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2023年04月20日

2023年4月18日(火)彦根城下町

本日は、レイカディア大学の課題学習で7回目の校外活動となります。
彦根城下町の情報収集のため、城下町を学ぶ課題学習グループ"沙沙貴組"4名、プラス特別参加のK.Y.さん計5名は、彦根城下町を巡りました。
なお、彦根城については、既にレイカディア大学の校外学習として訪問しており、講師の中井均先生から説明を受けております。その内容につきましては、次のリンク先をご覧ください。

JR彦根駅からスタートです。
2023年4月18日(火)彦根城下町

彦根城は、井伊直政の
2023年4月18日(火)彦根城下町

正室の子である井伊直継により築城されました。
しかし、徳川家康と秀忠は、その直継(後の直勝)の柔和な性格を危惧し、母と共に安中(群馬県安中市)移封し、直政と侍女の子である井伊直孝(下図)に藩主交代させて2代目としています。
2023年4月18日(火)彦根城下町

本日のコースは「彦根城下町古地図」に従い、オレンジ色の矢印の通りに巡りました。地図はクリックにより拡大します。彦根の城下町は、三重の堀によって4つに区画されています。現在の地図で確認する場合は、こちら
2023年4月18日(火)彦根城下町

第一郭: 内堀の内側で、天守を中心として各櫓に囲まれた丘陵部分と、藩庁である表御殿などからなっています。本日は、こちらは訪問しません。

第二郭: 内堀と中堀に囲まれ、藩主下屋敷の槻御殿(現在の名勝玄宮楽々園)、作事所や細工所等の藩の施設、家老など千石以上の重臣の邸宅が広がり、さらに江戸時代後期には藩校も設けられ、内曲輪と称し、城下と別格の扱いを受ける範囲です。

①いろは松: 第二郭に向かう中堀の沿道の松並木がそのように呼ばれており、冬であっても緑を保つ松は縁起が良く、参勤交代から帰郷した藩主を佐和口で出迎えるために植えられました。"47"本あったので、その最初の3文字「いろは」からこの名が付けられました。現在34本(補植12本)残り、当時の面影が偲ばれます。
2023年4月18日(火)彦根城下町

②筆頭家老木俣土佐(10000石)の屋敷で、藩主が参勤交代から馬に乗って、いろは松の横を通って戻ると、まずこの屋敷で休憩をとり、表御殿に入ったそうです。逆に、参勤交代に出る時は藩主は船に乗って松原内湖から米原まで行き、そこから中山道を進みました。その謂れは、慶長19年(1614)の大坂冬の陣に藩主井伊直継の代わりに出陣した弟直孝は、彦根に凱旋した際、藩主をはばかり、当時天守横にあった御殿には入らず、木俣家(山崎郭/山崎曲輪)に寄宿しました。大坂の陣後、木俣家は彦根城郭の改造に伴い、ここ佐和口櫓際に屋敷地を拝領し居を移しましたが、直孝は、以後も国入りの際、木俣家に立ち寄ってから御殿に入りました。以後、このコースを吉例として、歴代藩主によっても廃藩まで続けられたのです。
ちなみに、井伊直政が関ケ原の傷で亡くなったときに嫡子直継〔なおつぐ〕は若年で、木俣土佐守守勝〔きまたとさのかみもりかつ〕は直政より後事を託されました。そのとき、直政の遺言は佐和山から磯山への城の移築でしたが、その移築計画を駿府に出向いて徳川家康にはかり、許可を得て慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2キロメートルのここ彦根山において、築城工事を始めた人物が木俣土佐守守勝です。
2023年4月18日(火)彦根城下町

③脇屋敷長屋門: 二の丸駐車場と彦根東高校の間に、家老脇家(2000石)のなまこ壁長屋門の一部が残されています。桁行8.5間、梁間3間(北端部は2.5間)、南妻面が入母屋造り、北妻面が切妻造りです。外壁の西面はなまこ壁、北妻面は後に改修された窓や玄関をつけ、南妻面は縁を張出し、東背面には縁と玄関(南端)をつけ、さらに切妻瓦葺の簡単な付属屋(南北両端)を接続した立派なものです。この北妻面の現状からみて、門を設けた大規模な長屋門であったと推定されています。
2023年4月18日(火)彦根城下町

