2024年10月28日

2024年10月25日(金)レイカディア地域文化43期'24秋のバス旅行「尾州犬山城とひつまぶしの旅」(愛知県)

レイカディア地域文化学科43期生で秋のバス旅行に出かけ、愛知県犬山市にある犬山城と青塚古墳を訪問しました。お昼は折角愛知県を訪れましたから、「ひつまぶし」を味わいました。

犬山城(いぬやまじょう)は、尾張国と美濃国の境、現在で言えば愛知県犬山市で、木曽川南岸の地「犬山」にあった日本の城です。江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつで、現存する天守では最古です。また、城跡は「犬山城跡」として国の史跡に指定され、天守が国宝指定された5城のうちの一つです(他は姫路城、松本城、彦根城松江城)。日本城郭では最後(2004年まで)まで個人が所有されていました。
室町時代の天文6年(1537)、織田信長の叔父、織田信康による築城で、以前は「金山越え」の伝承に基づいて最古の現存天守と言われていましたが、解体修理の結果から天守の移築は否定され、天正13年(1585)から同18年(1590)頃に切り出された木材が使われていることから、科学的に最古であることが判明しました
木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固(うしろけんご)の城」で、中山道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝として、戦国時代を通じて重要な拠点となりました。その後、犬山城主はめまぐるしく変わりましたが、江戸時代に入り、元和3年(1617)尾張徳川家の重臣成瀬正成(なるせまさなり)が拝領。このとき改良が加えられ、現在の天守の姿ができたといわれています。以後、成瀬家が幕末まで城主を務めることになります。

          成瀬正成

犬山城縄張図: 天和元年(1681)の「尾張国犬山城絵図」の天守周辺部分です。図はクリックすると拡大します。
他にも縄張図がこちらで見ることができます。

南東方向からの犬山城古写真(明治初年): 明治時代には犬山城は廃城と決定され、櫓や門などは売り払われていきましたが、いくつかの櫓の写った解体前の犬山城の古写真がありましたので示します。

国宝犬山城石碑: 登城道入口で、ここから城の実際の訪問ですが、これから訪問する区域は犬山城二の丸と本丸に当たります。犬山城第1、第2駐車場は三の丸に当たります。

猿田彦神社: 写真右手は松の丸跡になり、猿田彦大神を祀る猿田彦神社が鎮座しています。犬山猿田彦神社ともいい、三光稲荷神社の境内社ですが、独立した存在で、社務所でも三光稲荷神社と猿田彦神社を併記しています。建築、方位除け、災難除け、開運、事業発展、五穀豊穣、大漁満足、家内安全、交通安全、海上安全など、古来多くの御神徳で知られています。
写真の橋の下は堀跡で、今は道路になっており、橋を渡ったところに中門跡があります。
なお、大手門は三の丸と城外の境(犬山市福祉会館跡地)にありましたが、現存していません。

中門の辺り: 犬山城は観光ボランティアガイドさんの説明で巡りました。中門があった所には、今は案内板が立てられています。中門は、ここから先、二の丸、そして本丸へと続くという位置にある門で、櫓門だったそうです。しかもこの案内板の辺りには番屋(詰所)がありました。さらにまっすぐ登城すると空堀にぶつかりますが、その左手に小さな空間があります。今は、そこに姉妹都市の日南市から寄贈されたベンチや机が置いてありますが、この辺りには門番のための風呂があったと言われています。

登城道の第二の門・矢来門は、ここにはありませんが、あったのは高麗門(こうらいもん)です。登城道から真っ直ぐに進んで、空堀にぶつかったところを右に曲がると、矢来門が待ち構えていました。現在は礎石(そせき)がひとつだけ残っています。高麗門は機能性重視の門で、城内から外の様子を見やすいように構造が工夫され、登城道において矢来門とこの次の黒門との間で敵を囲める工夫がなされていました。現在は扶桑町専修院に移築され東門となって存在しており、右側の大扉には潜り戸があります。明治7年(1874)当時の価格で20円(現在価値は39万円ほど)で払下げられました。

松の丸表門の位置表示: 針綱神社から三光稲荷神社のあたりは、松の丸という曲輪があり、松の丸御殿がありました。この表示の場所には登城道から松の丸に出入りするための高麗門の「松の丸表門」が建っていて、この門も73円(現在価値は143万円ほど)で払下げられて移築され、一宮市の浄蓮寺山門として現存しています。鬼瓦には犬山藩成瀬公の定紋かたばみ紋があります。
松の丸は城郭部分の第1の防衛ラインで、登城道は櫓門形式の中門により出入口は厳重に守られていました。
犬山城の門についてまとめたブログを見つけましたので、詳しくはこちらをご覧ください。なお、移築され、現存している門は計5つあります。

   矢来門表示                 松ノ丸表門表示

三光稲荷神社: 創建は明らかではありませんが、天正14年(1586)の伝承があります。犬山城内三狐寺山に鎮座され(現在の丸の内緑地公園内)、古きより織田信長の叔父織田信康の崇敬殊に厚く、また犬山城主成瀬家歴代の守護神として天下泰平、五穀豊穣、商売繁昌、交通安全の祈願を籠め、数々の神宝が寄進されました。現在の地(針綱神社西)には、昭和39年(1964)10月に移築されました。神仏習合で三光寺とも称していましたが、明治時代初期の神仏分離により三光稲荷神社となりました。

横堀(空堀): 登城道北側には江戸時代から堀がありました。人工的につくった切岸や石垣とともに、本丸へ続く登城道から直進させない役割があり、鉄壁の防御を誇っていました。
かつては水堀の時代もあったようですが、後世に空堀となり、犬山城郭内で唯一埋められていない堀です。

黒門の位置表示: 江戸時代、この表示のある場所には登城道の第3の門で高麗門の「黒門」があり、今も礎石が残っています。この場所で敵を食い止めるとともに、道具櫓(現在の神社社務所の位置)や樅の丸(もみのまる)から攻撃できるなど、攻守に秀でた構造となっていました。黒門は明治9年(1876)に当時の価格で23円(現在価値は45万円ほど)で払下げられ、丹羽郡大口町の徳林寺山門として、移築されています。

針綱神社: 桐ノ丸跡にあります。太古より犬山の峰(現在の犬山城天守閣付近)に鎮座し、濃尾の総鎮守でした。創建年は不明ですが、延喜式に記載されていることから1000年以上この犬山の地に鎮座しています。
古くは現在の犬山城天守閣付近に鎮座していましたが、天文6年(1537)犬山城築城に際し、織田信康により白山平山(現在地より東方にある山)に遷座され、その後の慶長11年(1606)市内名栗町に遷座されています。そして明治維新の後の明治15年(1882)、現在の場所に再び遷座されました。過去鎮座された白山平山(小島町)と名栗町には犬山祭の際、御神輿が渡御されます。

