2023年04月20日
2023年4月18日(火)彦根城下町
本日は、レイカディア大学の課題学習で7回目の校外活動となります。
彦根城下町の情報収集のため、城下町を学ぶ課題学習グループ"沙沙貴組"4名、プラス特別参加のK.Y.さん計5名は、彦根城下町を巡りました。
なお、彦根城については、既にレイカディア大学の校外学習として訪問しており、講師の中井均先生から説明を受けております。その内容につきましては、次のリンク先をご覧ください。
JR彦根駅からスタートです。
彦根城は、井伊直政の
正室の子である井伊直継により築城されました。
しかし、徳川家康と秀忠は、その直継(後の直勝)の柔和な性格を危惧し、母と共に安中(群馬県安中市)移封し、直政と侍女の子である井伊直孝(下図)に藩主交代させて2代目としています。
本日のコースは「彦根城下町古地図」に従い、オレンジ色の矢印の通りに巡りました。地図はクリックにより拡大します。彦根の城下町は、三重の堀によって4つに区画されています。現在の地図で確認する場合は、こちら。

第一郭: 内堀の内側で、天守を中心として各櫓に囲まれた丘陵部分と、藩庁である表御殿などからなっています。本日は、こちらは訪問しません。
第二郭: 内堀と中堀に囲まれ、藩主下屋敷の槻御殿(現在の名勝玄宮楽々園)、作事所や細工所等の藩の施設、家老など千石以上の重臣の邸宅が広がり、さらに江戸時代後期には藩校も設けられ、内曲輪と称し、城下と別格の扱いを受ける範囲です。
①いろは松: 第二郭に向かう中堀の沿道の松並木がそのように呼ばれており、冬であっても緑を保つ松は縁起が良く、参勤交代から帰郷した藩主を佐和口で出迎えるために植えられました。"47"本あったので、その最初の3文字「いろは」からこの名が付けられました。現在34本(補植12本)残り、当時の面影が偲ばれます。
②筆頭家老木俣土佐(10000石)の屋敷で、藩主が参勤交代から馬に乗って、いろは松の横を通って戻ると、まずこの屋敷で休憩をとり、表御殿に入ったそうです。逆に、参勤交代に出る時は藩主は船に乗って松原内湖から米原まで行き、そこから中山道を進みました。その謂れは、慶長19年(1614)の大坂冬の陣に藩主井伊直継の代わりに出陣した弟直孝は、彦根に凱旋した際、藩主をはばかり、当時天守横にあった御殿には入らず、木俣家(山崎郭/山崎曲輪)に寄宿しました。大坂の陣後、木俣家は彦根城郭の改造に伴い、ここ佐和口櫓際に屋敷地を拝領し居を移しましたが、直孝は、以後も国入りの際、木俣家に立ち寄ってから御殿に入りました。以後、このコースを吉例として、歴代藩主によっても廃藩まで続けられたのです。
ちなみに、井伊直政が関ケ原の傷で亡くなったときに嫡子直継〔なおつぐ〕は若年で、木俣土佐守守勝〔きまたとさのかみもりかつ〕は直政より後事を託されました。そのとき、直政の遺言は佐和山から磯山への城の移築でしたが、その移築計画を駿府に出向いて徳川家康にはかり、許可を得て慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2キロメートルのここ彦根山において、築城工事を始めた人物が木俣土佐守守勝です。
③脇屋敷長屋門: 二の丸駐車場と彦根東高校の間に、家老脇家(2000石)のなまこ壁長屋門の一部が残されています。桁行8.5間、梁間3間(北端部は2.5間)、南妻面が入母屋造り、北妻面が切妻造りです。外壁の西面はなまこ壁、北妻面は後に改修された窓や玄関をつけ、南妻面は縁を張出し、東背面には縁と玄関(南端)をつけ、さらに切妻瓦葺の簡単な付属屋(南北両端)を接続した立派なものです。この北妻面の現状からみて、門を設けた大規模な長屋門であったと推定されています。
④西郷屋敷長屋門: 写真は旧西郷(6000石)屋敷長屋門で、この裏は大津地方裁判所になっています。この屋敷の正面に長野主膳邸がありましたが、現在は彦根東高校(一中)になっています。
ここまでの内堀と中堀との間は先の木俣土佐(10000石)や脇(2000石)を含む重臣の屋敷地です。
第三郭: 中堀と外堀の間で、中級身分の武家屋敷と町人の屋敷地や寺院が存在しています。武士・町人あわせて居住していますが、居住地は明確に区分され、堀に面した要所は武家屋敷と寺院で占められ、町人の居住区の大半はその内側に広がっていました。外堀側で広い敷地を有する寺院は、一朝事ある時は軍事的役割も担っており、武家屋敷とともに外堀の防衛線を形成していました。一方、町人の居住区では、鳥居本側の佐和山城下「本町」が彦根城の城下町建設にあたって「本町」の名を残したまま京橋口から伸びる道の両側に移住させられ、本町が城下町割の基点となりました。現在この本町は夢京橋キャッスルロードと呼ばれています。
まず、内町四町[本町、四十九町(犬上郡四十九院村・豊郷町より移住)、上下魚屋町(JR彦根駅辺りにあった古沢魚屋町から移住。下魚屋町も彦根城建設前は彦根村村域でした。敦賀、小浜、伊勢から魚を仕入れていました)、佐和町(沢町と記される場合もあり、現在の佐和町とは異なり大半が現在の立花町の位置にありました。佐和山城下町においては千代宮が鎮座していた姫袋付近を佐和町と称し、そこの住人を移しました)]が成立し、これらが彦根四手親町の元となりました(手とは、方面の意味。親町は彦根城下の町人町を統括します。)。その後、魚屋町と佐和町は、彦根城の外堀の外で、城外に位置する川原町(現彦根市銀座町など)と彦根町(現彦根市佐和町など)に、親町の地位を譲りました。
その他、石ケ崎町(佐和山の清凉寺前は石ケ崎町と呼ばれ、鍛冶屋が多く、それを移しました)、元川町(城下建設以前の地名)、連着町(高崎城下の連雀町から移住)ように移住させたり、油屋町、桶屋町、職人町など、職業による分化配置が見られ、築城当初、特定の職能集団を集住させました。
⑤夢京橋キャッスルロード(旧京橋通): 佐和山城下「本町」の住民をこの道沿いに移しました。
⑥下本町上野家住宅: 上階正面は中央二間を格子窓とし、両脇間を鼠漆喰塗として東間に虫籠窓を穿ち、両端に袖卯建(そでうだつ)を設けています。旧道の突当りにあって特徴的な景観をつくっています。
⑦腹痛石(連着町): 彦根城が築城される以前、彦根山には彦根寺という古刹がありました。参拝者が彦根山に登る前に、道中に背負っていた連着を解く場所があったため、現在も「連着町」という名前が残っています。往時は連着を解く際に腰掛石として使われたであろうこの石も、いつの間にか、さわると腹が痛くなる「腹痛石」と言われるようになりました。
⑧下魚屋町の広田家住宅「納屋七」: 背面突出部の鬼瓦に安永7年(1778)の刻銘があることから、そのころに建築されたと推測されます。江戸時代には「納屋七」の屋号で知られ、魚市場の権利を一手に持っていたと言われています。建物は、町名のごとく魚屋と魚料理屋が集中して居住していた旧下魚屋町の西端に位置しています。魚屋町は、下魚屋町、中魚屋町(職人町ともいわれます)、上魚屋町と続いて、夢京橋キャッスルロード(旧京橋通)に達するまですべて町人の町でした。
⑧細川家住宅: 彦根城下町で数棟しか残っていない本卯建(ほんうだつ)のある町屋です。
⑨下魚屋町長屋
➉明性寺(みょうしょうじ): 朝鮮通信使が江戸時代を通じ10 回、多い時で総勢400 人ほどの使節が彦根城下のここ明性寺や下に記述する宗安寺などいくつかの寺社に滞在しました。
⑪上魚屋町奥野家住宅: 江戸時代は郷宿を、明治時代から昭和30年ごろにかけて醤油の製造販売業を営んでいました。安政2年(1855年)の「普請見舞帳」からこの年に建築されたものと考えられています。
⑫宗安寺山門: 初代藩主直政が上野国から移した浄土宗のお寺で、朱塗りの門があることから「赤門」 と呼ばれる山門が目印です。これは、佐和山城大手門の移築と伝えられています。
⑫宗安寺本堂: 羽柴秀吉の居城『長浜城御殿』を移築し、改造したものです。
⑫宗安寺鬼瓦: 『長浜城御殿』を移築し、それに載せられていたものを降ろしたものです。
第四郭: 外町と呼ばれ、 川原町(河原町、善利川付替え前の川沿いの土地)、彦根町(築城前の彦根村であった位置)を元としました。他に江戸町(移住者の先住地)、内外舩町(船着き場近くの町)などがあります。外堀の外側には、町人の住居と足軽の組屋敷が配置され、家老の広大な下屋敷が置かれました。彦根藩の足軽は、下組(中藪組、池須町組)、善利組、上組(大雲寺組)、北組(切通組)、中組、鐘叩町で構成されていました。足軽組屋敷は、外堀の外側に、城下を取り囲むように屋敷を連ねて、彦根城と城下町を守備する役割も担っていました。
⑬旧彦根藩足軽組辻番所(善利組):善利組・旧磯島家住宅は、旧芹橋12丁目の中央、中辻通りと交差する北西隅に位置し、その前庭の南端には、見張り窓を設けた辻番所と称する建造物が存在します。ここを含め、近くには5つの足軽屋敷がありました。
⑭高宮口御門跡: 彦根城の外堀には7つの口(切通口、油懸口、高宮口、池洲口、中薮口、長曽根口、松原口の城門)が開き、通行人の監視が行われていました。高宮口御門は、中山道の高宮方面から彦根城下に入る「彦根道」に通じるとともに、朝鮮人街道にもつながる重要な口でした。
⑮外堀土塁跡: 外堀土塁の規模は、高さは内側約5.5m、外側約6~7m、台形の上部の幅約4m、基底幅約18m、堀の幅は約16m。山ノ湯裏手土塁と呼ばれ、土塁に石が散在していますが、これは城のものではなく、すぐ横にある古い銭湯「山の湯」の庭石のようです。
⑯千代神社: 天宇受売命(あめのうずめのみこと)・猿田彦命を祭神としています。天宇受売命は芸能の神様として知られ、現在は、有名俳優や芸能関係の人々が訪れ芸の上達を祈願してゆかれます。
元々は千代宮と呼ばれ佐和山の麓の姫袋(古沢村南部)に鎮座していましたが、石田三成が佐和山城築城時に「見下ろすのは失礼にあたる」と彦根山の東の尾末山麓に移されました。しかし、彦根城築城時に元の場所に戻されました。さらにその後佐和山の麓のセメント公害を避けるため旧社地をセメント工場に提供し、昭和41年(1966年)に元大橋氏の屋敷に解体移築され現在に至ります。
セメント公害を避けて移転する前の千代神社(新修彦根市史第11巻より)
⑰妙源寺: 1592年創建と伝えられており、山門は、石碑など何も謂れを示すものはありませんでしたが、佐和山城法華丸から移された城門であったという伝承があります(また、寺そのものも法華丸から移転し、改築前の本堂と庫裏は、三成の佐和山御殿を移築したとも言われていました)。
その後調査していましたら、以下のように、以前は妙源寺の由来が記載された立て看板があったようで、門の柱には多くの矢穴痕が残っています。
本日の彦根城下町散策はここまでで、この後、天候が怪しかったことから、佐和山城下町も引き続き一気に巡りました。午前に加えて、午後にも少し延長し、続けてたくさん歩いて、お腹もすきましたので、沙沙貴組4名は、ファミリーレストランでお腹を満たしつつ、反省会にて楽しく喉を潤しました。
今回は城郭探訪会例会の下見でもあります。本番は8月20日に予定されています。 文責 岡島敏広
彦根城下町の情報収集のため、城下町を学ぶ課題学習グループ"沙沙貴組"4名、プラス特別参加のK.Y.さん計5名は、彦根城下町を巡りました。
なお、彦根城については、既にレイカディア大学の校外学習として訪問しており、講師の中井均先生から説明を受けております。その内容につきましては、次のリンク先をご覧ください。
JR彦根駅からスタートです。

彦根城は、井伊直政の

正室の子である井伊直継により築城されました。
しかし、徳川家康と秀忠は、その直継(後の直勝)の柔和な性格を危惧し、母と共に安中(群馬県安中市)移封し、直政と侍女の子である井伊直孝(下図)に藩主交代させて2代目としています。

本日のコースは「彦根城下町古地図」に従い、オレンジ色の矢印の通りに巡りました。地図はクリックにより拡大します。彦根の城下町は、三重の堀によって4つに区画されています。現在の地図で確認する場合は、こちら。

第一郭: 内堀の内側で、天守を中心として各櫓に囲まれた丘陵部分と、藩庁である表御殿などからなっています。本日は、こちらは訪問しません。
第二郭: 内堀と中堀に囲まれ、藩主下屋敷の槻御殿(現在の名勝玄宮楽々園)、作事所や細工所等の藩の施設、家老など千石以上の重臣の邸宅が広がり、さらに江戸時代後期には藩校も設けられ、内曲輪と称し、城下と別格の扱いを受ける範囲です。
①いろは松: 第二郭に向かう中堀の沿道の松並木がそのように呼ばれており、冬であっても緑を保つ松は縁起が良く、参勤交代から帰郷した藩主を佐和口で出迎えるために植えられました。"47"本あったので、その最初の3文字「いろは」からこの名が付けられました。現在34本(補植12本)残り、当時の面影が偲ばれます。

②筆頭家老木俣土佐(10000石)の屋敷で、藩主が参勤交代から馬に乗って、いろは松の横を通って戻ると、まずこの屋敷で休憩をとり、表御殿に入ったそうです。逆に、参勤交代に出る時は藩主は船に乗って松原内湖から米原まで行き、そこから中山道を進みました。その謂れは、慶長19年(1614)の大坂冬の陣に藩主井伊直継の代わりに出陣した弟直孝は、彦根に凱旋した際、藩主をはばかり、当時天守横にあった御殿には入らず、木俣家(山崎郭/山崎曲輪)に寄宿しました。大坂の陣後、木俣家は彦根城郭の改造に伴い、ここ佐和口櫓際に屋敷地を拝領し居を移しましたが、直孝は、以後も国入りの際、木俣家に立ち寄ってから御殿に入りました。以後、このコースを吉例として、歴代藩主によっても廃藩まで続けられたのです。
ちなみに、井伊直政が関ケ原の傷で亡くなったときに嫡子直継〔なおつぐ〕は若年で、木俣土佐守守勝〔きまたとさのかみもりかつ〕は直政より後事を託されました。そのとき、直政の遺言は佐和山から磯山への城の移築でしたが、その移築計画を駿府に出向いて徳川家康にはかり、許可を得て慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2キロメートルのここ彦根山において、築城工事を始めた人物が木俣土佐守守勝です。

