2024年11月25日
2024年11月23日三雲城址戦国のろしと秋野菜収穫体験(湖南市)
JR西日本ふれあいハイキング「三雲城址戦国のろしと秋野菜収穫体験」(湖南市)が開催されました。参加者は事前予約による28名で、集合場所のJR三雲駅で、湖南市観光協会が参加受付を行った後、参加者は2班に分かれ、以下のコースに従い、三雲城址を中心にJR三雲駅近辺の野洲川南岸を巡りました。総歩行歩数は18,000歩でした。
JR三雲駅→三雲屋敷跡→三雲城址→弘法杉→秋野菜収穫体験
→天保義民之碑→JR三雲駅
三雲城(吉永城)は、近江の戦国大名 佐々木六角氏の宿老として名を馳せた甲賀五十三家に数えられる三雲氏の居城として知られています。
三雲氏は蒲生氏とともに、六角氏の京都での軍事行動において中心的な役割を果たし、幕府や貴族とも直接的なつながりが認められ、京都でもその存在が知られていました。観音寺騒動後、六角氏の権力が動揺するなかで、三雲氏は軍事・外交上の力量でもって当主の六角氏を支え続け、三雲周辺は近江に侵攻する織田信長に対する六角方の抵抗の拠点となりました。
三雲城想像図をジオラマ化したものが、城の付近の湖南市三雲まちづくりセンターに展示されていますので、それを示します。
三雲城は三雲氏の主家である安土の観音寺城主・六角高頼の逃げ込み用の本城として、六角高頼の命により長亨2年(1488)に三雲典膳(てんぜん)が築いた典型的な山城で、東西約300m、南北約200mにも及ぶ広大な城域を有していました。
また、三雲城は六角氏の甲賀郡を中心とした甲賀作戦の中核となった城です。この作戦は近隣勢力から六角氏居城の観音寺城が攻撃された時、観音寺城での籠城戦を取らず、逃亡して敵を甲賀の山中に誘い込み兵站線を伸ばし、ゲリラ戦法で叩くもので、「呼び込み軍法」という六角氏固有の積極策です。三雲城は六角氏が逃亡する城として度々史料に登場し、六角氏は文明3年(1471)から天正2年(1574)の間に十数度の甲賀作戦を実施したと考えられます。
特に効果的であったのは長享元年(1487)9代将軍足利義尚の近江親征の際に、巧妙なゲリラ戦で幕府軍を撃退したときで、作戦の最後となったのは天正2年(1574)は織田軍の佐久間信盛に三雲氏が降った時となります。永禄11年(1568)9月12日に佐久間信盛によって攻められた際も六角承禎、義弼が逃れてきたという記録(氏郷記)や、野洲川を渡って岩根山麓から六角氏本城の観音寺城へ通じる「観音寺道」(横関~三雲)が少し残されています(本文最後に記載した「参考」もご覧ください)。
三雲氏は織田信長の京都侵攻に際して最後まで主君の六角氏に従ったことから、元亀元年(1570)に織田方の家臣の佐久間信盛の攻撃を受けて三雲城は山裾にある三雲屋敷(湖南市三雲字西山)と共に落城しました。
ハイキングはJR三雲駅より出発し、駅から西の方に向かいますが、途中、三雲城城主であった三雲氏代々の「五輪塔」の墓が残る永照院の横を通りました。
永照院
三雲屋敷跡: 永照院の北西の住宅地内に不釣合の写真のような竹藪が残され、「城の藪」と呼ばれています。これが三雲氏の平時の居館の三雲屋敷で、この藪から刀鑓の断片数個が発見されたりしていますが、城域の東側は県道4号線と宅地造成により消滅しています。