④西郷屋敷長屋門: 写真は旧西郷(6000石)屋敷長屋門で、この裏は大津地方裁判所になっています。この屋敷の正面に長野主膳邸がありましたが、現在は彦根東高校(一中)になっています。
ここまでの内堀と中堀との間は先の木俣土佐(10000石)や脇(2000石)を含む重臣の屋敷地です。
2023年4月18日(火)彦根城下町

第三郭: 中堀と外堀の間で、中級身分の武家屋敷と町人の屋敷地や寺院が存在しています。武士・町人あわせて居住していますが、居住地は明確に区分され、堀に面した要所は武家屋敷と寺院で占められ、町人の居住区の大半はその内側に広がっていました。外堀側で広い敷地を有する寺院は、一朝事ある時は軍事的役割も担っており、武家屋敷とともに外堀の防衛線を形成していました。一方、町人の居住区では、鳥居本側の佐和山城下「本町」が彦根城の城下町建設にあたって「本町」の名を残したまま京橋口から伸びる道の両側に移住させられ、本町が城下町割の基点となりました。現在この本町は夢京橋キャッスルロードと呼ばれています。
まず、内町四町[本町、四十九町(犬上郡四十九院村・豊郷町より移住)、上下魚屋町(JR彦根駅辺りにあった古沢魚屋町から移住。下魚屋町も彦根城建設前は彦根村村域でした。敦賀、小浜、伊勢から魚を仕入れていました)、佐和町(沢町と記される場合もあり、現在の佐和町とは異なり大半が現在の立花町の位置にありました。佐和山城下町においては千代宮が鎮座していた姫袋付近を佐和町と称し、そこの住人を移しました)]が成立し、これらが彦根四手親町の元となりました(手とは、方面の意味。親町は彦根城下の町人町を統括します。)。その後、魚屋町と佐和町は、彦根城の外堀の外で、城外に位置する川原町(現彦根市銀座町など)と彦根町(現彦根市佐和町など)に、親町の地位を譲りました。
その他、石ケ崎町(佐和山の清凉寺前は石ケ崎町と呼ばれ、鍛冶屋が多く、それを移しました)、元川町(城下建設以前の地名)、連着町(高崎城下の連雀町から移住)ように移住させたり、油屋町、桶屋町、職人町など、職業による分化配置が見られ、築城当初、特定の職能集団を集住させました。

⑤夢京橋キャッスルロード(旧京橋通): 佐和山城下「本町」の住民をこの道沿いに移しました。
2023年4月18日(火)彦根城下町

下本町上野家住宅: 上階正面は中央二間を格子窓とし、両脇間を鼠漆喰塗として東間に虫籠窓を穿ち、両端に袖卯建(そでうだつ)を設けています。旧道の突当りにあって特徴的な景観をつくっています。
2023年4月18日(火)彦根城下町

腹痛石(連着町): 彦根城が築城される以前、彦根山には彦根寺という古刹がありました。参拝者が彦根山に登る前に、道中に背負っていた連着を解く場所があったため、現在も「連着町」という名前が残っています。往時は連着を解く際に腰掛石として使われたであろうこの石も、いつの間にか、さわると腹が痛くなる「腹痛石」と言われるようになりました。
2023年4月18日(火)彦根城下町

⑧下魚屋町の広田家住宅「納屋七」: 背面突出部の鬼瓦に安永7年(1778)の刻銘があることから、そのころに建築されたと推測されます。江戸時代には「納屋七」の屋号で知られ、魚市場の権利を一手に持っていたと言われています。建物は、町名のごとく魚屋と魚料理屋が集中して居住していた旧下魚屋町の西端に位置しています。魚屋町は、下魚屋町、中魚屋町(職人町ともいわれます)、上魚屋町と続いて、夢京橋キャッスルロード(旧京橋通)に達するまですべて町人の町でした。
2023年4月18日(火)彦根城下町

⑧細川家住宅: 彦根城下町で数棟しか残っていない本卯建(ほんうだつ)のある町屋です。
2023年4月18日(火)彦根城下町

⑨下魚屋町長屋
2023年4月18日(火)彦根城下町

➉明性寺(みょうしょうじ): 朝鮮通信使が江戸時代を通じ10 回、多い時で総勢400 人ほどの使節が彦根城下のここ明性寺や下に記述する宗安寺などいくつかの寺社に滞在しました。
2023年4月18日(火)彦根城下町

⑪上魚屋町奥野家住宅: 江戸時代は郷宿を、明治時代から昭和30年ごろにかけて醤油の製造販売業を営んでいました。安政2年(1855年)の「普請見舞帳」からこの年に建築されたものと考えられています。
2023年4月18日(火)彦根城下町

