道路が朝鮮人街道です。
祇王井川
三上付近で野洲川から分岐(現在は石部頭首工を水源としていますが、当初は七間場辺りからの野洲川伏流の湧き水を水源としていました)し、北東の方角に流路を取って家棟(やなむね)川に接続しています。上の土安神社で説明しましたように、妓王は水不足に苦しむ故郷の人々のために、平清盛に願い出て野洲川から琵琶湖まで約12kmの水路を掘ってもらったことから、村人は妓王を讃えてこれを妓王井と名づけたと伝えられます。ただし、平安時代末に農業用水として開削されたことは事実ですが、妓王の進言によるものかは言い伝えの域を出ません。

上写真の「祇王井川」の表示の所に集合して、後の行程は野洲駅に戻るだけということで、ここで解散となり、帰宅の途に就きました。

文責 岡島敏広
2023年07月23日
2023年7月20-22日レイカディア大学大学祭
2023年7月20日(木)~22日(土)にかけてレイカディア大学で、大学祭が開催されました。
沙沙貴組はこれまでの城下町調査結果を以下のように、ポスターとして発表しました。

以下、ポスターを1枚ずつ示しますが、図をクリックすると拡大し、ポスターの文字は読みやすくなります。
佐和山城下町のまとめを2枚にわたり示します。
以下、調査のための訪問報告へのリンクです。下見1、下見2、下見3、沙沙貴組メンバーによる訪問1、沙沙貴組メンバーによる訪問2

佐和山城下町を引き継いだ彦根城下町のまとめを2枚にわたり示します。
以下、調査のための訪問報告へのリンクです。沙沙貴組メンバーによる訪問

観音寺城下町石寺のまとめを2枚にわたり示します。
以下、調査のための訪問報告へのリンクです。下見、沙沙貴組メンバーによる訪問

観音寺城下町を引き継いだと考えられる安土城下町のまとめを2枚にわたり示します。
以下、調査のための訪問報告へのリンクです。沙沙貴組メンバーによる訪問

安土城下町を移転させた八幡山城下町のまとめを2枚にわたり示します。
以下、調査のための訪問報告へのリンクです。沙沙貴組メンバーによる訪問

坂本城下町を移転させた大津城下町のまとめを2枚にわたり示します。
以下、調査のための訪問報告へのリンクです。沙沙貴組メンバーによる訪問

大津城下町から、その一部機能を移転させた膳所城下町のまとめを2枚にわたり示します。
以下、調査のための訪問報告へのリンクです。沙沙貴組メンバーによる訪問

まとめです。
これらのポスターはポスター1枚目(表紙)に記載されたメンバー5名により作成されたものです。 文責 岡島
沙沙貴組はこれまでの城下町調査結果を以下のように、ポスターとして発表しました。

以下、ポスターを1枚ずつ示しますが、図をクリックすると拡大し、ポスターの文字は読みやすくなります。

佐和山城下町のまとめを2枚にわたり示します。
以下、調査のための訪問報告へのリンクです。下見1、下見2、下見3、沙沙貴組メンバーによる訪問1、沙沙貴組メンバーによる訪問2


佐和山城下町を引き継いだ彦根城下町のまとめを2枚にわたり示します。
以下、調査のための訪問報告へのリンクです。沙沙貴組メンバーによる訪問


観音寺城下町石寺のまとめを2枚にわたり示します。
以下、調査のための訪問報告へのリンクです。下見、沙沙貴組メンバーによる訪問


観音寺城下町を引き継いだと考えられる安土城下町のまとめを2枚にわたり示します。
以下、調査のための訪問報告へのリンクです。沙沙貴組メンバーによる訪問


安土城下町を移転させた八幡山城下町のまとめを2枚にわたり示します。
以下、調査のための訪問報告へのリンクです。沙沙貴組メンバーによる訪問


坂本城下町を移転させた大津城下町のまとめを2枚にわたり示します。
以下、調査のための訪問報告へのリンクです。沙沙貴組メンバーによる訪問


大津城下町から、その一部機能を移転させた膳所城下町のまとめを2枚にわたり示します。
以下、調査のための訪問報告へのリンクです。沙沙貴組メンバーによる訪問


まとめです。

これらのポスターはポスター1枚目(表紙)に記載されたメンバー5名により作成されたものです。 文責 岡島
2023年06月14日
2023年6月13日(火)ボランティアガイド養成講座「大津百町と膳所城下町」
レイカディア大学地域文化学科の選択講座でボランティアガイド養成講座の開始です。D,E,Fの3グループ12名で、午前中は「大津城址と大津百町を訪ねる」をFグループの案内で巡ります。S木さんのコースの説明で散策開始です。
なお、大津百町については、課題学習グループ沙沙貴組も調査しております。
その報告はこちらに記載されていますので、ご覧ください。
以下は、今回の「大津城址と大津百町を訪ねる」の案内文です。
結論は、大津は城下町として発展しますが、城は大津籠城戦がもとで廃城となり、町の政治色がなくなった後、商業、通運、門前町として、さらに発展します。

散策コースを以下の地図に青線で示しまとめました。地図上及び本文の丸数字は訪問地点とその説明で、地図の方はクリックすると拡大します。
①大津本陣前で、本陣の説明をしてくださったT野さん: 大津には将軍や大名、公家などが宿泊・休憩をとる本陣2つ、脇本陣1つがありましたが、場所が判明しているのは、この石碑と説明板のある大坂屋嘉右衛門(大塚本陣)の本陣だけです。
木曾海道六拾九次之内 大津 歌川広重画
京都から大津に入ってくる東海道のこの辺りは「八丁筋」(八町通)と呼ばれ、本陣や庶民の宿である旅籠屋が並んでいました。浮世絵は、八町通を描いたものです。両側には宿屋が立ち並び、旅人や大津の港から京への荷物を乗せた牛車が行きかい、奥には琵琶湖が見えています。
②高札場「札の辻」です。T野さんの解説: 大津から各地までのを距離を測る基点が設置されています。この地点は東海道と北國海道が交差する地点で、ここから浜大津へと降りて行く道は細い道だったそうです。京阪電車も大正14年(1925)に道が拡張されるまではここ札の辻に駅があり、終点であったそうです。
③遊廓跡: 細い道を抜け、柴屋町で遊廓の写真を見せ説明をするS木さん。S木さんの後ろは更地となった遊郭跡。現在、遊郭の建物は老朽化により解体され部材は保存されているとのことです。
④S木さんによる木村家住宅の説明: 軒切りで道路を拡張して町家の姿が変化する中、現在も江戸期の姿を保つ町家で、国の有形文化財となっています。材木商を営んでいたそうです。
⑤大津城石垣として唯一現存する大津城外堀の石垣の説明をT木さんより受けました。大津祭曳山展示館東横にあります。矢穴が見られます。
⑥みずほ銀行の横に設置された「坂本町」石碑前で、朝日生命の発掘調査の状況を説明するT木さん。朝日生命ビル建設工事のときに、外堀の石垣が出土しています。
⑦城の周辺部から、いよいよ城下町の中心に迫ります。
遠く(左下の手すりの上)に大津城跡石碑を小さく見ながら、T田さんに大津城の位置及び天守(想像図)の説明をしていただきました。
⑧最後に、スカイプラザ浜大津6F(実際の天守の高さ)まで登り、天守からの眺望を体験した後、6F にある大津城天守模型前で、T田さんの関ヶ原の戦い前の大津籠城戦の説明と城主京極高次が徳川家康の勝利に貢献したお話を聞き、午前の「大津城址と大津百町を訪ねる」の部は終了しました。
この後、楽しい昼食です。
昼食後、浜大津駅から京阪電車に乗って錦駅まで移動し、午後の部のEグループによる「膳所城下町」散策開始です。
なお、膳所城下町については、課題学習グループ沙沙貴組も調査しております。その報告はこちらに記載されていますので、ご覧ください。
以下は、午後の「膳所城下町」散策の案内文です。
現代の地図(上)に加えて、江戸時代の状況を描いた古地図(下)に従って、東海道を歩いてゆきます。下の古地図はクリックすると拡大します(滋賀県立図書館にリンクしています)。かなり詳細な部分まで拡大して確認できますので、興味ある部分を拡大してご確認ください。