三雲屋敷は永正年間(1504~21)に三雲典膳の養子源内左衛門行定により築城されましたが、上述のように元亀元年(1570)に佐久間信盛の攻撃を受け落城しています。
上写真竹藪は1948年の航空写真(国土地理院より)では、丸で示した位置に当たります。永照院前から県道4号線(旧国道1号線)を横断、野洲川を渡り岩根山東麓より大谷ブドウ園の南側を経て、六角氏本城の観音寺城へ通じる小道は六角氏が往来したことから「観音寺道」と呼ばれ、現在も一部残されています(甲賀郡志)。
永照院からの観音寺道: 水路に沿ってトンネルを越えると永照院に行きます(三雲まちづくりセンター裏で撮影)。
野洲川方面への観音寺道: 水路に沿って先に進むと野洲川に到達します(三雲まちづくりセンター裏で撮影)。
八丈岩(縄張図内記号E)からの狼煙(のろし)の様子: さらに、西に進みました。JR西日本ふれあいハイキングが実施された本日に限らず、11月23日には毎年滋賀県の山城が参加して「のろし駅伝」が実施されています。第23回の本年は三雲城がスタートの狼煙を揚げる当番で、10:00に狼煙を揚げ、時間をおいて次の竜王町にある星ケ崎城に引き継がれました。
三雲城址に向かう途中、三雲城から狼煙が揚がっているのが麓から見られました(10:04撮影)。
三雲城登城口へ: このあと三雲城登城口を目指して登ります。
登城口での狼煙のデモンストレーション: 登城口に到着した時には、三雲城の狼煙は終了しておりましたので、城郭整備されている地元吉永区の皆様が、特別にJR西日本ふれあいハイキング参加者向けに、狼煙を再度揚げてくださいました。この後、登城ですが、まず八丈岩の方に向かいました。
下に福永清治先生の作図をもとにして、現地に掲示されている表示に合わせて改変した縄張図を示します。図はクリックすると拡大します。
城の縄張の中心部は、5ヶ所の郭(くるわ)によって構成されており、北側の郭(郭1)は約50mx40mの広さがあり井戸も残っています。また、郭1の東部分には三方を巨大な石材を用い、野面積みによって築かれた22.4m x 12mの大きな枡形遺構(虎口、縄張図内記号D)が残っています。
城の構造は、基本的には中世の山城ですが、枡形虎口や外郭ラインの一部に大きな石で積まれた高い石垣が築かれています。この部分は、後に織豊系城郭の影響を受けて改築されたと考えられています。六角氏の没落後、三雲成持は織田信雄(のぶかつ)、蒲生氏郷に仕えたことから、この時に改修されたと考えられます。
A: 石垣による突出部、B: 石垣を伴う土塁、C: Bの土塁の延長線上の石垣、D: 石垣による枡形虎口、E: 巨大な岩盤(八丈岩)
三雲城現況概要図
八丈岩(縄張図内記号E): 山麓からもその威容が見える巨石「八丈岩」(左写真)です。ここからは視界が良いので、三雲城では見張り台として用いられていたものと思われます。
作家の司馬遼太郎が昭和37年(1962)に著した小説「風神の門」に出てくる忍者 猿飛佐助は、城主 三雲成持の甥 三雲佐助賢春と記述されており、佐助が修行したであろう八丈岩は、「落ちそうで落ちない、倒れそうで倒れない」ことから合格祈願のパワースポットとして近年脚光を浴びています。
八丈岩の裏側には刻まれた六角氏の家紋(四つ目結)が残されています(右写真に示した白丸内で、写真をクリックすると写真が拡大します。)。六角氏の城であったことが分かります、

