2025年04月12日
2025年3月31日(月)高知県土佐国岡豊城跡訪問(南国市)
個人旅行で3月30日の広島県福山城に引き続き、高知県岡豊(おこう)城を訪問しました。
岡豊城跡は続日本100名城に選定され、No. 180です。
岡豊城跡は長宗我部氏が居城とした山城で、四国の戦国期城郭を代表する遺跡です。長宗我部氏が土佐一国から四国に支配を広げる過程で、織豊体制に組み込まれる変遷が分かるなど、極めて重要な城跡であるということから、平成20年(2008)7月28日国指定史跡となりました。
戦国時代に四国の覇者となった長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、天文8年(1539年)、長宗我部国親(くにちか)の長男として岡豊(おこう)に生まれました。
父の長宗我部国親は、他の戦国群雄が割拠する中、軍事・外交の手腕を発揮し、着実にその支配圏を広げていましたが、永禄3年(1560)、土佐中央部の覇権をかけた本山氏との激戦の最中に突如病死しました。
ただちに元親が家督を相続し、長宗我部家第21代当主となりました。 その後、元親は父の志を継いだ戦で本山氏から朝倉城を奪い、 土佐中央部を手中に収めます。
また、本山氏、安芸氏、津野氏ら他の有力国人を相次いで降伏・滅亡させ、天正3年(1575)、念願の土佐統一を果たしました。
長宗我部元親 高知県立歴史民俗資料館前銅像

長宗我部氏によって岡豊山に岡豊城が築かれた明確な時期は不明ですが、調査の結果では13世紀~14世紀の築城と考えられています。
また、長宗我部氏が岡豊城に拠点を構えた15世紀後半から、永正5~6年(1508~9)に一度落城した時期(長宗我部元秀の頃)を含め、後に再興され、大高坂城に移転する天正16年(1588)頃まで城は存続し機能していたものと考えられています。
岡豊城は、詰、ニノ段、三ノ段、四ノ段を中心とした主郭部(下図 "一")、
伝厩跡曲輪(下図 "三")や伝家老屋敷曲輪(下図 "二")を中心とした2箇所を副郭とする連郭式構造の城郭です。 城の南麓(下記地図上側)は国分川が西流(下図右方向)し、湿地帯が形成され、自然の防御施設となっています。
岡豊城跡散策ルート: 散策は図に矢印を記載したように、高知県立歴史民俗資料館から進みました。
高知県立歴史民俗資料館→①ニノ段→③詰下段→⑥詰→④⑤三ノ段
→⑦⑨四ノ段南部・北部→⑪伝厩跡曲輪→高知県立歴史民俗資料館
岡豊城跡縄張図(縄張図はクリックすると拡大します。): 本日巡った曲輪を縄張図内に示します。図中のオレンジやピンクの太線は竪堀、黄色の太線は土塁を示し、朱書き丸数字は今回訪問時に写真撮影した場所です。
図の上が南、下が北です。(図はクリックすると拡大します。)

