2024年03月01日
2024年2月28日(水)岡山県備前岡山城訪問
個人旅行で岡山城を訪問しました。
訪問した岡山城は日本100名城(70番)に選定されています。
今の岡山城付近には、旭川の流域に岡山、石山、天神山という3つの丘がありました。そのうちの石山にあった城を手に入れて本拠地とし、岡山の地を戦国の表舞台に立たせたのは宇喜多直家(1529~1582(1581説もあり))でした。
その子の秀家(1572~1655)は、岡山の丘に本丸を定め、今に残る岡山城を築き、城下町づくりを行いました(1597年天守完成といわれます)。江戸時代の文献によると、築城は豊臣秀吉の指導によるものといわれます。さらに、多岐にわたる旭川の河道を利用して、流れを現在のように城の北や東を守るように整えたり、堀づくりに活用し、堀の間に南北に長い城下町をつくりあげました。こうして今に続く中心市街地の原型ができ、岡山の名が、市名、県名となる礎となりました。
その後、城主となった小早川秀秋、池田氏により城と城下町は、さらに拡張され今に至ります。
岡山城縄張: 本日は、烏城公園駐車場から目安橋を渡り、本丸の下の段、中の段、本段の天守を見て、廊下門から下の段へと戻ります。図はクリックにより拡大します。(正保城絵図備前国岡山城絵図)
岡山城本丸立体模型(図はクリックにより拡大します。)
目安橋: 烏城公園駐車場を出発し、大手側(表口)から内堀に架かり本丸に通じる土橋(目安橋)を渡ります。
池田光政の代に、橋のたもとに領民からの投書を受け付けるための目安箱(めやすばこ)が置かれたことからこの名がついたそうです。橋は明治になって撤去され、土橋に改められましたが、欄干を飾っていた擬宝珠(ぎぼし)は、天守内に収蔵されています。
目安橋古写真: 目安橋の奥の建物は大納戸櫓、右の高い建物は天守。
本丸下の段(大納戸櫓跡から撮影): 昭和28年(1953)にこの南東部一帯にテニスコートとその附属施設が建設され、長く使用されてきましたが、平成17年(2005)に撤去され、現在発掘調査と史跡整備事業が進められています。
供腰掛(とものこしかけ): 岡山城に登城した藩士らの付き人が、主人の用事が済むまで待機する場所でした。現在は、建物が復元され、休憩スペースとして利用できます。
不明門(あかずのもん)下石垣: 石垣の色が途中で変わっています。不明門下右隅石垣は宇喜多秀家期の石垣に被せて造られており、関ヶ原合戦後の小早川秀秋期か前池田期に築かれたものとみられます。上部は不明門を建てた時に積み足され、中位の一部は天保9年(1838)に崩落して修理を受けています。
鉄門(くろがねもん)跡: 「くろがね」は鉄のことで、門の木の部分を鉄板で覆ったいかめしい門であったことからこの名になったといいます。本丸の下の段南側から、中の段の表書院(表向御殿)へ通じる櫓門でした。
表書院は政治が行われた御殿(政治の場)で、登城してきた家臣は、中の段の南東の玄関から表書院(表向御殿)に入り、それぞれ所定の部屋で働きました。
藩主は本段御殿から渡り廊下を下って、北西の招雲閣に入り政務を行っていました。
大納戸櫓跡(本丸中の段側): 現在、櫓は存在しませんが、本丸の大手を守る要となる三重四階建ての城内最大の櫓でした。宇喜多直家の整備した亀山城(沼城)から移築したとの伝承もあります。壁には黒い下見板が張られており、藩政のための書類や道具類が保管されていました。
焼失前の古写真(本丸下の段より撮影): 右から太鼓櫓、大納戸櫓、修覆櫓
不明門(あかずのもん)(中の段側): 本丸本段に上がる入口として防備を高めた大型の城門です。本段には藩主が暮らす本段御殿(江戸城でいう大奥)があり、限られた人しか入れませんでした。そのため、この門は普段閉ざされ、名の起こりとなりました。
江戸時代、藩主の移動は、天守近く(北側)にあった廊下門の渡り廊下を通って行われたといわれます。
不明門は明治時代に取り壊されましたが、昭和41年(1966)に鉄筋コンクリート造で外観が再現されました。また、不明門の左側のように本段周囲の土塀がコンクリートブロック造により外観復元されています。
不明門(本段側)
月見櫓は、本丸の裏・北西方向を守る櫓です。1620年代に池田忠雄が築いた実物で、国の重要文化財に指定されています。
城外側からみると二階建ですが、城内側からみると三階建で、一番下の階は土蔵となっています。
城外側には、鉄板で覆われ下部に石落のある出窓があって、敵を監視、迎撃するための軍備を高めています。城内側では最上階に高欄と廻縁(手すりと縁側)があり、天井板も張られて、月見櫓の名のとおり風格を高めた造りです。戦国時代の終わりにあたり和戦両様の特徴を持った櫓といえるでしょう。
月見櫓につながる北と西の石垣の最上段には、内側から鉄砲で狙い撃ちするためのすき間がくりぬかれた銃眼石があり、櫓と一体で軍備を高めていました。
月見櫓南西面(内側) 北面(外側) 西面(外側)



