2024年06月24日
2024年6月22日(土)玄蕃尾城(内中尾山城)跡訪問
個人旅行で滋賀・福井県境に跨って位置する玄蕃尾城を訪問しました。玄蕃尾城は織豊系山城の築城技術の最高水準を示す城と言われ、近世城郭への移行期の指標的な遺跡として、1999年7月13日付で国の史跡に指定されました。また、続日本100名城(140番)に選定されています。
なお、関連する賤ケ岳古戦場は2度訪問しており、2022年と2024年の訪問記録を本ブログで記載しています。
玄蕃尾城は福井県敦賀市刀根と滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬の県境にあり、内中尾山の山頂にあることから別名内中尾山城とも呼ばれています。
天正11年(1583)、賤ケ岳の戦いに際し、越前北ノ庄城主であった柴田修理亮勝家の本陣となった山城です。この戦いでは、勝家は戦わずしてこの城から撤退し、その後手つかずで残されたことから、山城の構造が合戦当時のままに良好に保存されています。
玄蕃尾城の名は地元の敦賀市刀根に伝わるもので、勝家配下の勇将・佐久間玄蕃允盛政に因むものとして、今日まで語り継がれています。
築城時期は諸説あり、本能寺の変後に柴田勝家が豊臣秀吉との戦いに備えて築城したとされますが、天正6年(1578)頃に越前衆を動員して築城されたとか、朝倉氏の山城を勝家軍が整備したともいわれます。
柴田勝家
敦賀市刀根駐車場: 今回は歩行距離を少なくしたかったことから、敦賀市刀根の駐車場から登城しました。結果として8,700歩でした。
駐車場までは柳ケ瀬トンネルの福井県側出口から、すぐに林道に入って進みます。林道終点の駐車場にはトイレが設置されており、登山者記録用ノートと玄蕃尾城のパンフレットが置かれていました。
刀根越(倉坂、久々坂ともいう): 駐車場から玄蕃尾城までは700mの短い距離で、玄蕃尾城は湖北から北ノ庄への北国街道(現在の国道365号)と、そこから分岐する刀根越の道の双方を抑える要所に位置します。
城のすぐ南に位置する刀根越(写真)は織田軍と朝倉軍が激戦を繰り広げ、朝倉氏滅亡のきっかけとなった刀根坂の戦い(一乗谷城の戦い)の舞台です。
玄蕃尾城と行市山砦への分かれ道: 駐車場から200mの地点。ここから、南(右)側に3.5km行けば、賤ケ岳の戦いにおいて、佐久間玄蕃允盛政がそこから出撃した行市山砦があります。
玄蕃尾城は北(左)側に登ってゆきます。
玄蕃尾城への登城道: 勝家の陣(玄蕃尾城)から行市峯(行市山)までの一里半にわたって幅三間(3.5m)の作道が整備されたといわれ、地元では、これが勝家の家臣・佐久間玄蕃允盛政によって連絡のために開かれた尾根道と伝わります。
この尾根道は「玄蕃ヶ尾」と呼ばれ、転じて本陣の城の名も「玄蕃尾城」と呼ばれるようになりました。
玄蕃尾城の説明板: 城の手前に説明板が設置してありました。城は最高所の主郭を中心に、専守防衛に主眼を置きつつ、出撃拠点としても巧みに計算された縄張りとなっています。
また、諸郭間の機能分化と配置、馬出の完成度、空堀・土塁の発展、櫓(天守)台の具備など、現存する福井県内の山城の中で最も発達した構造を示すものと言われています。
玄蕃尾城縄張図を示します。クリックにより拡大します。
本日は敵対する秀吉軍の守る賤ケ岳(南)側から、
郭を①→➉→②→③→④→⑧→⑦→⑨→⑤→⑥勝家の北ノ庄側へと巡りました。
南虎口(大手虎口): 登城道から最初に接する①虎口郭に入るための虎口(白いポールのある箇所)で、①虎口郭と共に専守防衛用です。そのため、虎口の木戸(城門、城の入口)は内外二重に構えられ、内の木戸は厳重に隠されています。
①虎口郭(大手郭): 前線の陣地・専守防衛用。郭の西南側が空堀になっていて、空堀(写真の窪んだ部分)に沿って(写真右上へ)進んだ敵軍は知らぬ間に袋小路に追い込まれてしまいます。
➉土橋: 右側は北国街道に向かう谷筋、写真左側の高まりは②虎口郭の東虎口(写真の白いポールが見える所)に至る土塁で、写真左側後方は空堀になっています。
①虎口郭(大手郭)と②虎口郭(攻撃用大手郭)の間は空堀又は谷で、それらが土橋のみで繋がれています。
土橋を渡る敵軍に対し、②虎口郭(攻撃用大手郭)から(東虎口より)正面と(土塁より)左側面を攻撃できます。
東虎口: 攻撃用大手口で、上記写真の➉土橋から東虎口まで進んで撮影しました。上下写真の白いポールは同じもの。東虎口は攻撃用大手口であることから、北国街道に向かう最短ルートである東南の谷筋(写真右下)に向かって開口しています。
②虎口郭(攻撃用大手郭): ここは出撃拠点で、写真右上の③馬出郭からこの②虎口郭(攻撃用大手郭)を経由して上写真の東虎口へと、一気に出撃できる構造になっています。右上の土塁は③馬出郭のものです。
④主郭大手側虎口から見る③馬出郭: ③馬出郭は④主郭の虎口の機能を果たし、かつ三方に横矢を利かして突出しています。出枡形でこの主郭虎口を隠しながら、敵に対しては屈曲を強いるという完成度の高い形態を示しています。
④主郭(本丸): 司令所で柴田勝家の本陣です。45m四方の方形で周囲を高土塁と堀で厳重に囲んでいます。南(大手)北(搦手)1箇所ずつ設けられた虎口はどちらも喰違いで、土橋によって外枡形(③馬出郭と⑤搦手側馬出郭)と繋いでいます。
⑧櫓台から見る④主郭内部: 主郭の北東部が一段高くなっており、ここには礎石も見られることから、櫓台と想定されています。
⑦張出郭(主郭東側の見張台): 主郭東虎口から見る⑦張出郭(見張台)
⑨腰郭から見る⑦張出郭: ⑨腰郭の方向は構造的に脆弱な感じがしますが、この下が急斜面となっているので、こちら側からの攻撃についてはあまり意識しなくてよかったと思われます。
⑤搦手側馬出郭: 主郭北側の馬出郭で、主郭搦手口は喰違い虎口になっていて、そこにこの馬出郭が取り付けられています。
⑥虎口郭(搦手郭): 比較的単純な形ですが、喰違いや折れを用いています。城中で最も広い郭で、兵站基地として用いられ、兵の駐屯地や物資の集積地だったと考えられます。土橋で⑤搦手側馬出郭に繋がれています。
ここまでで、玄蕃尾城のすべての郭を巡りました。
最後に、この時期、雑草が生え荒れていてもおかしくないと思いつつ、玄蕃尾城を訪れましたが、写真に見られるように下草は刈られて非常にきれいに整備され、また、歴史的にも賤ケ岳の戦いの舞台とはならなかったことから、城の構造も非常によく保存されておりました。城の構造はパンフレットの縄張図と比較しながら観察しやすく、築城440年を経過しても玄蕃尾城の築城当時の柴田勝家の考えが伝わってくるように思われました。
玄蕃尾城は玄蕃尾城跡保存会の皆様が整備されていると聞きました。本日は本当に勉強になりました。保存会の皆様に感謝いたします。
文責 岡島 敏広
なお、関連する賤ケ岳古戦場は2度訪問しており、2022年と2024年の訪問記録を本ブログで記載しています。
玄蕃尾城は福井県敦賀市刀根と滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬の県境にあり、内中尾山の山頂にあることから別名内中尾山城とも呼ばれています。
天正11年(1583)、賤ケ岳の戦いに際し、越前北ノ庄城主であった柴田修理亮勝家の本陣となった山城です。この戦いでは、勝家は戦わずしてこの城から撤退し、その後手つかずで残されたことから、山城の構造が合戦当時のままに良好に保存されています。
玄蕃尾城の名は地元の敦賀市刀根に伝わるもので、勝家配下の勇将・佐久間玄蕃允盛政に因むものとして、今日まで語り継がれています。
築城時期は諸説あり、本能寺の変後に柴田勝家が豊臣秀吉との戦いに備えて築城したとされますが、天正6年(1578)頃に越前衆を動員して築城されたとか、朝倉氏の山城を勝家軍が整備したともいわれます。
柴田勝家

敦賀市刀根駐車場: 今回は歩行距離を少なくしたかったことから、敦賀市刀根の駐車場から登城しました。結果として8,700歩でした。
駐車場までは柳ケ瀬トンネルの福井県側出口から、すぐに林道に入って進みます。林道終点の駐車場にはトイレが設置されており、登山者記録用ノートと玄蕃尾城のパンフレットが置かれていました。

刀根越(倉坂、久々坂ともいう): 駐車場から玄蕃尾城までは700mの短い距離で、玄蕃尾城は湖北から北ノ庄への北国街道(現在の国道365号)と、そこから分岐する刀根越の道の双方を抑える要所に位置します。
城のすぐ南に位置する刀根越(写真)は織田軍と朝倉軍が激戦を繰り広げ、朝倉氏滅亡のきっかけとなった刀根坂の戦い(一乗谷城の戦い)の舞台です。

玄蕃尾城と行市山砦への分かれ道: 駐車場から200mの地点。ここから、南(右)側に3.5km行けば、賤ケ岳の戦いにおいて、佐久間玄蕃允盛政がそこから出撃した行市山砦があります。
玄蕃尾城は北(左)側に登ってゆきます。

玄蕃尾城への登城道: 勝家の陣(玄蕃尾城)から行市峯(行市山)までの一里半にわたって幅三間(3.5m)の作道が整備されたといわれ、地元では、これが勝家の家臣・佐久間玄蕃允盛政によって連絡のために開かれた尾根道と伝わります。
この尾根道は「玄蕃ヶ尾」と呼ばれ、転じて本陣の城の名も「玄蕃尾城」と呼ばれるようになりました。

玄蕃尾城の説明板: 城の手前に説明板が設置してありました。城は最高所の主郭を中心に、専守防衛に主眼を置きつつ、出撃拠点としても巧みに計算された縄張りとなっています。
また、諸郭間の機能分化と配置、馬出の完成度、空堀・土塁の発展、櫓(天守)台の具備など、現存する福井県内の山城の中で最も発達した構造を示すものと言われています。

玄蕃尾城縄張図を示します。クリックにより拡大します。
本日は敵対する秀吉軍の守る賤ケ岳(南)側から、
郭を①→➉→②→③→④→⑧→⑦→⑨→⑤→⑥勝家の北ノ庄側へと巡りました。

南虎口(大手虎口): 登城道から最初に接する①虎口郭に入るための虎口(白いポールのある箇所)で、①虎口郭と共に専守防衛用です。そのため、虎口の木戸(城門、城の入口)は内外二重に構えられ、内の木戸は厳重に隠されています。

①虎口郭(大手郭): 前線の陣地・専守防衛用。郭の西南側が空堀になっていて、空堀(写真の窪んだ部分)に沿って(写真右上へ)進んだ敵軍は知らぬ間に袋小路に追い込まれてしまいます。

➉土橋: 右側は北国街道に向かう谷筋、写真左側の高まりは②虎口郭の東虎口(写真の白いポールが見える所)に至る土塁で、写真左側後方は空堀になっています。
①虎口郭(大手郭)と②虎口郭(攻撃用大手郭)の間は空堀又は谷で、それらが土橋のみで繋がれています。
土橋を渡る敵軍に対し、②虎口郭(攻撃用大手郭)から(東虎口より)正面と(土塁より)左側面を攻撃できます。

東虎口: 攻撃用大手口で、上記写真の➉土橋から東虎口まで進んで撮影しました。上下写真の白いポールは同じもの。東虎口は攻撃用大手口であることから、北国街道に向かう最短ルートである東南の谷筋(写真右下)に向かって開口しています。

②虎口郭(攻撃用大手郭): ここは出撃拠点で、写真右上の③馬出郭からこの②虎口郭(攻撃用大手郭)を経由して上写真の東虎口へと、一気に出撃できる構造になっています。右上の土塁は③馬出郭のものです。

④主郭大手側虎口から見る③馬出郭: ③馬出郭は④主郭の虎口の機能を果たし、かつ三方に横矢を利かして突出しています。出枡形でこの主郭虎口を隠しながら、敵に対しては屈曲を強いるという完成度の高い形態を示しています。

④主郭(本丸): 司令所で柴田勝家の本陣です。45m四方の方形で周囲を高土塁と堀で厳重に囲んでいます。南(大手)北(搦手)1箇所ずつ設けられた虎口はどちらも喰違いで、土橋によって外枡形(③馬出郭と⑤搦手側馬出郭)と繋いでいます。

⑧櫓台から見る④主郭内部: 主郭の北東部が一段高くなっており、ここには礎石も見られることから、櫓台と想定されています。

⑦張出郭(主郭東側の見張台): 主郭東虎口から見る⑦張出郭(見張台)

⑨腰郭から見る⑦張出郭: ⑨腰郭の方向は構造的に脆弱な感じがしますが、この下が急斜面となっているので、こちら側からの攻撃についてはあまり意識しなくてよかったと思われます。

⑤搦手側馬出郭: 主郭北側の馬出郭で、主郭搦手口は喰違い虎口になっていて、そこにこの馬出郭が取り付けられています。

⑥虎口郭(搦手郭): 比較的単純な形ですが、喰違いや折れを用いています。城中で最も広い郭で、兵站基地として用いられ、兵の駐屯地や物資の集積地だったと考えられます。土橋で⑤搦手側馬出郭に繋がれています。

ここまでで、玄蕃尾城のすべての郭を巡りました。
最後に、この時期、雑草が生え荒れていてもおかしくないと思いつつ、玄蕃尾城を訪れましたが、写真に見られるように下草は刈られて非常にきれいに整備され、また、歴史的にも賤ケ岳の戦いの舞台とはならなかったことから、城の構造も非常によく保存されておりました。城の構造はパンフレットの縄張図と比較しながら観察しやすく、築城440年を経過しても玄蕃尾城の築城当時の柴田勝家の考えが伝わってくるように思われました。
玄蕃尾城は玄蕃尾城跡保存会の皆様が整備されていると聞きました。本日は本当に勉強になりました。保存会の皆様に感謝いたします。
文責 岡島 敏広
2024年06月08日
2024年6月5日(水)岡山県鬼ノ城訪問
「里山ボランティア 山ぐり」の定例会に参加し、岡山県「鬼ノ城」を訪問しました。訪問した鬼ノ城は日本100名城(69番)に選定されています。
飛鳥時代に大和朝廷によって国の防衛のために築かれたとされる古代山城(神籠石式山城(こうごいししきやまじろ))ですが、鬼ノ城は、『日本書紀』などの歴史書には一切記されておらず、その歴史は解明されずに謎のままです。築造時期が不明の謎の城でしたが、発掘調査成果として出土した土器類から、7世紀後半に造られた可能性が高くなっています。
660年、唐・新羅の連合軍により百済が滅んだことから、大和朝廷は援軍を朝鮮半島に派遣します。しかし、663年、唐・新羅の連合軍に百済・倭軍は白村江で大敗し、日本へ逃げ帰ります。天智天皇は唐・新羅の連合軍が攻めてくることをおそれ、防衛網の再構築および強化のために対馬~畿内に至る要衝に山城や様々な防御施設が造られますが、鬼ノ城もその一つではないかと考えられます。
天智天皇(中大兄皇子)
また、鬼ノ城には吉備津彦命に退治された百済の王子:温羅(うら)が住んでいたといわれ、温羅伝説の発祥の地でもあります。
現在は史跡調査に基づいて整備、復元がなされ、角楼(かくろう)跡や城門跡を訪れることができます。本日は滋賀から岡山までの片道約250kmの日帰りでしたので、鬼ノ城全てを見学することができず、西門~南門~東門の城の半分を巡り、歩行歩数は約7,500歩でした。地図に巡ったコースを矢印で示します。図はクリックにより拡大します。
列石: 鬼ノ城では1971年に写真のような列石や、後に示す水門が発見され、その7年後の調査で、鬼ノ城の大きさや城壁の様子などが明らかになりました。
城は鬼城山の八~九合目を取り囲むようにして築かれた鉢巻き状の城壁で囲まれ、全周は2.8kmにもなります(上記地図の白い線内)。東西南北4箇所の城門と、6箇所の水門が存在し、城内の中央付近に礎石建物が7棟確認されています。
角楼(かくろう)跡(復元されたもの): 鬼城山ビジターセンターから登って、最初に訪れる施設です。鬼ノ城に近づきやすい尾根を警戒して、死角を補い防御力を高めることを目的として築かれています。角楼への昇降のための石段も設けられていますが、この上に建物などがあったのかどうかは不明です。日本の古代山城では、初めて確認された特殊な施設です。
西門(表側)遠景: 西門跡は極めて良好な状態で残されていました。12本の柱の位置や太さ、埋め込まれた深さ、各柱間の寸法も正確に知ることができ、通路床面の石敷や石段、敷石もよく残っていたので、城門の規模と構造を具体的に知ることができました。これらの情報に基づき、柱材はカナダ産ヒバ、板壁にチベットヒノキを用いて、現在は三階建ての城門に復元しています。一階-通路、二階‐城壁上の連絡路、三階-見張りの機能を持つもので、瓦が出土していないことから、板葺きとされています。古代山城の復元例としては、日本初です。
西門内側
敷石(内側): 写真手前に見えるように、城壁に付随して城外側と内側の両方におびただしい数の石が敷き詰められています。城外側の敷石は幅1.5mで敷き詰められていますが、内側の敷石幅は広く幅が5mに及ぶ所もあります。
当初は敷石の役割は通路と推測されていましたが、現在は雨水により城壁が洗われて崩壊しないよう保護するための施設と考えられています。鬼ノ城の敷石は城壁のかなりの部分に敷き並べられていたことがわかりました。このような例は、国内の古代山城や朝鮮半島の同時期の山城にも類例が見られないとのことです。
西門門内(内側より)
西門表側: 西門や角楼をはじめ城壁の随所に、敵からの矢などを防ぐため盾(写真上方のカラフルな板)が置かれたものと考えられます。鬼ノ城と時期の近いものに隼人の盾があります。盾の形は参考にしていますが、盾に描かれた文様は岡山市金蔵山古墳(5世紀)の盾形埴輪に隼人の盾に似た逆S字状モチーフがあることから、それをアレンジしています。鬼面は藤ノ木古墳の鞍金具に描かれた鬼面、綾杉文や周囲を取り巻く鋸歯文は古墳時代の吉備の盾形埴輪などによく見られる文様です。
城外側の敷石と版築土塁: 雨水の浸食から城壁を保護するために、城壁の内外は、雨水が城壁側にながれないよう傾斜をつけて石を敷き詰めています。
また、城壁は直線を基本として、基礎に列石を据え、壁となる位置に型枠を作って、内部に土を入れて、一層ごとに突き固める版築工法により築かれています。そのため、盛土は硬く崩れにくい構造になっています。壁面の縞状に見える土層は、一層ごとに土を突き固めた作業の単位を示しています。土塁の壁面は80度近い勾配で、6m近い高さがあることから、敵兵を簡単には寄せ付けません。
第1・2水門間石塁: 城壁が谷に渡る所では谷を埋めるように石塁がつまれていました。
第2水門: 城壁が谷に渡る所では、城内から集まる水の処理が必要なことから、排水機能を持つ「水門」が設けられています。
写真は撮影していませんが、第0水門と第1水門は石塁の下部から排水されるのに対し、第2水門~第5水門は写真のように通水溝を備え付けて排水しています。城内には第1水門~第5水門それぞれに通じる谷の途中に貯水池が設けられ、飲料水の確保等の水の管理がなされています。
南門跡: 一辺55cm前後の巨大な角柱12本で上屋を構成する大型城門であることが分かっています。南門は細部の違いはあるものの、規模や構造が西門と同じで、これらのいずれが正門なのかわかりません。
南門・第3水門間の高石垣からの眺望
岩切観音(五番): これは磨崖仏で目立ちますが、鬼ノ城の遺構ではないようです。手がたくさんあるので千手観音のようです。散策コースの到達点の目印とされています。
倉庫群跡礎石(礎石建物3): 城の周辺の散策路から外れて、城の中央部に向かうと、礎石建物群の遺跡にたどり着きました。東門側から西門へ向かう行程では、最初に倉庫群跡礎石があります。写真は総柱建物の倉庫のひとつの礎石で、このような建物跡は5棟あり、食料や武器などが収められていたと考えられます。建物のイメージは下図の復元建物の右側です。
管理棟跡礎石(礎石建物5): さらに進むと、倉庫と建物構造の異なる建物跡が2棟あり、これらは役人が常駐していた管理棟と考えられます。建物のイメージは下図の復元建物の左側です。
管理棟建物イメージ 倉庫群建物イメージ
ここまでで、鬼ノ城散策は時間の関係で残念ながら終了となりました。
なお、鬼ノ城の廃城は、城内出土の遺物から、史書に記載されている畿内の高安城(701)、備後の茨城、常城(719)の廃城などとほぼ同時期と考えられています。鬼ノ城は廃城後も倉庫を中心とした備蓄施設としての役割を保っていたようですが、それも8世紀後半には機能を停止しています。
鬼ノ城はこれまでに訪問した城郭とは大きく異なり、非常に古い時代のものであることから、文字史料による城に係る物語の情報はなく、発掘調査結果に基づいた遺構の解釈しかできません。しかし、古代城郭にもかかわらず、当時の最先端の技術を駆使して築かれた壮大な遺構であることを、本日の訪問で実見しました。今回の訪問は日帰り旅行ですので、この後、鬼ノ城を離れ滋賀県までの約250kmの道のりを戻りました。
文責 岡島 敏広
飛鳥時代に大和朝廷によって国の防衛のために築かれたとされる古代山城(神籠石式山城(こうごいししきやまじろ))ですが、鬼ノ城は、『日本書紀』などの歴史書には一切記されておらず、その歴史は解明されずに謎のままです。築造時期が不明の謎の城でしたが、発掘調査成果として出土した土器類から、7世紀後半に造られた可能性が高くなっています。
660年、唐・新羅の連合軍により百済が滅んだことから、大和朝廷は援軍を朝鮮半島に派遣します。しかし、663年、唐・新羅の連合軍に百済・倭軍は白村江で大敗し、日本へ逃げ帰ります。天智天皇は唐・新羅の連合軍が攻めてくることをおそれ、防衛網の再構築および強化のために対馬~畿内に至る要衝に山城や様々な防御施設が造られますが、鬼ノ城もその一つではないかと考えられます。
天智天皇(中大兄皇子)

