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2024年03月15日

2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

日野町の日野城跡を探訪地として、城郭探訪会第113回例会が、彦根校44期園芸学科及び健康づくり学科の共同により開催されました。今回は111名の多数のレイカディア大学城郭探訪会員が参加し、筆者は43期OBとして参加しました。

本日は、日野城跡の探訪に加えて、ちょうど、ひなまつりの時期で日野商人街道(本町通、殿町通)沿いでは雛人形が飾られていました。日野城下町のまち歩きとともに、雛人形も見て歩きましたので報告します。
日野城跡の探訪については、こちらをご覧ください。

日野ひなまつり紀行: 2月12日~3月12日の間、町をあげて、通りから見えるように雛人形が飾られています。
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

日野城は、天文2-3年(1533-1534)に蒲生氏郷の祖父蒲生定秀が築城しました。その地名が日野谷の中野の地で築城されたことから、地元では中野城と呼ばれますが、史料上は「日野城」「蒲生城」などと表記されています。
築城とともに、西に続く原野一帯に町割りして、現在の日野の市街地を城下町として設けました。当時は本格的な城下町があまりなかった時代でかなり先進的なことでした。
日野城は、築城した蒲生定秀、子の賢秀、孫の氏郷3代にわたる蒲生家の居城となり、鎌倉時代初期から約400年間における日野の領主であった蒲生家6万石の最後の本城となりました。

蒲生定秀                      蒲生賢秀
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

            蒲生氏郷
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

例会参加者数が多かったことから、4班に別れて日野町内を散策しました。私たちの班の散策コースは、

 福寿社→日野まちかど感応館(旧正野玄三薬店)
 近江日野商人館(旧山中兵右衛門邸)→信楽院(しんぎょういん)→日野城→
 近江ふるさと館(旧山中正吉邸)馬見岡綿向神社→福寿社

で、コースを観光地図にも描きました(約14,000歩のコースです)。図はクリックにより拡大します。
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

日野町の(大字)大窪から(大字)村井・(大字)西大路にかけての商店街や商人屋敷などは、どこか懐かしさを感じる日野の町並みで、そんな街角や商家で、さらに日野独特の風景である桟敷窓越しなどに、この時期、江戸時代から現代に至るまでの雛人形や創作人形が飾られます。
日野町の「日野商人街道(本町通、殿町通)」には桟敷窓のある家が40数軒あります。桟敷窓は板塀に設けられた窓で、もともとは毎年5月3日に行われる日野祭を家の中から見物するための窓ですが、ひなまつりには写真のように雛人形が飾られます。
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

a. 日野まちかど感応館(旧正野玄三薬店)(村井): 最初にまちかど感応館を訪問しました。江戸時代日野商人による行商の発展に、日野椀に代わり、配合薬が貢献しました。
その創始者が正野法眼玄三(1659-1733)です。玄三は延宝4年(1678) 越後で商売を身につけ、日野椀や茶・布を持ち行商に出ましたが、母の病気で帰郷します。当時京都の名医の診療で母の病気をなおすことができたことから、医師を志し、名医名古屋丹水の門下で修行し医師になった後は医薬に恵まれない山間辺地の人や日野商人の長旅の道中薬として「万病感応丸」を作りました。
日野商人がこの配合薬を全国に道中薬として持ち歩くうち、効能が話題を呼び、地元日野で薬を製造する人も増え、現在も地場産業として根づいています。
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

a. 日野まちかど感応館の奥で古い雛人形が飾られておりました。
写真上段左の小さな元禄雛(古式享保雛)は、雛人形の発展史においては、紙製の立雛についで織物の衣装を着た座雛(すわりびな)が現れます。なかでも本作のように小型で、基本的な衣装を金襴(きんらん)という金糸(きんし)を用いた織物で作ったうえ、男雛(おびな)の冠を頭部と共造(ともつく)りにしたものが初期段階の作と考えられます。

上段右の享保雛(きょうほびな)は、江戸時代、八代将軍徳川吉宗公の時代の【享保年間】に京都で生まれて各地に広まっていった雛人形で、衣装や小道具が派手に高級化された豪華な内裏雛です。 もともとは能面師が作ったとされる顔が特徴で、女雛は豪華な天冠、男雛の冠にも金が施されています。

