2023年03月06日
2023年3月5日(日)大津城下町(大津百町)
本日は、レイカディア大学の課題学習の情報収集のため、大津城城下町を課題学習グループ"沙沙貴組"4名で巡りました。
城下町の説明において、まず、城下町の中心となる大津城に関する情報を先にまとめ、その次に巡った城下町の説明を行います。
大津城に関する情報は、本ブログの別の報告にもまとめられています。また、大津城下町については、次にもまとめられていますので、そちらもご覧ください。
大津城について
大坂城を政治経済の拠点とした豊臣秀吉は、淀川水系、伏見街道、東海道により大坂につながる大津を北国物資の中継地として、また、琵琶湖水運の要所としての大津港を坂本よりも重視しました。坂本城が廃城となったのち、浅野長吉(長政)がその遺材を利用して天正14年(1586)に大津に移築し、坂本住人の移住を促したことから、大津の町内には坂本の城下町と同様の町名が残っています。町名については巡った城下町の説明の部分を参照ください。
大津城の規模については、現在縄張りを示すような当時の古絵図は残っておらず、その復元が困難な状況にありますが、明治時代以降に大津城について考証された資料が3点あります。これらの資料や江戸時代の絵図などを参考に、昭和55年(1980)発刊『新修大津市史』第三巻の「大津城復元図」において大津城の姿が復元されました。下図はそれに基づいた図で、大津城の城郭と、築城時に坂本から移転した町、江戸時代及び現在の湖岸線を併せて図示したものです。
また、スカイプラザ浜大津6F交流コーナーに設置されている大津城ジオラマも示しました。
縄張から想像して作成されたジオラマです。ナカマチ商店街での「いにしえの大津城と大津の城郭企画展」での展示品です。
大津城跡碑: 大津港口にある碑です。この碑の場所は下の地図の「現在地」と記載されていますように、大津城本丸の北端辺りとなります。

昭和40年代後半の浜大津駅: この当時は現在とは異なり、駅の近くまで琵琶湖が迫っていました。
下図は寛保2年(1742)の大津町絵図ですが(北が下)、この図から、大津城の本丸跡(国道161号浜大津交差点あたり)に、江戸時代を通じて、琵琶湖岸にあった大津代官所『御代官』、『御蔵』が建てられ、また、外堀・中堀の一部が関(荷揚場)として利用されたことがわかります。クリックにより絵図は拡大します。
上記の大津代官所表門: 現在の長等小学校の前身、大津西尋常小学校の表門で、元大津代官所の門であったと伝えられています。現在は存在していません。
大津代官所は、かつての大津城本丸跡を利用していますが、不明なところが多いです。しかし、大津代官は、近江の天領を管理する「近江代官」も兼務したことから、この代官所は大津町のみならず、天領支配の拠点としても重要な地位を占めました。
以下に、大津城西側の中堀及び外堀の地図を示します。クリックすると拡大します。
【中堀】江戸時代に大橋堀・川口関など湖岸の荷揚場として利用されており、その堀跡は昭和期に至るまで残されていました。
西側・・・『川口関』に該当(現在の川口公園あたり)
東側・・・『扇屋関』に該当(NTT大津営業所あたり)
大正時代初期の川口堀: 安土桃山時代に川口弥蔵という人物の屋敷が付近にあったことから名づけられました。この堀を挟んだ民家は堀から水揚げされた商品を取り扱う商家でした。

現在の川口公園: 公園と道路を含むビルの間の空間が中堀でした。上の大正時代の両岸の柳の木は桜に植え替えられています。

北国街道と琵琶湖疎水の交叉する地点(北国橋): 大津城が存在した当時は、この地点は外堀の外側でした。
百々川: マンションの山側を流れ、その下流は琵琶湖疎水に平行していますが、この写真のマンションに沿った部分は外堀の外側輪郭を形成していました。
琵琶湖疎水: 琵琶湖を向いて撮影していますが、この疎水の途中で百々川と交叉する辺りより琵琶湖側の疎水と百々川を合わせたものが外堀でした。
朝日生命ビル建築時に発掘された外堀石垣の模擬石垣による花壇

