2023年03月08日
2023年3月7日(火)膳所城南大手門(鞭崎八幡宮表門)と矢橋港跡
レイカディア大学選択講座で午前の課題学習中間報告の後、午後は膳所城から移築された南大手門を見学するために、課題学習グループ"沙沙貴組"4名は、草津市矢橋町の鞭崎八幡宮を訪問しました。
膳所城の遺構については、本ブログの城郭についての記事と移築門についての記事にもまとめておりますので、ご覧ください。
膳所城は、徳川家康の命により、公式には、大津城に代えて京都の東の守りを固める目的で、天下普請によって築かれた城です。 築城の名手と謳われた藤堂高虎に最初につくらせた城で、日本三大湖城のひとつに数えられます。 慶長5年(1600)の京極高次の大津籠城戦の翌年に大津城は解体され、天守は彦根城へ、その他の部材は膳所に移され膳所城(下図)の築城が始まりました。
近江名所図屏風の膳所城部分 サントリー美術館蔵
築城を命じた徳川家康は、ここに三河以来の譜代大名戸田一西(かずあき)や
本多氏など譜代大名を城主として配置して、政治的役割を持たせました。
しかし、この膳所城は明治3年(1870)4月に藩主本多康穣が明治新政府に廃城を出願し、4月25日に許可され、取り壊されています。廃城の理由は、膳所城が湖中に突き出た水城であり、毎年莫大な修理費を要するうえに、近代の戦争にも役立たないというものでした。本丸から石垣まで、1,200円で売り払われたといわれています。
本論に入ります。本日の訪問の目的の移築城門の見学です。
鞭崎八幡宮表門表側: 表門は、明治4年の廃藩置県の際に膳所城から鞭崎八幡宮(膳所城から近江大橋を渡った対岸である草津市矢橋)へ移築されました。重要文化財に指定されています。昭和52年の屋根瓦吹き替え工事の際に、元は城の南大手門であったことが判明しました。太くて頑丈な木材が縦格子に組み立てられ、その上に板を平列に張り、さらにその上に鉄板を直角に縦方向に張ってあり、堂々とした威厳を漂わせています。
表門の右手には潜戸が設けられています。
表門裏側: 裏側から見ると高麗門であることがわかります。屋根は本柱通りに切妻を掛け、手前の控柱にはそれよりも低い切妻屋根をのせています。控柱は外八双に開きます。
屋根には膳所城主 本多家の家紋である立葵を飾った軒丸瓦や鬼瓦を飾っており、
柱、扉等要所に鉄板を鋲打するなど重厚堅固な意匠となっています。
鞭崎八幡宮の本殿: 祭神は、應神天皇、神功皇后、武内宿禰、住吉大神の四柱。奈良時代前期に大中清麻呂(おおなかのきよまろ)が創建したと伝えられています。元々「矢橋八幡宮」と呼ばれていましたが、昔、上洛途中の源頼朝が、この神社の森を鞭で指して名前を尋ねたことから、「鞭崎八幡宮」と呼ばれるようになったといわれます。
矢橋道: 折角、矢橋まできましたから、「急がば回れ」で有名な矢橋港を見るために矢橋道を歩きました。
街道に沿って矢橋集落の西端につきあたると、先ほどの鞭崎神社御旅所の祠があります。
その左脇を先に進むと矢橋港跡に到着します。
矢橋港は近江八景「矢橋帰帆」(やばせのきはん)で著名です(本ブログの一番下に示しています)。また、矢橋港からは、湖が荒れなければ、大津石場へと速く行ける渡し船が出て、「急がば回れ」(「急ぐときは唐橋を通りなさい」という意)という教訓でも有名になっています。
矢橋港跡には発掘調査で発見された3基の石積突堤などがあり、一帯が公園となっています。公園に残された遺構から想像するしかありませんが、下の絵図のように、琵琶湖に突き出した手前の2基の平行な石積突堤が、
矢橋渡口場(わたしば)
下写真の人のいる中央と右側に見えています。右側の突堤の根元には後に写真で示すように常夜灯があります。
上の絵図左側の港湾南端から湖岸に平行に築かれた石積突堤1基も残されています。
右側突堤根元の石垣の上には、弘化3年(1846)銘のある常夜灯が建てられており、大津石場津のものに比べ、細く華奢な常夜灯です。
写真の常夜灯は、下の浮世絵でも描かれていて、常夜灯の手前には松が描かれています。実際にも松が植えられていましたが、現在は枯れて切り倒されています。上の写真の電柱近くに切株がありました。浮世絵では常夜灯の周りに石垣がありませんから、江戸時代以降に石垣が築かれたものと思われます。
近江栗太郡志第3巻からの矢橋港の風景です。これは1926年発刊ですから、大正末期の写真と思われます。松の状態からすると、もう少し新しい時期(昭和初期?)と考えられる写真は別のブログでも見ることができます。
絵は、有名な歌川広重の浮世絵「近江八景之内 矢橋帰帆」です。大津石場津からこの矢橋港船着き場に、渡し船が帰港する情景が描かれています。
本日は短い時間を利用して、膳所城の遺構を1つ実地に確認できました。訪問を提案いただいたH.I.さん、「見に行こう」と同意いただいた沙沙貴組の皆様ありがとうございました。 文責 岡島