中段の古今雛(こきんびな)は、江戸後期に江戸で完成された雛人形です。男雛は束帯、女雛は五衣唐衣裳(いわゆる十二単)と上級公家の正装を模しますが必ずしも有職故実に則さず、華麗に仕立てています。女雛が単の袖を長く出し、垂髪に宝冠を被るのが特徴です。

下段の有職雛(ゆうそくびな)は、実際の公家の装束を忠実に写したもので、江戸時代中期以降、上層階級が人形師に特注で作らせました。 おもに公家社会や大名家で飾られ、近代以降も上層階級に好まれました。
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

b. 越川町説明板(村井): 日野まちかど感応館から日野商人街道(本町通、殿町通)を歩いているときに見かけた町の説明看板で、城下町を説明するものです。
まず、日野市街地の中央部を東西方向に横断する日野商人街道(本町通、殿町通)は、一直線ではなく、緩やかに大きく蛇行しています。これは、城下町の名残で、市街戦に備え、見通せないようにした軍事的配慮といわれています。交差点にも食違いを取り入れています。
次に、蒲生定秀が日野城下町を作る際、近在の住人の移住を進めましたが、この時愛知川宿から移ってきた人達が住んだ所が、漢字は異なりますが、この「越川町(えちがわちょう)」です。日野の町は両側町で、道の両側で面している家屋が同じ町に属し、背中合わせの家屋は別の町に属します。城下町ではこの通り沿いに「本町」が近江八幡彦根と同様、最初に出来て、「新町」はその後に出来ています。「越川町」以外には、「双六町」は蒲生町双六から移った人達が住んだ町です。その他の移住町の地名としては、「石原町」「麻生町」「岡本町」「松尾町」「内池町」などは、日野城下町が作られる際に日野周辺の村々から人々を移住させて成立した町とされます。
また、職人町の地名としては、「堅地町」(木地屋や塗師)、「塗師町」(塗師)、「白銀町」(銀箔職人)、「鉄砲町」(鉄砲鍛冶)、「鍛冶町」(鍛治職人が住み、刀や鉄砲を製造)などは、日野城下町が作られる際に、特定の職人や職業にかかわる人々を集住させたことから町名となったといわれます。なお、これらの多くは現在の町名には残っていないものの、上鍛冶町・下鍛治町・鍛治今町などが今に伝わっています。
蒲生氏郷が移封された後、江戸時代になると現在の日野町の区域にある11大字(11ケ村)は,8領主により統治され(今回散策した大窪・村井は水口藩、西大路は仁正寺藩)、狭い区域ながら、政治や規則が異なる状況が明治まで続きました。ちなみに、大窪の西隣りの大字松尾は2領主により統治されておりました。
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

c. 大聖寺楼門(大窪): 大聖寺は、鎌薬師と呼ぶ薬師堂を慶長年間(1596-1615)にお寺として開創されたと伝えられています。日野商人の帰依を得て、大聖寺は整備され、中でも、日野商人屈指の豪商・中井源左衛門によって一切経を納める経蔵(奥の漆喰塗の建物)が建立されています。
中井源左衛門の「金持商人一枚起請文」は有名な家訓として知られています。
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

c. 楼門二階の釈迦如来と十六羅漢
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

d. 近江日野商人館(旧山中兵右衛門邸)(大窪): 日野の住人であった初代の山中兵右衛門は、宝永元年(1704)に沼津・御殿場方面への日野椀の行商を手始めに関東への行商を続け、享保3年(1718)には御殿場に店舗を持つに至りました。三代目の兵右衛門は寛政12年(1800)御殿場で酒造業を始め、文化10年(1813)からは小田原藩への貸し付けも始めるなど営業範囲を広げています。
一般に、日野商人を含む近江商人は、出身地域により取扱商品が異なり、日野商人の多くは山中兵右衛門のように、主に関東において酒・醤油の醸造の商売をしていました。
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

d. 文政3年(1820)の雛人形が展示されていました。
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

e. 玉受(請)山(たまうけやま)(大窪): 通称「一本松」とも呼ばれる向こうの山は、鉄砲町や鍛冶町などで作られ、出来上がった日野鉄砲を内池町側から試射した際、玉を受けたことから、このように呼ばれたと伝えられています。
下の田畑となっている場所は日野川の旧河道で、大字村井から大窪の集落南側は落差約10メートルの河岸段丘となっています。現在その下部には写真のように水田が広がっています。
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

