2023年04月26日
2023年4月22日(土)第104回例会「水口岡山城跡・水口城跡と城下町」(城郭編)
城郭探訪会第104回例会が、甲賀市水口町の水口岡山城・水口城跡と水口城下町を探訪地として、草津校びわこ環境学科と陶芸学科の合同担当により開催されました。今回は53名(43期21名、44期32名)の会員が参加しました。
参加受付風景です。普段の近江鉄道水口城南駅前とは異なり、多人数で占領してしまったようです。

本日は3班に別れて城と城下町を巡りますので、3名のガイドさん(ブルージャケットの方々)にお世話になります。
以下、今回は訪問先が盛りだくさんでしたので、城郭の探訪につき説明します。例会で訪れた水口城下町の方は別途説明します。
水口岡山城
水口岡山城は水口の市街地北側に位置する古城山(こじょうさん)(標高282m)という独立丘陵上に築かれた平山城です。現在は、城山とよばれ市民に親しまれています。
天正13年(1585年)、羽柴秀吉の命により、鈴鹿峠から蒲生一帯と眼下の街道を一望できる甲賀郡支配の軍事・交通の要衝地に、中村一氏が城を築き、岸和田より入城しました。中村一氏は甲賀市甲賀町滝出身といわれています。眼下には東海道が東西に通っており、鈴鹿越えの道を押さえることを意識した当時の戦略がうかがえます。また、織豊政権下の築城としては、琵琶湖沿岸部以外の内陸部で初めて築城された城であり、羽柴政権下での地域の重要性もうかがえます。築城時に、平安時代の昔から、都から伊勢国へと通じる街道の要所である水口宿の原型もつくりました。
城郭については、丘陵頂上部に並べて設けられた曲輪は石垣で普請され、本丸には天守、随所に櫓台を設け、曲輪を堀切で区切り、斜面に竪堀を設けた姿は、羽柴政権の築城の姿をよく表しています。曲輪内からは瓦も発見されており、瓦葺きの建物群が建ち並ぶ姿は、目を見張るものだったと思われます。
最後に、秀吉は甲賀武士を改易させ、甲賀郡の支配体制を強化していきます。水口岡山城は、豊臣政権における甲賀支配の中核となる城と言えます。
なお、中村一氏の後、天正18年(1590年)に増田長盛(ました ながもり)が、文禄4年(1595年)には長束正家と、五奉行を務めた2人が相次いで入城しています。
水口岡山城縄張: 縄張図はクリックにより拡大します。図上に写真撮影した場所を丸数字で示しました。
①駐車場横登り口: 登城開始です。
②伝本丸と阿迦之宮: 慶長五年(1600)関ヶ原の合戦で西軍に属し敗戦した長束正家は戦後に自刃し、水口岡山城は水口を直轄支配した徳川家康により廃城とされました。
江戸時代、「古城山」と呼ばれ、城のあった山全体は水口藩の御用林となり、山頂の八王子社(現阿迦之宮)祭祀時以外は諸人の立ち入りが禁じられました。享保年間には、大岡寺の寂堂法印が、地頭に移転させられていた諸堂を山麓に復興し、山頂に奥の院として小祠を祀りました。これが阿迦之宮の起こりで、現祠は昭和41年に再建されたものです。
