2023年07月30日
2023年7月24日(月)第107回例会「沖島での懐かしい風景と幻の城郭跡」
城郭探訪会第107回例会が、近江八幡市の沖島を探訪地として、草津校園芸学科A,Bの合同主催により開催されました。今回は43名(43期27名、44期16名)の城郭探訪会員が参加しました。
堀切港に集合し、参加者43名は3班に別れて、3名のガイドさん(ブルージャケットの方)にお世話になります。
堀切港おきしま通船乗船場で、本日の例会用にチャーターした第二善通丸に乗り込みます。
第二善通丸船内です。船長さん(左)と乗船客の我々城郭探訪会員(右)です。

沖島漁港に到着し、沖島漁業会館前で本日の例会開催の挨拶を行いました。
この沖島漁業会館には、沖島の湖島婦貴(ことぶき)の会で調理されたエビ豆など湖魚の料理も販売されていました。
沖島頭山(かしらやま)城へ出発ですが、早速、島の主たる交通手段である三輪車(沖島レンタサイクル)の駐車場を見かけました。
途中、鮒寿司づくりのため、ご飯を炊く準備風景も見かけました。
沖島コミュニティセンター前で、ガイドさんから沖島についての最初の説明を聞きました。
コミュニティセンター前にあるおきしま公園付近は、現在の沖島漁港が埋め立てによりできる前は、湖岸がここまで迫っていて、例えば豊臣秀吉の時代はここが沖島の港で、舟だまりであったとのことです。琵琶湖岸は各家に今よりはるかに近く、朝一番で飲み水を汲み、野菜を洗い、お茶碗を洗っていました。
沖島は湖に浮かぶ島では、唯一、人が住む島です。
詳細は不明ですが、沖合から縄文土器や奈良時代の和同開珎が発見されていることから、古くから人々の島への往来があったのは確かで、本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156-1159)による清和源氏の落武者7人が、山裾を切り開き漁業を生業として居住したことに始まると言われています。彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。
沖島は琵琶湖のほぼ中央、湖上交通を支配するのに適した位置にあり、早くから六角氏支配下の島民が、水軍としての役割をも担っていたと考えられます。南北朝期には南朝方が、越前と新田義貞軍の中継基地として頭山一帯に城(沖島頭山城)を構えたとされ、室町8代将軍足利義政は島民に湯谷ヶ谷(番所山)で湖上を行き交う船の監視と取締りを命じたとされます(沖島坊谷城)。
また、応仁2年(1468)には比叡山延暦寺に敗れた堅田衆4千人が、沖島で約2年間避難生活をしたとされています。当初は近江守護六角氏の影響下にありましたが、後に本願寺系自治区堅田の保護を受けました。更に、織田信長の近江平定に従って船の関所の存続が許され、少なくとも豊臣政権下の天正13年(1585)頃までは存在していました。
そのような背景の中、沖島は戦乱の世に重用され続けました。このように、南北朝から、戦国時代に入っても関所が設置され、琵琶湖水運の重要拠点として時の権力者により重要視され、豊臣政権下まで機能していました。
この島の要所に当たる尾根上の3箇所(下地図)に遺存状態の良い大規模な城跡が発見され、沖島全島が要塞化されていたことも確認でき、これらの城は琵琶湖上における監視等を担う目的で築城されたものと推定されています。
より詳しい地図が、下図をクリックすると現れます。
奥津嶋神社: まず、最初に島の西の頭山中腹にある奥津嶋神社を訪問しました。和銅5年、藤原不比等により建立されました。主祭神は多岐理比賣命(又の名:瀛津島比賣命)です。