①二ノ段: ニノ段は歴史民俗資料館の南側で登山口から最も近く、堀切によって⑥詰・③詰下段からへだてられた下段の曲輪(土塁や堀などで囲まれた城の一区画)です。
長さ45m、最大幅20mのほぼ三角形で、南部には高さ60cmの土塁が30mにわたり残っていました。昭和60年(1985)と昭和63年(1988)に行われた発掘調査により、土塁は幅が約3m、高さが1mであったことがわかりました。写真奥に土塁が見えます。
建物跡などの遺構は発見されませんでしたが、焼土や炭化物を含む土の中からは、瓦や土師質土器、陶磁器など多くの遺物が見つかりました。深いところでは、地下1.8mから遺物が出土したことから、二ノ段は⑥詰などから運ばれた土が盛られて造られ、土塁に囲まれた広い空間は、兵溜まりの場所であったと考えられます。
①二ノ段からの東方向の眺め: ニノ段から見える眺めは、土佐の国の中でも美しく豊かな地域であり、「土佐のまほろば」と言われ、史跡・文化財が数多く残された歴史上重要な一帯です。
ここからは、土佐で最も古い寺院跡の一つとされる比江廃寺跡、土佐国分寺跡、土佐国府跡などを望むことができます。
②堀切・井戸: 堀切は、尾根などを横堀によって断ち切り、敵の侵入を防ぐ施設で、 岡豊城跡のこの堀切は⑥詰と①二ノ段の間の1本、他に北に延びる尾根上(小曲輪の辺り)に2本、伝厩跡曲輪の北西部などに造られています。岡豊城跡の堀切はいずれも幅3~4m、 深さ2m前後あります。
写真では堀切の手前に井戸の一部が見えますが、井戸は堀切のほぼ中央部に掘られており、方形をしています。上部は幅3m、底部は0.8mで、①ニノ段からの深さは4.7mです。岩盤を3.6mほど掘り込んでおり、岩盤の上には、堀切を区切るように北(左のニノ段側)に2段、南(右の詰側)に3段の石積がみられます。井戸の底は、岩盤で湧き水はなく、雨水をためる溜井として使われていたようです。
③詰下段 礎石建物跡: 詰の東の一段低いところにある曲輪を、詰下段と呼んでいます。詰に付随する曲輪で、詰下段は、①二ノ段から詰への出入り口を守るための曲輪であったと考えられています。
ここで礎石の上に柱を建てた礎石建物跡1棟や土塁、段状遺構、土坑が確認され、さらに、④三ノ段への通路と考えられる遺構も確認されました。
写真の礎石建物跡は、2間(5.8m)×5間(9.2m)、面積は約53㎡、東側の土塁(写真左)と西側の詰斜面(写真右)に接して建てられ、建物が詰下段全体を占めています。礎石は、40~60cmの割石が使われ、5間の一辺には半間ごとに礎石が置かれています。
土塁(写真左)はおよそ幅2.5m、高さ1m以上と考えられ、基部には土留めのために2~3段の石積みがあります。
④三ノ段(南部): 三ノ段は詰の南と西を囲む曲輪で、南部(④)は幅5m、西部(⑤)は幅3~8mの帯状となっています。
発掘調査では、西部に礎石建物跡1棟と中央部に詰への通路となる階段跡、土塁の内側に石積が発見されました(下写真⑤)。
⑤三ノ段の詰への通路となる階段(南・西部の中央部): 階段跡は岩盤を削り、両側は野面積の石積となっています。階段跡の北(写真左側)には下の三ノ段(西部)礎石建物跡が接しており、④三ノ段(南部)からの通路はこの階段を通り、⑥詰へと登るようになっています。発掘時からは復元され整えられています。
⑤三ノ段(西部)礎石建物跡(階段跡から撮影): 三ノ段では、西部の北半分に礎石建物跡が1棟発見されました。この建物は、三ノ段の幅いっぱいに建てられています。大きさは南北が9間(16.9m)で、幅は北半部が4間(8.6m)、南半部が3間(6.2m)と2つの部分に分かれています。
建物跡の面積は125㎡と大きく、⑥詰(写真手前側)に接しています。礎石は、50~60cmの割石と非常に大きく、半間おきに置かれています。北半部(写真右側)では礎石間に列石がみられます。建物跡からは、鉄鍋や石臼など生活を知ることのできる遺物が出土しています。
西部の土塁の石積は、径20~30cmの割石が 1m位積まれ、北半部(写真右側)は良好に残っていましたが、南半部(写真左側)はほとんど崩れていました。
⑥詰(南東方向を撮影): 詰は岡豊城跡の中心となる曲輪で、標高97mの岡豊山の頂上部にあります。
1辺40mのほぼ三角形状で、東には①二ノ段、南から西にかけては④⑤三ノ段、⑦⑧⑨四ノ段が詰を取り巻くように造られています。
発掘調査では、石敷(いしじき)遺構(建物の基礎)と礎石建物跡が発見されました。また、地鎮の遺構や溜井(雨水を溜めた井戸)とみられる土坑(穴)、柱穴なども発見されています。
西部(写真右側で写っていません)には、土塁が残されていますが、築城当時は周囲に巡らされていたものと考えられます。出土遺物には、「天正三(年)・・・」(1575)の年号のある瓦をはじめ、土師質土器、陶磁器、銭貨、懸仏などがあります。
