2022年10月27日
2022年10月25日(火) 地域文化学科選択講座「甲賀の城の見方、調べ方」
中井先生によるレイカディア大学地域文化学科選択講座の第2回目の校外学習です。甲賀地域の城は一村一城で非常にたくさんの城があります。本日は甲賀の5つの城をめぐります。
最初に甲南地域市民センター前駐車場に集合し、学生は車に乗り合わせて、まず村雨城に向かい出発しました。
村雨城
この一帯は国史跡となっています。甲賀の郡中惣(ぐんちゅうそう)武士は連合して「甲賀郡中惣」という組織を作り、地域を支配していました。村雨城はその城館の1つで、甲賀武士は近江守護六角氏の主力として活躍しましたが、元亀元年(1570年)に野洲川の戦いで敗北し、信長の配下に入りました。天正13年(1585年)には秀吉による甲賀ゆれによって、中村一氏が水口岡山城主となる一方で、城主は兵農分離により改易となりました。その結果、郡中惣は終焉を迎え、城主が城を放棄し地域に残らなかったことから、伝承が途絶え村雨城主は不明となったと考えられます。しかし、村雨城が寺前城に隣接し、敵対している様子はないことから、それぞれの城主の名字が同じの仲間(同名中)であったと考えられます。


寺前(じぜん)城
寺前城では、先生が向いている東側の土塁がなくなっていますが、これは戦前に崩したという話があることから、四方を土塁で囲まれていたことが分かります。


新宮支城
新宮城に比べ南の「支城」の方が大きいですが、新宮城が先に発見されたことから、こちらは新宮支城と命名されています。「甲賀郡中惣遺跡群」の一つとして谷を挟んで北側に位置する新宮城と並んだ、いわゆる「二城並立型」を形成して、連携して防衛体制を敷いていたと思われます。







水口城本丸の現状: 現在は滋賀県立水口高校のグラウンドになっています。



最初に甲南地域市民センター前駐車場に集合し、学生は車に乗り合わせて、まず村雨城に向かい出発しました。

村雨城
この一帯は国史跡となっています。甲賀の郡中惣(ぐんちゅうそう)武士は連合して「甲賀郡中惣」という組織を作り、地域を支配していました。村雨城はその城館の1つで、甲賀武士は近江守護六角氏の主力として活躍しましたが、元亀元年(1570年)に野洲川の戦いで敗北し、信長の配下に入りました。天正13年(1585年)には秀吉による甲賀ゆれによって、中村一氏が水口岡山城主となる一方で、城主は兵農分離により改易となりました。その結果、郡中惣は終焉を迎え、城主が城を放棄し地域に残らなかったことから、伝承が途絶え村雨城主は不明となったと考えられます。しかし、村雨城が寺前城に隣接し、敵対している様子はないことから、それぞれの城主の名字が同じの仲間(同名中)であったと考えられます。


寺前(じぜん)城
寺前城では、先生が向いている東側の土塁がなくなっていますが、これは戦前に崩したという話があることから、四方を土塁で囲まれていたことが分かります。

先生は城をやっていると、その「面白味にハマってしまう。」とおっしゃって、先人により工夫された城の仕掛けを説明するため、我々を背面の虎口に連れて行ってくださいました。
本来の城道は低く掘り下げて作られており、その突き当りが正式の虎口となっていますが、城道が低いことから、それを通ると、写真に写っている背後の虎口が見えません。背面の虎口から土橋を通り、攻めて来る敵の背後から攻撃出来るような構造になっています。伊予松山城の隠門と同様の発想です。
本来の城道は低く掘り下げて作られており、その突き当りが正式の虎口となっていますが、城道が低いことから、それを通ると、写真に写っている背後の虎口が見えません。背面の虎口から土橋を通り、攻めて来る敵の背後から攻撃出来るような構造になっています。伊予松山城の隠門と同様の発想です。

新宮支城
新宮城に比べ南の「支城」の方が大きいですが、新宮城が先に発見されたことから、こちらは新宮支城と命名されています。「甲賀郡中惣遺跡群」の一つとして谷を挟んで北側に位置する新宮城と並んだ、いわゆる「二城並立型」を形成して、連携して防衛体制を敷いていたと思われます。

新宮支城本丸です。城址の遺構はほぼ完存されており、内側一辺30m、外側一辺50mの方形で、虎口(東側)の方の土塁は低いのですが、写真に写る背面(西側)は高く約8mあります。おそらく、周囲の尾根の高さを考えると、堀切や本丸などを掘り込んだ土を一部積んでいるものと思われます。
この土塁は織田信長の近江侵攻に備えて築かれたものと考えられ、高く分厚い土塁で四周を囲み、両サイドを深い堀切で防御し、新時代の技術も取り入れた甲賀の城のひとつの到達点を示しています。
この土塁は織田信長の近江侵攻に備えて築かれたものと考えられ、高く分厚い土塁で四周を囲み、両サイドを深い堀切で防御し、新時代の技術も取り入れた甲賀の城のひとつの到達点を示しています。

