2023年04月27日
2023年4月22日(土)第104回例会「水口岡山城跡・水口城跡と城下町」(城下町編)
城郭探訪会第104回例会が、甲賀市水口町の水口岡山城・水口城跡と水口城下町を探訪地として、草津校びわこ環境学科と陶芸学科の合同担当により開催されました。今回は53名(43期21名、44期32名)の会員が参加しました。
近江鉄道水口城南駅に集合し、本日は3班に別れて巡りますので、3名のガイドさん(ブルージャケットの方々)にお世話になります。
以下、例会で訪れた水口城下町を説明します。城郭の探訪については、こちらをご覧ください。
水口岡山城は水口の市街地北側に位置する古城山(こじょうさん)(標高282m)という独立丘陵上に築かれた平山城です。現在は、城山とよばれ市民に親しまれています。
天正13年(1585年)、羽柴秀吉の命により、鈴鹿峠から蒲生一帯と眼の街道を一望できる甲賀郡支配の軍事・交通の要衝地に、中村一氏が城を築き、岸和田より入城しました。中村一氏は甲賀市甲賀町滝出身といわれています。眼下には東海道が東西に通っており、鈴鹿越えの道を押さえることを意識した当時の戦略がうかがえます。また、織豊政権下の築城としては、琵琶湖沿岸部以外の内陸部で初めて築城された城であり、羽柴政権下での地域の重要性もうかがえます。築城時に、平安時代の昔から、都から伊勢国へと通じる街道の要所である水口宿の原型をつくりました。
なお、中村一氏の後、天正18年(1590年)に増田長盛(ました ながもり)が、文禄4年(1595年)には長束正家と、五奉行を務めた2人が相次いで入城しています。
水口城下町
①水口神社: 最初に水口城南駅のすぐ近くの水口神社を訪問しました。平安時代の延喜式に記録されている式内社のひとつです。「水口」という名のとおり、一帯の開発にかかわって祀られた神社。江戸期には水口藩主加藤氏の庇護を請けました。例大祭は、毎年 4 月に行われる「水口曳山祭」です。特に曳山巡行は、享保年間(1716~35)に町の繁栄を願って始められ、いまも町民の力で守り継がれています。
曳山巡行は看板にあるように、以前は16基出されていたのですが、現在は曳き手が集まらず5基で行われ、先日(4/19~4/20)に祭りが実施されたばかりです。後に、ひと・まち街道交流館に立ち寄り曳山の実物を見学します。
水口城下町は以下の地図に従って巡りました。地図はクリックすると拡大します。
②蓮華寺: 宗派は真宗高田派で、開基は推古天皇23年(614)聖徳太子です。寺歴は享保9年(1724)再建されました。寺内に水口城御殿の玄関が移築されています(こちらで紹介しています)。
③旧水口図書館: 国の登録文化財建造物。ヴォーリズが設計した旧水口図書館は戦前における最盛期の作品の一つです。シンプルな中にも玄関は両脇にローマ風の円柱、上部は壁面を半円アーチ状にくぼめて書物と燭台の浮き彫りにし、玄関の上部には小さいバルコニーを配し、塔屋上のランタンなどがおかれ、「知の館」にふさわしいデザインが見られます。
③西追手(水口小学校正門前): 近世水口宿を描いた絵図には水口岡山城の山麓堀や三箇所の枡形虎口が描かれています。堀跡は水口小学校南側の水路(馬渡川)に比定できます。枡形虎口は、「西追手」が水口小学校正門付近、「大手」が次に説明する大岡寺(だいこうじ)門前付近、「東追手」が湯屋町(水口町元町)北側と推定されます。 三箇所の枡形虎口は等間隔に配置され、城下側にのびる道も等間隔で東海道と交差します。城下町とともに山麓部の堀や虎口が計画的に建設された状況をうかがわせます。
④大岡寺(だいこうじ): 滋賀県甲賀市水口町にある天台宗の寺が大岡寺。白鳳14年(686年)、行基が諸国行脚を行なった際に、大岡山の頂に千手観音立像を安置したのが始まりと伝えられる古刹です。本尊の千手観音立像は、岡観音と呼ばれ、厄除開運、家内安全、商売繁昌などにご利益があるとのことです。
⑤大徳寺: 元は禅宗の林慶寺と言いましたが天正16年(1588)水口岡山城主中村一氏が同寺を香花院と定め、小田原の大蓮寺の僧叡誉に寺の建造を依頼し、浄土宗に改め浄慶寺と号しました。その後、層叡誉が家康の幼児の学問の先生だったことから家康が来訪して寄附しました。家康は上洛の際に宿泊もし、慶長7年(1602)大徳寺と改めさせました。
大徳寺については、水口岡山城最後の城主長束正家に因んだ逸話があります。慶長5年(1600)9月30日、長束正家は日野で自害しました。享年39。水口落城のとき、臨月であった正家の妻、栄照院(本多忠勝の妹)は落ち延びて一男を産みましたが、産後の肥立ちが悪く、まもなく亡くなってしまいました。遺児は家臣山本浅右衛門によって育てられ、のち大徳寺二世岌誉和尚の弟子となり、岌閑と名乗り、寛永2年(1625)、大徳寺三世となっています。
⑥石橋: 江戸時代初期は、ここが「京口」とされていました。現在、水口岡山城跡の南側山麓には近世の水口宿の町並みが広がり、旧東海道が東西に通ります。水口宿のうち、近江鉄道水口石橋駅近くの写真の「石橋」以東が水口岡山城下町と考えられています。いわゆる紡錘形の「三筋町」です。
ここより西側は、水口城の築城にともなって発展しました。また、この石橋の下を流れる小川は、水口岡山城の堀から流れる「馬渡川」です。さらに、この川の東西で水口曳山祭のお囃子の曲調が異なります。
⑥三筋の辻 からくり人形時計: 午前9時・正午・午後3時・午後6時に動きます。上部旅人、左から芸者、下部からは女将が登場する宿場まちの旅籠のからくりです。三筋町の東西二ケ所にあります。
⑦ひと・まち街道交流館: 途中立ち寄って、ここの横に展示されている曳山の実物を見学しました。
⑧藤栄神社(ふじさかえじんじゃ): 「賤ケ岳の七本槍(やり)」に数えられる戦国武将で、水口藩祖の加藤嘉明(よしあき)公の霊を祭っています。樹齢二百年とも伝わるエドヒガンザクラの「嘉明(かめい)桜」は「かんめさんの桜」の呼び名で親しまれ、住民らが周囲の草を刈ったり、肥料を与えたりして守っています。
このあと、水口城の周囲を見学して、解散となりました。
最後に、今回の例会は、草津校びわこ環境学科と陶芸学科が協力して開催しました。天気は良かったのですが、予定されていた水口岡山城のバルーンを揚げるイベントが中止となるほど、風が強い日でした。しかし、無事に例会を終了でき、参加者は快い疲れを感じながら帰宅しました。例会の開催にご協力いただきました城郭探訪会の皆様に感謝いたします。
次回例会は、2023年5月11日(木)に、佐和山城跡の探訪が予定されています。 文責 岡島 敏広
近江鉄道水口城南駅に集合し、本日は3班に別れて巡りますので、3名のガイドさん(ブルージャケットの方々)にお世話になります。