郭5: 八丈岩から馬の背道を通って、郭5に行きます。郭5は面積では郭1より広いのですが、削平が不十分で緩斜面となっており、ここは守備兵の駐屯地や兵站地として用いられたと考えられます。
主郭(郭1)枡形虎口(縄張図内記号D): 郭1への入口で、 22.4m x 12mの大きさです。郭1に入るには枡形内で2度の屈曲を強いて、敵兵の直進を阻止しています。郭1は約50mx40mの広さがあります。
郭1枡形虎口内石垣: 説明板左の石の上部に矢穴跡があり、この石は天然石のままではなく、人により割られて、形が整えられていることがわかります。
郭1北西側土塁(縄張図内記号B): 郭1のこの土塁が背後を防備しており、郭1は面積が広く、石垣が多用されていることから、主郭は次に訪れる最高所の郭2、3、4ではなく、この郭1と考えられます。
郭1石垣(縄張図内記号C): 土塁の延長線上の石垣: 三雲城は信長軍により落城後、天正年間(1573年〜)には廃城となりましたが、天正13年(1585)に甲賀市水口町に豊臣秀吉の家臣の中村一氏が水口岡山城を築いた際に三雲城の中心の郭群周辺と出郭間の資材や石垣等が用材として持ち去られたと言われています。
郭1井戸: 虎口の内側には、御殿が建ちそうな大きな郭があり、写真のように直径1.9m深さ6.2mの井戸も残っています。井戸の内側は野面積の石垣で囲われています。
郭2: 城の立地はすばらしく、麓の街道や野洲川を行き交う人々の往来を監視することができます。
そのため、この郭2は、NHK連続テレビ小説「スカーレット」でロケ地しとて使われ、戸田恵梨香さんが夕日を見つめながら信楽に別れを告げ、陶器の断片を見つける場面がここで撮影されました。その説明が右の看板で表示されています。
郭2の石垣(縄張図内記号A): 郭2から少し先(北側)に下りて行くと石垣が残されています。三雲城の石垣は、それらの積み方から見て、六角氏のものではなく、織豊政権の改変と考えられます。六角氏没落後、三雲成持が豊臣政権のもと織田信雄・蒲生氏郷に仕えて、その後、江戸時代にも一千石の旗本として生き残ったことを考えると、ここが地域拠点として織豊系城郭に改変されたことも自然の成り行きと考えられます。
郭3への尾根上通路: 城の東側が見渡せる郭3へは土橋様の切岸が施された尾根を通って行きます。
郭3: 城の東側を見張る見張り台として用いられたと思われます。
郭4への通路と堀切: 写真で階段が設置されていることから分かるように、郭4への通路は堀切が切られて、一旦下りて登る必要があり、容易には行き来できないようになっています。
郭4: 郭4は城が使用されていた当時は樹木がなく、南側が見渡せたものと思われますが、現在は樹木で回りは見えません。
このあと、大手道を通って登城口まで戻りましたが、郭5より下の部分では、途中、写真にあるようないくつもの新しい石垣が積まれていました。
近代石垣: 近世以後も三雲城址で採石が盛んで、一帯が屑石による砂防用石垣で覆われている現状から、城址は長年の破壊を受けたことがわかります。そのような変容の結果として、城址の現状は土塁や石垣の一部と井戸が残るのみとなっています。
郭1周辺は基本的には変化していないと思いますが、1980年代に調査・作成された時の縄張図がありましたので、参考までに示します。
以上の情報をまとめ、三雲城の様子をまとめた想像図を以下に示します。
三雲城址訪問後は、そのまま大砂川に沿って山を下り、弘法杉を見た後、野菜収穫を体験しました。野菜としては、サツマイモとジャガイモをショベルで掘り起こして収穫し、個々に持ち帰っていただきました。
天保義民之碑: 最後に、近江天保一揆で亡くなった犠牲者を弔う碑を訪問しました。一揆は近江野洲郡・栗太郡・甲賀郡の農民4万人が、江戸時代後期、江戸幕府による不当な検地に抗議して起こしました。一揆は成功し、農民の要求は聞き届けられましたが、一揆後、一揆指導者や参加者に対する幕府の苛烈な取り調べにより亡くなったたくさんの犠牲者を弔っています。
ここで、一揆の経緯の説明を聞きました。
以上、本日は、湖南市の野洲川南岸にある三雲城址、弘法杉と天保義民之碑を巡りました。訪問後、スタート地点のJR三雲駅に戻って解散となりました。
お疲れさまでした。
文責 岡島 敏広
参考: 近江八幡市安土町石寺の観音寺城麓にある道標の記載事項(写真正面)「左 くハんおんし すく ゑち川」(=左 観音寺 まっすぐ 愛知川)、(向かって左面)「すく 大つ 右八まん 長命寺」(=まっすぐ大津 右八幡 長命寺)、(民家に隠れた右面)「(梵字)すく くハんおんし道」とあり、「すく」とは「まっすぐ」という意、「くハんおんし道」は「観音寺道」のことで、観音寺城麓の石寺から観音寺道が始まっています。
JR三雲駅→三雲屋敷跡→三雲城址→弘法杉→秋野菜収穫体験
→天保義民之碑→JR三雲駅
三雲城(吉永城)は、近江の戦国大名 佐々木六角氏の宿老として名を馳せた甲賀五十三家に数えられる三雲氏の居城として知られています。
三雲氏は蒲生氏とともに、六角氏の京都での軍事行動において中心的な役割を果たし、幕府や貴族とも直接的なつながりが認められ、京都でもその存在が知られていました。観音寺騒動後、六角氏の権力が動揺するなかで、三雲氏は軍事・外交上の力量でもって当主の六角氏を支え続け、三雲周辺は近江に侵攻する織田信長に対する六角方の抵抗の拠点となりました。
三雲城想像図をジオラマ化したものが、城の付近の湖南市三雲まちづくりセンターに展示されていますので、それを示します。