小銃(鉄砲)櫓: 鉄筋コンクリート造りで復興されたものです。二層二階の櫓で、このすぐ下に高麗門の岩坂門があったことから、守備面で重要な櫓です。復興された櫓は茶室用の模擬櫓ですが、棟の向き、外形などは旧櫓とは異なっています。

鉄門(くろがねもん): 登城道最後の本丸入口の門で、写真のように鉄板で防御されていたことから、かつて鉄門と呼ばれていました。絵図からは門の上が櫓になっている櫓門で、写真の建物は往時の建物ではなく、鉄筋コンクリート造りで昭和40年(1965)に復興された建物です。
本丸には出入口は2つしかなく、もう一つは搦手門の七曲門です。

望楼型天守 外観三重(内部四階、石垣の中二階付)で、天守南東側に天守に直結した形で切妻の付櫓が設けられています。最上階には花頭窓が見えますが、実際には窓はなく、装飾の窓枠が付けられたものです。

内部に入り見学します。
地下1階、階段部以外の3面は石垣。地下2階からこの階までは石垣の内部です。

1階: 納戸の間、中央部には4室が配置され、その周囲は武者走りとなっています。

2階: 武具の間、中央に武具の間があり、その周囲を武者走りが廻ります。

3階: 破風の間、入母屋屋根の中にあり、望楼部分の下部になります。ガイドさんの話では、落城時には城主は窓を閉めて真っ暗にした中、ここで切腹をするとのことでした。

4階: 高欄の間、最上部の望楼部分にあたり、周囲を廻縁と高欄が巡ります。歴代の城主の肖像画が掲げられていました。4階の天井は他の現存天守と異なり、通常の住宅の天井のように天井が張られていました。ごく最近まで個人所有だったからなのだと思われます。
犬山城を楽しむためのウェブサイト」に詳しい情報がまとめられていますので、紹介いたします。

レストラン備長でのひつまぶしの昼食: お昼は折角、愛知県に来ましたから、ひつまぶしに舌鼓を打ちました。ひつまぶしの発祥には津市と名古屋市の2つの説があるようです。

青塚古墳の説明風景: 昼食後は青塚古墳を訪問し、学芸員さんによる解説を受けました。
青塚古墳は墳長123m、高さ約12mの前方後円墳で犬山市では、こちらも昭和58年(1983)に国史跡として指定されています。東海地区最大級の大きさを誇り、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いの際には秀吉陣営の砦として使用されたことから、別名「青塚砦」とも呼ばれています。

青塚古墳墳丘: 青塚古墳の約3.5km東にある尾張二宮大縣(おおあがた)神社では、「青塚古墳は大縣神社の御祭神である神裔 大荒田命(おおあらたのみこと)の墳墓である」と伝えられています。

これで計画された訪問先はすべてこなしました。
本日は、地域文化学科卒業生にふさわしい研修に主眼をおいた旅行を企画いただき、かつ、往復のバス内では楽しく過ごし親睦を深められるよう、綿密に計画いただいた幹事さん(H.S.さん、M.T.さん)をはじめ、それを支援いただいた皆様に感謝いたします。
                                     文責 岡島 敏広

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Posted by joukaku at 15:26 Comments(0)その他

2024年10月23日

2024年10月18日(金)城郭OB第83回例会「金ヶ崎城址・金ヶ崎の退き口」(福井県)

福井県敦賀市の金ヶ崎城址を探訪地として、レイカディア大学39期生主催により、城郭探訪OB会第83回例会が開催されました。筆者は初めてのOB会例会参加で、今回は52名のOB会会員が参加しました。例会では参加者はJR敦賀駅に集合し、そこからスタートして、例会の総歩行歩数は17,000歩でした。

金ヶ崎城は、平安時代末期、治承・寿永の乱(源平合戦)の時代に、平通盛が北陸で勢力を持つ木曾義仲に対抗するため城を築いたのが最初と言われています。
金ヶ崎城址には現在は石碑が立つだけですが、元亀元年(1570)4月、織田信長が越前・朝倉義景征伐の軍を敦賀に進軍、天筒(てづつ)山城、金ヶ崎城を落として越前に攻め入ろうとした時、義弟・浅井長政裏切りの報を受けた「金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口、金ヶ崎崩れ)」と呼ばれる撤退戦の舞台として有名です。朝倉・浅井軍に挟まれ窮地に至った信長は殿(しんがり)を務めた木下藤吉郎(秀吉)の活躍により難関を突破、無事に京へ戻ることができました。それから2ヶ月後、信長軍は近江に侵攻、浅井・朝倉連合軍との姉川の合戦を制し、3年後の元亀3年(1572)の浅井、朝倉滅亡に繋げました。
現在、この城は「金ヶ崎城跡」として、国の史跡に指定されています。

また、金ヶ崎城は南北朝時代の延元元年(1336)に、尊良(たかよし又はたかなが)、恒良(つねよし又はつねなが)両親王を守護した新田義貞と足利軍が戦った古戦場としても知られます。中腹の金崎宮には戦いに関係する後醍醐天皇の皇太子恒良親王尊良親王の二人が祀られています。
戦いでは城の陥落とともに恒良親王は捕縛され、後に毒薬をもられて亡くなります(御年15歳)。また、尊良親王(御年27歳)は新田義貞の長男の新田義顕(御年18歳)とともに落城時自害しました。

  新田義貞             木下藤吉郎

第83回例会のコースは以下の通りで、麓の金前寺前から金ヶ崎城址に登り、引き続いて手筒山城址(展望塔)を経由して、金ヶ崎公園手筒山駐車場前に下りました。JR敦賀駅に向かう途中、気比神宮にも立ち寄っています。

JR敦賀駅➞金ヶ崎宮➞月見御殿➞ 城戸址➞天筒山展望塔➞
        天筒山登山口➞気比神宮➞JR敦賀駅

金ヶ崎城址探訪コース図: コース図は図をクリックすることにより拡大します。

金前寺前でのコースの説明: 説明を受け、これから金ヶ崎城址(月見御殿)へ向かいます。

愛宕神社: 金崎宮へ向かう階段を上り始めてまもなく右手に鳥居が見えます。古くから愛宕大権現と尊称し、火防の神と崇め、社殿の造営には領土酒井藩・松平福井藩からも寄進があったとされます。

金崎宮: 後醍醐天皇の皇子の尊良親王と恒良親王の二人の親王が御祭神として祀られています。明治23年(1890)に創建され、一度焼失した後、明治39年(1906)に現在地に再建されました。毎年4月に花換(はなかえ)神事と花換まつりが実施され、たくさんの人が桜の花の小枝を交換し合って賑わっています。

