2025年01月21日
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
個人旅行で、沖縄県石垣島の①フルスト原(バル)遺跡、②八重山蔵元、③宮良殿内(みやらどぅんち、めーらどうぬじい)を訪問しました。
①フルスト原遺跡は、島民の間では、オヤケアカハチの居館跡だと言い伝えられています。
オヤケアカハチ(遠弥計赤蜂)
オヤケアカハチは波照間島に生まれ、その後石垣島の大浜を拠点として勢力を持ち、琉球王府に反旗を翻した豪傑です。八重山島は1390年以来、琉球中山王に入貢し、以後毎年貢納していましたが、1500年の尚真(しょうしん)王の頃、大浜村のオヤケアカハチは2~3年間中山への貢租を怠りました。そのため、1500年2月2日、尚真王が派遣した大里按司を大将とする征討軍により滅ぼされたと琉球王国の歴史書『球陽』に記録されています。
15世紀、八重山諸島は各地に首長が並び立ち、勢力を争っていました。石垣島大浜地域のオヤケアカハチが勢力を拡大し、八重山統一を目指したオヤケアカハチは、琉球王府の圧政に反旗を翻して、琉球王府に従う四ケ村(新川・石垣・大川・登野城)の領主を石垣島より追放し、人格者として信頼の厚かった石垣島の川平村領主をも討ち滅ぼしました。宮古島の首長仲宗根豊見親(とぅゆみゃ)は脅威を感じ、琉球王府にアカハチ征討軍の派遣を要請しました。王府は貢租を拒み続けるオヤケアカハチ軍の討伐に軍船46隻、兵三千余名を那覇港から派遣し、宮古軍も加えてアカハチ軍を攻めました。アカハチ軍の兵が次々討たれるなか、孤立無援となったオヤケアカハチは底原(すくばる)で最期を遂げたといわれます。
このように豪傑で有名であったオヤケアカハチは、困窮に苦しむ農民たちのために武力で琉球王府に立ち向かいましたが、ついに戦いに敗れ命を落としました。この後、石垣島は琉球王府の完全な支配下に入りました。
伝えられているように、フルスト原は琉球王府軍との壮絶な戦いの場となり、『球陽』の記録した「嶮岨を負い、大海に面して軍勢を整えていた」アカハチ軍の夢の後を今に伝えています。
石垣市大浜のオヤケアカハチの碑
フルスト原遺跡: 石垣島の南側、字大浜に所在し、昭和53年(1978)3月3日に国指定の史跡となりました。
遺跡の北(地図左)から東側(地図上)にかけては断崖となっており、西(地図下)から南側(地図右)にかけてはゆるやかな斜面となって旧石垣空港へと続いています。遺跡は、宮良湾に面した標高20~25m前後の眺望の利く石灰岩の丘陵上に形成された屋敷囲いの石積みを伴う集落跡で、グスクと考えられていました。
史跡指定面積は約12.3haで、その中に広がる石塁(石様の囲い)遺構が連結していることが特徴で、一見、沖縄本島などにみられる「グスク」に類似しています。
現在の研究では、いわゆる城郭としての機能よりも、集落としての要素が強いと考えられています。
石垣市内の遺跡には、石塁のない集落跡も見られ、この遺跡で生活していた集団は石積技術を持っている点で違いが見られます。しかし、周辺の集落遺跡と同じような生活用品(土器や中国産陶磁器など)が、石塁内より数多く出土すること、武器にあたるものが見られないことから、石灰岩丘陵の断崖上で進入路を限定して、石積みを配する防御性を備えた集落跡と考えられています。(地図はクリックすると拡大します。)
フルスト原集落は13世紀から16世紀にかけて利用されました。発掘調査の結果、石・貝・骨を利用した道具類や陶磁器も出土しており、陶磁器は13~16世紀初頭のものが含まれ、15世紀の陶磁器が多く確認されていることから、このころに最盛期を迎えたと考えられています。
これら出土品により集落の始まりは少なくとも13世紀頃にまで遡ると考えられ、15世紀には最盛期を迎えて、16世紀には集落としての利用を終えて、集落は廃棄されました(1500年のオヤケアカハチの乱との整合性は疑問?)。
琉球王国時代となった以降の18・19世紀には、遺跡の一部は墓地或いは拝所として利用され、古墓が確認されています。明治時代初期の琉球併合により日本国となり、20世紀前半には沖縄戦に関する付属施設用地として利用されました。
「フルスト原遺跡 北側入口」: 写真のように標識のある北側の入口から遺跡に入ります。この先に続く遺跡までの進入路は、戦時中、軍用飛行機を移動するための進路として利用されていたもので、遺跡東側には駐車場が整備されていますが、進入路を自動車でそのまま進入できます。
遺跡に近接する旧石垣空港は、もともと昭和18年(1943)に海軍飛行場として建設されました。そのため、戦時中には滑走路などが攻撃を受け、そのたびに爆撃痕を埋めるため、フルスト原遺跡から石灰岩塊を運んで施設を補修したそうです。そのほかにも、畑に利用されたりする中で、石積みはかなり形を変えてしまいました。
現在、15基確認されている石塁の内、7基(第1、2、3、4、5、10、15号)が復原されています。石積みは、一部に自然の岩盤を上手く取り入れ、野面積(のづらづみ)により囲っています。高さは発掘調査により確認された根石を基礎とし、古老の記憶にある6~7尺(1尺=30.3cm)を参考に、地上高1.8m前後で以下の写真のように復原されました。