その後、阿迦之宮は古城山の守り神、水口町全町民の守り神として、加えて、悲運の最後の城主長束正家(三代城主)の霊を祀るようになりました。
ちなみに、水口岡山城築城当時は、山上の天守に加えて、現在の大岡寺の辺りに山麓に設けられる城主の通常の居館(御殿)がありました。
集合写真も撮影しました。
③伝天守(東櫓台)跡: 三代城主の長束正家の頃、廃城となった大溝城(高島市)から利用可能な部材を水口に運んだことが「西川家文書」に記されており、さらに、この地点から大溝城のものと同じ型で作った軒丸瓦が出土しています。したがって、この東櫓は正家が城主となった段階で整備されたことがわかります。
④空堀跡:
⑤伝二の丸: 空堀④を挟んだ本丸②の東側に、二の丸と伝えられている曲輪があります。曲輪は長方形をしており、礎石も一部認められることから、御殿のような建物が建っていたと考えられます。曲輪への入り口は南側の帯曲輪(帯のように細い曲輪)から階段を上り、門をくぐる平入りで入ります。門位置の両脇に櫓台が付けられていることから櫓門の可能性もあります。また、裏には枡形虎口が造られています。
⑥堀切跡: 正面から見ると堀切で3つの曲輪が区切られているように見えますが、実は曲輪どうしは、後ろ側で「土橋」で繋がっていて、曲輪の裏口どうしで行き来が出来るようになっています。
⑦伝三の丸: 堀切⑥を挟んだ伝二の丸⑤の東側の曲輪が、三の丸と伝えられている曲輪です。三の丸は、正面の南西隅と中央、背後の中央の3箇所に虎口が設けられています。背後の虎口は枡形虎口です。曲輪はほぼ本丸と同じくらいの規模です。
⑧三の丸より東の綿向山方面を臨む: 曲輪の東端に立つと、鈴鹿山系が一望でき、敵の動きを監視するにはもってこいの場所だということがわかります。
集合写真も撮影しました。
⑨食い違い虎口: 左手前の土塁と右奥の土塁(人の集団の右、破城されているたため、元は石垣?)が食い違い状になっています。帯曲輪の門内左脇に、通路を遮蔽するように、食い違い虎口が作られています。門をくぐった敵兵はこのうちに潜む城兵から、不意打ちを食らうことになります。また、袖石垣を交互に食い違わせることにより、敵の侵入を阻む目的があります。
⑨石垣: 食い違い虎口(上写真の人の集団)の向こう側(本丸側)には石垣が残されています。
➉西櫓台: こちらの地点の発掘調査では寺院から持ち込まれた瓦や五輪塔(ごりんとう)などの石材が多数出土しています。その中には矢川寺遺跡(やがわじいせき)(甲南町)で出土した瓦と同じものがあり、初代城主中村一氏が矢川寺の建物を水口岡山城に転用したとする『矢川雑記(やがわざっき)』の記述と一致します。築城当初の段階では周辺から利用できる資材をかき集め、早急に城を完成させる必要があったのでしょう。
また、ここからは、写真のように水口の城下町、旧東海道に沿った町並みが見えます。
本日は、水口岡山城のバルーンが膨らまされ、設置される予定でしたが、強風のために中止となり、折りたたまれたバルーンは写真の木製台上に置かれていました。

