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2023年04月12日

2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

本日は、レイカディア大学の課題学習で6回目の校外活動となります。
安土城下町(安土山下町)の情報収集のため、城下町を学ぶ課題学習グループ"沙沙貴組"4名は、下の「安土駅周辺ぶらり安土まちなか」の地図に従って、安土城下町を巡りました。
安土城下町は、織田信長が完全に新規創出した町ではなく、既存の集落を利用して形成されたもので、現在の近江八幡市安土町下豊浦・上豊浦・常楽寺・慈恩寺・小中周辺に比定されます。
なお、安土城については、既にレイカディア大学の校外学習として訪問し、講師の中井均先生から説明を受けております。その内容につきましては、次のリンク先をご覧ください。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

JR安土駅南口から、景清道を通って、まず下地図の②淨厳院(じょうごんいん)に向かいます。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

歩いたコースは、地図上に青の矢印で示しています。また、地図はクリックにより拡大します。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

①ちはし地蔵: 淨厳院に近くになると、ちはし地蔵がありました。ちはし地蔵は隠れキリシタンのマリア伝承ではないかと考えられています。詳しくはリンク先資料のp.17とp.21をご覧ください。3つのお地蔵さんが並んでいますが、左から日限(ひぎり)地蔵尊・ちはし地蔵尊・文殊地蔵尊です。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

コースに従って、安土側から来ると寺の裏から入ることになりましたが、淨厳院に到着しました。正しくは金勝山慈恩寺浄厳院で、天正5年(1577年)織田信長が、もと佐々木六角氏の菩提寺「慈恩寺」跡に、金勝山(現滋賀県栗東市)の浄土宗の僧応誉明感上人を招き、創建した浄土宗寺院です。
ここで天正7年(1579年)5月には、信長の命により浄土宗と法華宗(日蓮宗)の間で、僧による仏教論争・安土宗論(しゅうろん)が行われました。裁定の結果、宗論は浄土宗(妙金剛寺の僧貞安)の勝利、日蓮宗の敗北と決しましたが、この裁定の背後には信長の強い政治的意思があったといわれています。

淨厳院では、楼門、本堂、本尊の木造阿弥陀如来坐像等が重要文化財に指定されています。
淨厳院楼門: 近江八幡市指定有形文化財で、この楼門前から中山道(東山道)に向かって真っすぐな参道が伸びていました。従来は中山道の方から、その真っすぐな道を通って参拝者が訪れたものと思われます。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

②淨厳院本堂(重要文化財) - 入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面6間(「間」は柱間の数を表します)。信長が多賀村(現・近江八幡市)の興隆寺の弥勒堂を移したものです。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

②淨厳院のご本尊阿弥陀如来坐像です。本尊阿弥陀如来坐像は愛知郡(えちぐん)から移したものであったといわれます。しかし阿弥陀如来坐像の台座の真柱に「此尊像者雖為二階堂本尊従信長殿様被下候条天正六年浄厳院」の墨書があります。愛知郡ではなく犬上郡甲良町下之郷にあった二階堂宝蓮院(信長により破壊される)の本尊を信長が分捕っていったと、下之郷の地元に伝承されています。
本日は、たまたま、墓施餓鬼(報われない餓鬼さん[無縁仏]を供養すること。祈祷した水をお墓にお供えすることで無数の餓鬼さんが報われます。)の日に当たりました。ですから、檀家の方と思いますが、見学でうろうろしていた私どもにお声がけ下さって、本堂に上げていただき、さらに、ご本尊の写真撮影までもご許可いただきました。生きている私たちもこうして報われました。その檀家さんのご説明では、はるか昔のことですが、阿弥陀如来坐像の本堂への搬入時、光背の先が天井に当たることから、光背の先が切り取られてしまい、仏像の価値を損じてしまっているとのことでした。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