③脇屋敷長屋門: 二の丸駐車場と彦根東高校の間に、家老脇家(2000石)のなまこ壁長屋門の一部が残されています。桁行8.5間、梁間3間(北端部は2.5間)、南妻面が入母屋造り、北妻面が切妻造りです。外壁の西面はなまこ壁、北妻面は後に改修された窓や玄関をつけ、南妻面は縁を張出し、東背面には縁と玄関(南端)をつけ、さらに切妻瓦葺の簡単な付属屋(南北両端)を接続した立派なものです。この北妻面の現状からみて、門を設けた大規模な長屋門であったと推定されています。

④西郷屋敷長屋門: 写真は旧西郷(6000石)屋敷長屋門で、この裏は大津地方裁判所になっています。この屋敷の正面に長野主膳邸がありましたが、現在は彦根東高校(一中)になっています。
ここまでの内堀と中堀との間は先の木俣土佐(10000石)や脇(2000石)を含む重臣の屋敷地です。

第三郭: 中堀と外堀の間で、中級身分の武家屋敷と町人の屋敷地や寺院が存在しています。武士・町人あわせて居住していますが、居住地は明確に区分され、堀に面した要所は武家屋敷と寺院で占められ、町人の居住区の大半はその内側に広がっていました。外堀側で広い敷地を有する寺院は、一朝事ある時は軍事的役割も担っており、武家屋敷とともに外堀の防衛線を形成していました。一方、町人の居住区では、鳥居本側の佐和山城下「本町」が彦根城の城下町建設にあたって「本町」の名を残したまま京橋口から伸びる道の両側に移住させられ、本町が城下町割の基点となりました。現在この本町は夢京橋キャッスルロードと呼ばれています。
まず、内町四町[本町、四十九町(犬上郡四十九院村・豊郷町より移住)、上下魚屋町(JR彦根駅辺りにあった古沢魚屋町から移住。下魚屋町も彦根城建設前は彦根村村域でした。敦賀、小浜、伊勢から魚を仕入れていました)、佐和町(沢町と記される場合もあり、現在の佐和町とは異なり大半が現在の立花町の位置にありました。佐和山城下町においては千代宮が鎮座していた姫袋付近を佐和町と称し、そこの住人を移しました)]が成立し、これらが彦根四手親町の元となりました(手とは、方面の意味。親町は彦根城下の町人町を統括します。)。その後、魚屋町と佐和町は、彦根城の外堀の外で、城外に位置する川原町(現彦根市銀座町など)と彦根町(現彦根市佐和町など)に、親町の地位を譲りました。
その他、石ケ崎町(佐和山の清凉寺前は石ケ崎町と呼ばれ、鍛冶屋が多く、それを移しました)、元川町(城下建設以前の地名)、連着町(高崎城下の連雀町から移住)ように移住させたり、油屋町、桶屋町、職人町など、職業による分化配置が見られ、築城当初、特定の職能集団を集住させました。
⑤夢京橋キャッスルロード(旧京橋通): 佐和山城下「本町」の住民をこの道沿いに移しました。

⑥下本町上野家住宅: 上階正面は中央二間を格子窓とし、両脇間を鼠漆喰塗として東間に虫籠窓を穿ち、両端に袖卯建(そでうだつ)を設けています。旧道の突当りにあって特徴的な景観をつくっています。

⑦腹痛石(連着町): 彦根城が築城される以前、彦根山には彦根寺という古刹がありました。参拝者が彦根山に登る前に、道中に背負っていた連着を解く場所があったため、現在も「連着町」という名前が残っています。往時は連着を解く際に腰掛石として使われたであろうこの石も、いつの間にか、さわると腹が痛くなる「腹痛石」と言われるようになりました。

⑧下魚屋町の広田家住宅「納屋七」: 背面突出部の鬼瓦に安永7年(1778)の刻銘があることから、そのころに建築されたと推測されます。江戸時代には「納屋七」の屋号で知られ、魚市場の権利を一手に持っていたと言われています。建物は、町名のごとく魚屋と魚料理屋が集中して居住していた旧下魚屋町の西端に位置しています。魚屋町は、下魚屋町、中魚屋町(職人町ともいわれます)、上魚屋町と続いて、夢京橋キャッスルロード(旧京橋通)に達するまですべて町人の町でした。

⑧細川家住宅: 彦根城下町で数棟しか残っていない本卯建(ほんうだつ)のある町屋です。

⑨下魚屋町長屋

➉明性寺(みょうしょうじ): 朝鮮通信使が江戸時代を通じ10 回、多い時で総勢400 人ほどの使節が彦根城下のここ明性寺や下に記述する宗安寺などいくつかの寺社に滞在しました。

⑪上魚屋町奥野家住宅: 江戸時代は郷宿を、明治時代から昭和30年ごろにかけて醤油の製造販売業を営んでいました。安政2年(1855年)の「普請見舞帳」からこの年に建築されたものと考えられています。

⑫宗安寺山門: 初代藩主直政が上野国から移した浄土宗のお寺で、朱塗りの門があることから「赤門」 と呼ばれる山門が目印です。これは、佐和山城大手門の移築と伝えられています。

⑫宗安寺本堂: 羽柴秀吉の居城『長浜城御殿』を移築し、改造したものです。

⑫宗安寺鬼瓦: 『長浜城御殿』を移築し、それに載せられていたものを降ろしたものです。

第四郭: 外町と呼ばれ、 川原町(河原町、善利川付替え前の川沿いの土地)、彦根町(築城前の彦根村であった位置)を元としました。他に江戸町(移住者の先住地)、内外舩町(船着き場近くの町)などがあります。外堀の外側には、町人の住居と足軽の組屋敷が配置され、家老の広大な下屋敷が置かれました。彦根藩の足軽は、下組(中藪組、池須町組)、善利組、上組(大雲寺組)、北組(切通組)、中組、鐘叩町で構成されていました。足軽組屋敷は、外堀の外側に、城下を取り囲むように屋敷を連ねて、彦根城と城下町を守備する役割も担っていました。
⑬旧彦根藩足軽組辻番所(善利組):善利組・旧磯島家住宅は、旧芹橋12丁目の中央、中辻通りと交差する北西隅に位置し、その前庭の南端には、見張り窓を設けた辻番所と称する建造物が存在します。ここを含め、近くには5つの足軽屋敷がありました。

⑭高宮口御門跡: 彦根城の外堀には7つの口(切通口、油懸口、高宮口、池洲口、中薮口、長曽根口、松原口の城門)が開き、通行人の監視が行われていました。高宮口御門は、中山道の高宮方面から彦根城下に入る「彦根道」に通じるとともに、朝鮮人街道にもつながる重要な口でした。

⑮外堀土塁跡: 外堀土塁の規模は、高さは内側約5.5m、外側約6~7m、台形の上部の幅約4m、基底幅約18m、堀の幅は約16m。山ノ湯裏手土塁と呼ばれ、土塁に石が散在していますが、これは城のものではなく、すぐ横にある古い銭湯「山の湯」の庭石のようです。

⑯千代神社: 天宇受売命(あめのうずめのみこと)・猿田彦命を祭神としています。天宇受売命は芸能の神様として知られ、現在は、有名俳優や芸能関係の人々が訪れ芸の上達を祈願してゆかれます。
元々は千代宮と呼ばれ佐和山の麓の姫袋(古沢村南部)に鎮座していましたが、石田三成が佐和山城築城時に「見下ろすのは失礼にあたる」と彦根山の東の尾末山麓に移されました。しかし、彦根城築城時に元の場所に戻されました。さらにその後佐和山の麓のセメント公害を避けるため旧社地をセメント工場に提供し、昭和41年(1966年)に元大橋氏の屋敷に解体移築され現在に至ります。

セメント公害を避けて移転する前の千代神社(新修彦根市史第11巻より)

⑰妙源寺: 1592年創建と伝えられており、山門は、石碑など何も謂れを示すものはありませんでしたが、佐和山城法華丸から移された城門であったという伝承があります(また、寺そのものも法華丸から移転し、改築前の本堂と庫裏は、三成の佐和山御殿を移築したとも言われていました)。

その後調査していましたら、以下のように、以前は妙源寺の由来が記載された立て看板があったようで、門の柱には多くの矢穴痕が残っています。

本日の彦根城下町散策はここまでで、この後、天候が怪しかったことから、佐和山城下町も引き続き一気に巡りました。午前に加えて、午後にも少し延長し、続けてたくさん歩いて、お腹もすきましたので、沙沙貴組4名は、ファミリーレストランでお腹を満たしつつ、反省会にて楽しく喉を潤しました。
今回は城郭探訪会例会の下見でもあります。本番は8月20日に予定されています。 文責 岡島敏広
2023年03月15日
2023年3月14日(日)佐和山城城下町下見(3)
課題学習のため、佐和山城城下町を追加で下見しました。本報は2022年12月16日(金)佐和山城城下町下見の追加報告です。
佐和山城城下町は、これまでの調査から豊臣期には既に成立していたと考えられます。文禄4年(1595)に石田三成が北近江四郡を領国とする大名とともに佐和山城主となると、佐和山城及び城下町を拡張整備したと考えられています。
城下町の場所
江戸時代に佐和山城を描いた「沢山古城之絵図」です。図は西が上になっており、上方に松原内湖が青く描かれています。
Googleマップによる現在の地図 上は西、北は右側で上記古城絵図と同じ方向にしています。彦根市街地から国道8号線を通って佐和山トンネルを抜け(図の左上)、最初の信号なしの交差点(つるやゴルフ彦根店の近く)を図の右(北)に曲がるか(すぐに大手門跡があります)、それを通り過ぎ、国道8号線鳥居本町南の信号(カットハウスSENARIMI近く)を上(西)に折れるかして(外堀跡、内堀跡に向かいます)、古西法寺集落の中に入ってゆきます(地図の赤線)。
拡大した沢山古城之絵図による説明 上は西、北は右側
土居の前(東側、絵図の下側)を流れる川は、かつての内堀でした。今は下写真のようにコンクリート壁の狭い川(現在の西法寺川又はおまん川)となっていますが、往時は堀は並行する道路(本町筋)近くまで広がっていたと考えられます。
内堀跡の標識: 折れて倒れていました。
国道8号線鳥居本町南の信号から西に折れ、集落の奥(佐和山の麓)まで行き、そこから内堀跡の南(大手口、西法寺川の上流)側を見ています。
内堀跡北(西法寺川の下流)側です。
本町筋に立っています。本町筋と内堀跡を示す標識で、ここより奥(西の佐和山側)に内堀(現 西法寺川)がありました。また、水田の畔等の地表に残された地割に基づいて、本町筋と内堀との間(西、山側)に平行する2本の南北道路を想定する意見があり、現在は畔道になっていますが、畔道の地下に「百々町筋」という道があったことが、発掘調査により明らかになっています。
地図の上が北
下写真の道路は本町筋で現在は市道となっており、南を見ています。奥に鉄橋が見えていますが、近江鉄道のものです。この道は当時は城下町のメインストリートでした。内堀の外側は、内掘に沿ったこの本町筋を中心に町屋が存在しました。町屋は「沢山古城絵図」に従うと、この道の両(東西)側にあり、その広がりは、外堀の機能を持った現在の小野川(外堀)を越えて、東山道辺りにまで及んでいたようです。
現在はこの小野川(外堀)より内側が佐和山町、外側が鳥居本町で、小野川(外堀)が町の境界になっています。鉄橋の向こう(南)に大手門跡があり、本丸から続く大手道と合流していました。
ちなみに、彦根城の城下町の建設時には、この本町筋の人や建物などを強制的に移し、彦根城城下の本町筋としています。彦根城城下の本町筋は、現在、「夢京橋キャッスルロード」と称されています。
さらに、近江鉄道鉄橋と大手門跡の間の地点(上の地図の赤く示した地点)では、掘立柱建物(町屋?)、土坑、幅60~90cmの「本町筋」の痕跡と考えられる道路遺構等が検出され、16世紀末頃の陶磁器類・瓦が出土しています。道路遺構には胴木工法が用いられていたことから、本町筋はその工法より織田勢力下にあった丹羽長秀(下の絵)の頃に施設された可能性が想定されています。
外堀で町の境界の小野川南(上流)側: 左: 鳥居本町、右: 佐和山町
外堀の小野川北(下流)側: 左: 佐和山町、右: 鳥居本町
佐和山城大手門跡表示 本町筋を集落から南方向に進むと、国道8号線の近くで大手口に到達します。東山道(のちの中山道)側に開いていた佐和山城正面の大手門の跡です。かつて、大手門が築かれ、左右には土を盛って築いた土居(土塁)が伸びていました。大手門は彦根市内に現存する宗安寺の表門(赤門)と伝えられており、左右の土居は現在も比較的良好に残っています。大手口から西(山側)に行くと、登城道です。
こうした土居(土塁)と内堀に守られた内側では、本丸に向かって伸びる登城道の両側に、侍屋敷が軒を連ねていました。侍屋敷は、本丸から伸びる2つの尾根に挟まれた広大な地域を占めており、客馬屋や獄屋なども存在したようです。侍屋敷に居住した武士たちは、戦いとなれば両側の尾根に籠って、大手からの敵を挟撃することのできる優れた縄張りとなっていました。
大手口付近の内堀(西法寺川: 大手口から北側を望む)
登城口から佐和山を望む。この先は現在行き止まっており、侍屋敷がありましたが、現状は田畑になっています。
登城道(大手口方面を望む)
侍屋敷跡(登城道の先、現状は田畑)
城主: 下表の城主 磯野員昌の前は、百々内蔵助盛実が城代を務めましたが、六角方から浅井方に転じています。そのため、六角氏は佐和山城を攻略し、百々氏を自決させています。百々氏は鳥居本町の彦根道に面した所に居館(百々館遺跡)を設けておりましたが、現在はトラックステーション(びわ貨物運送)となっており、もうその面影はありません。
そもそも、佐和山城は湖東と湖北の境目に立地して東山道と下街道の両方が掌握でき、外港として松原湊と朝妻湊のある交通の要衝でした。そのため、六角方、京極・浅井方の双方より、軍事拠点として臨時に利用され、山下に本拠を置く百々氏が城代を務めた特定の城主の置かれない城でした。
百々氏の後、浅井長政から南方支配の権限委譲をされて磯野員昌は城主として居城し、佐和山城を臨時の軍事拠点から支配の拠点に変えてゆきます。湖東地域の中心地としての佐和山・彦根の地位はこの時に始まります。
最後に、佐和山城全図を以下に示します。
文責 岡島 敏広
佐和山城城下町は、これまでの調査から豊臣期には既に成立していたと考えられます。文禄4年(1595)に石田三成が北近江四郡を領国とする大名とともに佐和山城主となると、佐和山城及び城下町を拡張整備したと考えられています。