➉翌日のバルーン築城: 翌日の4/23には水口岡山城天守バルーンが上写真の台上に設置されました。(翌日の4/23撮影)
本日、このあと訪問した水口城から、水口岡山城のある古城山が見え、その位置から見えたであろう水口岡山城のイメージ画が展示されていましたので紹介します。独立した山上に天守と櫓が見え、壮大であったものと思われます。

⑪大石垣: 廃城後に破城をうけているため、現在は注意深く曲輪の周辺を観察しないと見落としますが、城は織豊系城郭らしく石垣づくりで普請(土木工事のこと)されています。唯一、高石垣を見ることが出来るのは、本丸を支えるために造られた本丸の背後の切岸(人工的に作られた曲輪の斜面)です。この石垣が城内で残された最大のものです。
⑫西の丸: バルーンの台を背景にしての集合写真
⑫西の丸に建てられた「天翔の櫓」より草津方面を撮影したパノラマ写真があります。写真が大きいことから、本ブログの最後に掲載します。眺望をお楽しみください。
水口城
水口城については、地域文化学科選択講座の郊外学習「甲賀の城の見方、調べ方」として、中井均先生の講義を受けております。その模様はこちらをご覧ください。
水口城は3代将軍徳川家光の上洛時の将軍宿泊用として寛永11年(1634年)に築かれたお茶屋と呼ばれる宿館で、幕府直営で小堀遠州政一と中井大和守が作事にあたり、本丸と二の丸の二郭(+出丸)で構成されていました。本丸には京都の二条城を小型にしたような御殿、本丸の四隅には一重櫓が建てられていました。しかし、家光以降将軍の上洛はなく、御殿は解体されています。
本丸(奥)と出丸(手前)のジオラマ、二の丸は本丸の右(北)側にありました。
蓮華寺: 寺内にその御殿玄関が移築されています。
出丸: 現在は最も目立つ建物ですが、桝形となった出丸を利用して、そこに本来は存在しなかった二重櫓を建てて水口城資料館としています。
本丸: 水口高校のグラウンドになっています。水口城廃城後は本丸の石垣は売却されて石が取り去られていますが、上写真の出丸と西側にある写真の乾櫓の石垣は残されています。ただし、写真の乾櫓石垣底部の布積み部分は元来の石垣ですが、その上部の落とし積となっている所は、取り去られた部分を明治になってから修復したものです。
最後に、今回は、草津校びわこ環境学科と陶芸学科が協力して開催しました。好天でしたが、予定されていたお城バルーンのイベントが中止となるほど、風が強い日でした。しかし、多くの見学地点を巡りながらも無事に例会を終了でき、参加者は快い疲れを感じながら帰宅できました。例会実施にご協力いただきました城郭探訪会の皆様に感謝いたします。
次回例会は、2023年5月11日(木)に、佐和山城跡の探訪が予定されています。 文責 岡島 敏広
最後に、⑫西の丸の「天翔の櫓」より草津方面を撮影したパノラマ写真を掲載します。スクロールバーを動かしてご覧ください。
参加受付風景です。普段の近江鉄道水口城南駅前とは異なり、多人数で占領してしまったようです。

本日は3班に別れて城と城下町を巡りますので、3名のガイドさん(ブルージャケットの方々)にお世話になります。

以下、今回は訪問先が盛りだくさんでしたので、城郭の探訪につき説明します。例会で訪れた水口城下町の方は別途説明します。
水口岡山城
水口岡山城は水口の市街地北側に位置する古城山(こじょうさん)(標高282m)という独立丘陵上に築かれた平山城です。現在は、城山とよばれ市民に親しまれています。

天正13年(1585年)、羽柴秀吉の命により、鈴鹿峠から蒲生一帯と眼下の街道を一望できる甲賀郡支配の軍事・交通の要衝地に、中村一氏が城を築き、岸和田より入城しました。中村一氏は甲賀市甲賀町滝出身といわれています。眼下には東海道が東西に通っており、鈴鹿越えの道を押さえることを意識した当時の戦略がうかがえます。また、織豊政権下の築城としては、琵琶湖沿岸部以外の内陸部で初めて築城された城であり、羽柴政権下での地域の重要性もうかがえます。築城時に、平安時代の昔から、都から伊勢国へと通じる街道の要所である水口宿の原型もつくりました。
城郭については、丘陵頂上部に並べて設けられた曲輪は石垣で普請され、本丸には天守、随所に櫓台を設け、曲輪を堀切で区切り、斜面に竪堀を設けた姿は、羽柴政権の築城の姿をよく表しています。曲輪内からは瓦も発見されており、瓦葺きの建物群が建ち並ぶ姿は、目を見張るものだったと思われます。
最後に、秀吉は甲賀武士を改易させ、甲賀郡の支配体制を強化していきます。水口岡山城は、豊臣政権における甲賀支配の中核となる城と言えます。
なお、中村一氏の後、天正18年(1590年)に増田長盛(ました ながもり)が、文禄4年(1595年)には長束正家と、五奉行を務めた2人が相次いで入城しています。

