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2022年10月15日

2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

レイカディア大学地域文化学科選択講座の校外学習で登る小谷城の地図を下に示します。10:00にふもとの戦国ガイドステーションに集合し、そこから「番所」まで車で登り、「山王丸」まで徒歩で登る予定です。

本日訪問する小谷城の最後の城主は、有名な浅井長政です。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

本日は講師の中井先生が城の見方を直々に指導してくださいます。まずは、コースの説明から始まりました。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

今、私たちのいる「番所」には「現在地」と示されています。ただ、小谷城各所に付けられた名前は、江戸時代の彦根藩の侍がその当時の常識で名付けたもので、「本当の小谷城の機能」を示しているのかどうかは疑問ということでした。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

下図は江戸時代に描かれた彦根藩所有の江陽浅井郡小谷山古城図で、曲輪の命名当時の様子をそのまま表しています。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

「番所」へは小谷城への間道が集中し、城の主要部への入口に位置します。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

「番所」から少し登ったところに見晴らしの良い場所があり、紅白の旗の間(南西方向)に虎御前山が見えます。小谷城の戦いのときには、小谷城の目と鼻の先のここに織田信長が本陣として砦を作り、にらみ合いました。こんなに近くでは、どんどん砦が構築されたり、敵兵が活動しているのが良く見え、小谷城側の兵は動揺したのではないかと思います。ちなみに、先生は山城では曲輪には内部が見られないように木を残し、切岸の部分は木につかまって登ってくるのを避けるため、木は切ってしまうものであるとおっしゃっていました。赤旗の右(西方向)に見える山は、浅井家重臣の阿閉貞征の籠る山本山城のあった山本山で、小谷城を援護する位置にあります。しかし、阿閉貞征は調略により織田方へ寝返り、それがきっかけで、小谷城が落城しました。小谷山のふもとの田畑の部分は小谷城城下町でした。現在の田畑には小字名がありますが、長浜にも全く同じ小字名の所があり、小谷城落城後に、秀吉により城が長浜城に移されると、この小谷城下町もそのまま移されたことを示しています。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

先に進むと「馬洗池」(縄張図では「馬荒池」)があります。先生のお話では「馬が上がれないように山城にしているので、馬はおらず、馬洗池の名はおかしい。」とのことです。

馬洗池~大堀切の縄張図
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

この池は二段になっていて、石垣の見える上段で雨水を集めて泥などを沈殿させた後、今は藻が生えている手前(下段)の池に上澄みのきれいな水を溜めて飲料水としていたとのことです。これでも以前に比べ水はきれいになっており、昔はイノシシが泥浴びするヌタ場だったそうです。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

次は、浅井長政が自刃したと伝えられる「赤尾屋敷跡」に行きました。ここには「浅井長政公自刃之地」と書かれた碑が立てられており、1573年9月1日信長の兵に攻められ、長政は本丸に戻ることができず、ここで自刃したと説明されていました。享年29歳でした。浅井配下の地侍・嶋氏に伝わる『嶋記録』には、『長政ハ アツカヒ(扱)ニテ(=仲裁にて) ノキ給(=退去する) 約束也シカ(=約束であったが)、信長公 高キ所ニアカリ居テ、赤尾美作、浅井石見ヲ 隔テサセ(=引き離して) イケトルヲ 見テ(=生け捕るのを見て)、長政ハ 家へ下リ入、切腹トソ・・・』とその最後が記述されています。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

「桜馬場」は馬洗池のすぐ上にあり、南北に長い曲輪ですが、先生は「ここは馬場でない証拠を見せてあげましょう」とおっしゃって、皆を連れて行った場所は、写真のように建物の礎石があり、それがこの曲輪で大きな割合を占めていることから、こんな建物のある所で馬が走れるわけがないとのことです。また、礎石は山から採れる石ではなく、柱を立てるのに都合よい滑らかな河原石を、わざわざふもとから運び上げています。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

「桜馬場」から「大広間」への入り口は「黒金門」です。「くろがね」とは鉄を表し、門に鉄板が巻かれていたことを想像させますが、この名前は江戸時代の常識から来たもので、長政の時代は白木であったかもしれないとのことでした。石垣が崩れていますが、秀吉が長浜に移るとき、「浅井氏の時代は終わった」ということを明示するため、「破城」により壊されています。この「黒金門」の左横に徳川宗家16代家達(いえさと)公の揮毫による大きな「小谷城跡之碑」が建てられています。1929(昭和4)年に建てられたものです。徳川宗家には浅井氏の江姫の血が入り関係が深いという気持ちから依頼されたものでしょう。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

「大広間」は御殿(城主の私的空間)であったと考えられます。ここからは37,000点の遺物が発掘されており、大半がかわらけ(煤が付いていたらあかり用、なければ使い捨ての酒杯)ですが、陶磁器なども見つかっています。また、建物の礎石や見つかった陶磁器に焼けた跡がないことから、ドラマなどとは違い、小谷落城時、火がかけられていないことは間違いありません。こちらは私的空間であるのに対して、家の応接間に当たる公的空間は、麓にあった「御屋敷」であったと考えれています。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