城址碑とその左手にある登城口: 城址碑から写真左側にある「花換の小道」を登って行きます。

尊良親王墓所見込地: 登山の途中、墓所見込地の横を通過しました。今回、墓所見込地は訪問できていませんが、この階段を上った所で、金崎宮本殿背後の高台に尊良親王墓所見込地があります。そこには円筒形の石碑が立ち、「尊良親王御陵墓見込地」「明治九年十月」と刻まれています。自刃(じじん)した尊良親王の首が送られ、葬礼が行われた墓所指定地が京都市左京区永観堂近くにあることから、落城時の親王自刃の地ではないかと見られています。この場所から経筒、和鏡、銅椀が出土しています。

金ヶ崎古戦場碑: 石碑は月見御殿の手前、古墳近くにあります。金ヶ崎城は、南北朝の戦い、守護斯波氏と守護代甲斐氏の戦い、元亀元年の金ヶ崎の戦いと多くの合戦の舞台になっていますが、この碑は南北朝時代の南朝の主力として北朝と戦った新田義貞の戦いを刻んだものです。

月見御殿(本郭): この付近は金ヶ崎の最高地(海抜86m)で月見崎といい、通称月見御殿と呼ばれます。南北朝時代の本丸跡で、戦国時代などにも武将が月見をしたと伝えられています。ここで集合写真を撮影しました。

織田・朝倉の金ヶ崎の戦いの時には、朝倉側は朝倉景恒を総大将のもと金ヶ崎城に籠っていましたが、兵力差もあり信長の降伏勧告を受け入れ開城しました。

三の木戸(城戸)跡: 南北朝時代の金ヶ崎城の第3の城門で、三の木戸、二の木戸、一の木戸それぞれの木戸跡には堀切が残されています。ここ三の木戸の地名は「水の手」と呼ばれ、当時の用水場で付近から清水が湧き出ていたと伝えられます。

焼米出土地: ここも三の木戸と同じ「水の手」と呼ばれる清水が湧き出ていたという平坦地にあり、江戸時代にこの場所から炭化米が出土しました。この付近には、金ヶ崎城の兵糧庫があり、織田・朝倉の攻防戦での落城の際、兵糧庫が焼け落ちたものと思われます。

二の木戸(城戸)跡: 南北朝時代の金ヶ崎城の第2の関門跡で、この付近で激戦があったと伝えられています。その南北朝時代の戦いが記された「太平記」にも、一の木戸と二の木戸の陥落についての記述があり、防御上の要だったことがうかがえます。

二の木戸と一の木戸間の堀切: 上掲の金ヶ崎城址探訪コース図に、堀切や畝状竪堀の位置が示されていますが、写真のような堀切が切られています。

一の木戸(城戸)跡: 南北朝時代の金ヶ崎城の最初の関門跡で、この付近で激戦があったと伝えられています。ここにある堀切は敵の侵入を妨害する役割を持ち、戦国時代の金ヶ崎の戦いでは朝倉氏も利用しています。

手筒山城跡: 天筒山城は中世の戦いの舞台となった金ヶ崎城の支城で、金ヶ崎城から尾根筋を南東に辿ると到達します。天筒山(171.3m)の最高所を主郭として、派生する尾根上にいくつもの曲輪群が設けられていたようです。構造は、山頂一帯の主郭群、山頂から金ヶ崎城に向かう尾根筋上に北Ⅰ群、南西に延びた稜線上に南Ⅰ群、その南に南Ⅱ群、南端に南Ⅲ群の五群からなる大規模な城砦です。金ヶ崎城ほど有名ではありませんが、このように城の堅牢さでは金ヶ崎城を上回ると考えられ、一体となって本来の機能が発揮出来る構成でした。
今回は、時間の関係で山頂を訪問したのみで、主郭の中央に設置された高さ約15mの観光用展望塔から周囲の風景を見晴らしました。

織田・朝倉の金ヶ崎の戦いにおいては、天筒山城に気比社の社家、嶋、宇野各氏や上田、中村、吉川、萩原入道などが立て篭もっていましたが、信長軍は天筒山城東南の池見湿地から天筒山城に一気に攻めのぼり、一日で天筒山城を陥落させました(信長公記巻3、元亀元年4月25日)。金ヶ崎城にいた朝倉景恒も、天筒山城に来て戦いましたが敗れ、一乗谷からの朝倉義景本隊の支援が遅れていたことから、信長からの降伏勧告を受入れ金ヶ崎城も開城して、府中(現越前市)で朝倉義景本隊に合流しようとしました。
しかし、ここで一乗谷上城戸近くの盛源寺南に朝倉氏から屋敷地(屋敷跡の小字名「浅井殿(あざいどん)」や「浅井前」が残る)を与えられ、主従関係にあった浅井長政が朝倉軍として参戦し、信長の金ヶ崎の退き口の話となります。

手筒山にて敦賀湾を背景に集合写真を撮影: 撮影後、林道に沿って天筒山登山口まで下りました。

気比神宮鳥居: 手筒山よりJR敦賀駅まで戻る途中、越前国一宮の気比神宮に立ち寄りました。
気比神宮は、北陸道諸国から畿内への入り口となる敦賀港を有する地に立地し、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にもあたる要衝であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社でした。大宝2年(702)の建立と伝えられています。
織田信長による金ヶ崎の戦いで、気比神宮は灰燼に帰し、社僧離散、社領没収、祭祀廃絶するまでに至りましたが、江戸時代越前福井藩により復興しました。

気比神宮本殿

気比神宮訪問後は、JR敦賀駅に戻り、本日の例会は解散となりました。
例会実施にご尽力いただきました39期OB会員の皆様に感謝いたします。
                              文責 岡島敏広

次回は、2024年11月14日(木)に日爪城探訪が計画されています。

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Posted by joukaku at 13:03 Comments(0)例会

2024年10月22日

2024年10月9日(水)岐阜県飛騨国高山陣屋訪問

個人旅行で、10月8日の信濃国川中島松代城に引き続き、高山陣屋を訪問しました。
幕末には全国に60数ヶ所あったと言われている代官・郡代役所跡の中で、当時の主要建物が現存しているのは、高山陣屋が日本で唯一です。
昭和4年(1929)には、国史跡に指定されています。

近世の飛騨国は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武将の金森長近を初代とし、高山城を築城後、金森氏が6代にわたって治めていました。金森氏は、山林と鉱山の開発に力を入れ、国内の経済発展に努めました。山から伐り出された材木は美濃・尾張・伊勢・越中などの諸国に売られ、飛騨国の財政を支えました。

