2025年04月09日
2025年3月30日(日)広島県備後国福山城訪問(福山市)
個人旅行で龍野城に引き続き、令和4年(2022)8月28日に「令和の大普請」によってリニューアルされたという広島県福山市福山城を訪問しました。
福山城は日本100名城に選定され、No. 71です。
幕府は元和5年(1619)8月に、毛利、浅野、池田などの西国の外様大名を押さえるために、広島城の無断修理で減転封した福島正則に代えて、徳川家康の従兄弟水野勝成を備後10万石の領主として大和郡山城より転封しました。
水野勝成は、安土桃山時代から江戸時代前期に活躍した戦国武将です。備後国福山藩(現在の広島県福山市)の初代藩主であり、幕末の館林藩士・岡谷繁実が作成した「名将言行録」には、誰にも止められない暴馬という意味を持つ「倫魁不羈(りんかいふき)」と記されています。
そして、山陽道と瀬戸内海の海路に睨みを利かせるため福山城を築城させました。
福山城は西国鎮衛として幕府の威厳を示すため、10万石では考えられない規模の巨城で、慶長20年(1615)の一国一城令発布後の元和8年(1622)に竣工し、新規築城による大規模な近世城郭では最後の例となりました。
なお、歴代の福山城城主には幕末の黒船来航時、老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した阿部正弘もおります。
正保城絵図備後国福山城図の一部の改変図(1644): 詳細な城の説明図や福山城の古写真はこちらから見ることができます。
なお、この絵図は1644年のもので、現在見られる福山城は明治の廃城時の姿と思われることから、鐘櫓や御湯殿のように訪問して見られる現在の建物とは異なるところがあります。
福山城古写真(大正時代): 明治の廃城時に近い姿と思われます。
入口から見てゆきます。
筋鉄(すじがね)御門(国重要文化財)表側: 筋鉄御門は本丸へ入る正門で築城当時の姿を今に残す国の重要文化財です。
柱の角に鉄と扉に筋鉄を打ちつけていることから、その名が生まれました。門柱や梁には硬くて太く丈夫なケヤキが用いられ、脇戸を設け、門扉には十数条の筋鉄が打ちつけられています。外観は伏見櫓と同様に柱形や長押(なげし)を漆喰で塗り出し、方杖(ほうづえ)は無く、窓は素木(しらき)です。狭間は設けていませんが、窓の格子を三角形にすることで射撃の効率を図っています。屋根瓦には水野家の家紋である「立ち沢瀉」が使用されています。
明治6年(1873)の廃城令での取り壊しを免れ、昭和8年(1933)に伏見櫓と御湯殿とともに旧国宝に指定されました。さらに、伏見櫓や鐘櫓とともに昭和20年(1945)8月8日の福山空襲を免れ、国の重要文化財となって昭和26年(1951)から解体修理が行われました。その際に、多くの材が交換されてはいますが、当初材を多く残しており、これらは別の建物から再利用された転用材が含まれることが分かりました。転用の柱は、西面南側窓に外部からも確認できます。
筋鉄御門内側
天守から見た伏見櫓、筋鉄御門と鐘櫓
伏見櫓(国重要文化財)西面(二之丸より撮影): 伏見城松の丸にあったものを福山城に移建した痕跡が残る全国に例のない貴重な建物です。武具庫として使用されていたといわれ、内部には敵の侵入を阻む防御システムも完備されています。3重3階構造で、1階と2階の幅が同じで、その上に小さな3階をのせた望楼型で、国の重要文化財に指定されています。
伏見櫓南東面
伏見櫓北面
鐘櫓(市重要文化財)北西面(二之丸より撮影): 本丸西側に位置し、はじめは鐘を吊り太鼓を懸け、時の鐘と半時(1時間)の太鼓を打っていたといわれます。石見国(島根県西部) 大森銀山の応急監督を命ぜられ、人数をくりだす必要があったためといわれます。
福山城を描く最古の絵図である「正保城絵図」には描かれていないものの、水野家時代後期の絵図では「釣鐘」と書いているのが確認出来ます。阿部家時代の絵図(元文年間絵図)では、 上階の屋根を檜皮葺か柿葺で描いています。
城内に独立した鐘楼を設ける例はいくつかありますが、多聞櫓(阿部家藩主時代の名称: 渡櫓)の動線上に設けられた櫓としては全国でも珍しいものです。写真手前西側の棟は火灯(かとう)櫓(阿部家藩主時代の名称: 內九番二重御櫓)へ続く多聞櫓の一部です。
江戸時代には太鼓も常備されており、半時(約1時間)の太鼓を打ったと「福山領分語伝記」 は書き、「佐原家文書」では「鐘太鼓櫓」とも書いています。
明治6年(1873)の廃城令では取り壊されず残され、昭和20年(1945)8月8日福山空襲にも焼失を免れました。
内部は時鐘番(鍾搗き番)の住居として改変されていました。その後、荒廃が進み昭和54年(1979)に修理され、銅板葺きに改められて福山市の重要文化財に指定されました。鐘は、儒者山室如斎(やまむろじょさい)、菅茶山の銘を刻んだものもありましたが現在は無銘です。現在、鐘搗きは自動化され1日に午前6時・正午・午後6時・午後10時の4回時を告げています。