「リーダー・挨拶」担当のT田さんによるコースの概要と交通安全の訓示を受け、「主進行」担当のI永さんの案内で出発です。この後の訪問地の解説は、ほとんどI永さんに行っていただきました。
午後の散策の部の結論としては、膳所城下町は大津から政治・軍事機能だけを移植した町で、物理的距離も近く機能分担していたことです。散策によりその雰囲気を体験します。
「補助進行」担当の筆者のO島が、膳所城下町の古地図を示し説明します。本日は午前の散策で全員既に疲れていました。予定していた城下町の南の出口に当たる瀬田口総門まで行かないことが明確になったことから、瀬田口総門の場所を古地図で示し、総門の番所が最近まで存在していたこと、総門の門が現在も大阪泉大津市に移築されて存在することを説明しました。

六体地蔵堂 膳所城御椀倉: 午前中の疲労及び午後の歩行時間を考慮し、計画変更したついでに、計画になかった六体地蔵堂を、I永さんに案内され訪れました。この建物は膳所城の御椀倉を移築した建物です。
六体地蔵堂内部には、文字通り六体の地蔵が安置されておりましたが、そのお顔はお化粧したように異様に美しく白いものでした。ここは膳所城下町から外れた墓地に向かう墓地入口に当たる部分です。ここから相模川に沿って下流(琵琶湖)方向に防塁があった所まで歩きます。
防塁(古地図の拡大図): 大津口から膳所城下町に入ると、古地図右下の相模川と記載した所に架けられている橋(右下に一部描かれています)にたどり着きます。この橋を渡り、島状の防塁に入って、松で縁取られた土橋を渡り薄い赤で示された東海道に沿って町家の間を進んで行きます。響忍寺と防塁の間には、竹藪が描かれています。西から豊臣(秀頼)軍が攻めてきた場合は、防塁(島)上の敵を響忍寺(当時は膳所藩家老屋敷)の竹藪に隠れて、弓、鉄砲で撃退できるような構造になっています。なお、現在は相模川以外は埋め立てられて、水の部分は残っていませんので、地形は大きく変わっています。
現在の防塁の姿: ガードレールが設置された相模川の手前で、"本当の旧東海道"は写真正面のベージュのお家の右にある鉄板の橋(古絵図の木橋が鉄板に変わっている)を渡って、路地を左に曲がると現在の旧東海道に繋がります。防塁に入り「左に曲がって」次に右方向の土橋へ行くという方向性は変わっていません。
響忍寺: 膳所藩家老屋敷の長屋門がそのまま寺の門となっています。この寺(当時は家老屋敷)の裏が竹藪となっていて、防塁を攻撃できるようになっていました。
北大手門: 和田神社の辺りから東海道を外れて古地図の北大手門の方に向かいました。北大手門の辺りは、堀が埋め立てられ、門自体も篠津神社に移築されており、現地には形跡は何も無く、アスファルト敷の月極駐車場となっていました。
篠津神社に移築された北大手門
船繋ぎ石: 月極駐車場の前で、上の古地図を使って北大手門の説明をしておりますと、本ブログの古地図の手前方向の中堀の角に当たるお家の奥様が声をかけてくださいました。私たちが昔の膳所を地図で確かめていることを説明しますと、親切にお庭に残されている船繋ぎ石見せて下さる事になりました。我々12名全員がお庭にお邪魔させてもらい、説明もして下さいました。
船繋ぎ石: 真ん中の木の右側に船繋ぎ石がありますが、左側の石にもロープ(又は鎖?)が結ばれ、それが削ったらしく、左の石の根元がえぐれていました。
船繋ぎ石: 左側の石のえぐれた部分の拡大図です。
船繋ぎ石の下には、中堀の石垣らしきものも残っておりました。見せていただいたお礼を申し上げて、次は北大手門や中堀に当たる所を通り過ぎて丸の内の中へと進みました。
北大手門町: 城下町の東海道沿いの町家に比べ、この辺りは丸の内で武家屋敷であったことから、周辺に建てられている邸宅の区画が大きいことを確かめながら散策しました。
中大手門近くに到達し、その近くで、「点呼・記録」担当のO村さんのリクエストにより写真を撮影しました。古地図を見ると、実際の中大手門の建てられていた位置は、現在石碑の設置されている位置とは少し異なることも確認しました。なお、残念ながら、中大手門そのものは失われています。
膳所神社: 予定していた行程の半分でしたが、終了時間になりましたので、集合写真を撮影し、N嶌先生のお言葉を頂いて、本日の授業を終了しました。
ちなみに、灯籠の後ろに見えている門は、移築された膳所城伝二の丸北東の門です。
解散のあと、沙沙貴組のメンバーが多かったことから、いつものように反省会を開き、喉を潤しました。お疲れさまでした。
文責 岡島
なお、大津百町については、課題学習グループ沙沙貴組も調査しております。
その報告はこちらに記載されていますので、ご覧ください。

以下は、今回の「大津城址と大津百町を訪ねる」の案内文です。
結論は、大津は城下町として発展しますが、城は大津籠城戦がもとで廃城となり、町の政治色がなくなった後、商業、通運、門前町として、さらに発展します。


散策コースを以下の地図に青線で示しまとめました。地図上及び本文の丸数字は訪問地点とその説明で、地図の方はクリックすると拡大します。

①大津本陣前で、本陣の説明をしてくださったT野さん: 大津には将軍や大名、公家などが宿泊・休憩をとる本陣2つ、脇本陣1つがありましたが、場所が判明しているのは、この石碑と説明板のある大坂屋嘉右衛門(大塚本陣)の本陣だけです。

木曾海道六拾九次之内 大津 歌川広重画
京都から大津に入ってくる東海道のこの辺りは「八丁筋」(八町通)と呼ばれ、本陣や庶民の宿である旅籠屋が並んでいました。浮世絵は、八町通を描いたものです。両側には宿屋が立ち並び、旅人や大津の港から京への荷物を乗せた牛車が行きかい、奥には琵琶湖が見えています。

②高札場「札の辻」です。T野さんの解説: 大津から各地までのを距離を測る基点が設置されています。この地点は東海道と北國海道が交差する地点で、ここから浜大津へと降りて行く道は細い道だったそうです。京阪電車も大正14年(1925)に道が拡張されるまではここ札の辻に駅があり、終点であったそうです。

③遊廓跡: 細い道を抜け、柴屋町で遊廓の写真を見せ説明をするS木さん。S木さんの後ろは更地となった遊郭跡。現在、遊郭の建物は老朽化により解体され部材は保存されているとのことです。

④S木さんによる木村家住宅の説明: 軒切りで道路を拡張して町家の姿が変化する中、現在も江戸期の姿を保つ町家で、国の有形文化財となっています。材木商を営んでいたそうです。