土塁に登り下を見下ろすと、その高さがわかります。

新宮城
方形の本丸の前(東側)に平坦な2つの曲輪を連ね、本丸への進入路を屈曲させて、枡形状虎口を造っています。写真は三の丸から見たL字状に2回屈曲した二の丸の虎口を示しています。
方形の本丸の前(東側)に平坦な2つの曲輪を連ね、本丸への進入路を屈曲させて、枡形状虎口を造っています。写真は三の丸から見たL字状に2回屈曲した二の丸の虎口を示しています。

水口城
水口城は3代将軍徳川家光の上洛時の将軍宿泊用として寛永11年(1634)に築かれたお茶屋と呼ばれる宿館で、幕府直営で小堀遠州政一と中井大和守が作事にあたり、本丸と二の丸の二郭で構成されていました。本丸には京都の二条城を小型にしたような御殿、本丸の四隅には一重櫓が建てられていました。しかし、家光以降将軍の上洛はなく、明治維新後の廃藩置県を経て廃城となりました。明治7年(1874)には公売に付され、御殿は解体され、その玄関は市内の蓮華寺に移築されています。また、廃城後約1世紀の歳月を経て、再評価の声が高まり、昭和47年(1972)に城跡が県指定史跡となりました。
現在の水口城は、外桝形である出丸を利用して、そこに売却され文具店の建物となっていた旧乾櫓の部材が平成3年(1991)再移築され建てられました。本来出丸には番所しかなかったようですが、本来の場所とも姿も異なる存在しなかった二重櫓とした「復興乾櫓」です。水口城資料館として利用されています。
乾櫓の部材は水口城資料館の二階で見ることができます。
水口城は3代将軍徳川家光の上洛時の将軍宿泊用として寛永11年(1634)に築かれたお茶屋と呼ばれる宿館で、幕府直営で小堀遠州政一と中井大和守が作事にあたり、本丸と二の丸の二郭で構成されていました。本丸には京都の二条城を小型にしたような御殿、本丸の四隅には一重櫓が建てられていました。しかし、家光以降将軍の上洛はなく、明治維新後の廃藩置県を経て廃城となりました。明治7年(1874)には公売に付され、御殿は解体され、その玄関は市内の蓮華寺に移築されています。また、廃城後約1世紀の歳月を経て、再評価の声が高まり、昭和47年(1972)に城跡が県指定史跡となりました。

現在の水口城は、外桝形である出丸を利用して、そこに売却され文具店の建物となっていた旧乾櫓の部材が平成3年(1991)再移築され建てられました。本来出丸には番所しかなかったようですが、本来の場所とも姿も異なる存在しなかった二重櫓とした「復興乾櫓」です。水口城資料館として利用されています。
乾櫓の部材は水口城資料館の二階で見ることができます。

水口城ジオラマにあるように、本来は本丸の四隅には一重櫓が建てられていましたし、出丸には櫓がありませんでした。
水口城ジオラマ南側からの風景: 写真の大半は本丸で、杮葺きの本丸御殿が建てられていました。
水口城ジオラマ南側からの風景: 写真の大半は本丸で、杮葺きの本丸御殿が建てられていました。

水口城ジオラマ北東側からの風景: 現水口城入口になっている大手口は写真左で、搦手口は写真右

水口城本丸の現状: 現在は滋賀県立水口高校のグラウンドになっています。

水口城搦手口からの土橋: 土橋を渡って、本丸跡から二の丸跡(左の檜林)に向かって進んでいます。

この檜林になっている部分は二の丸で、水口に入封した加藤明友は、将軍の御殿の本丸に住むのは恐れ多いとこちらの二の丸に御殿を建てました。

乾櫓台: 廃城後は本丸の石垣は売却されて石が取り去られていますが、出丸と写真の乾櫓の石垣は残されています。ただし、写真の乾櫓石垣底部の布積み部分は元の石垣ですが、上部の落とし積となっている所は、取り去られた部分を明治になってから修復したものです。また、石垣の面が綺麗に整っていますが、これは積み上げられた後に、表面をノミではつって整えたもので、ノミの跡が見えます。ここに、水口城資料館の部材を用いた一重櫓が建てられていました。

2025年2月15日(土)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第2回「横山城跡」参加
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加
2024年12月10日(火)地域文化学科45期生校外学習 近江の江戸期の城「彦根城の見方、調べ方」
2024年3月16日(土)「近江の城郭~徳川家康と近江の城」姉川古戦場参加
2024年2月18日(日)「近江の城郭~徳川家康と近江の城」永原御殿参加
2023年7月20-22日レイカディア大学大学祭
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Posted by
joukaku
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