           金森長近

高山陣屋は、江戸幕府が飛騨国を直轄領として管理するために設置した代官所・飛騨郡代役所(陣屋)です。
元来は、飛騨高山藩主であった金森氏の所有する下屋敷(向屋敷)として使われていましたが、107年間にわたって飛騨国を治めていた金森氏が元禄5年(1692)に国替えとなり、飛騨国は幕府直轄地となりました。直轄領になった理由は現在明らかではありませんが、飛騨国の豊富な山林資源が背景にあったと言われています。
幕府が飛騨を直轄領として以降、この下屋敷に代官所(陣屋)が移され、高山陣屋は伊奈忠篤らによって整備され、安永6年(1777)以降は郡代役所となりました。明治維新に至るまでの177年間に25代の代官(郡代)が江戸から派遣され、幕府直轄領の行政・財政・警察などの政務を行いました。金森時代の山林政策を引き継いだほか、山林調査や植林も行いました。郡役所・代官(郡代)役宅・御蔵等を併せて「高山陣屋」と称します。
明治維新後は、主要建物がそのまま地方官庁として使用されてきました。昭和44年(1969)に飛騨県事務所が移転したのを機に、岐阜県教育委員会は、全国にただ一つ現存する徳川幕府郡代役所を保存するため、平成8年(1996)3月まで三次にわたり復元処理を行いました。

高山陣屋見取図: 見取図中の丸数字は、以下に記載している説明の番号と一致しています。また、高山陣屋見取図の古図は次のリンクから見ることができます。御陣屋絵図

高山陣屋ジオラマ

①高山陣屋趾碑: 高山陣屋の史跡碑を見ながら、表門を通って陣屋に入ります。

②表門: 表門は天保3年(1832)に再建されたものが現存しています。

③門番所: 同じく天保3年(1832)に建てられました。表門のすぐとなりにあり、門番(もんばん)が交代でつめていました。

④玄関: 高山は「天領」と呼ばれる天下人(=徳川将軍)の直轄領で、玄関幕には葵紋が掲げられています。江戸時代にはこの紋章は徳川一門の施設でしか掲げることができませんでした。
高山陣屋内には役所部分だけで玄関が7ヶ所あり、身分によって出入りする場所が決められていました。入館時に使用する玄関の間に直結する入り口は、代官・郡代もしくは幕府から派遣された巡見使(じゅんけんし)だけが通ることができました。

⑤御役所(おやくしょ): 代官・郡代、その部下である手附(てつき)・手代(てだい)が執務する部屋で役所の中枢部です。手附・手代は、代官・郡代などの部下として実務を担当した下級役人で、年貢徴収や山林の管理、土木行政、警察や裁判まで地方行政にまつわるさまざまな実務を行っていました。
ここは文化13年(1816)に建てられました。

⑥北の御白州(きたのおしらす): 御白州は取り調べを行ったり、判決を言い渡した場所です。裁判における法廷の役割を果たした部屋とされています。 御白洲は陣屋内に2ヶ所あり、こちらは御役所前にあり、特に人どうしのもめごとを解決するところでした。時には,表彰などもこの場で行われました。村からの訴えや願いごとを受ける、今で言うところの役所の窓口となる場所です。

⑦帳綴場(ちょうつづりば)から見た庭と玄関: 帳綴場は、幕府に提出する文章類を作成する役人が使用した部屋です。写真奥に紫地に白の葵紋が掲げられた玄関が見え、その手前の格子は北の御白州の外側からの様子に当たります。

⑧座敷: 代官・郡代が客を接待したとされる部屋です。また、部下との相談の場としても用いられました。

⑨台所: 代官・郡代とその家族の食事を用意する場所です。展示されている食器や破片は郡代役宅跡の発掘調査により出土したものです。

御白州: こちらでは罪を犯した人の取り調べや裁きが行われ、いわゆる法廷の役割を果たしました。江戸時代の取り調べは、自白が重視されていました。そのため自白が得られない場合には厳しい拷問が課される場合もあったようです。
ただし、高山陣屋に置かれた拷問道具は、人々を威圧するために置かれていたと考えられており、実際は牢屋内(現在の上一之町・海老坂付近)で行われていたとのことです。
時代劇などに登場する御白州は、その名の通り白い砂が敷かれていますが、高山陣屋の御白州は白くありません。飛騨の国には海がなく、御白州に敷くための白い砂が十分に手に入りません。そのため河原のぐり石を敷いて代用しました。
また、飛騨国が雪国であることから、屋根がないと冬場雪に埋もれ使い物にならなくなるという実用的な理由から、建物の中に御白州が作られました。
さらに、島流しの刑などが出ると海がないため、まずはこの場に置いてあるような籠で罪人を江戸まで輸送するところから始めたそうです。

➉拷問方法が絵にして掲示されていました。

御蔵(おんくら): 近隣の村々から納められた年貢米を収納する米蔵です。
幕府直轄領となった直後の元禄8年(1695)に高山城三之丸より移築されました。創建は三之丸が築造された慶長年間(1600年頃)と考えられ、現存する江戸時代の米蔵(土蔵)として全国でも最古・最大級を誇ります。
御蔵の特徴的な板葺き屋根は、釘を使わずに板を木の棒と石で押さえる「石置長榑葺(いしおきながくれぶき)」という葺き方を採用しています。材料には、油分を多く含み水をはじく利点を生かしてヒノキ科のネズコが利用されていました。しかし、最近ではサワラやスギも利用します。板は5年単位で上下・表裏を返して20年もの間、素材を生かすこの工法を現在も守り続けられています。

高札: 御蔵の中には、高山の宮川に架かる赤い中橋の袂にあった高札場の高札も展示されていました。高札は幕府が決めた掟や禁制などを周知徹底させるために、それを板に墨で書いた掲示板です。町の中心地に高札場を設置し、そこに掲示されました。

ここで高山陣屋の見学は終わり、その後、本日は想定外でしたが秋の高山祭の開催日(10月9~10日)に当たりましたので、下のように高山祭を見て自宅へと帰宅することにしました。

                            文責 岡島 敏広


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Posted by joukaku at 15:17 Comments(0)その他

2024年10月21日

2024年10月8日(火)長野県信濃国松代城訪問

個人旅行で、昨日の信濃国小諸城に引き続き、松代城を訪問しました。
松代城は日本100名城に選定され、No.26です。
また、松代城では本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されています。

松代城は千曲川東方にある平城で、北信濃を支配するために永禄3年(1560)、甲斐の武田晴信(信玄)が越後の上杉謙信との「川中島の戦い」(1553-1564)の際に武田方の拠点として築城した「海津(かいづ)城」が松代城のはじまりとされています。
信玄の死後には、戦国の動乱とともに城主はめまぐるしく変転しました
森忠政が城主となった慶長5年(1600)には二の丸・三の丸を整備し、石垣に築きなおして「待城」と改名、次の松平忠輝の時には「松城」と呼ばれるようになりましたが、元和8年(1622)に真田信之上田城より移り、第3代藩主真田幸道のときに、幕命により「松代城」と改名されました。

