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2024年05月20日

2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

5月18 日(土)、草津校44期園芸学科Aとびわこ環境学科の共同担当で第115回例会「賤ヶ岳古戦場探訪」が開催されました。76名の参加で、
6名が木之本駅→賤ケ岳→木之本駅のコース、
70名が木之本駅→賤ケ岳→大岩山砦→余呉駅のコースで賤ケ岳古戦場を探訪しました。筆者は後者のコースを選択し、コースの歩行歩数は15,000歩でした。
なお、賤ケ岳古戦場は2022年9月の第97回例会でも訪問しており、その様子はこちら。また、対戦相手の柴田勝家の本陣である玄蕃尾城も別途訪問しています。

安土桃山時代、本能寺の変で織田信長が倒れた後、明智光秀を討ち実質的な主導権を握っていた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と、織田家の旧臣中第一の家柄を誇る柴田勝家との間で権力争いが生じ、ついに武力をもって決着を付けようとしました。これが俗にいう「賤ケ岳合戦」です。
余呉湖を挟んで、両軍は北(勝家軍)と南(秀吉軍)で睨み合っていましたが、天正11年(1583)の4月20日の未明、勝家側が大岩山に奇襲攻撃をかけた時に始まり、秀吉が勝利を手にするまで、わずか2日足らずで終わっています。斬りこみ一番槍の功をたてた、世に名高い秀吉旗下の「賤ケ岳の七本槍」の活躍はこのときの武勇伝です。
当該合戦では、史上まれに見る山城の築城合戦とも言われるほど多くの山城(砦)が築かれましたが、今回は賤ケ岳山頂(標高421m)に登り、山頂から両軍の陣跡となる山々と奥びわ湖の絶景を眺めた後、築かれた砦のほんの一部を探訪しました。

柴田勝家の甥で戦略家の佐久間盛政は、岐阜城の織田信孝が反旗を翻したことの対応に羽柴秀吉が大垣に向かったことを察知しました。さらに、秀吉側前線は堅固であるのに対して、第二線の大岩山砦は、防備の工事が未完で将兵も油断しているという情報を入手しました。これらを総合して、盛政は大岩山奇襲を柴田勝家に進言しましたが、勝家は大岩山攻略後速やかに退却することを条件に進言を許可しました。
この後の説明は、各砦を訪問したところで続けます。

         佐久間盛政
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

第115回例会受付風景: JR木之本駅西口で城郭探訪会員は集合し、コースや注意点を説明し、例会が開始されました。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

伊香具神社: JR木之本駅と賤ケ岳リフトの中間点にある神社です。上古、当地が未開の湖沼地であった頃、祭神が来て開拓し、その後子孫を守護するために鎮座したといわれ、子孫である伊香宿祢豊厚が天武天皇の白鳳10年以前に社殿を建立したと言われます。
写真のように正面に大きく羽を広げたような鳥居は、三輪式鳥居と厳島式鳥居を組み合わせた当神社独特のもので、この神社の前が伊香の小江と呼ばれた入り江であったことを示すものです。
他の神社では見られないこの鳥居を、伊香式鳥居と呼んでいます。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

登りは賤ケ岳リフトに乗り、一気に賤ケ岳頂上を目指します。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

賤ケ岳合戦戦没者慰霊堂: リフトを下りて賤ケ岳頂上を目指す中間にあります。賤ケ岳の合戦では両軍で数万人が亡くなったと言われ、辺りは、あまたの屍体で埋め尽くされ、余呉湖が血で紅に染まったといいます。その霊を弔う石仏が野山に点在していたものを、昭和57年(1982)賤ケ岳合戦400年を機にこの場所に集め、毎年4月の山開き祭に里の行事として年に1度の供養をしています。
さらに、北麓には広い範囲にわたって、両軍の戦死者の墓や遺跡が点在し、南麓の山梨子(やまなし)集落には、落人伝説が残されています。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

ガイドさんによる賤ケ岳合戦説明: 賤ケ岳頂上に到着し、昼食後、賤ケ岳合戦の説明を受けました。当時は山には木がなかったことから、戦いの様子は手に取るに観察でき、敵の動きや「賤ケ岳の七本槍」の活躍の様子ははっきり見えたとのことです。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

