2022年11月17日
2022年11月15日(火)第99回例会「観音寺城跡と観音正寺」
「観音寺城跡と観音正寺」を探訪地として、例会の担当学科は草津校43期びわこ環境と陶芸学科担当により11月15日(火)第99回例会が開催されました。今回は49名(42期7名、43期20名、44期22名)の会員が参加しました。
観音寺城の記事としては、別途、城下町、大土塁トレイル、追手道からの登山についてのものもありますので、これらもご覧ください。
観音寺城は標高432mの繖山の山頂から南山麓にかけて曲輪が広がる大城郭で、中世五大山城(春日山城、七尾城、観音寺城、小谷城、月山富田城)の一つに数えられます。一般に城郭への石垣の本格的な導入は安土城(1576年)以後のことですが、それ以前(応仁・文明年間(1467年 - 1487年))に作られた観音寺城は石垣を多用しているのが特徴です。厳密には石垣とは裏に裏込石が積められていますが、観音寺城の石垣の場合には、裏込石がなくそのような石垣のことを「石積み」「石塁」という方もおられます。文芸セミナリヨ前に集合し、挨拶及びラジオ体操で体をほぐした後、登山に取り掛かりました。
「奉勧請西国三十三所」(西国三十三所仏の来臨を祈り願う)と記された碑のある北腰越登山口からの登山開始です。
登山道では西国三十三箇所巡りを逆の三十三番目から二十六番札所まで遡りましたが、登山道は途中から外れてゆきます。下写真は三十二番札所観音正寺です。
登山の途中で左(西)から西の湖、安土山、大中の干拓地(右/北側)の一部が見える見晴らしの良い地点で景色を見ながら休憩と共に、
昔の安土山周囲の様子を描いた絵を使っての観音寺城/安土城が存在した当時の様子の説明を受けました。安土山は琵琶湖に浮かぶ島であったことがわかります。
下写真のように海上安全と書かれた社が登山道の途中にありましたが、上の写真の様子から、社のすぐ近くまで船が行き来していて、航海の安全を祈っていたのは自然のことと思われました。
観音正寺
西国三十二番札所観音正寺に到着しました。現在の本堂です。観音寺城については後にまとめて説明します。
明治15 年には、彦根城の槻御殿を移築した本堂が現在の位置に建てられました。本尊の木造千手観音立像(明応6年(1497) 造立)は国の重要文化財に指定されましたが、平成5年(1993年)の火災で本堂や人魚のミイラとともに、焼失してしまいました。昔の写真はこちらにもあります。人魚は聖徳太子が琵琶湖畔を周遊していた時に、救いを求めてすがってきた人魚のために太子は祈りを捧げ、人魚を救ったという伝説がもとになっています。現在は上写真のように、本堂と本尊が新たな姿で再建されています。ここから、奥之院に向かいました。
奥之院
奥之院は観音正寺の聖域で「権現岩 風神雷神窟」という名の石窟があるということですが、岩が崩れ危険なので、現在は近寄ることができません(2022年11月15日時点)。この石窟に聖徳太子が天人に導かれ、瞑想をして祈りを捧げ、千手観音像を刻み安置したとのことです。
観音寺城跡
観音正寺と奥之院の間の道路から、私たちのいる繖山の南東側に箕作山(清水山)が見えました。箕作山の鉄塔の所には箕作城があり、信長は観音寺城に攻めかかる前に箕作城を攻めています。
箕作城の様子が非常に良く見えるからでしょう。最後の城主、六角義賢(承禎)・義治父子は信長軍と戦わずして、甲賀方面に逃げています。信長軍は無血入城していますので観音寺城は焼けていません。
六角義賢(承禎)
下図は江戸時代に描かれた観音寺城の絵図(個人蔵)です。(別の絵図もこちらから)
縄張図も示しました。この絵図に基づいて各曲輪の名前が命名されています。伝池田丸・伝平井丸・伝本丸は、他の曲輪が天台寺院の構造を基にしたものであるのに対して、尾根筋が削平された所に存在しており、その位置や構造から新しく作られた曲輪と考えられます。現在は、ここに足利将軍の「花の御所」を模した城主の城館を建てる面積が十分取れないことから、3つに分けられて、伝池田丸が御所の会所(公的空間)、伝平井丸が庭園のある主殿(公的空間)、伝本丸が常御殿(私的空間)に相当する機能を持った曲輪であったと考えられています。
近江風土記の丘(北)から南へと登山道(=日ころばし筋)を登ってきましたが、伝沢田邸の所で別れて下り、すぐの所にある伝蒲生邸です。藪になっていますが、平地として残っており、蒲生賢秀の屋敷があったと言われています。
観音正寺石垣まで来ましたが、北西から南東に進みますと、隅角部分が算木積み(新しい)になっています。側面は野面積で観音寺城があった当時からの古い石垣です。
さらに南東に進み観音正寺入口に近づくと、石垣に小さな段差があります。これは、新しい石垣が南東(写真手前)方向に付け加えられた継ぎ目です(写真は観音正寺入口側の新しい石垣側から撮影。新しい石垣は出っ張り、古くからの石垣は引っ込んで草が生えています。)。
