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2023年01月19日

2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

天気予報は曇りでしたが、結論としてはその予報が外れて、ほぼ1日雨の中を城郭探訪会例会の下見として、高島市の田中城を訪問しました。
高島七頭(高島氏を中心として、平井(能登氏)、朽木、永田、横山、田中、山崎氏)のうちの田中郷の領主・田中氏の居城であった田中城は、泰山寺野台地から舌状にのびる支丘の先端部に築かれた中世末期の山城で、現在も上寺(うえでら)集落西側の山間部にその遺構を残しています。『近江輿地志略』には「この城 上の城と号し、南市村城を下の城と称す」と記されることから、地元の伝承として古くから「上の城」や、地名から「上寺城(うえでらじょう)」とも呼ばれています。
田中城主郭があったと推定される郭の標高は220m、平地の標高が160mで、両者の比高差はわずか60mです。同時期の山城と比べて標高の低い場所に位置しますが、城域の要所に堀切、土塁、武者隠しなど外敵を防ぐための遺構が見られ、相当の規模を誇る城郭であったことがうかがえます。
本日は「ボランティアガイド トラベル高島」の同姓Kさん2名(YK, SK)のガイドさんにご案内いただき、下見しました。上寺バス停の所にある田中城跡案内板前でガイドさんと待ち合わせ、地域史に詳しい「先生」と呼ばれておりました方のSKさんによるご説明から、城は鎌倉時代後期、田中播磨守実氏(さねうじ)により築城されたとのことです。その他、城主田中氏や田中郷の説明を受けてから、登山を開始しました。
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

田中城跡入口です。イノシシなどの動物による被害防止のために城跡はフェンスで囲われており、扉を開けて中に入ります。
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

この入口の手前のお家に、登山者用に下に示しました「田中城跡歴史ハイキングMAP」が設置されており自由に持ち帰ることができるようになっていました。
山城から東方に広がる山腹一帯には、地名の由来となった上寺である天台密教の山岳寺院「松蓋寺(しょうがいじ)」の寺坊跡があり、田中城はこの遺構を再利用し築造されたと推定されています。松蓋寺は「高嶋七ヵ寺」の1つで、今は下地図⑤の観音堂一宇が残されているだけです。城の縄張には、この⑤観音堂の下方に広がる寺の遺構を城に再利用した郭(i)と、観音堂背後の尾根上に遺された元来から城として機能していた遺構(ii)がありますが、大部分は寺の遺構を再利用した郭(i)です。
i. 観音堂よりも一段下方、山裾に広がる遺構群は、寺坊跡を利用して、土塁や堀を付け足したもので、屋敷跡と考えられる遺構です。その一段上には観音堂⑤の前面に広がる遺構群があり、ここも土塁で区画された大きな郭や、郭群の周囲には堀や土橋、武者隠しなどの遺構②が見られます。観音堂⑤の左手(⑤⑥の間)には寺の塔が立っていたと思われる基壇状の遺構や礎石が見られます。
ii. ここからさらに一段上がった尾根上には四つの郭が連続して築かれており、さらに上方には、土塁で囲まれた虎口状の施設を挟んで、「天主跡」と表示されている主郭⑦があります。その背後は馬の背状の通路⑧になっており、通路の先端には尾根を切断した大堀切があり、主郭背後の防備を固めています。
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

①金刀比羅宮: 山裾に広がる屋敷跡と考えられる郭群を抜けて、観音堂の前面に広がる郭群に入ると郭の土塁上に(上記MAPの①)、神仏習合の神金毘羅権現が祀られています。讃岐の金刀比羅宮から海上交通の守り神として勧請されたもので、琵琶湖や安曇川の運航の安全を祈願したものと思われます。この辺りは土塁で区画されています。
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

②土橋、武者隠し: 2番目の郭群の北の端に位置し、写真のように山を土橋に沿って下ると突然、急な谷になっています。逆に登ってきた攻め手は傾斜が緩やかになってホッとします。しかし、この細い土橋に沿って一列に通るときには見えないよう、土橋の山(南)側に武者隠しが設けられており、守兵はそこに隠れて、弓や鉄砲又は一斉攻撃で突き落とすなどで攻め手を撃退します。武者隠しは近江の城では事例の少ないものです。
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

③堀切: 観音堂のある郭とその麓(東)側の郭を断ち切るように、堀切が設けられ、観音堂のある郭に到達するには、急な斜面を這い上がるか、次の石段を上るしかありません。
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

➃観音堂への階段: 我々は無理をせず、観音堂には石造りの阿弥陀如来を横に見て石段を上ってゆきます。
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

⑤松蓋寺観音堂: 天平3年(731)に僧良弁が建立しましたが、室町時代頃には衰退し廃寺と化して、現在はこの観音堂が残るのみです。
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

⑥見張所: ここからは、木が邪魔でしたが、MAPに説明のとおり、高島方面が見えました。
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

⑦主郭: 見張所からは観音堂の背後の急坂の尾根をロープを頼って主郭部へ登ります。この尾根の北西側斜面(城の背後に当たる)は切岸が施されていて、通常よりも人工的に切り立った状態で、当然、そちら側から登ることはできません。主郭では、写真のとおり、琵琶湖を含めて、現在の安曇川の町が見渡せました。
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