③音堂川(おとんどがわ)湧水: 町内を流れる川で水が湧いているのが見えました。料亭のちょうど前で、大きな鯉が囲われた中で泳いでいました。これは食用でしょうか?
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

④梅の川: この「梅の川」は、かつては湧量が豊富だったようですが、残念なことに、現在は水脈が途絶えてしまって涸れておりました。ここの湧水は織田信長にまつわる水で、信長の家臣・武井夕庵が茶の湯の水としていたという伝承が残っています。側に建てられた由緒書きには以下のように掲示されています。
「難波より求めてきた珍茶をここの水で入れたところ、信長が非常に喜び、その後の茶の湯には常に使用したと伝えられています。」と。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

⑤北川湧水: 町内を流れる川で自噴しているもので、写真のように地蔵堂があります。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

⑥常楽寺港舟入跡: 信長の居城・安土城から琵琶湖へ出るための重要な外港跡です。しかし、天文4年(1535年)の史料には「常楽寺船人」という記述があることから、近江守護・六角氏のもと、琵琶湖舟運の湊(港湾)がすでに16世紀半ばには存在していたことがわかります。すなわち、ここは六角氏の観音寺城の港を、そのまま安土城下町に取り込んだと言えます。
常楽寺港を管理した城が、写真⑦の常浜水辺公園対岸にあった木村城(常楽寺城)で、常楽寺の在地領主木村氏の居城でした。常楽寺港につながる水路を堀として利用していたようです。木村氏は、もともと沙沙貴神社をルーツとする佐々木氏の一族(沙沙貴神社の神職で本佐々木氏)で、六角氏の被官でしたが、織田信長の近江侵攻後は信長に従いました。
さらに、永禄13年(1570年)3月3日に織田信長が、近江国内から相撲自慢を集めて相撲大会を開いたのも、この常楽寺港です。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

⑦常浜水辺公園: この辺りは琵琶湖に面し、常楽寺港は、元々、室町時代、六角氏の観音寺城外港として栄えていました。安土城下の港でもあることから、織田信長の上洛戦で、支配下に入って、安土城の港としても機能しました。
安土からの海上交通・交易は、常にこの常楽寺港から、他地域にある琵琶湖の港と通じていました。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

⑧惣構え跡(安土コミュニティーセンター)の説明看板: 惣構え土手の位置は、現在の安土コミュニティセンターの南側付近にあたりますが、現在は、土手の痕跡は全くありません。この看板はセンターの北側で下街道沿いにあります。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

地元に残る元禄8年(1695)の古地図に、西霊寺(現、東南寺)の端で下街道を横切るように、「惣構え土手」が描かれています。また、東南寺に伝わる古文書には、その惣構えを打ち開いて寺地としたとあります。従来、安土城下には、防御施設としての「惣構え土手」はないと考えられていましたが、城下町が「惣構え土手」によって二分されていたことが明らかになりました。このことにより、、安土城下は、城下全体を楽市としながらも内町・外町の形を残す、戦国末期の近世萌芽期とする位置づけが提唱されています。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

⑨活津彦根(いくつひこね)神社御旅所近くの鳥居
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

活津彦根神社: 滋賀県蒲生郡安土町下豊浦に鎮座する活津彦根神社の創建は不明ですが、古より豊浦庄の産土神として尊崇されてきています。祭神は活津日子根神(天照大神の第四御子神)です。織田信長は安土城を築くにあたり、参詣寄進し、彦根城主の井伊直孝も彦根神を尊崇し、城に彦根の名を付けました。
本殿は、寛永3年(1626)の年号が記された棟札を持ち、近江八幡市指定文化財となっています。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

西の湖: 近江八幡市に位置し、現存する琵琶湖の内湖では最大の面積で、大中之湖干拓地が造成された際に、水域として残った部分です。ヨシ群落は近畿地方で最大級の109haに及びます。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