昔、山上にあった中世観音寺が、観音寺城築城により永禄年間(1558~1569)に激しさを増す戦乱を避け、山を下りて麓に移りましたが、1568年観音寺城落城後、城が使われなくなり、江戸時代に再び、「観音正寺」と名前を変えて、現在のように山上に上がってきました。この時に、小さな曲輪を繋いで敷地を確保するため積み加えられたりもしています。昔の観音寺の頃の本堂は、今とは異なる山の別の場所(伝三井邸の左側曲輪辺り?: (東近江市史 能登川の歴史 第2巻))に建てられていたようです。
山頂から南西に延びる尾根筋上の曲輪を今回は探訪しました。観音寺城の中枢部分で、山頂から南西の尾根の先端に向かって伝本丸、大石段、伝三ノ丸、伝平井丸、伝池田丸、大石垣と大きな曲輪が並んでいます。私の所属した青班は3班の人数を分散させるため、伝平井丸→伝池田丸→大石垣→伝本丸と見学しました。
伝三の丸: 伝平井丸への道すじで石垣の横を通過しました。
伝平井丸: 現在の見解とは異なりますが、六角氏の被官であった平井氏の屋敷跡とされる曲輪で、上掲の古絵図の記述が根拠となっています。周囲を石塁で囲われ、虎口を伴っています。写真の伝平井丸の虎口は、城内でも最も巨大な石を用いた立派な平虎口ですが、裏込石はありません。この石垣を積み上げたのは有名な穴太衆ではなく、金剛輪寺の石工集団西座(にしざ)衆により指導されたことを示す帳簿「下倉米銭下用帳」が残され、弘治2年(1556)頃(六角義賢の頃)に築かれたものであることが分かっています。
ちなみに、安土城の石垣は工事規模が大きく、色々な石工の技術が混じっており、そこには穴太衆も加わっていると考えられます。
伝平井丸の奥の一段高くなった所に入りましたが、この中には発掘調査の結果、建物の遺構は無かったことが判明しています。逆に、人工の川の跡や組み合わされた石が見つかっており、庭園であったと考えられています。北西隅のさらに一段高い部分で屋敷跡が見つかっています。
伝平井丸埋(うずみ)門: 台風による倒木で壊れたそうです。大石垣の下方の伝木村邸にもあり、城主が脱出する通り道などの目的で設けらます。
伝落合氏屋敷跡への入口: 伝平井丸虎口の西には石塁と櫓台が組み合わさった宮津口見附があります。
伝池田丸: さらに南に進んだ所にある六角氏の被官であった池田氏の屋敷跡とされる曲輪で、古絵図の記述が根拠となっています。周囲を石塁で囲われ、いくつもの虎口を伴っています。木を伐採すると琵琶湖が見える場所にあり、発掘調査で6棟の建物(北側3棟、南側に大きな3棟)があったことが判明しています。天文13 年(1544) に観音寺城を訪れた連歌師 谷宗牧は、山上の城の「御二階」の座敷に案内され、そこには「数寄」の茶室に茶器の名品が用意されていて、城の退出にあたっては秘蔵の古筆を送られたと「東国紀行」に書いています。伝池田丸での出来事ではないかと考えられますが、このような記録から、観音寺城は要塞であるとともに、六角氏の風雅な生活の場所であったことが伺えます。
大石垣: ここは現在、木が切りはらわれて、新幹線から壮大な石垣が見えるようになっていますが、屋敷地ではなく、また、大石垣の上に狼煙場があることから、狼煙場でもなく、この場所の用途がわかっていません。
伝本丸下大石段: 50-60年前田中政三氏により発見され、ここには排水溝があり、安土城の大手道と構造が類似しており、この大石段が伝本丸へと至る大手道と考えられてきましたが、途中で切れていることから、大石段の性格を見直す必要が生じています。また、この大石段を信長は入城後きっと見ていると思われることから、安土城に応用したのではないかと、ガイドさんは推測していました。
大石段の排水溝
伝本丸: 上掲の江戸時代の古絵図に「本城」と記されていることから、城の中核部分と思われていますが、ここよりも高い地点にも曲輪が存在すること、この場所が曲輪の分布する範囲の西端に位置することなどから、城の中核部分として理解してよいかは疑問が持たれていました。伝本丸には飲料水を溜めていた池と思われる池の跡や伝平井丸へ向かう道がありました。伝本丸の虎口は簡易な平虎口が基本ですが、伝本丸の北から桑実寺に向かう場所に位置する搦手口は、石塁をずらして配置する食い違い虎口となっています。ただし、周囲の状況からみて後から改修されたものである可能性があります。ここからは、2棟の屋敷跡が検出され、瓦などは発掘されていないことから、建物には板屋根が使われていたと考えられます。
搦手口
太夫殿井戸: 搦手口の近くにありました。
権現見附: 奥之院参道を通り奥之院へ向かう観音正寺からの出口にあります。見附とは枡形(ますがた)を有する城門で、城の最も外側にあり、番兵が見張りをする所です。権現見附の山側(写真右側)には木立の間から大石垣が見えました。
閼伽(あか)坂見附: 観音正寺の参道(赤坂道)の途中にあり、ここから、文芸セミナリヨの駐車場に戻ります。
途中、瓢箪山古墳横を通り、鳥打峠(ねぐらと琵琶湖を往復する鴨を猟師が鉄砲で"撃つ"のではなく、投網で獲ったから付いた名前だそうです)を通って予定の16:00に文芸セミナリヨまで戻りました。
最後に、観音寺城からの眺望はすばらしかったので、大石垣から見た蒲生野(南東方向)のパノラマを示し終わりとします。本会の準備・運営に協力いただきました皆様、参加いただき会を楽しく盛り上げていただいた皆様に感謝いたします。

