2024年03月28日
2024年3月26日(火)佐々木京極家の菩提寺「霊通山清瀧寺徳源院」訪問
個人旅行で、京極家の菩提寺である「清瀧寺徳源院」(せいりゅうじとくげんいん)を訪問しました。
清瀧寺徳源院は、江戸時代に若狭国の小浜藩をはじめ松江藩・龍野藩・丸亀藩などの城主を務めた大名・京極家の菩提寺です。現在、徳源院には城址碑、京極家累代墓所や道誉手植えとされる桜があります。
寺院は京極家初代氏信による草創(1286)で、寺号も氏信の法号の「清瀧寺殿道善大禅定門」から称したものです。また、江戸時代の京極家第21代高和(たかかず)の代に讃岐の丸亀に転封されましたが、その子第22代高豊(下の肖像画)が寛文12年(1672)に領地の一部とここの地を交換して、寺の復興をはかり、院号も父で初代丸亀藩主・京極高和の院号(徳源院殿恃英遺達大居士)から徳源院と改めました。
このときに近隣に散在していた歴代の宝篋印塔を徳源院に集めたものが、現在の京極家の墓所です。
徳源院の付近(院の南北)には、西念寺(第2代宗綱)、能仁寺(第7代高詮)、勝願寺(第8代高光)といった歴代の菩提寺伝承地が存在し、この清瀧の地が京極家当主の墓地でした。なお、能仁寺の伝承地は発掘調査で確認されており、徳源院の南に隣接する”ノネジダニ”と呼ばれる小谷に位置しています。
第22代京極高豊(第2代丸亀藩主)
ところで、京極氏信は菩提寺清瀧寺(徳源院)を建立と同時に、柏原城(下左写真)を居館とし、清瀧山の山頂に詰城の清瀧山砦を築きました。柏原城については、築城年代や築城者については定かでありません。鎌倉時代初頭に柏原地頭であった柏原弥三郎為永が居城していましたが、正治2年(1200)に後鳥羽院により討伐の命が下され、佐々木信綱によって討伐されました。その賞与として柏原弥三郎為永の柏原城と領地が信綱に給付されました。
今回話題としております「京極氏」は、鎌倉時代以後に近江国を治めていた佐々木氏をルーツに持つ家系で、佐々木信綱から分かれた分家の一つです。信綱の四男で京極氏の初代・氏信は京極高辻に屋敷を構え、京極氏を称し、北近江6郡を与えられ、柏原城も相続して京極佐々木氏の居城となりました。しかし、弘安6年(1283)に近江守に任命された氏信は居城を太平寺城へ移し、弘安9年(1286)に当地に京極氏の菩提寺として「清瀧寺」(下右写真)を建立しました。現在も城址には「清瀧寺」が残っております。
柏原(かしわばら)城跡碑 京極家墓所碑


徳源院への参道は、天台寺院の配置をそのまま残しており、徳源院の一般車用駐車場(成就坊跡)から直線状の参道を山(西)の方に徒歩で上ってゆきます。この参道の両側には、12の僧坊があったといわれています(十二坊跡)。
この時期、花はまだでしたが、直線状の参道はソメイヨシノの桜並木となっています。
徳源院の表門まで来ました。
三代目道誉桜: 有名な道誉桜が2本植えられていました。こちらは三代目で昭和52年(1977)に植えられたものです。
「道誉桜」(写真左)とは、朝廷などの伝統的な権威を恐れず、傍若無人で驕奢(きょうしゃ)で、派手好みの振る舞いにより「ばさら大名」という異名を持った京極(佐々木)高氏(道誉)公(1296-1373)のお手植えと伝えられることから、この名があります。
巨大な枝垂れ桜(糸桜)で、エゾヒガンザクラの一種です。また、三重塔(写真右)は江戸時代に第2代丸亀藩主となった第22代京極高豊が寛文12年(1672)建立したもので、滋賀県指定文化財、塔高15.52m、一辺3.03m、柿葺(こけらぶき)です。
二代目道誉桜(樹齢約360年) 三重塔(塔の左は三代目道誉桜)

