2023年09月07日
2023年9月5日(火)長浜城下町散策
本日は、レイカディア大学の課題学習の番外編で9回目の校外活動となります。
中井均先生の講座で小谷城に登った時、羽柴秀吉が小谷城下町を移して長浜を造ったというお話を聞きましたので、課題学習グループ"沙沙貴組"4名、プラス特別参加のK.O.さん計5名は、長浜に興味を持ち長浜城下町を巡りました。
浅井長政が小谷城で自害した天正元年(1573)、その戦功により織田信長から浅井氏の旧領を与えられた木下藤吉郎は、以後「羽柴秀吉」と名乗り、はじめて城持大名に出世しました。
小谷城は山城で領内統治には向いていなかったことから、北国街道の宿場町で、琵琶湖の港町でもあった「今浜(いまはま)」を、信長の名から一字拝領して「長浜」に改め、長浜城を築きました。このとき小谷城で使われていた資材を運んで流用しています。長浜城は天正3年頃、秀吉によって築かれ、その時に三層の天守が上がったようです。いわゆる水城(湖城)で、城内に湖水を導き入れ、直接船の出入りができるようになっていたそうです。天守は元和元年(1615)に廃城となった際、彦根城の山崎三重櫓として移築されたとの伝承が有りますが、現存していないので確かめる事は出来ません。
①JR長浜駅からスタートです。まず、長浜駅西口より琵琶湖(西)側に進むと、長浜城の模擬天守が見えます。本日は天守は訪問しませんが、現在建っている模擬天守は、昭和58年(1983)4月に、東京工業大学名誉教授・藤岡通夫工学博士の設計指導のもと、秀吉時代の天守を想定し、犬山城や伏見城をモデルにして模擬復元されたものです。位置的にも形状的にも当時のものとは異なります。
Googleマップによる本日の散策コース(赤丸で示した地点は確認した『朱印地境界石柱』の場所)と、
城下町の古地図(長浜町之絵図(1860): 赤枠で囲われている範囲は、後述の『三百石朱印地』)を示します。地図上の丸数字は、下記の説明の地点を示しています。地図はいずれもクリックにより拡大します。
また、あまり開発が進んでいなかった1947年に撮影されたこの周辺の拡大可能な航空写真(国土地理院)へのリンクも付けておきました。

②伊右衛門(山内一豊)屋敷跡: 今はマンションとなっている山内伊右衛門一豊屋敷跡に行きました。明治6年(1873)の「長浜町地籍図」によると、当地の周辺は、字名を「伊右エ門屋敷」と呼ばれていました。また、延宝3年(1675)9月15日付け「長浜古城跡御検地帳」でも、「伊右衛門屋敷」という地名が載り、この字名は江戸初期からある地名であることが分かります。「伊右衛門」は、豊臣秀吉の家臣であった山内一豊(1545~1605)の通称です。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人に仕え、長浜城主にもなった戦国武将、山内一豊が妻千代と新婚時代を過ごした屋敷跡で、現在は石碑が立てられています。

③豊国神社: 羽柴秀吉は、天正2年(1574)の春から長浜城の建築と商家の町並み造りに着手しました。その後、約十年のあいだ長浜町に免税を含む善政を施し、秀吉は大阪や京都に移住してからも長浜町民との交流は絶える事なく続いていました。そのあらわれが、前年に小田原北条氏を滅亡させ天下統一を果たして天正19年(1591)に公布された『三百石の地租税免除』の朱印状です。この朱印状は、幕末まで長浜町民への大きな恩典となりました。
豊臣秀吉が、慶長三年(1598)8月18日に伏見城で逝去すると、長浜町民は京都の豊国廟にならって逸早く豊国神社を建立しました。ところが徳川幕府の政権下では、秀吉を神格化することは許されず、豊国神社は京都と共に取り壊されました。
それ以来、町役人十人衆が秀吉の御神像を各家庭に隠してお祀りしていましたが、一計を案じて寛政5年(1793)に彦根藩へ『えびす宮』を建立する許可を願い出て一社を建立、秀吉の御神像を裏に隠してお祀りしました。これが『十日戎』の始まりです。
弘化3年(1846)、豊臣秀吉の恩徳を町民に布撫するために、さらに一計を練り、豊臣家の一字をとり『豊神社』と書いて『みのり神社』と呼んでいました。その名残が東の外堀に架かる「みのり橋」です。
明治維新が過ぎて、大正9年(1920)に天下晴れて『豊国神社』と名乗れるようになり、豊臣秀吉をお祀りする行事が市民挙げて盛大になりました。豊国神社では、豊臣秀吉の御神霊が不運であった江戸時代、長浜の先人の発想により前立ち神になって戴いた恵比寿神の祭典も盛大に行っています。