城下町の場所

江戸時代に佐和山城を描いた「沢山古城之絵図」です。図は西が上になっており、上方に松原内湖が青く描かれています。

Googleマップによる現在の地図 上は西、北は右側で上記古城絵図と同じ方向にしています。彦根市街地から国道8号線を通って佐和山トンネルを抜け(図の左上)、最初の信号なしの交差点(つるやゴルフ彦根店の近く)を図の右(北)に曲がるか(すぐに大手門跡があります)、それを通り過ぎ、国道8号線鳥居本町南の信号(カットハウスSENARIMI近く)を上(西)に折れるかして(外堀跡、内堀跡に向かいます)、古西法寺集落の中に入ってゆきます(地図の赤線)。

拡大した沢山古城之絵図による説明 上は西、北は右側

土居の前(東側、絵図の下側)を流れる川は、かつての内堀でした。今は下写真のようにコンクリート壁の狭い川(現在の西法寺川又はおまん川)となっていますが、往時は堀は並行する道路(本町筋)近くまで広がっていたと考えられます。
内堀跡の標識: 折れて倒れていました。

国道8号線鳥居本町南の信号から西に折れ、集落の奥(佐和山の麓)まで行き、そこから内堀跡の南(大手口、西法寺川の上流)側を見ています。

内堀跡北(西法寺川の下流)側です。

本町筋に立っています。本町筋と内堀跡を示す標識で、ここより奥(西の佐和山側)に内堀(現 西法寺川)がありました。また、水田の畔等の地表に残された地割に基づいて、本町筋と内堀との間(西、山側)に平行する2本の南北道路を想定する意見があり、現在は畔道になっていますが、畔道の地下に「百々町筋」という道があったことが、発掘調査により明らかになっています。

地図の上が北

下写真の道路は本町筋で現在は市道となっており、南を見ています。奥に鉄橋が見えていますが、近江鉄道のものです。この道は当時は城下町のメインストリートでした。内堀の外側は、内掘に沿ったこの本町筋を中心に町屋が存在しました。町屋は「沢山古城絵図」に従うと、この道の両(東西)側にあり、その広がりは、外堀の機能を持った現在の小野川(外堀)を越えて、東山道辺りにまで及んでいたようです。
現在はこの小野川(外堀)より内側が佐和山町、外側が鳥居本町で、小野川(外堀)が町の境界になっています。鉄橋の向こう(南)に大手門跡があり、本丸から続く大手道と合流していました。
ちなみに、彦根城の城下町の建設時には、この本町筋の人や建物などを強制的に移し、彦根城城下の本町筋としています。彦根城城下の本町筋は、現在、「夢京橋キャッスルロード」と称されています。

さらに、近江鉄道鉄橋と大手門跡の間の地点(上の地図の赤く示した地点)では、掘立柱建物(町屋?)、土坑、幅60~90cmの「本町筋」の痕跡と考えられる道路遺構等が検出され、16世紀末頃の陶磁器類・瓦が出土しています。道路遺構には胴木工法が用いられていたことから、本町筋はその工法より織田勢力下にあった丹羽長秀(下の絵)の頃に施設された可能性が想定されています。

外堀で町の境界の小野川南(上流)側: 左: 鳥居本町、右: 佐和山町

外堀の小野川北(下流)側: 左: 佐和山町、右: 鳥居本町

佐和山城大手門跡表示 本町筋を集落から南方向に進むと、国道8号線の近くで大手口に到達します。東山道(のちの中山道)側に開いていた佐和山城正面の大手門の跡です。かつて、大手門が築かれ、左右には土を盛って築いた土居(土塁)が伸びていました。大手門は彦根市内に現存する宗安寺の表門(赤門)と伝えられており、左右の土居は現在も比較的良好に残っています。大手口から西(山側)に行くと、登城道です。

こうした土居(土塁)と内堀に守られた内側では、本丸に向かって伸びる登城道の両側に、侍屋敷が軒を連ねていました。侍屋敷は、本丸から伸びる2つの尾根に挟まれた広大な地域を占めており、客馬屋や獄屋なども存在したようです。侍屋敷に居住した武士たちは、戦いとなれば両側の尾根に籠って、大手からの敵を挟撃することのできる優れた縄張りとなっていました。
大手口付近の内堀(西法寺川: 大手口から北側を望む)

登城口から佐和山を望む。この先は現在行き止まっており、侍屋敷がありましたが、現状は田畑になっています。

登城道(大手口方面を望む)

侍屋敷跡(登城道の先、現状は田畑)

城主: 下表の城主 磯野員昌の前は、百々内蔵助盛実が城代を務めましたが、六角方から浅井方に転じています。そのため、六角氏は佐和山城を攻略し、百々氏を自決させています。百々氏は鳥居本町の彦根道に面した所に居館(百々館遺跡)を設けておりましたが、現在はトラックステーション(びわ貨物運送)となっており、もうその面影はありません。
そもそも、佐和山城は湖東と湖北の境目に立地して東山道と下街道の両方が掌握でき、外港として松原湊と朝妻湊のある交通の要衝でした。そのため、六角方、京極・浅井方の双方より、軍事拠点として臨時に利用され、山下に本拠を置く百々氏が城代を務めた特定の城主の置かれない城でした。
百々氏の後、浅井長政から南方支配の権限委譲をされて磯野員昌は城主として居城し、佐和山城を臨時の軍事拠点から支配の拠点に変えてゆきます。湖東地域の中心地としての佐和山・彦根の地位はこの時に始まります。

最後に、佐和山城全図を以下に示します。

文責 岡島 敏広
2023年01月22日
2023年1月22日(日)佐和山城城下町下見(2)
佐和山城はその長い歴史のうち、城主が交代して徐々に整備されていることから、城下町は奥が深く、今回の下見は「2022年12月16日(金)佐和山城城下町下見」の続編に当たります。
2022年12月16日の記事で記載しましたように、佐和山の東側山麓の佐和山町・鳥居本町側に巨大な土塁が残されており、古絵図にも「元追手門」と記されていることから、古くから佐和山城の大手門跡の土塁と言われてきました。土塁の外側には城下町があったとされ、発掘調査でも伝承が証明されつつあります。
以下、「彦根市史上冊」「新修彦根市史第1巻、第10巻」の記載内容に従って記載しますが、彦根藩が事情聴取した「古城御山往昔咄聞集書(こじょうおんやまおうじゃくのはなしききあつめがき)」によれば、西側山麓にも城下町があったと考えられます。
こちら側は宅地化していることから、発掘調査が困難で文献による説明が中心となります。佐和山の南西麓 古沢町にあるモチノ木谷(書院植込のモチノキに由来)は石田三成の屋敷跡と伝えられ、「近江国坂田郡志第3巻」p.243では、江戸時代の土地台帳(水帳)において、ここは「御殿畑」「御殿道」などと呼ばれていたと記載されています。
写真は蛇谷にある「石田三成屋敷跡碑」と古地図にある「丸跡」の石垣です。


加えて、この近くの清凉寺(下写真: 慶長7年(1602)に井伊直政の墓所として創建)の敷地は、三成の時代には、「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」に登場する島左近の屋敷跡であったと伝えられています。また、清凉寺正面の山門は「唸り門」と言い、江戸時代に焼失するまでは、島左近邸の屋敷門が使用されていたそうです。
このような伝承が佐和山西山麓に集中しています。
ちなみに、龍潭寺(元和3年(1617)建立)には佐和山城縁のものが多くあり、建立当時の山門は佐和山城の城門を移築したものだったそうですが、写真の現在のものは違うようです。
「沢山古城之絵図」では西側山麓(沢山古城之絵図の上側、2つ下の彦根市史上冊の図を参照)に「侍屋敷跡」「馬喰町跡」「魚屋町跡」「石ケ崎町跡」「新町筋跡」などの町屋をはじめ、「枡形門跡」「馬屋跡」が記されており、しかも整然とした方形区画によって構築されています。石田屋敷(モチノ木谷)の前面には堀跡も描かれていて、城下町が存在したことを示唆しています。
また、絵図の青く彩られた松原内湖には「百間橋」が架けられており、琵琶湖に直接面した松原湊と城下を結び、龍潭寺越えによって陸路の物資を湊に直接運ぶことが可能です。こうした施設が佐和山城が築城された頃から実存していたことを絵図が示しているのであれば、東側山麓に比べ桁外れに充実した施設が西側山麓に存在したことになります。
「沢山古城之絵図」
佐和山城之古図(屋敷地などが示されている。近江国坂田郡志第3巻より。上が北、左が西で松原内湖、琵琶湖が描かれている。クリックで拡大)
西側山麓部分の拡大図(彦根市史上冊より。クリックでさらに拡大)
下側が琵琶湖(西)側で松原内湖が描かれています。
彦根市教育委員会が作成した赤色立体図に上「西側山麓部分の拡大図」記載地名を書き加えた図: 最初の写真に示した「石田三成屋敷跡」の碑の位置がもちの木谷にはありませんが、現状でも龍潭寺からもちの木谷の範囲には、多数の方形区画の土地が見られます。
さらに、明治7年(1874)に作成された古沢村地券取調総絵図の地割には、西側山麓に三重の堀で区画されていたことを示す痕跡が見事に描かれています(方形区画を乱す区画に注目)。少なくとも三成の時代には、松原内湖側が大手となり、家臣屋敷や城下町が造営されたものと考えられます。
古沢村地券取調総絵図(新修彦根市史第10巻より)
すなわち、戦国時代には東側山麓の佐和山町・鳥居本町側の東山道(中山道)に面していた大手が、ある時期には琵琶湖側に付け替えられたと推測されます。その時期は、織田信長により封じされた丹羽長秀による改修によると推測されます。

そのように推測される理由は、①東側山麓の大手土塁には石垣の痕跡を示す栗石が一切認められず、瓦片も認められないことより、築造は戦国時代にまで遡り、織田信長時代ではないと考えられること。②信長が丹羽長秀に松原内湖で大船を建造させていること。からその時期に大手が琵琶湖側に移されたと推測されています。しかし、東側山麓の屋敷地の出土品に三成時代の遺物も含まれたことから、西側山麓だけでは城下地が狭く、家臣団を収容できず、佐和山周囲の谷すべてを用いたものと推測されています。また、廃城前4年間の最終の城主が井伊氏であり、内堀跡の外側において町屋名(「馬喰町跡」「魚屋町跡」「新町筋跡」)と侍屋敷が混在している所があることから、彦根城築城に際し必要に迫られ形成された部分もあると指摘される先生もいらっしゃいます。 文責 岡島 敏広
2022年12月16日の記事で記載しましたように、佐和山の東側山麓の佐和山町・鳥居本町側に巨大な土塁が残されており、古絵図にも「元追手門」と記されていることから、古くから佐和山城の大手門跡の土塁と言われてきました。土塁の外側には城下町があったとされ、発掘調査でも伝承が証明されつつあります。
以下、「彦根市史上冊」「新修彦根市史第1巻、第10巻」の記載内容に従って記載しますが、彦根藩が事情聴取した「古城御山往昔咄聞集書(こじょうおんやまおうじゃくのはなしききあつめがき)」によれば、西側山麓にも城下町があったと考えられます。
こちら側は宅地化していることから、発掘調査が困難で文献による説明が中心となります。佐和山の南西麓 古沢町にあるモチノ木谷(書院植込のモチノキに由来)は石田三成の屋敷跡と伝えられ、「近江国坂田郡志第3巻」p.243では、江戸時代の土地台帳(水帳)において、ここは「御殿畑」「御殿道」などと呼ばれていたと記載されています。
写真は蛇谷にある「石田三成屋敷跡碑」と古地図にある「丸跡」の石垣です。



加えて、この近くの清凉寺(下写真: 慶長7年(1602)に井伊直政の墓所として創建)の敷地は、三成の時代には、「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」に登場する島左近の屋敷跡であったと伝えられています。また、清凉寺正面の山門は「唸り門」と言い、江戸時代に焼失するまでは、島左近邸の屋敷門が使用されていたそうです。
このような伝承が佐和山西山麓に集中しています。

ちなみに、龍潭寺(元和3年(1617)建立)には佐和山城縁のものが多くあり、建立当時の山門は佐和山城の城門を移築したものだったそうですが、写真の現在のものは違うようです。

「沢山古城之絵図」では西側山麓(沢山古城之絵図の上側、2つ下の彦根市史上冊の図を参照)に「侍屋敷跡」「馬喰町跡」「魚屋町跡」「石ケ崎町跡」「新町筋跡」などの町屋をはじめ、「枡形門跡」「馬屋跡」が記されており、しかも整然とした方形区画によって構築されています。石田屋敷(モチノ木谷)の前面には堀跡も描かれていて、城下町が存在したことを示唆しています。
また、絵図の青く彩られた松原内湖には「百間橋」が架けられており、琵琶湖に直接面した松原湊と城下を結び、龍潭寺越えによって陸路の物資を湊に直接運ぶことが可能です。こうした施設が佐和山城が築城された頃から実存していたことを絵図が示しているのであれば、東側山麓に比べ桁外れに充実した施設が西側山麓に存在したことになります。
「沢山古城之絵図」

佐和山城之古図(屋敷地などが示されている。近江国坂田郡志第3巻より。上が北、左が西で松原内湖、琵琶湖が描かれている。クリックで拡大)

西側山麓部分の拡大図(彦根市史上冊より。クリックでさらに拡大)
下側が琵琶湖(西)側で松原内湖が描かれています。

彦根市教育委員会が作成した赤色立体図に上「西側山麓部分の拡大図」記載地名を書き加えた図: 最初の写真に示した「石田三成屋敷跡」の碑の位置がもちの木谷にはありませんが、現状でも龍潭寺からもちの木谷の範囲には、多数の方形区画の土地が見られます。