⑤大津城石垣として唯一現存する大津城外堀の石垣の説明をT木さんより受けました。大津祭曳山展示館東横にあります。矢穴が見られます。

⑥みずほ銀行の横に設置された「坂本町」石碑前で、朝日生命の発掘調査の状況を説明するT木さん。朝日生命ビル建設工事のときに、外堀の石垣が出土しています。

⑦城の周辺部から、いよいよ城下町の中心に迫ります。
遠く(左下の手すりの上)に大津城跡石碑を小さく見ながら、T田さんに大津城の位置及び天守(想像図)の説明をしていただきました。

⑧最後に、スカイプラザ浜大津6F(実際の天守の高さ)まで登り、天守からの眺望を体験した後、6F にある大津城天守模型前で、T田さんの関ヶ原の戦い前の大津籠城戦の説明と城主京極高次が徳川家康の勝利に貢献したお話を聞き、午前の「大津城址と大津百町を訪ねる」の部は終了しました。
この後、楽しい昼食です。

昼食後、浜大津駅から京阪電車に乗って錦駅まで移動し、午後の部のEグループによる「膳所城下町」散策開始です。
なお、膳所城下町については、課題学習グループ沙沙貴組も調査しております。その報告はこちらに記載されていますので、ご覧ください。
以下は、午後の「膳所城下町」散策の案内文です。
現代の地図(上)に加えて、江戸時代の状況を描いた古地図(下)に従って、東海道を歩いてゆきます。下の古地図はクリックすると拡大します(滋賀県立図書館にリンクしています)。かなり詳細な部分まで拡大して確認できますので、興味ある部分を拡大してご確認ください。


「リーダー・挨拶」担当のT田さんによるコースの概要と交通安全の訓示を受け、「主進行」担当のI永さんの案内で出発です。この後の訪問地の解説は、ほとんどI永さんに行っていただきました。
午後の散策の部の結論としては、膳所城下町は大津から政治・軍事機能だけを移植した町で、物理的距離も近く機能分担していたことです。散策によりその雰囲気を体験します。

「補助進行」担当の筆者のO島が、膳所城下町の古地図を示し説明します。本日は午前の散策で全員既に疲れていました。予定していた城下町の南の出口に当たる瀬田口総門まで行かないことが明確になったことから、瀬田口総門の場所を古地図で示し、総門の番所が最近まで存在していたこと、総門の門が現在も大阪泉大津市に移築されて存在することを説明しました。

六体地蔵堂 膳所城御椀倉: 午前中の疲労及び午後の歩行時間を考慮し、計画変更したついでに、計画になかった六体地蔵堂を、I永さんに案内され訪れました。この建物は膳所城の御椀倉を移築した建物です。

六体地蔵堂内部には、文字通り六体の地蔵が安置されておりましたが、そのお顔はお化粧したように異様に美しく白いものでした。ここは膳所城下町から外れた墓地に向かう墓地入口に当たる部分です。ここから相模川に沿って下流(琵琶湖)方向に防塁があった所まで歩きます。

防塁(古地図の拡大図): 大津口から膳所城下町に入ると、古地図右下の相模川と記載した所に架けられている橋(右下に一部描かれています)にたどり着きます。この橋を渡り、島状の防塁に入って、松で縁取られた土橋を渡り薄い赤で示された東海道に沿って町家の間を進んで行きます。響忍寺と防塁の間には、竹藪が描かれています。西から豊臣(秀頼)軍が攻めてきた場合は、防塁(島)上の敵を響忍寺(当時は膳所藩家老屋敷)の竹藪に隠れて、弓、鉄砲で撃退できるような構造になっています。なお、現在は相模川以外は埋め立てられて、水の部分は残っていませんので、地形は大きく変わっています。

現在の防塁の姿: ガードレールが設置された相模川の手前で、"本当の旧東海道"は写真正面のベージュのお家の右にある鉄板の橋(古絵図の木橋が鉄板に変わっている)を渡って、路地を左に曲がると現在の旧東海道に繋がります。防塁に入り「左に曲がって」次に右方向の土橋へ行くという方向性は変わっていません。

響忍寺: 膳所藩家老屋敷の長屋門がそのまま寺の門となっています。この寺(当時は家老屋敷)の裏が竹藪となっていて、防塁を攻撃できるようになっていました。

北大手門: 和田神社の辺りから東海道を外れて古地図の北大手門の方に向かいました。北大手門の辺りは、堀が埋め立てられ、門自体も篠津神社に移築されており、現地には形跡は何も無く、アスファルト敷の月極駐車場となっていました。

篠津神社に移築された北大手門

船繋ぎ石: 月極駐車場の前で、上の古地図を使って北大手門の説明をしておりますと、本ブログの古地図の手前方向の中堀の角に当たるお家の奥様が声をかけてくださいました。私たちが昔の膳所を地図で確かめていることを説明しますと、親切にお庭に残されている船繋ぎ石見せて下さる事になりました。我々12名全員がお庭にお邪魔させてもらい、説明もして下さいました。

船繋ぎ石: 真ん中の木の右側に船繋ぎ石がありますが、左側の石にもロープ(又は鎖?)が結ばれ、それが削ったらしく、左の石の根元がえぐれていました。

船繋ぎ石: 左側の石のえぐれた部分の拡大図です。

船繋ぎ石の下には、中堀の石垣らしきものも残っておりました。見せていただいたお礼を申し上げて、次は北大手門や中堀に当たる所を通り過ぎて丸の内の中へと進みました。

北大手門町: 城下町の東海道沿いの町家に比べ、この辺りは丸の内で武家屋敷であったことから、周辺に建てられている邸宅の区画が大きいことを確かめながら散策しました。

中大手門近くに到達し、その近くで、「点呼・記録」担当のO村さんのリクエストにより写真を撮影しました。古地図を見ると、実際の中大手門の建てられていた位置は、現在石碑の設置されている位置とは少し異なることも確認しました。なお、残念ながら、中大手門そのものは失われています。

膳所神社: 予定していた行程の半分でしたが、終了時間になりましたので、集合写真を撮影し、N嶌先生のお言葉を頂いて、本日の授業を終了しました。
ちなみに、灯籠の後ろに見えている門は、移築された膳所城伝二の丸北東の門です。

解散のあと、沙沙貴組のメンバーが多かったことから、いつものように反省会を開き、喉を潤しました。お疲れさまでした。
文責 岡島
2023年01月23日
2023年1月22日(日)肥田城~六角義賢vs高野瀬秀隆・浅井長政 攻防戦
滋賀県主催の「近江の城」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭~近江源氏佐々木氏の城」第1回肥田城~六角義賢vs高野瀬秀隆・浅井長政 攻防戦に参加しました。訪問コースは以下の通りで、本文中の丸数字の番号は下記地図と一致させています。
この講座は動画でも記録されています。
近江湖東の北端の平野部に位置する肥田城は、宇曽川対岸ですぐ近くにある高野瀬城を本拠とする六角氏家臣の高野瀬隆重により、大永年間(1521~1528)に築かれた平城で、永禄2(1559)年に日本で初めて水攻めを受けた城とされています。肥田城遺跡では地表面に現存する遺構はほとんどありませんが、田畑等の土地の地割り(土地の形)から、かつての姿を検討することができます。このような土地に残る痕跡から推定できる肥田城は、宇曽川のほとりに築かれた土塁・堀で囲まれた城館であった考えられます。
高野瀬隆重 高野瀬秀隆


