2025年04月07日
2025年3月30日(日)兵庫県播州龍野城訪問(たつの市)
個人旅行で、兵庫県たつの市龍野城を訪問しました。
龍野城の歴史は中世赤松氏が城主であった鶏籠山(けいろうさん)城に始まり、蜂須賀氏をはじめとする羽柴秀吉子飼いの武将たち、関ヶ原合戦後には、池田輝政の家老、本多氏、小笠原氏、岡部氏、京極氏と歴戦の大名が入城しました。
なお、山城のある鶏籠山の名前はその形が鶏の伏せ籠に似ていることに由来します。
赤松氏の後も山城(鶏籠山城)が利用されていましたが、山上から今回訪問した麓に城が移動したのは、元和3年(1617)に本多政朝(まさとも)が入城した際に麓で新たな城(龍野城)が築かれたと考えられます(龍野城物語 たつの市立龍野歴史文化資料館編 2011)。
本多政朝
しかし、万治元年(1658)に京極高和の丸亀移転の際に龍野城は破却されました。
寛文12年(1672)に信濃飯田から脇坂安政が藩主になると城も再建され、現在見られる山麓居館部のみの陣屋形式の城郭に改修されました。また、この際、山頂の鶏籠山城は放棄されました。
その後、幕末まで脇坂氏が藩主を務め、維新後は明治4年(1871)に廃城となり、建物は競売により取り壊され、大手門(浄栄寺に移築)から冠木門(かぶきもん、かぶらぎもん)(因念寺に移築)に至る中間部に裁判所が立てられました。外堀も一部を残して埋め立てられました。明治末に城内に旧制龍野高等女学校が置かれた時、新たに進入道路が新設されるなど縄張は絵図から大きく変更されています。
昭和50年(1975)より5年間に城は整備され、城壁、埋門、多聞櫓や本丸御殿などが「再建」されていき、現在の本丸御殿は昭和54年(1979)に「再建」されたものです。しかし、二重隅櫓(絵図にない模擬櫓)は後に建築されたものです。なお、「再建」に当たっては、現在残る絵図を参考にして、すべて木造、土壁で建てられています。
また、城下町は令和元年(2019)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。龍野城と城下町の情報
城主がたびたび変更となっていることから、残された複数の城郭絵図を見比べると、以下の絵図のように年代により縄張や普請も変更されています(龍野城物語 たつの市立龍野歴史文化資料館編 2011)。
播州立野城図 江戸初期 正保-明暦(1640-50)頃: 京極高和の頃 (図はクリックにより拡大します)
播州竜野城図 江戸中期-末期: リンクによりこの頃の絵図を見ることができます。
龍野城郭之図 明治4年(1871): 龍野藩10代(最後)の藩主 脇坂 安斐(やすあや)の頃 (図はクリックにより拡大します)
多聞櫓: 龍野城は山麓に築かれた城で、二段構築の本丸の東南に二の丸を配した梯郭式(ていかくしき)の造りで、写真は二の丸にある龍野歴史文化資料館前の「再建」多聞櫓です。この後に撮影した建物は、二重隅櫓を除き、いずれも再建されたものになります。
「埋門(うずみもん)」外側: 絵図に基づき再建された櫓門で、東(右)側に「続櫓」が付随して横矢を掛けられるようにした門です。
「埋門」内側
本丸御殿: 昭和54年(1979)に再建された御殿です。
本丸御殿玄関: 御殿の玄関は、賤ヶ岳の七本槍の一人で藩祖脇坂安治が建立した京都妙心寺隣華院の大玄関を参考にしたと言われています。
本丸御殿内中庭: 枯山水の中庭がありました。
本丸御殿内上段の間: 御殿の間取りが絵図にないので、推定により作られたものと思われますが、現在の御殿の北西隅にある藩主の間です。
鶏籠山古城への登山口: 次の裏門の手前には龍野城の前身である山城「鶏籠山城」の登城口があります。今回は訪問しませんでした。
高麗門形式の裏門(再建): 本丸西側の搦手、外からは「錣(しころ)坂」を登り切った所にあります。
二重隅櫓東面: 東側(正面)だけ「入母屋造り」になった変則的な造りです。次の北面と比較ください。
二重隅櫓北面: 東側(左側)だけ「入母屋造り」になった変則的な造りで、次に示す表の顔とは違う姿を見せます。
二重隅櫓北面を城外から見ました。「裏門」を出て歩いている道は「錣(しころ)坂」で、坂を下った所に搦手門である「錣坂門」がありました。その錣坂門は、兵庫県揖保郡太子町の蓮光寺に山門として移築され現存しています。
さらに真っ直ぐ進むと右手に薬医門形式の「家老門」が屋内運動場(体育館)の門として建っております。その場所は宝暦2年(1752)の絵図では「新御屋敷」、寛政10年(1798)の絵図では「脇坂久五郎」邸でした。
二重隅櫓南(右)面と西(左)面: 敷地の南西端には美しくて龍野城のシンボル的写真としてよく用いられますが、実際には存在しなかった模擬「二重隅櫓」が建てられています。こちら側には唐破風が2箇所あります。
龍野城訪問後は、武家屋敷資料館やうすくち龍野醤油資料館(下記)を訪問しました。
うすくち龍野醤油資料館: ヒガシマル醤油の展示施設で、ヒガシマルの社名・商標は、明治維新の折、前身である淺井醤油に対して、龍野藩(播磨国)から払い下げられた直営醤油醸造所「物産蔵」が、揖保川の東側に蔵があり「東蔵」と呼ばれたことに由来しています。
加えて、太陽が東から昇るように、「社運が旭日昇天の勢いなれかし」の願いも込めて定められたものとなっています。
これまで見てきたたつの市の伝統的風景の維持に対し、ヒガシマル醤油(株)の貢献が大きいようです。
資料館内部の醤油仕込蔵
龍野城・資料館訪問後は、本日の次の訪問地の福山城へと移動しました。
文責 岡島 敏広
龍野城の歴史は中世赤松氏が城主であった鶏籠山(けいろうさん)城に始まり、蜂須賀氏をはじめとする羽柴秀吉子飼いの武将たち、関ヶ原合戦後には、池田輝政の家老、本多氏、小笠原氏、岡部氏、京極氏と歴戦の大名が入城しました。
なお、山城のある鶏籠山の名前はその形が鶏の伏せ籠に似ていることに由来します。
赤松氏の後も山城(鶏籠山城)が利用されていましたが、山上から今回訪問した麓に城が移動したのは、元和3年(1617)に本多政朝(まさとも)が入城した際に麓で新たな城(龍野城)が築かれたと考えられます(龍野城物語 たつの市立龍野歴史文化資料館編 2011)。
本多政朝