また、鬼ノ城には吉備津彦命に退治された百済の王子:温羅(うら)が住んでいたといわれ、温羅伝説の発祥の地でもあります。
現在は史跡調査に基づいて整備、復元がなされ、角楼(かくろう)跡や城門跡を訪れることができます。本日は滋賀から岡山までの片道約250kmの日帰りでしたので、鬼ノ城全てを見学することができず、西門~南門~東門の城の半分を巡り、歩行歩数は約7,500歩でした。地図に巡ったコースを矢印で示します。図はクリックにより拡大します。

列石: 鬼ノ城では1971年に写真のような列石や、後に示す水門が発見され、その7年後の調査で、鬼ノ城の大きさや城壁の様子などが明らかになりました。

城は鬼城山の八~九合目を取り囲むようにして築かれた鉢巻き状の城壁で囲まれ、全周は2.8kmにもなります(上記地図の白い線内)。東西南北4箇所の城門と、6箇所の水門が存在し、城内の中央付近に礎石建物が7棟確認されています。
角楼(かくろう)跡(復元されたもの): 鬼城山ビジターセンターから登って、最初に訪れる施設です。鬼ノ城に近づきやすい尾根を警戒して、死角を補い防御力を高めることを目的として築かれています。角楼への昇降のための石段も設けられていますが、この上に建物などがあったのかどうかは不明です。日本の古代山城では、初めて確認された特殊な施設です。

西門(表側)遠景: 西門跡は極めて良好な状態で残されていました。12本の柱の位置や太さ、埋め込まれた深さ、各柱間の寸法も正確に知ることができ、通路床面の石敷や石段、敷石もよく残っていたので、城門の規模と構造を具体的に知ることができました。これらの情報に基づき、柱材はカナダ産ヒバ、板壁にチベットヒノキを用いて、現在は三階建ての城門に復元しています。一階-通路、二階‐城壁上の連絡路、三階-見張りの機能を持つもので、瓦が出土していないことから、板葺きとされています。古代山城の復元例としては、日本初です。

西門内側

敷石(内側): 写真手前に見えるように、城壁に付随して城外側と内側の両方におびただしい数の石が敷き詰められています。城外側の敷石は幅1.5mで敷き詰められていますが、内側の敷石幅は広く幅が5mに及ぶ所もあります。
当初は敷石の役割は通路と推測されていましたが、現在は雨水により城壁が洗われて崩壊しないよう保護するための施設と考えられています。鬼ノ城の敷石は城壁のかなりの部分に敷き並べられていたことがわかりました。このような例は、国内の古代山城や朝鮮半島の同時期の山城にも類例が見られないとのことです。

西門門内(内側より)

西門表側: 西門や角楼をはじめ城壁の随所に、敵からの矢などを防ぐため盾(写真上方のカラフルな板)が置かれたものと考えられます。鬼ノ城と時期の近いものに隼人の盾があります。盾の形は参考にしていますが、盾に描かれた文様は岡山市金蔵山古墳(5世紀)の盾形埴輪に隼人の盾に似た逆S字状モチーフがあることから、それをアレンジしています。鬼面は藤ノ木古墳の鞍金具に描かれた鬼面、綾杉文や周囲を取り巻く鋸歯文は古墳時代の吉備の盾形埴輪などによく見られる文様です。

城外側の敷石と版築土塁: 雨水の浸食から城壁を保護するために、城壁の内外は、雨水が城壁側にながれないよう傾斜をつけて石を敷き詰めています。
また、城壁は直線を基本として、基礎に列石を据え、壁となる位置に型枠を作って、内部に土を入れて、一層ごとに突き固める版築工法により築かれています。そのため、盛土は硬く崩れにくい構造になっています。壁面の縞状に見える土層は、一層ごとに土を突き固めた作業の単位を示しています。土塁の壁面は80度近い勾配で、6m近い高さがあることから、敵兵を簡単には寄せ付けません。

第1・2水門間石塁: 城壁が谷に渡る所では谷を埋めるように石塁がつまれていました。

第2水門: 城壁が谷に渡る所では、城内から集まる水の処理が必要なことから、排水機能を持つ「水門」が設けられています。
写真は撮影していませんが、第0水門と第1水門は石塁の下部から排水されるのに対し、第2水門~第5水門は写真のように通水溝を備え付けて排水しています。城内には第1水門~第5水門それぞれに通じる谷の途中に貯水池が設けられ、飲料水の確保等の水の管理がなされています。

南門跡: 一辺55cm前後の巨大な角柱12本で上屋を構成する大型城門であることが分かっています。南門は細部の違いはあるものの、規模や構造が西門と同じで、これらのいずれが正門なのかわかりません。

南門・第3水門間の高石垣からの眺望

岩切観音(五番): これは磨崖仏で目立ちますが、鬼ノ城の遺構ではないようです。手がたくさんあるので千手観音のようです。散策コースの到達点の目印とされています。

倉庫群跡礎石(礎石建物3): 城の周辺の散策路から外れて、城の中央部に向かうと、礎石建物群の遺跡にたどり着きました。東門側から西門へ向かう行程では、最初に倉庫群跡礎石があります。写真は総柱建物の倉庫のひとつの礎石で、このような建物跡は5棟あり、食料や武器などが収められていたと考えられます。建物のイメージは下図の復元建物の右側です。

管理棟跡礎石(礎石建物5): さらに進むと、倉庫と建物構造の異なる建物跡が2棟あり、これらは役人が常駐していた管理棟と考えられます。建物のイメージは下図の復元建物の左側です。

管理棟建物イメージ 倉庫群建物イメージ

ここまでで、鬼ノ城散策は時間の関係で残念ながら終了となりました。
なお、鬼ノ城の廃城は、城内出土の遺物から、史書に記載されている畿内の高安城(701)、備後の茨城、常城(719)の廃城などとほぼ同時期と考えられています。鬼ノ城は廃城後も倉庫を中心とした備蓄施設としての役割を保っていたようですが、それも8世紀後半には機能を停止しています。
鬼ノ城はこれまでに訪問した城郭とは大きく異なり、非常に古い時代のものであることから、文字史料による城に係る物語の情報はなく、発掘調査結果に基づいた遺構の解釈しかできません。しかし、古代城郭にもかかわらず、当時の最先端の技術を駆使して築かれた壮大な遺構であることを、本日の訪問で実見しました。今回の訪問は日帰り旅行ですので、この後、鬼ノ城を離れ滋賀県までの約250kmの道のりを戻りました。
文責 岡島 敏広
2024年05月06日
2024年5月3日(金)観音寺城跡(追手道沿い曲輪)
観音寺城跡は、城郭探訪会の例会として2022年11月に北腰越登山口から繖山三角点を経由し登るコースから訪問しています。その時の様子はこちらに記載しており、また、滋賀県レイカディア大学同級生4名で2024年3月に観音寺城大土塁(北尾根道)周辺の曲輪を探訪しております。さらに、麓の観音寺城城下町石寺もこちらで訪問し、その下見も行っています。
しかし、本谷道が整備されつつあるという情報を得ましたので、麓からそれを登れないかと試してみました。結論的には、現時点では整備が未完で、どこから登れるのか分からなかったことから、今回はこれまで通っていない追手道に沿って観音寺城を探訪し、下山は赤坂道からすることとしました。
なお、観音寺城の曲輪や登城道の詳細情報は、次にまとめられています。
観音寺城は、六角氏により近江八幡市金剛寺町にあった金剛寺城(金田館)とセットでつくられ、金剛寺城が平地の城館であったのに対し、詰めの山城であった観音寺城はその後大規模に整備されたものであると考えられています。
写真は家臣を城に集住させ、石塁等を整備した六角定頼の騎馬像:
観音寺城では曲輪の名称に、「二の丸」や「三の丸」のような数字ではなく、人の名称が使用されたと伝承されています。これは、六角定頼の時代に近江の家臣団、国人衆を平定し観音寺城へ集住させ、文献上では初めて「城割」を実施したことによると推定されています。
まず、石寺集落はずれにある石寺楽市の有料駐車場に自家用車を駐車し、集落内に入ります。
すぐに、「左 くいんおんし」と書かれた道標を見かけ、それに従い観音正寺に向かって登山を開始します。
本日の探訪コース(青線は追手道に沿った登山コースと立ち寄った曲輪など、黄線は下山に使った赤坂道)を示します。約10,000歩のコースです。
図はクリックすると拡大します。
御屋形(おやかた)跡(天満宮)への石段: 石寺集落内でまず目につくのが、御屋形跡です。現在は天満宮境内となっています。「屋形」(やかた)とは、公家や武家など貴人の館のことを意味し、室町幕府及び江戸幕府においては、名門或いは功績ある武家の当主、及び大藩の藩主に許された称号または敬称であったことから、ここは六角氏当主の住んでいた館跡であると考えられます。
御屋形跡(天満宮)高石垣: 加えて、御屋形跡には「上御用屋敷」(御用屋敷=公用のために利用される屋敷)の地名が残っていることから、このことからも六角氏当主の居館跡に比定されています。
発掘調査が行われていないため、遺構の状況などは分かりませんが、山麓という立地は、まさに平時の居館であったことを想定させ、おそらく、六角氏が観音寺城を居城とした当初、この山麓居館を平時の住まいとしていたと考えられます。高石垣は埋もれていたものが発掘でここまで掘り下げられたとのことです。
追手道を登り始めました。表坂道とも呼ばれ、本谷の西に隣接する尾根道であり、この道が追手道と伝承されています。山裾の御屋形跡と、城の中心部とされる池田丸・落合丸・平井丸・本丸を結んでいます。道沿いには、城内で最大級の高さを有する大石垣があります。道沿いに点在する施設は登城道の防御というよりも、箕作山との間を走る中山道(江戸時代になるまでは東山道)への睨みを目的としたものに見えます。
老蘇の森: 繖山林道に出るまでの途中、木が途切れて見晴らしの良い地点から、蒲生野(写真に広がる平野)と老蘇の森(田畑の中にポツンとある森)が見えました。旧中山道(東山道)は、左(北)から平野の真ん中を右行(南下)し、老蘇の森に当たると、写真向こう側に避けて、そのまままっすぐ右行(南下)しています。その旧中山道(東山道)沿いには民家が立ち並んでいます。
繖山林道と本谷道の交叉点北側にある石塁が積まれた曲輪: 下に示した「観音寺登城道整備現状図」において、白線で示された本谷道(大手道と伝わる谷沿いの幹線路)に沿って登れないかと、追手道から✕印で示した地点まで繖山林道を歩いて行き現地を確認しました。しかし、本谷道に沿って北に登り始めると、道が未整備のため、すぐに「立入危険」と表示されていたことから、本谷道を登ることはあきらめました。
なお、本谷は見付谷という別名があることを裏付けるかのように、地図を見ると本谷道沿いには往来を監視する曲輪が連なっており、鉄壁の防御を感じさせられました。
「YAMAP」(ログイン必要)では、本谷道を登って追手道から下るコースの様子が紹介されています。
観音寺登城道整備現状図(2023年2月16日付状況): ✕印を示した地点は「立入危険」とされていましたので、追手道を継続して登るため、追手道入口まで林道を戻りました。残りは下の現状図の赤線で示された「既存の散策路」(追手道→観音正寺→赤坂道)に従って巡りました。図はクリックにより拡大します。
篝場(かがりば): 追手道を登ってゆくと篝場がありました。狼煙をあげる場所だそうです。
木村丸石塁: さらに進むと木村丸の表示があり、追手道から外れて、埋門を見るため木村丸を訪れました。
木村丸埋門(うずみもん) 曲輪外部(上写真)と内側(下写真): 木村丸の石塁には、トンネル状に穴が空いた埋門があります。石垣や土塀などに小さな開口部が設けられたトンネル状の門のことで、「穴門」とも呼ばれます。普段はあまり使われず、緊急の際の非常口のような役割があったと考えられます。木村丸では外部から見るとかなり埋まっていましたが、内側からはトンネル状であるのがよくわかります。
同じような虎口は、現在は崩れていますが、平井丸などにも見られ、観音寺城の特徴的な虎口の1つとなっています。

大石垣: この先訪れる池田丸から2段下がった曲輪には通称大石垣と呼ばれる高石垣があります。これは城内でも有数の立派な石垣です。
扉石郭の扉石
扉石郭には、扉のような形をした巨石が横たわっています。その重量からして扉には使えそうにはありませんが、この曲輪の名の所以です。吉田勝著「近江観音寺城」には、もともとこの扉石は2個あったが、その1つが馬場邸(曲輪)に運ばれ、現在ある「佐々木城址」の標石として使われていると記されています。
また、残った1つの扉石は2010年4月24日時点で2つに割れているとの記録があります。
池田丸追手道虎口: 池田丸は曲輪の周囲を石塁で囲い、このように虎口を伴っていますが、簡易な平虎口が基本です。
池田丸内から見る石塁: 周囲を石塁で囲っていました。
池田丸排水口: 池田丸内の石塁沿いには、排水口も設けられておりました。
落合丸から平井丸への石段: 池田丸を出て、落合丸前を追手道に沿って歩いています。正面の石塁は平井丸のもの
平井丸虎口: 平井丸の虎口は、城内でも最も巨大な石を用いた立派な平虎口です。
平井丸内部上段曲輪
平井丸外部石塁: 平井丸前を三の丸に向かう道(追手道)で、向こうに石段が見えます。その先に本丸へ向かう大石段があります。
次の写真は本丸へ向かう大石段ですが、排水路も設けられておりました。
本丸は江戸時代の古絵図に「本城」と記されていることから、城の中核部分と思われていますが、ここよりも高い地点にも曲輪が存在すること、この場所が曲輪の分布する範囲の西端に位置することなどから、城の中核部分として理解してよいかは疑問が持たれていました。
他方、他の曲輪が谷筋に位置し、天台寺院の構造を基にしたものであるのに対して、池田丸・平井丸・本丸は尾根筋を削平した所に存在しており、その位置や構造から、城主のために新しく作られた曲輪とも考えられます。本丸の虎口も簡易な平虎口が基本ですが、本丸の北から桑実寺に向かう場所に位置する裏虎口(搦手口)は、石塁をずらして配置する食い違い虎口となっています。ただし、周囲の状況からみて後から改修されたものである可能性があります。
本丸大石段 本丸大石段排水路

大夫殿井戸: 本丸搦手口にあります。今でもきれいに澄んだ水をたたえていました。
この後、観音正寺の境内を通って、赤坂道の方から下山しました。
閼伽坂見附: 赤坂道の途中にある見附で、見附とは、見張りの番兵を置いた軍事施設で、赤坂道の見張り場所として石塁が積まれています。
赤坂道: 観音正寺の参道。観音正寺の境内につながる道であり、登城道では無いとされていますが、よく整備されており現在では観音寺城域に入るためのメインルートとして使われています。道沿いには、上記のように赤坂見付などの石垣が見られ、登城道としての風格を併せ持っています。
赤坂道を過ぎると、石寺の日吉神社に到達し、本日の観音寺城訪問は終了しました。
石寺集落内では旬のタケノコが無人販売されていましたので、買って帰りました。
文責 岡島敏広
しかし、本谷道が整備されつつあるという情報を得ましたので、麓からそれを登れないかと試してみました。結論的には、現時点では整備が未完で、どこから登れるのか分からなかったことから、今回はこれまで通っていない追手道に沿って観音寺城を探訪し、下山は赤坂道からすることとしました。
なお、観音寺城の曲輪や登城道の詳細情報は、次にまとめられています。
観音寺城は、六角氏により近江八幡市金剛寺町にあった金剛寺城(金田館)とセットでつくられ、金剛寺城が平地の城館であったのに対し、詰めの山城であった観音寺城はその後大規模に整備されたものであると考えられています。
写真は家臣を城に集住させ、石塁等を整備した六角定頼の騎馬像:
観音寺城では曲輪の名称に、「二の丸」や「三の丸」のような数字ではなく、人の名称が使用されたと伝承されています。これは、六角定頼の時代に近江の家臣団、国人衆を平定し観音寺城へ集住させ、文献上では初めて「城割」を実施したことによると推定されています。

まず、石寺集落はずれにある石寺楽市の有料駐車場に自家用車を駐車し、集落内に入ります。
すぐに、「左 くいんおんし」と書かれた道標を見かけ、それに従い観音正寺に向かって登山を開始します。

本日の探訪コース(青線は追手道に沿った登山コースと立ち寄った曲輪など、黄線は下山に使った赤坂道)を示します。約10,000歩のコースです。
図はクリックすると拡大します。

御屋形(おやかた)跡(天満宮)への石段: 石寺集落内でまず目につくのが、御屋形跡です。現在は天満宮境内となっています。「屋形」(やかた)とは、公家や武家など貴人の館のことを意味し、室町幕府及び江戸幕府においては、名門或いは功績ある武家の当主、及び大藩の藩主に許された称号または敬称であったことから、ここは六角氏当主の住んでいた館跡であると考えられます。

御屋形跡(天満宮)高石垣: 加えて、御屋形跡には「上御用屋敷」(御用屋敷=公用のために利用される屋敷)の地名が残っていることから、このことからも六角氏当主の居館跡に比定されています。
発掘調査が行われていないため、遺構の状況などは分かりませんが、山麓という立地は、まさに平時の居館であったことを想定させ、おそらく、六角氏が観音寺城を居城とした当初、この山麓居館を平時の住まいとしていたと考えられます。高石垣は埋もれていたものが発掘でここまで掘り下げられたとのことです。

追手道を登り始めました。表坂道とも呼ばれ、本谷の西に隣接する尾根道であり、この道が追手道と伝承されています。山裾の御屋形跡と、城の中心部とされる池田丸・落合丸・平井丸・本丸を結んでいます。道沿いには、城内で最大級の高さを有する大石垣があります。道沿いに点在する施設は登城道の防御というよりも、箕作山との間を走る中山道(江戸時代になるまでは東山道)への睨みを目的としたものに見えます。

老蘇の森: 繖山林道に出るまでの途中、木が途切れて見晴らしの良い地点から、蒲生野(写真に広がる平野)と老蘇の森(田畑の中にポツンとある森)が見えました。旧中山道(東山道)は、左(北)から平野の真ん中を右行(南下)し、老蘇の森に当たると、写真向こう側に避けて、そのまままっすぐ右行(南下)しています。その旧中山道(東山道)沿いには民家が立ち並んでいます。

繖山林道と本谷道の交叉点北側にある石塁が積まれた曲輪: 下に示した「観音寺登城道整備現状図」において、白線で示された本谷道(大手道と伝わる谷沿いの幹線路)に沿って登れないかと、追手道から✕印で示した地点まで繖山林道を歩いて行き現地を確認しました。しかし、本谷道に沿って北に登り始めると、道が未整備のため、すぐに「立入危険」と表示されていたことから、本谷道を登ることはあきらめました。
なお、本谷は見付谷という別名があることを裏付けるかのように、地図を見ると本谷道沿いには往来を監視する曲輪が連なっており、鉄壁の防御を感じさせられました。
「YAMAP」(ログイン必要)では、本谷道を登って追手道から下るコースの様子が紹介されています。

観音寺登城道整備現状図(2023年2月16日付状況): ✕印を示した地点は「立入危険」とされていましたので、追手道を継続して登るため、追手道入口まで林道を戻りました。残りは下の現状図の赤線で示された「既存の散策路」(追手道→観音正寺→赤坂道)に従って巡りました。図はクリックにより拡大します。

篝場(かがりば): 追手道を登ってゆくと篝場がありました。狼煙をあげる場所だそうです。

木村丸石塁: さらに進むと木村丸の表示があり、追手道から外れて、埋門を見るため木村丸を訪れました。

木村丸埋門(うずみもん) 曲輪外部(上写真)と内側(下写真): 木村丸の石塁には、トンネル状に穴が空いた埋門があります。石垣や土塀などに小さな開口部が設けられたトンネル状の門のことで、「穴門」とも呼ばれます。普段はあまり使われず、緊急の際の非常口のような役割があったと考えられます。木村丸では外部から見るとかなり埋まっていましたが、内側からはトンネル状であるのがよくわかります。
同じような虎口は、現在は崩れていますが、平井丸などにも見られ、観音寺城の特徴的な虎口の1つとなっています。


大石垣: この先訪れる池田丸から2段下がった曲輪には通称大石垣と呼ばれる高石垣があります。これは城内でも有数の立派な石垣です。

扉石郭の扉石
扉石郭には、扉のような形をした巨石が横たわっています。その重量からして扉には使えそうにはありませんが、この曲輪の名の所以です。吉田勝著「近江観音寺城」には、もともとこの扉石は2個あったが、その1つが馬場邸(曲輪)に運ばれ、現在ある「佐々木城址」の標石として使われていると記されています。
また、残った1つの扉石は2010年4月24日時点で2つに割れているとの記録があります。