発掘調査で見つかった築城当時の石垣(中の段): 発掘調査で見つかった宇喜多秀家が岡山城を築いた時の石垣です。
江戸時代の初めに城を改造する時に、この石垣を埋め立てて「中の段」を北に大きく広げたことから、地中に埋もれていました。今から400年あまり前の石垣で、自然の石をほとんど加工せずに用いるのが特徴です。30年ほど後に積まれた本丸中の段北側の現役の石垣が新式の割り石を使っているのと異なります。
この施設によって、石垣をまぢかに見て、城普請の時代的発展の実態を体感できました。
築城当時石垣1(南側) 石垣を埋め立てた造成土
(半分より少し上の印で金箔瓦が出土しています)


築城当時石垣2(北側)
天守南面(本段): 岡山城の天守は、豊臣秀吉の大坂城のように、外壁は黒塗りの下見板で覆われ、烏城(うじょう=「う」はカラスの意味)の別名があります。また、発掘によると、宇喜多秀家時代の金箔瓦が出土しており、築城時には、城内の主要な建物の随所に金箔瓦が用いられ、これにより金烏城とも呼ばれ、この天守は織田信長の安土城天守に似ているとされています。
天守台は、宇喜多秀家が1597年までに築いた高さ14.9mの石垣です。自然の石を用い、天守の石垣や1階の平面が不等辺五角形をしているのが特徴で、土台になった岡山の丘の地盤にあわせたためといわれています。この場所は、元々あった岡山という名の丘の端にあたり、石垣はその堅い崖面に支えられています。
西側(写真左)にある付櫓の塩蔵下の石垣は、江戸時代の1688~1703年に、せり出してきた元の高石垣を補強するために築かれ、塩蔵に天守への入口がありました。丁寧に面を整えた石が横に積まれ、最上段の石は角を丸く加工されているのが特徴です。
天守は明治維新後も残る貴重な存在で、昭和初期には詳細な図面が残されましたが、昭和20年(1945)6月29日の大空襲により、月見櫓を残し、焼失しました。しかし、昭和41年(1966)には、往事の姿を偲ばせる天守が再建されました。
焼失前の天守古写真
天守北面
廊下門の渡り廊下(本段側からの出入口): 本丸の搦手(裏手)にある櫓門で、門の上に敵を迎え撃つ上屋がありました。
上屋は本段御殿(城主の住居)と中の段の表書院(表向御殿、政治の場)を結ぶ城主専用の廊下としても使用されていたことから、廊下門と呼ばれていました。
昭和41年(1966)に再建されました。
廊下門の渡り廊下(中の段側出入口)
廊下門(中の段側より撮影)
廊下門(下の段側より撮影)
岡山城は空襲によりほとんどが焼失してしまいましたが、写真等の情報が多く残されていることから、徐々に元の姿に再建されつつあります。
今回は2022年11月に天守が大改修され、内部の展示も岡山城の歴史に触れることができるよう変更されたということを聞いて訪問しました(岡山城パンフレット)。しかし、例えば、本段周囲ですでに作ってしまったコンクリートブロック造の土塀やそこに開けられた狭間など史料に忠実でないような所も認識されています。
徐々に改善されて往時の美しい姿が取り戻されることを期待しております。
最後に、月見橋から見る旭川に面した美しい天守(北西面)と廊下門を示し、筆を置きます。
文責 岡島敏広
訪問した岡山城は日本100名城(70番)に選定されています。
今の岡山城付近には、旭川の流域に岡山、石山、天神山という3つの丘がありました。そのうちの石山にあった城を手に入れて本拠地とし、岡山の地を戦国の表舞台に立たせたのは宇喜多直家(1529~1582(1581説もあり))でした。

