2022年11月20日
2022年11月16日(水)城下町 一乗谷朝倉氏遺跡
「里山ボランティア 山ぐり」に参加して「一乗谷城及び城下町の一乗谷朝倉氏遺跡」を訪問しました。しかし、計画では最初に一乗谷城へと登る予定でしたが、あいにく、一乗谷周辺の天候が悪く、降ったり止んだりで、結論としては、一乗谷城への登山はあきらめ、本年10月1日に開館した一乗谷朝倉氏遺跡博物館の見学と一乗谷朝倉氏遺跡の散策に予定変更となりました。
まず最初の訪問地は、一乗谷朝倉氏遺跡博物館で、写真はその入口です。
朝倉氏の歴史、一乗谷城下町の生活、写真のような出土した茶道具類、鉄砲職人の存在を証明する弾丸や鉛地金等が展示されていました。入口の真上2F(ガラス張りになっている部分)には原寸大に再現された朝倉館(一部)も展示され、中に入り見学も出来ましたが、その様子は遺跡散策の説明時に再現朝倉館の説明もします。
なお、遺跡と再現朝倉館の比較は、後日一乗谷を再訪問したときにも行っています。この時は一乗谷をガイドさんに案内してもらっています。その結果についてはこちらをご覧ください。


博物館見学後の本日の散策コースは、下の地図の3.下城戸跡→登山口の八幡神社→6.爪割清水→7.唐門・朝倉館跡→9.湯殿跡庭園→10.英林塚(朝倉孝景墓)→5.復原街並で、南へと歩きます。
下に一乗谷城最後の城主朝倉義景を示しました。朝倉義景は天正元年(1573年)8月20日一乗谷城の戦いで信長軍に敗れ大野郡六坊賢松寺で自刃しています。また、散策する一乗谷の城下町はその前の8月18日に信長軍により焼き払われています。
写真は下城戸(きど)跡の外側で、一乗谷城下町への玄関口にあたり、足羽川に近いこの地区は城下町の交易や流通の拠点として栄えました。
下城戸跡の内側からの撮影です。一条谷の北端の最も狭い地点に45t以上の巨石で石塁を築き城門としています。内側は広場となっており、そこから南へと街並みが続いていました。
一乗谷城へと登る場合に利用する登山口の八幡神社前は通り過ぎ、瓜割清水(しょうず)に着きました。瓜割清水はどのような干ばつの時も水が涸れたことがないと伝わっている湧き水で、当時の儀式や当主の生活用に使われたと考えられています。一乗谷の村が焼き払われて約450年過ぎた今なお水が湧き出しています。
一乗谷古絵図(春日神社蔵)で江戸時代末期1847年以降に松雲院(現在の唐門のある朝倉館)を中心に描かれた一乗谷の村の様子です。下記唐門周辺の江戸時代の様子が伺えるとともに、山頂には一乗谷城の曲輪も見えます。
唐門
朝倉館跡正面の堀に面して建つ、幅2.3メートルの唐破風造り屋根の門(向唐門)です。これは朝倉氏の遺構ではなく、江戸時代に建てられた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わっています。門表には朝倉家の三つ盛木瓜(もっこう)の紋が刻まれています。現存するものは江戸時代中期頃に再建されたものです。
朝倉館跡
一乗谷の中心部に位置する朝倉家当主が居住した館です。下図は朝倉館跡配置図で図が転倒していますが、さらに下の実際の遺構の写真と合わせた形で示しました。2つの図の中庭・花壇を中心に見て比較してください。
東側後背(下配置図右側)に山城があり、西(左)、南(下)、北(上)の三方を高さ1.2メートルないし3メートルほどの土塁で、その外側を幅約8メートル、深さ約3メートルの堀で囲んでいます。三方の土塁にはそれぞれ隅櫓や門がありました。西方(左)にある門が正門(御門)で、現在は唐門が建てられています。
内部には17棟の建築物があり、館内最大の会所(東西約21.4メートル、南北約14.2メートル)を中心に、南側には主殿や泉殿・小座敷・池庭・花壇など接客用の施設群が、北側には台所や湯殿・蔵・五間厩・七間厩など日常生活のための施設群が存在しました。
建物はすべて礎石に角柱を立てて建てられており、屋根はこけら板等を葺いていたと考えられますが、屋根を飾る笏谷石製の鬼石(鬼瓦のようなもの)や棟石(棟に置いて利用する石)等も発掘されています。舞良戸や明障子などの引き戸を多用し、畳を敷きつめた部屋も多かったとされます。北
南
中庭・花壇跡
1968年(昭和43年)に会所の南側中庭で花壇の遺構が発見されました。東西9.8メートル、南北2.8メートルの長方形(下写真の砂利に囲まれた緑の草が生えた方形区域)をなし、花壇としては現在のところ日本最古の遺構です。室町時代には足利将軍や公家は邸宅に好んで花壇をつくらせていました。ここの花壇の側石には水に濡れると青く発色する笏谷石の切石が用いられています。北
南
朝倉館の模型: 手前の山の麓に池庭が見えます。また、この館の縄張及び外観は洛中洛外図(上杉本左隻)にある花の御所(足利将軍邸)に似ています。
南
北
再現中庭からの再現会所の眺め(博物館)
博物館内では、上の間取図のうち、赤枠で囲んだ部分が原寸大で再現されています。中庭の花壇には、花粉分析等により春にはシャクナゲやボタンなどが、秋にはキクやハギなどが植えられていたことが判明しました。写真はキクが咲いており秋の風景になります。
朝倉館跡庭園(博物館)
花壇(上写真)・枯山水様平庭(下写真左、中)・池庭(下写真右)で構成され、花壇(上写真)と枯山水様平庭との間には上写真花壇の右に見えるように仕切り塀を立てることにより、枯山水のような小空間を作り出しています。池庭は東側背後の急斜面に導水路が造成され、池の底一面には色彩豊かな石が敷き詰められ、模様が美しい安島石も配されています。小座敷と泉殿の建物が池庭に張り出し、縁側から庭園鑑賞ができるように建てられています。
再現会所からの 再現泉殿からの
枯山水様の平庭 枯山水様の平庭 池庭と再現小座敷


