2024年10月23日
2024年10月18日(金)城郭OB第83回例会「金ヶ崎城址・金ヶ崎の退き口」(福井県)
福井県敦賀市の金ヶ崎城址を探訪地として、レイカディア大学39期生主催により、城郭探訪OB会第83回例会が開催されました。筆者は初めてのOB会例会参加で、今回は52名のOB会会員が参加しました。例会では参加者はJR敦賀駅に集合し、そこからスタートして、例会の総歩行歩数は17,000歩でした。
金ヶ崎城は、平安時代末期、治承・寿永の乱(源平合戦)の時代に、平通盛が北陸で勢力を持つ木曾義仲に対抗するため城を築いたのが最初と言われています。
金ヶ崎城址には現在は石碑が立つだけですが、元亀元年(1570)4月、織田信長が越前・朝倉義景征伐の軍を敦賀に進軍、天筒(てづつ)山城、金ヶ崎城を落として越前に攻め入ろうとした時、義弟・浅井長政裏切りの報を受けた「金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口、金ヶ崎崩れ)」と呼ばれる撤退戦の舞台として有名です。朝倉・浅井軍に挟まれ窮地に至った信長は殿(しんがり)を務めた木下藤吉郎(秀吉)の活躍により難関を突破、無事に京へ戻ることができました。それから2ヶ月後、信長軍は近江に侵攻、浅井・朝倉連合軍との姉川の合戦を制し、3年後の元亀3年(1572)の浅井、朝倉滅亡に繋げました。
現在、この城は「金ヶ崎城跡」として、国の史跡に指定されています。
また、金ヶ崎城は南北朝時代の延元元年(1336)に、尊良(たかよし又はたかなが)、恒良(つねよし又はつねなが)両親王を守護した新田義貞と足利軍が戦った古戦場としても知られます。中腹の金崎宮には戦いに関係する後醍醐天皇の皇太子恒良親王と尊良親王の二人が祀られています。
戦いでは城の陥落とともに恒良親王は捕縛され、後に毒薬をもられて亡くなります(御年15歳)。また、尊良親王(御年27歳)は新田義貞の長男の新田義顕(御年18歳)とともに落城時自害しました。
新田義貞 木下藤吉郎


第83回例会のコースは以下の通りで、麓の金前寺前から金ヶ崎城址に登り、引き続いて手筒山城址(展望塔)を経由して、金ヶ崎公園手筒山駐車場前に下りました。JR敦賀駅に向かう途中、気比神宮にも立ち寄っています。
JR敦賀駅➞金ヶ崎宮➞月見御殿➞ 城戸址➞天筒山展望塔➞
天筒山登山口➞気比神宮➞JR敦賀駅
金ヶ崎城址探訪コース図: コース図は図をクリックすることにより拡大します。
金前寺前でのコースの説明: 説明を受け、これから金ヶ崎城址(月見御殿)へ向かいます。
愛宕神社: 金崎宮へ向かう階段を上り始めてまもなく右手に鳥居が見えます。古くから愛宕大権現と尊称し、火防の神と崇め、社殿の造営には領土酒井藩・松平福井藩からも寄進があったとされます。
金崎宮: 後醍醐天皇の皇子の尊良親王と恒良親王の二人の親王が御祭神として祀られています。明治23年(1890)に創建され、一度焼失した後、明治39年(1906)に現在地に再建されました。毎年4月に花換(はなかえ)神事と花換まつりが実施され、たくさんの人が桜の花の小枝を交換し合って賑わっています。
城址碑とその左手にある登城口: 城址碑から写真左側にある「花換の小道」を登って行きます。
尊良親王墓所見込地: 登山の途中、墓所見込地の横を通過しました。今回、墓所見込地は訪問できていませんが、この階段を上った所で、金崎宮本殿背後の高台に尊良親王墓所見込地があります。そこには円筒形の石碑が立ち、「尊良親王御陵墓見込地」「明治九年十月」と刻まれています。自刃(じじん)した尊良親王の首が送られ、葬礼が行われた墓所指定地が京都市左京区永観堂近くにあることから、落城時の親王自刃の地ではないかと見られています。この場所から経筒、和鏡、銅椀が出土しています。

