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2023年05月20日

2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)

本日は、レイカディア大学の課題学習での8回目の校外活動となります。
佐和山城下町大手口側(鳥居本側)の情報収集のため、城下町を学ぶ課題学習グループ"沙沙貴組"4名は、佐和山城下町を巡りました。

なお、佐和山城下町については、琵琶湖側の散策や下見を実施しており、その内容については、次のリンク先: 琵琶湖側鳥居本側下見をご覧ください。佐和山城にも登っております。

本日は、あいにくの雨天でしたが、沙沙貴組のメンバーだけでなく、レイカディア地域文化学科のクラスメンバーと11:00に予約した蕎麦を食べる予定です。席待ちのため、そば処"百百百百"(国登録有形文化財の百々家住宅主屋でもあります)の駐車場に車を駐車し、ここをスタート地点とし、待ち時間を利用しての佐和山城下町の散策です。

彦根道に沿って、彦根に向かって西へとスタートです。
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)

本日のコースを佐和山城下町の古絵図に示します。大きく四角く回ります。
古絵図はクリックすると拡大します。上が西、右が北です。
また、あまり開発が進んでいなかった1948年に撮影されたこの周辺の拡大可能な航空写真(国土地理院)へのリンクも付けておきました。
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)

①佐和山城外堀として利用されていた小野川(江戸時代、鳥居本宿が整備される前に小野宿のあった彦根市小野町より流れる川)で、北(下流)の方を見ています。古絵図からすると、この辺りも特に「つるやゴルフ」と見えている左側は外堀の内側ですので、本町筋沿いの町家があったと思われます。
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)

②佐和山城大手口: 彦根道側より本町筋を北に向かい、国道8号線を渡ってすぐに大手口に到着です。大手口案内板の向こうにガードレール見えますが、本町筋が北へと伸びています。左は登城道で、内堀の西法寺川を渡ったところで、土塁と登城道が交わる所に、下写真の彦根宗安寺の赤門(佐和山城大手門の移築門)が建てられていました。
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)
彦根宗安寺の赤門
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)

③佐和山城内堀: 現在は埋め立てられて田んぼ(右)になり細くなっていますが、佐和山城の内堀であった西法寺川(「おまん川」とも呼ばれます)で、北の方面を見ています。左側には現在も土居が残っています。
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)

④佐和山城登城道: 正面の台形の山が佐和山で、ここに本丸があります。左手前の山に太鼓丸があり、古絵図によれば、写真の周辺は侍屋敷でした。城が存在した当時は次のように見えたものと思われます。
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)

本町筋: 本町筋をさらに北に進んで、古西法寺(内町)の集落までやって来ました。石田三成が城主の時代、この道の両側に商人が住んでおり、彦根城が築城されると、彦根京町通(現在の彦根「夢京町キャッスルロード」)沿いの「本町」に、町の名前はそのまま引き継いで、ごっそり移住させられました。
彦根への移住に当たり千坪近い敷地を割り当てられるような藩の有力御用達商人もいたこと、「本町」は彦根の城下町づくりの核となったことから、佐和山城が健在であった頃のこの本町筋沿いには、有力商人が、多数軒を並べていたものと想像されます。
また、この古西法寺からは寛永年間(1624~1645)に鳥居本宿を形成するため、中山道沿いで家数の少なかった鳥居本村の隣で現在の専宗寺辺りに住民が移され、西法寺村を形成しました。
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)

⑥本町筋: 古西法寺集落側から見た本町筋で、本町筋の入口に木製の道標が立てられています。この辺りは本町筋の両側(古絵図には家屋が描かれていない)と異なり、古絵図が描かれた江戸時代にも家屋が描かれ、集落であったことかわかります。写真を右方向に行くと、かもう坂通り往還(別称、龍潭寺越え)で佐和山城の北端を東西に走り、龍潭寺前から延びる百間橋に連絡して松原にあった蔵屋敷につながります。陸路の東山道(江戸時代より中山道)と湖上交通の松原内湖及び琵琶湖を結ぶ重要な道でした。旅人の往来があり、佐和山城廃城後も、集落が残ったものと思われます。
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)

⑦百々町筋: 古西法寺集落(内町)を西(山)側に向かいますと、遠くに案内板が見えました。そこへと到達する畦道は、百々町筋と呼ばれる道で、この辺りに下写真の説明のように百々町があったことが知られています。また、小字名として「通り道西」「通り道東」などの名が残っていて、「百々町筋」の調査では、現道の盛土の下より、佐和山城の時代の道や道を横断する石組み溝が見つかっています。水田の畦や水路が当時の街路を踏襲している可能性が高いことがわかっています。
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)

⑧井戸跡: 上記案内板は井戸跡の説明でした。この井戸跡は小字「百々町」に位置していて、発掘調査が実施される前から、水田の一角に姿を留めていたとのことで、雨のために水に浸かっていますが、しっかりした石積み井戸です。
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)

⑨佐和山城外堀: 古西法寺集落を東(国道8号線/鳥居本町)に向かって歩くと、佐和山城外堀であった小野川を横切ります。南側を見ています。現在は、この川の手前の佐和山城側が佐和町で、渡った先が鳥居本町で、町の境界となっています。
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)

➉古西法寺集落を外れて、鳥居本町方面を見ています。この後、国道8号線を渡って、旧中山道に入ります。
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)

専宗寺: 旧中山道沿いにある浄土真宗本願寺派のお寺です。かつては、古西法寺の本町筋にあり、泉山泉寺と号していましたが、寛永17年(1640)に洞泉山専宗寺と改め、ここ西法寺に移転してきました。本堂などの建立時代は、18世紀後半のものと推定されています。
加えて、太鼓櫓の一層目の天井材に転用されている扉板は、佐和山城にあった門扉が使われていたと言われていました。佐和山城が落城するとき、石田三成を慕った足軽が、せめてお城の痕跡をどこかに残したいと、門の扉板を持ち出したという伝承があり、その扉板が、太鼓櫓の天井板だというのです。
しかし、太鼓櫓は撤去されてなくなっておりました。写真右の空間のある部分です。
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)

⑪ところが、太鼓櫓にあった佐和山城のその門扉らしき扉が、専宗寺山門の左側に2枚立てかけてありました。門扉だけを残しているのは、貴重な品物の証拠ではないかと思います。確かに、残された扉には、門に使われる金具や蝶番の跡が板に残っていました。写真はクリックで拡大します。
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)

本日の佐和山城下町(鳥居本側)の散策調査はここで終了し、時間も予約時間にほどよい頃となりました。
沙沙貴組のメンバーは百百百百に戻り、レイカディア地域文化学科のクラスメンバーと合流して、お昼として盛り蕎麦の大盛をいただきました。午後は、それぞれ人によりますが、鳥居本宿を巡った人、龍潭寺(ここには石田三成に関連する遺品がたくさん展示されています)を訪問した人などに別れ活動しました。本日は、雨の中、皆さまお疲れさまでした。  文責 岡島 敏広


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