その子の秀家(1572~1655)は、岡山の丘に本丸を定め、今に残る岡山城を築き、城下町づくりを行いました(1597年天守完成といわれます)。江戸時代の文献によると、築城は豊臣秀吉の指導によるものといわれます。さらに、多岐にわたる旭川の河道を利用して、流れを現在のように城の北や東を守るように整えたり、堀づくりに活用し、堀の間に南北に長い城下町をつくりあげました。こうして今に続く中心市街地の原型ができ、岡山の名が、市名、県名となる礎となりました。

その後、城主となった小早川秀秋、池田氏により城と城下町は、さらに拡張され今に至ります。
岡山城縄張: 本日は、烏城公園駐車場から目安橋を渡り、本丸の下の段、中の段、本段の天守を見て、廊下門から下の段へと戻ります。図はクリックにより拡大します。(正保城絵図備前国岡山城絵図)

岡山城本丸立体模型(図はクリックにより拡大します。)

目安橋: 烏城公園駐車場を出発し、大手側(表口)から内堀に架かり本丸に通じる土橋(目安橋)を渡ります。
池田光政の代に、橋のたもとに領民からの投書を受け付けるための目安箱(めやすばこ)が置かれたことからこの名がついたそうです。橋は明治になって撤去され、土橋に改められましたが、欄干を飾っていた擬宝珠(ぎぼし)は、天守内に収蔵されています。

目安橋古写真: 目安橋の奥の建物は大納戸櫓、右の高い建物は天守。

本丸下の段(大納戸櫓跡から撮影): 昭和28年(1953)にこの南東部一帯にテニスコートとその附属施設が建設され、長く使用されてきましたが、平成17年(2005)に撤去され、現在発掘調査と史跡整備事業が進められています。

供腰掛(とものこしかけ): 岡山城に登城した藩士らの付き人が、主人の用事が済むまで待機する場所でした。現在は、建物が復元され、休憩スペースとして利用できます。

不明門(あかずのもん)下石垣: 石垣の色が途中で変わっています。不明門下右隅石垣は宇喜多秀家期の石垣に被せて造られており、関ヶ原合戦後の小早川秀秋期か前池田期に築かれたものとみられます。上部は不明門を建てた時に積み足され、中位の一部は天保9年(1838)に崩落して修理を受けています。

鉄門(くろがねもん)跡: 「くろがね」は鉄のことで、門の木の部分を鉄板で覆ったいかめしい門であったことからこの名になったといいます。本丸の下の段南側から、中の段の表書院(表向御殿)へ通じる櫓門でした。
表書院は政治が行われた御殿(政治の場)で、登城してきた家臣は、中の段の南東の玄関から表書院(表向御殿)に入り、それぞれ所定の部屋で働きました。
藩主は本段御殿から渡り廊下を下って、北西の招雲閣に入り政務を行っていました。

大納戸櫓跡(本丸中の段側): 現在、櫓は存在しませんが、本丸の大手を守る要となる三重四階建ての城内最大の櫓でした。宇喜多直家の整備した亀山城(沼城)から移築したとの伝承もあります。壁には黒い下見板が張られており、藩政のための書類や道具類が保管されていました。

焼失前の古写真(本丸下の段より撮影): 右から太鼓櫓、大納戸櫓、修覆櫓

不明門(あかずのもん)(中の段側): 本丸本段に上がる入口として防備を高めた大型の城門です。本段には藩主が暮らす本段御殿(江戸城でいう大奥)があり、限られた人しか入れませんでした。そのため、この門は普段閉ざされ、名の起こりとなりました。
江戸時代、藩主の移動は、天守近く(北側)にあった廊下門の渡り廊下を通って行われたといわれます。
不明門は明治時代に取り壊されましたが、昭和41年(1966)に鉄筋コンクリート造で外観が再現されました。また、不明門の左側のように本段周囲の土塀がコンクリートブロック造により外観復元されています。

不明門(本段側)