池田丸追手道虎口: 池田丸は曲輪の周囲を石塁で囲い、このように虎口を伴っていますが、簡易な平虎口が基本です。

池田丸内から見る石塁: 周囲を石塁で囲っていました。

池田丸排水口: 池田丸内の石塁沿いには、排水口も設けられておりました。

落合丸から平井丸への石段: 池田丸を出て、落合丸前を追手道に沿って歩いています。正面の石塁は平井丸のもの

平井丸虎口: 平井丸の虎口は、城内でも最も巨大な石を用いた立派な平虎口です。

平井丸内部上段曲輪

平井丸外部石塁: 平井丸前を三の丸に向かう道(追手道)で、向こうに石段が見えます。その先に本丸へ向かう大石段があります。

次の写真は本丸へ向かう大石段ですが、排水路も設けられておりました。
本丸は江戸時代の古絵図に「本城」と記されていることから、城の中核部分と思われていますが、ここよりも高い地点にも曲輪が存在すること、この場所が曲輪の分布する範囲の西端に位置することなどから、城の中核部分として理解してよいかは疑問が持たれていました。
他方、他の曲輪が谷筋に位置し、天台寺院の構造を基にしたものであるのに対して、池田丸・平井丸・本丸は尾根筋を削平した所に存在しており、その位置や構造から、城主のために新しく作られた曲輪とも考えられます。本丸の虎口も簡易な平虎口が基本ですが、本丸の北から桑実寺に向かう場所に位置する裏虎口(搦手口)は、石塁をずらして配置する食い違い虎口となっています。ただし、周囲の状況からみて後から改修されたものである可能性があります。
本丸大石段 本丸大石段排水路


大夫殿井戸: 本丸搦手口にあります。今でもきれいに澄んだ水をたたえていました。

この後、観音正寺の境内を通って、赤坂道の方から下山しました。
閼伽坂見附: 赤坂道の途中にある見附で、見附とは、見張りの番兵を置いた軍事施設で、赤坂道の見張り場所として石塁が積まれています。

赤坂道: 観音正寺の参道。観音正寺の境内につながる道であり、登城道では無いとされていますが、よく整備されており現在では観音寺城域に入るためのメインルートとして使われています。道沿いには、上記のように赤坂見付などの石垣が見られ、登城道としての風格を併せ持っています。

赤坂道を過ぎると、石寺の日吉神社に到達し、本日の観音寺城訪問は終了しました。
石寺集落内では旬のタケノコが無人販売されていましたので、買って帰りました。
文責 岡島敏広
2024年04月20日
2024年4月16日(火)一乗谷朝倉氏館と復原町並(レイカディア大学北陸支援旅行)
レイカディア大学地域文化学科43期卒業生は、4月16~17日北陸支援旅行と称し、福井県一乗谷朝倉氏遺跡と丸岡城、並びに越前和紙の里と今庄そば道場、石川県山代温泉を訪れました。
本ブログは「城郭探訪」ですので、ここでは4月16日に訪問した一乗谷朝倉氏遺跡につき報告します。
丸岡城については、既に報告しておりますので、こちらをご覧ください。また、一乗谷も2022年に訪問しており、城下町を歩いております。そのときの様子はこちらに報告しております。興味がありましたら、ご覧ください。
朝倉義景の一乗谷城下町が、現在のように「遺跡」に変わり果ててしまったのは、一乗谷城の戦い(刀根坂の戦い)によるものです。
以下の話は、ガイドをお願いした朝倉氏遺跡保存協会会長さん直々のお話を要約したものです。
天正元年(1573)8月13日、前日の暴風雨の中、織田信長による想定外の奇襲によって、浅井長政救援のために築いていた小谷城 大嶽砦が陥落させられたことを朝倉義景は知りました。主力重臣らを欠いた朝倉勢2万は戦意も低いことから、織田軍総勢3万に対し勝ち目がないことを悟り、撤退を決断しました。
戦意を失った朝倉軍は、退却戦の混乱に加えて織田軍の追撃を受け皆殺しにされ、壊滅してしまいました。朝倉義景はわずか17名の手勢を率いて、一乗谷へ帰還したのだそうです。他方、信長による比叡山の焼き打ちの話を耳にしていた一乗谷城下町の住民は逃げてしまい、もぬけの殻となった町は焼き払われ、それがまるでイタリアのポンペイのように、手付かずで時間が止まったまま今日まで封印されました。
一乗谷朝倉氏遺跡は1967年から発掘調査が進められ、1971年には一乗谷城を含む278 haが国の特別史跡に指定されました。
朝倉氏館跡(あさくらしやかたあと)と館跡庭園
まず、朝倉氏館跡を訪問しました。遺跡で見学した箇所は、理解を深めるため、近くの一乗谷朝倉氏遺跡博物館で見学した展示物と比較しながら話を進めます。
朝倉氏館跡は、第5代当主朝倉義景が住んだ館の跡で、6,500㎡程の敷地があり三方は土塁(どるい)と濠(ほり)で囲まれています。常御殿(つねごてん)、会所(かいしょ)、主殿(しゅでん)、茶室(ちゃしつ)、日本最古の花壇(中庭)のほか、台所、厩(うまや)、蔵などが整然と配置されていました。
東側の山際にある館跡庭園(池庭)は力強い滝の石組、護岸石組を持ち、その洗練された石組に京都との文化の交流が感じられます。
一乗谷古絵図(春日神社蔵)で江戸時代末期1847年以降に松雲院(現在の唐門のある朝倉氏館跡)を中心に描かれた一乗谷の村の様子です。下記唐門周辺の江戸時代の様子が伺えるとともに、背後の山頂には一乗谷城の曲輪も見えます。図をクリックすると解説付き絵図に変わります。
朝倉氏館跡と濠: 朝倉氏館跡西側にある唐門が建てられた入口と濠です。
現在の唐門や館跡にあった心月寺(松雲院)は、豊臣秀吉により寄進されたとの説明でした。したがって、唐門は朝倉氏館のものではなく、松雲院の遺構です。
秀吉の寄進を示す証拠として、唐門の正面には朝倉家の家紋(三つ盛り木瓜)が掲げられていますが、その後ろに豊臣家の紋(五七の桐)が掲げられています。
唐門の朝倉家家紋 唐門の豊臣家家紋

朝倉義景墓所: 朝倉氏館跡内の東南隅旧松雲院墓地内にあります。
朝倉義景は、天正元年(1573)8月20日、大野六坊賢松寺で一族筆頭の朝倉景鏡の裏切りにより自刃しました。現在大野市にも義景の墓がありますが、それは江戸時代建立のものです。館跡の墓は天正4年に村民の建てた小祠が始まりで、寛文3年(1663)福井藩主松平光通により現在の墓塔が立てられました。館跡には当初朝倉氏の菩提寺心月寺が置かれました。この心月寺は朝倉氏滅亡後、一時丹生郡に避難していましたが、慶長4年、館跡に再興されました。その後慶長6年に北ノ庄に移り、館跡の寺と墓は心月寺の末寺として義景の法名をとり「松雲院」として残されることとなりました。
発掘前の館跡地には中央に「松雲院」が、西北部に「足羽町一乗谷支所」が置かれていましたが、発掘開始時にそれぞれ移転し、松雲院は心月寺と統合されました。
発掘前朝倉氏館跡外から撮影(写真中央は唐門): ガイドさんの説明では、発掘前には、現在一乗谷朝倉氏遺跡の中央を通る福井県道18号 鯖江美山線は、朝倉氏館跡の濠の所を通っていたとのことです。
発掘前朝倉氏館跡内から撮影(写真上方は唐門): 県道を通る車が見えます。
朝倉氏館: 発掘調査の結果に基づいて城下町一乗谷の繁栄の様子を「洛中洛外図屏風」風に表現した「一乗谷城下町図屏風」が作成されています。それより抜粋した朝倉氏館の姿です(上が東、左が北)。
京都細川管領邸(上杉本): 朝倉氏館は洛中洛外図屏風と比較すると、細川管領邸と邸の構造・建物の配置が酷似していることがわかります。細川管領邸は「洛中洛外図をめぐる」から、その場所を見つけることができます。
京都細川管領館(歴博本): 同じ細川管領邸の部分を「洛中洛外図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)から抜粋しました。
一乗谷朝倉氏遺跡博物館に展示されていた朝倉氏館跡配置図(上が南、右が西で現在唐門があります。)と同じ方向からみるジオラマ(配置図はクリックで拡大します。)
主殿(表御殿)では主(当主)従(家臣)の確認の儀礼が執り行われます。儀礼では大中小のかわらけで酒を酌み交わしますが、かわらけは使い捨てであることから、主殿のあった所からはかわらけが多量に出土します。
会所(奥御殿)では主従の確認の後、宴会が行われますが、場合によってはここで庭園を見ながら和歌や連歌も行われます。
主殿・会所が公の場であるのに対し、会所の手前の建物の常御殿では当主の日常生活が行われ、ここは当主の私的な場です。

朝倉氏館小座敷跡から見る池庭(発掘現場): 手前のガラス台は小座敷、右のガラス台は泉殿の足元を想定したものと思われます。
朝倉氏館小座敷から見る池庭(博物館内原寸再現): この庭の作庭の目的が、将軍足利義昭を朝倉氏当主の館にお迎えし御成を執り行うための舞台装置として建物も含めて増築されていることが調査により判明しています。
朝倉氏館泉殿跡から見る中庭の花壇(発掘現場): 手前のガラス台は泉殿の足元を想定したものと思われます。
朝倉氏館泉殿から見る中庭の花壇と会所・常御殿(博物館内原寸再現2024.4.16撮影)
朝倉氏館主殿から見る中庭の花壇と会所・常御殿(博物館内原寸再現2022.11.16撮影): 花壇内へ行く通路が設置されていなかった時点での写真です。
南からの館風景(ジオラマ): 板塀で区切られた右側に主殿があり、今回は主殿、中庭、泉殿、小座敷、池庭、会所(常御殿)を主に見学しました。
復原町並地区
1967年から今日まで、福井県の手で続けられている発掘調査により、一乗谷には当時、京都のような整然とした町並みがあったことが確認されています。その武家屋敷と町屋からなる町並みの一部(200m)が復原されている一乗谷朝倉氏遺跡最大の見どころが「復原町並」です。
塀に囲まれた重臣の屋敷が山際に並び、計画的に造られた道路をはさんで、中級武家屋敷や庶民の町屋が建ち並んでいた様子がリアルに再現されています。
発掘された塀の石垣や建物礎石をそのまま使い、柱や壁、建具なども出土した遺物に基づいて復原されています。
復原とは: ガイドの最初に、「復元」と「復原」の意味の違いの説明を受けました。「復元」は遺跡で発掘される建物の痕跡(遺構)から、上部構造を考えることを意味します。対して、「復原」は、文化財建造物の修理の際に用いられる用語で、多くの場合、建物は長い年月の間に増改築や改造が行われますので、改造の痕跡をもとに、改造前の姿に戻すことを意味します。
復原町並地図: 復原されている一乗谷城下町町並み部分を地図にしたもので、クリックすると拡大します。
復原町並通り北側からの風景: 撮影しているのは、城下町の中心である朝倉氏館跡唐門近く、一乗谷川を挟んだ西側で、写真の右(西)側に山があり、道は右に曲がっていますが、先の方まで見通せる状態です。
復原町並通り南側からの風景: 京から兵が一乗谷を攻める場合、こちら側から町に侵入してきます。左(西)側に山があり、道は左に曲がっています。加えて、左(西)側の石垣と土塀が出っ張っていて、奥まで見通しにくくなっています。さらには、道の奥はかぎ状に左に曲がり、町の様子が把握しにくく設計されています。
上級武家屋敷門: 山(西)側は上級武士の屋敷地で、その門は四本の柱のある格式高い薬医門が使われていました。
中級武家屋敷門: 道路の東側、川に近い側には、中級武士や庶民の建物が建てられ、写真は中級武家屋敷の入口で、二本柱の棟門が使われていました。
発掘・復原前の復原町並: 建物が復原される前の写真をガイドさんが見せてくれました。屋敷地は田んぼとなって、石垣のみが残り、あぜ道として使われていたそうです。
現在も、建物が復原されていない所(平面復原地区)は上記写真と同様の風景を残しています。
また、一乗谷朝倉氏遺跡のこの地区では、トイレの遺構も発見され、「戦国時代」の庶民に用いられていたトイレも忠実に復原されていますが、朝倉氏館跡ではトイレの遺構が発見されていません。
現在ものようですが、高貴なお方は砂の入った御丸に用を足し、それを侍医が見て健康チェックしていたとのことで、高貴な方にはトイレの設備は必要なかったようです。
前回に引き続き、今回も、私たち地域文化学科にふさわしい楽しく、かつ知的な見学・体験旅行を企画いただいた幹事団(H.S.さん、K.H.さん、K.O.さん)及びそれを企画通りに盛り上げていただいた参加者の皆様に感謝いたします。
文責 岡島 敏広
本ブログは「城郭探訪」ですので、ここでは4月16日に訪問した一乗谷朝倉氏遺跡につき報告します。
丸岡城については、既に報告しておりますので、こちらをご覧ください。また、一乗谷も2022年に訪問しており、城下町を歩いております。そのときの様子はこちらに報告しております。興味がありましたら、ご覧ください。
朝倉義景の一乗谷城下町が、現在のように「遺跡」に変わり果ててしまったのは、一乗谷城の戦い(刀根坂の戦い)によるものです。

以下の話は、ガイドをお願いした朝倉氏遺跡保存協会会長さん直々のお話を要約したものです。

天正元年(1573)8月13日、前日の暴風雨の中、織田信長による想定外の奇襲によって、浅井長政救援のために築いていた小谷城 大嶽砦が陥落させられたことを朝倉義景は知りました。主力重臣らを欠いた朝倉勢2万は戦意も低いことから、織田軍総勢3万に対し勝ち目がないことを悟り、撤退を決断しました。
戦意を失った朝倉軍は、退却戦の混乱に加えて織田軍の追撃を受け皆殺しにされ、壊滅してしまいました。朝倉義景はわずか17名の手勢を率いて、一乗谷へ帰還したのだそうです。他方、信長による比叡山の焼き打ちの話を耳にしていた一乗谷城下町の住民は逃げてしまい、もぬけの殻となった町は焼き払われ、それがまるでイタリアのポンペイのように、手付かずで時間が止まったまま今日まで封印されました。
一乗谷朝倉氏遺跡は1967年から発掘調査が進められ、1971年には一乗谷城を含む278 haが国の特別史跡に指定されました。
朝倉氏館跡(あさくらしやかたあと)と館跡庭園
まず、朝倉氏館跡を訪問しました。遺跡で見学した箇所は、理解を深めるため、近くの一乗谷朝倉氏遺跡博物館で見学した展示物と比較しながら話を進めます。

朝倉氏館跡は、第5代当主朝倉義景が住んだ館の跡で、6,500㎡程の敷地があり三方は土塁(どるい)と濠(ほり)で囲まれています。常御殿(つねごてん)、会所(かいしょ)、主殿(しゅでん)、茶室(ちゃしつ)、日本最古の花壇(中庭)のほか、台所、厩(うまや)、蔵などが整然と配置されていました。
東側の山際にある館跡庭園(池庭)は力強い滝の石組、護岸石組を持ち、その洗練された石組に京都との文化の交流が感じられます。
一乗谷古絵図(春日神社蔵)で江戸時代末期1847年以降に松雲院(現在の唐門のある朝倉氏館跡)を中心に描かれた一乗谷の村の様子です。下記唐門周辺の江戸時代の様子が伺えるとともに、背後の山頂には一乗谷城の曲輪も見えます。図をクリックすると解説付き絵図に変わります。

朝倉氏館跡と濠: 朝倉氏館跡西側にある唐門が建てられた入口と濠です。

現在の唐門や館跡にあった心月寺(松雲院)は、豊臣秀吉により寄進されたとの説明でした。したがって、唐門は朝倉氏館のものではなく、松雲院の遺構です。

秀吉の寄進を示す証拠として、唐門の正面には朝倉家の家紋(三つ盛り木瓜)が掲げられていますが、その後ろに豊臣家の紋(五七の桐)が掲げられています。
唐門の朝倉家家紋 唐門の豊臣家家紋


朝倉義景墓所: 朝倉氏館跡内の東南隅旧松雲院墓地内にあります。
朝倉義景は、天正元年(1573)8月20日、大野六坊賢松寺で一族筆頭の朝倉景鏡の裏切りにより自刃しました。現在大野市にも義景の墓がありますが、それは江戸時代建立のものです。館跡の墓は天正4年に村民の建てた小祠が始まりで、寛文3年(1663)福井藩主松平光通により現在の墓塔が立てられました。館跡には当初朝倉氏の菩提寺心月寺が置かれました。この心月寺は朝倉氏滅亡後、一時丹生郡に避難していましたが、慶長4年、館跡に再興されました。その後慶長6年に北ノ庄に移り、館跡の寺と墓は心月寺の末寺として義景の法名をとり「松雲院」として残されることとなりました。
発掘前の館跡地には中央に「松雲院」が、西北部に「足羽町一乗谷支所」が置かれていましたが、発掘開始時にそれぞれ移転し、松雲院は心月寺と統合されました。

発掘前朝倉氏館跡外から撮影(写真中央は唐門): ガイドさんの説明では、発掘前には、現在一乗谷朝倉氏遺跡の中央を通る福井県道18号 鯖江美山線は、朝倉氏館跡の濠の所を通っていたとのことです。

発掘前朝倉氏館跡内から撮影(写真上方は唐門): 県道を通る車が見えます。

朝倉氏館: 発掘調査の結果に基づいて城下町一乗谷の繁栄の様子を「洛中洛外図屏風」風に表現した「一乗谷城下町図屏風」が作成されています。それより抜粋した朝倉氏館の姿です(上が東、左が北)。

京都細川管領邸(上杉本): 朝倉氏館は洛中洛外図屏風と比較すると、細川管領邸と邸の構造・建物の配置が酷似していることがわかります。細川管領邸は「洛中洛外図をめぐる」から、その場所を見つけることができます。

京都細川管領館(歴博本): 同じ細川管領邸の部分を「洛中洛外図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)から抜粋しました。

一乗谷朝倉氏遺跡博物館に展示されていた朝倉氏館跡配置図(上が南、右が西で現在唐門があります。)と同じ方向からみるジオラマ(配置図はクリックで拡大します。)
主殿(表御殿)では主(当主)従(家臣)の確認の儀礼が執り行われます。儀礼では大中小のかわらけで酒を酌み交わしますが、かわらけは使い捨てであることから、主殿のあった所からはかわらけが多量に出土します。
会所(奥御殿)では主従の確認の後、宴会が行われますが、場合によってはここで庭園を見ながら和歌や連歌も行われます。
主殿・会所が公の場であるのに対し、会所の手前の建物の常御殿では当主の日常生活が行われ、ここは当主の私的な場です。


朝倉氏館小座敷跡から見る池庭(発掘現場): 手前のガラス台は小座敷、右のガラス台は泉殿の足元を想定したものと思われます。

朝倉氏館小座敷から見る池庭(博物館内原寸再現): この庭の作庭の目的が、将軍足利義昭を朝倉氏当主の館にお迎えし御成を執り行うための舞台装置として建物も含めて増築されていることが調査により判明しています。

朝倉氏館泉殿跡から見る中庭の花壇(発掘現場): 手前のガラス台は泉殿の足元を想定したものと思われます。

朝倉氏館泉殿から見る中庭の花壇と会所・常御殿(博物館内原寸再現2024.4.16撮影)

朝倉氏館主殿から見る中庭の花壇と会所・常御殿(博物館内原寸再現2022.11.16撮影): 花壇内へ行く通路が設置されていなかった時点での写真です。

南からの館風景(ジオラマ): 板塀で区切られた右側に主殿があり、今回は主殿、中庭、泉殿、小座敷、池庭、会所(常御殿)を主に見学しました。

復原町並地区
1967年から今日まで、福井県の手で続けられている発掘調査により、一乗谷には当時、京都のような整然とした町並みがあったことが確認されています。その武家屋敷と町屋からなる町並みの一部(200m)が復原されている一乗谷朝倉氏遺跡最大の見どころが「復原町並」です。
塀に囲まれた重臣の屋敷が山際に並び、計画的に造られた道路をはさんで、中級武家屋敷や庶民の町屋が建ち並んでいた様子がリアルに再現されています。
発掘された塀の石垣や建物礎石をそのまま使い、柱や壁、建具なども出土した遺物に基づいて復原されています。
復原とは: ガイドの最初に、「復元」と「復原」の意味の違いの説明を受けました。「復元」は遺跡で発掘される建物の痕跡(遺構)から、上部構造を考えることを意味します。対して、「復原」は、文化財建造物の修理の際に用いられる用語で、多くの場合、建物は長い年月の間に増改築や改造が行われますので、改造の痕跡をもとに、改造前の姿に戻すことを意味します。

復原町並地図: 復原されている一乗谷城下町町並み部分を地図にしたもので、クリックすると拡大します。

復原町並通り北側からの風景: 撮影しているのは、城下町の中心である朝倉氏館跡唐門近く、一乗谷川を挟んだ西側で、写真の右(西)側に山があり、道は右に曲がっていますが、先の方まで見通せる状態です。

復原町並通り南側からの風景: 京から兵が一乗谷を攻める場合、こちら側から町に侵入してきます。左(西)側に山があり、道は左に曲がっています。加えて、左(西)側の石垣と土塀が出っ張っていて、奥まで見通しにくくなっています。さらには、道の奥はかぎ状に左に曲がり、町の様子が把握しにくく設計されています。