くるわ遺跡の規模は、南北に900m、東西に約200mと広大な範囲に及んでいます。
1976年に実施された調査では、郭を思わせる石塁区画、城門、石墓などの遺構が確認されています。城門は、北東部で確認されています。
フルスト原第10号石塁: この第10号石塁を含む第7号~第15号石塁は、崖から離れた側の遺跡の最も高い地点に位置し、石塁が集中して細胞状に15号石塁にまで伸びて連結しています(第10、15号石塁以外は未復原であることから、写真ではこれらの間は空間が空いています)。
フルスト原第15号石塁
石塁区画は崖の縁辺部で5基(第1、2、3、4、5号)、崖から20mほど奥まった所で10基の計15基が確認されています。一区画の石積みの規模は20m四方です。幅3~4m、高さ1.5mほどで、琉球石灰岩の野面積となっています。
1982年に石塁遺構の一部が発掘調査され、石塁内から掘立柱建物跡が検出されています。遺物としては土器、輸入陶磁器などが出土しています。
フルスト原第4号石塁: 遺跡入口(北)側から第4号~第1号石塁と並んでいますが、これらの木の生えた背後は崖となっています。また、第4号・第3号と第2号・第1号は対になっています。第5号石塁は第4号より遺跡入口方向に190m離れた所に築かれていますが、この空間にも、数基の石塁が存在したようで、遺構が存在しないのは、後世の採石で破壊されたことによります。
フルスト原第3号石塁
フルスト原第2号石塁: 崖沿いの第2号石塁と下写真の第1号石塁の内部から柱穴群が見つかっています。特に第2号石塁では、約100個の柱穴と炉跡があり、柱を固定する楔(くさび)石も残されていました。
建てられていた建物としては中柱を持つ円形の建物と、地表に石灰岩の露頭が多く見られることから、土間敷でなく高床の建物があったものと推定されています。
フルスト原第1号石塁
②石垣市内八重山博物館隣の八重山島蔵元跡にも訪れました。
蔵元とは琉球王府が属島とした離島地域に設置した離島統治のための出先機関です。方言では『ウラ』と呼ばれます。
当初、竹富島に設置されていましたが、1543年に石垣島大川村に移転され、1633年に現在の位置に移転されました。そこから明治に入り、廃藩置県までの248年間、琉球王府から役人が2年任期で派遣されていたといいます。その後(1880)、蔵元構内には、沖縄県庁の分庁として八重山島役所も設けられました。
蔵元の南の道は、船で到着した役人を歓迎する道で、真泊御嶽の西から蔵元までの総延長約500m・幅約10mの大道路であったとされています。
八重山島蔵元の歴史: 尚真王を25年にわたって支えた西塘(にしとう)が勲功を認められて王府の代官である武富大首里大屋子の頭職(かしらしょく)に任じられた際に、西塘の出身地である竹富島に蔵元をおきました。その後、竹富港の整備が難しく、1543年 に石垣島の大川村へ移転しました。1633年に蔵元は八重山キリシタン事件で処刑された本宮良頭石垣永将の屋敷跡である現在の石垣市立八重山博物館の隣の場所に移転されました。1771年になると明和の大津波により大きな被害を受けたため、一時的に高台になっている大川村の文嶺へ移転し、その後、1775年に大川村のフンナへ移転しました。1815年には利便性を鑑みて現在の八重山博物館隣地に戻り、1897年に廃止されました。
八重山島蔵元跡: 蔵元跡は、発掘調査後、現在は市営駐車場になっています。
蔵元跡発掘調査状況: この地には2つの遺構があるはずですが、明和津波直後の地層は失われていたことから、写真は1815年復帰後の遺構です。
蔵元の南門と時報楼の古写真
③宮良殿内(みやらどぅんち、めーらどうぬじい): 首里王府時代に八重山は、宮良間切、大浜間切、石垣間切の3つの行政区に分かれ、それぞれの間切の頭職(かしらしょく)の私邸を殿内と称しました。宮良殿内は首里の士族屋敷をまねた建築とされ、宮良家8世の宮良親雲上当演(みやらぺーちんとうえん)が宮良間切の地頭職(八重山頭職)にあった文政2年(1819)頃に建造されました。
琉球王府時代の住宅建築は、階級による規格があり、宮良殿内はそれらの規格を度外視して建てられていたことから、琉球王府が身分不相応として5度にわたり取り壊しを命じました。当主は屈せずにいましたが、検使(王府派遣の行政監察官)富川親方の厳命により、明治8年(1875)頃やむなく茅葺に改修したと伝わりますが、王府解体後の明治33年(1900)に再び瓦葺に戻しています。
首里士族層の屋敷が戦災により失われたなか、旧宮良殿内は王府時代の士族屋敷を保存した沖縄における殿内構造の唯一の建物として、国の重要文化財に指定されています。
屋敷入口の本瓦葺四脚門を入ると、ピーフンと呼ばれる築地塀があり、中門扉が設けられています。この扉は、旧盆の祖霊の送り迎えや葬儀の際の出棺、嫁を出す時に限って開かれます。
主屋は本瓦葺木造平屋建で、建築材のほとんどは島産のイヌマキ材が使われていますが、一番座と二番座を仕切る中戸には屋久杉の1枚板が用いられています。
石灰岩の巨石を配した京都風の枯山水の日本庭園は国の名勝に指定されています。