朝倉義景墓
館跡の東南の隅にあります。1576年(天正4年)に村民が建てた小祠の場所に、1663年(寛文3年)、福井藩主松平光通が墓塔を建立し、歴代藩主により保護されました。墓塔の石の色から、福井で有名な笏谷石でできていることがわかります。
湯殿跡(ゆどのあと)庭園です。「湯殿跡」の名称は江戸時代の地誌に初めて登場し、戦国期にはどう使われた場所かはわかりません。南陽寺、諏訪館跡の庭園とともに、以前より庭石が地上に出ており1930年(昭和5年)7月8日には国の名勝に指定されていましたが、その後の管理が不十分で荒廃していました。そのため、1967年(昭和42年)、表土の除去や雑木の伐採などの整備が行われ、1987年(昭和62年)には湯殿跡、諏訪館跡で湧水用の石組溝や暗渠が発掘され、戦国時代には水が湛えられてていたことが分かりました。この庭園の石には、意図的に立てられた石もあり、どの石も強い表情を持ち迫力があります。他の庭園とは様式も感覚も異なり、一乗谷で最も古い庭園とされています。後世の改変がなく、室町時代末期の庭園様式をよく伝えています。
次に、英林塚(初代朝倉孝景墓)に行きました。孝景は越後の守護斯波氏の被官として勢力を伸ばし、応仁の乱を機に斯波氏を圧倒して越前の国主に躍進しました。孝景が初めて一乗谷に築城し、朝倉氏の繁栄の基礎をつくりました。

この後、下(西側)に降りて、復原街並を南側(図左、町家群側)から北(図右)へと散策しました。
写真は町家群の紺屋の前あたりで、家の屋根は瓦ではなくこけら板で作られ、飛んでゆかないよう石で押さえられています。
中級と上級武家屋敷群の間の道を散策しています。塀の屋根はやはり板屋根ですが、和釘で止められていました。
以前、戦国城下町生活再現の時に撮影した写真ですが、町が信長に滅ぼされる前は町人も含めて下写真のような雰囲気であったと思われます。
この後、一乗谷を離れました。福井の土産物の購入で楽しいひとときを過ごし、敦賀の温泉に入って一日の疲れをほぐして帰宅の途に就きました。
文責 岡島 敏広
追記: 今回、下城戸から朝倉館跡や復原街並など一乗谷の北部を中心に散策しましたが、訪問できなかった南部の上城戸外には、下地図(図をクリックすると拡大します)のように、小字で「浅井」、「斎藤」及び「御所」という区域が残され、それぞれが浅井長政館跡、斎藤龍興館跡及び足利義昭館跡に対応し、歴史上有名な人物が一乗谷城下町に集まっていたと考えられます。さらに、浅井長政館跡の地点の西側にある現東大味町に織田信長に仕える前の明智光秀が住んでいたと伝えられています。このように一乗谷城下町は、織田信長に滅ぼされるまでは大いに繁栄していたことが分かります。
まず最初の訪問地は、一乗谷朝倉氏遺跡博物館で、写真はその入口です。