三雲城は三雲氏の主家である安土の観音寺城主・六角高頼の逃げ込み用の本城として、六角高頼の命により長亨2年(1488)に三雲典膳(てんぜん)が築いた典型的な山城で、東西約300m、南北約200mにも及ぶ広大な城域を有していました。
また、三雲城は六角氏の甲賀郡を中心とした甲賀作戦の中核となった城です。この作戦は近隣勢力から六角氏居城の観音寺城が攻撃された時、観音寺城での籠城戦を取らず、逃亡して敵を甲賀の山中に誘い込み兵站線を伸ばし、ゲリラ戦法で叩くもので、「呼び込み軍法」という六角氏固有の積極策です。三雲城は六角氏が逃亡する城として度々史料に登場し、六角氏は文明3年(1471)から天正2年(1574)の間に十数度の甲賀作戦を実施したと考えられます。
特に効果的であったのは長享元年(1487)9代将軍足利義尚の近江親征の際に、巧妙なゲリラ戦で幕府軍を撃退したときで、作戦の最後となったのは天正2年(1574)は織田軍の佐久間信盛に三雲氏が降った時となります。永禄11年(1568)9月12日に佐久間信盛によって攻められた際も六角承禎、義弼が逃れてきたという記録(氏郷記)や、野洲川を渡って岩根山麓から六角氏本城の観音寺城へ通じる「観音寺道」(横関~三雲)が少し残されています(本文最後に記載した「参考」もご覧ください)。
三雲氏は織田信長の京都侵攻に際して最後まで主君の六角氏に従ったことから、元亀元年(1570)に織田方の家臣の佐久間信盛の攻撃を受けて三雲城は山裾にある三雲屋敷(湖南市三雲字西山)と共に落城しました。
ハイキングはJR三雲駅より出発し、駅から西の方に向かいますが、途中、三雲城城主であった三雲氏代々の「五輪塔」の墓が残る永照院の横を通りました。
永照院