大津祭曳山展示館の東側石垣: 外堀の石垣と言われており、大津城では唯一現存するものです。しかし、2つ下の地図を確認すると、大津祭曳山展示館と外堀の位置関係がおかしいです。これは描かれている外堀の推定位置が誤っているものと思われます。
しかし、大津城縄張はどうしても推定であることから、現地近くに看板として表示されている地図は、この点が修正されていて、この石垣の位置が外堀の外側になるように描かれています。
大津祭曳山展示館の西側石垣: 東側で見た外堀の石垣に連続しているのが確認できますが、こちらは右(西)側と左(東)側の積み方が異なり、柱辺りより左(東)側は布積みになっているようですので、比較的新しく積まれた石垣のように見えます。
大津城下町について
ここから、今回、大津城下町を見るために訪問したコースに従い説明します。まず、現在地形及び大津城縄張りを同時に示した地図上に、巡ったコースを示します。これ以後の写真にある丸番号は地図と一致させています。地図はクリックすると拡大します。
大津百町は、東海道五十三次の「宿場町」、琵琶湖水運の「港町」、三井寺(園城寺)の「門前町」という3つの町の顔を持ち、東海道最大の人口を誇る宿場町でした。様々な物と人が行き交う大津の賑わい振りと繁栄を示す様子は、『大津百町』と表現されました。実際、江戸時代中期には、ぴったり100の町を数えました。
町は両側町で、通りの向かい合う両側の家が同じ町に属し、背中合わせの家は別の町に属しましたが、現在は通りで囲われた区画が同じ町になるよう整理されています。
江辰板 東海道五十三次之内大津 歌川広重画
大津百町のにぎわいは、目の前にある琵琶湖がもたらしました。北国や東国から多くの荷物を載せた船がやってくる、物資の集散地だったからです。その多くはお米でしたが、これらは湖岸に立ち並ぶ幕府や諸藩の蔵屋敷に蓄積され、大津の米商人によって取引されたあと、京都・大阪へと運ばれていきました。
木曾海道六拾九次之内 大津 歌川広重画
町人による都市生活が向上した元禄の時代、『大津百町』は18,000人もの人々が住む大都市でした。京都から大津に入ってくる東海道は「八丁筋」(八町通)と呼ばれ、大名の宿泊施設である本陣や庶民の宿である旅籠屋が並んでいました。浮世絵は、八町通を描いたものです。両側には宿屋が立ち並び、旅人や荷物を乗せた牛車が行きかい、奥には琵琶湖が見えています。ここには将軍や大名、公家などが宿泊・休憩をとる本陣もありました。
①大津宿本陣跡: 大津には本陣が2軒ありましたが、ここはその内の大坂屋嘉右衛門宅(大塚本陣)です。今は建物もなく更地となっており、本陣跡に建てられた明治天皇聖跡碑に本陣という言葉が刻まれるのみです。もう1つが肥前屋九左衛門宅です。