この神社から北西方向の山上に山神神社(沖島で採石が盛んに行なわれていたころ、たくさんの死傷者が出たことから、犠牲者が少しでも出ないように「山神さん」が建立されたそうです。)と沖島頭山城がありますが、残念ながら登ることはしませんでした。沖島頭山城跡は写真の樹木の上方にあります。
沖島頭山城
以下の沖島頭山城の記述は、訪問しておりませんので文献調査した結果です。
集落西側には半島状突出部に独立丘陵があり、これを頭山(標高140m)と呼びます。のどかな島の風景とは相反して一歩入山すると、山全体が城塞化しています。沖島頭山城は、3つの城跡のうちの1箇所で、南北朝時代延元3年(1338)に、南朝方が越前と新田義貞の中継基地として頭山一体に城を構えたとされています。いわゆる海賊城(中世の水軍の根拠地)です。現在の遺構がその時のものなのか詳細は判っていませんが、縄張の手法が鎌倉期から戦国期まで中世全域でみられるものです。
城跡へは南斜面の奥津嶋神社への階段を利用し、奥津嶋神社から山頂の曲輪に出ます。この間の斜面は階段状の小さな削平地の連続で、階段状削平地の切岸には土留めの石積みが見られますが、石積みのない曲輪と差別化が図られている様子はありません。他の沖島尾山城や沖島坊谷城とは異なり、山頂には明らかにまともな広さを持った主郭と比定できる削平地があります。北斜面(帯曲輪には見事な石積みが見られます)及び東斜面(土塁が築かれています)は、南斜面(高い所では4~5mの切岸となり行く手を阻みます)と同様に階段状に削平地がつくられていますが、北・東両斜面は斜度が穏やかなこともあって面積も確保され、曲輪らしい体裁を保っています。山頂部に主郭を配し、それらを幾重にも囲繞する形の雛壇状曲輪群の遺構約140が存在し、立地条件と併せて特異な縄張が注目されます。すぐ東側にある沖島尾山(おやま)城も同様に、雛壇状の曲輪群が埋めつくしています。
本土では水茎岡山城や円山城に類似遺構が存在しますが、曲輪をつくることが目的ではなく、緩傾斜面に切岸を造り出すことに主眼が置かれ、その機能を多用することにより、防御性を強化する縄張だと考えられます。雛壇は上述のように合計140にも及び、段違いと行き止まりの連続で、個性がないことから迷路のようです。全山に城郭の遺構がありますが、近世以降の採石作業で、西側約3分の1の遺構が破壊されていると思われます。
縄張図はクリックにより拡大します。
沖島を離れるとき、チャーター船が島の周囲を巡ってくれましたので、頭山の北の湖上からの姿を以下に示します。
沖島尾山城
おきしま公園の奥から山道が北東へ続いています。
登山口近く尾山山麓にある浄土真宗本願寺派の西福寺は保元・平治の乱(1159)の際、近江源氏の落武者である7氏の1人、茶谷重右衛門の末裔が本願寺第八世蓮如上人に帰依し、庵を建てたのが開基とされています。
山道を登り、墓地を越えて、ケンケン(見景)山(標高210m)登り口から沖島尾山城のある尾根(お花見広場~ホオジロ広場)を目指します。
沖島尾山城曲輪(削平地): 尾根までの斜面に写真のような段々状の削平地がいくつも観察されました。
お花見広場: 尾根に沿って登って行くと「お花見広場」があり、この辺りと次の「ホオジロ広場」が沖島尾山城の中核部のようです。
沖島尾山城の縄張りを示します。縄張図はクリックにより拡大します。
登山の途中、多数の曲輪(削平地)が見られましたが、縄張図からもこの辺りに曲輪が多く存在することが確認できます。沖島尾山城は、沖島集落の背後、尾山の西端に位置する支峰(標高185m)をほぼ中心にして、東西400m・南北430mの範囲にわたり遺構が存在します。ピークから南西に下る尾根上には梯郭式の縄張りが、北へ伸びる部分には堀切や土橋が存在しますが、他の斜面は430に及ぶ雛壇状の曲輪群で埋め尽くされています。
城郭の雛壇状の曲輪が設けられた年代は、縄張の手法から建仁1年(1201)から天正12年(1584)とほぼ中世期の全域にわたり、時代編年の決定に難があります。
ホオジロ広場: この辺りが、沖島尾山城の東端に当たります。
沖島坊谷城
「ホオジロ広場」から尾根を東にどんどん進むと「見晴らし広場」(標高220.2m)に到着し、ここで昼食をとりました。「見晴らし広場」は曲輪跡と思われます。
この「見晴らし広場」から東の辺りも沖島坊谷城です。歴史上では、室町時代に将軍足利義政により湖上監視が命じられ、中腹の湯谷ヶ谷(番所山)に施設が設けられた”との記録があります。この湯谷ヶ谷(番所山)(標高165m付近)を確認するには「見晴らし広場」から南に下りる必要があります。
なお、沖島漁業会館で販売されていた沖島小学校作成の地図には、南に下り杉谷浜に至る道が記載されていなかったことから、現在は下の縄張図に破線で示された南に下り坊跡を通る道が存在しないのかもしれません。
坊跡を利用したと考えられる曲輪が、最高所の宝来ヶ嶽(尾山: 標高225m)と南端沿岸に突出した赤崎を結ぶ尾根筋中程の湯谷ヶ谷(番所山)(標高165m付近)に築かれており、これが歴史に現れる沖島坊谷城そのものではないかと考えられています。
山麓の赤崎側より尾根筋(下縄張図)には梯郭(ていかく)式に11段の曲輪が配置され、この最上部より東側には谷を隔てて9段の曲輪(弁財天社の西側)が連立し、下降する随所には石積みが見られます。
沖島頭山城や沖島尾山城に見られるような斜面一帯に設けられた削平地はなく、坊谷城の城名や縄張図から分かるように、坊跡を利用して城に改築したように思われます。梯郭式縄張の上方約80mの標高150m付近(縄張図中央)には比較的広い曲輪が3~4段築かれていて、主郭部ではないかと思われ、加工された石が散在していることから、建物等の施設が存在した可能性が考えられます。さらに上方約60mの標高160m付近には土塁、そのすぐ上方通路は堀切に土橋が掛かったような遺構がみられ(縄張図上端)、尾山頂部からの侵入に備えているようです。
縄張図はクリックにより拡大します。
「見晴らし広場」(標高220.2m)からの眺望です。ここで集合写真を撮影しました。
下山時は「見晴らし広場」から主郭があると思われる東の宝来ヶ嶽(尾山: 標高225m)に少し登ってから山を下り、湯谷ヶ谷(番所山)を通過せずに厳島神社(弁財天社)の東側の浜に出ましたので、坊跡と思われる曲輪を確認することはしませんでした。
しかし、沖島坊谷城も沖島の頭山城、あるいは沖島尾山城等と同様に、尾根斜面に雛壇状に曲輪を配した山城です。この沖島坊谷城が他の2つの城と多少違うのは、道の両側に曲輪を配置し、尾根の斜度がなだらかなこともあって個々の曲輪が大きいことです。主郭と考えられる最高所の曲輪は30m~40mほどもあり、上述のように坊跡の改修と考えられていることです。縄張の手法は鎌倉期から戦国期まで中世全域で見られるものです。
厳島神社(弁財天社): 浜辺にまで下山し、その後、厳島神社に立ち寄りました。琵琶湖の船の往来や災害よけ、雨乞いの神様です。天台宗の寺院があったところに、彦根藩士の戸次権左衛門と源新平が、京の仏工が作った天女像を安置したという由緒が伝わっています。