金ヶ崎古戦場碑: 石碑は月見御殿の手前、古墳近くにあります。金ヶ崎城は、南北朝の戦い、守護斯波氏と守護代甲斐氏の戦い、元亀元年の金ヶ崎の戦いと多くの合戦の舞台になっていますが、この碑は南北朝時代の南朝の主力として北朝と戦った新田義貞の戦いを刻んだものです。
月見御殿(本郭): この付近は金ヶ崎の最高地(海抜86m)で月見崎といい、通称月見御殿と呼ばれます。南北朝時代の本丸跡で、戦国時代などにも武将が月見をしたと伝えられています。ここで集合写真を撮影しました。
織田・朝倉の金ヶ崎の戦いの時には、朝倉側は朝倉景恒を総大将のもと金ヶ崎城に籠っていましたが、兵力差もあり信長の降伏勧告を受け入れ開城しました。
三の木戸(城戸)跡: 南北朝時代の金ヶ崎城の第3の城門で、三の木戸、二の木戸、一の木戸それぞれの木戸跡には堀切が残されています。ここ三の木戸の地名は「水の手」と呼ばれ、当時の用水場で付近から清水が湧き出ていたと伝えられます。
焼米出土地: ここも三の木戸と同じ「水の手」と呼ばれる清水が湧き出ていたという平坦地にあり、江戸時代にこの場所から炭化米が出土しました。この付近には、金ヶ崎城の兵糧庫があり、織田・朝倉の攻防戦での落城の際、兵糧庫が焼け落ちたものと思われます。
二の木戸(城戸)跡: 南北朝時代の金ヶ崎城の第2の関門跡で、この付近で激戦があったと伝えられています。その南北朝時代の戦いが記された「太平記」にも、一の木戸と二の木戸の陥落についての記述があり、防御上の要だったことがうかがえます。
二の木戸と一の木戸間の堀切: 上掲の金ヶ崎城址探訪コース図に、堀切や畝状竪堀の位置が示されていますが、写真のような堀切が切られています。
一の木戸(城戸)跡: 南北朝時代の金ヶ崎城の最初の関門跡で、この付近で激戦があったと伝えられています。ここにある堀切は敵の侵入を妨害する役割を持ち、戦国時代の金ヶ崎の戦いでは朝倉氏も利用しています。
手筒山城跡: 天筒山城は中世の戦いの舞台となった金ヶ崎城の支城で、金ヶ崎城から尾根筋を南東に辿ると到達します。天筒山(171.3m)の最高所を主郭として、派生する尾根上にいくつもの曲輪群が設けられていたようです。構造は、山頂一帯の主郭群、山頂から金ヶ崎城に向かう尾根筋上に北Ⅰ群、南西に延びた稜線上に南Ⅰ群、その南に南Ⅱ群、南端に南Ⅲ群の五群からなる大規模な城砦です。金ヶ崎城ほど有名ではありませんが、このように城の堅牢さでは金ヶ崎城を上回ると考えられ、一体となって本来の機能が発揮出来る構成でした。
今回は、時間の関係で山頂を訪問したのみで、主郭の中央に設置された高さ約15mの観光用展望塔から周囲の風景を見晴らしました。
織田・朝倉の金ヶ崎の戦いにおいては、天筒山城に気比社の社家、嶋、宇野各氏や上田、中村、吉川、萩原入道などが立て篭もっていましたが、信長軍は天筒山城東南の池見湿地から天筒山城に一気に攻めのぼり、一日で天筒山城を陥落させました(信長公記巻3、元亀元年4月25日)。金ヶ崎城にいた朝倉景恒も、天筒山城に来て戦いましたが敗れ、一乗谷からの朝倉義景本隊の支援が遅れていたことから、信長からの降伏勧告を受入れ金ヶ崎城も開城して、府中(現越前市)で朝倉義景本隊に合流しようとしました。
しかし、ここで一乗谷上城戸近くの盛源寺南に朝倉氏から屋敷地(屋敷跡の小字名「浅井殿(あざいどん)」や「浅井前」が残る)を与えられ、主従関係にあった浅井長政が朝倉軍として参戦し、信長の金ヶ崎の退き口の話となります。
手筒山にて敦賀湾を背景に集合写真を撮影: 撮影後、林道に沿って天筒山登山口まで下りました。
気比神宮鳥居: 手筒山よりJR敦賀駅まで戻る途中、越前国一宮の気比神宮に立ち寄りました。
気比神宮は、北陸道諸国から畿内への入り口となる敦賀港を有する地に立地し、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にもあたる要衝であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社でした。大宝2年(702)の建立と伝えられています。
織田信長による金ヶ崎の戦いで、気比神宮は灰燼に帰し、社僧離散、社領没収、祭祀廃絶するまでに至りましたが、江戸時代越前福井藩により復興しました。
気比神宮本殿
気比神宮訪問後は、JR敦賀駅に戻り、本日の例会は解散となりました。
例会実施にご尽力いただきました39期OB会員の皆様に感謝いたします。
文責 岡島敏広
次回は、2024年11月14日(木)に日爪城探訪が計画されています。
金ヶ崎城は、平安時代末期、治承・寿永の乱(源平合戦)の時代に、平通盛が北陸で勢力を持つ木曾義仲に対抗するため城を築いたのが最初と言われています。
金ヶ崎城址には現在は石碑が立つだけですが、元亀元年(1570)4月、織田信長が越前・朝倉義景征伐の軍を敦賀に進軍、天筒(てづつ)山城、金ヶ崎城を落として越前に攻め入ろうとした時、義弟・浅井長政裏切りの報を受けた「金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口、金ヶ崎崩れ)」と呼ばれる撤退戦の舞台として有名です。朝倉・浅井軍に挟まれ窮地に至った信長は殿(しんがり)を務めた木下藤吉郎(秀吉)の活躍により難関を突破、無事に京へ戻ることができました。それから2ヶ月後、信長軍は近江に侵攻、浅井・朝倉連合軍との姉川の合戦を制し、3年後の元亀3年(1572)の浅井、朝倉滅亡に繋げました。
現在、この城は「金ヶ崎城跡」として、国の史跡に指定されています。
また、金ヶ崎城は南北朝時代の延元元年(1336)に、尊良(たかよし又はたかなが)、恒良(つねよし又はつねなが)両親王を守護した新田義貞と足利軍が戦った古戦場としても知られます。中腹の金崎宮には戦いに関係する後醍醐天皇の皇太子恒良親王と尊良親王の二人が祀られています。
戦いでは城の陥落とともに恒良親王は捕縛され、後に毒薬をもられて亡くなります(御年15歳)。また、尊良親王(御年27歳)は新田義貞の長男の新田義顕(御年18歳)とともに落城時自害しました。
新田義貞 木下藤吉郎