そのもうひとつの肥前屋の本陣跡と思われる表示が、先ほどの石碑から国道161号線に沿って少し南(山科方面)へ登った薬局前にありました。
②大津市道路元標: 東海道(八丁筋、八町通)から北國海道が分岐する地点を基準としています。
ここは北國海道側にある「札の辻」と呼ばれる地点で高札場でした。反対(東)側の東海道側は、そちらに進むと、「京町通り」と呼ばれ問屋が並び、一筋浜(北)側の「中町通り」は日常品小売店としての商店街、もう一つ浜側の「浜通り」には物資を一時貯蔵する蔵屋敷が並び、3本の通りを中心に栄えておりました。また、ここ札の辻から浜大津までの南北の道は現在は広くなっていますが、大正14年(1925)に道路が拡張されるまでは「突抜通り」と呼ばれ、かなり狭い通りでした。
伊勢参宮名所図会 大津八丁札之辻: 高札場が見え、右上へ行く道は「京町通り(東海道)」、左下隅の道は「北國海道」と考えられます。図はクリックにより拡大します。
③阪本屋鮒寿司店: 北国街道沿い旧石川町(現 長等一丁目)にあります。阪本屋は江戸時代膳所藩の御用料亭として、元々は現在の木下町あたりにありました。幕府への藩の献上品として阪本屋の鮒寿司が毎年利用されていたそうです。明治2年(1869)に鮒寿司を商品化販売することを考えて、現在の地で阪本屋分店としてのれん分けし商売を始めています。
③叶匠壽庵 長等総本店: 北国街道沿い旧土橋町(現 長等二丁目)にありました。
④安藤昆布店: 北国街道沿い旧上北国町(現 三井寺町)にありました。昭和2年の創業です。
⑤桶屋町(西): 桶屋町の西側は、遊廓があった柴屋町に接しているため、飲食店が軒を連ねています。ちなみに、桶屋町は町内に桶屋が集居していたことから、その名がついたとされます。しかし、道が狭く木竹の取り扱いが不便で、徐々に桶屋が他所に移りいなくなってしまった後、隣接して遊廓としてにぎわう柴屋町とともに揚屋町として栄えました。明治7年に船頭町と合併し、その後、長等二~三丁目となっています。
百々川南側 百々川北側


⑤桶屋町(東): 町家で、手前2件の玄関上には厄除けのため鐘馗さんが飾られています。東の桶屋町は、昭和初期の建物が並ぶ住宅街となっています。
⑥鍵屋町(現 長等三丁目)
⑦東今堀町(現 長等三丁目) 大津町家の宿 粋世: 米穀商の大津町家をゲストハウスにしています。登録有形文化財に指定されています。
⑧西今堀町(現 長等三丁目) 豆信大正時代の建物で入母屋造桟瓦葺です。一階正面は格子を建て、大広間のある二階の窓には高欄風の手摺を付けるほか、大小の格子窓を配して瀟洒な外観としています。往時の賑わいを伝える料亭建築です。
⑨旧坂本町(現 中央一~二丁目、浜町)の碑: 坂本城が大津に移された時、城とともに坂本から移住してきた人々が作った町です。浜通りの中央部にあり、西側には大橋堀が柳町の近くまで入って水運の要所でした。大津百艘船の船持仲間(坂本組)があり、米、魚、野菜等の荷揚地として活況を呈していました。天文年間(1736~)から明治期まで大津米会所がありました。
次表に坂本周辺の町人が大津へ移住し形成された町を示します。
➉ 袋町: 袋町は町名ではなく、通り名として親しまれています。真ん中あたりで「橋本町」から「中堀町」(いずれも旧町名)に変わると言う不思議な路地です(通りに面した家屋が同じ町で、家の裏は別の町である両側町)。現在は その「境」を示すものは何もありませんが、当時 町の境に木戸があって、どちらから行っても通り抜けが出来なかったそうです。
⑪中京町(現 中央二丁目) 北川家住宅主屋と町家: 中京町には太物商、質屋、呉服商、古手屋などの商家があり、「貝屋七兵衛」は幕府御用立てに個人で1600両もの大金を支出しています。
⑫下小唐崎町(現 中央二丁目)町家: 町名は、坂本の唐崎より移住したことによります。ロシア皇太子ニコライが巡査に斬りつけられた「大津事件」はこの町内で発生しています。
旬遊あゆら: 町家を利用したレストランです。
⑬御在家町(現 京町二丁目) 魚忠: 明治38年(1905)、呉服商中野家の住居として建てられた大津町家で、横井勝治郎棟梁が手がけました。現在は料亭となり、食事を味わいながら内部を楽しむことができます。必見は柾目普請であること。洗練された座敷や庭師小川治兵衛が手がけた庭を堪能できます。
⑭太間町(現 中央二丁目) 初田家住宅: 江戸時代末の建物。切妻造桟瓦葺で、東半部を落棟とし、越屋根を付けています。東寄りを土間とし、西側は食違いに五室を設け、白漆喰塗の真壁造で、出桁造とし2階に太めの鉄格子の虫籠窓、1階に出格子を残しています。
太間町の名は坂本城下の地名に由来しています。
⑮米屋町(現 浜町) 森本家住宅: 主屋は鬼瓦銘から嘉永2年(1849)に、棟札から大工吉左衛門棟梁により建築された木造2階建の町屋です。角地にあるため、漆喰で土蔵のように見える大壁造とした側面の妻壁も印象的で、煙だしの小屋根(越し屋根)もよく見えます。
米屋町は浜通りの中央にあり、北側には諸藩の蔵屋敷がありました。町名のとおり米問屋の町で、明和年間(1764~1771)より続く蔵元が4軒あったとされています。仙台藩蔵元の福田九郎右衛門は、唐臼を備え、初めて足踏精米を行ったと云われています。
⑯大津御用米会所跡 ⑰南保町碑(現 島ノ関)
北国・東国の諸大名からの年貢米が 保とは平安時代末の行政単位の
琵琶湖水運により集積し、ここで相場 1つで、荘、郷などと共に用いら
が建ち取引が行われていました。 れていました。町名はこの行政単位
江戸時代からの石畳が残されています。 の保に由来しています。


