2023年10月29日
2023年10月25, 26日松江城、出雲大社(レイカディア大学卒業旅行1日目)
10月25日は地域文化学科43期生の卒業旅行です。
主な訪問先は、タイトルの通り松江城(1日目)と出雲大社(2日目)で、それぞれで歴史・文化を勉強しようという趣旨です。しかし、前日には参加者がたくさんのメール交信していましたので、なんだか小学生が遠足に行くようなワクワク感がありました。
7:45 JR草津駅に集合し、観光バスに乗車して、まず、本日の昼食場所の蒜山高原へと出発しました。
コースは、25日(水): 草津駅西口→蒜山(昼食)→松江城→
一畑電車に乗り、電鉄出雲市駅→ホテル
26日(木): 出雲大社→古代出雲歴史博物館→島根ワイナリー→
道の駅湯の川(昼食)→草津駅西口
です。
松江城下武家屋敷の左桟瓦(ひだりさんがわら)(下写真): 観光バスが松江城に近づいてきますと、赤瓦(石州瓦)が多く見られる中国地方の中で、松江では黒い屋根瓦を葺いた家がほとんどです。さらに、黒屋根を形づくる瓦は、左桟瓦(古い家屋ですが)を使用している点に特徴があります。なお、松江城など城郭は「本瓦」葺きです。
後に説明します堀尾氏が松江城主の頃にはそもそも瓦は用いられておりませんでした。本瓦にくらべ簡易な桟瓦は1600年代後半に登場します。この桟瓦は葺き易いのがメリットですが、瓦の重ね部分が少なく雨漏りしやすい欠点があります。全国的には瓦職人に取扱いやすい右桟瓦が定着しますが、暴風雨対策として左桟瓦も用いることで補い、ここ島根と高知県では屋根の両側で左と右桟瓦を葺き分けていた形跡があるようです。
しかし、理由はわかりませんが、松江では左桟瓦の方に淘汰され、逆に全国では右桟瓦のみが作られ、左桟瓦は入手できなくなっています。松江歴史館ではその建築のために、左桟瓦を特注してそろえたとのことです。
写真は武家屋敷の左桟瓦が葺かれた屋根です。この後、小泉八雲旧居の前を通ってまもなく城山西駐車場です。
ぐるっと松江 堀川めぐり: 船頭さんから橋の下を通過するときの注意を受けて、駐車場近くのふれあい広場乗船場から、堀川めぐりの出発です。
最初の低い橋(うべや橋)の下を通過するときは、運航路も狭く、
橋下通過時、船頭さんの指示通り、印籠の葵の御紋を見せ、「この紋所が目に入らぬか。」 「皆の者、頭が高い。控えおろう。」 「ははーっ。」という声とともに、テントがリモコン操作で下げられ、土下座しなければなりませんでした。
この印籠はかなり使い込まれていて、葵の御紋が少しかすれていました。
この後、京橋川を通って、米子川の甲部橋、新米子橋、普門院橋でも土下座をさらに3回繰り返し、大手前広場乗船場で下船しました。