以下、例会で訪れた水口城下町を説明します。城郭の探訪については、こちらをご覧ください。
水口岡山城は水口の市街地北側に位置する古城山(こじょうさん)(標高282m)という独立丘陵上に築かれた平山城です。現在は、城山とよばれ市民に親しまれています。

天正13年(1585年)、羽柴秀吉の命により、鈴鹿峠から蒲生一帯と眼の街道を一望できる甲賀郡支配の軍事・交通の要衝地に、中村一氏が城を築き、岸和田より入城しました。中村一氏は甲賀市甲賀町滝出身といわれています。眼下には東海道が東西に通っており、鈴鹿越えの道を押さえることを意識した当時の戦略がうかがえます。また、織豊政権下の築城としては、琵琶湖沿岸部以外の内陸部で初めて築城された城であり、羽柴政権下での地域の重要性もうかがえます。築城時に、平安時代の昔から、都から伊勢国へと通じる街道の要所である水口宿の原型をつくりました。
なお、中村一氏の後、天正18年(1590年)に増田長盛(ました ながもり)が、文禄4年(1595年)には長束正家と、五奉行を務めた2人が相次いで入城しています。

水口城下町
①水口神社: 最初に水口城南駅のすぐ近くの水口神社を訪問しました。平安時代の延喜式に記録されている式内社のひとつです。「水口」という名のとおり、一帯の開発にかかわって祀られた神社。江戸期には水口藩主加藤氏の庇護を請けました。例大祭は、毎年 4 月に行われる「水口曳山祭」です。特に曳山巡行は、享保年間(1716~35)に町の繁栄を願って始められ、いまも町民の力で守り継がれています。

曳山巡行は看板にあるように、以前は16基出されていたのですが、現在は曳き手が集まらず5基で行われ、先日(4/19~4/20)に祭りが実施されたばかりです。後に、ひと・まち街道交流館に立ち寄り曳山の実物を見学します。

水口城下町は以下の地図に従って巡りました。地図はクリックすると拡大します。

②蓮華寺: 宗派は真宗高田派で、開基は推古天皇23年(614)聖徳太子です。寺歴は享保9年(1724)再建されました。寺内に水口城御殿の玄関が移築されています(こちらで紹介しています)。

③旧水口図書館: 国の登録文化財建造物。ヴォーリズが設計した旧水口図書館は戦前における最盛期の作品の一つです。シンプルな中にも玄関は両脇にローマ風の円柱、上部は壁面を半円アーチ状にくぼめて書物と燭台の浮き彫りにし、玄関の上部には小さいバルコニーを配し、塔屋上のランタンなどがおかれ、「知の館」にふさわしいデザインが見られます。