水口岡山城縄張: 縄張図はクリックにより拡大します。図上に写真撮影した場所を丸数字で示しました。

①駐車場横登り口: 登城開始です。

②伝本丸と阿迦之宮: 慶長五年(1600)関ヶ原の合戦で西軍に属し敗戦した長束正家は戦後に自刃し、水口岡山城は水口を直轄支配した徳川家康により廃城とされました。
江戸時代、「古城山」と呼ばれ、城のあった山全体は水口藩の御用林となり、山頂の八王子社(現阿迦之宮)祭祀時以外は諸人の立ち入りが禁じられました。享保年間には、大岡寺の寂堂法印が、地頭に移転させられていた諸堂を山麓に復興し、山頂に奥の院として小祠を祀りました。これが阿迦之宮の起こりで、現祠は昭和41年に再建されたものです。
その後、阿迦之宮は古城山の守り神、水口町全町民の守り神として、加えて、悲運の最後の城主長束正家(三代城主)の霊を祀るようになりました。
ちなみに、水口岡山城築城当時は、山上の天守に加えて、現在の大岡寺の辺りに山麓に設けられる城主の通常の居館(御殿)がありました。

集合写真も撮影しました。

③伝天守(東櫓台)跡: 三代城主の長束正家の頃、廃城となった大溝城(高島市)から利用可能な部材を水口に運んだことが「西川家文書」に記されており、さらに、この地点から大溝城のものと同じ型で作った軒丸瓦が出土しています。したがって、この東櫓は正家が城主となった段階で整備されたことがわかります。

④空堀跡:

⑤伝二の丸: 空堀④を挟んだ本丸②の東側に、二の丸と伝えられている曲輪があります。曲輪は長方形をしており、礎石も一部認められることから、御殿のような建物が建っていたと考えられます。曲輪への入り口は南側の帯曲輪(帯のように細い曲輪)から階段を上り、門をくぐる平入りで入ります。門位置の両脇に櫓台が付けられていることから櫓門の可能性もあります。また、裏には枡形虎口が造られています。

⑥堀切跡: 正面から見ると堀切で3つの曲輪が区切られているように見えますが、実は曲輪どうしは、後ろ側で「土橋」で繋がっていて、曲輪の裏口どうしで行き来が出来るようになっています。

⑦伝三の丸: 堀切⑥を挟んだ伝二の丸⑤の東側の曲輪が、三の丸と伝えられている曲輪です。三の丸は、正面の南西隅と中央、背後の中央の3箇所に虎口が設けられています。背後の虎口は枡形虎口です。曲輪はほぼ本丸と同じくらいの規模です。

⑧三の丸より東の綿向山方面を臨む: 曲輪の東端に立つと、鈴鹿山系が一望でき、敵の動きを監視するにはもってこいの場所だということがわかります。

集合写真も撮影しました。

⑨食い違い虎口: 左手前の土塁と右奥の土塁(人の集団の右、破城されているたため、元は石垣?)が食い違い状になっています。帯曲輪の門内左脇に、通路を遮蔽するように、食い違い虎口が作られています。門をくぐった敵兵はこのうちに潜む城兵から、不意打ちを食らうことになります。また、袖石垣を交互に食い違わせることにより、敵の侵入を阻む目的があります。

⑨石垣: 食い違い虎口(上写真の人の集団)の向こう側(本丸側)には石垣が残されています。

➉西櫓台: こちらの地点の発掘調査では寺院から持ち込まれた瓦や五輪塔(ごりんとう)などの石材が多数出土しています。その中には矢川寺遺跡(やがわじいせき)(甲南町)で出土した瓦と同じものがあり、初代城主中村一氏が矢川寺の建物を水口岡山城に転用したとする『矢川雑記(やがわざっき)』の記述と一致します。築城当初の段階では周辺から利用できる資材をかき集め、早急に城を完成させる必要があったのでしょう。
また、ここからは、写真のように水口の城下町、旧東海道に沿った町並みが見えます。
本日は、水口岡山城のバルーンが膨らまされ、設置される予定でしたが、強風のために中止となり、折りたたまれたバルーンは写真の木製台上に置かれていました。