月見櫓は、本丸の裏・北西方向を守る櫓です。1620年代に池田忠雄が築いた実物で、国の重要文化財に指定されています。
城外側からみると二階建ですが、城内側からみると三階建で、一番下の階は土蔵となっています。
城外側には、鉄板で覆われ下部に石落のある出窓があって、敵を監視、迎撃するための軍備を高めています。城内側では最上階に高欄と廻縁(手すりと縁側)があり、天井板も張られて、月見櫓の名のとおり風格を高めた造りです。戦国時代の終わりにあたり和戦両様の特徴を持った櫓といえるでしょう。
月見櫓につながる北と西の石垣の最上段には、内側から鉄砲で狙い撃ちするためのすき間がくりぬかれた銃眼石があり、櫓と一体で軍備を高めていました。
月見櫓南西面(内側) 北面(外側) 西面(外側)



発掘調査で見つかった築城当時の石垣(中の段): 発掘調査で見つかった宇喜多秀家が岡山城を築いた時の石垣です。
江戸時代の初めに城を改造する時に、この石垣を埋め立てて「中の段」を北に大きく広げたことから、地中に埋もれていました。今から400年あまり前の石垣で、自然の石をほとんど加工せずに用いるのが特徴です。30年ほど後に積まれた本丸中の段北側の現役の石垣が新式の割り石を使っているのと異なります。
この施設によって、石垣をまぢかに見て、城普請の時代的発展の実態を体感できました。
築城当時石垣1(南側) 石垣を埋め立てた造成土
(半分より少し上の印で金箔瓦が出土しています)


築城当時石垣2(北側)

天守南面(本段): 岡山城の天守は、豊臣秀吉の大坂城のように、外壁は黒塗りの下見板で覆われ、烏城(うじょう=「う」はカラスの意味)の別名があります。また、発掘によると、宇喜多秀家時代の金箔瓦が出土しており、築城時には、城内の主要な建物の随所に金箔瓦が用いられ、これにより金烏城とも呼ばれ、この天守は織田信長の安土城天守に似ているとされています。
天守台は、宇喜多秀家が1597年までに築いた高さ14.9mの石垣です。自然の石を用い、天守の石垣や1階の平面が不等辺五角形をしているのが特徴で、土台になった岡山の丘の地盤にあわせたためといわれています。この場所は、元々あった岡山という名の丘の端にあたり、石垣はその堅い崖面に支えられています。
西側(写真左)にある付櫓の塩蔵下の石垣は、江戸時代の1688~1703年に、せり出してきた元の高石垣を補強するために築かれ、塩蔵に天守への入口がありました。丁寧に面を整えた石が横に積まれ、最上段の石は角を丸く加工されているのが特徴です。
天守は明治維新後も残る貴重な存在で、昭和初期には詳細な図面が残されましたが、昭和20年(1945)6月29日の大空襲により、月見櫓を残し、焼失しました。しかし、昭和41年(1966)には、往事の姿を偲ばせる天守が再建されました。

焼失前の天守古写真

天守北面

廊下門の渡り廊下(本段側からの出入口): 本丸の搦手(裏手)にある櫓門で、門の上に敵を迎え撃つ上屋がありました。
上屋は本段御殿(城主の住居)と中の段の表書院(表向御殿、政治の場)を結ぶ城主専用の廊下としても使用されていたことから、廊下門と呼ばれていました。
昭和41年(1966)に再建されました。

廊下門の渡り廊下(中の段側出入口)

廊下門(中の段側より撮影)

廊下門(下の段側より撮影)

岡山城は空襲によりほとんどが焼失してしまいましたが、写真等の情報が多く残されていることから、徐々に元の姿に再建されつつあります。
今回は2022年11月に天守が大改修され、内部の展示も岡山城の歴史に触れることができるよう変更されたということを聞いて訪問しました(岡山城パンフレット)。しかし、例えば、本段周囲ですでに作ってしまったコンクリートブロック造の土塀やそこに開けられた狭間など史料に忠実でないような所も認識されています。
徐々に改善されて往時の美しい姿が取り戻されることを期待しております。
最後に、月見橋から見る旭川に面した美しい天守(北西面)と廊下門を示し、筆を置きます。

文責 岡島敏広
2025年2月17日(月)三上陣屋跡訪問(野洲市)
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
2025年1月14日(火)沖縄県竹富島(竹富町)の小城盛(クスクムイ)と蔵元
2024年10月25日(金)レイカディア地域文化43期'24秋のバス旅行「尾州犬山城とひつまぶしの旅」(愛知県)
2024年10月9日(水)岐阜県飛騨高山陣屋訪問
2024年10月8日(火)長野県信州松代城訪問
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
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Posted by
joukaku
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