上級武家屋敷門: 山(西)側は上級武士の屋敷地で、その門は四本の柱のある格式高い薬医門が使われていました。

中級武家屋敷門: 道路の東側、川に近い側には、中級武士や庶民の建物が建てられ、写真は中級武家屋敷の入口で、二本柱の棟門が使われていました。

発掘・復原前の復原町並: 建物が復原される前の写真をガイドさんが見せてくれました。屋敷地は田んぼとなって、石垣のみが残り、あぜ道として使われていたそうです。

現在も、建物が復原されていない所(平面復原地区)は上記写真と同様の風景を残しています。
また、一乗谷朝倉氏遺跡のこの地区では、トイレの遺構も発見され、「戦国時代」の庶民に用いられていたトイレも忠実に復原されていますが、朝倉氏館跡ではトイレの遺構が発見されていません。
現在ものようですが、高貴なお方は砂の入った御丸に用を足し、それを侍医が見て健康チェックしていたとのことで、高貴な方にはトイレの設備は必要なかったようです。

前回に引き続き、今回も、私たち地域文化学科にふさわしい楽しく、かつ知的な見学・体験旅行を企画いただいた幹事団(H.S.さん、K.H.さん、K.O.さん)及びそれを企画通りに盛り上げていただいた参加者の皆様に感謝いたします。
文責 岡島 敏広
2024年03月28日
2024年3月26日(火)佐々木京極家の菩提寺「霊通山清瀧寺徳源院」訪問
個人旅行で、京極家の菩提寺である「清瀧寺徳源院」(せいりゅうじとくげんいん)を訪問しました。
清瀧寺徳源院は、江戸時代に若狭国の小浜藩をはじめ松江藩・龍野藩・丸亀藩などの城主を務めた大名・京極家の菩提寺です。現在、徳源院には城址碑、京極家累代墓所や道誉手植えとされる桜があります。
寺院は京極家初代氏信による草創(1286)で、寺号も氏信の法号の「清瀧寺殿道善大禅定門」から称したものです。また、江戸時代の京極家第21代高和(たかかず)の代に讃岐の丸亀に転封されましたが、その子第22代高豊(下の肖像画)が寛文12年(1672)に領地の一部とここの地を交換して、寺の復興をはかり、院号も父で初代丸亀藩主・京極高和の院号(徳源院殿恃英遺達大居士)から徳源院と改めました。
このときに近隣に散在していた歴代の宝篋印塔を徳源院に集めたものが、現在の京極家の墓所です。
徳源院の付近(院の南北)には、西念寺(第2代宗綱)、能仁寺(第7代高詮)、勝願寺(第8代高光)といった歴代の菩提寺伝承地が存在し、この清瀧の地が京極家当主の墓地でした。なお、能仁寺の伝承地は発掘調査で確認されており、徳源院の南に隣接する”ノネジダニ”と呼ばれる小谷に位置しています。
第22代京極高豊(第2代丸亀藩主)
ところで、京極氏信は菩提寺清瀧寺(徳源院)を建立と同時に、柏原城(下左写真)を居館とし、清瀧山の山頂に詰城の清瀧山砦を築きました。柏原城については、築城年代や築城者については定かでありません。鎌倉時代初頭に柏原地頭であった柏原弥三郎為永が居城していましたが、正治2年(1200)に後鳥羽院により討伐の命が下され、佐々木信綱によって討伐されました。その賞与として柏原弥三郎為永の柏原城と領地が信綱に給付されました。
今回話題としております「京極氏」は、鎌倉時代以後に近江国を治めていた佐々木氏をルーツに持つ家系で、佐々木信綱から分かれた分家の一つです。信綱の四男で京極氏の初代・氏信は京極高辻に屋敷を構え、京極氏を称し、北近江6郡を与えられ、柏原城も相続して京極佐々木氏の居城となりました。しかし、弘安6年(1283)に近江守に任命された氏信は居城を太平寺城へ移し、弘安9年(1286)に当地に京極氏の菩提寺として「清瀧寺」(下右写真)を建立しました。現在も城址には「清瀧寺」が残っております。
柏原(かしわばら)城跡碑 京極家墓所碑


徳源院への参道は、天台寺院の配置をそのまま残しており、徳源院の一般車用駐車場(成就坊跡)から直線状の参道を山(西)の方に徒歩で上ってゆきます。この参道の両側には、12の僧坊があったといわれています(十二坊跡)。
この時期、花はまだでしたが、直線状の参道はソメイヨシノの桜並木となっています。
徳源院の表門まで来ました。
三代目道誉桜: 有名な道誉桜が2本植えられていました。こちらは三代目で昭和52年(1977)に植えられたものです。
「道誉桜」(写真左)とは、朝廷などの伝統的な権威を恐れず、傍若無人で驕奢(きょうしゃ)で、派手好みの振る舞いにより「ばさら大名」という異名を持った京極(佐々木)高氏(道誉)公(1296-1373)のお手植えと伝えられることから、この名があります。
巨大な枝垂れ桜(糸桜)で、エゾヒガンザクラの一種です。また、三重塔(写真右)は江戸時代に第2代丸亀藩主となった第22代京極高豊が寛文12年(1672)建立したもので、滋賀県指定文化財、塔高15.52m、一辺3.03m、柿葺(こけらぶき)です。
二代目道誉桜(樹齢約360年) 三重塔(塔の左は三代目道誉桜)

三重塔内の如意輪観世音菩薩(パンフレットより): 本尊は如意輪観音菩薩像、右脇に地蔵菩薩立像、左脇に毘沙門天立像を置きます。
2024年桜のライトアップ: 昨年三重塔の修復が完了しそれを記念して、3月28日~4月27日の間、道誉桜がライトアップされる予定です。
徳源院庫裏庭園: 滋賀県指定名勝となっている池泉回遊式庭園は清瀧山の借景を取り入れており、小堀遠州の作庭と伝わります。以前は、名の通り池の周囲を巡ることができたそうですが、苔が傷むので庭に下りるのを止め、現在は庫裏縁側から鑑賞する形になります。今の時期、池の周囲のモミジは葉を落としていますが、秋には紅葉の美しい名所として、徳源院の案内写真で紹介されています。
ちなみに、丸亀にある大名庭園「中津万象園」も京極高豊の命により造られたもので、京極氏のルーツである近江八景を表現した庭園とのことです。
ご住職のお話では、天台宗の徳源院は檀家を持たず、京極家も檀家ではないことから、収入は拝観料のみとのことです。したがって、この庭の手入れも筆者の出身のレイカディア大学卒のボランティアに手伝ってもらい行っているのだそうです。
庭園から見える京極家墓所: 庭園の端に見える漆喰の白塀の向こうは墓所です。4つの屋根が見えますが京極家20~23代(20代松江藩、21~23代丸亀藩)当主の墓所です。
幽霊画(清水節堂 1876-1951)と不動明王像(写真左): 右上の幽霊画は京極家にはゆかりのないものですが、個人蔵であったものが保管されています。幽霊の身長は約180㎝と以外に大きく、等身大の迫力があります。通常展示されるものではなく、これまで年に1度、秋に4日間だけ開催される『寺宝展』で公開されてきたようです。この絵はその世界では傑作といわれながらも、作者がわからないままでしたが、長浜市大路町出身の画家「清水節堂」によるものとが判明しました。清水節堂は東京芸術大学の前身の東京美術学校に入学しますが、貧困のため1年を経ずに退学しました。しかし、その後も同校の教官の下で研鑚します。山水画・人物画・仏画など多彩な作品が残されています。生活のために描きたいものを描けなかった節堂は縁起物など注文品を描くことが中心で、この幽霊画は自発的に描いた渾身の作品といえます。「描表装(かきびょうそう)」といわれる表装(掛け軸の縁)を絵画の中に描く技法を用い、風になびく表装に幽霊を重ね、幽霊がいまにも掛け軸から抜け出してくるかのような構図となっています。
写真の中心にあるのは不動明王です。
本尊を納める厨子(写真右): 金色燦然の荘厳に豪華なお厨子が須弥壇を飾っています。本尊は参道沿いの廃坊になった十二坊の本尊、秘仏の聖観世音菩薩(恵心僧都作)をお祀りしております。
不動明王(本堂内) 本堂内陣の須弥壇と厨子(本堂内)

京極初(左: 常高寺所蔵)と京極高次公(右: 徳源院所蔵)の肖像: 以前には、京極高次公の肖像画の原本が展示されていたようです。
位牌堂内: 本堂の更に奥へと渡り廊下を進むと歴代の当主の位牌が祀られた位牌堂です。京極氏代々の位牌を祀る所で、京極高次公、高豊公のほか、諸公の像六座と位牌が祀られています。
中央の観音菩薩立像の左に大きな第19代京極高次公像がありますが、ご住職のお話では、この当時、当主の場合は生前に絵師により肖像画が描かれて、本人によりその肖像画が似ているかどうかの判断が下されます。そして、本人の死後、その肖像画に基づいて位牌の代わりに木像が作成されたのだそうです。したがって、例えば、京極高次公の場合には、木像が位牌であって、私たちが思うような戒名を書いた位牌はないのだそうです。
また、手前に見える白っぽい(白装束)2人の木像は、松江城主であった京極忠高が亡くなったとき、切腹した殉死者井上門三郎重継(24才、左)と加納又左衛門(62才、右)の像で、これらの方々の死後、武家諸法度により殉死が禁じられました。
位牌堂でのご住職の説明: ご住職は庭園を説明いただいたときに、京極家と血は繋がっていませんが、寺を守るお役割を与えられているとのお話でした。本日は、たった2名の訪問でしたが、それにもかかわらず親切に徳源院について、ご説明いただきました。右に明るく見えるのは本堂へ至る渡り廊下。
京極家墓所: 墓所は築地塀で囲まれ、山の斜面に上下二段の墓地が形作られています。京極家歴代の宝篋印塔(墓)が立ち並んでおり、全域が「清瀧寺京極家墓所」として国指定史跡となっております。
京極家は戦国時代を経る中で、近江ではない各国の大名となりましたが、江戸時代初期に京極家第22代であり、丸亀藩第2代藩主となった京極高豊がこの寺院を再興し、各地に散らばっていた歴代当主の宝篋印塔を集めて整備しました。ご住職のお話では、周辺の宝篋印塔を集めるときに、内容を確認せずに集めたことから、後から墓碑を確認すると当主でない人のものもあり(下の「京極家墓所略図」で数字が示されていない人の墓)、また、歴代の順番でない並びになっています。
写真上方に見える宝篋印塔は二段のうち上段の墓地に並ぶものです。
墓所では、京極家中興の祖である大津城主第19代京極高次(父高吉は浅井氏に権力を奪われていた)の越前より運ばれた笏谷石製石廟の傷みが激しく、その修復工事中で立ち入ることができません。今後、1年以上は修復工事が継続するそうでしたので、本堂内に掲載されていた写真を示しました(掲載の写真は墓所の上段のもので、上記のように、高吉の宝篋印塔はひと回りもふた回りも小さい)。墓所を詳しくレポートされている別の方のブログのリンクを示します。
上段には始祖 氏信をはじめ18世に及ぶ歴代の墓18基が並び、
下段には大津城主高次が石廟に入っており、そのほか、木廟内の4基を含め14基と五輪塔3基があります。
なお、ご住職が不在のことがあり、拝観希望は事前に電話による予約が必要です。
清瀧寺徳源院は、江戸時代に若狭国の小浜藩をはじめ松江藩・龍野藩・丸亀藩などの城主を務めた大名・京極家の菩提寺です。現在、徳源院には城址碑、京極家累代墓所や道誉手植えとされる桜があります。
寺院は京極家初代氏信による草創(1286)で、寺号も氏信の法号の「清瀧寺殿道善大禅定門」から称したものです。また、江戸時代の京極家第21代高和(たかかず)の代に讃岐の丸亀に転封されましたが、その子第22代高豊(下の肖像画)が寛文12年(1672)に領地の一部とここの地を交換して、寺の復興をはかり、院号も父で初代丸亀藩主・京極高和の院号(徳源院殿恃英遺達大居士)から徳源院と改めました。
このときに近隣に散在していた歴代の宝篋印塔を徳源院に集めたものが、現在の京極家の墓所です。
徳源院の付近(院の南北)には、西念寺(第2代宗綱)、能仁寺(第7代高詮)、勝願寺(第8代高光)といった歴代の菩提寺伝承地が存在し、この清瀧の地が京極家当主の墓地でした。なお、能仁寺の伝承地は発掘調査で確認されており、徳源院の南に隣接する”ノネジダニ”と呼ばれる小谷に位置しています。
第22代京極高豊(第2代丸亀藩主)

ところで、京極氏信は菩提寺清瀧寺(徳源院)を建立と同時に、柏原城(下左写真)を居館とし、清瀧山の山頂に詰城の清瀧山砦を築きました。柏原城については、築城年代や築城者については定かでありません。鎌倉時代初頭に柏原地頭であった柏原弥三郎為永が居城していましたが、正治2年(1200)に後鳥羽院により討伐の命が下され、佐々木信綱によって討伐されました。その賞与として柏原弥三郎為永の柏原城と領地が信綱に給付されました。
今回話題としております「京極氏」は、鎌倉時代以後に近江国を治めていた佐々木氏をルーツに持つ家系で、佐々木信綱から分かれた分家の一つです。信綱の四男で京極氏の初代・氏信は京極高辻に屋敷を構え、京極氏を称し、北近江6郡を与えられ、柏原城も相続して京極佐々木氏の居城となりました。しかし、弘安6年(1283)に近江守に任命された氏信は居城を太平寺城へ移し、弘安9年(1286)に当地に京極氏の菩提寺として「清瀧寺」(下右写真)を建立しました。現在も城址には「清瀧寺」が残っております。
柏原(かしわばら)城跡碑 京極家墓所碑


徳源院への参道は、天台寺院の配置をそのまま残しており、徳源院の一般車用駐車場(成就坊跡)から直線状の参道を山(西)の方に徒歩で上ってゆきます。この参道の両側には、12の僧坊があったといわれています(十二坊跡)。
この時期、花はまだでしたが、直線状の参道はソメイヨシノの桜並木となっています。

徳源院の表門まで来ました。

三代目道誉桜: 有名な道誉桜が2本植えられていました。こちらは三代目で昭和52年(1977)に植えられたものです。

「道誉桜」(写真左)とは、朝廷などの伝統的な権威を恐れず、傍若無人で驕奢(きょうしゃ)で、派手好みの振る舞いにより「ばさら大名」という異名を持った京極(佐々木)高氏(道誉)公(1296-1373)のお手植えと伝えられることから、この名があります。
巨大な枝垂れ桜(糸桜)で、エゾヒガンザクラの一種です。また、三重塔(写真右)は江戸時代に第2代丸亀藩主となった第22代京極高豊が寛文12年(1672)建立したもので、滋賀県指定文化財、塔高15.52m、一辺3.03m、柿葺(こけらぶき)です。
二代目道誉桜(樹齢約360年) 三重塔(塔の左は三代目道誉桜)


三重塔内の如意輪観世音菩薩(パンフレットより): 本尊は如意輪観音菩薩像、右脇に地蔵菩薩立像、左脇に毘沙門天立像を置きます。

2024年桜のライトアップ: 昨年三重塔の修復が完了しそれを記念して、3月28日~4月27日の間、道誉桜がライトアップされる予定です。

徳源院庫裏庭園: 滋賀県指定名勝となっている池泉回遊式庭園は清瀧山の借景を取り入れており、小堀遠州の作庭と伝わります。以前は、名の通り池の周囲を巡ることができたそうですが、苔が傷むので庭に下りるのを止め、現在は庫裏縁側から鑑賞する形になります。今の時期、池の周囲のモミジは葉を落としていますが、秋には紅葉の美しい名所として、徳源院の案内写真で紹介されています。
ちなみに、丸亀にある大名庭園「中津万象園」も京極高豊の命により造られたもので、京極氏のルーツである近江八景を表現した庭園とのことです。
ご住職のお話では、天台宗の徳源院は檀家を持たず、京極家も檀家ではないことから、収入は拝観料のみとのことです。したがって、この庭の手入れも筆者の出身のレイカディア大学卒のボランティアに手伝ってもらい行っているのだそうです。

庭園から見える京極家墓所: 庭園の端に見える漆喰の白塀の向こうは墓所です。4つの屋根が見えますが京極家20~23代(20代松江藩、21~23代丸亀藩)当主の墓所です。

幽霊画(清水節堂 1876-1951)と不動明王像(写真左): 右上の幽霊画は京極家にはゆかりのないものですが、個人蔵であったものが保管されています。幽霊の身長は約180㎝と以外に大きく、等身大の迫力があります。通常展示されるものではなく、これまで年に1度、秋に4日間だけ開催される『寺宝展』で公開されてきたようです。この絵はその世界では傑作といわれながらも、作者がわからないままでしたが、長浜市大路町出身の画家「清水節堂」によるものとが判明しました。清水節堂は東京芸術大学の前身の東京美術学校に入学しますが、貧困のため1年を経ずに退学しました。しかし、その後も同校の教官の下で研鑚します。山水画・人物画・仏画など多彩な作品が残されています。生活のために描きたいものを描けなかった節堂は縁起物など注文品を描くことが中心で、この幽霊画は自発的に描いた渾身の作品といえます。「描表装(かきびょうそう)」といわれる表装(掛け軸の縁)を絵画の中に描く技法を用い、風になびく表装に幽霊を重ね、幽霊がいまにも掛け軸から抜け出してくるかのような構図となっています。
写真の中心にあるのは不動明王です。
本尊を納める厨子(写真右): 金色燦然の荘厳に豪華なお厨子が須弥壇を飾っています。本尊は参道沿いの廃坊になった十二坊の本尊、秘仏の聖観世音菩薩(恵心僧都作)をお祀りしております。
不動明王(本堂内) 本堂内陣の須弥壇と厨子(本堂内)


京極初(左: 常高寺所蔵)と京極高次公(右: 徳源院所蔵)の肖像: 以前には、京極高次公の肖像画の原本が展示されていたようです。

位牌堂内: 本堂の更に奥へと渡り廊下を進むと歴代の当主の位牌が祀られた位牌堂です。京極氏代々の位牌を祀る所で、京極高次公、高豊公のほか、諸公の像六座と位牌が祀られています。
中央の観音菩薩立像の左に大きな第19代京極高次公像がありますが、ご住職のお話では、この当時、当主の場合は生前に絵師により肖像画が描かれて、本人によりその肖像画が似ているかどうかの判断が下されます。そして、本人の死後、その肖像画に基づいて位牌の代わりに木像が作成されたのだそうです。したがって、例えば、京極高次公の場合には、木像が位牌であって、私たちが思うような戒名を書いた位牌はないのだそうです。
また、手前に見える白っぽい(白装束)2人の木像は、松江城主であった京極忠高が亡くなったとき、切腹した殉死者井上門三郎重継(24才、左)と加納又左衛門(62才、右)の像で、これらの方々の死後、武家諸法度により殉死が禁じられました。

位牌堂でのご住職の説明: ご住職は庭園を説明いただいたときに、京極家と血は繋がっていませんが、寺を守るお役割を与えられているとのお話でした。本日は、たった2名の訪問でしたが、それにもかかわらず親切に徳源院について、ご説明いただきました。右に明るく見えるのは本堂へ至る渡り廊下。
京極家墓所: 墓所は築地塀で囲まれ、山の斜面に上下二段の墓地が形作られています。京極家歴代の宝篋印塔(墓)が立ち並んでおり、全域が「清瀧寺京極家墓所」として国指定史跡となっております。
京極家は戦国時代を経る中で、近江ではない各国の大名となりましたが、江戸時代初期に京極家第22代であり、丸亀藩第2代藩主となった京極高豊がこの寺院を再興し、各地に散らばっていた歴代当主の宝篋印塔を集めて整備しました。ご住職のお話では、周辺の宝篋印塔を集めるときに、内容を確認せずに集めたことから、後から墓碑を確認すると当主でない人のものもあり(下の「京極家墓所略図」で数字が示されていない人の墓)、また、歴代の順番でない並びになっています。
写真上方に見える宝篋印塔は二段のうち上段の墓地に並ぶものです。

墓所では、京極家中興の祖である大津城主第19代京極高次(父高吉は浅井氏に権力を奪われていた)の越前より運ばれた笏谷石製石廟の傷みが激しく、その修復工事中で立ち入ることができません。今後、1年以上は修復工事が継続するそうでしたので、本堂内に掲載されていた写真を示しました(掲載の写真は墓所の上段のもので、上記のように、高吉の宝篋印塔はひと回りもふた回りも小さい)。墓所を詳しくレポートされている別の方のブログのリンクを示します。

上段には始祖 氏信をはじめ18世に及ぶ歴代の墓18基が並び、
下段には大津城主高次が石廟に入っており、そのほか、木廟内の4基を含め14基と五輪塔3基があります。

なお、ご住職が不在のことがあり、拝観希望は事前に電話による予約が必要です。
文責 岡島敏広
2024年03月02日
2024年2月29日(木)観音寺城跡大土塁(北尾根道)トレイル
城郭探訪会の例会で観音寺城を探訪しておりますが、観音寺城は非常に広く多彩で、その一部しか訪問できていなかったことから、観音寺城大土塁(北尾根道)トレイルを計画し、滋賀県レイカディア大学地域文化学科同級生4名が参加しました。今回の大土塁トレイルは下見をしており、その様子はこちらに記録しております。
先に述べましたように、観音寺城跡は城郭探訪会の例会として、2022年11月に北腰越登山口から登るコースから訪問しています。その時の様子はこちらに記載しており、追手道からの登山はこちらでまとめています。さらに、麓の観音寺城城下町石寺もこちらで2023年3月に訪問しています。
観音寺城は、六角氏により近江八幡市金剛寺町にあった金剛寺城(金田館)とセットでつくられ、金剛寺城が平地の城館であったのに対し、詰めの山城であった観音寺城はその後大規模に整備されたものであると考えられています。この整備には六角定頼が大きく係わっています。
六角定頼の騎馬像: 今回は観音正寺裏参道より自動車で観音正寺まで行きますが、その途中、観音正寺裏参道入口近くの繖山トンネル前には、14代当主六角定頼の騎馬像が建てられています。
定頼は先進的な手法で内政に手腕を発揮し、家臣団を繖山に集住させて本拠である観音寺城を整備し、そのため、大永3年(1523)には日本で初めて家臣に城割(支城の破却)を命じました。これは後世の一国一城令の基になったと言われています。
また、経済発展のため日本で初めて楽市令を出して商人を城下の石寺に集めました。
さらに、第12代将軍足利義晴を支え、天文15年(1546)に義晴から管領代に任じられています。
裏参道駐車場からトレイルのスタートです。
本日のコースでは下図(クリックにより拡大します)のように、観音寺城跡の大土塁を中心に観音正寺の周囲を巡り、そのコース沿いの曲輪を見学しました。コースは青色矢印で図中に示しています。
川並口道(裏参道)を歩き始めてすぐに「目加田屋敷跡」の表示があり、その下方を見ると大きな目加田邸跡の曲輪がありました。目賀田氏は、中世の近江に生きた武家で、近江守護佐々木六角氏の重臣のひとりとして勢力を誇りました。天正4年(1578)、織田信長が近江に侵攻して安土城を築くにあたり、安土山(目加田山)に在った屋敷を目加田貞政の所領である光明寺野(目加田)に移しています。天正10年(1582)の本能寺の変勃発後、城主目賀田堅政は明智光秀に加担したことから秀吉に所領を没収され、一族は離散しています。
目加田屋敷跡表示 左記表示の下に見える曲輪