厳島神社(弁財天社)から、沖島町の休暇村を臨みました。宮島の厳島神社と同じく、水の上に鳥居が建てられています。
沖島小学校: 淡水湖上の離島で唯一の小学校で、最後、トイレを借用しました。
おきしま資料館: つくだ煮工場跡を利用した資料館で、館内では沖島住民の営みや歴史を紹介する展示を説明していただきました。
結果として、暑いくらいの快晴の中での例会でしたが、今回は滅多に訪問できない探訪地を体験させていただけました。また、例会終了後、離島するとき、チャーター船の船長さんのご好意で、堀切港へは直行せず、沖島を一周する遊覧の機会も設けていただき、追加の観光に加え、城郭探訪で火照った体を湖面の涼風により冷やすことができました。本例会の開催を準備いただきました城郭探訪会の皆様、特に草津校園芸学科A,Bの方々、さらには、第二善通丸の船長さんに感謝いたします。
次回例会は、2023年8月20日(日)に、43期生主催最後の彦根城下町散策とクラブ総会が予定されています。 文責 岡島 敏広
堀切港に集合し、参加者43名は3班に別れて、3名のガイドさん(ブルージャケットの方)にお世話になります。
堀切港おきしま通船乗船場で、本日の例会用にチャーターした第二善通丸に乗り込みます。