鐘櫓東面
御湯殿内側: 御湯殿は、本丸南側中央に位置し、本丸(伏見)御殿の一部です。
近世地誌である「備陽六郡志」をはじめ多くの史料に、伏見城からの移築であると記された「伏見城から移建された」と伝わる建造物で、国宝に指定されていました。
建物は物見部分と風呂屋部分に分かれ、物見部分は全国の城郭でも珍しい石垣から張り出した「懸造」となっていて、福山城の南からの景観を特徴づけています。その上段からは城下が一望できました。「懸造」は石垣の上に張り出した建築方法で、福山城以外では仙台城にしかない珍しいものです。また、風呂屋部分は蒸し風呂でしたが、明治以降は料亭として使用されたために内部は改変され詳細な記録は残っていません。全国的に見ても風呂屋の遺構は極めて少ないものです。
明治6年(1873)の廃城令による取り壊しを免れ、以降「清風楼」という名の料亭となりました。天守に続いて昭和8年(1933)には伏見櫓や筋鉄御門とともに旧国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)8月8日の福山空襲により焼失し、昭和41年(1966)に天守や月見櫓とともに再建されました。
資料不足のため細部に違いはあるものの、当時の雰囲気をよく再現しています。
天守から見た月見櫓と鏡櫓
月見櫓: 月見櫓は福山城本丸南東隅に位置する二重櫓であり、その北側(写真左側)には付櫓を備えています。多くの文献に伏見櫓と同じく京都伏見城から移築されたと書かれ、近世地誌である「備陽六郡志」には、 伏見城から移築された櫓には「戸柱などに松の丸との書付があった」と記されています。
明治初期に撮影された古写真によると、1階の壁は伏見櫓などとは異なり、柱形(はしらがた)や長押(なげし)を塗り出さない大壁造です。南面に石落としがあり、古い建築様式をもっています。1階屋根には壮大な唐破風が据えられています。2階は天守最上階と同じく壁を設けず、南面と西面には高欄付の縁を巡らせた優美な姿でした。
水野家時代の絵図にも「月見櫓」と書かれ、その名のとおり月見を目的とした櫓ですが、追手側(南)も南西の町人屋敷の広がる入江方面も展望出来る東南隅に築かれ、藩主の到着を見極める役割を持つ「着見櫓」のことであるとも言われています。
明治6年(1873)の廃城後もしばらく残されていましたが、その後取り壊され明治21年(1888)に「葦陽館」と呼ばれる貸席が建てられました。昭和20年(1945)8月8日の福山空襲で葦陽館は焼失し、昭和41年(1966)には天守や御湯殿とともに再建されました。令和の大普請で外観・内装等が改修されました。
鏡櫓: 本丸東の中央に位置する鏡櫓は、他からの移築の伝承はなく、築城時の新築と考えられます。
古写真を見ると、1階東側の屋根には小さな破風を設け、屋根の収まりが極めて特徴的な外観です。明治6年(1873)の廃城令で取り壊され、その跡地は遥拝所となりましたが、昭和48年(1973)に福山市名誉市民・村上銀一の寄付により再建されました。現在は文書館として1974年4月2日に開館し、福山藩関連文書の展示公開・収蔵をしています。
天守南面(南東から)と石垣: 石垣の積み方には、自然の石をそのまま積み上げた「野面積」、少し表面を加工した「打込接」、完全に石を加工した「切込接」の3つに分類されます。福山城の多くは石の角を加工し、すき間を少なくした「打込接」です。
本丸、二之丸の石垣のほとんどは、往時のまま残されており、南側からは三之丸の石垣を含め、「一二三段」と呼ばれる平山城特有の見事な城郭でした。
天守南面正面から: 現在は最上階に廻縁(まわりえん)が露出状態でありますが、古写真ではそれが開閉できる板張りの壁で覆われていたように見えます。
天守西面
天守東面
天守北面: 北側壁面は5階除く1階から4階までの全面が、全国でも唯一で極めて特殊な総鉄板張りとなっています。他に類例がありません。その目的は、風雨への備えであるとともに、天守の位置が本丸の北側に寄っているため、外部から直接天守が攻撃されることへの備えでした。
鉄板は縦130cm、横11.4cmを基本とする細長い板を横に並べ、上下に重ねる「羽重ね」でした。令和の大普請においては、残された古写真や他城の鉄板の調査、当時の鉄板との比較検証などが行われ、特殊な塗装を施して往時の質感・素材感などを再現しました。鉄板の素材は安全性・再現性に配慮して、JFEスチール(東京)から寄贈された約2千枚の亜鉛メッキ鋼板「ガルバリウム鋼板」を使用し、往時の姿の復元的整備が行われました。
オリジナル天守北面 明治初期 大普請前の再建天守北面