さらに、明治7年(1874)に作成された古沢村地券取調総絵図の地割には、西側山麓に三重の堀で区画されていたことを示す痕跡が見事に描かれています(方形区画を乱す区画に注目)。少なくとも三成の時代には、松原内湖側が大手となり、家臣屋敷や城下町が造営されたものと考えられます。
古沢村地券取調総絵図(新修彦根市史第10巻より)

すなわち、戦国時代には東側山麓の佐和山町・鳥居本町側の東山道(中山道)に面していた大手が、ある時期には琵琶湖側に付け替えられたと推測されます。その時期は、織田信長により封じされた丹羽長秀による改修によると推測されます。


そのように推測される理由は、①東側山麓の大手土塁には石垣の痕跡を示す栗石が一切認められず、瓦片も認められないことより、築造は戦国時代にまで遡り、織田信長時代ではないと考えられること。②信長が丹羽長秀に松原内湖で大船を建造させていること。からその時期に大手が琵琶湖側に移されたと推測されています。しかし、東側山麓の屋敷地の出土品に三成時代の遺物も含まれたことから、西側山麓だけでは城下地が狭く、家臣団を収容できず、佐和山周囲の谷すべてを用いたものと推測されています。また、廃城前4年間の最終の城主が井伊氏であり、内堀跡の外側において町屋名(「馬喰町跡」「魚屋町跡」「新町筋跡」)と侍屋敷が混在している所があることから、彦根城築城に際し必要に迫られ形成された部分もあると指摘される先生もいらっしゃいます。 文責 岡島 敏広
2023年01月19日
2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見
天気予報は曇りでしたが、結論としてはその予報が外れて、ほぼ1日雨の中を城郭探訪会例会の下見として、高島市の田中城を訪問しました。
高島七頭(高島氏を中心として、平井(能登氏)、朽木、永田、横山、田中、山崎氏)のうちの田中郷の領主・田中氏の居城であった田中城は、泰山寺野台地から舌状にのびる支丘の先端部に築かれた中世末期の山城で、現在も上寺(うえでら)集落西側の山間部にその遺構を残しています。『近江輿地志略』には「この城 上の城と号し、南市村城を下の城と称す」と記されることから、地元の伝承として古くから「上の城」や、地名から「上寺城(うえでらじょう)」とも呼ばれています。
田中城主郭があったと推定される郭の標高は220m、平地の標高が160mで、両者の比高差はわずか60mです。同時期の山城と比べて標高の低い場所に位置しますが、城域の要所に堀切、土塁、武者隠しなど外敵を防ぐための遺構が見られ、相当の規模を誇る城郭であったことがうかがえます。
本日は「ボランティアガイド トラベル高島」の同姓Kさん2名(YK, SK)のガイドさんにご案内いただき、下見しました。上寺バス停の所にある田中城跡案内板前でガイドさんと待ち合わせ、地域史に詳しい「先生」と呼ばれておりました方のSKさんによるご説明から、城は鎌倉時代後期、田中播磨守実氏(さねうじ)により築城されたとのことです。その他、城主田中氏や田中郷の説明を受けてから、登山を開始しました。
田中城跡入口です。イノシシなどの動物による被害防止のために城跡はフェンスで囲われており、扉を開けて中に入ります。
この入口の手前のお家に、登山者用に下に示しました「田中城跡歴史ハイキングMAP」が設置されており自由に持ち帰ることができるようになっていました。
山城から東方に広がる山腹一帯には、地名の由来となった上寺である天台密教の山岳寺院「松蓋寺(しょうがいじ)」の寺坊跡があり、田中城はこの遺構を再利用し築造されたと推定されています。松蓋寺は「高嶋七ヵ寺」の1つで、今は下地図⑤の観音堂一宇が残されているだけです。城の縄張には、この⑤観音堂の下方に広がる寺の遺構を城に再利用した郭(i)と、観音堂背後の尾根上に遺された元来から城として機能していた遺構(ii)がありますが、大部分は寺の遺構を再利用した郭(i)です。
i. 観音堂よりも一段下方、山裾に広がる遺構群は、寺坊跡を利用して、土塁や堀を付け足したもので、屋敷跡と考えられる遺構です。その一段上には観音堂⑤の前面に広がる遺構群があり、ここも土塁で区画された大きな郭や、郭群の周囲には堀や土橋、武者隠しなどの遺構②が見られます。観音堂⑤の左手(⑤⑥の間)には寺の塔が立っていたと思われる基壇状の遺構や礎石が見られます。
ii. ここからさらに一段上がった尾根上には四つの郭が連続して築かれており、さらに上方には、土塁で囲まれた虎口状の施設を挟んで、「天主跡」と表示されている主郭⑦があります。その背後は馬の背状の通路⑧になっており、通路の先端には尾根を切断した大堀切があり、主郭背後の防備を固めています。
①金刀比羅宮: 山裾に広がる屋敷跡と考えられる郭群を抜けて、観音堂の前面に広がる郭群に入ると郭の土塁上に(上記MAPの①)、神仏習合の神金毘羅権現が祀られています。讃岐の金刀比羅宮から海上交通の守り神として勧請されたもので、琵琶湖や安曇川の運航の安全を祈願したものと思われます。この辺りは土塁で区画されています。
②土橋、武者隠し: 2番目の郭群の北の端に位置し、写真のように山を土橋に沿って下ると突然、急な谷になっています。逆に登ってきた攻め手は傾斜が緩やかになってホッとします。しかし、この細い土橋に沿って一列に通るときには見えないよう、土橋の山(南)側に武者隠しが設けられており、守兵はそこに隠れて、弓や鉄砲又は一斉攻撃で突き落とすなどで攻め手を撃退します。武者隠しは近江の城では事例の少ないものです。
③堀切: 観音堂のある郭とその麓(東)側の郭を断ち切るように、堀切が設けられ、観音堂のある郭に到達するには、急な斜面を這い上がるか、次の石段を上るしかありません。
➃観音堂への階段: 我々は無理をせず、観音堂には石造りの阿弥陀如来を横に見て石段を上ってゆきます。
⑤松蓋寺観音堂: 天平3年(731)に僧良弁が建立しましたが、室町時代頃には衰退し廃寺と化して、現在はこの観音堂が残るのみです。
⑥見張所: ここからは、木が邪魔でしたが、MAPに説明のとおり、高島方面が見えました。
⑦主郭: 見張所からは観音堂の背後の急坂の尾根をロープを頼って主郭部へ登ります。この尾根の北西側斜面(城の背後に当たる)は切岸が施されていて、通常よりも人工的に切り立った状態で、当然、そちら側から登ることはできません。主郭では、写真のとおり、琵琶湖を含めて、現在の安曇川の町が見渡せました。
⑧切岸が施された尾根: 主郭より北西方面に向かう尾根の先は堀切で切られて、行き来できないようようにされていますが、この尾根の両側も切岸が施され転落すると命がなくなるような切り立った尾根でした。
ところで、田中城は『信長公記』に3度登場しています。
1回目は元亀元年(1570)4月21日、信長が京都から越前へ向かった際に高島の「田中の城」に逗留したという記録です。このとき信長は朝倉義景を討つため越前を目指しており、途中の高島を通過し、浅井長政の勢力下にあった田中城に宿泊したと考えられます。この軍勢には後の豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康も参加していました。この8日後に浅井氏が離反を起こし、田中城は信長の敵方の城となりました。他方、信長は「金ヶ崎の退き口」の名で有名で、朽木経由で京都まで逃げ帰ります。
2回目は元亀3年(1572)3月11日で、信長が高島の地で浅井・朝倉軍を攻撃した際の記録です。このとき、信長方の明智光秀や丹羽長秀らが木戸(清水山)・田中両城を監視しています。
3回目は翌年の元亀4年(1573)7月26日、信長は大船で湖上から浅井長政の勢力下に置かれていた高島を攻撃し、陸からも木戸・田中両城を攻撃したとの記録です。この結果、落城した木戸・田中両城が明智光秀に与えられました。
さらに、『信長公記』の記述以前のことで、近年発見された熊本藩(細川家)の家老米田家に伝わる医学書『針薬方』(永禄9年)の奥書に「明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」とあります。田中城と光秀に関するもので、文献上に光秀が登場する最古級の発見で注目されました。奥書には、沼田勘解由左衛門が田中城で光秀の口伝を記し、永禄9(1566)年10月に米田貞能が江州坂本で写したものと記されています。このことから、少なくとも1566年以前の田中城に光秀が近江国と関係をもちながら、籠城していた可能性が指摘されています。光秀がどのような立場で田中城に籠城していたかは定かではありませんが、この頃にはひとかどの武将として活躍していたようです。
田中城訪問の後は、田中氏ゆかりの玉泉寺と田中神社を訪れました。
玉泉寺: 創建は奈良時代の天平年間で行基が開祖と伝えられ、享禄4年(1531)の大火により寺地を失いましたが、天文2年(1533)には、田中城の城主であった田中下野守理春(しもつけのかみみちはる)が荒廃を嘆き、再興したと伝承しています。玉泉寺境内の本堂前に、「鵜川四十八体石仏」(高島市)と同じ坐像形式の石仏五体が南面して並んでいます。五智如来と呼ばれ、左から阿弥陀如来・薬師如来・大日如来・弥勒菩薩・釈迦如来です。室町時代後期の作で、製作には「鵜川四十八体石仏」と石工技術を同じくする集団の影響が考えられます。このほかにも、墓地内で多種多様な石仏を見ることができる高島では指折りの石仏スポットと言えます。
田中神社: 社伝によると田中郷の総産土神で、鎌倉時代の石造品が6基ほどあり、往時の豊かな文化をしのばせています。
この後、JR安曇川駅をめざして戻りますが、その途中に今回訪問した田中城の「上の城」に対し、大字田中のほぼ中央の平地に「下ノ城」という集落があります(下図左上)。『近江輿地志略』に記述され、最後に通る「南市」には城郭が築かれた形跡がないことから、下ノ城集落に位置する田中氏館が「下の城」であると考えられています。田中氏館が存在した痕跡は、地表には見受けられませんが、その付近には「北堀」「東堀」「南堀」「堀之内」という堀が存在したことを示す小字名が残されており、この範囲に田中氏の居館が存在していたと考えられています。また、 「堀」という地名がそれぞれ付くことから、周囲に堀を巡らす居館であったことが伺えます。西堀という字名はありませんが、江戸後期の田中村絵図には「西ノ口」という地名が残されており、その地域の中に田中氏の居館の正面入り口が存在したことが伺えます。
下ノ城集落西側入口で先生より説明を聞く様子: 現状では周囲には住宅があるだけで、土塁など遺構が残っている様子はありませんが、平成17年の発掘調査で堀跡の一部がこの辺りで見つかっています(上記地図青色部分)。また、この地区の古老のお話では、北堀の水田では耕作中大きく沈む場所があり、農耕しづらく、この付近の地中から石仏が多く見つかるのだそうです。
北国海道沿いで市場が開かれていた場所: 上記地図の右(東)側にある「南市」交差点で、南北に走る北国海道の道の両側に水路があることから、この広い道幅は昔から変化しておらず、この道の奥まで両側に産物や商品を売買する市が立てられていました。田中氏は地域の生産基盤の掌握だけでなく、交通路支配も大きな収入源としていました。
最後に、雨の中をご協力いただいて、無事に下見を終了でき、駅まで戻れました。ご協力いただきました城郭探訪会の皆様及びボランティアガイド トラベル高島のYK, SK様お二人に感謝いたします。
例会本番は2023年3月30日に予定されています。 文責 岡島 敏広
高島七頭(高島氏を中心として、平井(能登氏)、朽木、永田、横山、田中、山崎氏)のうちの田中郷の領主・田中氏の居城であった田中城は、泰山寺野台地から舌状にのびる支丘の先端部に築かれた中世末期の山城で、現在も上寺(うえでら)集落西側の山間部にその遺構を残しています。『近江輿地志略』には「この城 上の城と号し、南市村城を下の城と称す」と記されることから、地元の伝承として古くから「上の城」や、地名から「上寺城(うえでらじょう)」とも呼ばれています。
田中城主郭があったと推定される郭の標高は220m、平地の標高が160mで、両者の比高差はわずか60mです。同時期の山城と比べて標高の低い場所に位置しますが、城域の要所に堀切、土塁、武者隠しなど外敵を防ぐための遺構が見られ、相当の規模を誇る城郭であったことがうかがえます。
本日は「ボランティアガイド トラベル高島」の同姓Kさん2名(YK, SK)のガイドさんにご案内いただき、下見しました。上寺バス停の所にある田中城跡案内板前でガイドさんと待ち合わせ、地域史に詳しい「先生」と呼ばれておりました方のSKさんによるご説明から、城は鎌倉時代後期、田中播磨守実氏(さねうじ)により築城されたとのことです。その他、城主田中氏や田中郷の説明を受けてから、登山を開始しました。

田中城跡入口です。イノシシなどの動物による被害防止のために城跡はフェンスで囲われており、扉を開けて中に入ります。

この入口の手前のお家に、登山者用に下に示しました「田中城跡歴史ハイキングMAP」が設置されており自由に持ち帰ることができるようになっていました。
山城から東方に広がる山腹一帯には、地名の由来となった上寺である天台密教の山岳寺院「松蓋寺(しょうがいじ)」の寺坊跡があり、田中城はこの遺構を再利用し築造されたと推定されています。松蓋寺は「高嶋七ヵ寺」の1つで、今は下地図⑤の観音堂一宇が残されているだけです。城の縄張には、この⑤観音堂の下方に広がる寺の遺構を城に再利用した郭(i)と、観音堂背後の尾根上に遺された元来から城として機能していた遺構(ii)がありますが、大部分は寺の遺構を再利用した郭(i)です。
i. 観音堂よりも一段下方、山裾に広がる遺構群は、寺坊跡を利用して、土塁や堀を付け足したもので、屋敷跡と考えられる遺構です。その一段上には観音堂⑤の前面に広がる遺構群があり、ここも土塁で区画された大きな郭や、郭群の周囲には堀や土橋、武者隠しなどの遺構②が見られます。観音堂⑤の左手(⑤⑥の間)には寺の塔が立っていたと思われる基壇状の遺構や礎石が見られます。
ii. ここからさらに一段上がった尾根上には四つの郭が連続して築かれており、さらに上方には、土塁で囲まれた虎口状の施設を挟んで、「天主跡」と表示されている主郭⑦があります。その背後は馬の背状の通路⑧になっており、通路の先端には尾根を切断した大堀切があり、主郭背後の防備を固めています。