第二善通丸船内です。船長さん(左)と乗船客の我々城郭探訪会員(右)です。


沖島漁港に到着し、沖島漁業会館前で本日の例会開催の挨拶を行いました。

この沖島漁業会館には、沖島の湖島婦貴(ことぶき)の会で調理されたエビ豆など湖魚の料理も販売されていました。

沖島頭山(かしらやま)城へ出発ですが、早速、島の主たる交通手段である三輪車(沖島レンタサイクル)の駐車場を見かけました。

途中、鮒寿司づくりのため、ご飯を炊く準備風景も見かけました。

沖島コミュニティセンター前で、ガイドさんから沖島についての最初の説明を聞きました。

コミュニティセンター前にあるおきしま公園付近は、現在の沖島漁港が埋め立てによりできる前は、湖岸がここまで迫っていて、例えば豊臣秀吉の時代はここが沖島の港で、舟だまりであったとのことです。琵琶湖岸は各家に今よりはるかに近く、朝一番で飲み水を汲み、野菜を洗い、お茶碗を洗っていました。

沖島は湖に浮かぶ島では、唯一、人が住む島です。
詳細は不明ですが、沖合から縄文土器や奈良時代の和同開珎が発見されていることから、古くから人々の島への往来があったのは確かで、本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156-1159)による清和源氏の落武者7人が、山裾を切り開き漁業を生業として居住したことに始まると言われています。彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。
沖島は琵琶湖のほぼ中央、湖上交通を支配するのに適した位置にあり、早くから六角氏支配下の島民が、水軍としての役割をも担っていたと考えられます。南北朝期には南朝方が、越前と新田義貞軍の中継基地として頭山一帯に城(沖島頭山城)を構えたとされ、室町8代将軍足利義政は島民に湯谷ヶ谷(番所山)で湖上を行き交う船の監視と取締りを命じたとされます(沖島坊谷城)。
また、応仁2年(1468)には比叡山延暦寺に敗れた堅田衆4千人が、沖島で約2年間避難生活をしたとされています。当初は近江守護六角氏の影響下にありましたが、後に本願寺系自治区堅田の保護を受けました。更に、織田信長の近江平定に従って船の関所の存続が許され、少なくとも豊臣政権下の天正13年(1585)頃までは存在していました。
そのような背景の中、沖島は戦乱の世に重用され続けました。このように、南北朝から、戦国時代に入っても関所が設置され、琵琶湖水運の重要拠点として時の権力者により重要視され、豊臣政権下まで機能していました。
この島の要所に当たる尾根上の3箇所(下地図)に遺存状態の良い大規模な城跡が発見され、沖島全島が要塞化されていたことも確認でき、これらの城は琵琶湖上における監視等を担う目的で築城されたものと推定されています。
より詳しい地図が、下図をクリックすると現れます。

奥津嶋神社: まず、最初に島の西の頭山中腹にある奥津嶋神社を訪問しました。和銅5年、藤原不比等により建立されました。主祭神は多岐理比賣命(又の名:瀛津島比賣命)です。


この神社から北西方向の山上に山神神社(沖島で採石が盛んに行なわれていたころ、たくさんの死傷者が出たことから、犠牲者が少しでも出ないように「山神さん」が建立されたそうです。)と沖島頭山城がありますが、残念ながら登ることはしませんでした。沖島頭山城跡は写真の樹木の上方にあります。