三雲屋敷跡: 永照院の北西の住宅地内に不釣合の写真のような竹藪が残され、「城の藪」と呼ばれています。これが三雲氏の平時の居館の三雲屋敷で、この藪から刀鑓の断片数個が発見されたりしていますが、城域の東側は県道4号線と宅地造成により消滅しています。
三雲屋敷は永正年間(1504~21)に三雲典膳の養子源内左衛門行定により築城されましたが、上述のように元亀元年(1570)に佐久間信盛の攻撃を受け落城しています。

上写真竹藪は1948年の航空写真(国土地理院より)では、丸で示した位置に当たります。永照院前から県道4号線(旧国道1号線)を横断、野洲川を渡り岩根山東麓より大谷ブドウ園の南側を経て、六角氏本城の観音寺城へ通じる小道は六角氏が往来したことから「観音寺道」と呼ばれ、現在も一部残されています(甲賀郡志)。

永照院からの観音寺道: 水路に沿ってトンネルを越えると永照院に行きます(三雲まちづくりセンター裏で撮影)。

野洲川方面への観音寺道: 水路に沿って先に進むと野洲川に到達します(三雲まちづくりセンター裏で撮影)。

八丈岩(縄張図内記号E)からの狼煙(のろし)の様子: さらに、西に進みました。JR西日本ふれあいハイキングが実施された本日に限らず、11月23日には毎年滋賀県の山城が参加して「のろし駅伝」が実施されています。第23回の本年は三雲城がスタートの狼煙を揚げる当番で、10:00に狼煙を揚げ、時間をおいて次の竜王町にある星ケ崎城に引き継がれました。
三雲城址に向かう途中、三雲城から狼煙が揚がっているのが麓から見られました(10:04撮影)。

三雲城登城口へ: このあと三雲城登城口を目指して登ります。

登城口での狼煙のデモンストレーション: 登城口に到着した時には、三雲城の狼煙は終了しておりましたので、城郭整備されている地元吉永区の皆様が、特別にJR西日本ふれあいハイキング参加者向けに、狼煙を再度揚げてくださいました。この後、登城ですが、まず八丈岩の方に向かいました。

下に福永清治先生の作図をもとにして、現地に掲示されている表示に合わせて改変した縄張図を示します。図はクリックすると拡大します。
城の縄張の中心部は、5ヶ所の郭(くるわ)によって構成されており、北側の郭(郭1)は約50mx40mの広さがあり井戸も残っています。また、郭1の東部分には三方を巨大な石材を用い、野面積みによって築かれた22.4m x 12mの大きな枡形遺構(虎口、縄張図内記号D)が残っています。
城の構造は、基本的には中世の山城ですが、枡形虎口や外郭ラインの一部に大きな石で積まれた高い石垣が築かれています。この部分は、後に織豊系城郭の影響を受けて改築されたと考えられています。六角氏の没落後、三雲成持は織田信雄(のぶかつ)、蒲生氏郷に仕えたことから、この時に改修されたと考えられます。

三雲城現況概要図

八丈岩(縄張図内記号E): 山麓からもその威容が見える巨石「八丈岩」(左写真)です。ここからは視界が良いので、三雲城では見張り台として用いられていたものと思われます。
作家の司馬遼太郎が昭和37年(1962)に著した小説「風神の門」に出てくる忍者 猿飛佐助は、城主 三雲成持の甥 三雲佐助賢春と記述されており、佐助が修行したであろう八丈岩は、「落ちそうで落ちない、倒れそうで倒れない」ことから合格祈願のパワースポットとして近年脚光を浴びています。
八丈岩の裏側には刻まれた六角氏の家紋(四つ目結)が残されています(右写真に示した白丸内で、写真をクリックすると写真が拡大します。)。六角氏の城であったことが分かります、


郭5: 八丈岩から馬の背道を通って、郭5に行きます。郭5は面積では郭1より広いのですが、削平が不十分で緩斜面となっており、ここは守備兵の駐屯地や兵站地として用いられたと考えられます。

主郭(郭1)枡形虎口(縄張図内記号D): 郭1への入口で、 22.4m x 12mの大きさです。郭1に入るには枡形内で2度の屈曲を強いて、敵兵の直進を阻止しています。郭1は約50mx40mの広さがあります。

郭1枡形虎口内石垣: 説明板左の石の上部に矢穴跡があり、この石は天然石のままではなく、人により割られて、形が整えられていることがわかります。

郭1北西側土塁(縄張図内記号B): 郭1のこの土塁が背後を防備しており、郭1は面積が広く、石垣が多用されていることから、主郭は次に訪れる最高所の郭2、3、4ではなく、この郭1と考えられます。