永禄元(1558)年以来、湖北を領した浅井氏が、湖東を領した六角氏の領地へと侵攻を繰り返しました。六角義賢はこれを撃退し、浅井久政の嫡男に自分の名前の一文字を与えて賢政(かたまさ、後の長政)と名乗らせたり、家臣平井定武の娘を嫁がせたりして従属させました。
ところが、1559年に肥田城主の高野瀬秀隆が浅井氏の調略により六角氏を見限って賢政に寝返り、義賢に叛旗をひるがえしたことが戦いの発端となりました。六角定頼・義賢親子の攻撃を何度も受けましたが、浅井氏の援軍を得て防衛しました。浅井氏滅亡後は織田氏に仕えましたが、天正2(1574)年に越前一揆に敗れて自害しています。
肥田城の地点より観音寺城のある繖山を望む: 肥田城から遠くないところに六角氏の観音寺城のある繖山が見えます。
永禄2(1559)年4月3日、観音寺城を出た六角軍は肥田城の近くに布陣し肥田城を囲む形で幅12間(約23メートル)、長さ58町(約6.3キロメートル)の堤防を築き、宇曽川と愛知川(現在よりも北を流れていました)の水を引き込んで水攻めとしました。土塁内には水が流れ込み、水かさは日に日に増しました(下写真の農道の左側に水が溜まりました)が、5月28日の大洪水により土塁が決壊し、水攻めは失敗に終わってしまいました。
翌永禄3(1560)年に六角氏は再度高野瀬氏を攻めるため肥田城を包囲しますが、今度は浅井賢政が高野瀬氏救援のため出陣し、佐和山城主の百々盛実を先鋒として肥田城西方の野良田付近(下記写真の農道/土塁跡の右側)で両者は戦い、浅井賢政(当時はまだ「賢政」で、後に「長政」に改名)が勝利しました。
彦根藩士源義陳が寛政4(1792)年に編纂した『近江小間攫』には「本朝(日本)水攻ノ最初ハ此時ナリ」と記しています。実際には76年前に河内国(大阪府東部)若江城で畠山義就が行った水攻めが日本最初の水攻めですが、しっかりとした堤防を築いた水攻めとしては肥田城が最初で、羽柴秀吉による備中高松城水攻めより23年前の出来事でした。「肥田城水攻め」を発案者は記録に残っていませんが、六角義賢がその策を採用し実行させたのが現在の定説です。
高野瀬氏の後、蜂屋頼隆、長谷川秀一が城主となりましたが、長谷川秀一が朝鮮の役で病没すると文禄2(1593)年に肥田城は廃城となりました。
①水攻め土塁の痕跡: 南を向いて撮影。上記地図の茶色で示された土塁跡が、現在は農道であり、町界にもなっていることから、圃場整備が実施されたにもかかわらず、現在まで残されています。写真の農道の左側は肥田町、右側は野良田町
近江愛智郡志からの肥田の図: かつての地名「山王」「月山」に城郭の中枢が、その周囲にある「勘解由使邸」「丹波邸」「孫右衛門邸」「藤蔵屋敷」といった地名から家臣の屋敷が広がっていた様子がうかがえ、さらにこれらの周囲には「西町」「東町」などという地名があることから、町屋があったと考えられます。
②住吉神社: 肥田集落の西端にあります。住吉大神は海中より出現されたため、海の神としての信仰があり、古くから航海関係者や漁民の間で、霊験あらたかな航海安全の神として崇敬されてきました。集落内には、同様に航海の安全にご利益のある金刀比羅神社もありましたので、この後の説明で出る舟運が盛んな集落であったと考えられます。
③山王祠: 城郭の中枢があったところと考えられます。周囲の家臣の屋敷は田畑になっています。
➃宇曽川堤防上にある万葉歌碑からの肥田城跡と比定される「新田」の眺望: 肥田城は、現在、田畑となっており、その姿を見ることはできず、構造も明らかではありませんが、発掘調査で16世紀代の屋敷跡が発見されています。
⑤高橋付近の発掘調査された家屋の配置図: 地図に宇曽川に架かる「高橋」が描かれていますが、この辺りが琵琶湖より東山道に向かって川をさかのぼることのできる限界で、肥田側の橋の東袂に船着場がありました。船着場まで「ひらた舟」が行き来し、琵琶湖からの舟運で肥田の集落は栄えました。この地図のT1,T2,T4,T7の家屋は船着場近くですが、発掘調査から、上層(江戸時代)及び下層(戦国時代)から遺構が見つかっています。遺構下層からは、茶の湯で用いられる天目茶碗が出土しています。このことから、肥田集落には裕福な町人が板葺き(又は富裕層は草葺きか茅葺き)の家に住んでいたと考えられます。遺構から瓦は出土していません。
発掘調査された家屋の1つ T7: 上地図の道がカーブしている地点です。
以上の知見を総合すると、肥田城は現在は何も無いような地点にある平城であっても、当時は街道と琵琶湖を結ぶ舟運の重要拠点にあり、領地争いや本拠観音寺城への近さだけでなく、六角氏の流通経済にとり、非常に重要な意義を持ったことから、近隣の高野瀬氏に立地上守備のしにくい所にわざわざ築城させ、また、寝返りは水攻めをしてでも許せなかったものと考えられます。
⑥江戸時代の東端土塁(左)、 ②住吉神社付近の土塁(右)
肥田集落を囲う土塁は、これまでの話とは異なり、後の江戸時代に作られたもので、肥田集落を愛知川の氾濫から守るためのものです。

⑦崇徳寺(そうとくじ): 高野瀬氏の先祖は藤原秀郷と伝えられ、秀郷から14代後の藤原隆重が1180年近江の高野瀬(現在の豊郷町高野瀬)に入り、高野瀬城を築城しています。そして、豪族として根付き、それから10代後の高野瀬隆重が上述のように肥田城を肥田に築城し、近くに菩提寺として崇徳寺を開創したと伝えています。崇徳寺には、高野瀬隆重の肖像画が残っています。
文責 岡島 敏広
稲枝駅→①水攻め土塁の痕跡→江戸時代の土塁→②住吉神社→③山王祠
→➃万葉歌碑→⑤高橋(宇曽川に架かる橋)→⑥江戸時代の土塁
→西町・東町→⑦崇徳寺
実地に訪問しながら、仲川靖先生の解説をお聞きします。→➃万葉歌碑→⑤高橋(宇曽川に架かる橋)→⑥江戸時代の土塁
→西町・東町→⑦崇徳寺
この講座は動画でも記録されています。

近江湖東の北端の平野部に位置する肥田城は、宇曽川対岸ですぐ近くにある高野瀬城を本拠とする六角氏家臣の高野瀬隆重により、大永年間(1521~1528)に築かれた平城で、永禄2(1559)年に日本で初めて水攻めを受けた城とされています。肥田城遺跡では地表面に現存する遺構はほとんどありませんが、田畑等の土地の地割り(土地の形)から、かつての姿を検討することができます。このような土地に残る痕跡から推定できる肥田城は、宇曽川のほとりに築かれた土塁・堀で囲まれた城館であった考えられます。
高野瀬隆重 高野瀬秀隆