加藤清正像: 腹心の部下であったことから、秀吉と共に合祀されています。
羽柴秀吉は、長浜に人が集まるよう、町造りを始めた頃から移住した町民に免税を実施し、後の天正19年(1591)には『三百石の地租税免除』の朱印状を公布しました(三百石は長浜町52町のうち36町)。その後、朱印地を引き継いだ彦根藩主井伊直孝により慶安4年(1651)に検地が行われました。そのとき、土地に不足があることが判明したことから、朱印地が追加され、同時に『三百石朱印地』(年貢免除地)の境界を「『朱印地境界石柱』」を建造して示しております。石柱はこのとき(1651)に建造されたもので、当初28本ほどの石柱が建てられていたようですが、今回の散策で7本を確認しました。紛失して新しく建てられた石柱もあり、ほぼ本来の位置にそのまま残っているのは写真うちの4本のみ(本願寺長浜別院内、三ツ矢大神宮前、月宮殿曳山蔵前暗渠、松岡製靴店北)で、それら4本はすべて確認しました。
写真はクリックにより拡大します(読み方例: 「従是東長濱領」とは「これより東長濱領」という意味です)。
羽柴秀吉がつくった長浜町の朱印地内は条里地割に関係なく町建てされているのに対し、朱印地外(年貢地)は条里地割にほぼ沿って開発されています。
すなわち、朱印地内となる初期の城下町中心部の街の区画(いくつかの家がまとまったブロック)は正方形に近い地割で、その中央に家屋に取り囲まれた空閑地があるのに対し、後に作られた北・南側エリアは長方形の街区になっています。さらに、「背割り水路」は、後に作られたエリアにあります。
秀吉による城下町造成は、他の城下町と異なり、鉤の手に曲がった道がほとんどなく、防衛を重視しておりません。商業活動に重点をおいた町づくりで、「縦町優先プラン」に従い、以下の順でつくっていったと推定されています。
a. 最初(天正2年1574頃)に町建てされた部分は、大手町(大手門から東に延びるメインストリート)と本町(本(元・原)の町で今浜村の中心部分が取り込まれた)で、長浜城に対して「縦(東西方向)」の関係にある「縦町」。町に上、中、下がついている町名は本町を基軸(→"上")として付けられている。
b. 次に、大手町に平行に並ぶ「縦町」の魚屋町(魚類関連の商人や仲介人)、瀬田町(今浜村の隣村の瀬田村の人々が集住)、横浜町(今浜村の隣村の横浜村の人々が集住)
c. 北町: 城下町の北端
d. 小谷から移された町は、「横町」を形成している。中井均先生のお話では小谷から移された住民は、長浜でも小谷での町村の名前を引き継いで住んでいるとのことでしたので、以下に地名を対比します。
小谷城下町地図(赤丸は長浜に移転した町、 図は拡大します):
商人・職人が留まらないと城下町は農村になるようです(羽柴於次秀勝が、天正9年(1581)に小谷においては長浜への移住者の屋敷地を居残った者が耕作するよう命じています)。
e. 箕浦町: 箕浦城(近江町)の城下の八日市場の商人が移転させられ、「横町」になっている。増田長盛の屋敷あり。瀬田町・横浜町により二分されているので、これら二町より成立が遅い。天正8年(1580)頃まで。
f. 神戸(ごうど)町: 西側を大手町に侵食され、大手町より遅い成立。坂田郡顔戸(ごうど)との関連。
g. 慶長11年(1606)、長浜城跡より石田町(三成屋敷あり、御堂前町)に大通寺移転。長浜城の大手門が移築されている。
h. 知善院: 開創時期不明。天正4年(1576)に移転。長浜城の搦手門が移築されている。大坂城落城時に持ち出された秀吉の木像がある。
妙法寺: 天正4年10月14日に長浜城で夭折した秀吉公の最初の嫡男秀勝公の菩提寺。
長浜八幡宮: 平安後期創建。長浜曳山祭で有名。
i. 元和元年(1615)大坂城落城後、長浜は井伊直孝に与えられた。彦根藩は、長浜が町衆の保護・自立のため秀吉から得ていた町屋敷年貢300石免除の特権を認めたうえで、領内北部の中心的商業都市として位置づけた。江戸時代、町運営のほとんどを町人が担う自治的都市として繁栄した。
④大手門跡の斜めの敷地枡形門の跡: ここから、長浜城に係る遺構を集中して巡ります。長浜八幡宮お旅所南側の駐車場(所有:長浜八幡宮)は、敷地が長浜大手門通りの道路に対して斜めに区切られています。この駐車場東側交差点(写真奥)の電柱付近には大手門跡の石碑が立てられています。ここは、長浜城の大手門の跡地で、この斜めの線は枡形門(外枡形)があったことを示すものです。
町(写真奥側)から城(写真手前側)へ入って、左(生垣の方)へ曲がり、さらに右(写真手前側左)に曲がって城内に入った痕跡が、斜めの敷地として残存していました。
⑤知善院表門表: 知善院は上述のとおり、小谷城下町から移転してきております。写真の表門はは長浜城搦手門の移築門です。
⑤知善院表門裏: 裏から見ると薬医門であることがわかります。
⑥大通寺台所門裏: 大通寺は慶長7年(1602)に徳川家康より本願寺分立が許され、長浜城跡に創建されました。慶長11年(1606)の内藤信成の転封に伴い、現在の地の石田町に移転してきております。ここの台所門は長浜城追(大)手門の移築門であると言われています。裏側から見ると薬医門であることがわかります。
⑥大通寺台所門表: 扉金具に天正16年の銘があることから山内一豊城主時代の大手門だと推測できます。長浜城は元和元年(1615)に廃城になり、資材の大半は彦根城の築城に流用されていますが、井伊家と大通寺の関係から移築された可能性が大きいです。庫裏(寺院の台所)の正面に開かれていることから台所門と呼ばれており、向って左脇間は柱に残る痕跡から潜戸(くぐりど)があったことがわかっています(潜戸は屋根裏に保存されています)。
大通寺に山門が建築されるまでは、この門が大通寺の正門であったとされ、文化5年(1805)の山門建築が開始された際に現在位置に移築されたといわれています。
ちなみに、長浜城の資材の大半は元和2年(1616)から開始された彦根城の第3期工事に流用され、彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられています。
⑥大通寺台所門柱: 本能寺の変に呼応した京極(高次)軍による矢や銃弾の痕が残っています。
⑦大通寺山門: 長浜城からははずれますが、大型の二重門で金屋町(門前町)の記録によれば、文化5年(1808)の起工以来、天保12年の完成までに33年の歳月をかけた築造です。
大通寺の本堂(上写真)及び大広間(下写真)は、伏見城からの移築といわれています。