⑥詰礎石建物跡(南方向を撮影): 礎石建物跡は詰の西南部で発見されました。この建物跡の南端(写真奥)は、40~60cmの割石を幅1~1.5m、長さ16mに敷いた石敷(いしじき)遺構で、その北側には建物跡の礎石がつづいています。
建物跡は、5間×4間 (10.4m×7.2m) と1間×1間 (1.4m×2.0m)の2棟で、 それぞれの面積は75㎡と3㎡です。これらの2棟は石敷遺構でつながれた東西(写真左右)方向の大きな建物で、石敷遺構は建物の基礎として造られたものです。南側(写真奥)には土壁などの強固な外壁をもっていたとみられます。 詰の建物跡は、その位置や基礎から判断すれば、近世城郭の天守の前身ともみられる 2層以上の建物であったと考えられます。
写真右(西側)に小さな青色陶板の説明板が見えますが、これは地鎮の遺構です。この背後に土塁が見えます。
⑥詰の地鎮の遺構: 地鎮の遺構では、12枚の土師質土器が土坑(穴)に入れられており、 その中に91枚の中国からの渡来銭が納められていました。これらの土師質土器や渡来銭は築城のときに土地の神を鎮める祭りに使われたものと考えられます。
高知県立歴史民俗資料館発行「岡豊城跡」より
⑦四ノ段南部: ④三ノ段南部を囲むように造られた曲輪です。
四ノ段は中央部にある次の⑧虎口によりこの「南部」と⑨の「北部」に二分されています。南部は、南北32m、東西約16mです。南部からは、土塁裾部の割石が確認されましたが、建物跡などは確認されませんでした。
⑦長宗我部氏岡豊城址の碑(裏側): 四ノ段南部に建てられています。
⑧四ノ段虎口(⑨四ノ段北部より撮影): 城の出入り口のことを虎口と呼び、もとは小口と書いていましたが、 後に虎口の字を用いるようになりました。虎口は、敵から攻められないような造りになっています。
特に⑨の四ノ段北部に入るこの虎口は、食い違いの折れをもたせた枡形虎口の構造となっており、防御性が一段と高くなっています。
土佐では、この虎口が岡豊城で初めて取り入れられました。
⑨四ノ段北部: 四ノ段の北部は、方形の曲輪で、約12m×15mの広さです。
発掘調査により北部曲輪からは、土塁、礎石建物跡1棟、土坑1基、粘土盛土遺構1基、集石遺構1基が確認されました。
⑩竪堀(上方・⑦⑧⑨四ノ段方向を撮影): 岡豊城跡にはたくさんの竪堀がありますが、四ノ段から下りて伝厩跡曲輪への移動途中で上方に竪堀が見られましたので撮影しました。
⑪伝厩跡曲輪: この曲輪は、⑥詰の西南に位置する出城で、通称伝厩跡曲輪と呼ばれています。
長軸30m、短軸 17mの楕円形の曲輪で、急な斜面に囲まれ、北西の2重の堀切と南斜面の畝状竪堀群により守りを固めています。
戦いの時には、西方からの攻撃に対し、⑥詰を中心とする本城を守る出城として、重要な位置を占めていたと考えられます。
なお、写真に見える石碑は「岡豊公園征清凱旋碑」で、岡豊出身の兵士が海を渡って戦役で活躍したことをほめたたえる碑です。
⑪伝厩跡曲輪展望台から見える伝厩跡曲輪と東方向の風景
伝厩跡曲輪から見る岡豊山(岡豊城跡主郭): 北東方向に見える岡豊山(⑥詰、④⑤三ノ段及び⑦⑧⑨四ノ段側)です。
以上、これまで巡った縄張の情報に基づいて描かれた岡豊城の想像復元図がありましたので掲載します。
高知県立歴史民俗資料館発行「ふらり散策綴り」より(図はクリックすると拡大します):
この後、岡豊城跡から高知県立歴史民俗資料館へと下山し、本日の次の訪問地の高知城へと移動しました。
文責 岡島 敏広
岡豊城跡は続日本100名城に選定され、No. 180です。
岡豊城跡は長宗我部氏が居城とした山城で、四国の戦国期城郭を代表する遺跡です。長宗我部氏が土佐一国から四国に支配を広げる過程で、織豊体制に組み込まれる変遷が分かるなど、極めて重要な城跡であるということから、平成20年(2008)7月28日国指定史跡となりました。
戦国時代に四国の覇者となった長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、天文8年(1539年)、長宗我部国親(くにちか)の長男として岡豊(おこう)に生まれました。
父の長宗我部国親は、他の戦国群雄が割拠する中、軍事・外交の手腕を発揮し、着実にその支配圏を広げていましたが、永禄3年(1560)、土佐中央部の覇権をかけた本山氏との激戦の最中に突如病死しました。
ただちに元親が家督を相続し、長宗我部家第21代当主となりました。 その後、元親は父の志を継いだ戦で本山氏から朝倉城を奪い、 土佐中央部を手中に収めます。
また、本山氏、安芸氏、津野氏ら他の有力国人を相次いで降伏・滅亡させ、天正3年(1575)、念願の土佐統一を果たしました。
長宗我部元親 高知県立歴史民俗資料館前銅像