①金刀比羅宮: 山裾に広がる屋敷跡と考えられる郭群を抜けて、観音堂の前面に広がる郭群に入ると郭の土塁上に(上記MAPの①)、神仏習合の神金毘羅権現が祀られています。讃岐の金刀比羅宮から海上交通の守り神として勧請されたもので、琵琶湖や安曇川の運航の安全を祈願したものと思われます。この辺りは土塁で区画されています。

②土橋、武者隠し: 2番目の郭群の北の端に位置し、写真のように山を土橋に沿って下ると突然、急な谷になっています。逆に登ってきた攻め手は傾斜が緩やかになってホッとします。しかし、この細い土橋に沿って一列に通るときには見えないよう、土橋の山(南)側に武者隠しが設けられており、守兵はそこに隠れて、弓や鉄砲又は一斉攻撃で突き落とすなどで攻め手を撃退します。武者隠しは近江の城では事例の少ないものです。

③堀切: 観音堂のある郭とその麓(東)側の郭を断ち切るように、堀切が設けられ、観音堂のある郭に到達するには、急な斜面を這い上がるか、次の石段を上るしかありません。

➃観音堂への階段: 我々は無理をせず、観音堂には石造りの阿弥陀如来を横に見て石段を上ってゆきます。

⑤松蓋寺観音堂: 天平3年(731)に僧良弁が建立しましたが、室町時代頃には衰退し廃寺と化して、現在はこの観音堂が残るのみです。

⑥見張所: ここからは、木が邪魔でしたが、MAPに説明のとおり、高島方面が見えました。

⑦主郭: 見張所からは観音堂の背後の急坂の尾根をロープを頼って主郭部へ登ります。この尾根の北西側斜面(城の背後に当たる)は切岸が施されていて、通常よりも人工的に切り立った状態で、当然、そちら側から登ることはできません。主郭では、写真のとおり、琵琶湖を含めて、現在の安曇川の町が見渡せました。

⑧切岸が施された尾根: 主郭より北西方面に向かう尾根の先は堀切で切られて、行き来できないようようにされていますが、この尾根の両側も切岸が施され転落すると命がなくなるような切り立った尾根でした。

ところで、田中城は『信長公記』に3度登場しています。
1回目は元亀元年(1570)4月21日、信長が京都から越前へ向かった際に高島の「田中の城」に逗留したという記録です。このとき信長は朝倉義景を討つため越前を目指しており、途中の高島を通過し、浅井長政の勢力下にあった田中城に宿泊したと考えられます。この軍勢には後の豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康も参加していました。この8日後に浅井氏が離反を起こし、田中城は信長の敵方の城となりました。他方、信長は「金ヶ崎の退き口」の名で有名で、朽木経由で京都まで逃げ帰ります。
2回目は元亀3年(1572)3月11日で、信長が高島の地で浅井・朝倉軍を攻撃した際の記録です。このとき、信長方の明智光秀や丹羽長秀らが木戸(清水山)・田中両城を監視しています。
3回目は翌年の元亀4年(1573)7月26日、信長は大船で湖上から浅井長政の勢力下に置かれていた高島を攻撃し、陸からも木戸・田中両城を攻撃したとの記録です。この結果、落城した木戸・田中両城が明智光秀に与えられました。
さらに、『信長公記』の記述以前のことで、近年発見された熊本藩(細川家)の家老米田家に伝わる医学書『針薬方』(永禄9年)の奥書に「明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」とあります。田中城と光秀に関するもので、文献上に光秀が登場する最古級の発見で注目されました。奥書には、沼田勘解由左衛門が田中城で光秀の口伝を記し、永禄9(1566)年10月に米田貞能が江州坂本で写したものと記されています。このことから、少なくとも1566年以前の田中城に光秀が近江国と関係をもちながら、籠城していた可能性が指摘されています。光秀がどのような立場で田中城に籠城していたかは定かではありませんが、この頃にはひとかどの武将として活躍していたようです。
田中城訪問の後は、田中氏ゆかりの玉泉寺と田中神社を訪れました。
玉泉寺: 創建は奈良時代の天平年間で行基が開祖と伝えられ、享禄4年(1531)の大火により寺地を失いましたが、天文2年(1533)には、田中城の城主であった田中下野守理春(しもつけのかみみちはる)が荒廃を嘆き、再興したと伝承しています。玉泉寺境内の本堂前に、「鵜川四十八体石仏」(高島市)と同じ坐像形式の石仏五体が南面して並んでいます。五智如来と呼ばれ、左から阿弥陀如来・薬師如来・大日如来・弥勒菩薩・釈迦如来です。室町時代後期の作で、製作には「鵜川四十八体石仏」と石工技術を同じくする集団の影響が考えられます。このほかにも、墓地内で多種多様な石仏を見ることができる高島では指折りの石仏スポットと言えます。

田中神社: 社伝によると田中郷の総産土神で、鎌倉時代の石造品が6基ほどあり、往時の豊かな文化をしのばせています。

この後、JR安曇川駅をめざして戻りますが、その途中に今回訪問した田中城の「上の城」に対し、大字田中のほぼ中央の平地に「下ノ城」という集落があります(下図左上)。『近江輿地志略』に記述され、最後に通る「南市」には城郭が築かれた形跡がないことから、下ノ城集落に位置する田中氏館が「下の城」であると考えられています。田中氏館が存在した痕跡は、地表には見受けられませんが、その付近には「北堀」「東堀」「南堀」「堀之内」という堀が存在したことを示す小字名が残されており、この範囲に田中氏の居館が存在していたと考えられています。また、 「堀」という地名がそれぞれ付くことから、周囲に堀を巡らす居館であったことが伺えます。西堀という字名はありませんが、江戸後期の田中村絵図には「西ノ口」という地名が残されており、その地域の中に田中氏の居館の正面入り口が存在したことが伺えます。

下ノ城集落西側入口で先生より説明を聞く様子: 現状では周囲には住宅があるだけで、土塁など遺構が残っている様子はありませんが、平成17年の発掘調査で堀跡の一部がこの辺りで見つかっています(上記地図青色部分)。また、この地区の古老のお話では、北堀の水田では耕作中大きく沈む場所があり、農耕しづらく、この付近の地中から石仏が多く見つかるのだそうです。

北国海道沿いで市場が開かれていた場所: 上記地図の右(東)側にある「南市」交差点で、南北に走る北国海道の道の両側に水路があることから、この広い道幅は昔から変化しておらず、この道の奥まで両側に産物や商品を売買する市が立てられていました。田中氏は地域の生産基盤の掌握だけでなく、交通路支配も大きな収入源としていました。

最後に、雨の中をご協力いただいて、無事に下見を終了でき、駅まで戻れました。ご協力いただきました城郭探訪会の皆様及びボランティアガイド トラベル高島のYK, SK様お二人に感謝いたします。
例会本番は2023年3月30日に予定されています。 文責 岡島 敏広
2022年12月25日
2022年12月21日(火)永原御殿跡訪問
43期地域文化学科有志で、野洲市永原御殿跡を訪れました。参加メンバーの中には、専門講座での発表内容の取材を目的とした人もおります。
「永原御殿跡」は、朝鮮人街道沿いにあり、徳川家康が慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに勝利した後、佐和山より永原に至り上洛凱旋する際に通った縁起の良い道と認識され、以降この街道は将軍上洛の度に用いられ、沿道には永原(永原御殿)と神崎郡伊庭(現東近江市)に将軍休息所が設けられました。そもそも、家康と野洲市永原との係わりは天正19年(1591年)に豊臣秀吉から近江国内に領地(在京賄料)9万石が宛がわれ、その中に永原が含まれていました。永原御殿は、家康・秀忠・家光の三代の将軍の上洛時の専用宿館として築城された城郭で、御殿の碑が竹藪に隠れるようにありました。
下記御殿本丸の配置図の「東之御門矢倉」と記載された辺りの入口から、永原御殿本丸に入ります。
御殿の配置図を示します。本日は御殿本丸の入口から南辺の土塁に沿って西に進み、次に西辺の土塁を南から北へと本丸内を時計回りに巡ります。
南西角の土塁まで来ると「坤(ひつじさる)角櫓跡」の表示がありました。ここには櫓の建物が建てられていました。櫓とは矢の倉で、武器や武具の保管場所、或いは見張りの場所として使われました。本丸の床面から土塁の上まで、約3mの高さがあります。
坤角櫓は下の御殿模型の左手前の櫓です。次の御亭(おちん)は、西辺(左側)の土塁沿いに見える独立した1本松の手前に見える小さな建物で、乾角矢倉は模型の左奥の矢倉です。
西辺土塁沿いの真ん中当たりに「御亭(おちん)跡」の表示がありました。
御亭(おちん)の建物の礎石で、ここに将軍が客人をもてなす二階建て楼閣風の茶室「御亭」が存在していたことがわかっています。写真のように建物の範囲は周囲より高い基壇となり、柱を据えていた礎石の一部も残っています。
西辺の土塁上を歩きますと、

土塁の外(西)側には堀が残っていました。
北西角土塁まで来ると「乾(いぬい)角矢倉跡」の表示があり、ここは現在発掘中で、ブルーシートがかけられていました。
本丸の中央付近まで来ますと、明らかに建物の柱を置く礎石があり、それは大きくて矢穴跡が残っており、四角形に成形されています。この場所は本丸内の位置からすると、古御殿の礎石と考えられます。
南辺土塁基底部の石垣: 本丸の外に出て、本丸南側に回り込みますと、草が生えて見えにくいですが、南側の堀跡に面した土塁裾に当たる部分に石垣(腰巻石垣)が残っています。下の方の大きな石垣が当時のものです。本丸西辺にある土塁の外側にも、かつては石垣が存在していたそうです。
永原御殿は現在も発掘調査が継続しており、結果は京都大工頭 中井家建築指図「江州永原御茶屋御指図」(リンク先ファイルp.4に示されています)とほぼ合致することが確認されております。この調査結果に基づき、御殿東側の破壊部分の復元も含めて整備され、分かりやすい展示が実施されるとのことです。その日が来るのを期待し、訪問の解説は終わりとします。
参加の皆様、お疲れ様でした。 文責 岡島 敏広
「永原御殿跡」は、朝鮮人街道沿いにあり、徳川家康が慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに勝利した後、佐和山より永原に至り上洛凱旋する際に通った縁起の良い道と認識され、以降この街道は将軍上洛の度に用いられ、沿道には永原(永原御殿)と神崎郡伊庭(現東近江市)に将軍休息所が設けられました。そもそも、家康と野洲市永原との係わりは天正19年(1591年)に豊臣秀吉から近江国内に領地(在京賄料)9万石が宛がわれ、その中に永原が含まれていました。永原御殿は、家康・秀忠・家光の三代の将軍の上洛時の専用宿館として築城された城郭で、御殿の碑が竹藪に隠れるようにありました。

下記御殿本丸の配置図の「東之御門矢倉」と記載された辺りの入口から、永原御殿本丸に入ります。

御殿の配置図を示します。本日は御殿本丸の入口から南辺の土塁に沿って西に進み、次に西辺の土塁を南から北へと本丸内を時計回りに巡ります。

南西角の土塁まで来ると「坤(ひつじさる)角櫓跡」の表示がありました。ここには櫓の建物が建てられていました。櫓とは矢の倉で、武器や武具の保管場所、或いは見張りの場所として使われました。本丸の床面から土塁の上まで、約3mの高さがあります。

坤角櫓は下の御殿模型の左手前の櫓です。次の御亭(おちん)は、西辺(左側)の土塁沿いに見える独立した1本松の手前に見える小さな建物で、乾角矢倉は模型の左奥の矢倉です。

西辺土塁沿いの真ん中当たりに「御亭(おちん)跡」の表示がありました。

御亭(おちん)の建物の礎石で、ここに将軍が客人をもてなす二階建て楼閣風の茶室「御亭」が存在していたことがわかっています。写真のように建物の範囲は周囲より高い基壇となり、柱を据えていた礎石の一部も残っています。

西辺の土塁上を歩きますと、

土塁の外(西)側には堀が残っていました。

北西角土塁まで来ると「乾(いぬい)角矢倉跡」の表示があり、ここは現在発掘中で、ブルーシートがかけられていました。

本丸の中央付近まで来ますと、明らかに建物の柱を置く礎石があり、それは大きくて矢穴跡が残っており、四角形に成形されています。この場所は本丸内の位置からすると、古御殿の礎石と考えられます。

南辺土塁基底部の石垣: 本丸の外に出て、本丸南側に回り込みますと、草が生えて見えにくいですが、南側の堀跡に面した土塁裾に当たる部分に石垣(腰巻石垣)が残っています。下の方の大きな石垣が当時のものです。本丸西辺にある土塁の外側にも、かつては石垣が存在していたそうです。

永原御殿は現在も発掘調査が継続しており、結果は京都大工頭 中井家建築指図「江州永原御茶屋御指図」(リンク先ファイルp.4に示されています)とほぼ合致することが確認されております。この調査結果に基づき、御殿東側の破壊部分の復元も含めて整備され、分かりやすい展示が実施されるとのことです。その日が来るのを期待し、訪問の解説は終わりとします。
参加の皆様、お疲れ様でした。 文責 岡島 敏広
2022年12月19日
2022年12月16日(金)佐和山城城下町下見
課題学習のため、佐和山城城下町を下見しました。城下町は、これまでの調査から豊臣期には既に成立していたと考えられます。文禄4年(1595)に石田三成が北近江四郡を領国とする大名とともに佐和山城主となると、佐和山城及び城下町を拡張整備したと考えられています。