おちゃこ地蔵: 川並口道沿いに目立つように「おちゃこ地蔵」があります。悲劇のヒロインお茶子が亡くなっていた場所(地蔵の前の谷)をお茶子谷と呼び、お茶子の供養のために建てられた地蔵です。
布施淡路守邸跡 川並口道より撮影: 川並口道(裏参道)を歩くと、「おちゃこ地蔵」の手前ですが、山上に大きな石塁(石垣と異なり、裏込め石、栗石がない石積み)が見えます。山頂から東に延びる尾根上の東端に位置する曲輪です。
布施淡路守邸跡 虎口(西側)内部より撮影: 川並口道沿いにある「おちゃこ地蔵」の右横の入口から登るとすぐに石塁の端を折り曲げて防御を考慮した形の「布施淡路守邸跡」の枡形状虎口となっていました。東近江市大森町にある大森城主で、六角氏の被官布施氏の屋敷跡といわれていますが、位置からみて城の東方を防御・監視する役目を担った曲輪と考えられます。訪問時は笹藪になって曲輪中心部には入れませんでしたが、石塁に沿って右回り(西→北→東→南)に巡ってみました。上に示した地図からは、曲輪は長方形の大きな単郭構造のものです。
布施淡路守邸跡 南西角石塁内部より撮影
布施淡路守邸跡 西側石塁内部より撮影、この先(北側)に墓石が1つあり、「嘉永壬子四月」(嘉永5年,1852, 4月)と記されていました。
布施淡路守邸跡 北側土塁内部より撮影: こちら側には石塁は使われていませんでした。
布施淡路守邸跡 東側石塁外部より撮影
布施淡路守邸跡 南側石塁内部より撮影
奥之院: 川並口道(裏参道)に戻り、観音正寺方向に進むと観音正寺奥之院入口の鳥居があります。
磨崖仏: 鳥居をくぐって登ってゆくと、上方の磐座の石窟内には7体の磨崖仏が薄肉彫されているとのことですが、写真のように近づいて目を凝らしても分かりにくく、特に入口の2体は風化が進んでわからないとのことです。奥の方の5体は手前から菩薩立像、如来坐像2体、菩薩立像、菩薩坐像で平安時代末期頃のものと言われています。しかし、それらも確認できませんでした。以前はこの石屈の入口には熊野権現を祀った社殿(建物)がありましたが、今は社殿は岩が崩れてなくなっています。
磐座: 上方を見上げると巨大な岩が石窟の上に載っているのがわかります。
権現見付: 川並口道の城門の遺構です。
権現見付「大石垣」(奥之院から撮影): 「大石垣」は権現見付から見えますが、奥之院に上ったときに、上方から権現見付に向かって伸びる「大石垣」も見えましたので撮影しました。
観音正寺石垣: 観音正寺において、ご本尊の拝観を済ませて、寺の敷地の脇から下に降りて西方向にゆきますと、道に沿って観音正寺の石垣があります。
観音寺城築城により六角氏によって麓に降ろされていた観音寺は、観音寺城廃城後の江戸時代に観音正寺と名を変えて麓から登ってきています。その時、小さな曲輪が繋がれて、広い現在の観音正寺の敷地が造成されていることから、石垣についても古くからあった石垣に、新しく石垣が継ぎ足され、積み方の技法に違いの見られる場所が段差としてあります。
三雲邸跡~蒲生邸跡を抜けて繖山三角点へ: 先へ進むと、繖山の「三角点」方向を示す標識がありますので、そこから北方向に上へと登って行きます。標識のある辺りは三雲邸跡です。短い距離でしたが、心臓破りの斜面でした。
楢崎邸跡石塁: 三角点に近づいてきますと石塁の長く続いた曲輪(楢崎邸跡)に到達し、上り道は楢崎邸跡の曲輪を迂回するように左(西)側に曲がって行きます。樽崎氏は、犬上郡多賀町の楢崎城を拠点に鎌倉時代より六角氏の下で軍事部門において活躍した一族で、南北朝時代の軍記物「太平記」にも記されています。
沢田邸跡: 大土塁(北尾根道)に到達し、そこから沢田邸跡の曲輪を見下ろしています。大土塁は観音寺城跡の北端の尾根筋を土塁として利用したものです。沢田邸跡の曲輪は城内で最も高い場所に位置する曲輪です。本来ならば尾根上に曲輪を造ってもよい場所ですが、尾根を残して、その南側をわざわざ削り込んで曲輪を造っているのは、天台寺院の跡地を敷地として利用している影響でしょう。
三国丸石塁: 尾根筋の最も高い場所には三国巌と呼ばれる巨石と、石塁によって囲われた三国丸と呼ばれる曲輪があります。三国が見える所ということで、三国丸と名付けられたようです。北側の防御を固めるポイントとして櫓台的な役割を持っていたと考えられています。大土塁(北尾根道)の南側には、西側から東側に向けて、馬渕邸跡(蒲生郡馬渕庄(現・近江八幡市)を領する南近江守護代家)・三井邸跡(目加田氏の分家)・伊庭邸(I)跡・馬場邸跡・伊庭邸(II)跡・大見付といった曲輪群が並びます。
馬渕邸跡北側の石塁へ: 三国丸を過ぎて馬渕邸跡の北(かつ、上方)の大土塁のさらに北側斜面(眼下)にある曲輪(名称は不明)にも写真のように虎口のような石塁が見られました。そこまで下りることができたので、どのようになっているのか下りて、大土塁の方に戻ってきた場面を撮影していますが、そこには次の写真のように大きな石塁がそびえていました。
馬渕邸跡付近大土塁北側斜面の石塁: 下におりて確認した石塁です。
伊庭邸(I)跡・馬場邸跡間堀切: 近江守護代であった伊庭邸(I)跡から馬場邸跡へ向かう時、それらの曲輪の間は明確に堀切で切られておりました。
佐々木城址石碑: 馬場邸跡を出ると佐々木城址の石碑が立っていました。石碑は大正4年11月に建立されたものです。
佐々木城址石碑下に見える奥之院: 左に奥之院の鳥居が小さく見えています(写真をクリックすると拡大します)。
伊庭邸(II)跡から曲輪外へ: 佐々木城址石碑を過ぎると、すぐに伊庭氏の伊庭邸(II)跡に入り、写真は石塁を乗り越えて曲輪を出ようとしています。伊庭氏は近江源氏佐々木氏の支流であり、神崎郡伊庭邑(東近江市伊庭町)に居住したことから、伊庭氏を称しました。
大見付内部石塁: コースの最後ですが、大見付内部に入り、内部から石塁を撮影しました。
通常、見付とは城門のことですが、この大見付は城門というより曲輪です。
大見付を過ぎると、おちゃこ地蔵左横の登山口に出て、川並口道まで戻り、本日の予定コースはすべて終了しました。
本日は天気が崩れるとの予報で、心配しながら歩きましたが、幸運にも、雨に降られることなく無事トレイルを終了できました。ちょうどお昼時でしたので、この後、反省を兼ねて、空腹を満たしつつ、喉も潤しました。
文責 岡島敏広
参考図書: 図説六角氏と観音寺城 新谷和之 戎光祥出版
先に述べましたように、観音寺城跡は城郭探訪会の例会として、2022年11月に北腰越登山口から登るコースから訪問しています。その時の様子はこちらに記載しており、追手道からの登山はこちらでまとめています。さらに、麓の観音寺城城下町石寺もこちらで2023年3月に訪問しています。
観音寺城は、六角氏により近江八幡市金剛寺町にあった金剛寺城(金田館)とセットでつくられ、金剛寺城が平地の城館であったのに対し、詰めの山城であった観音寺城はその後大規模に整備されたものであると考えられています。この整備には六角定頼が大きく係わっています。
六角定頼の騎馬像: 今回は観音正寺裏参道より自動車で観音正寺まで行きますが、その途中、観音正寺裏参道入口近くの繖山トンネル前には、14代当主六角定頼の騎馬像が建てられています。
定頼は先進的な手法で内政に手腕を発揮し、家臣団を繖山に集住させて本拠である観音寺城を整備し、そのため、大永3年(1523)には日本で初めて家臣に城割(支城の破却)を命じました。これは後世の一国一城令の基になったと言われています。
また、経済発展のため日本で初めて楽市令を出して商人を城下の石寺に集めました。
さらに、第12代将軍足利義晴を支え、天文15年(1546)に義晴から管領代に任じられています。

裏参道駐車場からトレイルのスタートです。

本日のコースでは下図(クリックにより拡大します)のように、観音寺城跡の大土塁を中心に観音正寺の周囲を巡り、そのコース沿いの曲輪を見学しました。コースは青色矢印で図中に示しています。

川並口道(裏参道)を歩き始めてすぐに「目加田屋敷跡」の表示があり、その下方を見ると大きな目加田邸跡の曲輪がありました。目賀田氏は、中世の近江に生きた武家で、近江守護佐々木六角氏の重臣のひとりとして勢力を誇りました。天正4年(1578)、織田信長が近江に侵攻して安土城を築くにあたり、安土山(目加田山)に在った屋敷を目加田貞政の所領である光明寺野(目加田)に移しています。天正10年(1582)の本能寺の変勃発後、城主目賀田堅政は明智光秀に加担したことから秀吉に所領を没収され、一族は離散しています。
目加田屋敷跡表示 左記表示の下に見える曲輪


おちゃこ地蔵: 川並口道沿いに目立つように「おちゃこ地蔵」があります。悲劇のヒロインお茶子が亡くなっていた場所(地蔵の前の谷)をお茶子谷と呼び、お茶子の供養のために建てられた地蔵です。

布施淡路守邸跡 川並口道より撮影: 川並口道(裏参道)を歩くと、「おちゃこ地蔵」の手前ですが、山上に大きな石塁(石垣と異なり、裏込め石、栗石がない石積み)が見えます。山頂から東に延びる尾根上の東端に位置する曲輪です。

布施淡路守邸跡 虎口(西側)内部より撮影: 川並口道沿いにある「おちゃこ地蔵」の右横の入口から登るとすぐに石塁の端を折り曲げて防御を考慮した形の「布施淡路守邸跡」の枡形状虎口となっていました。東近江市大森町にある大森城主で、六角氏の被官布施氏の屋敷跡といわれていますが、位置からみて城の東方を防御・監視する役目を担った曲輪と考えられます。訪問時は笹藪になって曲輪中心部には入れませんでしたが、石塁に沿って右回り(西→北→東→南)に巡ってみました。上に示した地図からは、曲輪は長方形の大きな単郭構造のものです。

布施淡路守邸跡 南西角石塁内部より撮影

布施淡路守邸跡 西側石塁内部より撮影、この先(北側)に墓石が1つあり、「嘉永壬子四月」(嘉永5年,1852, 4月)と記されていました。

布施淡路守邸跡 北側土塁内部より撮影: こちら側には石塁は使われていませんでした。

布施淡路守邸跡 東側石塁外部より撮影

布施淡路守邸跡 南側石塁内部より撮影

奥之院: 川並口道(裏参道)に戻り、観音正寺方向に進むと観音正寺奥之院入口の鳥居があります。

磨崖仏: 鳥居をくぐって登ってゆくと、上方の磐座の石窟内には7体の磨崖仏が薄肉彫されているとのことですが、写真のように近づいて目を凝らしても分かりにくく、特に入口の2体は風化が進んでわからないとのことです。奥の方の5体は手前から菩薩立像、如来坐像2体、菩薩立像、菩薩坐像で平安時代末期頃のものと言われています。しかし、それらも確認できませんでした。以前はこの石屈の入口には熊野権現を祀った社殿(建物)がありましたが、今は社殿は岩が崩れてなくなっています。

磐座: 上方を見上げると巨大な岩が石窟の上に載っているのがわかります。

権現見付: 川並口道の城門の遺構です。

権現見付「大石垣」(奥之院から撮影): 「大石垣」は権現見付から見えますが、奥之院に上ったときに、上方から権現見付に向かって伸びる「大石垣」も見えましたので撮影しました。

観音正寺石垣: 観音正寺において、ご本尊の拝観を済ませて、寺の敷地の脇から下に降りて西方向にゆきますと、道に沿って観音正寺の石垣があります。
観音寺城築城により六角氏によって麓に降ろされていた観音寺は、観音寺城廃城後の江戸時代に観音正寺と名を変えて麓から登ってきています。その時、小さな曲輪が繋がれて、広い現在の観音正寺の敷地が造成されていることから、石垣についても古くからあった石垣に、新しく石垣が継ぎ足され、積み方の技法に違いの見られる場所が段差としてあります。

三雲邸跡~蒲生邸跡を抜けて繖山三角点へ: 先へ進むと、繖山の「三角点」方向を示す標識がありますので、そこから北方向に上へと登って行きます。標識のある辺りは三雲邸跡です。短い距離でしたが、心臓破りの斜面でした。

楢崎邸跡石塁: 三角点に近づいてきますと石塁の長く続いた曲輪(楢崎邸跡)に到達し、上り道は楢崎邸跡の曲輪を迂回するように左(西)側に曲がって行きます。樽崎氏は、犬上郡多賀町の楢崎城を拠点に鎌倉時代より六角氏の下で軍事部門において活躍した一族で、南北朝時代の軍記物「太平記」にも記されています。

沢田邸跡: 大土塁(北尾根道)に到達し、そこから沢田邸跡の曲輪を見下ろしています。大土塁は観音寺城跡の北端の尾根筋を土塁として利用したものです。沢田邸跡の曲輪は城内で最も高い場所に位置する曲輪です。本来ならば尾根上に曲輪を造ってもよい場所ですが、尾根を残して、その南側をわざわざ削り込んで曲輪を造っているのは、天台寺院の跡地を敷地として利用している影響でしょう。

三国丸石塁: 尾根筋の最も高い場所には三国巌と呼ばれる巨石と、石塁によって囲われた三国丸と呼ばれる曲輪があります。三国が見える所ということで、三国丸と名付けられたようです。北側の防御を固めるポイントとして櫓台的な役割を持っていたと考えられています。大土塁(北尾根道)の南側には、西側から東側に向けて、馬渕邸跡(蒲生郡馬渕庄(現・近江八幡市)を領する南近江守護代家)・三井邸跡(目加田氏の分家)・伊庭邸(I)跡・馬場邸跡・伊庭邸(II)跡・大見付といった曲輪群が並びます。

馬渕邸跡北側の石塁へ: 三国丸を過ぎて馬渕邸跡の北(かつ、上方)の大土塁のさらに北側斜面(眼下)にある曲輪(名称は不明)にも写真のように虎口のような石塁が見られました。そこまで下りることができたので、どのようになっているのか下りて、大土塁の方に戻ってきた場面を撮影していますが、そこには次の写真のように大きな石塁がそびえていました。

馬渕邸跡付近大土塁北側斜面の石塁: 下におりて確認した石塁です。

伊庭邸(I)跡・馬場邸跡間堀切: 近江守護代であった伊庭邸(I)跡から馬場邸跡へ向かう時、それらの曲輪の間は明確に堀切で切られておりました。

佐々木城址石碑: 馬場邸跡を出ると佐々木城址の石碑が立っていました。石碑は大正4年11月に建立されたものです。

佐々木城址石碑下に見える奥之院: 左に奥之院の鳥居が小さく見えています(写真をクリックすると拡大します)。

伊庭邸(II)跡から曲輪外へ: 佐々木城址石碑を過ぎると、すぐに伊庭氏の伊庭邸(II)跡に入り、写真は石塁を乗り越えて曲輪を出ようとしています。伊庭氏は近江源氏佐々木氏の支流であり、神崎郡伊庭邑(東近江市伊庭町)に居住したことから、伊庭氏を称しました。

大見付内部石塁: コースの最後ですが、大見付内部に入り、内部から石塁を撮影しました。
通常、見付とは城門のことですが、この大見付は城門というより曲輪です。

大見付を過ぎると、おちゃこ地蔵左横の登山口に出て、川並口道まで戻り、本日の予定コースはすべて終了しました。
本日は天気が崩れるとの予報で、心配しながら歩きましたが、幸運にも、雨に降られることなく無事トレイルを終了できました。ちょうどお昼時でしたので、この後、反省を兼ねて、空腹を満たしつつ、喉も潤しました。
文責 岡島敏広
参考図書: 図説六角氏と観音寺城 新谷和之 戎光祥出版
2024年03月01日
2024年2月28日(水)岡山県備前岡山城訪問
個人旅行で岡山城を訪問しました。
訪問した岡山城は日本100名城(70番)に選定されています。
今の岡山城付近には、旭川の流域に岡山、石山、天神山という3つの丘がありました。そのうちの石山にあった城を手に入れて本拠地とし、岡山の地を戦国の表舞台に立たせたのは宇喜多直家(1529~1582(1581説もあり))でした。
その子の秀家(1572~1655)は、岡山の丘に本丸を定め、今に残る岡山城を築き、城下町づくりを行いました(1597年天守完成といわれます)。江戸時代の文献によると、築城は豊臣秀吉の指導によるものといわれます。さらに、多岐にわたる旭川の河道を利用して、流れを現在のように城の北や東を守るように整えたり、堀づくりに活用し、堀の間に南北に長い城下町をつくりあげました。こうして今に続く中心市街地の原型ができ、岡山の名が、市名、県名となる礎となりました。
その後、城主となった小早川秀秋、池田氏により城と城下町は、さらに拡張され今に至ります。
岡山城縄張: 本日は、烏城公園駐車場から目安橋を渡り、本丸の下の段、中の段、本段の天守を見て、廊下門から下の段へと戻ります。図はクリックにより拡大します。(正保城絵図備前国岡山城絵図)
岡山城本丸立体模型(図はクリックにより拡大します。)
目安橋: 烏城公園駐車場を出発し、大手側(表口)から内堀に架かり本丸に通じる土橋(目安橋)を渡ります。
池田光政の代に、橋のたもとに領民からの投書を受け付けるための目安箱(めやすばこ)が置かれたことからこの名がついたそうです。橋は明治になって撤去され、土橋に改められましたが、欄干を飾っていた擬宝珠(ぎぼし)は、天守内に収蔵されています。
目安橋古写真: 目安橋の奥の建物は大納戸櫓、右の高い建物は天守。
本丸下の段(大納戸櫓跡から撮影): 昭和28年(1953)にこの南東部一帯にテニスコートとその附属施設が建設され、長く使用されてきましたが、平成17年(2005)に撤去され、現在発掘調査と史跡整備事業が進められています。
供腰掛(とものこしかけ): 岡山城に登城した藩士らの付き人が、主人の用事が済むまで待機する場所でした。現在は、建物が復元され、休憩スペースとして利用できます。
不明門(あかずのもん)下石垣: 石垣の色が途中で変わっています。不明門下右隅石垣は宇喜多秀家期の石垣に被せて造られており、関ヶ原合戦後の小早川秀秋期か前池田期に築かれたものとみられます。上部は不明門を建てた時に積み足され、中位の一部は天保9年(1838)に崩落して修理を受けています。
鉄門(くろがねもん)跡: 「くろがね」は鉄のことで、門の木の部分を鉄板で覆ったいかめしい門であったことからこの名になったといいます。本丸の下の段南側から、中の段の表書院(表向御殿)へ通じる櫓門でした。
表書院は政治が行われた御殿(政治の場)で、登城してきた家臣は、中の段の南東の玄関から表書院(表向御殿)に入り、それぞれ所定の部屋で働きました。
藩主は本段御殿から渡り廊下を下って、北西の招雲閣に入り政務を行っていました。
大納戸櫓跡(本丸中の段側): 現在、櫓は存在しませんが、本丸の大手を守る要となる三重四階建ての城内最大の櫓でした。宇喜多直家の整備した亀山城(沼城)から移築したとの伝承もあります。壁には黒い下見板が張られており、藩政のための書類や道具類が保管されていました。
焼失前の古写真(本丸下の段より撮影): 右から太鼓櫓、大納戸櫓、修覆櫓
不明門(あかずのもん)(中の段側): 本丸本段に上がる入口として防備を高めた大型の城門です。本段には藩主が暮らす本段御殿(江戸城でいう大奥)があり、限られた人しか入れませんでした。そのため、この門は普段閉ざされ、名の起こりとなりました。
江戸時代、藩主の移動は、天守近く(北側)にあった廊下門の渡り廊下を通って行われたといわれます。
不明門は明治時代に取り壊されましたが、昭和41年(1966)に鉄筋コンクリート造で外観が再現されました。また、不明門の左側のように本段周囲の土塀がコンクリートブロック造により外観復元されています。
不明門(本段側)
月見櫓は、本丸の裏・北西方向を守る櫓です。1620年代に池田忠雄が築いた実物で、国の重要文化財に指定されています。
城外側からみると二階建ですが、城内側からみると三階建で、一番下の階は土蔵となっています。
城外側には、鉄板で覆われ下部に石落のある出窓があって、敵を監視、迎撃するための軍備を高めています。城内側では最上階に高欄と廻縁(手すりと縁側)があり、天井板も張られて、月見櫓の名のとおり風格を高めた造りです。戦国時代の終わりにあたり和戦両様の特徴を持った櫓といえるでしょう。
月見櫓につながる北と西の石垣の最上段には、内側から鉄砲で狙い撃ちするためのすき間がくりぬかれた銃眼石があり、櫓と一体で軍備を高めていました。
月見櫓南西面(内側) 北面(外側) 西面(外側)