⑱上堅田町(現 中央三丁目): 天正年間(1573~92)に堅田から百艘船の仲間を移住させたことにより生まれた町です。
今回は、同級生のH.S.さんの案内により城下町を巡りました。コースは細かく調査した情報に基づいていたことから、巡ったコースを復習してみて、大津は文化財も多く、歴史の深い町であることを改めて実感しました。すばらしい機会を設定いただきましてありがとうございました。この後、14,000歩を歩きましたので、大津駅で楽しい昼食をとりました。 文責 岡島
城下町の説明において、まず、城下町の中心となる大津城に関する情報を先にまとめ、その次に巡った城下町の説明を行います。
大津城に関する情報は、本ブログの別の報告にもまとめられています。また、大津城下町については、次にもまとめられていますので、そちらもご覧ください。
大津城について
大坂城を政治経済の拠点とした豊臣秀吉は、淀川水系、伏見街道、東海道により大坂につながる大津を北国物資の中継地として、また、琵琶湖水運の要所としての大津港を坂本よりも重視しました。坂本城が廃城となったのち、浅野長吉(長政)がその遺材を利用して天正14年(1586)に大津に移築し、坂本住人の移住を促したことから、大津の町内には坂本の城下町と同様の町名が残っています。町名については巡った城下町の説明の部分を参照ください。

大津城の規模については、現在縄張りを示すような当時の古絵図は残っておらず、その復元が困難な状況にありますが、明治時代以降に大津城について考証された資料が3点あります。これらの資料や江戸時代の絵図などを参考に、昭和55年(1980)発刊『新修大津市史』第三巻の「大津城復元図」において大津城の姿が復元されました。下図はそれに基づいた図で、大津城の城郭と、築城時に坂本から移転した町、江戸時代及び現在の湖岸線を併せて図示したものです。

また、スカイプラザ浜大津6F交流コーナーに設置されている大津城ジオラマも示しました。

縄張から想像して作成されたジオラマです。ナカマチ商店街での「いにしえの大津城と大津の城郭企画展」での展示品です。

大津城跡碑: 大津港口にある碑です。この碑の場所は下の地図の「現在地」と記載されていますように、大津城本丸の北端辺りとなります。


昭和40年代後半の浜大津駅: この当時は現在とは異なり、駅の近くまで琵琶湖が迫っていました。

下図は寛保2年(1742)の大津町絵図ですが(北が下)、この図から、大津城の本丸跡(国道161号浜大津交差点あたり)に、江戸時代を通じて、琵琶湖岸にあった大津代官所『御代官』、『御蔵』が建てられ、また、外堀・中堀の一部が関(荷揚場)として利用されたことがわかります。クリックにより絵図は拡大します。