大手前駐車場の堀尾吉晴公像: 乗船場から大手口にまできて、松江城の築城者 堀尾吉晴公の像の前に来ました。
堀尾吉晴は、1543年、尾張の国に生まれ、織田信長、豊臣秀吉と徳川家康に仕えました。堀尾吉晴は松江に来る前には、近江の佐和山城と家康が秀吉により江戸に移封された後の浜松城の城主となっています。吉晴と
その子忠氏は、
慶長5年(1600)関ケ原の合戦で家康側に付き、その戦功の恩賞として出雲・隠岐両国24万石を拝領しました。出雲に入国した吉晴・忠氏父子は、従来の出雲の政治的・軍事的中心であった月山富田城(現在の安来市にある山城)にいったん入城し松江藩が成立します。しかし、月山富田城は中世山城であり、物資輸送が陸上輸送のみであることと、城下町が広く取れないことや鉄砲に対する防御が弱いといった理由から、吉晴は新たな拠点づくりを模索しました。
まずは城地とするにあたり、海上輸送もあり物流に便利な場所であること、城下が広く取れることから、松江の地を選びました。
築城場所として目を付けた場所は、父吉晴は荒隈山、息子で当主の忠氏は亀田山(現在の松江城の地)でした。しかし、二人の意見は分かれたまま、忠氏は慶長9年(1604)に28歳の若さで亡くなってしまいます。父の吉晴は、当主であった亡き息子の意思を継ぎ、忠氏が推した亀田山を築城拠点として、城と城下町の建設を推し進めていきました。築城と城下町の造成を開始したのは慶長12年(1607)でした。城は5年目の慶長16年(1611)正月に完成しましたが、堀尾吉晴はその年の6月にこの世を去っています。吉晴が没し城郭の整備は中断したと見られ、仮想敵豊臣秀頼が攻めてくると想定される城の東側には重厚な石垣があるにもかかわらず、西側には石垣が築かれていません。
松江城主の変遷: 堀尾氏は、忠氏の子 忠晴に後継者がおらず改易となり、次に、若狭の小浜より京極忠高が入封します。しかし、京極氏にも1代で後継者がなく、徳川家康の孫にあたる松平直政が松本より入封して、その後、松平氏のまま幕末を迎えます。この松平直政は2日目に訪問する出雲大社でも登場します。乞うご期待。
二ノ丸下ノ段からの太鼓櫓(復元): 明治初期、松江城は政府により廃城と決定されましたが、天守を取り壊すのは惜しいと地元有志の尽力により保存されることになりました。しかし、天守以外は取り壊され、現在の写真のような櫓は古写真に基づいて復元されています。石垣は材料に大海崎、矢田産の石を使い、野面積み、算木積みなどの工法で積まれています。石垣の中には、堀尾家の家紋など色々な印が刻まれた石があります。
松江城天守及び二ノ丸の古写真: 太鼓櫓は写真右上方で、縄張は、リンク先で見ることができます。その他、松江関係の古写真はこちらでご覧いただけます。
本丸からの松江城天守: 天守は高さ約30m で、外観は五層、内部は六階。狭間(矢や銃を撃つ孔)が94 個もある黒づくめの戦闘特化型天守です。
天守古写真: 改修前の天守
天守内部には生活物資の貯蔵庫や籠城時に用いる井戸や、階段は攻め込まれた場合すぐ引き上げられるといった仕掛けがあります。また、古写真からも分かるように修理の時に傷みが激しく取り換えられた木材の中には、月山富田城で使用されていた木材が含まれ、月山富田城の部材が再利用されていることが分かります。
天守地階井戸: 深さ24mで松江に入封する前の堀尾吉晴が築いた浜松城天守内にも同様に石組井戸があることが確認されていることから、松江城は堀尾吉晴の思想に基づき築城されていることが分かります。
鯱: 木彫り銅板張り、向かって左が雄で鱗が荒く、右が雌。高さは2.08mあり(雄)、日本現存の木造のものでは最大です。
ここにあるのは、昭和の修理の際におろされた古い鯱です。
天守は構造的に、2階分の通し柱を用いることで、上階の重さを分散させ、下階へ伝える新たな工法を用いています。
また、包板で木材の1~4面が包まれた柱が多用されています。不良材を補強したり、体裁を整えたりするためのもので、築城に際しての材木不足を補っています。
通し柱 包板と帯鉄(つつみいたとおびてつ)


松江城天守、国宝へ
松江城では2階分を貫く通し柱を計96本各階間に用いて長大な柱を必要としないことから、この後の築城に大きな影響を与えていますが、天守の築城時期が明確でなく重要文化財指定どまりでした。1937年に天守の調査が実施されたとき、天守4階に2枚の祈祷札があり、1枚には「慶長16年」と記されていたと記録がありましたが、2枚の祈祷札は、いつしか行方不明になっていました。松江市はそれを懸賞金をかけて広く全国から情報を求めた結果、棟札類の調査で2012年5月松江神社から発見されました。
松江城天守が完成した年に祈祷に使われたと思われる「慶長十六年正月」と書かれた天台宗大山寺と真言宗千手院「祈祷札」2枚でした。しかし天守外の蔵からの発見であることから、天守のものであることの証明が必要でした。地階の井戸脇の柱に小さな穴が見つかり、この小さな穴と、祈祷札についた釘穴がなんとぴったり一致し、その小さな穴が松江城天守国宝化に決定的な影響を与え、松江城天守は平成27年(2015)に国宝に指定されました。
大山寺祈祷札レプリカ 国宝指定書
千手院祈祷札はこの右側に取付けられています。