発掘調査で見つかった築城当時の石垣(中の段): 発掘調査で見つかった宇喜多秀家が岡山城を築いた時の石垣です。
江戸時代の初めに城を改造する時に、この石垣を埋め立てて「中の段」を北に大きく広げたことから、地中に埋もれていました。今から400年あまり前の石垣で、自然の石をほとんど加工せずに用いるのが特徴です。30年ほど後に積まれた本丸中の段北側の現役の石垣が新式の割り石を使っているのと異なります。
この施設によって、石垣をまぢかに見て、城普請の時代的発展の実態を体感できました。
築城当時石垣1(南側) 石垣を埋め立てた造成土
(半分より少し上の印で金箔瓦が出土しています)


築城当時石垣2(北側)
天守南面(本段): 岡山城の天守は、豊臣秀吉の大坂城のように、外壁は黒塗りの下見板で覆われ、烏城(うじょう=「う」はカラスの意味)の別名があります。また、発掘によると、宇喜多秀家時代の金箔瓦が出土しており、築城時には、城内の主要な建物の随所に金箔瓦が用いられ、これにより金烏城とも呼ばれ、この天守は織田信長の安土城天守に似ているとされています。
天守台は、宇喜多秀家が1597年までに築いた高さ14.9mの石垣です。自然の石を用い、天守の石垣や1階の平面が不等辺五角形をしているのが特徴で、土台になった岡山の丘の地盤にあわせたためといわれています。この場所は、元々あった岡山という名の丘の端にあたり、石垣はその堅い崖面に支えられています。
西側(写真左)にある付櫓の塩蔵下の石垣は、江戸時代の1688~1703年に、せり出してきた元の高石垣を補強するために築かれ、塩蔵に天守への入口がありました。丁寧に面を整えた石が横に積まれ、最上段の石は角を丸く加工されているのが特徴です。
天守は明治維新後も残る貴重な存在で、昭和初期には詳細な図面が残されましたが、昭和20年(1945)6月29日の大空襲により、月見櫓を残し、焼失しました。しかし、昭和41年(1966)には、往事の姿を偲ばせる天守が再建されました。
焼失前の天守古写真
天守北面
廊下門の渡り廊下(本段側からの出入口): 本丸の搦手(裏手)にある櫓門で、門の上に敵を迎え撃つ上屋がありました。
上屋は本段御殿(城主の住居)と中の段の表書院(表向御殿、政治の場)を結ぶ城主専用の廊下としても使用されていたことから、廊下門と呼ばれていました。
昭和41年(1966)に再建されました。
廊下門の渡り廊下(中の段側出入口)
廊下門(中の段側より撮影)
廊下門(下の段側より撮影)
岡山城は空襲によりほとんどが焼失してしまいましたが、写真等の情報が多く残されていることから、徐々に元の姿に再建されつつあります。
今回は2022年11月に天守が大改修され、内部の展示も岡山城の歴史に触れることができるよう変更されたということを聞いて訪問しました(岡山城パンフレット)。しかし、例えば、本段周囲ですでに作ってしまったコンクリートブロック造の土塀やそこに開けられた狭間など史料に忠実でないような所も認識されています。
徐々に改善されて往時の美しい姿が取り戻されることを期待しております。
最後に、月見橋から見る旭川に面した美しい天守(北西面)と廊下門を示し、筆を置きます。
文責 岡島敏広
訪問した岡山城は日本100名城(70番)に選定されています。
今の岡山城付近には、旭川の流域に岡山、石山、天神山という3つの丘がありました。そのうちの石山にあった城を手に入れて本拠地とし、岡山の地を戦国の表舞台に立たせたのは宇喜多直家(1529~1582(1581説もあり))でした。

その子の秀家(1572~1655)は、岡山の丘に本丸を定め、今に残る岡山城を築き、城下町づくりを行いました(1597年天守完成といわれます)。江戸時代の文献によると、築城は豊臣秀吉の指導によるものといわれます。さらに、多岐にわたる旭川の河道を利用して、流れを現在のように城の北や東を守るように整えたり、堀づくりに活用し、堀の間に南北に長い城下町をつくりあげました。こうして今に続く中心市街地の原型ができ、岡山の名が、市名、県名となる礎となりました。

その後、城主となった小早川秀秋、池田氏により城と城下町は、さらに拡張され今に至ります。
岡山城縄張: 本日は、烏城公園駐車場から目安橋を渡り、本丸の下の段、中の段、本段の天守を見て、廊下門から下の段へと戻ります。図はクリックにより拡大します。(正保城絵図備前国岡山城絵図)

岡山城本丸立体模型(図はクリックにより拡大します。)

目安橋: 烏城公園駐車場を出発し、大手側(表口)から内堀に架かり本丸に通じる土橋(目安橋)を渡ります。
池田光政の代に、橋のたもとに領民からの投書を受け付けるための目安箱(めやすばこ)が置かれたことからこの名がついたそうです。橋は明治になって撤去され、土橋に改められましたが、欄干を飾っていた擬宝珠(ぎぼし)は、天守内に収蔵されています。

目安橋古写真: 目安橋の奥の建物は大納戸櫓、右の高い建物は天守。

本丸下の段(大納戸櫓跡から撮影): 昭和28年(1953)にこの南東部一帯にテニスコートとその附属施設が建設され、長く使用されてきましたが、平成17年(2005)に撤去され、現在発掘調査と史跡整備事業が進められています。

供腰掛(とものこしかけ): 岡山城に登城した藩士らの付き人が、主人の用事が済むまで待機する場所でした。現在は、建物が復元され、休憩スペースとして利用できます。

不明門(あかずのもん)下石垣: 石垣の色が途中で変わっています。不明門下右隅石垣は宇喜多秀家期の石垣に被せて造られており、関ヶ原合戦後の小早川秀秋期か前池田期に築かれたものとみられます。上部は不明門を建てた時に積み足され、中位の一部は天保9年(1838)に崩落して修理を受けています。

鉄門(くろがねもん)跡: 「くろがね」は鉄のことで、門の木の部分を鉄板で覆ったいかめしい門であったことからこの名になったといいます。本丸の下の段南側から、中の段の表書院(表向御殿)へ通じる櫓門でした。
表書院は政治が行われた御殿(政治の場)で、登城してきた家臣は、中の段の南東の玄関から表書院(表向御殿)に入り、それぞれ所定の部屋で働きました。
藩主は本段御殿から渡り廊下を下って、北西の招雲閣に入り政務を行っていました。

大納戸櫓跡(本丸中の段側): 現在、櫓は存在しませんが、本丸の大手を守る要となる三重四階建ての城内最大の櫓でした。宇喜多直家の整備した亀山城(沼城)から移築したとの伝承もあります。壁には黒い下見板が張られており、藩政のための書類や道具類が保管されていました。

焼失前の古写真(本丸下の段より撮影): 右から太鼓櫓、大納戸櫓、修覆櫓

不明門(あかずのもん)(中の段側): 本丸本段に上がる入口として防備を高めた大型の城門です。本段には藩主が暮らす本段御殿(江戸城でいう大奥)があり、限られた人しか入れませんでした。そのため、この門は普段閉ざされ、名の起こりとなりました。
江戸時代、藩主の移動は、天守近く(北側)にあった廊下門の渡り廊下を通って行われたといわれます。
不明門は明治時代に取り壊されましたが、昭和41年(1966)に鉄筋コンクリート造で外観が再現されました。また、不明門の左側のように本段周囲の土塀がコンクリートブロック造により外観復元されています。

不明門(本段側)

月見櫓は、本丸の裏・北西方向を守る櫓です。1620年代に池田忠雄が築いた実物で、国の重要文化財に指定されています。
城外側からみると二階建ですが、城内側からみると三階建で、一番下の階は土蔵となっています。
城外側には、鉄板で覆われ下部に石落のある出窓があって、敵を監視、迎撃するための軍備を高めています。城内側では最上階に高欄と廻縁(手すりと縁側)があり、天井板も張られて、月見櫓の名のとおり風格を高めた造りです。戦国時代の終わりにあたり和戦両様の特徴を持った櫓といえるでしょう。
月見櫓につながる北と西の石垣の最上段には、内側から鉄砲で狙い撃ちするためのすき間がくりぬかれた銃眼石があり、櫓と一体で軍備を高めていました。
月見櫓南西面(内側) 北面(外側) 西面(外側)



発掘調査で見つかった築城当時の石垣(中の段): 発掘調査で見つかった宇喜多秀家が岡山城を築いた時の石垣です。
江戸時代の初めに城を改造する時に、この石垣を埋め立てて「中の段」を北に大きく広げたことから、地中に埋もれていました。今から400年あまり前の石垣で、自然の石をほとんど加工せずに用いるのが特徴です。30年ほど後に積まれた本丸中の段北側の現役の石垣が新式の割り石を使っているのと異なります。
この施設によって、石垣をまぢかに見て、城普請の時代的発展の実態を体感できました。
築城当時石垣1(南側) 石垣を埋め立てた造成土
(半分より少し上の印で金箔瓦が出土しています)


築城当時石垣2(北側)

天守南面(本段): 岡山城の天守は、豊臣秀吉の大坂城のように、外壁は黒塗りの下見板で覆われ、烏城(うじょう=「う」はカラスの意味)の別名があります。また、発掘によると、宇喜多秀家時代の金箔瓦が出土しており、築城時には、城内の主要な建物の随所に金箔瓦が用いられ、これにより金烏城とも呼ばれ、この天守は織田信長の安土城天守に似ているとされています。
天守台は、宇喜多秀家が1597年までに築いた高さ14.9mの石垣です。自然の石を用い、天守の石垣や1階の平面が不等辺五角形をしているのが特徴で、土台になった岡山の丘の地盤にあわせたためといわれています。この場所は、元々あった岡山という名の丘の端にあたり、石垣はその堅い崖面に支えられています。
西側(写真左)にある付櫓の塩蔵下の石垣は、江戸時代の1688~1703年に、せり出してきた元の高石垣を補強するために築かれ、塩蔵に天守への入口がありました。丁寧に面を整えた石が横に積まれ、最上段の石は角を丸く加工されているのが特徴です。
天守は明治維新後も残る貴重な存在で、昭和初期には詳細な図面が残されましたが、昭和20年(1945)6月29日の大空襲により、月見櫓を残し、焼失しました。しかし、昭和41年(1966)には、往事の姿を偲ばせる天守が再建されました。

焼失前の天守古写真

天守北面

廊下門の渡り廊下(本段側からの出入口): 本丸の搦手(裏手)にある櫓門で、門の上に敵を迎え撃つ上屋がありました。
上屋は本段御殿(城主の住居)と中の段の表書院(表向御殿、政治の場)を結ぶ城主専用の廊下としても使用されていたことから、廊下門と呼ばれていました。
昭和41年(1966)に再建されました。

廊下門の渡り廊下(中の段側出入口)

廊下門(中の段側より撮影)

廊下門(下の段側より撮影)

岡山城は空襲によりほとんどが焼失してしまいましたが、写真等の情報が多く残されていることから、徐々に元の姿に再建されつつあります。
今回は2022年11月に天守が大改修され、内部の展示も岡山城の歴史に触れることができるよう変更されたということを聞いて訪問しました(岡山城パンフレット)。しかし、例えば、本段周囲ですでに作ってしまったコンクリートブロック造の土塀やそこに開けられた狭間など史料に忠実でないような所も認識されています。
徐々に改善されて往時の美しい姿が取り戻されることを期待しております。
最後に、月見橋から見る旭川に面した美しい天守(北西面)と廊下門を示し、筆を置きます。

文責 岡島敏広
2024年02月29日
2024年2月27日(火)香川県讃岐高松城訪問
個人旅行で高松城を訪問しました。訪問した高松城は日本100名城(77番)に選定されています。
高松城は別名玉藻城とも呼ばれていますが、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによるようです。初代 生駒親正が天正15年(1587)に豊臣秀吉によって讃岐一国を与えられ、香東郡野原(篦原)庄と呼ばれていた現在の地を高松と改め、天正16年(1588)から築城が開始した水城です。
瀬戸内海の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は日本の三大水城(高松城、今治城、中津城)のひとつといわれ、縄張りは当時築城の名手であった黒田孝高とも細川忠興ともいわれています。
第3代生駒正俊の時には、丸亀から商人を呼び寄せ、丸亀町を造らせるなど、高松城下町も次第に整備されました。
生駒氏の治世は4代続きましたが、生駒騒動といわれる御家騒動で讃岐一国を召し上げられ、そのあとは、常陸国下館藩の松平氏により明治まで治められました。
高松城縄張図: 本日は縄張図の中の赤枠部分しか現状残されていませんが、玉藻公園となっているこの敷地内にある城郭の建物や遺構を巡ります。縄張図はクリックで拡大します。
旧太鼓櫓跡(櫓台)に建つ艮櫓(駐車場から撮影): 建物の艮櫓(うしとらやぐら)はもともと、東の丸の北東(この方向を丑寅という)の隅(現在の県民ホール敷地内)にあった櫓で、その名称は方角から名づけられました。完成は延宝5年(1677)といわれ、後に訪れる月見櫓と同時期につくられました。三重三階・入母屋造・本瓦葺で形は月見櫓と似ていますが、初重に大きな千鳥破風があるのが特徴です。
昭和40年に当時の所有者であった旧国鉄より高松市が譲り受けて、2年の歳月をかけて、東の丸より現在の旧太鼓櫓跡に移築されました。下方に見える堀は中堀です。
大正時代に撮影された移築前の艮櫓(手前)と月見櫓(奥): 艮櫓は海岸縁に建てられていました。
旭門: 玉藻公園駐車場からすぐにある高松城の大手門で、高麗門の形式の門です。この後桝形を通りすぎて、桜の馬場に入ります。
復元桜御門(桜の馬場側): 桜の馬場から土橋を渡って三の丸に入るための門です。高松空襲で焼失しましたが、令和4年(2022)7月復元され蘇りました。復元には古写真と礎石に残る柱跡等が有力な手掛かりとなりました。
門に吊り下げられた青色の幔幕(まんまく)は行事により付替えられます。この門の向こう側は三の丸です。
焼失前の桜御門
復元桜御門(三の丸側)
高松空襲(1945)で焼けた桜御門石垣
披雲閣(ひうんかく)玄関: 松平藩時代にも現在の場所に披雲閣と呼ばれる広大な建物(現在の約2倍)がありました。藩の政庁及び藩主の住居として使われていましたが、明治時代に老朽化により取り壊され、その後3年の歳月と当時のお金で15万余円の巨費を投じて、大正6年(1917)現在の披雲閣が完成しました。第2次世界大戦後占領軍にしばらく接収されていましたが、高松市が譲り受けてからは、貸会場として利用されています。
披雲閣の縁側
月見櫓・水手御門・渡櫓: 月見櫓は北の丸の隅櫓として延宝4年(1676)頃に完成したといわれ、出入りする船を監視する役割を持つとともに、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので「着見(つきみ)櫓」ともいわれています。総塗籠(そうぬりごめ)造の三重三階・入母屋造・本瓦葺で、初重は千鳥破風、二重は唐破風と屋根の形を変化させています。
月見櫓に連なる薬医門形式の水手御門は、いわば海の大手門です。
報時鐘鐘楼: こちらに安置されている鐘は、城下の人々に時を知らせるため、松平家初代城主(生駒氏から5代目)松平頼重が承応2年(1653)に大坂で鋳造させました。鐘は当初外堀の西南稲田外江の邸に近い外堀土手に設けられた鐘楼に懸けられていましたが、所在を転々とした後に、昭和55年(1980)に市政施行90周年を記念して、ここに安置されることになりました(鐘楼はこのとき建造されたものです)。
鉄門(くろがねもん): 三の丸から二の丸へ入る門として、かつて鉄門がありました。門の上部に長屋状の建物を両側の石垣に渡すように建てられた櫓門という形式の門です。その名の通り鉄板張りの門で、門の北側石垣の東端(写真右石垣前説明板付近)から1mの位置に鉄板の錆が縦方向に直線として残っており、この位置に門扉があったことが分かります。この先は二の丸です。
鞘(さや)橋入口: 本丸と二の丸を結んでいる唯一の連絡橋で、当初は欄干橋でしたが、江戸時代中期末頃には屋根付きの橋になっていたようです。
鞘橋側面と上方からの姿: 周囲の堀は海水の入った内堀となります。

内堀で泳ぐ鯛(鞘橋から撮影): 内堀には真鯛が泳いでおり、海水が取り入れられていることがわかります。
天守台
天守跡地には、最後の藩主(松平家11代)であった松平頼聰(よりよし)により、明治34から35年(1901から1902)に初代松平頼重を祀る玉藻廟が建築されました。昭和19年(1944)には戦火を避けるため、屋島神社に御神体(理兵衛焼の頼重像)を遷座し、その後、昭和31年(1956)に公益財団法人松平公益会敷地内に新玉藻廟が建築され、再遷座しています。天守台上の旧玉藻廟はその傷みが激しいことから、石垣修理工事に伴い平成18年(2006)9月から11月にかけて記録保存を行い解体されました
天守古写真(1882): 生駒期の天守は外観や内部の構造については不明ですが、絵図や古文書によると3重だったとされています。この天守を改築したのが松平頼重です。改築された天守は3重5階(3重4階+地下1階)建で、寛文10年(1670)に完成しています。
天守の最上階が下の階より張り出した南蛮造り(唐造り)で、さらに地上1階部分が石垣より張り出した構造となっていました。その大きさは、『小神野筆帖』によると「高17間半、内石垣4間」とあるため、地上部分の高さは13間半であることが分かります。1間を6尺5寸(約197cm)と仮定すると、26.6mとなります。
四国最大級の規模を誇った天守も、明治17年(1884)に老朽化を理由に取り壊されました。
ケンブリッジ大学の上記写真が発見される前は、下の写真が唯一の天守の写真でした。
天守台地下入口: 天守台西側には、玉藻廟へ参拝するための石段が設けられていました。その石段を撤去したところ、天守1階部分の入口と入口へ上がるための階段が検出されました。階段は上部が壊されており、正確な規模は不明ですが、入口は幅約2.8メートル,高さ約2.7メートル,奥行き約4.3メートルです。
入口の石垣には刻印石や墨書も発見されました。このうち墨書は玉藻廟建築時のものと考えられますが、刻印石は江戸時代のものと考えられ、長方形や分銅形、上、ち、り等が確認されました。
天守地下1階: 文献等から天守には地下1階があることは判明していました。地下1階は石垣で構築された部屋で、発掘調査を進めて行くと予想通り石垣が検出されました。しかし、石垣で構築された部屋の内部にさらに石垣が見つかり、まるで石垣でできた迷路のようでした。
実は、内部の石垣は明治34~35年(1901~1902)に建築された玉藻廟の基礎で、地下1階を埋め立てた上に建築を開始したのではなく、地下1階の床面から石を積み上げて基礎を造りながら埋め立てていたことが分かりました。埋め立てた土の中からは、家紋瓦をはじめ多くの遺物が出土しました。天守解体時には埋め戻されていないことから、天守に使用された遺物の可能性は低いと考えられます。
最後に、高松城では天守復元に向けて、高松市が2016年懸賞金制度を設けて天守の内部構造等の情報収集しています(復元案)。天守に係る新情報ができ、すばらしい高松城天守が蘇ることを祈っております。
文責 岡島敏広
高松城は別名玉藻城とも呼ばれていますが、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによるようです。初代 生駒親正が天正15年(1587)に豊臣秀吉によって讃岐一国を与えられ、香東郡野原(篦原)庄と呼ばれていた現在の地を高松と改め、天正16年(1588)から築城が開始した水城です。

瀬戸内海の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は日本の三大水城(高松城、今治城、中津城)のひとつといわれ、縄張りは当時築城の名手であった黒田孝高とも細川忠興ともいわれています。
第3代生駒正俊の時には、丸亀から商人を呼び寄せ、丸亀町を造らせるなど、高松城下町も次第に整備されました。
生駒氏の治世は4代続きましたが、生駒騒動といわれる御家騒動で讃岐一国を召し上げられ、そのあとは、常陸国下館藩の松平氏により明治まで治められました。
高松城縄張図: 本日は縄張図の中の赤枠部分しか現状残されていませんが、玉藻公園となっているこの敷地内にある城郭の建物や遺構を巡ります。縄張図はクリックで拡大します。

旧太鼓櫓跡(櫓台)に建つ艮櫓(駐車場から撮影): 建物の艮櫓(うしとらやぐら)はもともと、東の丸の北東(この方向を丑寅という)の隅(現在の県民ホール敷地内)にあった櫓で、その名称は方角から名づけられました。完成は延宝5年(1677)といわれ、後に訪れる月見櫓と同時期につくられました。三重三階・入母屋造・本瓦葺で形は月見櫓と似ていますが、初重に大きな千鳥破風があるのが特徴です。
昭和40年に当時の所有者であった旧国鉄より高松市が譲り受けて、2年の歳月をかけて、東の丸より現在の旧太鼓櫓跡に移築されました。下方に見える堀は中堀です。