上記の大津代官所表門: 現在の長等小学校の前身、大津西尋常小学校の表門で、元大津代官所の門であったと伝えられています。現在は存在していません。

大津代官所は、かつての大津城本丸跡を利用していますが、不明なところが多いです。しかし、大津代官は、近江の天領を管理する「近江代官」も兼務したことから、この代官所は大津町のみならず、天領支配の拠点としても重要な地位を占めました。
以下に、大津城西側の中堀及び外堀の地図を示します。クリックすると拡大します。

【中堀】江戸時代に大橋堀・川口関など湖岸の荷揚場として利用されており、その堀跡は昭和期に至るまで残されていました。
西側・・・『川口関』に該当(現在の川口公園あたり)
東側・・・『扇屋関』に該当(NTT大津営業所あたり)
大正時代初期の川口堀: 安土桃山時代に川口弥蔵という人物の屋敷が付近にあったことから名づけられました。この堀を挟んだ民家は堀から水揚げされた商品を取り扱う商家でした。

現在の川口公園: 公園と道路を含むビルの間の空間が中堀でした。上の大正時代の両岸の柳の木は桜に植え替えられています。


北国街道と琵琶湖疎水の交叉する地点(北国橋): 大津城が存在した当時は、この地点は外堀の外側でした。

百々川: マンションの山側を流れ、その下流は琵琶湖疎水に平行していますが、この写真のマンションに沿った部分は外堀の外側輪郭を形成していました。

琵琶湖疎水: 琵琶湖を向いて撮影していますが、この疎水の途中で百々川と交叉する辺りより琵琶湖側の疎水と百々川を合わせたものが外堀でした。

朝日生命ビル建築時に発掘された外堀石垣の模擬石垣による花壇


大津祭曳山展示館の東側石垣: 外堀の石垣と言われており、大津城では唯一現存するものです。しかし、2つ下の地図を確認すると、大津祭曳山展示館と外堀の位置関係がおかしいです。これは描かれている外堀の推定位置が誤っているものと思われます。
しかし、大津城縄張はどうしても推定であることから、現地近くに看板として表示されている地図は、この点が修正されていて、この石垣の位置が外堀の外側になるように描かれています。

大津祭曳山展示館の西側石垣: 東側で見た外堀の石垣に連続しているのが確認できますが、こちらは右(西)側と左(東)側の積み方が異なり、柱辺りより左(東)側は布積みになっているようですので、比較的新しく積まれた石垣のように見えます。

大津城下町について
ここから、今回、大津城下町を見るために訪問したコースに従い説明します。まず、現在地形及び大津城縄張りを同時に示した地図上に、巡ったコースを示します。これ以後の写真にある丸番号は地図と一致させています。地図はクリックすると拡大します。

大津百町は、東海道五十三次の「宿場町」、琵琶湖水運の「港町」、三井寺(園城寺)の「門前町」という3つの町の顔を持ち、東海道最大の人口を誇る宿場町でした。様々な物と人が行き交う大津の賑わい振りと繁栄を示す様子は、『大津百町』と表現されました。実際、江戸時代中期には、ぴったり100の町を数えました。
町は両側町で、通りの向かい合う両側の家が同じ町に属し、背中合わせの家は別の町に属しましたが、現在は通りで囲われた区画が同じ町になるよう整理されています。
江辰板 東海道五十三次之内大津 歌川広重画
大津百町のにぎわいは、目の前にある琵琶湖がもたらしました。北国や東国から多くの荷物を載せた船がやってくる、物資の集散地だったからです。その多くはお米でしたが、これらは湖岸に立ち並ぶ幕府や諸藩の蔵屋敷に蓄積され、大津の米商人によって取引されたあと、京都・大阪へと運ばれていきました。