天守礎石: 空襲により焼失した福山城の旧天守は、城郭建築の集大成といえる建物でした。天守の中心を支える心柱と、身舎(もや)を形作る柱は、地階から最上階までほぼ位置を変えずに立ち、これらを太い梁でつなぐことで、構造的に安定した強固なつくりとなっていました。
その天守の柱を支えていた礎石が、天守焼失後も天守台穴蔵の中に残されており、昭和41年(1966)の鉄筋コンクリートでの再建にあたって、天守北側の写真の地に、同じ配置のまま180度向きを変えて移設され、現在に至っています。
心柱と身舎柱を支えていた19個の礎石は、正方形に近い形状で、上面を平らに整え、地上に40cmほどが露出するように据えられていました。また、身舎を囲む廊下の25個の礎石は一回り小さく、上面が平らに整えられています。
これらは天守の姿を知るうえで、重要な遺構です。
天守西面と旧内藤家長屋門古写真(昭和初期撮影の長屋門移築前): 福山城の見学を終え、駐車場に戻る途中、天守西のふくやま美術館近くの人気のない所に旧内藤家長屋門がありました。下はその説明にある古写真です。再建天守や再建櫓よりは価値のある建物かと思いますので、写真撮影しました。
旧内藤家長屋門: この長屋門は福山城の西外堀北側に面した位置にあった武家屋敷・内藤家の長屋門で、福山城の片隅に残されていました。
内藤家は、阿部家が宝永7年(1710) 福山藩主に封じられた際に隋従し、以後明治4年(1871)の廃藩まで家臣として仕えました。
平屋建てで東西に長く、東西に袖塀が付いています。中央に引き戸があり、東西に畳敷きの居室を設けています。東(写真右)側は内藤家で働く人が居住する部屋で、4畳半と3畳の2部屋に分かれ、西(写真左)側には土間と、客を連れてきた人に休憩してもらう6畳部屋が作られています。いずれの部屋も入口は北側で、南側上方には武者窓が3か所開かれ、白壁と腰下板張りとともに、外観の美しさを形成しています。
昭和50年(1975)、福山市重要文化財に指定され、翌年に解体修理が行われました。その後、現在の位置に移築されました。その際、「弘化三年」 (1846)の墨書が発見され。 江戸時代後期の建築であることが明らかになりました。
昭和20年(1945)の戦災で城下町の風情を喪失した福山にあって、藩政時代を偲ぶにふさわしい貴重な建造物となっています。
以上、福山城の見学を終えて、この後は本日の宿へと移動しました。
本日は龍野城も訪問しましたので、歩行歩数を分けることができませんが、2城で、9,300歩歩きました。
明日は高知県まで移動し、南国市にある岡豊城を訪問する予定です。
文責 岡島 敏広
福山城は日本100名城に選定され、No. 71です。
幕府は元和5年(1619)8月に、毛利、浅野、池田などの西国の外様大名を押さえるために、広島城の無断修理で減転封した福島正則に代えて、徳川家康の従兄弟水野勝成を備後10万石の領主として大和郡山城より転封しました。
水野勝成は、安土桃山時代から江戸時代前期に活躍した戦国武将です。備後国福山藩(現在の広島県福山市)の初代藩主であり、幕末の館林藩士・岡谷繁実が作成した「名将言行録」には、誰にも止められない暴馬という意味を持つ「倫魁不羈(りんかいふき)」と記されています。