大正時代に撮影された移築前の艮櫓(手前)と月見櫓(奥): 艮櫓は海岸縁に建てられていました。

旭門: 玉藻公園駐車場からすぐにある高松城の大手門で、高麗門の形式の門です。この後桝形を通りすぎて、桜の馬場に入ります。

復元桜御門(桜の馬場側): 桜の馬場から土橋を渡って三の丸に入るための門です。高松空襲で焼失しましたが、令和4年(2022)7月復元され蘇りました。復元には古写真と礎石に残る柱跡等が有力な手掛かりとなりました。
門に吊り下げられた青色の幔幕(まんまく)は行事により付替えられます。この門の向こう側は三の丸です。

焼失前の桜御門

復元桜御門(三の丸側)

高松空襲(1945)で焼けた桜御門石垣

披雲閣(ひうんかく)玄関: 松平藩時代にも現在の場所に披雲閣と呼ばれる広大な建物(現在の約2倍)がありました。藩の政庁及び藩主の住居として使われていましたが、明治時代に老朽化により取り壊され、その後3年の歳月と当時のお金で15万余円の巨費を投じて、大正6年(1917)現在の披雲閣が完成しました。第2次世界大戦後占領軍にしばらく接収されていましたが、高松市が譲り受けてからは、貸会場として利用されています。

披雲閣の縁側

月見櫓・水手御門・渡櫓: 月見櫓は北の丸の隅櫓として延宝4年(1676)頃に完成したといわれ、出入りする船を監視する役割を持つとともに、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので「着見(つきみ)櫓」ともいわれています。総塗籠(そうぬりごめ)造の三重三階・入母屋造・本瓦葺で、初重は千鳥破風、二重は唐破風と屋根の形を変化させています。
月見櫓に連なる薬医門形式の水手御門は、いわば海の大手門です。

報時鐘鐘楼: こちらに安置されている鐘は、城下の人々に時を知らせるため、松平家初代城主(生駒氏から5代目)松平頼重が承応2年(1653)に大坂で鋳造させました。鐘は当初外堀の西南稲田外江の邸に近い外堀土手に設けられた鐘楼に懸けられていましたが、所在を転々とした後に、昭和55年(1980)に市政施行90周年を記念して、ここに安置されることになりました(鐘楼はこのとき建造されたものです)。

鉄門(くろがねもん): 三の丸から二の丸へ入る門として、かつて鉄門がありました。門の上部に長屋状の建物を両側の石垣に渡すように建てられた櫓門という形式の門です。その名の通り鉄板張りの門で、門の北側石垣の東端(写真右石垣前説明板付近)から1mの位置に鉄板の錆が縦方向に直線として残っており、この位置に門扉があったことが分かります。この先は二の丸です。

鞘(さや)橋入口: 本丸と二の丸を結んでいる唯一の連絡橋で、当初は欄干橋でしたが、江戸時代中期末頃には屋根付きの橋になっていたようです。

鞘橋側面と上方からの姿: 周囲の堀は海水の入った内堀となります。


内堀で泳ぐ鯛(鞘橋から撮影): 内堀には真鯛が泳いでおり、海水が取り入れられていることがわかります。

天守台
天守跡地には、最後の藩主(松平家11代)であった松平頼聰(よりよし)により、明治34から35年(1901から1902)に初代松平頼重を祀る玉藻廟が建築されました。昭和19年(1944)には戦火を避けるため、屋島神社に御神体(理兵衛焼の頼重像)を遷座し、その後、昭和31年(1956)に公益財団法人松平公益会敷地内に新玉藻廟が建築され、再遷座しています。天守台上の旧玉藻廟はその傷みが激しいことから、石垣修理工事に伴い平成18年(2006)9月から11月にかけて記録保存を行い解体されました

天守古写真(1882): 生駒期の天守は外観や内部の構造については不明ですが、絵図や古文書によると3重だったとされています。この天守を改築したのが松平頼重です。改築された天守は3重5階(3重4階+地下1階)建で、寛文10年(1670)に完成しています。
天守の最上階が下の階より張り出した南蛮造り(唐造り)で、さらに地上1階部分が石垣より張り出した構造となっていました。その大きさは、『小神野筆帖』によると「高17間半、内石垣4間」とあるため、地上部分の高さは13間半であることが分かります。1間を6尺5寸(約197cm)と仮定すると、26.6mとなります。
四国最大級の規模を誇った天守も、明治17年(1884)に老朽化を理由に取り壊されました。

ケンブリッジ大学の上記写真が発見される前は、下の写真が唯一の天守の写真でした。

天守台地下入口: 天守台西側には、玉藻廟へ参拝するための石段が設けられていました。その石段を撤去したところ、天守1階部分の入口と入口へ上がるための階段が検出されました。階段は上部が壊されており、正確な規模は不明ですが、入口は幅約2.8メートル,高さ約2.7メートル,奥行き約4.3メートルです。
入口の石垣には刻印石や墨書も発見されました。このうち墨書は玉藻廟建築時のものと考えられますが、刻印石は江戸時代のものと考えられ、長方形や分銅形、上、ち、り等が確認されました。

天守地下1階: 文献等から天守には地下1階があることは判明していました。地下1階は石垣で構築された部屋で、発掘調査を進めて行くと予想通り石垣が検出されました。しかし、石垣で構築された部屋の内部にさらに石垣が見つかり、まるで石垣でできた迷路のようでした。
実は、内部の石垣は明治34~35年(1901~1902)に建築された玉藻廟の基礎で、地下1階を埋め立てた上に建築を開始したのではなく、地下1階の床面から石を積み上げて基礎を造りながら埋め立てていたことが分かりました。埋め立てた土の中からは、家紋瓦をはじめ多くの遺物が出土しました。天守解体時には埋め戻されていないことから、天守に使用された遺物の可能性は低いと考えられます。

最後に、高松城では天守復元に向けて、高松市が2016年懸賞金制度を設けて天守の内部構造等の情報収集しています(復元案)。天守に係る新情報ができ、すばらしい高松城天守が蘇ることを祈っております。

文責 岡島敏広
2023年10月30日
2023年10月25, 26日松江城、出雲大社(レイカディア大学卒業旅行2日目)
2023年10月26日、地域文化学科43期生の卒業旅行2日目で出雲大社参拝です。昨日(25日)は下記コースに従い、松江城を訪問しました。その様子はこちらで確認いただけます。
コースは、25日(水): 草津駅西口→蒜山(昼食)→松江城→
一畑電車に乗り、電鉄出雲市駅→ホテル
26日(木): 出雲大社→古代出雲歴史博物館→島根ワイナリー→
道の駅湯の川(昼食)→草津駅西口
10月26日、出雲では「神在月(かみありづき)」である本日の学習は出雲大社についてで、ガイド兼講師は同級生のK.Y.さんです。
旧暦10月10日(今年は新暦11月22日)稲佐(いなさ)の浜には、八百万の神々を迎える御神火か焚かれ、龍蛇神(海蛇)を神々の先導役として神迎えが行われます。
神迎神事
出雲大社への参拝には、まず稲佐の浜で浜の御砂をすくい、神迎えの道を通り大社に詣でるというのが手順であることから、まず、稲佐の浜に向かいました。
御砂をすくうタイミングは、できれば波打ち際で波が打ち寄せてきたときの御砂をすくい、波が引いていくときだと、運気が引けるそうですが、私たちは、海の神様である豊玉彦命(とよたまひこのみこと)が祀られる弁天島の周囲で御砂をすくいました。
稲佐の浜 弁天島(鳥居は沖御前神社)


弁天島手前の岩場でも御砂が取られた跡がありました。
稲佐の浜を弁天島から南に下り、大社常燈を目印にして、神迎の道に入ります。地図ではこの道は「永徳寺坂」と記載されていました。そのまま、東に向かえば、出雲大社勢溜(せいだまり)の大鳥居の前まで行き着けますが、ほんの少しだけ寄り道しました。
立ち寄り先は勢溜の大鳥居の近くの竹野屋旅館です。本日の学習とは関係なくミーハーですが、シンガーソングライターの竹内まりやさんのご実家が近いということで立寄りました。

勢溜(せいだまり)の大鳥居: 二の鳥居で、1968年に建立された先代の鳥居は木製でしたが(下)、2018年の建て替えでは、耐久性などを考え金属製となったそうです。勢溜とは軍勢が集まりひかえている所のことですが、かつては大きな芝居小屋があって、大勢の人が集まる所であったことから、このような名が付けられました。
旧鳥居
下って行く参道: 勢溜の大鳥居を抜けると、通常の神社参道では見られない珍しい下りの参道となっています。
出雲大社の拝礼手順に従い、参道途中の祓社(はらえのやしろ、参道右側)に立ち寄り、大神さまの御前に立つ前に自身の穢れを祓い、今日までの人生に感謝し、先に進みます。
松の参道: 松の馬場(松の参道)と呼ばれる松並木の参道で「日本の名松百選」に選ばれた松並木です。
右側の松の参道を歩く
ムスビの御神像: これは、大国主神が、海の彼方から光が飛んで来るのに遭遇している場面を像にしたものです。
この光が御身に宿る幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)であることに気づき、その御霊に生かされているという自覚を得て、幸魂・奇魂のお蔭を頂き神性を養われ、『ムスビの大神』(神様となった大国主大神の別名)になられたという意味を象徴しています。
銅の鳥居(四の鳥居): 神域の荒垣正門に建っている鳥居です。この碧銅の鳥居は、出雲大社の4つの鳥居の中で、唯一江戸時代寛文6年(1666)6月毛利輝元の孫綱広の寄進になるものです。重要文化財に指定されています。
拝殿: 昭和34年5月に竣功。通常は参拝者の祈祷が行われ、古伝新嘗祭等のお祭の他、さまざまな奉納行事が行われます。注連縄は長さ6.5m・重さ1t
観祭楼及び廻廊: 写真の範囲3カ所から2000~2001年に御柱が発掘(御本殿御柱配置図の3つの黒丸で記された地点)されています。位置はで赤御影石で丸く印された部分に当たります。写真左の石段付近の赤御影石が心御柱(中心)で、宇豆柱と呼ばれる棟持柱(手前)が手前の写真の外で出土し、巫女さんの足元とその右の柱(柱が出土したのはこちら)の印は2つの側柱の位置を示しています。このあとの古代出雲歴史博物館の見学でその出土した宇豆柱の実物を見学します。
御本殿御柱配置図: 3つの黒丸が記された地点で御柱が発掘されています。上写真は配置図の右下部分に当たります。
十九社: 境内の東西2か所にあり、19枚の扉の社であることから「十九社」と名付けれた神様の宿所として知られる末社で、「神在祭(かみありさい)」の期間に扉が開かれます。
御本殿: 現在の御本殿は延享元年(1744)に御造営されており、昭和27年に国宝に指定されました。高さは8丈(24メートル)にも及び、“大社造”と呼ばれる日本最古の神社建築様式を今に伝えています。
素鵞社(そがのやしろ): 「鎌倉時代から江戸時代初期」にかけては出雲大社の祭神であったとされる「素戔嗚尊(スサノヲノミコト)」が祀られています。天照大御神の弟神で、出雲国の肥河上での八岐の大蛇退治で有名です。また大国主大神の親神で、大神に国づくりの大任を授けられました。素鵞社で稲佐の浜ですくった御砂を交換します。
素鵞社の両側と裏側の3か所に御砂が入った木箱が置かれているので、そこに稲佐の浜ですくってきた御砂を納めてから、元からある乾いた御砂をいただきます。
御砂の交換
八雲山: 出雲大社の御神体は八雲山だといわれ、神職すら入ることができない禁足地になっています。八雲山の裾にあたる場所には「磐座(いわくら)」があり、その磐座を背負うような形で素鵞社が鎮座しています。
この磐座は、唯一素鵞社の裏で触れることができますから、今回、触れてきました。出雲大社御本殿にあると言われる御神体については正体不明ですが、1638年に松江藩主松平直政が、御神体を見せろと本殿に無理やり押し入ったというエピソードが「雲陽秘事記」に記載されています。この時は、九穴の鮑があって、それが蛇に化けたそうです。
しかし、八雲山の磐座前(素鵞社)に奉納された「御砂」には、お清めやご加護の力が宿るといわれています。このことから、八雲山が御神体である可能性は高いと思われます。
八雲山で触れることのできる裏手の磐座 御本殿内西向きの御神座


神楽殿: 本来、千家國造家(出雲大社宮司家)の大広間として使用されており、「風調館(ふうちょうかん)」と呼ばれていました。明治に入り、出雲大社教が設立されてからは出雲大社教の神殿としても使用され、御祈祷や結婚式をはじめ様々な祭事行事が執り行われています。ここにある大注連縄は長さ13.6m・重さ5.2tです。
古代出雲歴史博物館: これまで出雲大社の大きさ、特徴、しきたり、歴史などを稲佐の浜から大社内を散策することにより学習し実感してきましたが、その考古学的な意味や解釈をこの博物館で学びました。
宇豆柱(うずばしら): 出土した本物が展示されていました。重要文化財 鎌倉時代・宝治2年(1248) 3本の杉の大木を束ねて1つの柱としており、1本の直径が1.3m、高さ約1.3m、推定重量1.5トンもあります。運搬時に縄を掛けるのに用いたと思われる孔や表面を削った手斧の跡を見ることができます。発掘調査資料
心御柱(しんのみはしら): 心御柱は「神が宿る」とされています。博物館の展示品はレプリカで、本物は、出土時に現地で公開されただけで、保存処理などのため10年以上も公開されないままでした。現在は出雲大社神祜殿(宝物殿)に展示されています。重要文化財
出雲大社并神郷図(鎌倉中期)(千家国造家所蔵): 展示された柱に載っていた本殿の姿(48m)
鎌倉時代本殿推定模型: 考案者による違いが分かるように複数展示されています。
平安時代出雲大社本殿1/10スケール模型(実サイズは高さ96m): 博物館には平安時代を想定した本殿の推定模型も展示されています。出雲大社の現在の本殿は、1744年(延享元年)に造営され、高さ8丈(約24m)の建造物が三度の修繕を加えながら今に伝わっています。しかし、古代には32丈(約96m)、中世には16丈(約48m)だったとの言い伝えが残っています。この模型は、故・福山敏男 京都大学名誉教授が戦前に作成した平安時代の本殿を想定した設計図を元に、1980年代に入って株式会社大林組の復元プロジェクトで部分修正し製作されたものです。1/10スケールでも古代本殿の巨大さが伝わってきます。
南側正面からの平安時代の姿 北側裏から見上げた姿

各時代の出雲大社本殿の比較: 言い伝えを絵にまとめたものです。
鎌倉時代出雲大社本殿を現地に建てたイメージ(後ろに見える現本殿と比較)
最後に、出雲地方の遺跡から出土した銅剣と銅鐸を見学します。それらの数から、大和政権に「国譲り」した(させられた?)出雲政権が持っていた強大な財力・武力を出土品から容易に実感できます。このような政権のぶつかり合いでは、出雲大社本殿建立と引き換えに「国譲り」したと伝えられているとは言え、大和政権による支配を容認するまでの過程は容易ではなかったでしょう。国譲り神話で逃げるタケミナカタをタケミカヅチが信濃の国(現在の長野県)の諏訪湖辺りまで追いかけ、組み伏せてしまったという話が実態を表しているように思われます。
荒神谷遺跡出土銅剣: 全国で出土した銅剣の総数は約300本、対して荒神谷遺跡からは1ヶ所でそれを上回る358本の銅剣と16本の銅矛、6個の銅鐸が出土しています。
加茂岩倉遺跡出土銅鐸: 全国最多39個の銅鐸が出土しています(次は滋賀県野洲の24個)。
ここで、卒業旅行での学習は終了です。
博物館見学後、島根ワイナリーでのワイン試飲と、道の駅湯の川での"のどぐろ"丼の昼食を楽しみ、あとは観光バスのラウンジにて喉を潤しながら、出発地点のJR草津駅に向かいました。
帰宅後、「出雲歴史博物館」から、丁寧なお礼の手紙も届きました。
楽しくかつ知的な卒業旅行を企画いただいた幹事団(H.S.さん、M.T.さん、K.O.さん)及びそれを企画通りに盛り上げていただいた参加者の皆様に感謝いたします。
文責 岡島
コースは、25日(水): 草津駅西口→蒜山(昼食)→松江城→
一畑電車に乗り、電鉄出雲市駅→ホテル
26日(木): 出雲大社→古代出雲歴史博物館→島根ワイナリー→
道の駅湯の川(昼食)→草津駅西口
10月26日、出雲では「神在月(かみありづき)」である本日の学習は出雲大社についてで、ガイド兼講師は同級生のK.Y.さんです。
旧暦10月10日(今年は新暦11月22日)稲佐(いなさ)の浜には、八百万の神々を迎える御神火か焚かれ、龍蛇神(海蛇)を神々の先導役として神迎えが行われます。
神迎神事

出雲大社への参拝には、まず稲佐の浜で浜の御砂をすくい、神迎えの道を通り大社に詣でるというのが手順であることから、まず、稲佐の浜に向かいました。
御砂をすくうタイミングは、できれば波打ち際で波が打ち寄せてきたときの御砂をすくい、波が引いていくときだと、運気が引けるそうですが、私たちは、海の神様である豊玉彦命(とよたまひこのみこと)が祀られる弁天島の周囲で御砂をすくいました。
稲佐の浜 弁天島(鳥居は沖御前神社)


弁天島手前の岩場でも御砂が取られた跡がありました。

稲佐の浜を弁天島から南に下り、大社常燈を目印にして、神迎の道に入ります。地図ではこの道は「永徳寺坂」と記載されていました。そのまま、東に向かえば、出雲大社勢溜(せいだまり)の大鳥居の前まで行き着けますが、ほんの少しだけ寄り道しました。

立ち寄り先は勢溜の大鳥居の近くの竹野屋旅館です。本日の学習とは関係なくミーハーですが、シンガーソングライターの竹内まりやさんのご実家が近いということで立寄りました。

勢溜(せいだまり)の大鳥居: 二の鳥居で、1968年に建立された先代の鳥居は木製でしたが(下)、2018年の建て替えでは、耐久性などを考え金属製となったそうです。勢溜とは軍勢が集まりひかえている所のことですが、かつては大きな芝居小屋があって、大勢の人が集まる所であったことから、このような名が付けられました。


下って行く参道: 勢溜の大鳥居を抜けると、通常の神社参道では見られない珍しい下りの参道となっています。
出雲大社の拝礼手順に従い、参道途中の祓社(はらえのやしろ、参道右側)に立ち寄り、大神さまの御前に立つ前に自身の穢れを祓い、今日までの人生に感謝し、先に進みます。

松の参道: 松の馬場(松の参道)と呼ばれる松並木の参道で「日本の名松百選」に選ばれた松並木です。

右側の松の参道を歩く

ムスビの御神像: これは、大国主神が、海の彼方から光が飛んで来るのに遭遇している場面を像にしたものです。
この光が御身に宿る幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)であることに気づき、その御霊に生かされているという自覚を得て、幸魂・奇魂のお蔭を頂き神性を養われ、『ムスビの大神』(神様となった大国主大神の別名)になられたという意味を象徴しています。

銅の鳥居(四の鳥居): 神域の荒垣正門に建っている鳥居です。この碧銅の鳥居は、出雲大社の4つの鳥居の中で、唯一江戸時代寛文6年(1666)6月毛利輝元の孫綱広の寄進になるものです。重要文化財に指定されています。

拝殿: 昭和34年5月に竣功。通常は参拝者の祈祷が行われ、古伝新嘗祭等のお祭の他、さまざまな奉納行事が行われます。注連縄は長さ6.5m・重さ1t

観祭楼及び廻廊: 写真の範囲3カ所から2000~2001年に御柱が発掘(御本殿御柱配置図の3つの黒丸で記された地点)されています。位置はで赤御影石で丸く印された部分に当たります。写真左の石段付近の赤御影石が心御柱(中心)で、宇豆柱と呼ばれる棟持柱(手前)が手前の写真の外で出土し、巫女さんの足元とその右の柱(柱が出土したのはこちら)の印は2つの側柱の位置を示しています。このあとの古代出雲歴史博物館の見学でその出土した宇豆柱の実物を見学します。

御本殿御柱配置図: 3つの黒丸が記された地点で御柱が発掘されています。上写真は配置図の右下部分に当たります。

十九社: 境内の東西2か所にあり、19枚の扉の社であることから「十九社」と名付けれた神様の宿所として知られる末社で、「神在祭(かみありさい)」の期間に扉が開かれます。

御本殿: 現在の御本殿は延享元年(1744)に御造営されており、昭和27年に国宝に指定されました。高さは8丈(24メートル)にも及び、“大社造”と呼ばれる日本最古の神社建築様式を今に伝えています。

素鵞社(そがのやしろ): 「鎌倉時代から江戸時代初期」にかけては出雲大社の祭神であったとされる「素戔嗚尊(スサノヲノミコト)」が祀られています。天照大御神の弟神で、出雲国の肥河上での八岐の大蛇退治で有名です。また大国主大神の親神で、大神に国づくりの大任を授けられました。素鵞社で稲佐の浜ですくった御砂を交換します。
素鵞社の両側と裏側の3か所に御砂が入った木箱が置かれているので、そこに稲佐の浜ですくってきた御砂を納めてから、元からある乾いた御砂をいただきます。

御砂の交換

八雲山: 出雲大社の御神体は八雲山だといわれ、神職すら入ることができない禁足地になっています。八雲山の裾にあたる場所には「磐座(いわくら)」があり、その磐座を背負うような形で素鵞社が鎮座しています。

この磐座は、唯一素鵞社の裏で触れることができますから、今回、触れてきました。出雲大社御本殿にあると言われる御神体については正体不明ですが、1638年に松江藩主松平直政が、御神体を見せろと本殿に無理やり押し入ったというエピソードが「雲陽秘事記」に記載されています。この時は、九穴の鮑があって、それが蛇に化けたそうです。
しかし、八雲山の磐座前(素鵞社)に奉納された「御砂」には、お清めやご加護の力が宿るといわれています。このことから、八雲山が御神体である可能性は高いと思われます。
八雲山で触れることのできる裏手の磐座 御本殿内西向きの御神座