③西追手(水口小学校正門前): 近世水口宿を描いた絵図には水口岡山城の山麓堀や三箇所の枡形虎口が描かれています。堀跡は水口小学校南側の水路(馬渡川)に比定できます。枡形虎口は、「西追手」が水口小学校正門付近、「大手」が次に説明する大岡寺(だいこうじ)門前付近、「東追手」が湯屋町(水口町元町)北側と推定されます。 三箇所の枡形虎口は等間隔に配置され、城下側にのびる道も等間隔で東海道と交差します。城下町とともに山麓部の堀や虎口が計画的に建設された状況をうかがわせます。

④大岡寺(だいこうじ): 滋賀県甲賀市水口町にある天台宗の寺が大岡寺。白鳳14年(686年)、行基が諸国行脚を行なった際に、大岡山の頂に千手観音立像を安置したのが始まりと伝えられる古刹です。本尊の千手観音立像は、岡観音と呼ばれ、厄除開運、家内安全、商売繁昌などにご利益があるとのことです。

⑤大徳寺: 元は禅宗の林慶寺と言いましたが天正16年(1588)水口岡山城主中村一氏が同寺を香花院と定め、小田原の大蓮寺の僧叡誉に寺の建造を依頼し、浄土宗に改め浄慶寺と号しました。その後、層叡誉が家康の幼児の学問の先生だったことから家康が来訪して寄附しました。家康は上洛の際に宿泊もし、慶長7年(1602)大徳寺と改めさせました。
大徳寺については、水口岡山城最後の城主長束正家に因んだ逸話があります。慶長5年(1600)9月30日、長束正家は日野で自害しました。享年39。水口落城のとき、臨月であった正家の妻、栄照院(本多忠勝の妹)は落ち延びて一男を産みましたが、産後の肥立ちが悪く、まもなく亡くなってしまいました。遺児は家臣山本浅右衛門によって育てられ、のち大徳寺二世岌誉和尚の弟子となり、岌閑と名乗り、寛永2年(1625)、大徳寺三世となっています。

⑥石橋: 江戸時代初期は、ここが「京口」とされていました。現在、水口岡山城跡の南側山麓には近世の水口宿の町並みが広がり、旧東海道が東西に通ります。水口宿のうち、近江鉄道水口石橋駅近くの写真の「石橋」以東が水口岡山城下町と考えられています。いわゆる紡錘形の「三筋町」です。
ここより西側は、水口城の築城にともなって発展しました。また、この石橋の下を流れる小川は、水口岡山城の堀から流れる「馬渡川」です。さらに、この川の東西で水口曳山祭のお囃子の曲調が異なります。

⑥三筋の辻 からくり人形時計: 午前9時・正午・午後3時・午後6時に動きます。上部旅人、左から芸者、下部からは女将が登場する宿場まちの旅籠のからくりです。三筋町の東西二ケ所にあります。

⑦ひと・まち街道交流館: 途中立ち寄って、ここの横に展示されている曳山の実物を見学しました。

⑧藤栄神社(ふじさかえじんじゃ): 「賤ケ岳の七本槍(やり)」に数えられる戦国武将で、水口藩祖の加藤嘉明(よしあき)公の霊を祭っています。樹齢二百年とも伝わるエドヒガンザクラの「嘉明(かめい)桜」は「かんめさんの桜」の呼び名で親しまれ、住民らが周囲の草を刈ったり、肥料を与えたりして守っています。

このあと、水口城の周囲を見学して、解散となりました。
最後に、今回の例会は、草津校びわこ環境学科と陶芸学科が協力して開催しました。天気は良かったのですが、予定されていた水口岡山城のバルーンを揚げるイベントが中止となるほど、風が強い日でした。しかし、無事に例会を終了でき、参加者は快い疲れを感じながら帰宅しました。例会の開催にご協力いただきました城郭探訪会の皆様に感謝いたします。
次回例会は、2023年5月11日(木)に、佐和山城跡の探訪が予定されています。 文責 岡島 敏広
2025年5月14日(水)城郭OB第90回例会「上野城趾・滝川城跡探訪と油日神社・櫟野寺拝観」(甲賀市)
2025年3月21日(金)城郭OB第88回例会日帰りバスツァー「岩村城跡と城下町」(岐阜県恵那市)
2025年2月27日(木)城郭OB第87回例会「北之庄城(岩崎山城)跡」(近江八幡市)
2024年12月5日(木)城郭OB第85回例会「佐和山城と大洞弁財天を巡る」
2024年11月14日(木)城郭OB第84回例会「近江日爪城址」
2024年10月18日(金)城郭OB第83回例会「金ヶ崎城址・金ヶ崎の退き口」(福井県)
2025年3月21日(金)城郭OB第88回例会日帰りバスツァー「岩村城跡と城下町」(岐阜県恵那市)
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joukaku
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