長宗我部氏によって岡豊山に岡豊城が築かれた明確な時期は不明ですが、調査の結果では13世紀~14世紀の築城と考えられています。
また、長宗我部氏が岡豊城に拠点を構えた15世紀後半から、永正5~6年(1508~9)に一度落城した時期(長宗我部元秀の頃)を含め、後に再興され、大高坂城に移転する天正16年(1588)頃まで城は存続し機能していたものと考えられています。
岡豊城は、詰、ニノ段、三ノ段、四ノ段を中心とした主郭部(下図 "一")、
伝厩跡曲輪(下図 "三")や伝家老屋敷曲輪(下図 "二")を中心とした2箇所を副郭とする連郭式構造の城郭です。 城の南麓(下記地図上側)は国分川が西流(下図右方向)し、湿地帯が形成され、自然の防御施設となっています。
岡豊城跡散策ルート: 散策は図に矢印を記載したように、高知県立歴史民俗資料館から進みました。
高知県立歴史民俗資料館→①ニノ段→③詰下段→⑥詰→④⑤三ノ段
→⑦⑨四ノ段南部・北部→⑪伝厩跡曲輪→高知県立歴史民俗資料館
岡豊城跡縄張図(縄張図はクリックすると拡大します。): 本日巡った曲輪を縄張図内に示します。図中のオレンジやピンクの太線は竪堀、黄色の太線は土塁を示し、朱書き丸数字は今回訪問時に写真撮影した場所です。
図の上が南、下が北です。(図はクリックすると拡大します。)