しかし、万治元年(1658)に京極高和の丸亀移転の際に龍野城は破却されました。
寛文12年(1672)に信濃飯田から脇坂安政が藩主になると城も再建され、現在見られる山麓居館部のみの陣屋形式の城郭に改修されました。また、この際、山頂の鶏籠山城は放棄されました。
その後、幕末まで脇坂氏が藩主を務め、維新後は明治4年(1871)に廃城となり、建物は競売により取り壊され、大手門(浄栄寺に移築)から冠木門(かぶきもん、かぶらぎもん)(因念寺に移築)に至る中間部に裁判所が立てられました。外堀も一部を残して埋め立てられました。明治末に城内に旧制龍野高等女学校が置かれた時、新たに進入道路が新設されるなど縄張は絵図から大きく変更されています。
昭和50年(1975)より5年間に城は整備され、城壁、埋門、多聞櫓や本丸御殿などが「再建」されていき、現在の本丸御殿は昭和54年(1979)に「再建」されたものです。しかし、二重隅櫓(絵図にない模擬櫓)は後に建築されたものです。なお、「再建」に当たっては、現在残る絵図を参考にして、すべて木造、土壁で建てられています。
また、城下町は令和元年(2019)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。龍野城と城下町の情報
城主がたびたび変更となっていることから、残された複数の城郭絵図を見比べると、以下の絵図のように年代により縄張や普請も変更されています(龍野城物語 たつの市立龍野歴史文化資料館編 2011)。
播州立野城図 江戸初期 正保-明暦(1640-50)頃: 京極高和の頃 (図はクリックにより拡大します)