麓にある御屋形跡の訪問についてはこちらをご覧ください。
次回例会は2022年12月16日(太尾山城址と青岸寺)に予定されています。 文責 岡島 敏広
観音寺城の記事としては、別途、城下町、大土塁トレイル、追手道からの登山についてのものもありますので、これらもご覧ください。
観音寺城は標高432mの繖山の山頂から南山麓にかけて曲輪が広がる大城郭で、中世五大山城(春日山城、七尾城、観音寺城、小谷城、月山富田城)の一つに数えられます。一般に城郭への石垣の本格的な導入は安土城(1576年)以後のことですが、それ以前(応仁・文明年間(1467年 - 1487年))に作られた観音寺城は石垣を多用しているのが特徴です。厳密には石垣とは裏に裏込石が積められていますが、観音寺城の石垣の場合には、裏込石がなくそのような石垣のことを「石積み」「石塁」という方もおられます。文芸セミナリヨ前に集合し、挨拶及びラジオ体操で体をほぐした後、登山に取り掛かりました。

「奉勧請西国三十三所」(西国三十三所仏の来臨を祈り願う)と記された碑のある北腰越登山口からの登山開始です。

登山道では西国三十三箇所巡りを逆の三十三番目から二十六番札所まで遡りましたが、登山道は途中から外れてゆきます。下写真は三十二番札所観音正寺です。

登山の途中で左(西)から西の湖、安土山、大中の干拓地(右/北側)の一部が見える見晴らしの良い地点で景色を見ながら休憩と共に、

昔の安土山周囲の様子を描いた絵を使っての観音寺城/安土城が存在した当時の様子の説明を受けました。安土山は琵琶湖に浮かぶ島であったことがわかります。

下写真のように海上安全と書かれた社が登山道の途中にありましたが、上の写真の様子から、社のすぐ近くまで船が行き来していて、航海の安全を祈っていたのは自然のことと思われました。