朝倉氏の歴史、一乗谷城下町の生活、写真のような出土した茶道具類、鉄砲職人の存在を証明する弾丸や鉛地金等が展示されていました。入口の真上2F(ガラス張りになっている部分)には原寸大に再現された朝倉館(一部)も展示され、中に入り見学も出来ましたが、その様子は遺跡散策の説明時に再現朝倉館の説明もします。
なお、遺跡と再現朝倉館の比較は、後日一乗谷を再訪問したときにも行っています。この時は一乗谷をガイドさんに案内してもらっています。その結果についてはこちらをご覧ください。


博物館見学後の本日の散策コースは、下の地図の3.下城戸跡→登山口の八幡神社→6.爪割清水→7.唐門・朝倉館跡→9.湯殿跡庭園→10.英林塚(朝倉孝景墓)→5.復原街並で、南へと歩きます。

下に一乗谷城最後の城主朝倉義景を示しました。朝倉義景は天正元年(1573年)8月20日一乗谷城の戦いで信長軍に敗れ大野郡六坊賢松寺で自刃しています。また、散策する一乗谷の城下町はその前の8月18日に信長軍により焼き払われています。

写真は下城戸(きど)跡の外側で、一乗谷城下町への玄関口にあたり、足羽川に近いこの地区は城下町の交易や流通の拠点として栄えました。

下城戸跡の内側からの撮影です。一条谷の北端の最も狭い地点に45t以上の巨石で石塁を築き城門としています。内側は広場となっており、そこから南へと街並みが続いていました。

一乗谷城へと登る場合に利用する登山口の八幡神社前は通り過ぎ、瓜割清水(しょうず)に着きました。瓜割清水はどのような干ばつの時も水が涸れたことがないと伝わっている湧き水で、当時の儀式や当主の生活用に使われたと考えられています。一乗谷の村が焼き払われて約450年過ぎた今なお水が湧き出しています。

一乗谷古絵図(春日神社蔵)で江戸時代末期1847年以降に松雲院(現在の唐門のある朝倉館)を中心に描かれた一乗谷の村の様子です。下記唐門周辺の江戸時代の様子が伺えるとともに、山頂には一乗谷城の曲輪も見えます。

唐門
朝倉館跡正面の堀に面して建つ、幅2.3メートルの唐破風造り屋根の門(向唐門)です。これは朝倉氏の遺構ではなく、江戸時代に建てられた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わっています。門表には朝倉家の三つ盛木瓜(もっこう)の紋が刻まれています。現存するものは江戸時代中期頃に再建されたものです。

朝倉館跡
一乗谷の中心部に位置する朝倉家当主が居住した館です。下図は朝倉館跡配置図で図が転倒していますが、さらに下の実際の遺構の写真と合わせた形で示しました。2つの図の中庭・花壇を中心に見て比較してください。
東側後背(下配置図右側)に山城があり、西(左)、南(下)、北(上)の三方を高さ1.2メートルないし3メートルほどの土塁で、その外側を幅約8メートル、深さ約3メートルの堀で囲んでいます。三方の土塁にはそれぞれ隅櫓や門がありました。西方(左)にある門が正門(御門)で、現在は唐門が建てられています。
内部には17棟の建築物があり、館内最大の会所(東西約21.4メートル、南北約14.2メートル)を中心に、南側には主殿や泉殿・小座敷・池庭・花壇など接客用の施設群が、北側には台所や湯殿・蔵・五間厩・七間厩など日常生活のための施設群が存在しました。
建物はすべて礎石に角柱を立てて建てられており、屋根はこけら板等を葺いていたと考えられますが、屋根を飾る笏谷石製の鬼石(鬼瓦のようなもの)や棟石(棟に置いて利用する石)等も発掘されています。舞良戸や明障子などの引き戸を多用し、畳を敷きつめた部屋も多かったとされます。

中庭・花壇跡
1968年(昭和43年)に会所の南側中庭で花壇の遺構が発見されました。東西9.8メートル、南北2.8メートルの長方形(下写真の砂利に囲まれた緑の草が生えた方形区域)をなし、花壇としては現在のところ日本最古の遺構です。室町時代には足利将軍や公家は邸宅に好んで花壇をつくらせていました。ここの花壇の側石には水に濡れると青く発色する笏谷石の切石が用いられています。