重要文化財時(右)と国宝指定時(左)の松江城パンフレット
今は天守前の生垣が取り払われ、芝生へと様子が変わっています。
この後、松江しんじ湖温泉駅16:08発の一畑電車に乗り、明日(26日)の出雲大社参拝のため、電鉄出雲市駅に向かいました。
途中、一畑口駅でスイッチバックして、車両の前後が逆となり、電鉄出雲市駅に到着しました。本日は、ホテルで御馳走を食べた後、二次会となりました。
2023年10月26日(2日目)訪問分は別ブログで報告します。 文責 岡島
主な訪問先は、タイトルの通り松江城(1日目)と出雲大社(2日目)で、それぞれで歴史・文化を勉強しようという趣旨です。しかし、前日には参加者がたくさんのメール交信していましたので、なんだか小学生が遠足に行くようなワクワク感がありました。
7:45 JR草津駅に集合し、観光バスに乗車して、まず、本日の昼食場所の蒜山高原へと出発しました。
コースは、25日(水): 草津駅西口→蒜山(昼食)→松江城→
一畑電車に乗り、電鉄出雲市駅→ホテル
26日(木): 出雲大社→古代出雲歴史博物館→島根ワイナリー→
道の駅湯の川(昼食)→草津駅西口
です。
松江城下武家屋敷の左桟瓦(ひだりさんがわら)(下写真): 観光バスが松江城に近づいてきますと、赤瓦(石州瓦)が多く見られる中国地方の中で、松江では黒い屋根瓦を葺いた家がほとんどです。さらに、黒屋根を形づくる瓦は、左桟瓦(古い家屋ですが)を使用している点に特徴があります。なお、松江城など城郭は「本瓦」葺きです。
後に説明します堀尾氏が松江城主の頃にはそもそも瓦は用いられておりませんでした。本瓦にくらべ簡易な桟瓦は1600年代後半に登場します。この桟瓦は葺き易いのがメリットですが、瓦の重ね部分が少なく雨漏りしやすい欠点があります。全国的には瓦職人に取扱いやすい右桟瓦が定着しますが、暴風雨対策として左桟瓦も用いることで補い、ここ島根と高知県では屋根の両側で左と右桟瓦を葺き分けていた形跡があるようです。
しかし、理由はわかりませんが、松江では左桟瓦の方に淘汰され、逆に全国では右桟瓦のみが作られ、左桟瓦は入手できなくなっています。松江歴史館ではその建築のために、左桟瓦を特注してそろえたとのことです。
写真は武家屋敷の左桟瓦が葺かれた屋根です。この後、小泉八雲旧居の前を通ってまもなく城山西駐車場です。

ぐるっと松江 堀川めぐり: 船頭さんから橋の下を通過するときの注意を受けて、駐車場近くのふれあい広場乗船場から、堀川めぐりの出発です。

最初の低い橋(うべや橋)の下を通過するときは、運航路も狭く、

橋下通過時、船頭さんの指示通り、印籠の葵の御紋を見せ、「この紋所が目に入らぬか。」 「皆の者、頭が高い。控えおろう。」 「ははーっ。」という声とともに、テントがリモコン操作で下げられ、土下座しなければなりませんでした。
この印籠はかなり使い込まれていて、葵の御紋が少しかすれていました。
この後、京橋川を通って、米子川の甲部橋、新米子橋、普門院橋でも土下座をさらに3回繰り返し、大手前広場乗船場で下船しました。


大手前駐車場の堀尾吉晴公像: 乗船場から大手口にまできて、松江城の築城者 堀尾吉晴公の像の前に来ました。

堀尾吉晴は、1543年、尾張の国に生まれ、織田信長、豊臣秀吉と徳川家康に仕えました。堀尾吉晴は松江に来る前には、近江の佐和山城と家康が秀吉により江戸に移封された後の浜松城の城主となっています。吉晴と

その子忠氏は、

慶長5年(1600)関ケ原の合戦で家康側に付き、その戦功の恩賞として出雲・隠岐両国24万石を拝領しました。出雲に入国した吉晴・忠氏父子は、従来の出雲の政治的・軍事的中心であった月山富田城(現在の安来市にある山城)にいったん入城し松江藩が成立します。しかし、月山富田城は中世山城であり、物資輸送が陸上輸送のみであることと、城下町が広く取れないことや鉄砲に対する防御が弱いといった理由から、吉晴は新たな拠点づくりを模索しました。
まずは城地とするにあたり、海上輸送もあり物流に便利な場所であること、城下が広く取れることから、松江の地を選びました。
築城場所として目を付けた場所は、父吉晴は荒隈山、息子で当主の忠氏は亀田山(現在の松江城の地)でした。しかし、二人の意見は分かれたまま、忠氏は慶長9年(1604)に28歳の若さで亡くなってしまいます。父の吉晴は、当主であった亡き息子の意思を継ぎ、忠氏が推した亀田山を築城拠点として、城と城下町の建設を推し進めていきました。築城と城下町の造成を開始したのは慶長12年(1607)でした。城は5年目の慶長16年(1611)正月に完成しましたが、堀尾吉晴はその年の6月にこの世を去っています。吉晴が没し城郭の整備は中断したと見られ、仮想敵豊臣秀頼が攻めてくると想定される城の東側には重厚な石垣があるにもかかわらず、西側には石垣が築かれていません。
松江城主の変遷: 堀尾氏は、忠氏の子 忠晴に後継者がおらず改易となり、次に、若狭の小浜より京極忠高が入封します。しかし、京極氏にも1代で後継者がなく、徳川家康の孫にあたる松平直政が松本より入封して、その後、松平氏のまま幕末を迎えます。この松平直政は2日目に訪問する出雲大社でも登場します。乞うご期待。