大通寺参道(旧東御堂前町): 大通寺が長浜城跡地から長浜の北東部の「石田町」へ移転し、その門前に西御堂前町と東御堂前町(現元浜町)が整備されています。整備前の「石田町」の町名から、大通寺やこの辺りに下写真の石田三成の屋敷があったと考えられます。
長浜駅前の石田三成による「三献の茶」の像
⑧長浜八幡宮鳥居: 天正2年(1574)羽柴秀吉が長浜城主となり、八幡宮の荒廃を惜しみ、社殿を修理造営し再興に努めました。この史実が、長浜曳山祭の起源と言われています。
⑧長浜八幡宮本殿
曳山祭りの光景(2017年)
⑨妙法寺山門: 妙法寺は羽柴秀吉の命により、小谷城下から移転した日蓮宗の寺院です。天正4年(1576)10月14日に長男石松丸秀勝が幼少にして長浜城でなくなり、この寺に葬られたといわれています。
⑨羽柴秀勝: 羽柴秀勝公廟は発掘調査されており、その結果、埋葬された人の地位は、国人級武士団より上位の大名の一族墓であると考えられています。
妙法寺訪問後は、長浜の町の南側にある『朱印地境界石柱』の位置を確認して、長浜浪漫ビールまでやってきました。
➉長浜浪漫ビール: 江戸時代に建てられた倉庫をリノベーションしてビール・ウイスキーの醸造・販売を行っているお店です。重厚な石垣・米川は長浜城の外堀の一部で、長浜城外堀として40年ほど使われた後、江戸時代に商人の町として栄えて以降は、港として使われていました。
残念ながら、本日火曜日は定休日のため、ビールを味わうことができませんでした。
この後、長浜駅に戻り、夕刻に予定されている卒業を間近にした"沙沙貴組"の打ち上げパーティの会場に向かいました。
本日は、暑い中、たくさん汗をかきましたが、皆さまお疲れさまでした。
文責 岡島 敏広
中井均先生の講座で小谷城に登った時、羽柴秀吉が小谷城下町を移して長浜を造ったというお話を聞きましたので、課題学習グループ"沙沙貴組"4名、プラス特別参加のK.O.さん計5名は、長浜に興味を持ち長浜城下町を巡りました。
浅井長政が小谷城で自害した天正元年(1573)、その戦功により織田信長から浅井氏の旧領を与えられた木下藤吉郎は、以後「羽柴秀吉」と名乗り、はじめて城持大名に出世しました。