以上、石垣島のフルスト原遺跡、それと蔵元跡及び宮良殿内を訪問しました。
訪問後の文献類の調査で、フルスト原遺跡は残念ですが、グスクそのものではなく、「グスク様」の集落遺跡であると分かりました。
文責 岡島 敏広
①フルスト原遺跡は、島民の間では、オヤケアカハチの居館跡だと言い伝えられています。
オヤケアカハチ(遠弥計赤蜂)
オヤケアカハチは波照間島に生まれ、その後石垣島の大浜を拠点として勢力を持ち、琉球王府に反旗を翻した豪傑です。八重山島は1390年以来、琉球中山王に入貢し、以後毎年貢納していましたが、1500年の尚真(しょうしん)王の頃、大浜村のオヤケアカハチは2~3年間中山への貢租を怠りました。そのため、1500年2月2日、尚真王が派遣した大里按司を大将とする征討軍により滅ぼされたと琉球王国の歴史書『球陽』に記録されています。
15世紀、八重山諸島は各地に首長が並び立ち、勢力を争っていました。石垣島大浜地域のオヤケアカハチが勢力を拡大し、八重山統一を目指したオヤケアカハチは、琉球王府の圧政に反旗を翻して、琉球王府に従う四ケ村(新川・石垣・大川・登野城)の領主を石垣島より追放し、人格者として信頼の厚かった石垣島の川平村領主をも討ち滅ぼしました。宮古島の首長仲宗根豊見親(とぅゆみゃ)は脅威を感じ、琉球王府にアカハチ征討軍の派遣を要請しました。王府は貢租を拒み続けるオヤケアカハチ軍の討伐に軍船46隻、兵三千余名を那覇港から派遣し、宮古軍も加えてアカハチ軍を攻めました。アカハチ軍の兵が次々討たれるなか、孤立無援となったオヤケアカハチは底原(すくばる)で最期を遂げたといわれます。
このように豪傑で有名であったオヤケアカハチは、困窮に苦しむ農民たちのために武力で琉球王府に立ち向かいましたが、ついに戦いに敗れ命を落としました。この後、石垣島は琉球王府の完全な支配下に入りました。
伝えられているように、フルスト原は琉球王府軍との壮絶な戦いの場となり、『球陽』の記録した「嶮岨を負い、大海に面して軍勢を整えていた」アカハチ軍の夢の後を今に伝えています。
石垣市大浜のオヤケアカハチの碑