小谷・伊吹方面: 賤ケ岳から南東方向を眺めますと、伊吹山をはじめ、浅井長政の居城であった小谷山、小谷城を攻略するために織田信長が付城(陣城)を築城した虎御前山が見えます。賤ケ岳の合戦では田上山に羽柴秀長(豊臣秀長)が本陣の砦を構え、ここが秀吉軍の最後尾になります。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

          羽柴秀長
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

賤ケ岳合戦図: 秀長を残して、岐阜城の織田信孝の攻撃に、秀吉の軍勢の多くが近江から離れたのを好機と見た佐久間盛政は、天正11年(1583)4月19日行市山砦から夜半の暗闇に紛れて、集福寺坂~文室山~権現坂を経て余呉湖の西岸を南に回りました。図はクリックにより拡大します。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

賤ケ岳頂上からの余呉湖: 4月20日(丹羽家臣の)但馬国竹田城主桑山重晴の守る賤ヶ岳砦の下(写真の湖の手前)を通り尾野呂浜に至り、そこから防備の手薄な大岩山に攻め登りました。
重晴と(大岩山砦の付城である)岩崎山砦を守る高山右近は、より防御に適したここ賤ヶ岳砦で籠城するか、田上山の本陣への撤退を主張しましたが、中川清秀はそれを拒否し、彼らの再三の制止も聞かずに僅かな手勢だけで迎撃することを決意しました。
なお、茂山には柴田勝家軍の前田利家隊が駐屯し、勝家軍が移動しやすいよう、秀吉軍ににらみをきかせていました。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

賤ケ岳砦(岐阜市歴史博物館所蔵賤ケ岳合戦図屏風より)
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

賤ケ岳砦縄張図: ここ賤ケ岳砦は、羽柴秀吉方の砦として利用され、城将は桑山重晴、羽田長門守浅野弥兵衛(後の浅野長政)でした。
本日の探訪では、リフト駅より縄張図の左(南)側❶から登り、右(北)側➍を通って大岩山砦へと進みました。図はクリックにより拡大します。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

賤ケ岳頂上にある「武者の像(昭和59年5月 須川常美)」: 戦勝400年記念に創作した像と記載されています。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

賤ケ岳砦北郭から尾根続きの大岩山砦へ
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

猿が馬場: 話が先に跳び合戦の後半になってからの話ですが、有名な「美濃大返し」で帰陣した羽柴秀吉は、最初ここで敗走する佐久間盛政の追撃戦を指揮していました。
しかし、戦線が余呉湖西岸に移った後は、陣を賤ケ岳山頂に移しています。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

中川清秀首洗いの池: 尾根筋から外れて少し下ったところにありました。次に登場し、討ち死にしてしまう中川清秀の遺体は当時土民達により、谷に降ろし柴で覆い隠されて守られたと伝えられますが、そのときに、井戸のように丸く小さな池ですが、この池で首を洗いました。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

賤ケ岳合戦は天正11年(1583)4月20日の早暁に、その幕が切って落とされました。大岩山は、左に賤ヶ岳、右に岩崎山、前方に神明山、と味方の軍に囲まれ、比較的安全な砦のはずでした。しかし柴田勝家側の武将佐久間盛政は、ここに奇襲をかけたのです。
大岩山砦を守っていたのは中川清秀で、不意をつかれましたが、中川隊はすぐに応戦して猛然と盛政隊と激突し、高山右近の援軍もあって一時は敵を余呉湖岸まで撃退しました。しかし、耐え切れず陥落、清秀は配下の兵数百名とともに討死をとげました。続いて黒田孝高の部隊が盛政の攻撃を受けることとなりましたが、奮戦し守り抜きました。

          中川清秀
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

以下に、中川清秀が守る大岩山砦を佐久間盛政が包囲している合戦風景(岐阜市歴史博物館所蔵賤ケ岳合戦図屏風より)を示します。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

大岩山(中川清秀の砦跡)には、天和2年(1682)清秀の百回忌に、豊後国岡藩第4代藩主の中川久恒が中川清秀とその配下の墓を建立し、木之本浄信寺住職の雄山が碑文を刻んだといいいます。
中川清秀は茨木城主でしたが、秀吉と兄弟のちぎりを結ぼうとしたほどの武将で、この合戦は天下分け目の戦いであり、ぶざまな戦いをしたなら生涯の不覚になると覚悟しました。当初は、麓の尾野呂浜に到達した佐久間盛政隊を鉄砲で迎撃しましたが、1000の兵が守っていた大岩山砦から自身も城外に出撃しました。しかし、佐久間盛政隊の5000の攻撃に遭い、壮絶な白兵戦の中、玉砕したことから、ここに墓が建立されています。清秀の訃報を聞いた秀吉は、涙をこらえ切れずに嗚咽したといいます。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