永禄元(1558)年以来、湖北を領した浅井氏が、湖東を領した六角氏の領地へと侵攻を繰り返しました。六角義賢はこれを撃退し、浅井久政の嫡男に自分の名前の一文字を与えて賢政(かたまさ、後の長政)と名乗らせたり、家臣平井定武の娘を嫁がせたりして従属させました。
ところが、1559年に肥田城主の高野瀬秀隆が浅井氏の調略により六角氏を見限って賢政に寝返り、義賢に叛旗をひるがえしたことが戦いの発端となりました。六角定頼・義賢親子の攻撃を何度も受けましたが、浅井氏の援軍を得て防衛しました。浅井氏滅亡後は織田氏に仕えましたが、天正2(1574)年に越前一揆に敗れて自害しています。
肥田城の地点より観音寺城のある繖山を望む: 肥田城から遠くないところに六角氏の観音寺城のある繖山が見えます。

永禄2(1559)年4月3日、観音寺城を出た六角軍は肥田城の近くに布陣し肥田城を囲む形で幅12間(約23メートル)、長さ58町(約6.3キロメートル)の堤防を築き、宇曽川と愛知川(現在よりも北を流れていました)の水を引き込んで水攻めとしました。土塁内には水が流れ込み、水かさは日に日に増しました(下写真の農道の左側に水が溜まりました)が、5月28日の大洪水により土塁が決壊し、水攻めは失敗に終わってしまいました。
翌永禄3(1560)年に六角氏は再度高野瀬氏を攻めるため肥田城を包囲しますが、今度は浅井賢政が高野瀬氏救援のため出陣し、佐和山城主の百々盛実を先鋒として肥田城西方の野良田付近(下記写真の農道/土塁跡の右側)で両者は戦い、浅井賢政(当時はまだ「賢政」で、後に「長政」に改名)が勝利しました。
彦根藩士源義陳が寛政4(1792)年に編纂した『近江小間攫』には「本朝(日本)水攻ノ最初ハ此時ナリ」と記しています。実際には76年前に河内国(大阪府東部)若江城で畠山義就が行った水攻めが日本最初の水攻めですが、しっかりとした堤防を築いた水攻めとしては肥田城が最初で、羽柴秀吉による備中高松城水攻めより23年前の出来事でした。「肥田城水攻め」を発案者は記録に残っていませんが、六角義賢がその策を採用し実行させたのが現在の定説です。
高野瀬氏の後、蜂屋頼隆、長谷川秀一が城主となりましたが、長谷川秀一が朝鮮の役で病没すると文禄2(1593)年に肥田城は廃城となりました。
①水攻め土塁の痕跡: 南を向いて撮影。上記地図の茶色で示された土塁跡が、現在は農道であり、町界にもなっていることから、圃場整備が実施されたにもかかわらず、現在まで残されています。写真の農道の左側は肥田町、右側は野良田町

近江愛智郡志からの肥田の図: かつての地名「山王」「月山」に城郭の中枢が、その周囲にある「勘解由使邸」「丹波邸」「孫右衛門邸」「藤蔵屋敷」といった地名から家臣の屋敷が広がっていた様子がうかがえ、さらにこれらの周囲には「西町」「東町」などという地名があることから、町屋があったと考えられます。

②住吉神社: 肥田集落の西端にあります。住吉大神は海中より出現されたため、海の神としての信仰があり、古くから航海関係者や漁民の間で、霊験あらたかな航海安全の神として崇敬されてきました。集落内には、同様に航海の安全にご利益のある金刀比羅神社もありましたので、この後の説明で出る舟運が盛んな集落であったと考えられます。

③山王祠: 城郭の中枢があったところと考えられます。周囲の家臣の屋敷は田畑になっています。

➃宇曽川堤防上にある万葉歌碑からの肥田城跡と比定される「新田」の眺望: 肥田城は、現在、田畑となっており、その姿を見ることはできず、構造も明らかではありませんが、発掘調査で16世紀代の屋敷跡が発見されています。

⑤高橋付近の発掘調査された家屋の配置図: 地図に宇曽川に架かる「高橋」が描かれていますが、この辺りが琵琶湖より東山道に向かって川をさかのぼることのできる限界で、肥田側の橋の東袂に船着場がありました。船着場まで「ひらた舟」が行き来し、琵琶湖からの舟運で肥田の集落は栄えました。この地図のT1,T2,T4,T7の家屋は船着場近くですが、発掘調査から、上層(江戸時代)及び下層(戦国時代)から遺構が見つかっています。遺構下層からは、茶の湯で用いられる天目茶碗が出土しています。このことから、肥田集落には裕福な町人が板葺き(又は富裕層は草葺きか茅葺き)の家に住んでいたと考えられます。遺構から瓦は出土していません。

発掘調査された家屋の1つ T7: 上地図の道がカーブしている地点です。

以上の知見を総合すると、肥田城は現在は何も無いような地点にある平城であっても、当時は街道と琵琶湖を結ぶ舟運の重要拠点にあり、領地争いや本拠観音寺城への近さだけでなく、六角氏の流通経済にとり、非常に重要な意義を持ったことから、近隣の高野瀬氏に立地上守備のしにくい所にわざわざ築城させ、また、寝返りは水攻めをしてでも許せなかったものと考えられます。
⑥江戸時代の東端土塁(左)、 ②住吉神社付近の土塁(右)
肥田集落を囲う土塁は、これまでの話とは異なり、後の江戸時代に作られたもので、肥田集落を愛知川の氾濫から守るためのものです。


⑦崇徳寺(そうとくじ): 高野瀬氏の先祖は藤原秀郷と伝えられ、秀郷から14代後の藤原隆重が1180年近江の高野瀬(現在の豊郷町高野瀬)に入り、高野瀬城を築城しています。そして、豪族として根付き、それから10代後の高野瀬隆重が上述のように肥田城を肥田に築城し、近くに菩提寺として崇徳寺を開創したと伝えています。崇徳寺には、高野瀬隆重の肖像画が残っています。

文責 岡島 敏広
2022年12月25日
2022年12月21日(火)永原御殿跡訪問
43期地域文化学科有志で、野洲市永原御殿跡を訪れました。参加メンバーの中には、専門講座での発表内容の取材を目的とした人もおります。
「永原御殿跡」は、朝鮮人街道沿いにあり、徳川家康が慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに勝利した後、佐和山より永原に至り上洛凱旋する際に通った縁起の良い道と認識され、以降この街道は将軍上洛の度に用いられ、沿道には永原(永原御殿)と神崎郡伊庭(現東近江市)に将軍休息所が設けられました。そもそも、家康と野洲市永原との係わりは天正19年(1591年)に豊臣秀吉から近江国内に領地(在京賄料)9万石が宛がわれ、その中に永原が含まれていました。永原御殿は、家康・秀忠・家光の三代の将軍の上洛時の専用宿館として築城された城郭で、御殿の碑が竹藪に隠れるようにありました。
下記御殿本丸の配置図の「東之御門矢倉」と記載された辺りの入口から、永原御殿本丸に入ります。
御殿の配置図を示します。本日は御殿本丸の入口から南辺の土塁に沿って西に進み、次に西辺の土塁を南から北へと本丸内を時計回りに巡ります。
南西角の土塁まで来ると「坤(ひつじさる)角櫓跡」の表示がありました。ここには櫓の建物が建てられていました。櫓とは矢の倉で、武器や武具の保管場所、或いは見張りの場所として使われました。本丸の床面から土塁の上まで、約3mの高さがあります。
坤角櫓は下の御殿模型の左手前の櫓です。次の御亭(おちん)は、西辺(左側)の土塁沿いに見える独立した1本松の手前に見える小さな建物で、乾角矢倉は模型の左奥の矢倉です。
西辺土塁沿いの真ん中当たりに「御亭(おちん)跡」の表示がありました。
御亭(おちん)の建物の礎石で、ここに将軍が客人をもてなす二階建て楼閣風の茶室「御亭」が存在していたことがわかっています。写真のように建物の範囲は周囲より高い基壇となり、柱を据えていた礎石の一部も残っています。
西辺の土塁上を歩きますと、