三重塔内の如意輪観世音菩薩(パンフレットより): 本尊は如意輪観音菩薩像、右脇に地蔵菩薩立像、左脇に毘沙門天立像を置きます。
2024年桜のライトアップ: 昨年三重塔の修復が完了しそれを記念して、3月28日~4月27日の間、道誉桜がライトアップされる予定です。
徳源院庫裏庭園: 滋賀県指定名勝となっている池泉回遊式庭園は清瀧山の借景を取り入れており、小堀遠州の作庭と伝わります。以前は、名の通り池の周囲を巡ることができたそうですが、苔が傷むので庭に下りるのを止め、現在は庫裏縁側から鑑賞する形になります。今の時期、池の周囲のモミジは葉を落としていますが、秋には紅葉の美しい名所として、徳源院の案内写真で紹介されています。
ちなみに、丸亀にある大名庭園「中津万象園」も京極高豊の命により造られたもので、京極氏のルーツである近江八景を表現した庭園とのことです。
ご住職のお話では、天台宗の徳源院は檀家を持たず、京極家も檀家ではないことから、収入は拝観料のみとのことです。したがって、この庭の手入れも筆者の出身のレイカディア大学卒のボランティアに手伝ってもらい行っているのだそうです。
庭園から見える京極家墓所: 庭園の端に見える漆喰の白塀の向こうは墓所です。4つの屋根が見えますが京極家20~23代(20代松江藩、21~23代丸亀藩)当主の墓所です。
幽霊画(清水節堂 1876-1951)と不動明王像(写真左): 右上の幽霊画は京極家にはゆかりのないものですが、個人蔵であったものが保管されています。幽霊の身長は約180㎝と以外に大きく、等身大の迫力があります。通常展示されるものではなく、これまで年に1度、秋に4日間だけ開催される『寺宝展』で公開されてきたようです。この絵はその世界では傑作といわれながらも、作者がわからないままでしたが、長浜市大路町出身の画家「清水節堂」によるものとが判明しました。清水節堂は東京芸術大学の前身の東京美術学校に入学しますが、貧困のため1年を経ずに退学しました。しかし、その後も同校の教官の下で研鑚します。山水画・人物画・仏画など多彩な作品が残されています。生活のために描きたいものを描けなかった節堂は縁起物など注文品を描くことが中心で、この幽霊画は自発的に描いた渾身の作品といえます。「描表装(かきびょうそう)」といわれる表装(掛け軸の縁)を絵画の中に描く技法を用い、風になびく表装に幽霊を重ね、幽霊がいまにも掛け軸から抜け出してくるかのような構図となっています。
写真の中心にあるのは不動明王です。
本尊を納める厨子(写真右): 金色燦然の荘厳に豪華なお厨子が須弥壇を飾っています。本尊は参道沿いの廃坊になった十二坊の本尊、秘仏の聖観世音菩薩(恵心僧都作)をお祀りしております。
不動明王(本堂内) 本堂内陣の須弥壇と厨子(本堂内)