⑧切岸が施された尾根: 主郭より北西方面に向かう尾根の先は堀切で切られて、行き来できないようようにされていますが、この尾根の両側も切岸が施され転落すると命がなくなるような切り立った尾根でした。
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

ところで、田中城は『信長公記』に3度登場しています。
1回目は元亀元年(1570)4月21日、信長が京都から越前へ向かった際に高島の「田中の城」に逗留したという記録です。このとき信長は朝倉義景を討つため越前を目指しており、途中の高島を通過し、浅井長政の勢力下にあった田中城に宿泊したと考えられます。この軍勢には後の豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康も参加していました。この8日後に浅井氏が離反を起こし、田中城は信長の敵方の城となりました。他方、信長は「金ヶ崎の退き口」の名で有名で、朽木経由で京都まで逃げ帰ります。
2回目は元亀3年(1572)3月11日で、信長が高島の地で浅井・朝倉軍を攻撃した際の記録です。このとき、信長方の明智光秀や丹羽長秀らが木戸(清水山)・田中両城を監視しています。
3回目は翌年の元亀4年(1573)7月26日、信長は大船で湖上から浅井長政の勢力下に置かれていた高島を攻撃し、陸からも木戸・田中両城を攻撃したとの記録です。この結果、落城した木戸・田中両城が明智光秀に与えられました。
さらに、『信長公記』の記述以前のことで、近年発見された熊本藩(細川家)の家老米田家に伝わる医学書『針薬方』(永禄9年)の奥書に「明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」とあります。田中城と光秀に関するもので、文献上に光秀が登場する最古級の発見で注目されました。奥書には、沼田勘解由左衛門が田中城で光秀の口伝を記し、永禄9(1566)年10月に米田貞能が江州坂本で写したものと記されています。このことから、少なくとも1566年以前の田中城に光秀が近江国と関係をもちながら、籠城していた可能性が指摘されています。光秀がどのような立場で田中城に籠城していたかは定かではありませんが、この頃にはひとかどの武将として活躍していたようです。

田中城訪問の後は、田中氏ゆかりの玉泉寺と田中神社を訪れました。
玉泉寺: 創建は奈良時代の天平年間で行基が開祖と伝えられ、享禄4年(1531)の大火により寺地を失いましたが、天文2年(1533)には、田中城の城主であった田中下野守理春(しもつけのかみみちはる)が荒廃を嘆き、再興したと伝承しています。玉泉寺境内の本堂前に、「鵜川四十八体石仏」(高島市)と同じ坐像形式の石仏五体が南面して並んでいます。五智如来と呼ばれ、左から阿弥陀如来・薬師如来・大日如来・弥勒菩薩・釈迦如来です。室町時代後期の作で、製作には「鵜川四十八体石仏」と石工技術を同じくする集団の影響が考えられます。このほかにも、墓地内で多種多様な石仏を見ることができる高島では指折りの石仏スポットと言えます。
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

田中神社: 社伝によると田中郷の総産土神で、鎌倉時代の石造品が6基ほどあり、往時の豊かな文化をしのばせています。
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

この後、JR安曇川駅をめざして戻りますが、その途中に今回訪問した田中城の「上の城」に対し、大字田中のほぼ中央の平地に「下ノ城」という集落があります(下図左上)。『近江輿地志略』に記述され、最後に通る「南市」には城郭が築かれた形跡がないことから、下ノ城集落に位置する田中氏館が「下の城」であると考えられています。田中氏館が存在した痕跡は、地表には見受けられませんが、その付近には「北堀」「東堀」「南堀」「堀之内」という堀が存在したことを示す小字名が残されており、この範囲に田中氏の居館が存在していたと考えられています。また、 「堀」という地名がそれぞれ付くことから、周囲に堀を巡らす居館であったことが伺えます。西堀という字名はありませんが、江戸後期の田中村絵図には「西ノ口」という地名が残されており、その地域の中に田中氏の居館の正面入り口が存在したことが伺えます。
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

下ノ城集落西側入口で先生より説明を聞く様子: 現状では周囲には住宅があるだけで、土塁など遺構が残っている様子はありませんが、平成17年の発掘調査で堀跡の一部がこの辺りで見つかっています(上記地図青色部分)。また、この地区の古老のお話では、北堀の水田では耕作中大きく沈む場所があり、農耕しづらく、この付近の地中から石仏が多く見つかるのだそうです。
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

北国海道沿いで市場が開かれていた場所: 上記地図の右(東)側にある「南市」交差点で、南北に走る北国海道の道の両側に水路があることから、この広い道幅は昔から変化しておらず、この道の奥まで両側に産物や商品を売買する市が立てられていました。田中氏は地域の生産基盤の掌握だけでなく、交通路支配も大きな収入源としていました。
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

最後に、雨の中をご協力いただいて、無事に下見を終了でき、駅まで戻れました。ご協力いただきました城郭探訪会の皆様及びボランティアガイド トラベル高島のYK, SK様お二人に感謝いたします。
例会本番は2023年3月30日に予定されています。 文責 岡島 敏広

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