土塁の外(西)側には堀が残っていました。
北西角土塁まで来ると「乾(いぬい)角矢倉跡」の表示があり、ここは現在発掘中で、ブルーシートがかけられていました。
本丸の中央付近まで来ますと、明らかに建物の柱を置く礎石があり、それは大きくて矢穴跡が残っており、四角形に成形されています。この場所は本丸内の位置からすると、古御殿の礎石と考えられます。
南辺土塁基底部の石垣: 本丸の外に出て、本丸南側に回り込みますと、草が生えて見えにくいですが、南側の堀跡に面した土塁裾に当たる部分に石垣(腰巻石垣)が残っています。下の方の大きな石垣が当時のものです。本丸西辺にある土塁の外側にも、かつては石垣が存在していたそうです。
永原御殿は現在も発掘調査が継続しており、結果は京都大工頭 中井家建築指図「江州永原御茶屋御指図」(リンク先ファイルp.4に示されています)とほぼ合致することが確認されております。この調査結果に基づき、御殿東側の破壊部分の復元も含めて整備され、分かりやすい展示が実施されるとのことです。その日が来るのを期待し、訪問の解説は終わりとします。
参加の皆様、お疲れ様でした。 文責 岡島 敏広
「永原御殿跡」は、朝鮮人街道沿いにあり、徳川家康が慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに勝利した後、佐和山より永原に至り上洛凱旋する際に通った縁起の良い道と認識され、以降この街道は将軍上洛の度に用いられ、沿道には永原(永原御殿)と神崎郡伊庭(現東近江市)に将軍休息所が設けられました。そもそも、家康と野洲市永原との係わりは天正19年(1591年)に豊臣秀吉から近江国内に領地(在京賄料)9万石が宛がわれ、その中に永原が含まれていました。永原御殿は、家康・秀忠・家光の三代の将軍の上洛時の専用宿館として築城された城郭で、御殿の碑が竹藪に隠れるようにありました。

下記御殿本丸の配置図の「東之御門矢倉」と記載された辺りの入口から、永原御殿本丸に入ります。

御殿の配置図を示します。本日は御殿本丸の入口から南辺の土塁に沿って西に進み、次に西辺の土塁を南から北へと本丸内を時計回りに巡ります。

南西角の土塁まで来ると「坤(ひつじさる)角櫓跡」の表示がありました。ここには櫓の建物が建てられていました。櫓とは矢の倉で、武器や武具の保管場所、或いは見張りの場所として使われました。本丸の床面から土塁の上まで、約3mの高さがあります。

坤角櫓は下の御殿模型の左手前の櫓です。次の御亭(おちん)は、西辺(左側)の土塁沿いに見える独立した1本松の手前に見える小さな建物で、乾角矢倉は模型の左奥の矢倉です。

西辺土塁沿いの真ん中当たりに「御亭(おちん)跡」の表示がありました。

御亭(おちん)の建物の礎石で、ここに将軍が客人をもてなす二階建て楼閣風の茶室「御亭」が存在していたことがわかっています。写真のように建物の範囲は周囲より高い基壇となり、柱を据えていた礎石の一部も残っています。

西辺の土塁上を歩きますと、

土塁の外(西)側には堀が残っていました。

北西角土塁まで来ると「乾(いぬい)角矢倉跡」の表示があり、ここは現在発掘中で、ブルーシートがかけられていました。

本丸の中央付近まで来ますと、明らかに建物の柱を置く礎石があり、それは大きくて矢穴跡が残っており、四角形に成形されています。この場所は本丸内の位置からすると、古御殿の礎石と考えられます。

南辺土塁基底部の石垣: 本丸の外に出て、本丸南側に回り込みますと、草が生えて見えにくいですが、南側の堀跡に面した土塁裾に当たる部分に石垣(腰巻石垣)が残っています。下の方の大きな石垣が当時のものです。本丸西辺にある土塁の外側にも、かつては石垣が存在していたそうです。