小谷城は山城で領内統治には向いていなかったことから、北国街道の宿場町で、琵琶湖の港町でもあった「今浜(いまはま)」を、信長の名から一字拝領して「長浜」に改め、長浜城を築きました。このとき小谷城で使われていた資材を運んで流用しています。長浜城は天正3年頃、秀吉によって築かれ、その時に三層の天守が上がったようです。いわゆる水城(湖城)で、城内に湖水を導き入れ、直接船の出入りができるようになっていたそうです。天守は元和元年(1615)に廃城となった際、彦根城の山崎三重櫓として移築されたとの伝承が有りますが、現存していないので確かめる事は出来ません。
①JR長浜駅からスタートです。まず、長浜駅西口より琵琶湖(西)側に進むと、長浜城の模擬天守が見えます。本日は天守は訪問しませんが、現在建っている模擬天守は、昭和58年(1983)4月に、東京工業大学名誉教授・藤岡通夫工学博士の設計指導のもと、秀吉時代の天守を想定し、犬山城や伏見城をモデルにして模擬復元されたものです。位置的にも形状的にも当時のものとは異なります。

Googleマップによる本日の散策コース(赤丸で示した地点は確認した『朱印地境界石柱』の場所)と、
城下町の古地図(長浜町之絵図(1860): 赤枠で囲われている範囲は、後述の『三百石朱印地』)を示します。地図上の丸数字は、下記の説明の地点を示しています。地図はいずれもクリックにより拡大します。
また、あまり開発が進んでいなかった1947年に撮影されたこの周辺の拡大可能な航空写真(国土地理院)へのリンクも付けておきました。


②伊右衛門(山内一豊)屋敷跡: 今はマンションとなっている山内伊右衛門一豊屋敷跡に行きました。明治6年(1873)の「長浜町地籍図」によると、当地の周辺は、字名を「伊右エ門屋敷」と呼ばれていました。また、延宝3年(1675)9月15日付け「長浜古城跡御検地帳」でも、「伊右衛門屋敷」という地名が載り、この字名は江戸初期からある地名であることが分かります。「伊右衛門」は、豊臣秀吉の家臣であった山内一豊(1545~1605)の通称です。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人に仕え、長浜城主にもなった戦国武将、山内一豊が妻千代と新婚時代を過ごした屋敷跡で、現在は石碑が立てられています。


③豊国神社: 羽柴秀吉は、天正2年(1574)の春から長浜城の建築と商家の町並み造りに着手しました。その後、約十年のあいだ長浜町に免税を含む善政を施し、秀吉は大阪や京都に移住してからも長浜町民との交流は絶える事なく続いていました。そのあらわれが、前年に小田原北条氏を滅亡させ天下統一を果たして天正19年(1591)に公布された『三百石の地租税免除』の朱印状です。この朱印状は、幕末まで長浜町民への大きな恩典となりました。
豊臣秀吉が、慶長三年(1598)8月18日に伏見城で逝去すると、長浜町民は京都の豊国廟にならって逸早く豊国神社を建立しました。ところが徳川幕府の政権下では、秀吉を神格化することは許されず、豊国神社は京都と共に取り壊されました。
それ以来、町役人十人衆が秀吉の御神像を各家庭に隠してお祀りしていましたが、一計を案じて寛政5年(1793)に彦根藩へ『えびす宮』を建立する許可を願い出て一社を建立、秀吉の御神像を裏に隠してお祀りしました。これが『十日戎』の始まりです。
弘化3年(1846)、豊臣秀吉の恩徳を町民に布撫するために、さらに一計を練り、豊臣家の一字をとり『豊神社』と書いて『みのり神社』と呼んでいました。その名残が東の外堀に架かる「みのり橋」です。
明治維新が過ぎて、大正9年(1920)に天下晴れて『豊国神社』と名乗れるようになり、豊臣秀吉をお祀りする行事が市民挙げて盛大になりました。豊国神社では、豊臣秀吉の御神霊が不運であった江戸時代、長浜の先人の発想により前立ち神になって戴いた恵比寿神の祭典も盛大に行っています。