①二ノ段: ニノ段は歴史民俗資料館の南側で登山口から最も近く、堀切によって⑥詰・③詰下段からへだてられた下段の曲輪(土塁や堀などで囲まれた城の一区画)です。
長さ45m、最大幅20mのほぼ三角形で、南部には高さ60cmの土塁が30mにわたり残っていました。昭和60年(1985)と昭和63年(1988)に行われた発掘調査により、土塁は幅が約3m、高さが1mであったことがわかりました。写真奥に土塁が見えます。
建物跡などの遺構は発見されませんでしたが、焼土や炭化物を含む土の中からは、瓦や土師質土器、陶磁器など多くの遺物が見つかりました。深いところでは、地下1.8mから遺物が出土したことから、二ノ段は⑥詰などから運ばれた土が盛られて造られ、土塁に囲まれた広い空間は、兵溜まりの場所であったと考えられます。

①二ノ段からの東方向の眺め: ニノ段から見える眺めは、土佐の国の中でも美しく豊かな地域であり、「土佐のまほろば」と言われ、史跡・文化財が数多く残された歴史上重要な一帯です。
ここからは、土佐で最も古い寺院跡の一つとされる比江廃寺跡、土佐国分寺跡、土佐国府跡などを望むことができます。

②堀切・井戸: 堀切は、尾根などを横堀によって断ち切り、敵の侵入を防ぐ施設で、 岡豊城跡のこの堀切は⑥詰と①二ノ段の間の1本、他に北に延びる尾根上(小曲輪の辺り)に2本、伝厩跡曲輪の北西部などに造られています。岡豊城跡の堀切はいずれも幅3~4m、 深さ2m前後あります。
写真では堀切の手前に井戸の一部が見えますが、井戸は堀切のほぼ中央部に掘られており、方形をしています。上部は幅3m、底部は0.8mで、①ニノ段からの深さは4.7mです。岩盤を3.6mほど掘り込んでおり、岩盤の上には、堀切を区切るように北(左のニノ段側)に2段、南(右の詰側)に3段の石積がみられます。井戸の底は、岩盤で湧き水はなく、雨水をためる溜井として使われていたようです。

③詰下段 礎石建物跡: 詰の東の一段低いところにある曲輪を、詰下段と呼んでいます。詰に付随する曲輪で、詰下段は、①二ノ段から詰への出入り口を守るための曲輪であったと考えられています。
ここで礎石の上に柱を建てた礎石建物跡1棟や土塁、段状遺構、土坑が確認され、さらに、④三ノ段への通路と考えられる遺構も確認されました。
写真の礎石建物跡は、2間(5.8m)×5間(9.2m)、面積は約53㎡、東側の土塁(写真左)と西側の詰斜面(写真右)に接して建てられ、建物が詰下段全体を占めています。礎石は、40~60cmの割石が使われ、5間の一辺には半間ごとに礎石が置かれています。
土塁(写真左)はおよそ幅2.5m、高さ1m以上と考えられ、基部には土留めのために2~3段の石積みがあります。

④三ノ段(南部): 三ノ段は詰の南と西を囲む曲輪で、南部(④)は幅5m、西部(⑤)は幅3~8mの帯状となっています。
発掘調査では、西部に礎石建物跡1棟と中央部に詰への通路となる階段跡、土塁の内側に石積が発見されました(下写真⑤)。

⑤三ノ段の詰への通路となる階段(南・西部の中央部): 階段跡は岩盤を削り、両側は野面積の石積となっています。階段跡の北(写真左側)には下の三ノ段(西部)礎石建物跡が接しており、④三ノ段(南部)からの通路はこの階段を通り、⑥詰へと登るようになっています。発掘時からは復元され整えられています。

⑤三ノ段(西部)礎石建物跡(階段跡から撮影): 三ノ段では、西部の北半分に礎石建物跡が1棟発見されました。この建物は、三ノ段の幅いっぱいに建てられています。大きさは南北が9間(16.9m)で、幅は北半部が4間(8.6m)、南半部が3間(6.2m)と2つの部分に分かれています。
建物跡の面積は125㎡と大きく、⑥詰(写真手前側)に接しています。礎石は、50~60cmの割石と非常に大きく、半間おきに置かれています。北半部(写真右側)では礎石間に列石がみられます。建物跡からは、鉄鍋や石臼など生活を知ることのできる遺物が出土しています。
西部の土塁の石積は、径20~30cmの割石が 1m位積まれ、北半部(写真右側)は良好に残っていましたが、南半部(写真左側)はほとんど崩れていました。

⑥詰(南東方向を撮影): 詰は岡豊城跡の中心となる曲輪で、標高97mの岡豊山の頂上部にあります。
1辺40mのほぼ三角形状で、東には①二ノ段、南から西にかけては④⑤三ノ段、⑦⑧⑨四ノ段が詰を取り巻くように造られています。
発掘調査では、石敷(いしじき)遺構(建物の基礎)と礎石建物跡が発見されました。また、地鎮の遺構や溜井(雨水を溜めた井戸)とみられる土坑(穴)、柱穴なども発見されています。
西部(写真右側で写っていません)には、土塁が残されていますが、築城当時は周囲に巡らされていたものと考えられます。出土遺物には、「天正三(年)・・・」(1575)の年号のある瓦をはじめ、土師質土器、陶磁器、銭貨、懸仏などがあります。

⑥詰礎石建物跡(南方向を撮影): 礎石建物跡は詰の西南部で発見されました。この建物跡の南端(写真奥)は、40~60cmの割石を幅1~1.5m、長さ16mに敷いた石敷(いしじき)遺構で、その北側には建物跡の礎石がつづいています。
建物跡は、5間×4間 (10.4m×7.2m) と1間×1間 (1.4m×2.0m)の2棟で、 それぞれの面積は75㎡と3㎡です。これらの2棟は石敷遺構でつながれた東西(写真左右)方向の大きな建物で、石敷遺構は建物の基礎として造られたものです。南側(写真奥)には土壁などの強固な外壁をもっていたとみられます。 詰の建物跡は、その位置や基礎から判断すれば、近世城郭の天守の前身ともみられる 2層以上の建物であったと考えられます。
写真右(西側)に小さな青色陶板の説明板が見えますが、これは地鎮の遺構です。この背後に土塁が見えます。