永原御殿は現在も発掘調査が継続しており、結果は京都大工頭 中井家建築指図「江州永原御茶屋御指図」(リンク先ファイルp.4に示されています)とほぼ合致することが確認されております。この調査結果に基づき、御殿東側の破壊部分の復元も含めて整備され、分かりやすい展示が実施されるとのことです。その日が来るのを期待し、訪問の解説は終わりとします。
参加の皆様、お疲れ様でした。 文責 岡島 敏広
2022年12月24日
2022年12月21日(火)小堤城山城と岩倉城訪問
43期地域文化学科有志で、野洲市小堤城山城を訪れました。参加メンバーの中には、専門講座での発表内容の取材を目的とした人もおります。
城のある野洲郡東部は六角氏被官の馬淵氏の支配地で、馬淵氏の家臣であった永原氏が文亀年間(1501年~1504年)の頃から次第に勢力を拡大します。そして、文亀2年(1502)守護代伊庭氏の反乱を機に独立し、大永年間(1521~1528)頃から六角氏と直接主従関係を結びました。その後は、永原氏は家臣団の中でも中心的な位置にまで上り詰め、平素は現在の祇王小学校辺りにあった永原城に居住し野洲郡全体に影響力を持ちましたが、戦時の詰城として小堤城山城を築いたと考えられます。
しかし、六角勢は元亀元年(1570)に織田信長により攻められ、「野洲川の戦い」で柴田勝家、佐久間信盛の率いる織田勢に惨敗し、永原城は佐久間信盛に与えられ、永原氏嫡流は没落しました。しかし、永原氏一族の大半は、織田信長の近江侵攻から織田方につき、その後、信長家臣の佐久間信盛の与力となったとされます。
永原氏没落後の野洲郡は佐久間信盛が支配し、この際小堤城山城は織田勢に接収され、改修されたと推測されます。
他方、永原氏は、織田信長の近江侵攻で一旦流浪の身となりますが、後に赦されて永原城に復帰し、3千石を得たそうです。その後、山崎の戦に参戦し、討死にし滅亡したそうです。
小堤城山城へは、国道8号線沿いの平田機工より登山道に入り、城のある城山に登城開始です。ちなみに、城山の東のすぐ近く(500mほど)に馬淵氏の岩倉城があり、その城のある山は、古城山(ふるしろやま)と呼ばれています。こちらも訪問します。
登山口に掲示されていた小堤城山城の縄張図を示します。山麓から尾根に挟まれた主郭の曲輪13まで1本の城道が通り、両側に曲輪が配される構造です。また、尾根を土塁に見立て、谷筋にある曲輪群を防御しています。尾根を土塁に見立てる縄張も六角氏の観音寺城に似ており、永禄年間(1558~1570)に積まれたとみられる石垣の多さは、六角氏家臣の城の中でも群を抜いています。築城には六角氏の意図が反映しているとも考えられ、室町幕府による享徳元年(1487)の六角征伐以降の六角氏の支城体制、永原氏の家臣団の中での位置付けを考える上で興味深いものです。
ところで、現地では、各曲輪にこの縄張図に記載されている番号の立て札が掲示され、現在どの曲輪にいるのかがわかりやすくなっています。曲輪は①山頂の北西・南東方向にのびる曲輪群(曲輪18~28)、②中腹の尾根上に置かれた曲輪群(曲輪13~17)、③中腹から山麓に連なる曲輪群(曲輪RL-1~RL-12)の3つに大別されます。
③の中腹から山麓では、目立つ石垣等はありませんでしたが、②に切り替わる目前のL-12,R-12の曲輪間から主郭(曲輪13)を見ると石垣が見えています。
主郭(曲輪13)の麓(北)側石垣です。六角氏は近江の寺院勢力下の石工集団を再編して観音寺城の石垣を構築したとされており、甲賀郡の山間地を有事の退去先としていました。織田信長の近江侵攻時もこの方策をとっており、甲賀郡の土豪の支援を受けながら、平野部の奪回に向けて抵抗を続けていました。ここ小堤城山城と、石垣が同様に使用されている三雲城築城の背景には、六角氏がこうした戦いでの臨時拠点の構想も存在したものと思われ、おそらく、この小堤城山城の石垣も六角氏から何らかの協力を受けていたものと思われます。
登ってきた城道は曲輪直下で折れ曲がり、虎口まで直進させない設計になっていますので、主郭(曲輪13)を右(西)側から回り登ります。主郭とみられる曲輪13の西側面の切岸沿いは、大きな立派な石材が用いられ、見せる要素も感じられます。主郭より上方の曲輪には、石垣が多用され、使用されている石材は城域周辺で豊富に産出される花崗岩で、基本的には自然石による野面積の石垣です。
主郭(曲輪13)の上に到達しました。主郭は山頂ではなく、中腹尾根上の城内最大の曲輪と考えられています。縄張りの特徴として、六角氏の本拠である観音寺城と同様に、近江の天台宗寺院境内構造に酷似しており、寺院では直線道両側の曲輪が僧坊跡で、行き止まりが寺院の本堂・金堂跡に当たります。
主郭(曲輪13)より上は、②の中腹の尾根上に置かれた曲輪群の区域となります。
②の区域に入るため、曲輪14(左)と16(右)の間の堀切へと登りました。小堤城山城は城の随所が石垣で固められているのが大きな特徴で、堀切に面して、櫓台と思われる石垣による突出部(写真左側の曲輪14と堀切の向こうの曲輪15)があります。曲輪14(左)には上がることができ、そこからの眺望は良かったのですが、樹木が邪魔をして見えにくい状態でした。
もう一つ眺望の良い曲輪15に向かいます。曲輪15は4つの側面とも石垣で固められており、写真は曲輪15の北東面の石垣です。
写真は堀切になっている南西面の石垣です。
曲輪15上に立ち、眺望を楽しみました。
曲輪15から眼下に見える白い建物は村田製作所で、国道8号線に面していますので、中山道(城のあった当時は東山道)の様子が見ることができます。左の向こうに見える山は八幡山です。
石垣が積まれているのは、北側ばかりではなく、①の区域(山頂)の曲輪24と曲輪25の間の南斜面(希望ケ丘公園)側にもあります。
頂上の曲輪24まで来ました。山頂の曲輪24の東側には、高さ1.2mを測る石垣が構築されています。
小堤城山城の立地は野洲郡・蒲生郡・甲賀郡を隔てる鏡山山系の北端付近、標高286m地点に築かれ湖南の平野部を眼下に置いています。山麓の北側500mには中山道(当時は東山道)と東海道への間道が走り、湖東・湖南そして甲賀地方ともつながっていた要衝の地です。さすがに、山頂からの眺望は抜群で、北側(少し右より)には八幡山、その左(写真のほぼ中央)に小さく水茎岡山城が築かれた岡山が見えます。
南側は、また、三上山越しに、栗東及び草津方面が見えて、街道の広範囲の様子を見張ることができます。
小堤城山城(城山)をJR篠原駅近く(城の北側)から見ました(写真中央の頂上が削平された山)。右に三上山が見えますが、かなり離れた所からでも城山が見えますので、逆に城からは遠くまで見渡せ、街道の監視にはうってつけの立地であることがわかります。また、この後に訪問する岩倉城は、小堤城山城の山(城山)の左の肩となっている所(古城山)で、こちらも同様に街道の監視に適した場所であることがわかります。
小堤城山城(城山)を南から見た写真です。城山からかなりの範囲が監視できていることがわかります。
岩倉城は、小堤城山城から尾根続きで近くにありますので、こちらも訪問しました。小字岩倉にあり、西方は小堤、辻町に接し、東は立石山に接しています。
小堤山城が後に西方500mの尾根伝いに築かれてからは、同城の出城となったようで、北東と北西に開口する虎口付近には戦国末期に後補された石積が残っているとのことですが、今回は確認していません。小堤城山城からの尾根を通り、古城山標高259mの標識を見て、尾根を下り、南側の虎口から城に入ります。
岩倉城の築城年代ははっきりしませんが、滋賀県中世城郭分布調査3では、正安2年(1300)築城の岩蔵城、もしくは応永8年(1401)築城の弥勒寺城のいずれかに該当するものと考えています。両城とも六角氏が築き家臣の馬淵氏が守備したと伝えられますが、馬淵氏はその後嫡流六角氏に仕え、馬淵氏の城であることから古城の名があります。写真は南側土塁です。
頂上近くに池があり、この桜本池は、明治時代の記録では、「桜本の池」と称し、干ばつの時も水が枯れたことがないと言い伝えられています。
桜本坊跡、岩倉城跡の表示が木に掛けられ、人が歩いているのは北側土塁です。
桜本坊は応永年間(1394~1428)に岩蔵寺(がんぞうじ)が再興されたときに造られた六坊の一つで、古城山山頂に位置します。桜本坊は他の坊が荒廃し消滅する中で最後まで続き、明治新政府の神佛分離令により神道化し、桜本社と称することになりました。明治27年には瓦葺の小さな社殿が建立され、例祭行事(古城祭)の他、大干ばつ時には雨乞い祭りも行われました。しかし、第二次大戦の頃、その例祭行事が断絶してしまい、その後は古城山山頂周辺に石積、社殿の瓦、それに石灯籠を残すのみになりました。写真はその名残と思われます。
一部の写真は、一緒に参加されたKOさんのものを使用させていただきました。参加の皆様、お疲れ様でした。 文責 岡島 敏広
城のある野洲郡東部は六角氏被官の馬淵氏の支配地で、馬淵氏の家臣であった永原氏が文亀年間(1501年~1504年)の頃から次第に勢力を拡大します。そして、文亀2年(1502)守護代伊庭氏の反乱を機に独立し、大永年間(1521~1528)頃から六角氏と直接主従関係を結びました。その後は、永原氏は家臣団の中でも中心的な位置にまで上り詰め、平素は現在の祇王小学校辺りにあった永原城に居住し野洲郡全体に影響力を持ちましたが、戦時の詰城として小堤城山城を築いたと考えられます。
しかし、六角勢は元亀元年(1570)に織田信長により攻められ、「野洲川の戦い」で柴田勝家、佐久間信盛の率いる織田勢に惨敗し、永原城は佐久間信盛に与えられ、永原氏嫡流は没落しました。しかし、永原氏一族の大半は、織田信長の近江侵攻から織田方につき、その後、信長家臣の佐久間信盛の与力となったとされます。
永原氏没落後の野洲郡は佐久間信盛が支配し、この際小堤城山城は織田勢に接収され、改修されたと推測されます。
他方、永原氏は、織田信長の近江侵攻で一旦流浪の身となりますが、後に赦されて永原城に復帰し、3千石を得たそうです。その後、山崎の戦に参戦し、討死にし滅亡したそうです。
小堤城山城へは、国道8号線沿いの平田機工より登山道に入り、城のある城山に登城開始です。ちなみに、城山の東のすぐ近く(500mほど)に馬淵氏の岩倉城があり、その城のある山は、古城山(ふるしろやま)と呼ばれています。こちらも訪問します。