二ノ丸下ノ段からの太鼓櫓(復元): 明治初期、松江城は政府により廃城と決定されましたが、天守を取り壊すのは惜しいと地元有志の尽力により保存されることになりました。しかし、天守以外は取り壊され、現在の写真のような櫓は古写真に基づいて復元されています。石垣は材料に大海崎、矢田産の石を使い、野面積み、算木積みなどの工法で積まれています。石垣の中には、堀尾家の家紋など色々な印が刻まれた石があります。

松江城天守及び二ノ丸の古写真: 太鼓櫓は写真右上方で、縄張は、リンク先で見ることができます。その他、松江関係の古写真はこちらでご覧いただけます。

本丸からの松江城天守: 天守は高さ約30m で、外観は五層、内部は六階。狭間(矢や銃を撃つ孔)が94 個もある黒づくめの戦闘特化型天守です。

天守古写真: 改修前の天守

天守内部には生活物資の貯蔵庫や籠城時に用いる井戸や、階段は攻め込まれた場合すぐ引き上げられるといった仕掛けがあります。また、古写真からも分かるように修理の時に傷みが激しく取り換えられた木材の中には、月山富田城で使用されていた木材が含まれ、月山富田城の部材が再利用されていることが分かります。
天守地階井戸: 深さ24mで松江に入封する前の堀尾吉晴が築いた浜松城天守内にも同様に石組井戸があることが確認されていることから、松江城は堀尾吉晴の思想に基づき築城されていることが分かります。

鯱: 木彫り銅板張り、向かって左が雄で鱗が荒く、右が雌。高さは2.08mあり(雄)、日本現存の木造のものでは最大です。
ここにあるのは、昭和の修理の際におろされた古い鯱です。

天守は構造的に、2階分の通し柱を用いることで、上階の重さを分散させ、下階へ伝える新たな工法を用いています。
また、包板で木材の1~4面が包まれた柱が多用されています。不良材を補強したり、体裁を整えたりするためのもので、築城に際しての材木不足を補っています。
通し柱 包板と帯鉄(つつみいたとおびてつ)


松江城天守、国宝へ
松江城では2階分を貫く通し柱を計96本各階間に用いて長大な柱を必要としないことから、この後の築城に大きな影響を与えていますが、天守の築城時期が明確でなく重要文化財指定どまりでした。1937年に天守の調査が実施されたとき、天守4階に2枚の祈祷札があり、1枚には「慶長16年」と記されていたと記録がありましたが、2枚の祈祷札は、いつしか行方不明になっていました。松江市はそれを懸賞金をかけて広く全国から情報を求めた結果、棟札類の調査で2012年5月松江神社から発見されました。
松江城天守が完成した年に祈祷に使われたと思われる「慶長十六年正月」と書かれた天台宗大山寺と真言宗千手院「祈祷札」2枚でした。しかし天守外の蔵からの発見であることから、天守のものであることの証明が必要でした。地階の井戸脇の柱に小さな穴が見つかり、この小さな穴と、祈祷札についた釘穴がなんとぴったり一致し、その小さな穴が松江城天守国宝化に決定的な影響を与え、松江城天守は平成27年(2015)に国宝に指定されました。
大山寺祈祷札レプリカ 国宝指定書
千手院祈祷札はこの右側に取付けられています。


重要文化財時(右)と国宝指定時(左)の松江城パンフレット
今は天守前の生垣が取り払われ、芝生へと様子が変わっています。

この後、松江しんじ湖温泉駅16:08発の一畑電車に乗り、明日(26日)の出雲大社参拝のため、電鉄出雲市駅に向かいました。

途中、一畑口駅でスイッチバックして、車両の前後が逆となり、電鉄出雲市駅に到着しました。本日は、ホテルで御馳走を食べた後、二次会となりました。

2023年10月26日(2日目)訪問分は別ブログで報告します。 文責 岡島
2025年2月17日(月)三上陣屋跡訪問(野洲市)
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
2025年1月14日(火)沖縄県竹富島(竹富町)の小城盛(クスクムイ)と蔵元
2024年10月25日(金)レイカディア地域文化43期'24秋のバス旅行「尾州犬山城とひつまぶしの旅」(愛知県)
2024年10月9日(水)岐阜県飛騨高山陣屋訪問
2024年10月8日(火)長野県信州松代城訪問
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
2025年1月14日(火)沖縄県竹富島(竹富町)の小城盛(クスクムイ)と蔵元
2024年10月25日(金)レイカディア地域文化43期'24秋のバス旅行「尾州犬山城とひつまぶしの旅」(愛知県)
2024年10月9日(水)岐阜県飛騨高山陣屋訪問
2024年10月8日(火)長野県信州松代城訪問
Posted by
joukaku
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