沖島頭山城
以下の沖島頭山城の記述は、訪問しておりませんので文献調査した結果です。
集落西側には半島状突出部に独立丘陵があり、これを頭山(標高140m)と呼びます。のどかな島の風景とは相反して一歩入山すると、山全体が城塞化しています。沖島頭山城は、3つの城跡のうちの1箇所で、南北朝時代延元3年(1338)に、南朝方が越前と新田義貞の中継基地として頭山一体に城を構えたとされています。いわゆる海賊城(中世の水軍の根拠地)です。現在の遺構がその時のものなのか詳細は判っていませんが、縄張の手法が鎌倉期から戦国期まで中世全域でみられるものです。
城跡へは南斜面の奥津嶋神社への階段を利用し、奥津嶋神社から山頂の曲輪に出ます。この間の斜面は階段状の小さな削平地の連続で、階段状削平地の切岸には土留めの石積みが見られますが、石積みのない曲輪と差別化が図られている様子はありません。他の沖島尾山城や沖島坊谷城とは異なり、山頂には明らかにまともな広さを持った主郭と比定できる削平地があります。北斜面(帯曲輪には見事な石積みが見られます)及び東斜面(土塁が築かれています)は、南斜面(高い所では4~5mの切岸となり行く手を阻みます)と同様に階段状に削平地がつくられていますが、北・東両斜面は斜度が穏やかなこともあって面積も確保され、曲輪らしい体裁を保っています。山頂部に主郭を配し、それらを幾重にも囲繞する形の雛壇状曲輪群の遺構約140が存在し、立地条件と併せて特異な縄張が注目されます。すぐ東側にある沖島尾山(おやま)城も同様に、雛壇状の曲輪群が埋めつくしています。
本土では水茎岡山城や円山城に類似遺構が存在しますが、曲輪をつくることが目的ではなく、緩傾斜面に切岸を造り出すことに主眼が置かれ、その機能を多用することにより、防御性を強化する縄張だと考えられます。雛壇は上述のように合計140にも及び、段違いと行き止まりの連続で、個性がないことから迷路のようです。全山に城郭の遺構がありますが、近世以降の採石作業で、西側約3分の1の遺構が破壊されていると思われます。
縄張図はクリックにより拡大します。

沖島を離れるとき、チャーター船が島の周囲を巡ってくれましたので、頭山の北の湖上からの姿を以下に示します。

沖島尾山城
おきしま公園の奥から山道が北東へ続いています。
登山口近く尾山山麓にある浄土真宗本願寺派の西福寺は保元・平治の乱(1159)の際、近江源氏の落武者である7氏の1人、茶谷重右衛門の末裔が本願寺第八世蓮如上人に帰依し、庵を建てたのが開基とされています。
山道を登り、墓地を越えて、ケンケン(見景)山(標高210m)登り口から沖島尾山城のある尾根(お花見広場~ホオジロ広場)を目指します。

沖島尾山城曲輪(削平地): 尾根までの斜面に写真のような段々状の削平地がいくつも観察されました。

お花見広場: 尾根に沿って登って行くと「お花見広場」があり、この辺りと次の「ホオジロ広場」が沖島尾山城の中核部のようです。

沖島尾山城の縄張りを示します。縄張図はクリックにより拡大します。
登山の途中、多数の曲輪(削平地)が見られましたが、縄張図からもこの辺りに曲輪が多く存在することが確認できます。沖島尾山城は、沖島集落の背後、尾山の西端に位置する支峰(標高185m)をほぼ中心にして、東西400m・南北430mの範囲にわたり遺構が存在します。ピークから南西に下る尾根上には梯郭式の縄張りが、北へ伸びる部分には堀切や土橋が存在しますが、他の斜面は430に及ぶ雛壇状の曲輪群で埋め尽くされています。
城郭の雛壇状の曲輪が設けられた年代は、縄張の手法から建仁1年(1201)から天正12年(1584)とほぼ中世期の全域にわたり、時代編年の決定に難があります。

ホオジロ広場: この辺りが、沖島尾山城の東端に当たります。

沖島坊谷城
「ホオジロ広場」から尾根を東にどんどん進むと「見晴らし広場」(標高220.2m)に到着し、ここで昼食をとりました。「見晴らし広場」は曲輪跡と思われます。