加藤清正像: 腹心の部下であったことから、秀吉と共に合祀されています。

羽柴秀吉は、長浜に人が集まるよう、町造りを始めた頃から移住した町民に免税を実施し、後の天正19年(1591)には『三百石の地租税免除』の朱印状を公布しました(三百石は長浜町52町のうち36町)。その後、朱印地を引き継いだ彦根藩主井伊直孝により慶安4年(1651)に検地が行われました。そのとき、土地に不足があることが判明したことから、朱印地が追加され、同時に『三百石朱印地』(年貢免除地)の境界を「『朱印地境界石柱』」を建造して示しております。石柱はこのとき(1651)に建造されたもので、当初28本ほどの石柱が建てられていたようですが、今回の散策で7本を確認しました。紛失して新しく建てられた石柱もあり、ほぼ本来の位置にそのまま残っているのは写真うちの4本のみ(本願寺長浜別院内、三ツ矢大神宮前、月宮殿曳山蔵前暗渠、松岡製靴店北)で、それら4本はすべて確認しました。
写真はクリックにより拡大します(読み方例: 「従是東長濱領」とは「これより東長濱領」という意味です)。

羽柴秀吉がつくった長浜町の朱印地内は条里地割に関係なく町建てされているのに対し、朱印地外(年貢地)は条里地割にほぼ沿って開発されています。
すなわち、朱印地内となる初期の城下町中心部の街の区画(いくつかの家がまとまったブロック)は正方形に近い地割で、その中央に家屋に取り囲まれた空閑地があるのに対し、後に作られた北・南側エリアは長方形の街区になっています。さらに、「背割り水路」は、後に作られたエリアにあります。
秀吉による城下町造成は、他の城下町と異なり、鉤の手に曲がった道がほとんどなく、防衛を重視しておりません。商業活動に重点をおいた町づくりで、「縦町優先プラン」に従い、以下の順でつくっていったと推定されています。
a. 最初(天正2年1574頃)に町建てされた部分は、大手町(大手門から東に延びるメインストリート)と本町(本(元・原)の町で今浜村の中心部分が取り込まれた)で、長浜城に対して「縦(東西方向)」の関係にある「縦町」。町に上、中、下がついている町名は本町を基軸(→"上")として付けられている。
b. 次に、大手町に平行に並ぶ「縦町」の魚屋町(魚類関連の商人や仲介人)、瀬田町(今浜村の隣村の瀬田村の人々が集住)、横浜町(今浜村の隣村の横浜村の人々が集住)
c. 北町: 城下町の北端
d. 小谷から移された町は、「横町」を形成している。中井均先生のお話では小谷から移された住民は、長浜でも小谷での町村の名前を引き継いで住んでいるとのことでしたので、以下に地名を対比します。
小谷・長浜地名対照表: 移転した町

商人・職人が留まらないと城下町は農村になるようです(羽柴於次秀勝が、天正9年(1581)に小谷においては長浜への移住者の屋敷地を居残った者が耕作するよう命じています)。

e. 箕浦町: 箕浦城(近江町)の城下の八日市場の商人が移転させられ、「横町」になっている。増田長盛の屋敷あり。瀬田町・横浜町により二分されているので、これら二町より成立が遅い。天正8年(1580)頃まで。
f. 神戸(ごうど)町: 西側を大手町に侵食され、大手町より遅い成立。坂田郡顔戸(ごうど)との関連。
g. 慶長11年(1606)、長浜城跡より石田町(三成屋敷あり、御堂前町)に大通寺移転。長浜城の大手門が移築されている。
h. 知善院: 開創時期不明。天正4年(1576)に移転。長浜城の搦手門が移築されている。大坂城落城時に持ち出された秀吉の木像がある。
妙法寺: 天正4年10月14日に長浜城で夭折した秀吉公の最初の嫡男秀勝公の菩提寺。
長浜八幡宮: 平安後期創建。長浜曳山祭で有名。
i. 元和元年(1615)大坂城落城後、長浜は井伊直孝に与えられた。彦根藩は、長浜が町衆の保護・自立のため秀吉から得ていた町屋敷年貢300石免除の特権を認めたうえで、領内北部の中心的商業都市として位置づけた。江戸時代、町運営のほとんどを町人が担う自治的都市として繁栄した。
④大手門跡の斜めの敷地枡形門の跡: ここから、長浜城に係る遺構を集中して巡ります。長浜八幡宮お旅所南側の駐車場(所有:長浜八幡宮)は、敷地が長浜大手門通りの道路に対して斜めに区切られています。この駐車場東側交差点(写真奥)の電柱付近には大手門跡の石碑が立てられています。ここは、長浜城の大手門の跡地で、この斜めの線は枡形門(外枡形)があったことを示すものです。
町(写真奥側)から城(写真手前側)へ入って、左(生垣の方)へ曲がり、さらに右(写真手前側左)に曲がって城内に入った痕跡が、斜めの敷地として残存していました。