観音正寺
西国三十二番札所観音正寺に到着しました。現在の本堂です。観音寺城については後にまとめて説明します。

奥之院
奥之院は観音正寺の聖域で「権現岩 風神雷神窟」という名の石窟があるということですが、岩が崩れ危険なので、現在は近寄ることができません(2022年11月15日時点)。この石窟に聖徳太子が天人に導かれ、瞑想をして祈りを捧げ、千手観音像を刻み安置したとのことです。

観音寺城跡
観音正寺と奥之院の間の道路から、私たちのいる繖山の南東側に箕作山(清水山)が見えました。箕作山の鉄塔の所には箕作城があり、信長は観音寺城に攻めかかる前に箕作城を攻めています。

六角義賢(承禎)

下図は江戸時代に描かれた観音寺城の絵図(個人蔵)です。(別の絵図もこちらから)

縄張図も示しました。この絵図に基づいて各曲輪の名前が命名されています。伝池田丸・伝平井丸・伝本丸は、他の曲輪が天台寺院の構造を基にしたものであるのに対して、尾根筋が削平された所に存在しており、その位置や構造から新しく作られた曲輪と考えられます。現在は、ここに足利将軍の「花の御所」を模した城主の城館を建てる面積が十分取れないことから、3つに分けられて、伝池田丸が御所の会所(公的空間)、伝平井丸が庭園のある主殿(公的空間)、伝本丸が常御殿(私的空間)に相当する機能を持った曲輪であったと考えられています。

近江風土記の丘(北)から南へと登山道(=日ころばし筋)を登ってきましたが、伝沢田邸の所で別れて下り、すぐの所にある伝蒲生邸です。藪になっていますが、平地として残っており、蒲生賢秀の屋敷があったと言われています。

観音正寺石垣まで来ましたが、北西から南東に進みますと、隅角部分が算木積み(新しい)になっています。側面は野面積で観音寺城があった当時からの古い石垣です。

さらに南東に進み観音正寺入口に近づくと、石垣に小さな段差があります。これは、新しい石垣が南東(写真手前)方向に付け加えられた継ぎ目です(写真は観音正寺入口側の新しい石垣側から撮影。新しい石垣は出っ張り、古くからの石垣は引っ込んで草が生えています。)。
昔、山上にあった中世観音寺が、観音寺城築城により永禄年間(1558~1569)に激しさを増す戦乱を避け、山を下りて麓に移りましたが、1568年観音寺城落城後、城が使われなくなり、江戸時代に再び、「観音正寺」と名前を変えて、現在のように山上に上がってきました。この時に、小さな曲輪を繋いで敷地を確保するため積み加えられたりもしています。昔の観音寺の頃の本堂は、今とは異なる山の別の場所(伝三井邸の左側曲輪辺り?: (東近江市史 能登川の歴史 第2巻))に建てられていたようです。

山頂から南西に延びる尾根筋上の曲輪を今回は探訪しました。観音寺城の中枢部分で、山頂から南西の尾根の先端に向かって伝本丸、大石段、伝三ノ丸、伝平井丸、伝池田丸、大石垣と大きな曲輪が並んでいます。私の所属した青班は3班の人数を分散させるため、伝平井丸→伝池田丸→大石垣→伝本丸と見学しました。
伝三の丸: 伝平井丸への道すじで石垣の横を通過しました。

伝平井丸: 現在の見解とは異なりますが、六角氏の被官であった平井氏の屋敷跡とされる曲輪で、上掲の古絵図の記述が根拠となっています。周囲を石塁で囲われ、虎口を伴っています。写真の伝平井丸の虎口は、城内でも最も巨大な石を用いた立派な平虎口ですが、裏込石はありません。この石垣を積み上げたのは有名な穴太衆ではなく、金剛輪寺の石工集団西座(にしざ)衆により指導されたことを示す帳簿「下倉米銭下用帳」が残され、弘治2年(1556)頃(六角義賢の頃)に築かれたものであることが分かっています。
ちなみに、安土城の石垣は工事規模が大きく、色々な石工の技術が混じっており、そこには穴太衆も加わっていると考えられます。