京極初(左: 常高寺所蔵)と京極高次公(右: 徳源院所蔵)の肖像: 以前には、京極高次公の肖像画の原本が展示されていたようです。
位牌堂内: 本堂の更に奥へと渡り廊下を進むと歴代の当主の位牌が祀られた位牌堂です。京極氏代々の位牌を祀る所で、京極高次公、高豊公のほか、諸公の像六座と位牌が祀られています。
中央の観音菩薩立像の左に大きな第19代京極高次公像がありますが、ご住職のお話では、この当時、当主の場合は生前に絵師により肖像画が描かれて、本人によりその肖像画が似ているかどうかの判断が下されます。そして、本人の死後、その肖像画に基づいて位牌の代わりに木像が作成されたのだそうです。したがって、例えば、京極高次公の場合には、木像が位牌であって、私たちが思うような戒名を書いた位牌はないのだそうです。
また、手前に見える白っぽい(白装束)2人の木像は、松江城主であった京極忠高が亡くなったとき、切腹した殉死者井上門三郎重継(24才、左)と加納又左衛門(62才、右)の像で、これらの方々の死後、武家諸法度により殉死が禁じられました。
位牌堂でのご住職の説明: ご住職は庭園を説明いただいたときに、京極家と血は繋がっていませんが、寺を守るお役割を与えられているとのお話でした。本日は、たった2名の訪問でしたが、それにもかかわらず親切に徳源院について、ご説明いただきました。右に明るく見えるのは本堂へ至る渡り廊下。
京極家墓所: 墓所は築地塀で囲まれ、山の斜面に上下二段の墓地が形作られています。京極家歴代の宝篋印塔(墓)が立ち並んでおり、全域が「清瀧寺京極家墓所」として国指定史跡となっております。
京極家は戦国時代を経る中で、近江ではない各国の大名となりましたが、江戸時代初期に京極家第22代であり、丸亀藩第2代藩主となった京極高豊がこの寺院を再興し、各地に散らばっていた歴代当主の宝篋印塔を集めて整備しました。ご住職のお話では、周辺の宝篋印塔を集めるときに、内容を確認せずに集めたことから、後から墓碑を確認すると当主でない人のものもあり(下の「京極家墓所略図」で数字が示されていない人の墓)、また、歴代の順番でない並びになっています。
写真上方に見える宝篋印塔は二段のうち上段の墓地に並ぶものです。
墓所では、京極家中興の祖である大津城主第19代京極高次(父高吉は浅井氏に権力を奪われていた)の越前より運ばれた笏谷石製石廟の傷みが激しく、その修復工事中で立ち入ることができません。今後、1年以上は修復工事が継続するそうでしたので、本堂内に掲載されていた写真を示しました(掲載の写真は墓所の上段のもので、上記のように、高吉の宝篋印塔はひと回りもふた回りも小さい)。墓所を詳しくレポートされている別の方のブログのリンクを示します。
上段には始祖 氏信をはじめ18世に及ぶ歴代の墓18基が並び、
下段には大津城主高次が石廟に入っており、そのほか、木廟内の4基を含め14基と五輪塔3基があります。
なお、ご住職が不在のことがあり、拝観希望は事前に電話による予約が必要です。
清瀧寺徳源院は、江戸時代に若狭国の小浜藩をはじめ松江藩・龍野藩・丸亀藩などの城主を務めた大名・京極家の菩提寺です。現在、徳源院には城址碑、京極家累代墓所や道誉手植えとされる桜があります。
寺院は京極家初代氏信による草創(1286)で、寺号も氏信の法号の「清瀧寺殿道善大禅定門」から称したものです。また、江戸時代の京極家第21代高和(たかかず)の代に讃岐の丸亀に転封されましたが、その子第22代高豊(下の肖像画)が寛文12年(1672)に領地の一部とここの地を交換して、寺の復興をはかり、院号も父で初代丸亀藩主・京極高和の院号(徳源院殿恃英遺達大居士)から徳源院と改めました。
このときに近隣に散在していた歴代の宝篋印塔を徳源院に集めたものが、現在の京極家の墓所です。
徳源院の付近(院の南北)には、西念寺(第2代宗綱)、能仁寺(第7代高詮)、勝願寺(第8代高光)といった歴代の菩提寺伝承地が存在し、この清瀧の地が京極家当主の墓地でした。なお、能仁寺の伝承地は発掘調査で確認されており、徳源院の南に隣接する”ノネジダニ”と呼ばれる小谷に位置しています。
第22代京極高豊(第2代丸亀藩主)

ところで、京極氏信は菩提寺清瀧寺(徳源院)を建立と同時に、柏原城(下左写真)を居館とし、清瀧山の山頂に詰城の清瀧山砦を築きました。柏原城については、築城年代や築城者については定かでありません。鎌倉時代初頭に柏原地頭であった柏原弥三郎為永が居城していましたが、正治2年(1200)に後鳥羽院により討伐の命が下され、佐々木信綱によって討伐されました。その賞与として柏原弥三郎為永の柏原城と領地が信綱に給付されました。
今回話題としております「京極氏」は、鎌倉時代以後に近江国を治めていた佐々木氏をルーツに持つ家系で、佐々木信綱から分かれた分家の一つです。信綱の四男で京極氏の初代・氏信は京極高辻に屋敷を構え、京極氏を称し、北近江6郡を与えられ、柏原城も相続して京極佐々木氏の居城となりました。しかし、弘安6年(1283)に近江守に任命された氏信は居城を太平寺城へ移し、弘安9年(1286)に当地に京極氏の菩提寺として「清瀧寺」(下右写真)を建立しました。現在も城址には「清瀧寺」が残っております。
柏原(かしわばら)城跡碑 京極家墓所碑