フルスト原遺跡: 石垣島の南側、字大浜に所在し、昭和53年(1978)3月3日に国指定の史跡となりました。
遺跡の北(地図左)から東側(地図上)にかけては断崖となっており、西(地図下)から南側(地図右)にかけてはゆるやかな斜面となって旧石垣空港へと続いています。遺跡は、宮良湾に面した標高20~25m前後の眺望の利く石灰岩の丘陵上に形成された屋敷囲いの石積みを伴う集落跡で、グスクと考えられていました。
史跡指定面積は約12.3haで、その中に広がる石塁(石様の囲い)遺構が連結していることが特徴で、一見、沖縄本島などにみられる「グスク」に類似しています。
現在の研究では、いわゆる城郭としての機能よりも、集落としての要素が強いと考えられています。
石垣市内の遺跡には、石塁のない集落跡も見られ、この遺跡で生活していた集団は石積技術を持っている点で違いが見られます。しかし、周辺の集落遺跡と同じような生活用品(土器や中国産陶磁器など)が、石塁内より数多く出土すること、武器にあたるものが見られないことから、石灰岩丘陵の断崖上で進入路を限定して、石積みを配する防御性を備えた集落跡と考えられています。(地図はクリックすると拡大します。)

フルスト原集落は13世紀から16世紀にかけて利用されました。発掘調査の結果、石・貝・骨を利用した道具類や陶磁器も出土しており、陶磁器は13~16世紀初頭のものが含まれ、15世紀の陶磁器が多く確認されていることから、このころに最盛期を迎えたと考えられています。
これら出土品により集落の始まりは少なくとも13世紀頃にまで遡ると考えられ、15世紀には最盛期を迎えて、16世紀には集落としての利用を終えて、集落は廃棄されました(1500年のオヤケアカハチの乱との整合性は疑問?)。
琉球王国時代となった以降の18・19世紀には、遺跡の一部は墓地或いは拝所として利用され、古墓が確認されています。明治時代初期の琉球併合により日本国となり、20世紀前半には沖縄戦に関する付属施設用地として利用されました。
「フルスト原遺跡 北側入口」: 写真のように標識のある北側の入口から遺跡に入ります。この先に続く遺跡までの進入路は、戦時中、軍用飛行機を移動するための進路として利用されていたもので、遺跡東側には駐車場が整備されていますが、進入路を自動車でそのまま進入できます。

遺跡に近接する旧石垣空港は、もともと昭和18年(1943)に海軍飛行場として建設されました。そのため、戦時中には滑走路などが攻撃を受け、そのたびに爆撃痕を埋めるため、フルスト原遺跡から石灰岩塊を運んで施設を補修したそうです。そのほかにも、畑に利用されたりする中で、石積みはかなり形を変えてしまいました。

現在、15基確認されている石塁の内、7基(第1、2、3、4、5、10、15号)が復原されています。石積みは、一部に自然の岩盤を上手く取り入れ、野面積(のづらづみ)により囲っています。高さは発掘調査により確認された根石を基礎とし、古老の記憶にある6~7尺(1尺=30.3cm)を参考に、地上高1.8m前後で以下の写真のように復原されました。
くるわ遺跡の規模は、南北に900m、東西に約200mと広大な範囲に及んでいます。
1976年に実施された調査では、郭を思わせる石塁区画、城門、石墓などの遺構が確認されています。城門は、北東部で確認されています。
フルスト原第10号石塁: この第10号石塁を含む第7号~第15号石塁は、崖から離れた側の遺跡の最も高い地点に位置し、石塁が集中して細胞状に15号石塁にまで伸びて連結しています(第10、15号石塁以外は未復原であることから、写真ではこれらの間は空間が空いています)。

フルスト原第15号石塁

石塁区画は崖の縁辺部で5基(第1、2、3、4、5号)、崖から20mほど奥まった所で10基の計15基が確認されています。一区画の石積みの規模は20m四方です。幅3~4m、高さ1.5mほどで、琉球石灰岩の野面積となっています。
1982年に石塁遺構の一部が発掘調査され、石塁内から掘立柱建物跡が検出されています。遺物としては土器、輸入陶磁器などが出土しています。
フルスト原第4号石塁: 遺跡入口(北)側から第4号~第1号石塁と並んでいますが、これらの木の生えた背後は崖となっています。また、第4号・第3号と第2号・第1号は対になっています。第5号石塁は第4号より遺跡入口方向に190m離れた所に築かれていますが、この空間にも、数基の石塁が存在したようで、遺構が存在しないのは、後世の採石で破壊されたことによります。