 武田晴信(信玄)             真田信之

松代城は戦国時代に築城されて明治時代まで存続した城で、300年以上の間、北信濃における拠点的な場所でした。千曲川によって形成された自然堤防の頂部(中央部)に方形の石造りの本丸を築き、土造りの二の丸・三の丸からなります。

松代城絵図: 絵図はクリックすると拡大します。

廃城後は建物を失ったために、城としての景観を大きく損なっていましたが、長野市は文化遺産を後世に伝えるため、平成の大普請(環境整備工事)を行い、城跡を修理・復元しました。本丸の太鼓門と北不明門等の城門や木橋、石垣、二の丸土塁、堀などは江戸時代終わりごろの姿に限りなく近い状態で再現されています。
松代城は背後を流れる千曲川がたびたび洪水を起こしたため、その修復と千曲川の改修を何度も行っています。中でも「戌の満水」と呼ばれる寛保2年(1742)の被害は大きく、幕府に城普請の許可を得るとともに、1万両の拝借金を許されました。なお、二の丸を焼失した寛永2年(1625)、本丸・二の丸・三の丸を焼失した享保2年(1717)、花の丸を焼失した嘉永6年(1853)など、城内での火災もたびたび起こっています。
こうした浸水被害を受ける本丸にかわり、江戸時代の中頃からは本丸の南西にあった花の丸御殿が藩主の政務の場及び生活の場となりました。

江戸時代末期の松代城のイメージ: 下図はクリックすると拡大します。
明治5年(1872)に廃城となった松代城は、城内の土地・建物を順次払い下げられ、桑畑として開墾され、建物も取り壊されました。また、御殿が存在した花の丸は、明治6年(1873)に放火され焼失してしまいました。
松代城の建物で現在まで残っているのは、三の堀の外に建てられていた新御殿(真田邸)などわずかです。昭和56年(1981)、本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿と共に国史跡に指定されました。また、平成24年(2012)3月の長野電鉄屋代線の廃線を受け、平成27年(2015)には、二の丸南東部や三ケ月堀、丸馬出しなどを含む範囲が追加指定を受けています。

北不明門(きたあかずのもん): 手前の表門(枡形門)と奥の北不明門(櫓門)。城郭北側駐車場より訪問しましたので、北不明門側からの見学となります。
本丸の裏口(搦手)に位置する門で、太鼓門と同様に櫓門と表門(枡形門)の2棟による構成です。18世紀中ごろに行われた千曲川改修以前は、門が河川敷に接していたことから、「水之手御門」と呼ばれることもありました。
絵図史料をもとにして、当時の門礎石をそのまま利用して忠実に復元されています。

北不明門(櫓門)枡形側: 櫓門は石垣に渡らずに独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門です。

北不明門本丸内側

本丸戌亥櫓(いぬいやぐら)の櫓台: 北不明門の西に隣接していた松代城で最も高い櫓の跡です。絵図面では2階建ての隅櫓(すみやぐら)が建っていたとあり、川中島平を広く一望できたと考えられます。 野面積みで積まれた櫓台の石垣は抜本的な積み直しはおこなわれず、欠落した小石の挿入程度にとどめられています。

海津城址の碑: 海津城は山本勘助が築城し、甲州流築城の模範になったといわれる名城です。川中島平全体をにらむ、戦略的に重要な地点にあり、三方を山に囲まれ、西は南北に流れる千曲川という自然の地形を巧みに利用した堅固な造りでした。海津城と称されるように、かつては海のごとき千曲川のほとりにありましたが、寛保年間の瀬直しにより城は川岸から離れました。

                                   山本勘助

元和度 松代城御本丸古図(真田信之時代): 真田信之時代に本丸にあった御殿の配置図で、図をクリックすると拡大図にリンクします。
本丸内には江戸時代中頃まで政庁や藩主の住居のための御殿がありました。調査では建物礎石や井戸跡、焼けた土壁など享保2年(1717)の火災で焼失した御殿の痕跡が数多く見つかっています。
しかし、度重なる水害の影響により明和7年(1770)に城の南西に位置した花の丸に御殿を移転しました。

太鼓門本丸内側: 太鼓門は本丸内では最も大きな門でした。本丸大手の出入り口(虎口)は、枡形に石垣をまわし、二層の櫓門(太鼓門)と枡形門(橋詰門)の2つの門で構成されています。このような枡形で本丸を厳重に守っていました。
良好に残っていた門礎石をそのまま利用し、絵図面などから、栩(とち)葺(板葺)で切妻屋根の姿を忠実に復元しています。
太鼓門の名は、藩士に登城時刻を知らせたり、緊急連絡をするための太鼓を備えていたことに由来します。

太鼓門枡形側

太鼓門前橋: 太鼓門表門(橋詰門)の前には橋が架かっていました。
内堀の調査では堀の中から30本以上の折れた橋脚が発見されています。橋脚の形状や橋脚の打ち込まれた層位の違いから、橋の架けなおしが4回以上行われたことが分かりました。このことから、災害の度に橋が崩落・破損したという当時の史料記載が裏付けられました。
発見した橋脚や江戸時代末期の絵図面をもとに前橋を忠実に復元しています。

埋門: 埋門は二の丸の土累に3か所あったようで、本丸西側に復元されています。

二の丸南門: 南門の虎口は、現在は車道に削られた形になっている丸馬出に繋がっています。丸馬出は上掲の松代城絵図とイメージ参照

真田邸(新御殿)入口: 新御殿の真田邸は幕末の元治元年(1864)、9代藩主真田幸教が、義母・貞松院(幸良の夫人)の住まいとして元治元年(1864)に建築した松代城の城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていました。御殿(主屋)は、表座敷や居間・湯殿など、江戸時代の大名邸宅の面影をよく残しています。隠居後の幸教はここを住まいとし、明治以降は伯爵となった真田氏の私宅となりました。

新御殿玄関: 正面の玄関には、広い式台が設けられています。式台は玄関の低くなった板敷の部分で、武家の家にだけ許された設備です。
また、正面玄関は江戸時代には殿様やお客様の出入りにだけ使われ、家老など上級武士でも、右の「小玄関」から出入したといわれます。