伝平井丸埋(うずみ)門: 台風による倒木で壊れたそうです。大石垣の下方の伝木村邸にもあり、城主が脱出する通り道などの目的で設けらます。

伝落合氏屋敷跡への入口: 伝平井丸虎口の西には石塁と櫓台が組み合わさった宮津口見附があります。

伝池田丸: さらに南に進んだ所にある六角氏の被官であった池田氏の屋敷跡とされる曲輪で、古絵図の記述が根拠となっています。周囲を石塁で囲われ、いくつもの虎口を伴っています。木を伐採すると琵琶湖が見える場所にあり、発掘調査で6棟の建物(北側3棟、南側に大きな3棟)があったことが判明しています。天文13 年(1544) に観音寺城を訪れた連歌師 谷宗牧は、山上の城の「御二階」の座敷に案内され、そこには「数寄」の茶室に茶器の名品が用意されていて、城の退出にあたっては秘蔵の古筆を送られたと「東国紀行」に書いています。伝池田丸での出来事ではないかと考えられますが、このような記録から、観音寺城は要塞であるとともに、六角氏の風雅な生活の場所であったことが伺えます。

大石垣: ここは現在、木が切りはらわれて、新幹線から壮大な石垣が見えるようになっていますが、屋敷地ではなく、また、大石垣の上に狼煙場があることから、狼煙場でもなく、この場所の用途がわかっていません。

伝本丸下大石段: 50-60年前田中政三氏により発見され、ここには排水溝があり、安土城の大手道と構造が類似しており、この大石段が伝本丸へと至る大手道と考えられてきましたが、途中で切れていることから、大石段の性格を見直す必要が生じています。また、この大石段を信長は入城後きっと見ていると思われることから、安土城に応用したのではないかと、ガイドさんは推測していました。

大石段の排水溝

伝本丸: 上掲の江戸時代の古絵図に「本城」と記されていることから、城の中核部分と思われていますが、ここよりも高い地点にも曲輪が存在すること、この場所が曲輪の分布する範囲の西端に位置することなどから、城の中核部分として理解してよいかは疑問が持たれていました。伝本丸には飲料水を溜めていた池と思われる池の跡や伝平井丸へ向かう道がありました。伝本丸の虎口は簡易な平虎口が基本ですが、伝本丸の北から桑実寺に向かう場所に位置する搦手口は、石塁をずらして配置する食い違い虎口となっています。ただし、周囲の状況からみて後から改修されたものである可能性があります。ここからは、2棟の屋敷跡が検出され、瓦などは発掘されていないことから、建物には板屋根が使われていたと考えられます。
搦手口

太夫殿井戸: 搦手口の近くにありました。

権現見附: 奥之院参道を通り奥之院へ向かう観音正寺からの出口にあります。見附とは枡形(ますがた)を有する城門で、城の最も外側にあり、番兵が見張りをする所です。権現見附の山側(写真右側)には木立の間から大石垣が見えました。

閼伽(あか)坂見附: 観音正寺の参道(赤坂道)の途中にあり、ここから、文芸セミナリヨの駐車場に戻ります。

途中、瓢箪山古墳横を通り、鳥打峠(ねぐらと琵琶湖を往復する鴨を猟師が鉄砲で"撃つ"のではなく、投網で獲ったから付いた名前だそうです)を通って予定の16:00に文芸セミナリヨまで戻りました。
最後に、観音寺城からの眺望はすばらしかったので、大石垣から見た蒲生野(南東方向)のパノラマを示し終わりとします。本会の準備・運営に協力いただきました皆様、参加いただき会を楽しく盛り上げていただいた皆様に感謝いたします。

麓にある御屋形跡の訪問についてはこちらをご覧ください。
次回例会は2022年12月16日(太尾山城址と青岸寺)に予定されています。 文責 岡島 敏広
2025年2月27日(木)城郭OB第87回例会「北之庄城(岩崎山城)跡」
2024年12月5日(木)城郭OB第85回例会「佐和山城と大洞弁財天を巡る」
2024年11月14日(木)城郭OB第84回例会「近江日爪城址」
2024年10月18日(金)城郭OB第83回例会「金ヶ崎城址・金ヶ崎の退き口」(福井県)
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」
2024年12月5日(木)城郭OB第85回例会「佐和山城と大洞弁財天を巡る」
2024年11月14日(木)城郭OB第84回例会「近江日爪城址」
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2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」
Posted by
joukaku
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