徳源院への参道は、天台寺院の配置をそのまま残しており、徳源院の一般車用駐車場(成就坊跡)から直線状の参道を山(西)の方に徒歩で上ってゆきます。この参道の両側には、12の僧坊があったといわれています(十二坊跡)。
この時期、花はまだでしたが、直線状の参道はソメイヨシノの桜並木となっています。

徳源院の表門まで来ました。

三代目道誉桜: 有名な道誉桜が2本植えられていました。こちらは三代目で昭和52年(1977)に植えられたものです。

「道誉桜」(写真左)とは、朝廷などの伝統的な権威を恐れず、傍若無人で驕奢(きょうしゃ)で、派手好みの振る舞いにより「ばさら大名」という異名を持った京極(佐々木)高氏(道誉)公(1296-1373)のお手植えと伝えられることから、この名があります。
巨大な枝垂れ桜(糸桜)で、エゾヒガンザクラの一種です。また、三重塔(写真右)は江戸時代に第2代丸亀藩主となった第22代京極高豊が寛文12年(1672)建立したもので、滋賀県指定文化財、塔高15.52m、一辺3.03m、柿葺(こけらぶき)です。
二代目道誉桜(樹齢約360年) 三重塔(塔の左は三代目道誉桜)


三重塔内の如意輪観世音菩薩(パンフレットより): 本尊は如意輪観音菩薩像、右脇に地蔵菩薩立像、左脇に毘沙門天立像を置きます。

2024年桜のライトアップ: 昨年三重塔の修復が完了しそれを記念して、3月28日~4月27日の間、道誉桜がライトアップされる予定です。

徳源院庫裏庭園: 滋賀県指定名勝となっている池泉回遊式庭園は清瀧山の借景を取り入れており、小堀遠州の作庭と伝わります。以前は、名の通り池の周囲を巡ることができたそうですが、苔が傷むので庭に下りるのを止め、現在は庫裏縁側から鑑賞する形になります。今の時期、池の周囲のモミジは葉を落としていますが、秋には紅葉の美しい名所として、徳源院の案内写真で紹介されています。
ちなみに、丸亀にある大名庭園「中津万象園」も京極高豊の命により造られたもので、京極氏のルーツである近江八景を表現した庭園とのことです。
ご住職のお話では、天台宗の徳源院は檀家を持たず、京極家も檀家ではないことから、収入は拝観料のみとのことです。したがって、この庭の手入れも筆者の出身のレイカディア大学卒のボランティアに手伝ってもらい行っているのだそうです。

庭園から見える京極家墓所: 庭園の端に見える漆喰の白塀の向こうは墓所です。4つの屋根が見えますが京極家20~23代(20代松江藩、21~23代丸亀藩)当主の墓所です。

幽霊画(清水節堂 1876-1951)と不動明王像(写真左): 右上の幽霊画は京極家にはゆかりのないものですが、個人蔵であったものが保管されています。幽霊の身長は約180㎝と以外に大きく、等身大の迫力があります。通常展示されるものではなく、これまで年に1度、秋に4日間だけ開催される『寺宝展』で公開されてきたようです。この絵はその世界では傑作といわれながらも、作者がわからないままでしたが、長浜市大路町出身の画家「清水節堂」によるものとが判明しました。清水節堂は東京芸術大学の前身の東京美術学校に入学しますが、貧困のため1年を経ずに退学しました。しかし、その後も同校の教官の下で研鑚します。山水画・人物画・仏画など多彩な作品が残されています。生活のために描きたいものを描けなかった節堂は縁起物など注文品を描くことが中心で、この幽霊画は自発的に描いた渾身の作品といえます。「描表装(かきびょうそう)」といわれる表装(掛け軸の縁)を絵画の中に描く技法を用い、風になびく表装に幽霊を重ね、幽霊がいまにも掛け軸から抜け出してくるかのような構図となっています。
写真の中心にあるのは不動明王です。
本尊を納める厨子(写真右): 金色燦然の荘厳に豪華なお厨子が須弥壇を飾っています。本尊は参道沿いの廃坊になった十二坊の本尊、秘仏の聖観世音菩薩(恵心僧都作)をお祀りしております。
不動明王(本堂内) 本堂内陣の須弥壇と厨子(本堂内)