1893年の干拓前の安土の地図を示しました。安土山の半分近くが湖へ突き出た半島となっており、安土町にあたる山の西側地域が、現在に比べ狭いことがわかります。この地域の湖岸に近い地図の白っぽい地域に信長の部下の侍屋敷がありました。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

⑫侍屋敷跡: 「金森(長近邸?)」「大蔵」辺りを歩いています。向こうに安土山を見ています。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

⑬百々橋: 「検子の辻」から、撮影しました。この先に築城当時の安土城の正面に当たる百々橋口があります。城下町と城内を結ぶ百々橋口道は、記録上に唯一現れる道です。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

新宮大社: 祭神は速玉男命(はやたまおのみこと)。天承元年(1131)の創建と伝えられますが確証はありません。確かなところでは近江八幡市安土町正禅寺所蔵の大般若経に、応永14年(1403)に「豊浦新宮大社」に経典を奉納したことが記されており、安土城下町以前から存在したことが分かります。江戸時代の絵図には「東村宮」として描かれています。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

⑮セミナリヨ跡: 「字大臼」、織田信長の援助を受け、イエズス会のイタリア人宣教師オルガンチノ神父によって天正9年(1581年)に創建された目本最初のキリシタン神学校「安土セミナリヨ」の跡です。ここでは生徒たちがラテン語や日本語、音楽などを学んでいました。学校は安土城とともに消失しました。ここより約300m北に、「字主之御座(しゅのみざ)」という地名があり、これもキリスト教由来と考えられることから、こちらをセミナリヨ跡に比定する説もあります。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

⑯常夜灯: 下街道(朝鮮人街道)沿いの曲がり角にあり、街道の曲がり角を照らして示すために設置されていました。
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院

本日、最初に巡った常楽寺・慈恩寺(浄厳院)や5回目の校外活動で訪問した沙沙貴神社近くの小中(こなか)付近の町割は古代に設けられた蒲生郡条里の方向に一致し、信長がやって来る直前まで、観音寺城 佐々木六角氏の所領でした。当時は安土山の北の伊庭のように水路がめぐらされ、そこを小舟が行き交う水郷のような景観でした。
さらに、これらの地区より東の下豊浦以東の2つの町割の軸線は、それぞれ活津彦根神社(いきつひこねじんじゃ)への参道と新宮神社(しんぐうじんじゃ)への参道に一致しています。いずれの神社も城下町成立以前から当地に存在したものであることから、これらの町割も新規に創出されたものではなく、既存の町割を利用したものと考えられます。

安土城下町は、上記のような中世的集落の水路や堀を埋めて道をつくり、街路で旧集落を結んで、その間に新しく町割りを設けて、区画整理された新市街地とし、新旧全体を1つの城下町としています。米町・豆町・寺町・玉木町などの城下町特有の地名や信長の家臣名のついた地名も今に伝えられています。
信長は安土城下町に対して13ヶ条の掟書を出し、楽市楽座(らくいちらくざ)をはじめとした都市政策を実施します。それは、城下町を安全と自由が保障された場所とすることで、人々の集住を促そうというものでした。また、それまでの戦国大名の城下町とは異なり、町人が居住する地域と商売を行なう地域とを区別せず、城下町全体を楽市としました。こうした一体化は近世の城下町に見られる構造で、安土城下町はその近世城下町の出発点と評価されています。
しかし、街路については幾重にも屈曲した下街道など、城下町特有の防御策が講じられ、戦国期城下町の構造と類似しているともいえます。
安土城下町は、近世の出発点として、新しい側面ばかりが強調されますが、以上のように中世末という時代の制約を受けたもので、古い要素と新しい要素の混在が安土城下町の特徴といえます。

本日は安土城下町を巡るため、午前中たくさん歩き、お腹もすきましたので、この後、沙沙貴組4名は、昼食に「おばんざいバイキング」でお腹を満たしつつ、続けて反省会にて、楽しく喉を潤しました。 文責 岡島 敏広

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