木曾海道六拾九次之内 大津 歌川広重画
町人による都市生活が向上した元禄の時代、『大津百町』は18,000人もの人々が住む大都市でした。京都から大津に入ってくる東海道は「八丁筋」(八町通)と呼ばれ、大名の宿泊施設である本陣や庶民の宿である旅籠屋が並んでいました。浮世絵は、八町通を描いたものです。両側には宿屋が立ち並び、旅人や荷物を乗せた牛車が行きかい、奥には琵琶湖が見えています。ここには将軍や大名、公家などが宿泊・休憩をとる本陣もありました。

①大津宿本陣跡: 大津には本陣が2軒ありましたが、ここはその内の大坂屋嘉右衛門宅(大塚本陣)です。今は建物もなく更地となっており、本陣跡に建てられた明治天皇聖跡碑に本陣という言葉が刻まれるのみです。もう1つが肥前屋九左衛門宅です。


そのもうひとつの肥前屋の本陣跡と思われる表示が、先ほどの石碑から国道161号線に沿って少し南(山科方面)へ登った薬局前にありました。

②大津市道路元標: 東海道(八丁筋、八町通)から北國海道が分岐する地点を基準としています。
ここは北國海道側にある「札の辻」と呼ばれる地点で高札場でした。反対(東)側の東海道側は、そちらに進むと、「京町通り」と呼ばれ問屋が並び、一筋浜(北)側の「中町通り」は日常品小売店としての商店街、もう一つ浜側の「浜通り」には物資を一時貯蔵する蔵屋敷が並び、3本の通りを中心に栄えておりました。また、ここ札の辻から浜大津までの南北の道は現在は広くなっていますが、大正14年(1925)に道路が拡張されるまでは「突抜通り」と呼ばれ、かなり狭い通りでした。

伊勢参宮名所図会 大津八丁札之辻: 高札場が見え、右上へ行く道は「京町通り(東海道)」、左下隅の道は「北國海道」と考えられます。図はクリックにより拡大します。

③阪本屋鮒寿司店: 北国街道沿い旧石川町(現 長等一丁目)にあります。阪本屋は江戸時代膳所藩の御用料亭として、元々は現在の木下町あたりにありました。幕府への藩の献上品として阪本屋の鮒寿司が毎年利用されていたそうです。明治2年(1869)に鮒寿司を商品化販売することを考えて、現在の地で阪本屋分店としてのれん分けし商売を始めています。

③叶匠壽庵 長等総本店: 北国街道沿い旧土橋町(現 長等二丁目)にありました。

④安藤昆布店: 北国街道沿い旧上北国町(現 三井寺町)にありました。昭和2年の創業です。

⑤桶屋町(西): 桶屋町の西側は、遊廓があった柴屋町に接しているため、飲食店が軒を連ねています。ちなみに、桶屋町は町内に桶屋が集居していたことから、その名がついたとされます。しかし、道が狭く木竹の取り扱いが不便で、徐々に桶屋が他所に移りいなくなってしまった後、隣接して遊廓としてにぎわう柴屋町とともに揚屋町として栄えました。明治7年に船頭町と合併し、その後、長等二~三丁目となっています。
百々川南側 百々川北側


⑤桶屋町(東): 町家で、手前2件の玄関上には厄除けのため鐘馗さんが飾られています。東の桶屋町は、昭和初期の建物が並ぶ住宅街となっています。

⑥鍵屋町(現 長等三丁目)

⑦東今堀町(現 長等三丁目) 大津町家の宿 粋世: 米穀商の大津町家をゲストハウスにしています。登録有形文化財に指定されています。

⑧西今堀町(現 長等三丁目) 豆信大正時代の建物で入母屋造桟瓦葺です。一階正面は格子を建て、大広間のある二階の窓には高欄風の手摺を付けるほか、大小の格子窓を配して瀟洒な外観としています。往時の賑わいを伝える料亭建築です。

⑨旧坂本町(現 中央一~二丁目、浜町)の碑: 坂本城が大津に移された時、城とともに坂本から移住してきた人々が作った町です。浜通りの中央部にあり、西側には大橋堀が柳町の近くまで入って水運の要所でした。大津百艘船の船持仲間(坂本組)があり、米、魚、野菜等の荷揚地として活況を呈していました。天文年間(1736~)から明治期まで大津米会所がありました。