郭1石垣(縄張図内記号C): 土塁の延長線上の石垣: 三雲城は信長軍により落城後、天正年間(1573年〜)には廃城となりましたが、天正13年(1585)に甲賀市水口町に豊臣秀吉の家臣の中村一氏が水口岡山城を築いた際に三雲城の中心の郭群周辺と出郭間の資材や石垣等が用材として持ち去られたと言われています。

郭1井戸: 虎口の内側には、御殿が建ちそうな大きな郭があり、写真のように直径1.9m深さ6.2mの井戸も残っています。井戸の内側は野面積の石垣で囲われています。

郭2: 城の立地はすばらしく、麓の街道や野洲川を行き交う人々の往来を監視することができます。
そのため、この郭2は、NHK連続テレビ小説「スカーレット」でロケ地しとて使われ、戸田恵梨香さんが夕日を見つめながら信楽に別れを告げ、陶器の断片を見つける場面がここで撮影されました。その説明が右の看板で表示されています。

郭2の石垣(縄張図内記号A): 郭2から少し先(北側)に下りて行くと石垣が残されています。三雲城の石垣は、それらの積み方から見て、六角氏のものではなく、織豊政権の改変と考えられます。六角氏没落後、三雲成持が豊臣政権のもと織田信雄・蒲生氏郷に仕えて、その後、江戸時代にも一千石の旗本として生き残ったことを考えると、ここが地域拠点として織豊系城郭に改変されたことも自然の成り行きと考えられます。

郭3への尾根上通路: 城の東側が見渡せる郭3へは土橋様の切岸が施された尾根を通って行きます。

郭3: 城の東側を見張る見張り台として用いられたと思われます。

郭4への通路と堀切: 写真で階段が設置されていることから分かるように、郭4への通路は堀切が切られて、一旦下りて登る必要があり、容易には行き来できないようになっています。

郭4: 郭4は城が使用されていた当時は樹木がなく、南側が見渡せたものと思われますが、現在は樹木で回りは見えません。

このあと、大手道を通って登城口まで戻りましたが、郭5より下の部分では、途中、写真にあるようないくつもの新しい石垣が積まれていました。
近代石垣: 近世以後も三雲城址で採石が盛んで、一帯が屑石による砂防用石垣で覆われている現状から、城址は長年の破壊を受けたことがわかります。そのような変容の結果として、城址の現状は土塁や石垣の一部と井戸が残るのみとなっています。

郭1周辺は基本的には変化していないと思いますが、1980年代に調査・作成された時の縄張図がありましたので、参考までに示します。

以上の情報をまとめ、三雲城の様子をまとめた想像図を以下に示します。

三雲城址訪問後は、そのまま大砂川に沿って山を下り、弘法杉を見た後、野菜収穫を体験しました。野菜としては、サツマイモとジャガイモをショベルで掘り起こして収穫し、個々に持ち帰っていただきました。

天保義民之碑: 最後に、近江天保一揆で亡くなった犠牲者を弔う碑を訪問しました。一揆は近江野洲郡・栗太郡・甲賀郡の農民4万人が、江戸時代後期、江戸幕府による不当な検地に抗議して起こしました。一揆は成功し、農民の要求は聞き届けられましたが、一揆後、一揆指導者や参加者に対する幕府の苛烈な取り調べにより亡くなったたくさんの犠牲者を弔っています。
ここで、一揆の経緯の説明を聞きました。

以上、本日は、湖南市の野洲川南岸にある三雲城址、弘法杉と天保義民之碑を巡りました。訪問後、スタート地点のJR三雲駅に戻って解散となりました。
お疲れさまでした。
文責 岡島 敏広
参考: 近江八幡市安土町石寺の観音寺城麓にある道標の記載事項(写真正面)「左 くハんおんし すく ゑち川」(=左 観音寺 まっすぐ 愛知川)、(向かって左面)「すく 大つ 右八まん 長命寺」(=まっすぐ大津 右八幡 長命寺)、(民家に隠れた右面)「(梵字)すく くハんおんし道」とあり、「すく」とは「まっすぐ」という意、「くハんおんし道」は「観音寺道」のことで、観音寺城麓の石寺から観音寺道が始まっています。

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