膳所城の遺構については、本ブログの城郭についての記事と移築門についての記事にもまとめておりますので、ご覧ください。
膳所城は、徳川家康の命により、公式には、大津城に代えて京都の東の守りを固める目的で、天下普請によって築かれた城です。 築城の名手と謳われた藤堂高虎に最初につくらせた城で、日本三大湖城のひとつに数えられます。 慶長5年(1600)の京極高次の大津籠城戦の翌年に大津城は解体され、天守は彦根城へ、その他の部材は膳所に移され膳所城(下図)の築城が始まりました。
近江名所図屏風の膳所城部分 サントリー美術館蔵

築城を命じた徳川家康は、ここに三河以来の譜代大名戸田一西(かずあき)や

本多氏など譜代大名を城主として配置して、政治的役割を持たせました。
しかし、この膳所城は明治3年(1870)4月に藩主本多康穣が明治新政府に廃城を出願し、4月25日に許可され、取り壊されています。廃城の理由は、膳所城が湖中に突き出た水城であり、毎年莫大な修理費を要するうえに、近代の戦争にも役立たないというものでした。本丸から石垣まで、1,200円で売り払われたといわれています。
本論に入ります。本日の訪問の目的の移築城門の見学です。
鞭崎八幡宮表門表側: 表門は、明治4年の廃藩置県の際に膳所城から鞭崎八幡宮(膳所城から近江大橋を渡った対岸である草津市矢橋)へ移築されました。重要文化財に指定されています。昭和52年の屋根瓦吹き替え工事の際に、元は城の南大手門であったことが判明しました。太くて頑丈な木材が縦格子に組み立てられ、その上に板を平列に張り、さらにその上に鉄板を直角に縦方向に張ってあり、堂々とした威厳を漂わせています。

表門の右手には潜戸が設けられています。

表門裏側: 裏側から見ると高麗門であることがわかります。屋根は本柱通りに切妻を掛け、手前の控柱にはそれよりも低い切妻屋根をのせています。控柱は外八双に開きます。

屋根には膳所城主 本多家の家紋である立葵を飾った軒丸瓦や鬼瓦を飾っており、

柱、扉等要所に鉄板を鋲打するなど重厚堅固な意匠となっています。

鞭崎八幡宮の本殿: 祭神は、應神天皇、神功皇后、武内宿禰、住吉大神の四柱。奈良時代前期に大中清麻呂(おおなかのきよまろ)が創建したと伝えられています。元々「矢橋八幡宮」と呼ばれていましたが、昔、上洛途中の源頼朝が、この神社の森を鞭で指して名前を尋ねたことから、「鞭崎八幡宮」と呼ばれるようになったといわれます。

矢橋道: 折角、矢橋まできましたから、「急がば回れ」で有名な矢橋港を見るために矢橋道を歩きました。

街道に沿って矢橋集落の西端につきあたると、先ほどの鞭崎神社御旅所の祠があります。

その左脇を先に進むと矢橋港跡に到着します。
矢橋港は近江八景「矢橋帰帆」(やばせのきはん)で著名です(本ブログの一番下に示しています)。また、矢橋港からは、湖が荒れなければ、大津石場へと速く行ける渡し船が出て、「急がば回れ」(「急ぐときは唐橋を通りなさい」という意)という教訓でも有名になっています。

矢橋港跡には発掘調査で発見された3基の石積突堤などがあり、一帯が公園となっています。公園に残された遺構から想像するしかありませんが、下の絵図のように、琵琶湖に突き出した手前の2基の平行な石積突堤が、
矢橋渡口場(わたしば)

下写真の人のいる中央と右側に見えています。右側の突堤の根元には後に写真で示すように常夜灯があります。

上の絵図左側の港湾南端から湖岸に平行に築かれた石積突堤1基も残されています。

右側突堤根元の石垣の上には、弘化3年(1846)銘のある常夜灯が建てられており、大津石場津のものに比べ、細く華奢な常夜灯です。

写真の常夜灯は、下の浮世絵でも描かれていて、常夜灯の手前には松が描かれています。実際にも松が植えられていましたが、現在は枯れて切り倒されています。上の写真の電柱近くに切株がありました。浮世絵では常夜灯の周りに石垣がありませんから、江戸時代以降に石垣が築かれたものと思われます。

近江栗太郡志第3巻からの矢橋港の風景です。これは1926年発刊ですから、大正末期の写真と思われます。松の状態からすると、もう少し新しい時期(昭和初期?)と考えられる写真は別のブログでも見ることができます。

絵は、有名な歌川広重の浮世絵「近江八景之内 矢橋帰帆」です。大津石場津からこの矢橋港船着き場に、渡し船が帰港する情景が描かれています。

本日は短い時間を利用して、膳所城の遺構を1つ実地に確認できました。訪問を提案いただいたH.I.さん、「見に行こう」と同意いただいた沙沙貴組の皆様ありがとうございました。 文責 岡島
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2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)
2023年4月18日(火)佐和山城下町(琵琶湖側)
2023年4月18日(火)彦根城下町
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院
2023年3月28日(火)観音寺城下町石寺と沙沙貴神社
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Posted by
joukaku
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17:58
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