神楽殿: 本来、千家國造家(出雲大社宮司家)の大広間として使用されており、「風調館(ふうちょうかん)」と呼ばれていました。明治に入り、出雲大社教が設立されてからは出雲大社教の神殿としても使用され、御祈祷や結婚式をはじめ様々な祭事行事が執り行われています。ここにある大注連縄は長さ13.6m・重さ5.2tです。

古代出雲歴史博物館: これまで出雲大社の大きさ、特徴、しきたり、歴史などを稲佐の浜から大社内を散策することにより学習し実感してきましたが、その考古学的な意味や解釈をこの博物館で学びました。

宇豆柱(うずばしら): 出土した本物が展示されていました。重要文化財 鎌倉時代・宝治2年(1248) 3本の杉の大木を束ねて1つの柱としており、1本の直径が1.3m、高さ約1.3m、推定重量1.5トンもあります。運搬時に縄を掛けるのに用いたと思われる孔や表面を削った手斧の跡を見ることができます。発掘調査資料

心御柱(しんのみはしら): 心御柱は「神が宿る」とされています。博物館の展示品はレプリカで、本物は、出土時に現地で公開されただけで、保存処理などのため10年以上も公開されないままでした。現在は出雲大社神祜殿(宝物殿)に展示されています。重要文化財

出雲大社并神郷図(鎌倉中期)(千家国造家所蔵): 展示された柱に載っていた本殿の姿(48m)

鎌倉時代本殿推定模型: 考案者による違いが分かるように複数展示されています。

平安時代出雲大社本殿1/10スケール模型(実サイズは高さ96m): 博物館には平安時代を想定した本殿の推定模型も展示されています。出雲大社の現在の本殿は、1744年(延享元年)に造営され、高さ8丈(約24m)の建造物が三度の修繕を加えながら今に伝わっています。しかし、古代には32丈(約96m)、中世には16丈(約48m)だったとの言い伝えが残っています。この模型は、故・福山敏男 京都大学名誉教授が戦前に作成した平安時代の本殿を想定した設計図を元に、1980年代に入って株式会社大林組の復元プロジェクトで部分修正し製作されたものです。1/10スケールでも古代本殿の巨大さが伝わってきます。
南側正面からの平安時代の姿 北側裏から見上げた姿


各時代の出雲大社本殿の比較: 言い伝えを絵にまとめたものです。

鎌倉時代出雲大社本殿を現地に建てたイメージ(後ろに見える現本殿と比較)

最後に、出雲地方の遺跡から出土した銅剣と銅鐸を見学します。それらの数から、大和政権に「国譲り」した(させられた?)出雲政権が持っていた強大な財力・武力を出土品から容易に実感できます。このような政権のぶつかり合いでは、出雲大社本殿建立と引き換えに「国譲り」したと伝えられているとは言え、大和政権による支配を容認するまでの過程は容易ではなかったでしょう。国譲り神話で逃げるタケミナカタをタケミカヅチが信濃の国(現在の長野県)の諏訪湖辺りまで追いかけ、組み伏せてしまったという話が実態を表しているように思われます。
荒神谷遺跡出土銅剣: 全国で出土した銅剣の総数は約300本、対して荒神谷遺跡からは1ヶ所でそれを上回る358本の銅剣と16本の銅矛、6個の銅鐸が出土しています。

加茂岩倉遺跡出土銅鐸: 全国最多39個の銅鐸が出土しています(次は滋賀県野洲の24個)。

ここで、卒業旅行での学習は終了です。
博物館見学後、島根ワイナリーでのワイン試飲と、道の駅湯の川での"のどぐろ"丼の昼食を楽しみ、あとは観光バスのラウンジにて喉を潤しながら、出発地点のJR草津駅に向かいました。
帰宅後、「出雲歴史博物館」から、丁寧なお礼の手紙も届きました。

楽しくかつ知的な卒業旅行を企画いただいた幹事団(H.S.さん、M.T.さん、K.O.さん)及びそれを企画通りに盛り上げていただいた参加者の皆様に感謝いたします。
文責 岡島
2023年10月29日
2023年10月25, 26日松江城、出雲大社(レイカディア大学卒業旅行1日目)
10月25日は地域文化学科43期生の卒業旅行です。
主な訪問先は、タイトルの通り松江城(1日目)と出雲大社(2日目)で、それぞれで歴史・文化を勉強しようという趣旨です。しかし、前日には参加者がたくさんのメール交信していましたので、なんだか小学生が遠足に行くようなワクワク感がありました。
7:45 JR草津駅に集合し、観光バスに乗車して、まず、本日の昼食場所の蒜山高原へと出発しました。
コースは、25日(水): 草津駅西口→蒜山(昼食)→松江城→
一畑電車に乗り、電鉄出雲市駅→ホテル
26日(木): 出雲大社→古代出雲歴史博物館→島根ワイナリー→
道の駅湯の川(昼食)→草津駅西口
です。
松江城下武家屋敷の左桟瓦(ひだりさんがわら)(下写真): 観光バスが松江城に近づいてきますと、赤瓦(石州瓦)が多く見られる中国地方の中で、松江では黒い屋根瓦を葺いた家がほとんどです。さらに、黒屋根を形づくる瓦は、左桟瓦(古い家屋ですが)を使用している点に特徴があります。なお、松江城など城郭は「本瓦」葺きです。
後に説明します堀尾氏が松江城主の頃にはそもそも瓦は用いられておりませんでした。本瓦にくらべ簡易な桟瓦は1600年代後半に登場します。この桟瓦は葺き易いのがメリットですが、瓦の重ね部分が少なく雨漏りしやすい欠点があります。全国的には瓦職人に取扱いやすい右桟瓦が定着しますが、暴風雨対策として左桟瓦も用いることで補い、ここ島根と高知県では屋根の両側で左と右桟瓦を葺き分けていた形跡があるようです。
しかし、理由はわかりませんが、松江では左桟瓦の方に淘汰され、逆に全国では右桟瓦のみが作られ、左桟瓦は入手できなくなっています。松江歴史館ではその建築のために、左桟瓦を特注してそろえたとのことです。
写真は武家屋敷の左桟瓦が葺かれた屋根です。この後、小泉八雲旧居の前を通ってまもなく城山西駐車場です。
ぐるっと松江 堀川めぐり: 船頭さんから橋の下を通過するときの注意を受けて、駐車場近くのふれあい広場乗船場から、堀川めぐりの出発です。
最初の低い橋(うべや橋)の下を通過するときは、運航路も狭く、
橋下通過時、船頭さんの指示通り、印籠の葵の御紋を見せ、「この紋所が目に入らぬか。」 「皆の者、頭が高い。控えおろう。」 「ははーっ。」という声とともに、テントがリモコン操作で下げられ、土下座しなければなりませんでした。
この印籠はかなり使い込まれていて、葵の御紋が少しかすれていました。
この後、京橋川を通って、米子川の甲部橋、新米子橋、普門院橋でも土下座をさらに3回繰り返し、大手前広場乗船場で下船しました。

大手前駐車場の堀尾吉晴公像: 乗船場から大手口にまできて、松江城の築城者 堀尾吉晴公の像の前に来ました。
堀尾吉晴は、1543年、尾張の国に生まれ、織田信長、豊臣秀吉と徳川家康に仕えました。堀尾吉晴は松江に来る前には、近江の佐和山城と家康が秀吉により江戸に移封された後の浜松城の城主となっています。吉晴と
その子忠氏は、
慶長5年(1600)関ケ原の合戦で家康側に付き、その戦功の恩賞として出雲・隠岐両国24万石を拝領しました。出雲に入国した吉晴・忠氏父子は、従来の出雲の政治的・軍事的中心であった月山富田城(現在の安来市にある山城)にいったん入城し松江藩が成立します。しかし、月山富田城は中世山城であり、物資輸送が陸上輸送のみであることと、城下町が広く取れないことや鉄砲に対する防御が弱いといった理由から、吉晴は新たな拠点づくりを模索しました。
まずは城地とするにあたり、海上輸送もあり物流に便利な場所であること、城下が広く取れることから、松江の地を選びました。
築城場所として目を付けた場所は、父吉晴は荒隈山、息子で当主の忠氏は亀田山(現在の松江城の地)でした。しかし、二人の意見は分かれたまま、忠氏は慶長9年(1604)に28歳の若さで亡くなってしまいます。父の吉晴は、当主であった亡き息子の意思を継ぎ、忠氏が推した亀田山を築城拠点として、城と城下町の建設を推し進めていきました。築城と城下町の造成を開始したのは慶長12年(1607)でした。城は5年目の慶長16年(1611)正月に完成しましたが、堀尾吉晴はその年の6月にこの世を去っています。吉晴が没し城郭の整備は中断したと見られ、仮想敵豊臣秀頼が攻めてくると想定される城の東側には重厚な石垣があるにもかかわらず、西側には石垣が築かれていません。
松江城主の変遷: 堀尾氏は、忠氏の子 忠晴に後継者がおらず改易となり、次に、若狭の小浜より京極忠高が入封します。しかし、京極氏にも1代で後継者がなく、徳川家康の孫にあたる松平直政が松本より入封して、その後、松平氏のまま幕末を迎えます。この松平直政は2日目に訪問する出雲大社でも登場します。乞うご期待。
二ノ丸下ノ段からの太鼓櫓(復元): 明治初期、松江城は政府により廃城と決定されましたが、天守を取り壊すのは惜しいと地元有志の尽力により保存されることになりました。しかし、天守以外は取り壊され、現在の写真のような櫓は古写真に基づいて復元されています。石垣は材料に大海崎、矢田産の石を使い、野面積み、算木積みなどの工法で積まれています。石垣の中には、堀尾家の家紋など色々な印が刻まれた石があります。
松江城天守及び二ノ丸の古写真: 太鼓櫓は写真右上方で、縄張は、リンク先で見ることができます。その他、松江関係の古写真はこちらでご覧いただけます。
本丸からの松江城天守: 天守は高さ約30m で、外観は五層、内部は六階。狭間(矢や銃を撃つ孔)が94 個もある黒づくめの戦闘特化型天守です。
天守古写真: 改修前の天守
天守内部には生活物資の貯蔵庫や籠城時に用いる井戸や、階段は攻め込まれた場合すぐ引き上げられるといった仕掛けがあります。また、古写真からも分かるように修理の時に傷みが激しく取り換えられた木材の中には、月山富田城で使用されていた木材が含まれ、月山富田城の部材が再利用されていることが分かります。
天守地階井戸: 深さ24mで松江に入封する前の堀尾吉晴が築いた浜松城天守内にも同様に石組井戸があることが確認されていることから、松江城は堀尾吉晴の思想に基づき築城されていることが分かります。
鯱: 木彫り銅板張り、向かって左が雄で鱗が荒く、右が雌。高さは2.08mあり(雄)、日本現存の木造のものでは最大です。
ここにあるのは、昭和の修理の際におろされた古い鯱です。
天守は構造的に、2階分の通し柱を用いることで、上階の重さを分散させ、下階へ伝える新たな工法を用いています。
また、包板で木材の1~4面が包まれた柱が多用されています。不良材を補強したり、体裁を整えたりするためのもので、築城に際しての材木不足を補っています。
通し柱 包板と帯鉄(つつみいたとおびてつ)


松江城天守、国宝へ
松江城では2階分を貫く通し柱を計96本各階間に用いて長大な柱を必要としないことから、この後の築城に大きな影響を与えていますが、天守の築城時期が明確でなく重要文化財指定どまりでした。1937年に天守の調査が実施されたとき、天守4階に2枚の祈祷札があり、1枚には「慶長16年」と記されていたと記録がありましたが、2枚の祈祷札は、いつしか行方不明になっていました。松江市はそれを懸賞金をかけて広く全国から情報を求めた結果、棟札類の調査で2012年5月松江神社から発見されました。
松江城天守が完成した年に祈祷に使われたと思われる「慶長十六年正月」と書かれた天台宗大山寺と真言宗千手院「祈祷札」2枚でした。しかし天守外の蔵からの発見であることから、天守のものであることの証明が必要でした。地階の井戸脇の柱に小さな穴が見つかり、この小さな穴と、祈祷札についた釘穴がなんとぴったり一致し、その小さな穴が松江城天守国宝化に決定的な影響を与え、松江城天守は平成27年(2015)に国宝に指定されました。
大山寺祈祷札レプリカ 国宝指定書
千手院祈祷札はこの右側に取付けられています。

重要文化財時(右)と国宝指定時(左)の松江城パンフレット
今は天守前の生垣が取り払われ、芝生へと様子が変わっています。
この後、松江しんじ湖温泉駅16:08発の一畑電車に乗り、明日(26日)の出雲大社参拝のため、電鉄出雲市駅に向かいました。
途中、一畑口駅でスイッチバックして、車両の前後が逆となり、電鉄出雲市駅に到着しました。本日は、ホテルで御馳走を食べた後、二次会となりました。
2023年10月26日(2日目)訪問分は別ブログで報告します。 文責 岡島
主な訪問先は、タイトルの通り松江城(1日目)と出雲大社(2日目)で、それぞれで歴史・文化を勉強しようという趣旨です。しかし、前日には参加者がたくさんのメール交信していましたので、なんだか小学生が遠足に行くようなワクワク感がありました。
7:45 JR草津駅に集合し、観光バスに乗車して、まず、本日の昼食場所の蒜山高原へと出発しました。
コースは、25日(水): 草津駅西口→蒜山(昼食)→松江城→
一畑電車に乗り、電鉄出雲市駅→ホテル
26日(木): 出雲大社→古代出雲歴史博物館→島根ワイナリー→
道の駅湯の川(昼食)→草津駅西口
です。
松江城下武家屋敷の左桟瓦(ひだりさんがわら)(下写真): 観光バスが松江城に近づいてきますと、赤瓦(石州瓦)が多く見られる中国地方の中で、松江では黒い屋根瓦を葺いた家がほとんどです。さらに、黒屋根を形づくる瓦は、左桟瓦(古い家屋ですが)を使用している点に特徴があります。なお、松江城など城郭は「本瓦」葺きです。
後に説明します堀尾氏が松江城主の頃にはそもそも瓦は用いられておりませんでした。本瓦にくらべ簡易な桟瓦は1600年代後半に登場します。この桟瓦は葺き易いのがメリットですが、瓦の重ね部分が少なく雨漏りしやすい欠点があります。全国的には瓦職人に取扱いやすい右桟瓦が定着しますが、暴風雨対策として左桟瓦も用いることで補い、ここ島根と高知県では屋根の両側で左と右桟瓦を葺き分けていた形跡があるようです。
しかし、理由はわかりませんが、松江では左桟瓦の方に淘汰され、逆に全国では右桟瓦のみが作られ、左桟瓦は入手できなくなっています。松江歴史館ではその建築のために、左桟瓦を特注してそろえたとのことです。
写真は武家屋敷の左桟瓦が葺かれた屋根です。この後、小泉八雲旧居の前を通ってまもなく城山西駐車場です。

ぐるっと松江 堀川めぐり: 船頭さんから橋の下を通過するときの注意を受けて、駐車場近くのふれあい広場乗船場から、堀川めぐりの出発です。

最初の低い橋(うべや橋)の下を通過するときは、運航路も狭く、

橋下通過時、船頭さんの指示通り、印籠の葵の御紋を見せ、「この紋所が目に入らぬか。」 「皆の者、頭が高い。控えおろう。」 「ははーっ。」という声とともに、テントがリモコン操作で下げられ、土下座しなければなりませんでした。
この印籠はかなり使い込まれていて、葵の御紋が少しかすれていました。
この後、京橋川を通って、米子川の甲部橋、新米子橋、普門院橋でも土下座をさらに3回繰り返し、大手前広場乗船場で下船しました。


大手前駐車場の堀尾吉晴公像: 乗船場から大手口にまできて、松江城の築城者 堀尾吉晴公の像の前に来ました。

堀尾吉晴は、1543年、尾張の国に生まれ、織田信長、豊臣秀吉と徳川家康に仕えました。堀尾吉晴は松江に来る前には、近江の佐和山城と家康が秀吉により江戸に移封された後の浜松城の城主となっています。吉晴と

その子忠氏は、

慶長5年(1600)関ケ原の合戦で家康側に付き、その戦功の恩賞として出雲・隠岐両国24万石を拝領しました。出雲に入国した吉晴・忠氏父子は、従来の出雲の政治的・軍事的中心であった月山富田城(現在の安来市にある山城)にいったん入城し松江藩が成立します。しかし、月山富田城は中世山城であり、物資輸送が陸上輸送のみであることと、城下町が広く取れないことや鉄砲に対する防御が弱いといった理由から、吉晴は新たな拠点づくりを模索しました。
まずは城地とするにあたり、海上輸送もあり物流に便利な場所であること、城下が広く取れることから、松江の地を選びました。
築城場所として目を付けた場所は、父吉晴は荒隈山、息子で当主の忠氏は亀田山(現在の松江城の地)でした。しかし、二人の意見は分かれたまま、忠氏は慶長9年(1604)に28歳の若さで亡くなってしまいます。父の吉晴は、当主であった亡き息子の意思を継ぎ、忠氏が推した亀田山を築城拠点として、城と城下町の建設を推し進めていきました。築城と城下町の造成を開始したのは慶長12年(1607)でした。城は5年目の慶長16年(1611)正月に完成しましたが、堀尾吉晴はその年の6月にこの世を去っています。吉晴が没し城郭の整備は中断したと見られ、仮想敵豊臣秀頼が攻めてくると想定される城の東側には重厚な石垣があるにもかかわらず、西側には石垣が築かれていません。
松江城主の変遷: 堀尾氏は、忠氏の子 忠晴に後継者がおらず改易となり、次に、若狭の小浜より京極忠高が入封します。しかし、京極氏にも1代で後継者がなく、徳川家康の孫にあたる松平直政が松本より入封して、その後、松平氏のまま幕末を迎えます。この松平直政は2日目に訪問する出雲大社でも登場します。乞うご期待。

二ノ丸下ノ段からの太鼓櫓(復元): 明治初期、松江城は政府により廃城と決定されましたが、天守を取り壊すのは惜しいと地元有志の尽力により保存されることになりました。しかし、天守以外は取り壊され、現在の写真のような櫓は古写真に基づいて復元されています。石垣は材料に大海崎、矢田産の石を使い、野面積み、算木積みなどの工法で積まれています。石垣の中には、堀尾家の家紋など色々な印が刻まれた石があります。

松江城天守及び二ノ丸の古写真: 太鼓櫓は写真右上方で、縄張は、リンク先で見ることができます。その他、松江関係の古写真はこちらでご覧いただけます。

本丸からの松江城天守: 天守は高さ約30m で、外観は五層、内部は六階。狭間(矢や銃を撃つ孔)が94 個もある黒づくめの戦闘特化型天守です。

天守古写真: 改修前の天守

天守内部には生活物資の貯蔵庫や籠城時に用いる井戸や、階段は攻め込まれた場合すぐ引き上げられるといった仕掛けがあります。また、古写真からも分かるように修理の時に傷みが激しく取り換えられた木材の中には、月山富田城で使用されていた木材が含まれ、月山富田城の部材が再利用されていることが分かります。
天守地階井戸: 深さ24mで松江に入封する前の堀尾吉晴が築いた浜松城天守内にも同様に石組井戸があることが確認されていることから、松江城は堀尾吉晴の思想に基づき築城されていることが分かります。

鯱: 木彫り銅板張り、向かって左が雄で鱗が荒く、右が雌。高さは2.08mあり(雄)、日本現存の木造のものでは最大です。
ここにあるのは、昭和の修理の際におろされた古い鯱です。

天守は構造的に、2階分の通し柱を用いることで、上階の重さを分散させ、下階へ伝える新たな工法を用いています。
また、包板で木材の1~4面が包まれた柱が多用されています。不良材を補強したり、体裁を整えたりするためのもので、築城に際しての材木不足を補っています。
通し柱 包板と帯鉄(つつみいたとおびてつ)


松江城天守、国宝へ
松江城では2階分を貫く通し柱を計96本各階間に用いて長大な柱を必要としないことから、この後の築城に大きな影響を与えていますが、天守の築城時期が明確でなく重要文化財指定どまりでした。1937年に天守の調査が実施されたとき、天守4階に2枚の祈祷札があり、1枚には「慶長16年」と記されていたと記録がありましたが、2枚の祈祷札は、いつしか行方不明になっていました。松江市はそれを懸賞金をかけて広く全国から情報を求めた結果、棟札類の調査で2012年5月松江神社から発見されました。
松江城天守が完成した年に祈祷に使われたと思われる「慶長十六年正月」と書かれた天台宗大山寺と真言宗千手院「祈祷札」2枚でした。しかし天守外の蔵からの発見であることから、天守のものであることの証明が必要でした。地階の井戸脇の柱に小さな穴が見つかり、この小さな穴と、祈祷札についた釘穴がなんとぴったり一致し、その小さな穴が松江城天守国宝化に決定的な影響を与え、松江城天守は平成27年(2015)に国宝に指定されました。
大山寺祈祷札レプリカ 国宝指定書
千手院祈祷札はこの右側に取付けられています。


重要文化財時(右)と国宝指定時(左)の松江城パンフレット
今は天守前の生垣が取り払われ、芝生へと様子が変わっています。

この後、松江しんじ湖温泉駅16:08発の一畑電車に乗り、明日(26日)の出雲大社参拝のため、電鉄出雲市駅に向かいました。

途中、一畑口駅でスイッチバックして、車両の前後が逆となり、電鉄出雲市駅に到着しました。本日は、ホテルで御馳走を食べた後、二次会となりました。

2023年10月26日(2日目)訪問分は別ブログで報告します。 文責 岡島