真田邸の見学後、松代城訪問はここで終わり、この後は本日の宿へと移動しました。
                            文責 岡島 敏広

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2024年10月20日

2024年10月7日(月)長野県信濃国小諸城址訪問

個人旅行で、龍岡城五稜郭に引き続き、本日最後の訪問地の小諸城址を訪問しました。
小諸城は日本100名城に選定され、No.28です。

小諸城は、千曲川右岸の台地上に築かれた平山城で、城下町より低い位置にあることから、「穴城(あなじろ)」と呼ばれることもあります。現在確認できる遺構は近世以降のもので、発掘調査がなされていないことから、近世以前は詳細が不明です。
小諸城の起こりは長享元年(1487)に大井光忠が、現在の大手門北側に築いた鍋蓋城であると考えられています。その後、光為(光安)が父光忠の遺志をついで、乙女坂に支城を築き乙女坂城(又は白鶴城)と称しました。現在の小諸城跡二の丸の地がこれにあたります。
天文23年(1554)、武田信玄はこの地を攻略、佐久統治の中心として拡張整備し、信玄の東信州経営のために現在の縄張りとされました。現在残っている城跡の元になったものは、信玄の軍師であった山本勘助の縄張りだと言い伝えられていますが、根拠となる史料はありません。本丸跡懐古神社横に山本勘助が顔を映したという鏡石があります。
現在のような構えとなったのは、天正19年(1591)に入封した豊臣秀吉家臣の仙石秀久による大改修によるもので、石垣を構築した近世城郭に改修され三重天守もその頃に建てられたものです。天守には桐紋の金箔押瓦が用いられていましたが、寛永3年(1626)に落雷によって焼失しています。

           仙石秀久

その後は、松平、青山、酒井、西尾、石川の大名が封じられ、その度に修築が加えられ、元禄15年(1702)、牧野康重が入封して以来、牧野氏が10代にわたり、168年間小諸城を居城とし、明治に至りました。

寛文3年(1663)小諸御城内御絵図: 絵図はクリックすると拡大します。絵図には大手門が描かれていますが、今回は訪れておりません。
大手門は小諸城の正門で、慶長17年(1612)藩主仙石秀久が小諸城を築いた時代の建築です。小諸城の表玄関にあたり、本丸から数えて4番目の門であることから、「四之門」とも「瓦門」とも呼ばれました。平成の大修理を経て、江戸時代の姿を今も残しています。国指定重要文化財です。

三之門外側: 駐車場に近いここから実際に訪問しましたが、三之門は寄棟造りの二層の城門で、元和元年(1615)に創建されました。寛保2年(1742)の大洪水で流失し、明和2年(1765)に再建。両堀に矢狭間・鉄砲狭間が付けられた建物で、正面にある「懐古園」の大額は徳川家達の筆。こちらも国指定重要文化財です。
門の左側の石垣と塀が手前にせり出し、門前に殺到する敵に攻撃を浴びせる構造となっています。

三之門内側

二の丸跡石垣と二之門跡: 二の丸の写真の側面の石垣は明治4年(1871)北国街道整備に用いられ、崖がむき出しのままでしたが、昭和59年(1984)に元あった石よりも大きな石を用いて復元されています。

二の丸跡: 二の丸跡へ登る石段。左の石垣中には大きな鏡石が見えます。そこには、著名歌人の若山牧水の歌が刻まれています。城の石垣は、自然石を加工せずに積み上げた野面積みです。仙石秀久は慶長末期(1614~15)までに城郭や城門の整備、石垣の築造、城下町の整備など近世城郭として大改修を行い、ほぼ完成したとみられています。

南の丸跡: 小諸城建物絵図のリンク先に2つの図が示されていますが、左側は中央に二之門が描かれ、右図には南の丸の建物の様子が描かれています。

北の丸跡: 二之門跡を入って右手に番所跡があります。ここから先は本丸に通じるため、検問を行うための番所がありました。現在は弓道場として用いられています。

紅葉谷に架かる黒門橋: 本丸と二の丸を隔てる谷に架かる橋。往時は引橋になっていて、敵が迫ってきたら橋を引いて渡れないようにしました。また、橋を渡り切ったところに黒門がありました。この門は現在、正眼院に移築され現存しています。

紅葉谷: 現在、紅葉谷と呼ばれる黒門橋がかかる空堀は、左右の田切地形の谷をつなぐように、人の手で掘り割った数少ない堀です。深さは、橋下約8メートルほどであったといわれています。

黒門跡: このリンク先には、黒門を含む城門の絵図が示されています。

本丸跡に鎮座する懐古神社: 小諸城跡を懐古園として整備した際に、旧小諸藩の士族らにより、同藩を治めた牧野氏の歴代藩主の霊を、藩政時代から城内の鎮守神として祀られていた天満宮・火魂社と合祀して現在地に建立された神社です。

本丸跡石垣(紅葉ケ丘側): 上述のように、石垣は野面積みです。

天守台跡: 三層の天守があり、桐紋の金箔押瓦が用いられていましたが、寛永3年(1626)に落雷で焼失しました。その後は江戸幕府の政策により再建されなかったといわれています。
なお、天守台付近では豊臣政権後半期のものと思われる金箔が施された桐紋の軒丸瓦と軒平瓦が採集されています。

天守台・本丸跡石垣と馬場(右側): 馬場は本丸西側の一段低い位置にあるかなりの面積を持つ曲輪です。

この後、馬場を先に進み懐古神社に戻りました。
ここで夕刻となりましたので、小諸城の訪問は終了し、この後は、本日の宿へと移動しました。
                            文責 岡島 敏広

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2024年10月16日

2024年10月7日(月)長野県信濃国龍岡城五稜郭訪問

個人旅行で、諏訪高島城に引き続き、龍岡城五稜郭を訪問しました。
龍岡城五稜郭は続日本100名城に選定され、No.129です。

龍岡城五稜郭は、函館五稜郭とともに日本に2つしかない星形稜堡(りょうほ)の洋式城郭で貴重な国指定の史跡です。
幕末の文久3年(1863)、三河国奥殿藩の藩主・松平乗謨(のりかた)は、分領ではあっても領地の大部分を占める信濃国佐久郡への藩庁移転と陣屋新築の許可を江戸幕府から得て、田野口藩新陣屋として着工しました。
西洋の軍学に関心を寄せ、砲撃戦に対処するための築城法を学んでいた松平乗謨は、新陣屋として稜堡式城郭(星形要塞)を設計し、慶應3年(1867)に竣工しました。しかし、その年には徳川慶喜が大政奉還を行っています。
ちなみに、もう1つの有名な函館五稜郭も同じ幕末の慶應2年(1866)に完成しています。

松平乗謨: 大給 恒(おぎゅう ゆずる)に改名。三河国奥殿藩8代藩主、のちに信濃国田野口藩(龍岡藩)主。

龍岡城五稜郭絵図: 廃城前の建物配置で、下方が北。図はクリックにより拡大します。
赤く囲った「御台所」は西の方(図では右)に位置を移動して現存しています(以下に示した「御台所」の写真参照)。

龍岡城枡形外側: 上記絵図の右下の田野口村入口に当たり、ここからは、直線ではなく右に曲がって入ります。

龍岡城枡形内側

大手橋: ここから堀を渡り、星形稜堡の城郭へ入城です。

大手門跡東側の堀: 堀幅は大手橋付近が最も広9.1 mmあり、他はやや狭くなって平均7.3 mです。

大手門跡西側の堀: 先に進んでゆくと水堀はなくなっています。
すなわち、堀は北・北東・東南の3稜堡をカバーするだけしかなく、南西・西側2稜堡を囲む約200 mは未完成のままです。

