2024年11月19日
2024年11月14日(木)城郭OB第84回例会「近江日爪城址」
高島市のほぼ中央、新旭町饗庭(あいば)の日爪(ひづめ)集落南西の饗庭野台地の「城山」(熊野山)と呼ばれる東側山腹に立地する日爪城を探訪地とし、レイカディア大学41期生主催により、城郭探訪OB会第84回例会が開催されました。今回は48名のOB会会員が参加しました。
例会では参加者はJR新旭駅に集合し、そこからスタートして、日爪城を訪問した後、JR新旭駅にまで戻りました。例会の総歩行歩数は12,000歩でした。
日爪城は南谷遺跡背後の尾根上に築かれ、西側の主郭と東曲輪群(下図)とに大別されます。東曲輪群の東端に大規模な堀切と土塁があり、主郭でもその南西側のL字形の土塁と四条の堀切により厳重に防御しています。
さらに、日爪城から約1km南には、国史跡の清水山城館跡が残され、眼前には西近江路が通っています。急斜面に囲まれ、防御性の高い造りの日爪城は、清水山城館跡の出城とも伝えられ、その役割、存在価値が注目される山城の一つといえます。
日爪城城郭部分の縄張図
貞治6年(1367)に饗庭氏が日爪右京介為治を地頭代として日爪村に住まわせ、室町時代に書かれた史料に「山門領荘官」として登場する日爪氏が、日爪城の創建に関わったと推定されています。この日爪氏は、中世、新旭町北部一帯を支配下においていた饗庭氏の一族であると伝わっています。
永禄年間(1558~70)には山門の代官であった吉武壱岐守の子息の西林坊・定林坊・宝光坊が饗庭の村々に分れて住み、そのうち西林坊が日爪村にいたとされます。日爪氏と西林坊が同一人物かどうかは不明です。
三氏は「饗庭三坊」と呼ばれ、それぞれが住んだ由来のある村には発掘調査などにより山城や館の存在が確認されています。
また、日爪城の築城時期は不明ですが、高島の地においては16世紀中頃に築城の動きが活発化したことから、日爪城もこの頃本格的に築城されたものと推測され、このとき浅井・朝倉氏もしくは高島七頭の影響を受けて改修された可能性が指摘されています。
また、日爪城と饗庭三坊との関係を考える資料として、元亀3年(1572)の「明智光秀書状写」『細川家文書』に織田信長の命を受けた明智光秀は「饗庭三坊の城下まで放火し、敵城三箇所落去した」との記載があり、日爪城の落城・廃城が推測されます。
本日の登城コース: 日爪城の登城では地図の丸番号①~⑮の順に訪れ、これら地図中の丸番号は、下記の本文説明・写真の番号とも一致します。
地図はクリックにより拡大します。
JR新旭駅前で参加者を2班に班分け後、日爪城の説明を聞き、出発です。
登城口は日爪区農村集落センター前から西に別れて民家と民家の間の農道を通り山(西)の方に向かいます。
①着き当たりにフェンス扉がありますがそこからは入らず、標識の誘導に従い、左(南)に行くともう一つフェンス扉が見えてきます。ここから登城します。少し進むと地蔵の納められた②祠が見えてきます。
日爪城のある「城山」(熊野山)の斜面部から山麓にかけて(右写真の進行方向左の麓側に)は、今回は訪問していませんが、日爪城以前に存在した「高島七カ寺」と呼ばれる天台宗の有力寺院の1つ「大慈(谷)寺」の寺坊跡に比定される平坦面を利用した曲輪群が残っています。