また、河岸段丘の向こう側・玉受山の東(上記写真左側)には、蒲生定秀の祖父である蒲生貞秀公の墓所があります。
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

f. 近江ふるさと館(旧山中正吉邸)(西大路): 富士宮(静岡県富士宮市)において酒造業を営んだ日野商人・山中正吉家の本宅です。
江戸時代末期に建てられた旧山中正吉邸は、日野商人の代表的な本宅建築として日野町の有形文化財に指定されており、書院造りの座敷や本格的な洋間など商家の暮らしぶりが随所に感じられます。
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

f. 板塀の一部が開けられた桟敷と桟敷窓の雛人形: 珍しい桟敷窓には内裏雛が飾られ、本日は雪が降っていますが、綿向神社参道から見物することができます。
桟敷窓とは5月に行われる日野祭の様子を家の中から見物することだけを目的に設けられた窓で、こうした開口部がある町屋は全国的にも珍しいものです。最近では、10月に開催される「座敷窓アート」やひなまつりの期間に開けられます。
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

f. 机場の奥の桟敷窓に飾られた雛人形(上写真の室内からの撮影)
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

f. 山中正吉邸に伝わる昭和時代の御殿飾り: 京都御所の紫宸殿を模した御殿の中に人形を飾ります。建物の中に内裏雛を置き、側仕えの官女、(本来は)庭掃除や煮炊きの役目を果たす仕丁(三人上戸)、警護にあたる随身(左大臣・右大臣)などの人形も添えて飾るものです。
御殿があることで、人形の役割もよくわかり、飾りの中にも遊びの要素が加わります。 また、京都の人たちが御殿を御所の紫宸殿(ししんでん)に見立てたところから、桜・橘の二樹も登場してきます。江戸時代から、京大阪で流行しました。御殿飾りが作り始められたころには、屋根はなかったようです。明治、大正時代には、職人が腕をふるった屋根付きの豪華な御殿飾りも作られるようになります。
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

f. 享保雛(個人蔵)
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

g. 馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)(村井): 『延喜式』に記載される「馬見岡神社」に比定されます。綿向山を神体山とし、山頂の大嵩神社の里宮にあたります。蒲生家代々の崇敬が厚く、社殿の再建や神領の寄進などが行われていました。とくに蒲生定秀は、神輿3基を新調するとともに、みずからも渡御行列に参加するなど、中断していた祭礼を復興しました。また、蒲生氏が転封されて日野を離れた後も、金品の寄進などは続けられました。宝永4年(1707)に建立された本殿、5月3日を本祭とする日野祭は、いずれも滋賀県指定文化財です。
また、神社前に「若松の森」があります。天正18年(1590)、蒲生氏郷が伊勢松坂から会津黒川へ国替となった際、地名を会津若松と改めました。その「若松」の由来となったのが、それです。現在は、馬見岡綿向神社宮司の社家宅前にわずか数本の松が残るだけですが、かつては神社参道両側に松林が広がっていました。
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

g. 綿向神社雛人形: 明治14年4月に京都で作られたものです。明治22年1月29日に京都下賀茂神社社家より綿向神社へ輿入れの時に持参されたものです。
2024年3月9日(土)第113回例会「日野城及び日野まち歩き」(城下町まち歩き編)

これでまち歩きは終わりですが、日野観光ボランティアガイド"わたむき"さんの説明もあって、観光で通常見学する街並みに加えて、日野城下町にも目を向けることができました。その結果、日野の町の歴史を含む全体像がおぼろげながらもイメージでき、充実した例会でした。
例会中には雪が降り、主催者は参加者の管理がたいへんであったと想像します。例会実施にご尽力いただきました彦根校44期園芸学科及び健康づくり学科城郭探訪会員の皆様に感謝いたします。
                              文責 岡島敏広

次回は、2024年4月13日(土)に小脇館跡(東近江市)探訪が計画されています。


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