江戸時代に佐和山城を描いた「沢山古城絵図」です。図は西が上になっており、上方に松原内湖が青く描かれています。
Googleマップによる現在の地図 上は西、北は右側で上記古城絵図と同じ方向にしています。彦根市街地から国道8号線を通って佐和山トンネルを抜け(図の左上)、最初の信号のない交差点(つるやゴルフ彦根店の近く)を図の右(北)に曲がるか(すぐに大手門跡があります)、それを通り過ぎ、国道8号線鳥居本町南の信号(カットハウスSENARIMI近く)を上(西)に折れるかして(外堀跡、内堀跡に向かいます)、古西法寺の集落の中に入ってゆきます。
拡大した沢山古城絵図による説明 上は西、北は右側
土居の前(東側、絵図の下側)を流れる川は、かつての内堀でした。今は下写真のようにコンクリート壁の狭い川(現在の西法寺川又はおまん川)となっていますが、往時は堀は並行する道路(本町筋)近くまで広がっていたと考えられます。
内堀跡の標識: 折れて倒れていました。
国道8号線鳥居本町南の信号から西に折れ、集落の奥(佐和山の麓)まで行き、そこから内堀跡の南(大手口、西法寺川の上流)側を見ています。
内堀跡北(西法寺川の下流)側です。
本町筋に立っています。本町筋と内堀跡を示す標識で、ここより奥(西の佐和山側)に内堀(現 西法寺川)がありました。また、水田の畔等の地表に残された地割に基づいて、本町筋と内堀との間(西、山側)に平行する2本の南北道路を想定する意見があり、現在は畔道になっていますが、畔道の下に「百々町筋」という道があったことが、発掘調査により明らかになっています。
地図の上が北
下写真の道路は本町筋で現在は市道となっており、南を見ています。奥に鉄橋が見えていますが、近江鉄道のものです。この道は当時は城下町のメインストリートでした。内堀の外側は、内掘に沿ったこの本町筋を中心に町屋が存在しました。町屋は「沢山古城絵図」に従うと、この道の両(東西)側にあり、その広がりは、外堀の機能を持った現在の小野川(外堀)を越えて、東山道辺りにまで及んでいたようです。現在はその小野川(外堀)より内側が佐和山町、外側が鳥居本町で、小野川(外堀)が町の境界になっています。鉄橋の向こう(南)に大手門跡があり、本丸から続く大手道と合流していました。
さらに、近江鉄道鉄橋と大手門跡の間の地点(上の地図の赤く示した地点)では、掘立柱建物(町屋?)、土坑、幅60~90cmの「本町筋」の痕跡と考えられる道路遺構等が検出され、16世紀末頃の陶磁器類・瓦が出土しています。道路遺構には胴木工法が用いられていたことから、本町筋はその工法より織田勢力下にあった丹羽長秀(下の絵)の頃に施設された可能性が想定されています。
下表の城主磯野員昌の前は、百々内蔵助盛実が城代を務めましたが、六角方から浅井方に転じています。そのため、六角氏は佐和山城を攻略し、百々氏を自決させています。そもそも、佐和山城は湖東と湖北の境目に立地して東山道と下街道の両方が掌握でき、外港として松原湊と朝妻湊のある交通の要衝でした。そのため、六角方、京極・浅井方の双方より、軍事拠点として臨時に利用され、山下に本拠を置く百々氏が城代を務めた特定の城主の置かれない城でした。百々氏の後、浅井長政から南方支配の権限委譲をされて磯野員昌は城主として居城し、佐和山城を臨時の軍事拠点から支配の拠点に変えてゆきます。湖東地域の中心地としての佐和山・彦根の地位はこの時に始まります。
佐和山城大手門跡表示 上写真の本町筋を奥(南)に行くと、国道8号線の近くで大手口に到達します。東山道(のちの中山道)側に開いていた佐和山城正面の大手門の跡です。かつて、大手門が築かれ、左右には土を盛って築いた土居(土塁)が伸びていました。大手門は彦根市内に現存する宗安寺の表門(赤門)と伝えられており、左右の土居は現在も比較的良好に残っています。大手口から西(山側)に行くと、登城道です。
こうした土居(土塁)と内堀に守られた内側では、本丸に向かって伸びる登城道の両側に、侍屋敷が軒を連ねていました。侍屋敷は、本丸から伸びる2つの尾根に挟まれた広大な地を占めており、客馬屋や獄屋なども存在したようです。侍屋敷に居住した武士たちは、戦いとなれば両側の尾根に籠って、大手からの敵を挟撃することのできる優れた縄張りとなっていました。
最後に、佐和山城全図を以下に示します。
文責 岡島 敏広


江戸時代に佐和山城を描いた「沢山古城絵図」です。図は西が上になっており、上方に松原内湖が青く描かれています。

Googleマップによる現在の地図 上は西、北は右側で上記古城絵図と同じ方向にしています。彦根市街地から国道8号線を通って佐和山トンネルを抜け(図の左上)、最初の信号のない交差点(つるやゴルフ彦根店の近く)を図の右(北)に曲がるか(すぐに大手門跡があります)、それを通り過ぎ、国道8号線鳥居本町南の信号(カットハウスSENARIMI近く)を上(西)に折れるかして(外堀跡、内堀跡に向かいます)、古西法寺の集落の中に入ってゆきます。

拡大した沢山古城絵図による説明 上は西、北は右側

土居の前(東側、絵図の下側)を流れる川は、かつての内堀でした。今は下写真のようにコンクリート壁の狭い川(現在の西法寺川又はおまん川)となっていますが、往時は堀は並行する道路(本町筋)近くまで広がっていたと考えられます。
内堀跡の標識: 折れて倒れていました。

国道8号線鳥居本町南の信号から西に折れ、集落の奥(佐和山の麓)まで行き、そこから内堀跡の南(大手口、西法寺川の上流)側を見ています。

内堀跡北(西法寺川の下流)側です。

本町筋に立っています。本町筋と内堀跡を示す標識で、ここより奥(西の佐和山側)に内堀(現 西法寺川)がありました。また、水田の畔等の地表に残された地割に基づいて、本町筋と内堀との間(西、山側)に平行する2本の南北道路を想定する意見があり、現在は畔道になっていますが、畔道の下に「百々町筋」という道があったことが、発掘調査により明らかになっています。

地図の上が北

下写真の道路は本町筋で現在は市道となっており、南を見ています。奥に鉄橋が見えていますが、近江鉄道のものです。この道は当時は城下町のメインストリートでした。内堀の外側は、内掘に沿ったこの本町筋を中心に町屋が存在しました。町屋は「沢山古城絵図」に従うと、この道の両(東西)側にあり、その広がりは、外堀の機能を持った現在の小野川(外堀)を越えて、東山道辺りにまで及んでいたようです。現在はその小野川(外堀)より内側が佐和山町、外側が鳥居本町で、小野川(外堀)が町の境界になっています。鉄橋の向こう(南)に大手門跡があり、本丸から続く大手道と合流していました。

さらに、近江鉄道鉄橋と大手門跡の間の地点(上の地図の赤く示した地点)では、掘立柱建物(町屋?)、土坑、幅60~90cmの「本町筋」の痕跡と考えられる道路遺構等が検出され、16世紀末頃の陶磁器類・瓦が出土しています。道路遺構には胴木工法が用いられていたことから、本町筋はその工法より織田勢力下にあった丹羽長秀(下の絵)の頃に施設された可能性が想定されています。

下表の城主磯野員昌の前は、百々内蔵助盛実が城代を務めましたが、六角方から浅井方に転じています。そのため、六角氏は佐和山城を攻略し、百々氏を自決させています。そもそも、佐和山城は湖東と湖北の境目に立地して東山道と下街道の両方が掌握でき、外港として松原湊と朝妻湊のある交通の要衝でした。そのため、六角方、京極・浅井方の双方より、軍事拠点として臨時に利用され、山下に本拠を置く百々氏が城代を務めた特定の城主の置かれない城でした。百々氏の後、浅井長政から南方支配の権限委譲をされて磯野員昌は城主として居城し、佐和山城を臨時の軍事拠点から支配の拠点に変えてゆきます。湖東地域の中心地としての佐和山・彦根の地位はこの時に始まります。

佐和山城大手門跡表示 上写真の本町筋を奥(南)に行くと、国道8号線の近くで大手口に到達します。東山道(のちの中山道)側に開いていた佐和山城正面の大手門の跡です。かつて、大手門が築かれ、左右には土を盛って築いた土居(土塁)が伸びていました。大手門は彦根市内に現存する宗安寺の表門(赤門)と伝えられており、左右の土居は現在も比較的良好に残っています。大手口から西(山側)に行くと、登城道です。

こうした土居(土塁)と内堀に守られた内側では、本丸に向かって伸びる登城道の両側に、侍屋敷が軒を連ねていました。侍屋敷は、本丸から伸びる2つの尾根に挟まれた広大な地を占めており、客馬屋や獄屋なども存在したようです。侍屋敷に居住した武士たちは、戦いとなれば両側の尾根に籠って、大手からの敵を挟撃することのできる優れた縄張りとなっていました。
最後に、佐和山城全図を以下に示します。

文責 岡島 敏広
2022年12月14日
2022年12月12日(月)観音寺城 御屋形跡及び城下町石寺下見
城下町石寺訪問のための下見を実施しました。石寺は近江守護六角氏の居城観音寺城の城下町があった繖山の南麓に広がる集落で、元は南向いの箕作山(清水山)の方にあったといわれています。その名前が史料に現れるのは文明元年(1469) からです。観音寺城が城郭として整備され始めるのもこの頃からと考えられ、城郭と合わせて城下の整備も進められたものと考えられます。
石寺集落を繖山の奥まで進むと、そのもっとも高い場所に当たる石垣の上に、現在天満宮が建っています。御屋形跡とも名づけられ、ここが城下町の中心で、ここを起点に現況を調べてゆきます。御屋形跡横からは観音寺城大石垣・本丸へと続く古道追手道が伸びております(登城道は別サイトが詳しい)。
御屋形跡には「上御用屋敷」(御用屋敷=公用のために利用される屋敷)の地名が残っていることから、六角氏当主の居館跡に比定されています。発掘調査が行われていないため、遺構の状況などは分かりませんが、山城の麓という立地は、まさに平時の居館であったことを想定させます。おそらく、六角氏が観音寺城を居城とした当初は、山麓の居館を平時の住まいとしていたと考えられます。その頃の山上は、合戦時にこもる砦のようなもので、16 世紀半ばに入って、生活の場を山上に移すようになってから山城部分の整備が行われたと思われます。
写真のように郭の土台を形成する高石垣は、城内でも最も高く約6mになります。隅の積み方は整然とした算木積みではなく、稚拙な印象を与えることから、比較的古い時代に積まれたものと考えられますが、伝平井丸の石垣とも積み方が似ており、単純に山上の郭群に先行して整備されたとはいえないようです。
村井毅史氏「近江観音寺城の存在形態2000.3」では①上級家臣居住域が徐々に山上に移植され、山上・山下に同じ構造が併存、②冬季は石寺を使っていた、③六角氏当主の主要な二系統で使い分けていた、④山上・山下で場の性格が異なり、儀式などで使い分けていたなどの可能性を考えておられます。
ここから山麓にかけて郭(地図の太線で示された屋敷地)が雛壇状に広がっています。後に織田信長が安土に城を築き城下町を発展させた頃においても武士と農民の分離が不十分であったことから、これらの郭は、ここに家臣団あるいは直属の商工業者の屋敷跡で武士・町人が混住していたと考えられますが、観音正寺の坊跡でもあったと考えられます。
このあと、城下町時代の姿のどれほど残っているのかを下記の本の地図を参考に実地に確かめます。御屋形跡は地図の「1」です。
地図は「戦国から近世の城下町-石寺・安土・八幡-」p.30の図を示しています。古い時期(1917年)のこの辺りの地図はこちらをご覧ください。
天満宮から追手道を東へ少し下り、それと石寺の中央を南北に貫通する観音正寺の参道の本坂・馬場道と交叉する地点に、下写真の日吉神社があります(地図に番号記載なし)。
本坂・馬場道をそのまま日吉神社を通り過ぎて北へ山を登ってゆくと、山上の観音正寺・観音寺城へと続く赤坂道となります。
逆に細い本坂を南へ下ってゆくと、最初に景清道を横切ります。景清道は東山道から繖山の南麓、石寺を通り、繖山中の鳥打峠を越え、桑実寺から小中の集落を経て浄厳院の門前を通る道です。平安末期の平家の家人伊藤景清が、平家再興を祈願するため尾張より京都へ行く際に通ったことに由来するといわれています。あるいは主要道を避けて通る「かげのみち」からきているとする説もあります。、
さらに少し南に下ると、本坂の東側の民家の向こう側に広い郭(現況は田畑)がありますが、ここには「イノ馬場」の地名が残されています(地図の「2」の「下御用屋敷」「犬の馬場(イノ馬場)」)。かつて、六角氏がこの場所で犬追物を行ったことに由来するといわれています。
また、観音寺城本丸御殿の障壁画であったとされる犬追物図も伝わっています。
次に、本坂・馬場道と下街道が交叉する石標・常夜灯のある交差点を通ります。
ここから南へ下ると、地図では馬場道となっているところで、南から北にある石寺の集落を見ていますが、馬場道の右(東)に現在の地元産品売場「石寺楽市」が見えます(地図「4」)。集落の南側は田地となっています。現在はほ場整備を経て地割が代わっていますが、もとは蒲生郡条里方向の地割が残っていました。したがって、この部分は居住域ではなかったと考えられます。
さらに南、現在の新幹線と観音正寺へ向かう参道(地図の馬場道)とが交わるところが東山道からの分岐点で、その付近には「構口(かまえぐち)」(城下町入口)という地名があり、城下町の入口を示すものと考えられます。
石寺といえば史上初めて楽市が実施されたことで知られています。天文18 年(1549) に近江守護六角氏の奉行人から枝村(滋賀県犬上郡豊郷町)商人に宛てて出された文書には、「紙商買の事、石寺新市の儀、楽市たるの条、是非に及ばず」として石寺新市を楽市とする旨の文言が書かれています。
構口を越えて(出て)南に進み、旧中山道に入り奥石神社東口まで来ました。この石寺新市の場所については、奥石神社付近に「エビス(商売の神様)」という地名があることから、この付近に比定されています。
奥石神社東口の少し南で、旧中山道から外れた東側(写真左側)に地図で示された「石寺楽市推定地(保内町)」があります。
旧中山道沿いの石寺楽市推定地付近
得珍保(とくちんのほ: 東近江市八日市の南半)の保内商人が集まっていたと考えられます。その場所は確認しますと現在は集落の裏にある田んぼでした。石寺楽市推定地(保内町)の地点は「構口」よりも南にあたり、城下町の外にあったことになりますが、戦国期の城下町は、一般的に家臣団や直属商工業者が暮らす町場と、商業活動の場である市場が分離していたと考えられ、石寺についてもそうした戦国期城下町特有の構造を持っていたものと考えられます。
石寺楽市推定地(保内町)の田んぼ
しかし、近年、現石寺集落のすぐ南側にも「エビス」の地名があることから、こちらを石寺新市の場所とする見解が出されており、石寺城下町の再検討が進められつつあります。 文責 岡島 敏広
石寺集落を繖山の奥まで進むと、そのもっとも高い場所に当たる石垣の上に、現在天満宮が建っています。御屋形跡とも名づけられ、ここが城下町の中心で、ここを起点に現況を調べてゆきます。御屋形跡横からは観音寺城大石垣・本丸へと続く古道追手道が伸びております(登城道は別サイトが詳しい)。
御屋形跡には「上御用屋敷」(御用屋敷=公用のために利用される屋敷)の地名が残っていることから、六角氏当主の居館跡に比定されています。発掘調査が行われていないため、遺構の状況などは分かりませんが、山城の麓という立地は、まさに平時の居館であったことを想定させます。おそらく、六角氏が観音寺城を居城とした当初は、山麓の居館を平時の住まいとしていたと考えられます。その頃の山上は、合戦時にこもる砦のようなもので、16 世紀半ばに入って、生活の場を山上に移すようになってから山城部分の整備が行われたと思われます。
写真のように郭の土台を形成する高石垣は、城内でも最も高く約6mになります。隅の積み方は整然とした算木積みではなく、稚拙な印象を与えることから、比較的古い時代に積まれたものと考えられますが、伝平井丸の石垣とも積み方が似ており、単純に山上の郭群に先行して整備されたとはいえないようです。
村井毅史氏「近江観音寺城の存在形態2000.3」では①上級家臣居住域が徐々に山上に移植され、山上・山下に同じ構造が併存、②冬季は石寺を使っていた、③六角氏当主の主要な二系統で使い分けていた、④山上・山下で場の性格が異なり、儀式などで使い分けていたなどの可能性を考えておられます。
ここから山麓にかけて郭(地図の太線で示された屋敷地)が雛壇状に広がっています。後に織田信長が安土に城を築き城下町を発展させた頃においても武士と農民の分離が不十分であったことから、これらの郭は、ここに家臣団あるいは直属の商工業者の屋敷跡で武士・町人が混住していたと考えられますが、観音正寺の坊跡でもあったと考えられます。