内部から見る北東側土塁

御台所: 城が完成して5年経過した龍岡藩廃藩後の明治5年(1872)、建物は入札払下げとなって解体されました。御殿を構成した建物の内、写真の「御台所」は、同じ年の学制発布により学校としての使用申請が認められ残されました。長く校舎として使用されましたが、昭和4年(1929)に城郭内で位置を現在地に移され、後に半解体復元工事が行われて現存しています。

天守や目立つ石垣を持たない星型稜堡の洋式城郭である五稜郭は、やはり上方から全体を見ないとその良さがわかりません。そこで、田口城近くに設置された五稜郭展望台まで登りました。山道は大変でしたが、そこから眺めました。

龍岡城から五稜郭展望台への経路: 「五稜郭であいの館」でもらった地図を掲載します。地図はクリックにより拡大します。
徒歩では登山口から地図上で上下にはしる登山道を登り30分ほどで到達します。
車では林道清川線を使用する必要があります。林道入口は地図上部の赤く塗った道路を左方に進むと到達します。

龍岡城五稜郭の全景(五稜郭展望台より撮影): 手前に大手橋が架けられています。城内には田口小学校が建てられていますが、2023年3月小学校の統廃合に伴い閉校となりました。

参考 比較のための函館五稜郭の全景(五稜郭タワーより撮影)

林道清川線入口: 県道120号(三分中込線)沿いに入口のある林道清川線からは車で五稜郭展望台近くまで登れます。
ただし、1車線ですれ違い場所は数ケ所のみ、対向車は少ないですが、運転には注意が必要です。

田口城・五稜郭展望台方面への分かれ道: 上記入口から林道を進むと途中で分かれ道となっています。五稜郭展望台へは標識に従い右に進みます。

ここで龍岡城五稜郭訪問は終わり、この後は、本日の最後の訪問地の小諸城へと移動しました。
                            文責 岡島 敏広

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Posted by joukaku at 07:55 Comments(0)その他

2024年10月14日

2024年10月7日(月)長野県諏訪国高島城訪問

個人旅行で、飯田城に引き続き、諏訪高島城を訪問しました。
諏訪高島城は続日本100名城に選定され、No.130です。

概要
諏訪湖畔に築かれた平城(水城)
築城年 文禄元年(1592)着工、慶長3年(1598)完成
築城者 豊臣秀吉の武将・日根野高吉(ひねのたかよし)
築城当時の高島城 本丸、二之丸、三之丸などの主要な郭をほぼ一直線上に連続配置した連郭式で、諏訪湖と数条の河川に囲まれた水を守りとする難攻不落の水城でした。

諏訪高島城は、諏訪郡を領していた諏訪頼忠が転封となり、代わって入った豊臣秀吉の家臣「日根野織部正高吉」により慶長3年(1598)築城され、のちには再度諏訪氏の居城となって、その威容と要害堅固を誇ってきました。
日根野高吉が築城の適地とした高島は、当時諏訪湖畔に島状を呈していたと思われる場所で「浮島」とも呼ばれ、ここには主に漁業を営む村落があったことが記録に残っています。高吉はこの村をまるごと移転させて高島城を築いたといわれています。
完成当時は、城のまわりは湖水と湿地に囲まれ、下図のようにあたかも諏訪湖中に浮かぶようであったので、別名「諏訪の浮城(うきしろ)」と呼ばれました。
慶長6年(1601)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封。再び諏訪氏がこの地の領主となり明治維新まで続くこととなりました。かつては諏訪湖に突き出した水城でしたが、江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ、水城の面影は失われました。
さらに、明治の廃藩置県により、封建制のシンボルである城郭の撤去が決定し、明治8年(1875)には天守が撤去されました。その後、諏訪市民の高島城への愛着が強く、昭和45年(1970)5月に天守が復興され、美しい姿を再び堀の水に映すようになっています。

下の「御枕屏風」に描かれた高島城からわかるように、城の北側には城下町(兼甲州道中上諏訪宿)が設けられ、城下町から城までは一本の道しかありませんでした。
城は、北から衣之渡郭(えのどくるわ)、三之丸、二之丸、本丸が一直線に並ぶ「連郭式」と呼ばれる形態です。

御枕屏風の高島城部分

本日は本丸のみを訪問し、他の郭は下に説明のみ記載します。

【本丸】三層の天守と城主の御殿や書院、政務をとる御用部屋、郡方、賄方。その他、能舞台、氷餅部屋など多くの建物がありました。現在は、高島公園となっています。図は上が南側となっています。

本丸諏訪湖側(駐車場付近)から見た②諏訪高島城天守: 天守は三層三階の望楼型天守が建てられましたが、天守をはじめ主要な建物の屋根が瓦葺きではなく、檜の薄い板を葺いた柿葺(こけらぶき)という珍しいもので(復興後は銅板葺き)だったことも、高島城の大きな特徴です。
これは、湖畔の軟弱地盤で重い瓦が使えなかったからとか、諏訪の寒冷で瓦は凍み割れてしまい、堪えられる瓦が調達できなかったためとも言われています。また、築城当時の石垣は、自然石を加工せずに積み上げた野面積(のづらづみ)でした。

   復興天守(南西面)        破却前天守古写真(北面)

破却前の高島城遠景(明治4年、1871)

石垣補修のようす: 天明6年(1786)には大掛かりな補修によって石垣の大部分は整備されましたが、現在でもその一部が残されています。
写真の模型のように櫓を組んで、天守を持ち上げ、石垣が補修されました。

高島城北面(左から⑨角櫓、⑥冠木門・⑤冠木橋、②天守)

⑥冠木門: 本丸の正面玄関にあたります。「冠木門」とは柱に貫と呼ばれる棒を横に通した造りの門のことをいいます。信濃国諏訪郡高嶋城絵図では冠木門は棟門又は高麗門になっています。この名前は形式的なものか、初めは冠木門であったのが後から作り替えられた可能性があります。

⑥冠木門(櫓門)上部

⑤冠木橋

⑨角櫓: 本丸東側には3棟の二重櫓(角櫓、持方月櫓、富士見櫓)が置かれ櫓と櫓の間には多門櫓が配されていました。

諏訪護国神社: 創建は明治33年(1900)。諏訪地域出身の国家のために殉難した人の霊(英霊)を祀るために創られました。

⑦御川渡門跡に移築された三之丸御殿裏門: 高島城破却後、茅野市湖東の民家に移築されていた三之丸御殿裏門が、昭和63年(1988)に所有者から諏訪市に寄贈されました。
現在設置されている三之丸御殿裏門の位置が本来とは異なりますが、高島城が湖に面していた頃は、ここの位置にあった御川渡門から舟に乗ることができたそうです。