そして、山陽道と瀬戸内海の海路に睨みを利かせるため福山城を築城させました。
福山城は西国鎮衛として幕府の威厳を示すため、10万石では考えられない規模の巨城で、慶長20年(1615)の一国一城令発布後の元和8年(1622)に竣工し、新規築城による大規模な近世城郭では最後の例となりました。
なお、歴代の福山城城主には幕末の黒船来航時、老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した阿部正弘もおります。
正保城絵図備後国福山城図の一部の改変図(1644): 詳細な城の説明図や福山城の古写真はこちらから見ることができます。
なお、この絵図は1644年のもので、現在見られる福山城は明治の廃城時の姿と思われることから、鐘櫓や御湯殿のように訪問して見られる現在の建物とは異なるところがあります。

福山城古写真(大正時代): 明治の廃城時に近い姿と思われます。

入口から見てゆきます。
筋鉄(すじがね)御門(国重要文化財)表側: 筋鉄御門は本丸へ入る正門で築城当時の姿を今に残す国の重要文化財です。
柱の角に鉄と扉に筋鉄を打ちつけていることから、その名が生まれました。門柱や梁には硬くて太く丈夫なケヤキが用いられ、脇戸を設け、門扉には十数条の筋鉄が打ちつけられています。外観は伏見櫓と同様に柱形や長押(なげし)を漆喰で塗り出し、方杖(ほうづえ)は無く、窓は素木(しらき)です。狭間は設けていませんが、窓の格子を三角形にすることで射撃の効率を図っています。屋根瓦には水野家の家紋である「立ち沢瀉」が使用されています。
明治6年(1873)の廃城令での取り壊しを免れ、昭和8年(1933)に伏見櫓と御湯殿とともに旧国宝に指定されました。さらに、伏見櫓や鐘櫓とともに昭和20年(1945)8月8日の福山空襲を免れ、国の重要文化財となって昭和26年(1951)から解体修理が行われました。その際に、多くの材が交換されてはいますが、当初材を多く残しており、これらは別の建物から再利用された転用材が含まれることが分かりました。転用の柱は、西面南側窓に外部からも確認できます。

筋鉄御門内側

天守から見た伏見櫓、筋鉄御門と鐘櫓

伏見櫓(国重要文化財)西面(二之丸より撮影): 伏見城松の丸にあったものを福山城に移建した痕跡が残る全国に例のない貴重な建物です。武具庫として使用されていたといわれ、内部には敵の侵入を阻む防御システムも完備されています。3重3階構造で、1階と2階の幅が同じで、その上に小さな3階をのせた望楼型で、国の重要文化財に指定されています。

伏見櫓南東面

伏見櫓北面

鐘櫓(市重要文化財)北西面(二之丸より撮影): 本丸西側に位置し、はじめは鐘を吊り太鼓を懸け、時の鐘と半時(1時間)の太鼓を打っていたといわれます。石見国(島根県西部) 大森銀山の応急監督を命ぜられ、人数をくりだす必要があったためといわれます。
福山城を描く最古の絵図である「正保城絵図」には描かれていないものの、水野家時代後期の絵図では「釣鐘」と書いているのが確認出来ます。阿部家時代の絵図(元文年間絵図)では、 上階の屋根を檜皮葺か柿葺で描いています。
城内に独立した鐘楼を設ける例はいくつかありますが、多聞櫓(阿部家藩主時代の名称: 渡櫓)の動線上に設けられた櫓としては全国でも珍しいものです。写真手前西側の棟は火灯(かとう)櫓(阿部家藩主時代の名称: 內九番二重御櫓)へ続く多聞櫓の一部です。
江戸時代には太鼓も常備されており、半時(約1時間)の太鼓を打ったと「福山領分語伝記」 は書き、「佐原家文書」では「鐘太鼓櫓」とも書いています。
明治6年(1873)の廃城令では取り壊されず残され、昭和20年(1945)8月8日福山空襲にも焼失を免れました。
内部は時鐘番(鍾搗き番)の住居として改変されていました。その後、荒廃が進み昭和54年(1979)に修理され、銅板葺きに改められて福山市の重要文化財に指定されました。鐘は、儒者山室如斎(やまむろじょさい)、菅茶山の銘を刻んだものもありましたが現在は無銘です。現在、鐘搗きは自動化され1日に午前6時・正午・午後6時・午後10時の4回時を告げています。