フルスト原第3号石塁

フルスト原第2号石塁: 崖沿いの第2号石塁と下写真の第1号石塁の内部から柱穴群が見つかっています。特に第2号石塁では、約100個の柱穴と炉跡があり、柱を固定する楔(くさび)石も残されていました。
建てられていた建物としては中柱を持つ円形の建物と、地表に石灰岩の露頭が多く見られることから、土間敷でなく高床の建物があったものと推定されています。

フルスト原第1号石塁

②石垣市内八重山博物館隣の八重山島蔵元跡にも訪れました。
蔵元とは琉球王府が属島とした離島地域に設置した離島統治のための出先機関です。方言では『ウラ』と呼ばれます。
当初、竹富島に設置されていましたが、1543年に石垣島大川村に移転され、1633年に現在の位置に移転されました。そこから明治に入り、廃藩置県までの248年間、琉球王府から役人が2年任期で派遣されていたといいます。その後(1880)、蔵元構内には、沖縄県庁の分庁として八重山島役所も設けられました。
蔵元の南の道は、船で到着した役人を歓迎する道で、真泊御嶽の西から蔵元までの総延長約500m・幅約10mの大道路であったとされています。
八重山島蔵元の歴史: 尚真王を25年にわたって支えた西塘(にしとう)が勲功を認められて王府の代官である武富大首里大屋子の頭職(かしらしょく)に任じられた際に、西塘の出身地である竹富島に蔵元をおきました。その後、竹富港の整備が難しく、1543年 に石垣島の大川村へ移転しました。1633年に蔵元は八重山キリシタン事件で処刑された本宮良頭石垣永将の屋敷跡である現在の石垣市立八重山博物館の隣の場所に移転されました。1771年になると明和の大津波により大きな被害を受けたため、一時的に高台になっている大川村の文嶺へ移転し、その後、1775年に大川村のフンナへ移転しました。1815年には利便性を鑑みて現在の八重山博物館隣地に戻り、1897年に廃止されました。
八重山島蔵元跡: 蔵元跡は、発掘調査後、現在は市営駐車場になっています。

蔵元跡発掘調査状況: この地には2つの遺構があるはずですが、明和津波直後の地層は失われていたことから、写真は1815年復帰後の遺構です。

蔵元の南門と時報楼の古写真

③宮良殿内(みやらどぅんち、めーらどうぬじい): 首里王府時代に八重山は、宮良間切、大浜間切、石垣間切の3つの行政区に分かれ、それぞれの間切の頭職(かしらしょく)の私邸を殿内と称しました。宮良殿内は首里の士族屋敷をまねた建築とされ、宮良家8世の宮良親雲上当演(みやらぺーちんとうえん)が宮良間切の地頭職(八重山頭職)にあった文政2年(1819)頃に建造されました。
琉球王府時代の住宅建築は、階級による規格があり、宮良殿内はそれらの規格を度外視して建てられていたことから、琉球王府が身分不相応として5度にわたり取り壊しを命じました。当主は屈せずにいましたが、検使(王府派遣の行政監察官)富川親方の厳命により、明治8年(1875)頃やむなく茅葺に改修したと伝わりますが、王府解体後の明治33年(1900)に再び瓦葺に戻しています。
首里士族層の屋敷が戦災により失われたなか、旧宮良殿内は王府時代の士族屋敷を保存した沖縄における殿内構造の唯一の建物として、国の重要文化財に指定されています。
屋敷入口の本瓦葺四脚門を入ると、ピーフンと呼ばれる築地塀があり、中門扉が設けられています。この扉は、旧盆の祖霊の送り迎えや葬儀の際の出棺、嫁を出す時に限って開かれます。

主屋は本瓦葺木造平屋建で、建築材のほとんどは島産のイヌマキ材が使われていますが、一番座と二番座を仕切る中戸には屋久杉の1枚板が用いられています。

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以上、石垣島のフルスト原遺跡、それと蔵元跡及び宮良殿内を訪問しました。
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文責 岡島 敏広
2025年2月17日(月)三上陣屋跡訪問(野洲市)
2025年1月14日(火)沖縄県竹富島(竹富町)の小城盛(クスクムイ)と蔵元
2024年10月25日(金)レイカディア地域文化43期'24秋のバス旅行「尾州犬山城とひつまぶしの旅」(愛知県)
2024年10月9日(水)岐阜県飛騨高山陣屋訪問
2024年10月8日(火)長野県信州松代城訪問
2024年10月7日(月)長野県信濃国小諸城址訪問
2025年1月14日(火)沖縄県竹富島(竹富町)の小城盛(クスクムイ)と蔵元
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joukaku
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