このあと、城下町時代の姿のどれほど残っているのかを下記の本の地図を参考に実地に確かめます。御屋形跡は地図の「1」です。
地図は「戦国から近世の城下町-石寺・安土・八幡-」p.30の図を示しています。古い時期(1917年)のこの辺りの地図はこちらをご覧ください。

天満宮から追手道を東へ少し下り、それと石寺の中央を南北に貫通する観音正寺の参道の本坂・馬場道と交叉する地点に、下写真の日吉神社があります(地図に番号記載なし)。

本坂・馬場道をそのまま日吉神社を通り過ぎて北へ山を登ってゆくと、山上の観音正寺・観音寺城へと続く赤坂道となります。

逆に細い本坂を南へ下ってゆくと、最初に景清道を横切ります。景清道は東山道から繖山の南麓、石寺を通り、繖山中の鳥打峠を越え、桑実寺から小中の集落を経て浄厳院の門前を通る道です。平安末期の平家の家人伊藤景清が、平家再興を祈願するため尾張より京都へ行く際に通ったことに由来するといわれています。あるいは主要道を避けて通る「かげのみち」からきているとする説もあります。、

さらに少し南に下ると、本坂の東側の民家の向こう側に広い郭(現況は田畑)がありますが、ここには「イノ馬場」の地名が残されています(地図の「2」の「下御用屋敷」「犬の馬場(イノ馬場)」)。かつて、六角氏がこの場所で犬追物を行ったことに由来するといわれています。

また、観音寺城本丸御殿の障壁画であったとされる犬追物図も伝わっています。

次に、本坂・馬場道と下街道が交叉する石標・常夜灯のある交差点を通ります。

ここから南へ下ると、地図では馬場道となっているところで、南から北にある石寺の集落を見ていますが、馬場道の右(東)に現在の地元産品売場「石寺楽市」が見えます(地図「4」)。集落の南側は田地となっています。現在はほ場整備を経て地割が代わっていますが、もとは蒲生郡条里方向の地割が残っていました。したがって、この部分は居住域ではなかったと考えられます。

さらに南、現在の新幹線と観音正寺へ向かう参道(地図の馬場道)とが交わるところが東山道からの分岐点で、その付近には「構口(かまえぐち)」(城下町入口)という地名があり、城下町の入口を示すものと考えられます。

石寺といえば史上初めて楽市が実施されたことで知られています。天文18 年(1549) に近江守護六角氏の奉行人から枝村(滋賀県犬上郡豊郷町)商人に宛てて出された文書には、「紙商買の事、石寺新市の儀、楽市たるの条、是非に及ばず」として石寺新市を楽市とする旨の文言が書かれています。
構口を越えて(出て)南に進み、旧中山道に入り奥石神社東口まで来ました。この石寺新市の場所については、奥石神社付近に「エビス(商売の神様)」という地名があることから、この付近に比定されています。

奥石神社東口の少し南で、旧中山道から外れた東側(写真左側)に地図で示された「石寺楽市推定地(保内町)」があります。
旧中山道沿いの石寺楽市推定地付近

得珍保(とくちんのほ: 東近江市八日市の南半)の保内商人が集まっていたと考えられます。その場所は確認しますと現在は集落の裏にある田んぼでした。石寺楽市推定地(保内町)の地点は「構口」よりも南にあたり、城下町の外にあったことになりますが、戦国期の城下町は、一般的に家臣団や直属商工業者が暮らす町場と、商業活動の場である市場が分離していたと考えられ、石寺についてもそうした戦国期城下町特有の構造を持っていたものと考えられます。
石寺楽市推定地(保内町)の田んぼ

しかし、近年、現石寺集落のすぐ南側にも「エビス」の地名があることから、こちらを石寺新市の場所とする見解が出されており、石寺城下町の再検討が進められつつあります。 文責 岡島 敏広
2022年09月22日
2022年9月21日(水)第98回例会「清水山城館跡」下見
台風の通過の2日後に第98回例会の下見をレイ大生7名、ガイドの方2名で行いました。ガイドを引き受けてくださったのは、びわこ高島観光協会から紹介いただいた清水山城楽クラブの方々です。
新旭駅西口で待ち合せ、名刺をいただくと、なんとガイドさんの中に私たちのクラブの創設者で大先輩(地域文化と園芸の2つを卒業とのこと)であるTFさんがいらっしゃるではありませんか? 本日は大先輩直々のガイドをしていただくこととなりました。クラブの昔のお話を聞いているうちに、メンバーが全員揃いましたので、出発です。クラブ例会実施を考慮して、考えているコースの中でトイレの場所を確認すると、駅と城への登り口のスポーツ公園のみでした。駅前駐車場の台数も十分ではないように思えました。

登ってゆきますと、まず最初に地蔵山石仏に出会います。「地蔵」と言う名が付いていても、石仏は阿弥陀如来です。途中で通りすごしてきた地蔵庵の四面石仏を含めて廃寺となっている天台寺院 清水寺(せいすいじ)に関連した石仏と考えられています。

四面石仏(地蔵庵): 通常((薬師、釈迦、阿弥陀、弥勒如来)とは異なり、阿弥陀如来、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩のようです。写真正面は阿弥陀如来で、元々は「西屋敷」と呼ばれる場所に安置されていたものが、ここに移されたとのことです。

「東屋敷越中殿(=小字名)」の説明板です。下見では地図から、こちら側に清水寺があったようで探しましたが、残念ながら、9月では草が生えていて礎石などは確認できませんでした(高島市のWebでの解説では西屋敷側のようです)。また、東屋敷、西屋敷ともに写真を撮っても草で何かわかりませんでした。もう少し涼しくなるのを待って、草が枯れれば、様子がわかるのではないかと思います。

「西屋敷加賀殿(=小字名)」の説明板です。先の東屋敷越中殿も含め、官職名があるので屋敷に居住した人を指すと思われ、小字名は高島郡誌303頁の図に記載されています。

清水山城の縄張図です。

大手道に沿って登り、南東尾根曲輪群を進むと堀切があり、一段高い曲輪に登ります。ここを登るのは一苦労です。

せっかく登った曲輪から下りて進み、見上げると畝状竪堀(畝状空堀群)が掘られた主郭がそびえたっています。攻める立場の時、この斜面での横移動が難しいというのは、草が茂り分かってもらいにくいですね。しかし、畝状竪堀は滋賀県では例が少なく、北陸に多いことから、朝倉氏から直接、又は浅井氏を介して技術が伝播したのかもしれません。今日では主郭まではハイキング用にやさしい階段が取付けられていますので、容易に到達できます。

主郭に上ると、周囲の木が切りはらわれ、大パノラマが広がっていました。雰囲気をお伝えするために、パノラマ写真を撮影してみました。本ページ最終でお楽しみください。
主郭の上には、礎石建物があったことが発掘の結果わかっています。ここからは高価な輸入陶磁器を含む出土品が出ており、生活をしていたことがうかがわれます。礎石の位置は、写真のように、目印の石を置いて確認できるようにして、コンクリートで固めてありました。この後、景色を見ながらの昼食です。

昼食後は、琵琶湖をバックにして記念写真です。

午後は、主郭からは2郭を目指します。まず堀切があり、斜面が急でロープを使わないと下りることができません。

2郭と3郭の間は大堀切になっており、最初に10m以上ロープで底まで下ります。

3郭に行くには、大堀切の底から、もう一度ロープで3郭まで登ります。

この後は、再度2郭までロープで登って、山を下りました。
次は、佐々木高信(越中氏始祖)により佐々木氏ゆかりの四神が勧請された大荒比古神社に行きました。佐々木氏の平四つ目紋のある灯籠などが見られます。歴史は古い神社でめずらしい行事も実施していますが、例会本番では歩行距離や時間を考慮して跳ばす予定です。

最後に、新旭駅方向に畑地を通って、小字で「御屋敷」「犬馬場(=犬追物をする場所)」と名付けられている大将軍社まで行きました。地名から、恐らく、城主佐々木越中氏の主殿や会所などの公的施設があったのではないかと推察されます(主郭で発掘されたのは私的施設の常御殿?)。この場所のすぐ北側「大日道」の発掘でも礎石建物跡や区画溝が見つかっています。


このあと、新旭駅まで戻りお別れとなりました。
下見に協力いただいた清水山城楽クラブの皆様及び下見に参加された城郭探訪会員の皆様、お疲れさまでした。また、ありがとうございました。本番は天候良く楽しい例会となることを祈っております。
清水山城主郭からの大パノラマ
余談ですが、非常に見晴らしが良いことから、主郭からは安土山も見え、信長の大船が彦根のあたりからこちらに攻めてくるのが見えたという話があるようです。それならば、信長の大軍勢を見て、越中氏は戦わずして逃げても仕方ないねと話しておりました。また、大船も見える程ですから、余程の大きさだったのでしょう(信長公記には長さ三十間、すなわち約54mと記載されています)。
パノラマ写真は、下のスクロールバーを動かして見てください。

例会本番は2022年10月29日に予定されています。 文責 岡島 敏広
新旭駅西口で待ち合せ、名刺をいただくと、なんとガイドさんの中に私たちのクラブの創設者で大先輩(地域文化と園芸の2つを卒業とのこと)であるTFさんがいらっしゃるではありませんか? 本日は大先輩直々のガイドをしていただくこととなりました。クラブの昔のお話を聞いているうちに、メンバーが全員揃いましたので、出発です。クラブ例会実施を考慮して、考えているコースの中でトイレの場所を確認すると、駅と城への登り口のスポーツ公園のみでした。駅前駐車場の台数も十分ではないように思えました。

登ってゆきますと、まず最初に地蔵山石仏に出会います。「地蔵」と言う名が付いていても、石仏は阿弥陀如来です。途中で通りすごしてきた地蔵庵の四面石仏を含めて廃寺となっている天台寺院 清水寺(せいすいじ)に関連した石仏と考えられています。

四面石仏(地蔵庵): 通常((薬師、釈迦、阿弥陀、弥勒如来)とは異なり、阿弥陀如来、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩のようです。写真正面は阿弥陀如来で、元々は「西屋敷」と呼ばれる場所に安置されていたものが、ここに移されたとのことです。

「東屋敷越中殿(=小字名)」の説明板です。下見では地図から、こちら側に清水寺があったようで探しましたが、残念ながら、9月では草が生えていて礎石などは確認できませんでした(高島市のWebでの解説では西屋敷側のようです)。また、東屋敷、西屋敷ともに写真を撮っても草で何かわかりませんでした。もう少し涼しくなるのを待って、草が枯れれば、様子がわかるのではないかと思います。

「西屋敷加賀殿(=小字名)」の説明板です。先の東屋敷越中殿も含め、官職名があるので屋敷に居住した人を指すと思われ、小字名は高島郡誌303頁の図に記載されています。

清水山城の縄張図です。

大手道に沿って登り、南東尾根曲輪群を進むと堀切があり、一段高い曲輪に登ります。ここを登るのは一苦労です。

せっかく登った曲輪から下りて進み、見上げると畝状竪堀(畝状空堀群)が掘られた主郭がそびえたっています。攻める立場の時、この斜面での横移動が難しいというのは、草が茂り分かってもらいにくいですね。しかし、畝状竪堀は滋賀県では例が少なく、北陸に多いことから、朝倉氏から直接、又は浅井氏を介して技術が伝播したのかもしれません。今日では主郭まではハイキング用にやさしい階段が取付けられていますので、容易に到達できます。

主郭に上ると、周囲の木が切りはらわれ、大パノラマが広がっていました。雰囲気をお伝えするために、パノラマ写真を撮影してみました。本ページ最終でお楽しみください。
主郭の上には、礎石建物があったことが発掘の結果わかっています。ここからは高価な輸入陶磁器を含む出土品が出ており、生活をしていたことがうかがわれます。礎石の位置は、写真のように、目印の石を置いて確認できるようにして、コンクリートで固めてありました。この後、景色を見ながらの昼食です。

昼食後は、琵琶湖をバックにして記念写真です。

午後は、主郭からは2郭を目指します。まず堀切があり、斜面が急でロープを使わないと下りることができません。

2郭と3郭の間は大堀切になっており、最初に10m以上ロープで底まで下ります。

3郭に行くには、大堀切の底から、もう一度ロープで3郭まで登ります。

この後は、再度2郭までロープで登って、山を下りました。
次は、佐々木高信(越中氏始祖)により佐々木氏ゆかりの四神が勧請された大荒比古神社に行きました。佐々木氏の平四つ目紋のある灯籠などが見られます。歴史は古い神社でめずらしい行事も実施していますが、例会本番では歩行距離や時間を考慮して跳ばす予定です。