鐘櫓東面

御湯殿内側: 御湯殿は、本丸南側中央に位置し、本丸(伏見)御殿の一部です。
近世地誌である「備陽六郡志」をはじめ多くの史料に、伏見城からの移築であると記された「伏見城から移建された」と伝わる建造物で、国宝に指定されていました。
建物は物見部分と風呂屋部分に分かれ、物見部分は全国の城郭でも珍しい石垣から張り出した「懸造」となっていて、福山城の南からの景観を特徴づけています。その上段からは城下が一望できました。「懸造」は石垣の上に張り出した建築方法で、福山城以外では仙台城にしかない珍しいものです。また、風呂屋部分は蒸し風呂でしたが、明治以降は料亭として使用されたために内部は改変され詳細な記録は残っていません。全国的に見ても風呂屋の遺構は極めて少ないものです。
明治6年(1873)の廃城令による取り壊しを免れ、以降「清風楼」という名の料亭となりました。天守に続いて昭和8年(1933)には伏見櫓や筋鉄御門とともに旧国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)8月8日の福山空襲により焼失し、昭和41年(1966)に天守や月見櫓とともに再建されました。
資料不足のため細部に違いはあるものの、当時の雰囲気をよく再現しています。

天守から見た月見櫓と鏡櫓

月見櫓: 月見櫓は福山城本丸南東隅に位置する二重櫓であり、その北側(写真左側)には付櫓を備えています。多くの文献に伏見櫓と同じく京都伏見城から移築されたと書かれ、近世地誌である「備陽六郡志」には、 伏見城から移築された櫓には「戸柱などに松の丸との書付があった」と記されています。
明治初期に撮影された古写真によると、1階の壁は伏見櫓などとは異なり、柱形(はしらがた)や長押(なげし)を塗り出さない大壁造です。南面に石落としがあり、古い建築様式をもっています。1階屋根には壮大な唐破風が据えられています。2階は天守最上階と同じく壁を設けず、南面と西面には高欄付の縁を巡らせた優美な姿でした。
水野家時代の絵図にも「月見櫓」と書かれ、その名のとおり月見を目的とした櫓ですが、追手側(南)も南西の町人屋敷の広がる入江方面も展望出来る東南隅に築かれ、藩主の到着を見極める役割を持つ「着見櫓」のことであるとも言われています。
明治6年(1873)の廃城後もしばらく残されていましたが、その後取り壊され明治21年(1888)に「葦陽館」と呼ばれる貸席が建てられました。昭和20年(1945)8月8日の福山空襲で葦陽館は焼失し、昭和41年(1966)には天守や御湯殿とともに再建されました。令和の大普請で外観・内装等が改修されました。

鏡櫓: 本丸東の中央に位置する鏡櫓は、他からの移築の伝承はなく、築城時の新築と考えられます。
古写真を見ると、1階東側の屋根には小さな破風を設け、屋根の収まりが極めて特徴的な外観です。明治6年(1873)の廃城令で取り壊され、その跡地は遥拝所となりましたが、昭和48年(1973)に福山市名誉市民・村上銀一の寄付により再建されました。現在は文書館として1974年4月2日に開館し、福山藩関連文書の展示公開・収蔵をしています。

天守南面(南東から)と石垣: 石垣の積み方には、自然の石をそのまま積み上げた「野面積」、少し表面を加工した「打込接」、完全に石を加工した「切込接」の3つに分類されます。福山城の多くは石の角を加工し、すき間を少なくした「打込接」です。
本丸、二之丸の石垣のほとんどは、往時のまま残されており、南側からは三之丸の石垣を含め、「一二三段」と呼ばれる平山城特有の見事な城郭でした。