登山口に掲示されていた小堤城山城の縄張図を示します。山麓から尾根に挟まれた主郭の曲輪13まで1本の城道が通り、両側に曲輪が配される構造です。また、尾根を土塁に見立て、谷筋にある曲輪群を防御しています。尾根を土塁に見立てる縄張も六角氏の観音寺城に似ており、永禄年間(1558~1570)に積まれたとみられる石垣の多さは、六角氏家臣の城の中でも群を抜いています。築城には六角氏の意図が反映しているとも考えられ、室町幕府による享徳元年(1487)の六角征伐以降の六角氏の支城体制、永原氏の家臣団の中での位置付けを考える上で興味深いものです。
ところで、現地では、各曲輪にこの縄張図に記載されている番号の立て札が掲示され、現在どの曲輪にいるのかがわかりやすくなっています。曲輪は①山頂の北西・南東方向にのびる曲輪群(曲輪18~28)、②中腹の尾根上に置かれた曲輪群(曲輪13~17)、③中腹から山麓に連なる曲輪群(曲輪RL-1~RL-12)の3つに大別されます。

③の中腹から山麓では、目立つ石垣等はありませんでしたが、②に切り替わる目前のL-12,R-12の曲輪間から主郭(曲輪13)を見ると石垣が見えています。

主郭(曲輪13)の麓(北)側石垣です。六角氏は近江の寺院勢力下の石工集団を再編して観音寺城の石垣を構築したとされており、甲賀郡の山間地を有事の退去先としていました。織田信長の近江侵攻時もこの方策をとっており、甲賀郡の土豪の支援を受けながら、平野部の奪回に向けて抵抗を続けていました。ここ小堤城山城と、石垣が同様に使用されている三雲城築城の背景には、六角氏がこうした戦いでの臨時拠点の構想も存在したものと思われ、おそらく、この小堤城山城の石垣も六角氏から何らかの協力を受けていたものと思われます。

登ってきた城道は曲輪直下で折れ曲がり、虎口まで直進させない設計になっていますので、主郭(曲輪13)を右(西)側から回り登ります。主郭とみられる曲輪13の西側面の切岸沿いは、大きな立派な石材が用いられ、見せる要素も感じられます。主郭より上方の曲輪には、石垣が多用され、使用されている石材は城域周辺で豊富に産出される花崗岩で、基本的には自然石による野面積の石垣です。

主郭(曲輪13)の上に到達しました。主郭は山頂ではなく、中腹尾根上の城内最大の曲輪と考えられています。縄張りの特徴として、六角氏の本拠である観音寺城と同様に、近江の天台宗寺院境内構造に酷似しており、寺院では直線道両側の曲輪が僧坊跡で、行き止まりが寺院の本堂・金堂跡に当たります。
主郭(曲輪13)より上は、②の中腹の尾根上に置かれた曲輪群の区域となります。

②の区域に入るため、曲輪14(左)と16(右)の間の堀切へと登りました。小堤城山城は城の随所が石垣で固められているのが大きな特徴で、堀切に面して、櫓台と思われる石垣による突出部(写真左側の曲輪14と堀切の向こうの曲輪15)があります。曲輪14(左)には上がることができ、そこからの眺望は良かったのですが、樹木が邪魔をして見えにくい状態でした。

もう一つ眺望の良い曲輪15に向かいます。曲輪15は4つの側面とも石垣で固められており、写真は曲輪15の北東面の石垣です。

写真は堀切になっている南西面の石垣です。

曲輪15上に立ち、眺望を楽しみました。

曲輪15から眼下に見える白い建物は村田製作所で、国道8号線に面していますので、中山道(城のあった当時は東山道)の様子が見ることができます。左の向こうに見える山は八幡山です。

石垣が積まれているのは、北側ばかりではなく、①の区域(山頂)の曲輪24と曲輪25の間の南斜面(希望ケ丘公園)側にもあります。

頂上の曲輪24まで来ました。山頂の曲輪24の東側には、高さ1.2mを測る石垣が構築されています。

小堤城山城の立地は野洲郡・蒲生郡・甲賀郡を隔てる鏡山山系の北端付近、標高286m地点に築かれ湖南の平野部を眼下に置いています。山麓の北側500mには中山道(当時は東山道)と東海道への間道が走り、湖東・湖南そして甲賀地方ともつながっていた要衝の地です。さすがに、山頂からの眺望は抜群で、北側(少し右より)には八幡山、その左(写真のほぼ中央)に小さく水茎岡山城が築かれた岡山が見えます。

南側は、また、三上山越しに、栗東及び草津方面が見えて、街道の広範囲の様子を見張ることができます。

小堤城山城(城山)をJR篠原駅近く(城の北側)から見ました(写真中央の頂上が削平された山)。右に三上山が見えますが、かなり離れた所からでも城山が見えますので、逆に城からは遠くまで見渡せ、街道の監視にはうってつけの立地であることがわかります。また、この後に訪問する岩倉城は、小堤城山城の山(城山)の左の肩となっている所(古城山)で、こちらも同様に街道の監視に適した場所であることがわかります。

小堤城山城(城山)を南から見た写真です。城山からかなりの範囲が監視できていることがわかります。

岩倉城は、小堤城山城から尾根続きで近くにありますので、こちらも訪問しました。小字岩倉にあり、西方は小堤、辻町に接し、東は立石山に接しています。
小堤山城が後に西方500mの尾根伝いに築かれてからは、同城の出城となったようで、北東と北西に開口する虎口付近には戦国末期に後補された石積が残っているとのことですが、今回は確認していません。小堤城山城からの尾根を通り、古城山標高259mの標識を見て、尾根を下り、南側の虎口から城に入ります。
岩倉城の築城年代ははっきりしませんが、滋賀県中世城郭分布調査3では、正安2年(1300)築城の岩蔵城、もしくは応永8年(1401)築城の弥勒寺城のいずれかに該当するものと考えています。両城とも六角氏が築き家臣の馬淵氏が守備したと伝えられますが、馬淵氏はその後嫡流六角氏に仕え、馬淵氏の城であることから古城の名があります。写真は南側土塁です。

頂上近くに池があり、この桜本池は、明治時代の記録では、「桜本の池」と称し、干ばつの時も水が枯れたことがないと言い伝えられています。

桜本坊跡、岩倉城跡の表示が木に掛けられ、人が歩いているのは北側土塁です。

桜本坊は応永年間(1394~1428)に岩蔵寺(がんぞうじ)が再興されたときに造られた六坊の一つで、古城山山頂に位置します。桜本坊は他の坊が荒廃し消滅する中で最後まで続き、明治新政府の神佛分離令により神道化し、桜本社と称することになりました。明治27年には瓦葺の小さな社殿が建立され、例祭行事(古城祭)の他、大干ばつ時には雨乞い祭りも行われました。しかし、第二次大戦の頃、その例祭行事が断絶してしまい、その後は古城山山頂周辺に石積、社殿の瓦、それに石灯籠を残すのみになりました。写真はその名残と思われます。

一部の写真は、一緒に参加されたKOさんのものを使用させていただきました。参加の皆様、お疲れ様でした。 文責 岡島 敏広