②南谷遺跡のねごやの地蔵の祠: 城跡の山麓、現在の日爪集落の南西背後の竹やぶ付近には、「ネゴヤ」と呼ばれる場所があり、ここは城の創立に関わった日爪氏の館跡と伝わります。「ネゴヤ」は「寝小屋」とも考えられ、日爪氏の常住の館跡である可能性が高いと考えられています。
地域では、この場所は、明徳2年(1391)建立と伝わる「慈恩寺跡」とも伝えられ、早い段階で何らかの施設が建てられていたことがわかります。ここには、南谷遺跡(日爪のねごや)の説明板もあり、この地蔵さんからは日爪城に向かう道が続いています。
③「日爪城主郭」への方向を示す標識が立てられた東曲輪群横堀東側の土塁: 東曲輪群は、南北約58mの横堀(堀切)によって尾根の東端が遮断されていますが、その手前にはほぼ同じ長さの土塁が平行して築かれています。この土塁上を東曲輪群虎口に向かって進みました。
④麓からの土橋に繋がる横堀東側土塁の虎口: 現在私たちが登城する通路として、歩きやすい横堀東側土塁上を歩いて登城しますが、このようにえぐれて⑤土橋に直結している部分が土塁に見られましたので、ここは虎口と思われました。
⑤土塁を繋ぐ横堀に渡された土橋: 横堀(堀切)には土橋が残されており、この先は曲輪に登る通路に直結していることから、大手の遺構だと推定されています。
⑥土橋を渡って東曲輪群虎口へ
⑦東曲輪群虎口
⑧東曲輪群北西側面: 標高195mのこの東曲輪群と次の訪問地の主郭が山城の中心です。
⑨東曲輪群の曲輪内
⑩東曲輪群・主郭間に渡された土橋を通って主郭へ
⑪主郭: 標高207mにあり、東西約20m×南北約38mの長方形の区画で、西・南面にL字形の土塁がめぐらされています。現在、曲輪内平坦地には鉄塔が建てられています。
⑫主郭L字形土塁北西側: ここを歩いて、主郭西側の四条堀切へ向かいます。
⑬主郭北西側堀切(写真奥)と土塁(手前)
⑭主郭南西側四条堀切(主郭から外側を眺めた光景): 主郭から南西方向の尾根は、四条の堀切と土塁によって厳重に防御し、同様に東曲輪群の東端も、⑤土橋の所にある大規模な堀切により遮断し防御しています。
写真内の白い矢印は四条の堀切の位置を示しています。
⑮主郭南西側四条堀切(外側より主郭を眺めた光景):
写真内の白い矢印は四条の堀切の位置を示しています。
主郭見学終了時、正午を回っていましたので、この後、下山し、御祭神が仁徳天皇の若宮八幡社で昼食を取りました。若宮八幡社は明細書によれば創祀年代不詳ですが、社伝によると正平22(貞治6)年(1367)に日爪右京佐為治が創建とのことで、役人として入部の際勧請とも、また元中8年産土神として大阪高津宮より仁徳天皇を勧請したとも伝えられます。日爪氏がこの地域を統括していたことがわかります。
若宮八幡社訪問後は、JR新旭駅に戻り、本日の例会は解散となりました。
例会実施にご尽力いただきました41期OB会員の皆様に感謝いたします。
文責 岡島敏広
次回は、2024年12月5日(木)に佐和山城址探訪が計画されています。
例会では参加者はJR新旭駅に集合し、そこからスタートして、日爪城を訪問した後、JR新旭駅にまで戻りました。例会の総歩行歩数は12,000歩でした。
日爪城は南谷遺跡背後の尾根上に築かれ、西側の主郭と東曲輪群(下図)とに大別されます。東曲輪群の東端に大規模な堀切と土塁があり、主郭でもその南西側のL字形の土塁と四条の堀切により厳重に防御しています。
さらに、日爪城から約1km南には、国史跡の清水山城館跡が残され、眼前には西近江路が通っています。急斜面に囲まれ、防御性の高い造りの日爪城は、清水山城館跡の出城とも伝えられ、その役割、存在価値が注目される山城の一つといえます。
日爪城城郭部分の縄張図

貞治6年(1367)に饗庭氏が日爪右京介為治を地頭代として日爪村に住まわせ、室町時代に書かれた史料に「山門領荘官」として登場する日爪氏が、日爪城の創建に関わったと推定されています。この日爪氏は、中世、新旭町北部一帯を支配下においていた饗庭氏の一族であると伝わっています。
永禄年間(1558~70)には山門の代官であった吉武壱岐守の子息の西林坊・定林坊・宝光坊が饗庭の村々に分れて住み、そのうち西林坊が日爪村にいたとされます。日爪氏と西林坊が同一人物かどうかは不明です。
三氏は「饗庭三坊」と呼ばれ、それぞれが住んだ由来のある村には発掘調査などにより山城や館の存在が確認されています。
また、日爪城の築城時期は不明ですが、高島の地においては16世紀中頃に築城の動きが活発化したことから、日爪城もこの頃本格的に築城されたものと推測され、このとき浅井・朝倉氏もしくは高島七頭の影響を受けて改修された可能性が指摘されています。
また、日爪城と饗庭三坊との関係を考える資料として、元亀3年(1572)の「明智光秀書状写」『細川家文書』に織田信長の命を受けた明智光秀は「饗庭三坊の城下まで放火し、敵城三箇所落去した」との記載があり、日爪城の落城・廃城が推測されます。
本日の登城コース: 日爪城の登城では地図の丸番号①~⑮の順に訪れ、これら地図中の丸番号は、下記の本文説明・写真の番号とも一致します。
地図はクリックにより拡大します。