次表に坂本周辺の町人が大津へ移住し形成された町を示します。

➉ 袋町: 袋町は町名ではなく、通り名として親しまれています。真ん中あたりで「橋本町」から「中堀町」(いずれも旧町名)に変わると言う不思議な路地です(通りに面した家屋が同じ町で、家の裏は別の町である両側町)。現在は その「境」を示すものは何もありませんが、当時 町の境に木戸があって、どちらから行っても通り抜けが出来なかったそうです。

⑪中京町(現 中央二丁目) 北川家住宅主屋と町家: 中京町には太物商、質屋、呉服商、古手屋などの商家があり、「貝屋七兵衛」は幕府御用立てに個人で1600両もの大金を支出しています。

⑫下小唐崎町(現 中央二丁目)町家: 町名は、坂本の唐崎より移住したことによります。ロシア皇太子ニコライが巡査に斬りつけられた「大津事件」はこの町内で発生しています。
旬遊あゆら: 町家を利用したレストランです。

⑬御在家町(現 京町二丁目) 魚忠: 明治38年(1905)、呉服商中野家の住居として建てられた大津町家で、横井勝治郎棟梁が手がけました。現在は料亭となり、食事を味わいながら内部を楽しむことができます。必見は柾目普請であること。洗練された座敷や庭師小川治兵衛が手がけた庭を堪能できます。

⑭太間町(現 中央二丁目) 初田家住宅: 江戸時代末の建物。切妻造桟瓦葺で、東半部を落棟とし、越屋根を付けています。東寄りを土間とし、西側は食違いに五室を設け、白漆喰塗の真壁造で、出桁造とし2階に太めの鉄格子の虫籠窓、1階に出格子を残しています。
太間町の名は坂本城下の地名に由来しています。

⑮米屋町(現 浜町) 森本家住宅: 主屋は鬼瓦銘から嘉永2年(1849)に、棟札から大工吉左衛門棟梁により建築された木造2階建の町屋です。角地にあるため、漆喰で土蔵のように見える大壁造とした側面の妻壁も印象的で、煙だしの小屋根(越し屋根)もよく見えます。
米屋町は浜通りの中央にあり、北側には諸藩の蔵屋敷がありました。町名のとおり米問屋の町で、明和年間(1764~1771)より続く蔵元が4軒あったとされています。仙台藩蔵元の福田九郎右衛門は、唐臼を備え、初めて足踏精米を行ったと云われています。

⑯大津御用米会所跡 ⑰南保町碑(現 島ノ関)
北国・東国の諸大名からの年貢米が 保とは平安時代末の行政単位の
琵琶湖水運により集積し、ここで相場 1つで、荘、郷などと共に用いら
が建ち取引が行われていました。 れていました。町名はこの行政単位
江戸時代からの石畳が残されています。 の保に由来しています。


⑱上堅田町(現 中央三丁目): 天正年間(1573~92)に堅田から百艘船の仲間を移住させたことにより生まれた町です。

今回は、同級生のH.S.さんの案内により城下町を巡りました。コースは細かく調査した情報に基づいていたことから、巡ったコースを復習してみて、大津は文化財も多く、歴史の深い町であることを改めて実感しました。すばらしい機会を設定いただきましてありがとうございました。この後、14,000歩を歩きましたので、大津駅で楽しい昼食をとりました。 文責 岡島
2023年9月5日(火)長浜城下町散策
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)
2023年4月18日(火)佐和山城下町(琵琶湖側)
2023年4月18日(火)彦根城下町
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院
2023年3月28日(火)観音寺城下町石寺と沙沙貴神社
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)
2023年4月18日(火)佐和山城下町(琵琶湖側)
2023年4月18日(火)彦根城下町
2023年4月10日(月)安土城下町と淨厳院
2023年3月28日(火)観音寺城下町石寺と沙沙貴神社
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