⑤知善院表門表: 知善院は上述のとおり、小谷城下町から移転してきております。写真の表門はは長浜城搦手門の移築門です。

⑤知善院表門裏: 裏から見ると薬医門であることがわかります。

⑥大通寺台所門裏: 大通寺は慶長7年(1602)に徳川家康より本願寺分立が許され、長浜城跡に創建されました。慶長11年(1606)の内藤信成の転封に伴い、現在の地の石田町に移転してきております。ここの台所門は長浜城追(大)手門の移築門であると言われています。裏側から見ると薬医門であることがわかります。

⑥大通寺台所門表: 扉金具に天正16年の銘があることから山内一豊城主時代の大手門だと推測できます。長浜城は元和元年(1615)に廃城になり、資材の大半は彦根城の築城に流用されていますが、井伊家と大通寺の関係から移築された可能性が大きいです。庫裏(寺院の台所)の正面に開かれていることから台所門と呼ばれており、向って左脇間は柱に残る痕跡から潜戸(くぐりど)があったことがわかっています(潜戸は屋根裏に保存されています)。
大通寺に山門が建築されるまでは、この門が大通寺の正門であったとされ、文化5年(1805)の山門建築が開始された際に現在位置に移築されたといわれています。
ちなみに、長浜城の資材の大半は元和2年(1616)から開始された彦根城の第3期工事に流用され、彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられています。

⑥大通寺台所門柱: 本能寺の変に呼応した京極(高次)軍による矢や銃弾の痕が残っています。

⑦大通寺山門: 長浜城からははずれますが、大型の二重門で金屋町(門前町)の記録によれば、文化5年(1808)の起工以来、天保12年の完成までに33年の歳月をかけた築造です。

大通寺の本堂(上写真)及び大広間(下写真)は、伏見城からの移築といわれています。


大通寺参道(旧東御堂前町): 大通寺が長浜城跡地から長浜の北東部の「石田町」へ移転し、その門前に西御堂前町と東御堂前町(現元浜町)が整備されています。整備前の「石田町」の町名から、大通寺やこの辺りに下写真の石田三成の屋敷があったと考えられます。

長浜駅前の石田三成による「三献の茶」の像

⑧長浜八幡宮鳥居: 天正2年(1574)羽柴秀吉が長浜城主となり、八幡宮の荒廃を惜しみ、社殿を修理造営し再興に努めました。この史実が、長浜曳山祭の起源と言われています。

⑧長浜八幡宮本殿

曳山祭りの光景(2017年)

⑨妙法寺山門: 妙法寺は羽柴秀吉の命により、小谷城下から移転した日蓮宗の寺院です。天正4年(1576)10月14日に長男石松丸秀勝が幼少にして長浜城でなくなり、この寺に葬られたといわれています。

⑨羽柴秀勝: 羽柴秀勝公廟は発掘調査されており、その結果、埋葬された人の地位は、国人級武士団より上位の大名の一族墓であると考えられています。

妙法寺訪問後は、長浜の町の南側にある『朱印地境界石柱』の位置を確認して、長浜浪漫ビールまでやってきました。
➉長浜浪漫ビール: 江戸時代に建てられた倉庫をリノベーションしてビール・ウイスキーの醸造・販売を行っているお店です。重厚な石垣・米川は長浜城の外堀の一部で、長浜城外堀として40年ほど使われた後、江戸時代に商人の町として栄えて以降は、港として使われていました。
残念ながら、本日火曜日は定休日のため、ビールを味わうことができませんでした。

この後、長浜駅に戻り、夕刻に予定されている卒業を間近にした"沙沙貴組"の打ち上げパーティの会場に向かいました。
本日は、暑い中、たくさん汗をかきましたが、皆さまお疲れさまでした。
文責 岡島 敏広