朝倉館の模型: 手前の山の麓に池庭が見えます。また、この館の縄張及び外観は洛中洛外図(上杉本左隻)にある花の御所(足利将軍邸)に似ています。
西

東
再現中庭からの再現会所の眺め(博物館)
博物館内では、上の間取図のうち、赤枠で囲んだ部分が原寸大で再現されています。中庭の花壇には、花粉分析等により春にはシャクナゲやボタンなどが、秋にはキクやハギなどが植えられていたことが判明しました。写真はキクが咲いており秋の風景になります。

朝倉館跡庭園(博物館)
花壇(上写真)・枯山水様平庭(下写真左、中)・池庭(下写真右)で構成され、花壇(上写真)と枯山水様平庭との間には上写真花壇の右に見えるように仕切り塀を立てることにより、枯山水のような小空間を作り出しています。池庭は東側背後の急斜面に導水路が造成され、池の底一面には色彩豊かな石が敷き詰められ、模様が美しい安島石も配されています。小座敷と泉殿の建物が池庭に張り出し、縁側から庭園鑑賞ができるように建てられています。
再現会所からの 再現泉殿からの
枯山水様の平庭 枯山水様の平庭 池庭と再現小座敷



館跡の東南の隅にあります。1576年(天正4年)に村民が建てた小祠の場所に、1663年(寛文3年)、福井藩主松平光通が墓塔を建立し、歴代藩主により保護されました。墓塔の石の色から、福井で有名な笏谷石でできていることがわかります。

湯殿跡(ゆどのあと)庭園です。「湯殿跡」の名称は江戸時代の地誌に初めて登場し、戦国期にはどう使われた場所かはわかりません。南陽寺、諏訪館跡の庭園とともに、以前より庭石が地上に出ており1930年(昭和5年)7月8日には国の名勝に指定されていましたが、その後の管理が不十分で荒廃していました。そのため、1967年(昭和42年)、表土の除去や雑木の伐採などの整備が行われ、1987年(昭和62年)には湯殿跡、諏訪館跡で湧水用の石組溝や暗渠が発掘され、戦国時代には水が湛えられてていたことが分かりました。この庭園の石には、意図的に立てられた石もあり、どの石も強い表情を持ち迫力があります。他の庭園とは様式も感覚も異なり、一乗谷で最も古い庭園とされています。後世の改変がなく、室町時代末期の庭園様式をよく伝えています。

次に、英林塚(初代朝倉孝景墓)に行きました。孝景は越後の守護斯波氏の被官として勢力を伸ばし、応仁の乱を機に斯波氏を圧倒して越前の国主に躍進しました。孝景が初めて一乗谷に築城し、朝倉氏の繁栄の基礎をつくりました。

この後、下(西側)に降りて、復原街並を南側(図左、町家群側)から北(図右)へと散策しました。

写真は町家群の紺屋の前あたりで、家の屋根は瓦ではなくこけら板で作られ、飛んでゆかないよう石で押さえられています。

中級と上級武家屋敷群の間の道を散策しています。塀の屋根はやはり板屋根ですが、和釘で止められていました。

以前、戦国城下町生活再現の時に撮影した写真ですが、町が信長に滅ぼされる前は町人も含めて下写真のような雰囲気であったと思われます。

この後、一乗谷を離れました。福井の土産物の購入で楽しいひとときを過ごし、敦賀の温泉に入って一日の疲れをほぐして帰宅の途に就きました。
文責 岡島 敏広
追記: 今回、下城戸から朝倉館跡や復原街並など一乗谷の北部を中心に散策しましたが、訪問できなかった南部の上城戸外には、下地図(図をクリックすると拡大します)のように、小字で「浅井」、「斎藤」及び「御所」という区域が残され、それぞれが浅井長政館跡、斎藤龍興館跡及び足利義昭館跡に対応し、歴史上有名な人物が一乗谷城下町に集まっていたと考えられます。さらに、浅井長政館跡の地点の西側にある現東大味町に織田信長に仕える前の明智光秀が住んでいたと伝えられています。このように一乗谷城下町は、織田信長に滅ぼされるまでは大いに繁栄していたことが分かります。

2025年2月17日(月)三上陣屋跡訪問(野洲市)
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
2025年1月14日(火)沖縄県竹富島(竹富町)の小城盛(クスクムイ)と蔵元
2024年10月25日(金)レイカディア地域文化43期'24秋のバス旅行「尾州犬山城とひつまぶしの旅」(愛知県)
2024年10月9日(水)岐阜県飛騨高山陣屋訪問
2024年10月8日(火)長野県信州松代城訪問
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
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joukaku
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