宗安寺山門: 初代藩主直政が上野国から移した浄土宗のお寺で、朱塗りの門があることから「赤門」 と呼ばれる山門が目印です。これは、佐和山城大手門の移築と伝えられています。
2023年4月18日(火)彦根城下町

⑫宗安寺本堂: 羽柴秀吉の居城『長浜城御殿』を移築し、改造したものです。
2023年4月18日(火)彦根城下町

⑫宗安寺鬼瓦: 『長浜城御殿』を移築し、それに載せられていたものを降ろしたものです。
2023年4月18日(火)彦根城下町

第四郭: 外町と呼ばれ、 川原町(河原町、善利川付替え前の川沿いの土地)、彦根町(築城前の彦根村であった位置)を元としました。他に江戸町(移住者の先住地)、内外舩町(船着き場近くの町)などがあります。外堀の外側には、町人の住居と足軽の組屋敷が配置され、家老の広大な下屋敷が置かれました。彦根藩の足軽は、下組(中藪組、池須町組)、善利組、上組(大雲寺組)、北組(切通組)、中組、鐘叩町で構成されていました。足軽組屋敷は、外堀の外側に、城下を取り囲むように屋敷を連ねて、彦根城と城下町を守備する役割も担っていました。

旧彦根藩足軽組辻番所(善利組):善利組・旧磯島家住宅は、旧芹橋12丁目の中央、中辻通りと交差する北西隅に位置し、その前庭の南端には、見張り窓を設けた辻番所と称する建造物が存在します。ここを含め、近くには5つの足軽屋敷がありました。
2023年4月18日(火)彦根城下町

高宮口御門跡: 彦根城の外堀には7つの口(切通口、油懸口、高宮口、池洲口、中薮口、長曽根口、松原口の城門)が開き、通行人の監視が行われていました。高宮口御門は、中山道の高宮方面から彦根城下に入る「彦根道」に通じるとともに、朝鮮人街道にもつながる重要な口でした。
2023年4月18日(火)彦根城下町

外堀土塁跡: 外堀土塁の規模は、高さは内側約5.5m、外側約6~7m、台形の上部の幅約4m、基底幅約18m、堀の幅は約16m。山ノ湯裏手土塁と呼ばれ、土塁に石が散在していますが、これは城のものではなく、すぐ横にある古い銭湯「山の湯」の庭石のようです。
2023年4月18日(火)彦根城下町

⑯千代神社: 天宇受売命(あめのうずめのみこと)・猿田彦命を祭神としています。天宇受売命は芸能の神様として知られ、現在は、有名俳優や芸能関係の人々が訪れ芸の上達を祈願してゆかれます。
元々は千代宮と呼ばれ佐和山の麓の姫袋(古沢村南部)に鎮座していましたが、石田三成が佐和山城築城時に「見下ろすのは失礼にあたる」と彦根山の東の尾末山麓に移されました。しかし、彦根城築城時に元の場所に戻されました。さらにその後佐和山の麓のセメント公害を避けるため旧社地をセメント工場に提供し、昭和41年(1966年)に元大橋氏の屋敷に解体移築され現在に至ります。
2023年4月18日(火)彦根城下町

セメント公害を避けて移転する前の千代神社(新修彦根市史第11巻より)
2023年4月18日(火)彦根城下町

⑰妙源寺: 1592年創建と伝えられており、山門は、石碑など何も謂れを示すものはありませんでしたが、佐和山城法華丸から移された城門であったという伝承があります(また、寺そのものも法華丸から移転し、改築前の本堂と庫裏は、三成の佐和山御殿を移築したとも言われていました)。
2023年4月18日(火)彦根城下町

その後調査していましたら、以下のように、以前は妙源寺の由来が記載された立て看板があったようで、門の柱には多くの矢穴痕が残っています。
2023年4月18日(火)彦根城下町

本日の彦根城下町散策はここまでで、この後、天候が怪しかったことから、佐和山城下町も引き続き一気に巡りました。午前に加えて、午後にも少し延長し、続けてたくさん歩いて、お腹もすきましたので、沙沙貴組4名は、ファミリーレストランでお腹を満たしつつ、反省会にて楽しく喉を潤しました。
今回は城郭探訪会例会の下見でもあります。本番は8月20日に予定されています。                文責 岡島敏広

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