⑥詰の地鎮の遺構: 地鎮の遺構では、12枚の土師質土器が土坑(穴)に入れられており、 その中に91枚の中国からの渡来銭が納められていました。これらの土師質土器や渡来銭は築城のときに土地の神を鎮める祭りに使われたものと考えられます。
高知県立歴史民俗資料館発行「岡豊城跡」より

⑦四ノ段南部: ④三ノ段南部を囲むように造られた曲輪です。
四ノ段は中央部にある次の⑧虎口によりこの「南部」と⑨の「北部」に二分されています。南部は、南北32m、東西約16mです。南部からは、土塁裾部の割石が確認されましたが、建物跡などは確認されませんでした。

⑦長宗我部氏岡豊城址の碑(裏側): 四ノ段南部に建てられています。

⑧四ノ段虎口(⑨四ノ段北部より撮影): 城の出入り口のことを虎口と呼び、もとは小口と書いていましたが、 後に虎口の字を用いるようになりました。虎口は、敵から攻められないような造りになっています。
特に⑨の四ノ段北部に入るこの虎口は、食い違いの折れをもたせた枡形虎口の構造となっており、防御性が一段と高くなっています。
土佐では、この虎口が岡豊城で初めて取り入れられました。

⑨四ノ段北部: 四ノ段の北部は、方形の曲輪で、約12m×15mの広さです。
発掘調査により北部曲輪からは、土塁、礎石建物跡1棟、土坑1基、粘土盛土遺構1基、集石遺構1基が確認されました。

⑩竪堀(上方・⑦⑧⑨四ノ段方向を撮影): 岡豊城跡にはたくさんの竪堀がありますが、四ノ段から下りて伝厩跡曲輪への移動途中で上方に竪堀が見られましたので撮影しました。

⑪伝厩跡曲輪: この曲輪は、⑥詰の西南に位置する出城で、通称伝厩跡曲輪と呼ばれています。
長軸30m、短軸 17mの楕円形の曲輪で、急な斜面に囲まれ、北西の2重の堀切と南斜面の畝状竪堀群により守りを固めています。
戦いの時には、西方からの攻撃に対し、⑥詰を中心とする本城を守る出城として、重要な位置を占めていたと考えられます。
なお、写真に見える石碑は「岡豊公園征清凱旋碑」で、岡豊出身の兵士が海を渡って戦役で活躍したことをほめたたえる碑です。

⑪伝厩跡曲輪展望台から見える伝厩跡曲輪と東方向の風景

伝厩跡曲輪から見る岡豊山(岡豊城跡主郭): 北東方向に見える岡豊山(⑥詰、④⑤三ノ段及び⑦⑧⑨四ノ段側)です。

以上、これまで巡った縄張の情報に基づいて描かれた岡豊城の想像復元図がありましたので掲載します。
高知県立歴史民俗資料館発行「ふらり散策綴り」より(図はクリックすると拡大します):

この後、岡豊城跡から高知県立歴史民俗資料館へと下山し、本日の次の訪問地の高知城へと移動しました。
文責 岡島 敏広
2025年4月1日(火)高知県土佐国安芸城跡訪問(安芸市)
2025年3月31日(月)高知県土佐国高知城訪問(高知市)
2025年3月30日(日)広島県備後国福山城訪問(福山市)
2025年3月30日(日)兵庫県播磨国龍野城訪問(たつの市)
2025年2月17日(月)三上陣屋跡訪問(野洲市)
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
2025年3月31日(月)高知県土佐国高知城訪問(高知市)
2025年3月30日(日)広島県備後国福山城訪問(福山市)
2025年3月30日(日)兵庫県播磨国龍野城訪問(たつの市)
2025年2月17日(月)三上陣屋跡訪問(野洲市)
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
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