ここ「大広間」で、笏谷石(福井の有名な緑色の石で、朝倉義景より送られたものと思われます)の敷石の破片を見つけました。敷石は御殿の通路に使われていたものでしょう。ノミで成形された跡が残っています。これらの遺物より、ここで、お市の方や万福丸、浅井三姉妹の優雅な生活がなされていたことは間違いないでしょう。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

「本丸」(鐘丸)です。本丸と名付けられていますが、本来の機能は鐘丸の名の通り、鐘のすえられた櫓があったと想像されます。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

本丸と中丸の間は、山の上側(北側)から大広間(御殿の曲輪)を攻められないよう、大堀切で中丸から切られており、本丸の西側は石垣によるS字状になった虎口、東側は写真のように今では崩れて傾斜が緩くなっていますが、登れない切岸とし、終点は堀切を削り残して行き止まりにしてありました。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

「刀洗池」の碑を横に見ながら、「中丸」から「京極丸」に入ります。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

「中丸」奥の「刀洗池」も飲料水を溜めていた池と考えられます。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

先生が中丸での説明の途中で明の磁器(高価な輸入品)の破片(白と青の破片: 染付)が埋まっているのを見つけられました。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

次に「京極丸」に上り、その次は「小丸」です。
「京極丸」は京極円(つぶら)とも呼び、守護の京極氏(京極高清高延)に用意した曲輪で屋敷があったと説明されていますが、実質はここに幽閉したと考えられます。東側には大きな土塁があります。「京極丸」の中には池のような窪みが見られましたが、ここは未発掘で発掘許可が下りないそうです。おそらく、飲料水用の池か、或いは庭園であったかもしれないとのことです。
「小丸」は「京極丸」と「山王丸」の間にあり、二代城主浅井久政が引退後居住した所で、1573年8月27日に木下藤吉郎(当時)に下の京極丸より攻められ、鶴松太夫の介錯により49歳で自刃しています。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

こんな所で気づきましたが、案内板は先生が執筆されているのですね。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

「山王丸」虎口: 下の写真は本日の最終目的地の山王丸です。山王丸東面の大石垣も訪問しますが、本日の予定では縄張図の六坊には訪問しません。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

ここの最頂部に山王権現(現小谷神社として麓に下りています)が秀吉により祀られたことから、そのように呼ばれています。このようなことから、小谷城落城から長浜城に移るまで、秀吉は小谷城に住んでいたことがわかります。この辺りも長浜城への引っ越し時に行われた破城により石垣が崩されていますが、
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

先生は「破城の手抜き工事の結果をご覧に入れましょう」と、「山王丸」の東面(西面は浅井領内に面し堅い防御が不要なのに対し、東は外敵に備えている)の大石垣が見られるところに連れて下さいました。上の方の石垣は崩されて足元に落ちていますが、かなりの割合が崩されずに残っています。浅井氏の石垣の特徴は、六角氏と異なり、矢穴のない石垣(割っていない自然石)を野面積みしています。浅井氏の技術で、湖北ではここ小谷城以外に、鎌刃城でも見られます。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

最後に、「山王丸」の大石垣と比較できるよう、並べて「本丸」の石垣を下に示します。石の大きさが「本丸」とは言いながらも上の写真の「山王丸」の石に比べて小さく、「本丸」の威信を示すのにはふさわしくないことから、また、鐘丸とも呼ばれていたことも考慮され、先生は本当の本丸は「山王丸」であったと考えておられます。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

このあと、これまで上がってきたコースを逆戻りし、本日の校外学習を終えました。お疲れさまでした。
次回校外学習は2022年10月25日(寺前・村雨城跡、新宮・新宮支城跡、水口城跡)に予定されています。    文責 岡島 敏広


追加情報: 別の日(2023年10月31日)に小谷城の遺構が移築されている2寺(長浜市実宰院、米原市福田寺)を訪問しました。

搦手門(裏門)表: 実宰院(じっさいいん)(当時は実西庵)は浅井長政の姉にあたる阿久姫が昌安見久尼と称して出家した庵。寺院は小谷山実宰院と改称され宗派も曹洞宗に改宗し、現在に至っています。秀吉よりの朱印状も伝わります。小谷城落城前夜、浅井長政は姉である昌安見久尼に三姉妹と母お市の方を匿ってもらうよう依頼しました。そして三姉妹とお市の方はともに、城を脱出し実宰院で匿われ、体の大きな昌安見久尼は、追っ手が来たとき法衣で隠して守ったとされています。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

小谷山実宰院の門は小谷城の搦手門が移築されて、現在も存在しています。寺の本尊の観音菩薩も小谷城京極丸に安置されていたものです。
2022年10月13日(木)地域文化学科選択講座「小谷城の見方、調べ方」

搦手門(裏門)裏: 薬医門であることがわかります。
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浅井御殿: 浅井長政の次男万寿丸(後の正芸)が住職を務めたと伝わる米原市の福田寺(ふくでんじ)書院は桁行16.269メートル、梁間12.075メートル、その南側に鞘の間をつけ、東には玄関巾2間が附属しています。内部は、田の字型に8間に区切り、西端の2間は床を一段高くして上段の間となっています。この建物は、小谷城より移築した浅井長政寄進のものと伝えられ「浅井御殿」とよばれています。
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