大岩山砦縄張図: 大岩山砦へは縄張り図❶の坂虎口から入りました。図はクリックにより拡大します。墓は➍の辺り。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

岩崎山砦への案内標識: JR余呉駅に向かってさらに進む(北上する)と、分かれ道となり岩崎山砦への案内板がありました。ここは訪問しておりません。
話は続きますが、盛政はさらに大岩山の先の岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれずに退却し、羽柴秀長の本陣田上山砦に逃れました。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

盛政は大岩山と岩崎山の砦を占領すると、次に羽柴秀長の本陣を攻撃しようと思ったともいいますが、賤ヶ岳砦の重晴が和議を提案してきたので、夜を待って砦から退去することを許し、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴も撤退を開始します。これにより盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われました。この成果を得て柴田勝家は盛政に撤退の命令を下しましたが、再三の命令にもかかわらず何故か盛政はこれに従おうとせず、前線に着陣し続けました。
その頃、時を同じくして塩津口と海津口を守り船によって琵琶湖を渡っていた丹羽長秀は、「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうも機は今を置いて他にないと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変しました。長秀率いる2000の軍勢は、撤退を開始していた桑山重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となると、桑山重晴に賤ケ岳砦に戻るよう促し、自身も合流して砦に着陣し、そのまま賤ケ岳周辺の盛政の軍勢を撃破して賤ケ岳砦の確保に成功します。こうして羽柴秀吉が戻るまでの間、賤ケ岳砦を持ちこたえることができました。
対照的に、高山右近は、合戦時、これといった抵抗も見せず、秀吉方の本陣である田上山砦へと敗走したことから、柴田勝家方に寝返ったという見方もされたようです。

          高山右近
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

高山右近が守った岩崎山砦での合戦風景(岐阜市歴史博物館所蔵賤ケ岳合戦図屏風より)を以下に示します。戦いでは、佐久間盛政は、大岩山砦の後、さらに勢いに乗って高山右近の岩崎山砦も抵抗なしに攻め落としています。
また、大岩山の陥落を知った賤ケ岳砦の桑山重晴は木之本近くまで退却してしまいました。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

岩崎山: 江土登山口付近(北西方向)から見た岩崎山
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

岩崎山砦縄張図: 図はクリックにより拡大します。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

余呉湖観光館付近(北側)から見る賤ケ岳砦
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

JR余呉駅: ゴールも近づき、JR余呉駅に到着です。ここで、参加者の集合写真を撮影しました。
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」

本日探訪した砦が造られた賤ケ岳合戦において、大岩山の初戦では柴田勝家軍が勝利を得ましたが、羽柴秀吉の素早い行動を予測しきれずに、次第に勝家側の敗色が濃くなっていきました。勝家は、自らも兵を率い決戦を挑もうとしましたが、忠臣毛受(めんじゅ)勝介に諫められ、北の圧へ落ち延びて陣を立て直すことにしました。毛受勝介は勝家の馬印である金御幣をもらい請け、兄の茂左衛門とともに勝家の身代りとなって、秀吉軍と戦いましたが、加藤清正ら「賤ヶ岳の七本槍」をはじめとする秀吉軍の一斉攻撃を受け、勝介以下全将兵討ち死しました。
首実験の結果、すぐに勝家ではなく身代りであることがわかり、秀吉をいたく感動させました。柴田勝家はその2日後の4月23日、北の庄城を包囲され再婚したばかりの夫人、お市の方とともに自刃しました。
毛受兄弟の忠節は、後の世までも語り継がれ、今回は訪問していませんが、明治9年(1876)この地を訪れた滋賀県令籠手田安定(こてだやすさだ)(1840~99)によって、林谷山麓に墓が立てられました。朱色の鉄柵で囲われた墓の周囲は整備され、遊歩道が設けられています。

第115回例会を計画してくださった草津校44期園芸学科A及びびわこ環境学科の皆様を始め、参加頂いた皆様、ご支援・ご協力いただいた方々に感謝申し上げます。

次回例会は2024年6月15日(宇佐山城跡)に予定されています。
                          文責 岡島 敏広

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