➉翌日のバルーン築城: 翌日の4/23には水口岡山城天守バルーンが上写真の台上に設置されました。(翌日の4/23撮影)

本日、このあと訪問した水口城から、水口岡山城のある古城山が見え、その位置から見えたであろう水口岡山城のイメージ画が展示されていましたので紹介します。独立した山上に天守と櫓が見え、壮大であったものと思われます。


⑪大石垣: 廃城後に破城をうけているため、現在は注意深く曲輪の周辺を観察しないと見落としますが、城は織豊系城郭らしく石垣づくりで普請(土木工事のこと)されています。唯一、高石垣を見ることが出来るのは、本丸を支えるために造られた本丸の背後の切岸(人工的に作られた曲輪の斜面)です。この石垣が城内で残された最大のものです。

⑫西の丸: バルーンの台を背景にしての集合写真

⑫西の丸に建てられた「天翔の櫓」より草津方面を撮影したパノラマ写真があります。写真が大きいことから、本ブログの最後に掲載します。眺望をお楽しみください。
水口城
水口城については、地域文化学科選択講座の郊外学習「甲賀の城の見方、調べ方」として、中井均先生の講義を受けております。その模様はこちらをご覧ください。
水口城は3代将軍徳川家光の上洛時の将軍宿泊用として寛永11年(1634年)に築かれたお茶屋と呼ばれる宿館で、幕府直営で小堀遠州政一と中井大和守が作事にあたり、本丸と二の丸の二郭(+出丸)で構成されていました。本丸には京都の二条城を小型にしたような御殿、本丸の四隅には一重櫓が建てられていました。しかし、家光以降将軍の上洛はなく、御殿は解体されています。
本丸(奥)と出丸(手前)のジオラマ、二の丸は本丸の右(北)側にありました。

蓮華寺: 寺内にその御殿玄関が移築されています。

出丸: 現在は最も目立つ建物ですが、桝形となった出丸を利用して、そこに本来は存在しなかった二重櫓を建てて水口城資料館としています。

本丸: 水口高校のグラウンドになっています。水口城廃城後は本丸の石垣は売却されて石が取り去られていますが、上写真の出丸と西側にある写真の乾櫓の石垣は残されています。ただし、写真の乾櫓石垣底部の布積み部分は元来の石垣ですが、その上部の落とし積となっている所は、取り去られた部分を明治になってから修復したものです。

最後に、今回は、草津校びわこ環境学科と陶芸学科が協力して開催しました。好天でしたが、予定されていたお城バルーンのイベントが中止となるほど、風が強い日でした。しかし、多くの見学地点を巡りながらも無事に例会を終了でき、参加者は快い疲れを感じながら帰宅できました。例会実施にご協力いただきました城郭探訪会の皆様に感謝いたします。
次回例会は、2023年5月11日(木)に、佐和山城跡の探訪が予定されています。 文責 岡島 敏広
最後に、⑫西の丸の「天翔の櫓」より草津方面を撮影したパノラマ写真を掲載します。スクロールバーを動かしてご覧ください。

2025年2月27日(木)城郭OB第87回例会「北之庄城(岩崎山城)跡」
2024年12月5日(木)城郭OB第85回例会「佐和山城と大洞弁財天を巡る」
2024年11月14日(木)城郭OB第84回例会「近江日爪城址」
2024年10月18日(金)城郭OB第83回例会「金ヶ崎城址・金ヶ崎の退き口」(福井県)
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」
2024年12月5日(木)城郭OB第85回例会「佐和山城と大洞弁財天を巡る」
2024年11月14日(木)城郭OB第84回例会「近江日爪城址」
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joukaku
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