京極初(左: 常高寺所蔵)と京極高次公(右: 徳源院所蔵)の肖像: 以前には、京極高次公の肖像画の原本が展示されていたようです。

位牌堂内: 本堂の更に奥へと渡り廊下を進むと歴代の当主の位牌が祀られた位牌堂です。京極氏代々の位牌を祀る所で、京極高次公、高豊公のほか、諸公の像六座と位牌が祀られています。
中央の観音菩薩立像の左に大きな第19代京極高次公像がありますが、ご住職のお話では、この当時、当主の場合は生前に絵師により肖像画が描かれて、本人によりその肖像画が似ているかどうかの判断が下されます。そして、本人の死後、その肖像画に基づいて位牌の代わりに木像が作成されたのだそうです。したがって、例えば、京極高次公の場合には、木像が位牌であって、私たちが思うような戒名を書いた位牌はないのだそうです。
また、手前に見える白っぽい(白装束)2人の木像は、松江城主であった京極忠高が亡くなったとき、切腹した殉死者井上門三郎重継(24才、左)と加納又左衛門(62才、右)の像で、これらの方々の死後、武家諸法度により殉死が禁じられました。

位牌堂でのご住職の説明: ご住職は庭園を説明いただいたときに、京極家と血は繋がっていませんが、寺を守るお役割を与えられているとのお話でした。本日は、たった2名の訪問でしたが、それにもかかわらず親切に徳源院について、ご説明いただきました。右に明るく見えるのは本堂へ至る渡り廊下。
京極家墓所: 墓所は築地塀で囲まれ、山の斜面に上下二段の墓地が形作られています。京極家歴代の宝篋印塔(墓)が立ち並んでおり、全域が「清瀧寺京極家墓所」として国指定史跡となっております。
京極家は戦国時代を経る中で、近江ではない各国の大名となりましたが、江戸時代初期に京極家第22代であり、丸亀藩第2代藩主となった京極高豊がこの寺院を再興し、各地に散らばっていた歴代当主の宝篋印塔を集めて整備しました。ご住職のお話では、周辺の宝篋印塔を集めるときに、内容を確認せずに集めたことから、後から墓碑を確認すると当主でない人のものもあり(下の「京極家墓所略図」で数字が示されていない人の墓)、また、歴代の順番でない並びになっています。
写真上方に見える宝篋印塔は二段のうち上段の墓地に並ぶものです。

墓所では、京極家中興の祖である大津城主第19代京極高次(父高吉は浅井氏に権力を奪われていた)の越前より運ばれた笏谷石製石廟の傷みが激しく、その修復工事中で立ち入ることができません。今後、1年以上は修復工事が継続するそうでしたので、本堂内に掲載されていた写真を示しました(掲載の写真は墓所の上段のもので、上記のように、高吉の宝篋印塔はひと回りもふた回りも小さい)。墓所を詳しくレポートされている別の方のブログのリンクを示します。

上段には始祖 氏信をはじめ18世に及ぶ歴代の墓18基が並び、
下段には大津城主高次が石廟に入っており、そのほか、木廟内の4基を含め14基と五輪塔3基があります。

なお、ご住職が不在のことがあり、拝観希望は事前に電話による予約が必要です。
文責 岡島敏広
2025年4月28日(月)上平寺城跡・弥高寺跡訪問(米原市)
2025年4月2日(水)香川県讃岐国引田城跡訪問(東かがわ市)
2025年4月2日(水)徳島県阿波国勝瑞城館跡訪問(板野郡藍住町)
2025年4月1日(火)徳島県阿波国一宮城跡訪問(徳島市)
2025年4月1日(火)高知県土佐国安芸城跡訪問(安芸市)
2025年3月31日(月)高知県土佐国高知城訪問(高知市)
2025年4月2日(水)香川県讃岐国引田城跡訪問(東かがわ市)
2025年4月2日(水)徳島県阿波国勝瑞城館跡訪問(板野郡藍住町)
2025年4月1日(火)徳島県阿波国一宮城跡訪問(徳島市)
2025年4月1日(火)高知県土佐国安芸城跡訪問(安芸市)
2025年3月31日(月)高知県土佐国高知城訪問(高知市)
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joukaku
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