本丸諏訪湖側から見た②天守(南面)

高島城本丸以外の郭の説明を以下にまとめます。
【衣之渡郭】
内海櫓(うつみやぐら)と内海門という門があったほか、上級藩士の屋敷がありました。
【三之丸】
楼門(三之門)があり、藩主の私的空間として利用された三之丸御殿、家老の三之丸屋敷、藩の会計を預かる御勘定所などがありました。
【二之丸】
楼門(二之門)があり、家老諏訪家の二之丸屋敷、職人が詰めて働く御作事屋、貯米蔵、貯銭蔵、馬場などがありました。
【南之丸】
寛永3年(1626)に徳川家康六男の松平忠輝を預かることとなり、南之丸を増設し、監禁場所としました。以降、南之丸は、幕府から預かった流人の監禁場所として使用され、不要となったのちには薬草などの栽培場所となったとされています。

ここで諏訪高島城訪問は終わり、この後は、本日の次の訪問地の龍岡城五稜郭へと移動しました。
                            文責 岡島 敏広

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2024年10月12日

2024年10月7日(月)長野県信濃国飯田(長姫)城跡訪問

個人旅行で、信濃飯田城跡を訪問しました。
飯田城は、戦国時代末期から伊那谷南部の拠点となり、下伊那では江戸時代まで残ったただ1つの城です。

城の始まりは室町時代で、飯田城はもともと修験者(しゅげんしゃ)の行場であったところを、この地方の豪族であった坂西(ばんざい)氏が城を構えたことによるといわれています。
坂西氏は、室町時代に飯田郷を治めていた豪族です。信濃守護小笠原氏の一族とも、阿波国(徳島県)出身の近藤氏の一族ともいわれていますが、天正10年(1582)に滅んだ一族のために文書が残されておらず、詳しいことはわかりません。天文23年(1553)に下伊那を支配した武田氏は、大島城(下伊那郡松川町)とともに飯田城を下伊那の拠点として整備しましたが、武田氏侵攻の直後は坂西氏が飯田城主であったようです。
永禄5年(1562)に、坂西長忠が小笠原氏の領地を侵して小笠原氏に討ち取られる事件が発生しますが、この後に武田家重臣秋山虎繁(とらしげ)が城代(じょうだい)として入城したと江戸時代の歴史書は伝えています。

   秋山虎繁(信友) 紙本著色武田二十四将図(信玄公宝物館蔵)の部分

元亀4年(1573)、秋山虎繁が美濃の岩村城(岐阜県恵那市)へ入城すると、飯田城には坂西長忠の弟、織部亮(おりべのすけ、織部亮は坂西一族とみられるが、系譜は定かでない。)が入城しました。
武田勝頼は天正3年(1575)の長篠の戦いで織田・徳川軍に大敗し、その直後に、坂西一族は武田氏から離反しました。しかし、これは事前に察知されたらしく、松尾城主小笠原信嶺(正室は武田逍遥軒信綱の息女)により鎮圧され、謀叛に加担した坂西一族はことごとく成敗されました。同時に織田軍の下伊那への侵攻に備え、保科正直(ほしなまさなお)に飯田城在城と国境防衛を命じたとされます。
その後、織田(徳川)氏時代は下条氏・菅沼氏、豊臣時代は飯田城を下伊那支配の拠点として毛利秀頼が整備し、それまで山伏丸・本丸・二ノ丸までであった飯田城に、三ノ丸とその西に追手門を設けたこと、それまであった伊勢町や番匠町に続く、本町などの城下町を建設して、現在の姿になったと考えられています。毛利氏の後、城主となった京極高知が城下町をさらに拡張しました。
関ヶ原の戦いの後、小笠原氏、脇坂氏を経て、寛文12年(1672)堀親昌(ちかひさ)が下野烏山より入封し、明治まで堀氏12代がこの地を領しました。
江戸時代末の堀親義(ちかのり)は佐幕派で、京都守護職の会津藩主松平容保の下で勤王の志士の弾圧に関与したとか、徳川慶喜の助命嘆願したことによる等の理由といわれますが、明治維新後、飯田城は徹底的に破壊され、建物は解体され、石垣は崩され堀は埋められてしまいました。現在、見ることができる遺構は多くなく、赤門として親しまれている桜丸御門や、織豊期の石垣の一部、堀の痕跡が残されています。
以上、飯田城の遺構はほとんど残されていませんが、城は連郭式の平山城で、段丘突端から山伏丸、本丸、二ノ丸、桜丸・出丸、三ノ丸で構成され、水堀の北堀・南堀で城下町と分けられていました。

飯田城縄張図

信濃国飯田城絵図: 城の様子は飯田市ホームページから絵図により御覧いただけます。

桜丸御門(通称赤門、飯田市指定文化財): 桜丸の門で宝暦4年(1754)4月に上棟され、本丸は町から遠く不便なことから、藩政末期には、ここ桜丸で政務がとられたといわれています。門は入母屋造りで瓦葺き、鬼瓦には堀氏の家紋の「向梅」が用いられています。平面は2本の鏡柱と控柱とで構成され、潜戸が設けられています。
明治になってからは、この赤門は郡役所・地方事務所等の郡衙の正門として使われてきました。
また、市内には、二ノ丸御門であった八間門をはじめ、飯田城の城門(経蔵寺山門桜丸西門(雲彩寺山門)馬場調練場の門(脇坂門))が移築されています。

桜丸御門の碑: 碑には赤門の情報と桜丸の説明が記載されています。
桜丸の向かいにあった出丸には、米蔵が置かれていましたが、出丸は半円形の堀に囲まれた郭です。この形は「丸馬出(まるうまだし)」「三日月堀」などと呼ばれる武田氏直轄の城郭に特徴的な形で、天正年間後半に築かれたとみられます。

飯田市美術博物館前(二ノ丸)の井戸跡: 歩道上に二ノ丸の井戸跡を示す印が描かれていました。この二ノ丸には家老の屋敷や御宝蔵が置かれていました。

本丸跡に建つ長姫神社: 堀氏時代には、本丸と桜丸に御殿があり、桜丸の方は若殿の御殿や隠居所に充てられました。

山伏丸に建つ旅館: 築城者の坂西氏は、上飯田の「松原宿」の飯坂(飯田市愛宕町)、現在の愛宕神社が鎮座する場所に「飯坂城」を築き居城としました。しかし、そこが手狭になったことから、現在の飯田城の山伏丸と飯坂城を交換し、飯田城(山伏丸)に移ったと伝わります。交換の相手は山伏で、山伏丸の名はこれにちなむともいわれ、そのような状況から山伏丸は古くは主郭であったといわれています。ここで、段丘突端となり、飯田城の訪問は終わりとなりました。

飯田城跡訪問後は、本日の次の訪問地の高島城へと移動しました。

                            文責 岡島 敏広

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