この「見晴らし広場」から東の辺りも沖島坊谷城です。歴史上では、室町時代に将軍足利義政により湖上監視が命じられ、中腹の湯谷ヶ谷(番所山)に施設が設けられた”との記録があります。この湯谷ヶ谷(番所山)(標高165m付近)を確認するには「見晴らし広場」から南に下りる必要があります。
なお、沖島漁業会館で販売されていた沖島小学校作成の地図には、南に下り杉谷浜に至る道が記載されていなかったことから、現在は下の縄張図に破線で示された南に下り坊跡を通る道が存在しないのかもしれません。
坊跡を利用したと考えられる曲輪が、最高所の宝来ヶ嶽(尾山: 標高225m)と南端沿岸に突出した赤崎を結ぶ尾根筋中程の湯谷ヶ谷(番所山)(標高165m付近)に築かれており、これが歴史に現れる沖島坊谷城そのものではないかと考えられています。
山麓の赤崎側より尾根筋(下縄張図)には梯郭(ていかく)式に11段の曲輪が配置され、この最上部より東側には谷を隔てて9段の曲輪(弁財天社の西側)が連立し、下降する随所には石積みが見られます。
沖島頭山城や沖島尾山城に見られるような斜面一帯に設けられた削平地はなく、坊谷城の城名や縄張図から分かるように、坊跡を利用して城に改築したように思われます。梯郭式縄張の上方約80mの標高150m付近(縄張図中央)には比較的広い曲輪が3~4段築かれていて、主郭部ではないかと思われ、加工された石が散在していることから、建物等の施設が存在した可能性が考えられます。さらに上方約60mの標高160m付近には土塁、そのすぐ上方通路は堀切に土橋が掛かったような遺構がみられ(縄張図上端)、尾山頂部からの侵入に備えているようです。
縄張図はクリックにより拡大します。

「見晴らし広場」(標高220.2m)からの眺望です。ここで集合写真を撮影しました。

下山時は「見晴らし広場」から主郭があると思われる東の宝来ヶ嶽(尾山: 標高225m)に少し登ってから山を下り、湯谷ヶ谷(番所山)を通過せずに厳島神社(弁財天社)の東側の浜に出ましたので、坊跡と思われる曲輪を確認することはしませんでした。
しかし、沖島坊谷城も沖島の頭山城、あるいは沖島尾山城等と同様に、尾根斜面に雛壇状に曲輪を配した山城です。この沖島坊谷城が他の2つの城と多少違うのは、道の両側に曲輪を配置し、尾根の斜度がなだらかなこともあって個々の曲輪が大きいことです。主郭と考えられる最高所の曲輪は30m~40mほどもあり、上述のように坊跡の改修と考えられていることです。縄張の手法は鎌倉期から戦国期まで中世全域で見られるものです。

厳島神社(弁財天社): 浜辺にまで下山し、その後、厳島神社に立ち寄りました。琵琶湖の船の往来や災害よけ、雨乞いの神様です。天台宗の寺院があったところに、彦根藩士の戸次権左衛門と源新平が、京の仏工が作った天女像を安置したという由緒が伝わっています。


厳島神社(弁財天社)から、沖島町の休暇村を臨みました。宮島の厳島神社と同じく、水の上に鳥居が建てられています。

沖島小学校: 淡水湖上の離島で唯一の小学校で、最後、トイレを借用しました。

おきしま資料館: つくだ煮工場跡を利用した資料館で、館内では沖島住民の営みや歴史を紹介する展示を説明していただきました。

結果として、暑いくらいの快晴の中での例会でしたが、今回は滅多に訪問できない探訪地を体験させていただけました。また、例会終了後、離島するとき、チャーター船の船長さんのご好意で、堀切港へは直行せず、沖島を一周する遊覧の機会も設けていただき、追加の観光に加え、城郭探訪で火照った体を湖面の涼風により冷やすことができました。本例会の開催を準備いただきました城郭探訪会の皆様、特に草津校園芸学科A,Bの方々、さらには、第二善通丸の船長さんに感謝いたします。
次回例会は、2023年8月20日(日)に、43期生主催最後の彦根城下町散策とクラブ総会が予定されています。 文責 岡島 敏広
2025年2月27日(木)城郭OB第87回例会「北之庄城(岩崎山城)跡」
2024年12月5日(木)城郭OB第85回例会「佐和山城と大洞弁財天を巡る」
2024年11月14日(木)城郭OB第84回例会「近江日爪城址」
2024年10月18日(金)城郭OB第83回例会「金ヶ崎城址・金ヶ崎の退き口」(福井県)
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」
2024年12月5日(木)城郭OB第85回例会「佐和山城と大洞弁財天を巡る」
2024年11月14日(木)城郭OB第84回例会「近江日爪城址」
2024年10月18日(金)城郭OB第83回例会「金ヶ崎城址・金ヶ崎の退き口」(福井県)
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」
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