最後に、新旭駅方向に畑地を通って、小字で「御屋敷」「犬馬場(=犬追物をする場所)」と名付けられている大将軍社まで行きました。地名から、恐らく、城主佐々木越中氏の主殿や会所などの公的施設があったのではないかと推察されます(主郭で発掘されたのは私的施設の常御殿?)。この場所のすぐ北側「大日道」の発掘でも礎石建物跡や区画溝が見つかっています。


このあと、新旭駅まで戻りお別れとなりました。
下見に協力いただいた清水山城楽クラブの皆様及び下見に参加された城郭探訪会員の皆様、お疲れさまでした。また、ありがとうございました。本番は天候良く楽しい例会となることを祈っております。
清水山城主郭からの大パノラマ
余談ですが、非常に見晴らしが良いことから、主郭からは安土山も見え、信長の大船が彦根のあたりからこちらに攻めてくるのが見えたという話があるようです。それならば、信長の大軍勢を見て、越中氏は戦わずして逃げても仕方ないねと話しておりました。また、大船も見える程ですから、余程の大きさだったのでしょう(信長公記には長さ三十間、すなわち約54mと記載されています)。
パノラマ写真は、下のスクロールバーを動かして見てください。

例会本番は2022年10月29日に予定されています。 文責 岡島 敏広
2022年07月17日
2022年7月7日(木)第97回例会「賤ヶ岳古戦場」探訪下見
実施日時 7月7日(木) 10:30~16:30 (晴天)
参加者 草津校園芸A,B の6名
集 合 車3台に乗り合せて、余呉駅に集合
「下見実施状況」
<余呉駅列車> 米原方面への行き来は1本/1時間程度
<駐車場> 充分の30台~40台の空車スペースあり
・余呉駅前広場の空車スペース15~20台(全30台程度)及び
・駅すぐ近く(今回コース途上)に空車スペース15~20台(利用車無し)
<トイレ> 4カ所(いずれも大きくはないが、男女別で充分清潔
・余呉駅 ・賤ケ岳山頂 ・(帰路) 余呉湖畔 ・余呉観光館
<売店等> 余呉駅(無人)含め、帰路の余呉観光館を除き無し
<コース状況> 行程距離約10㎞、所要時間4~5時間 (含む昼食休憩) (コース図: 余呉駅からスタートし、青色の経路、次に余呉湖東側紫色の経路を利用)

所要時間は以下の通り。

史跡散在、山頂の眺望絶景ながら、行程は一部急斜面もあり、年齢層からは健脚向きのコース
余呉駅近くの江土登山口~賤ケ岳山頂の登り道は、比較的整備されており歩きやすいが、山頂近くは急坂で体力必要となる。
途中、大岩山砦跡にある中川清秀墓所(下写真)は多少開けており、休憩も可。
この中川清秀は茨木城主であったが、1583年の賤ヶ岳の戦いでは秀吉方として参戦し、秀吉が岐阜城主織田信孝を攻めて留守の間、大岩山砦を守っていた。しかし、柴田勝家軍の佐久間盛政の攻撃に遭い、盛政軍の圧倒的兵力の前で奮戦虚しく討ち死にした。戦いでは、盛政はさらに高山右近の岩崎山砦も攻め落とした。

首洗い池は、コース近接ながら、足元は急で注意必要。地元住民が、中川清秀の遺体を谷あいに降ろして首を洗い、あたりにあった柴で覆い隠して守ったと伝えられている。
登り道は、木陰に覆われ、吹き上げる風が涼しく、後半からは、時折余呉湖が眺められ清々しさも感じられる。
山頂からは余呉湖、奥びわ湖、福井県境等の山々と絶景の眺望で、広場となっていることから、昼食休憩に適した場所である(別ルートのリフト迄徒歩5~10分)。
山頂の賤ケ岳砦は、賤ヶ岳の戦では羽柴秀吉方の桑山重晴が守将で、羽柴軍の主力が駆けつけ(「美濃大返し」といわれる)、ここから佐久間盛政追討戦が行われ、柴田勝家軍は敗退する。有名な賤ヶ岳七本槍もここから出撃している。



参加者 草津校園芸A,B の6名
集 合 車3台に乗り合せて、余呉駅に集合
「下見実施状況」
<余呉駅列車> 米原方面への行き来は1本/1時間程度
<駐車場> 充分の30台~40台の空車スペースあり
・余呉駅前広場の空車スペース15~20台(全30台程度)及び
・駅すぐ近く(今回コース途上)に空車スペース15~20台(利用車無し)
<トイレ> 4カ所(いずれも大きくはないが、男女別で充分清潔
・余呉駅 ・賤ケ岳山頂 ・(帰路) 余呉湖畔 ・余呉観光館
<売店等> 余呉駅(無人)含め、帰路の余呉観光館を除き無し
<コース状況> 行程距離約10㎞、所要時間4~5時間 (含む昼食休憩) (コース図: 余呉駅からスタートし、青色の経路、次に余呉湖東側紫色の経路を利用)

所要時間は以下の通り。

史跡散在、山頂の眺望絶景ながら、行程は一部急斜面もあり、年齢層からは健脚向きのコース
余呉駅近くの江土登山口~賤ケ岳山頂の登り道は、比較的整備されており歩きやすいが、山頂近くは急坂で体力必要となる。
途中、大岩山砦跡にある中川清秀墓所(下写真)は多少開けており、休憩も可。
この中川清秀は茨木城主であったが、1583年の賤ヶ岳の戦いでは秀吉方として参戦し、秀吉が岐阜城主織田信孝を攻めて留守の間、大岩山砦を守っていた。しかし、柴田勝家軍の佐久間盛政の攻撃に遭い、盛政軍の圧倒的兵力の前で奮戦虚しく討ち死にした。戦いでは、盛政はさらに高山右近の岩崎山砦も攻め落とした。

首洗い池は、コース近接ながら、足元は急で注意必要。地元住民が、中川清秀の遺体を谷あいに降ろして首を洗い、あたりにあった柴で覆い隠して守ったと伝えられている。
登り道は、木陰に覆われ、吹き上げる風が涼しく、後半からは、時折余呉湖が眺められ清々しさも感じられる。
山頂からは余呉湖、奥びわ湖、福井県境等の山々と絶景の眺望で、広場となっていることから、昼食休憩に適した場所である(別ルートのリフト迄徒歩5~10分)。
山頂の賤ケ岳砦は、賤ヶ岳の戦では羽柴秀吉方の桑山重晴が守将で、羽柴軍の主力が駆けつけ(「美濃大返し」といわれる)、ここから佐久間盛政追討戦が行われ、柴田勝家軍は敗退する。有名な賤ヶ岳七本槍もここから出撃している。


下山ルートは急坂で足元に注意必要、又木々に阻まれて眺望不可、風の通りも悪い(30分余りの下山だったが、当日は参加者の状況によっては1時間余り掛かることも予想される)。
下山した余呉湖畔の旧国民宿舎跡地から余呉観光会館までの湖岸道は、車の通りも殆ど無く、平坦で歩きやすいが、特に景観が良いという程でも無い。
余呉観光会館は、余呉駅に近く、多少の土産物、食堂もあり、トイレ休憩や最終の解散場所にも利用可。
下山した余呉湖畔の旧国民宿舎跡地から余呉観光会館までの湖岸道は、車の通りも殆ど無く、平坦で歩きやすいが、特に景観が良いという程でも無い。
余呉観光会館は、余呉駅に近く、多少の土産物、食堂もあり、トイレ休憩や最終の解散場所にも利用可。

なお、本文は担当学科のS.S.さんが作成された日誌をベースにして、追記等を行い作成しています。
例会本番は2022年9月30日に予定されています。 文責 岡島
例会本番は2022年9月30日に予定されています。 文責 岡島
2022年04月24日
2022年4月23日(土)第93回例会「宇佐山城址」探訪下見
レイカディア大学城郭探訪会の地域文化・健康づくり学科初めての例会担当となり、緊張気味で下見のスタートです。
JR大津京駅前に10:00集合でしたが、10分前には参加者5名が全員集まりましたので、事前に作成していたコース案を確認。

コース案に従い、まず、近江大津宮錦織遺跡を訪問しました。史跡の外観について個人的印象を率直に言えば単なる児童公園のようでしたので、その価値の歴史的なものを含めての「説明」が必要と思いました。ガイドするという立場では、事前勉強が必要ということです。
次にコース案にはありませんでしたが、皇子山古墳を訪問、大きな立派な古墳ですが、誰のもののかはわからないそうです。ここは、解説が難しいことと、全体時間配分の関係から、本番ではコース案に従うこととし、割愛することとなりました。
次は、宇佐山城址への登山ですが、登山道の入り口にあるのは宇佐八幡宮(むし八幡宮)です。源頼朝を5代遡る源頼義が社を建て、豊前国(大分県)宇佐神宮の八幡神を勧請したことから、宇佐八幡宮、背後の山を宇佐山とよびます。
境内に入ると山本さんに「インスタ映えするよ」と言われて社殿横にゆくと、八幡神の神使である鳩の置物が所狭しと並べられていました。
ここまで上り坂で、息がはずんでいたので神社を見学しながら休憩し、宇佐山城まで一気に登りました。森可成の築城によるものです。
三の丸からの眺望はすばらしく、琵琶湖とその周りの町が眼下に広がります。
ここでは参加者の集合記念撮影が必要と決め、本丸に移りました。本丸には、現在NHK電波塔が建てられていますが、建物の下にも樋など遺構が残されていることをを確認しました。
本丸の周囲(二の丸も)には石垣が残されていました。明智光秀が作ったとのことです。
下山後は、南滋賀町廃寺跡(白鳳期の瓦が出土したことから、かつては崇福寺とも論争された逸名の白鳳寺院)を経由し、百穴古墳群(横穴式石室をもつ渡来人の円墳で64基確認されています)に到着しました。めずらしいので、葬られていた方には失礼かもしれませんが、古墳の中をのぞき込んだりしました。
平安時代から利用されていた京都北白川に通じる旧山中越を往来する人々の安全を祈願して、鎌倉時代に彫られた志賀の大仏(阿弥陀如来坐像)を見て、

最終目的地の南尾根にある崇福寺金堂・講堂跡に到着しました。崇福寺は天智天皇の頃創建され、旧山中越が近くを通っていたことから繁栄しましたが、比叡山の内紛に巻き込まれて鎌倉末期には荒廃していたようです。
ここより北側には、弥勒堂跡、小金堂跡、塔跡も存在し、塔跡からは国宝の崇福寺塔心礎納置品(仏舎利)が出土しています。
ここまでで、下見のメンバーも疲れましたので、会員の疲れも考慮し、北側の他の崇福寺遺跡の訪問は実施しないこととしました。
金堂・講堂跡にはたくさんのモミジが植えられ、時期的にも芽吹いて間もない新緑で、柔らかな光に包まれた「崇福寺旧址」碑前で記念写真の撮影を行いました。1箇月後の本番でも、それほど様子は変わっていないでしょうから、例会の締めくくりの記念撮影として美しい写真が撮影できるものと期待しています、
ゴールの京阪電車滋賀里駅に行くまでの途中に、見落としてしまいそうな形で、さりげなく「日本の茶栽培の発祥地」の看板がありました。ここは、伝教大師最澄とともに唐より帰国した僧永忠が持ち帰った茶の種を植えた場所と伝わり、日本最古の茶園と言われています。
このあと、滋賀里駅到着した後、お別れし、それぞれ電車又は自家用車にて帰宅しました。下見にご協力いただいた皆様、お疲れさまでした。
また、ありがとうございました。
例会本番は2022年5月21日に予定されています。 文責 岡島
JR大津京駅前に10:00集合でしたが、10分前には参加者5名が全員集まりましたので、事前に作成していたコース案を確認。

コース案に従い、まず、近江大津宮錦織遺跡を訪問しました。史跡の外観について個人的印象を率直に言えば単なる児童公園のようでしたので、その価値の歴史的なものを含めての「説明」が必要と思いました。ガイドするという立場では、事前勉強が必要ということです。

次にコース案にはありませんでしたが、皇子山古墳を訪問、大きな立派な古墳ですが、誰のもののかはわからないそうです。ここは、解説が難しいことと、全体時間配分の関係から、本番ではコース案に従うこととし、割愛することとなりました。

次は、宇佐山城址への登山ですが、登山道の入り口にあるのは宇佐八幡宮(むし八幡宮)です。源頼朝を5代遡る源頼義が社を建て、豊前国(大分県)宇佐神宮の八幡神を勧請したことから、宇佐八幡宮、背後の山を宇佐山とよびます。

境内に入ると山本さんに「インスタ映えするよ」と言われて社殿横にゆくと、八幡神の神使である鳩の置物が所狭しと並べられていました。


三の丸からの眺望はすばらしく、琵琶湖とその周りの町が眼下に広がります。
ここでは参加者の集合記念撮影が必要と決め、本丸に移りました。本丸には、現在NHK電波塔が建てられていますが、建物の下にも樋など遺構が残されていることをを確認しました。


下山後は、南滋賀町廃寺跡(白鳳期の瓦が出土したことから、かつては崇福寺とも論争された逸名の白鳳寺院)を経由し、百穴古墳群(横穴式石室をもつ渡来人の円墳で64基確認されています)に到着しました。めずらしいので、葬られていた方には失礼かもしれませんが、古墳の中をのぞき込んだりしました。


最終目的地の南尾根にある崇福寺金堂・講堂跡に到着しました。崇福寺は天智天皇の頃創建され、旧山中越が近くを通っていたことから繁栄しましたが、比叡山の内紛に巻き込まれて鎌倉末期には荒廃していたようです。
ここより北側には、弥勒堂跡、小金堂跡、塔跡も存在し、塔跡からは国宝の崇福寺塔心礎納置品(仏舎利)が出土しています。
ここまでで、下見のメンバーも疲れましたので、会員の疲れも考慮し、北側の他の崇福寺遺跡の訪問は実施しないこととしました。


ゴールの京阪電車滋賀里駅に行くまでの途中に、見落としてしまいそうな形で、さりげなく「日本の茶栽培の発祥地」の看板がありました。ここは、伝教大師最澄とともに唐より帰国した僧永忠が持ち帰った茶の種を植えた場所と伝わり、日本最古の茶園と言われています。

このあと、滋賀里駅到着した後、お別れし、それぞれ電車又は自家用車にて帰宅しました。下見にご協力いただいた皆様、お疲れさまでした。
また、ありがとうございました。
例会本番は2022年5月21日に予定されています。 文責 岡島