播州竜野城図 江戸中期-末期: リンクによりこの頃の絵図を見ることができます。
龍野城郭之図 明治4年(1871): 龍野藩10代(最後)の藩主 脇坂 安斐(やすあや)の頃 (図はクリックにより拡大します)

多聞櫓: 龍野城は山麓に築かれた城で、二段構築の本丸の東南に二の丸を配した梯郭式(ていかくしき)の造りで、写真は二の丸にある龍野歴史文化資料館前の「再建」多聞櫓です。この後に撮影した建物は、二重隅櫓を除き、いずれも再建されたものになります。

「埋門(うずみもん)」外側: 絵図に基づき再建された櫓門で、東(右)側に「続櫓」が付随して横矢を掛けられるようにした門です。

「埋門」内側

本丸御殿: 昭和54年(1979)に再建された御殿です。

本丸御殿玄関: 御殿の玄関は、賤ヶ岳の七本槍の一人で藩祖脇坂安治が建立した京都妙心寺隣華院の大玄関を参考にしたと言われています。

本丸御殿内中庭: 枯山水の中庭がありました。

本丸御殿内上段の間: 御殿の間取りが絵図にないので、推定により作られたものと思われますが、現在の御殿の北西隅にある藩主の間です。

鶏籠山古城への登山口: 次の裏門の手前には龍野城の前身である山城「鶏籠山城」の登城口があります。今回は訪問しませんでした。

高麗門形式の裏門(再建): 本丸西側の搦手、外からは「錣(しころ)坂」を登り切った所にあります。

二重隅櫓東面: 東側(正面)だけ「入母屋造り」になった変則的な造りです。次の北面と比較ください。

二重隅櫓北面: 東側(左側)だけ「入母屋造り」になった変則的な造りで、次に示す表の顔とは違う姿を見せます。

二重隅櫓北面を城外から見ました。「裏門」を出て歩いている道は「錣(しころ)坂」で、坂を下った所に搦手門である「錣坂門」がありました。その錣坂門は、兵庫県揖保郡太子町の蓮光寺に山門として移築され現存しています。
さらに真っ直ぐ進むと右手に薬医門形式の「家老門」が屋内運動場(体育館)の門として建っております。その場所は宝暦2年(1752)の絵図では「新御屋敷」、寛政10年(1798)の絵図では「脇坂久五郎」邸でした。

二重隅櫓南(右)面と西(左)面: 敷地の南西端には美しくて龍野城のシンボル的写真としてよく用いられますが、実際には存在しなかった模擬「二重隅櫓」が建てられています。こちら側には唐破風が2箇所あります。

龍野城訪問後は、武家屋敷資料館やうすくち龍野醤油資料館(下記)を訪問しました。
うすくち龍野醤油資料館: ヒガシマル醤油の展示施設で、ヒガシマルの社名・商標は、明治維新の折、前身である淺井醤油に対して、龍野藩(播磨国)から払い下げられた直営醤油醸造所「物産蔵」が、揖保川の東側に蔵があり「東蔵」と呼ばれたことに由来しています。
加えて、太陽が東から昇るように、「社運が旭日昇天の勢いなれかし」の願いも込めて定められたものとなっています。
これまで見てきたたつの市の伝統的風景の維持に対し、ヒガシマル醤油(株)の貢献が大きいようです。

資料館内部の醤油仕込蔵

龍野城・資料館訪問後は、本日の次の訪問地の福山城へと移動しました。
文責 岡島 敏広
2025年2月17日(月)三上陣屋跡訪問(野洲市)
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
2025年1月14日(火)沖縄県竹富島(竹富町)の小城盛(クスクムイ)と蔵元
2024年10月25日(金)レイカディア地域文化43期'24秋のバス旅行「尾州犬山城とひつまぶしの旅」(愛知県)
2024年10月9日(水)岐阜県飛騨高山陣屋訪問
2024年10月8日(火)長野県信州松代城訪問
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joukaku
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