天守南面正面から: 現在は最上階に廻縁(まわりえん)が露出状態でありますが、古写真ではそれが開閉できる板張りの壁で覆われていたように見えます。

天守西面

天守東面

天守北面: 北側壁面は5階除く1階から4階までの全面が、全国でも唯一で極めて特殊な総鉄板張りとなっています。他に類例がありません。その目的は、風雨への備えであるとともに、天守の位置が本丸の北側に寄っているため、外部から直接天守が攻撃されることへの備えでした。
鉄板は縦130cm、横11.4cmを基本とする細長い板を横に並べ、上下に重ねる「羽重ね」でした。令和の大普請においては、残された古写真や他城の鉄板の調査、当時の鉄板との比較検証などが行われ、特殊な塗装を施して往時の質感・素材感などを再現しました。鉄板の素材は安全性・再現性に配慮して、JFEスチール(東京)から寄贈された約2千枚の亜鉛メッキ鋼板「ガルバリウム鋼板」を使用し、往時の姿の復元的整備が行われました。

オリジナル天守北面 明治初期 大普請前の再建天守北面


天守礎石: 空襲により焼失した福山城の旧天守は、城郭建築の集大成といえる建物でした。天守の中心を支える心柱と、身舎(もや)を形作る柱は、地階から最上階までほぼ位置を変えずに立ち、これらを太い梁でつなぐことで、構造的に安定した強固なつくりとなっていました。
その天守の柱を支えていた礎石が、天守焼失後も天守台穴蔵の中に残されており、昭和41年(1966)の鉄筋コンクリートでの再建にあたって、天守北側の写真の地に、同じ配置のまま180度向きを変えて移設され、現在に至っています。
心柱と身舎柱を支えていた19個の礎石は、正方形に近い形状で、上面を平らに整え、地上に40cmほどが露出するように据えられていました。また、身舎を囲む廊下の25個の礎石は一回り小さく、上面が平らに整えられています。
これらは天守の姿を知るうえで、重要な遺構です。

天守西面と旧内藤家長屋門古写真(昭和初期撮影の長屋門移築前): 福山城の見学を終え、駐車場に戻る途中、天守西のふくやま美術館近くの人気のない所に旧内藤家長屋門がありました。下はその説明にある古写真です。再建天守や再建櫓よりは価値のある建物かと思いますので、写真撮影しました。

旧内藤家長屋門: この長屋門は福山城の西外堀北側に面した位置にあった武家屋敷・内藤家の長屋門で、福山城の片隅に残されていました。
内藤家は、阿部家が宝永7年(1710) 福山藩主に封じられた際に隋従し、以後明治4年(1871)の廃藩まで家臣として仕えました。
平屋建てで東西に長く、東西に袖塀が付いています。中央に引き戸があり、東西に畳敷きの居室を設けています。東(写真右)側は内藤家で働く人が居住する部屋で、4畳半と3畳の2部屋に分かれ、西(写真左)側には土間と、客を連れてきた人に休憩してもらう6畳部屋が作られています。いずれの部屋も入口は北側で、南側上方には武者窓が3か所開かれ、白壁と腰下板張りとともに、外観の美しさを形成しています。
昭和50年(1975)、福山市重要文化財に指定され、翌年に解体修理が行われました。その後、現在の位置に移築されました。その際、「弘化三年」 (1846)の墨書が発見され。 江戸時代後期の建築であることが明らかになりました。
昭和20年(1945)の戦災で城下町の風情を喪失した福山にあって、藩政時代を偲ぶにふさわしい貴重な建造物となっています。

以上、福山城の見学を終えて、この後は本日の宿へと移動しました。
本日は龍野城も訪問しましたので、歩行歩数を分けることができませんが、2城で、9,300歩歩きました。
明日は高知県まで移動し、南国市にある岡豊城を訪問する予定です。
文責 岡島 敏広
2025年4月1日(火)高知県土佐国安芸城跡訪問(安芸市)
2025年3月31日(月)高知県土佐国高知城訪問(高知市)
2025年3月31日(月)高知県土佐国岡豊城跡訪問(南国市)
2025年3月30日(日)兵庫県播磨国龍野城訪問(たつの市)
2025年2月17日(月)三上陣屋跡訪問(野洲市)
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
2025年3月31日(月)高知県土佐国高知城訪問(高知市)
2025年3月31日(月)高知県土佐国岡豊城跡訪問(南国市)
2025年3月30日(日)兵庫県播磨国龍野城訪問(たつの市)
2025年2月17日(月)三上陣屋跡訪問(野洲市)
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
Posted by
joukaku
at
07:04
│Comments(0)
│その他