JR新旭駅前で参加者を2班に班分け後、日爪城の説明を聞き、出発です。

登城口は日爪区農村集落センター前から西に別れて民家と民家の間の農道を通り山(西)の方に向かいます。

①着き当たりにフェンス扉がありますがそこからは入らず、標識の誘導に従い、左(南)に行くともう一つフェンス扉が見えてきます。ここから登城します。少し進むと地蔵の納められた②祠が見えてきます。
日爪城のある「城山」(熊野山)の斜面部から山麓にかけて(右写真の進行方向左の麓側に)は、今回は訪問していませんが、日爪城以前に存在した「高島七カ寺」と呼ばれる天台宗の有力寺院の1つ「大慈(谷)寺」の寺坊跡に比定される平坦面を利用した曲輪群が残っています。


②南谷遺跡のねごやの地蔵の祠: 城跡の山麓、現在の日爪集落の南西背後の竹やぶ付近には、「ネゴヤ」と呼ばれる場所があり、ここは城の創立に関わった日爪氏の館跡と伝わります。「ネゴヤ」は「寝小屋」とも考えられ、日爪氏の常住の館跡である可能性が高いと考えられています。
地域では、この場所は、明徳2年(1391)建立と伝わる「慈恩寺跡」とも伝えられ、早い段階で何らかの施設が建てられていたことがわかります。ここには、南谷遺跡(日爪のねごや)の説明板もあり、この地蔵さんからは日爪城に向かう道が続いています。

③「日爪城主郭」への方向を示す標識が立てられた東曲輪群横堀東側の土塁: 東曲輪群は、南北約58mの横堀(堀切)によって尾根の東端が遮断されていますが、その手前にはほぼ同じ長さの土塁が平行して築かれています。この土塁上を東曲輪群虎口に向かって進みました。

④麓からの土橋に繋がる横堀東側土塁の虎口: 現在私たちが登城する通路として、歩きやすい横堀東側土塁上を歩いて登城しますが、このようにえぐれて⑤土橋に直結している部分が土塁に見られましたので、ここは虎口と思われました。

⑤土塁を繋ぐ横堀に渡された土橋: 横堀(堀切)には土橋が残されており、この先は曲輪に登る通路に直結していることから、大手の遺構だと推定されています。

⑥土橋を渡って東曲輪群虎口へ

⑦東曲輪群虎口

⑧東曲輪群北西側面: 標高195mのこの東曲輪群と次の訪問地の主郭が山城の中心です。

⑨東曲輪群の曲輪内

⑩東曲輪群・主郭間に渡された土橋を通って主郭へ

⑪主郭: 標高207mにあり、東西約20m×南北約38mの長方形の区画で、西・南面にL字形の土塁がめぐらされています。現在、曲輪内平坦地には鉄塔が建てられています。

⑫主郭L字形土塁北西側: ここを歩いて、主郭西側の四条堀切へ向かいます。

⑬主郭北西側堀切(写真奥)と土塁(手前)

⑭主郭南西側四条堀切(主郭から外側を眺めた光景): 主郭から南西方向の尾根は、四条の堀切と土塁によって厳重に防御し、同様に東曲輪群の東端も、⑤土橋の所にある大規模な堀切により遮断し防御しています。
写真内の白い矢印は四条の堀切の位置を示しています。

⑮主郭南西側四条堀切(外側より主郭を眺めた光景):
写真内の白い矢印は四条の堀切の位置を示しています。

主郭見学終了時、正午を回っていましたので、この後、下山し、御祭神が仁徳天皇の若宮八幡社で昼食を取りました。若宮八幡社は明細書によれば創祀年代不詳ですが、社伝によると正平22(貞治6)年(1367)に日爪右京佐為治が創建とのことで、役人として入部の際勧請とも、また元中8年産土神として大阪高津宮より仁徳天皇を勧請したとも伝えられます。日爪氏がこの地域を統括していたことがわかります。

若宮八幡社訪問後は、JR新旭駅に戻り、本日の例会は解散となりました。
例会実施にご尽力いただきました41期OB会員の皆様に感謝いたします。
文責 岡島敏広
次回は、2024年12月5日(木)に佐和山城址探訪が計画されています。
2025年2月27日(木)城郭OB第87回例会「北之庄城(岩崎山城)跡」
2024年12月5日(木)城郭OB第85回例会「佐和山城と大洞弁財天を巡る」
2024年10月18日(金)城郭OB第83回例会「金ヶ崎城址・金ヶ崎の退き口」(福井県)
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」
2024年4月13日(土)第114回例会「小脇館跡と太郎坊宮、瓦屋禅寺をめぐる」
2024年12月5日(木)城郭OB第85回例会「佐和山城と大洞弁財天を巡る」
2024年10月18日(金)城郭OB第83回例会「金ヶ崎城址・金ヶ崎の退き口」(福井県)
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」
2024年4月13日(土)第114回例会「小脇館跡と太郎坊宮、瓦屋禅寺をめぐる」
Posted by
joukaku
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17:04
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