第83回例会のコースは以下の通りで、麓の金前寺前から金ヶ崎城址に登り、引き続いて手筒山城址(展望塔)を経由して、金ヶ崎公園手筒山駐車場前に下りました。JR敦賀駅に向かう途中、気比神宮にも立ち寄っています。
JR敦賀駅➞金ヶ崎宮➞月見御殿➞ 城戸址➞天筒山展望塔➞
天筒山登山口➞気比神宮➞JR敦賀駅
金ヶ崎城址探訪コース図: コース図は図をクリックすることにより拡大します。

金前寺前でのコースの説明: 説明を受け、これから金ヶ崎城址(月見御殿)へ向かいます。

愛宕神社: 金崎宮へ向かう階段を上り始めてまもなく右手に鳥居が見えます。古くから愛宕大権現と尊称し、火防の神と崇め、社殿の造営には領土酒井藩・松平福井藩からも寄進があったとされます。

金崎宮: 後醍醐天皇の皇子の尊良親王と恒良親王の二人の親王が御祭神として祀られています。明治23年(1890)に創建され、一度焼失した後、明治39年(1906)に現在地に再建されました。毎年4月に花換(はなかえ)神事と花換まつりが実施され、たくさんの人が桜の花の小枝を交換し合って賑わっています。

城址碑とその左手にある登城口: 城址碑から写真左側にある「花換の小道」を登って行きます。

尊良親王墓所見込地: 登山の途中、墓所見込地の横を通過しました。今回、墓所見込地は訪問できていませんが、この階段を上った所で、金崎宮本殿背後の高台に尊良親王墓所見込地があります。そこには円筒形の石碑が立ち、「尊良親王御陵墓見込地」「明治九年十月」と刻まれています。自刃(じじん)した尊良親王の首が送られ、葬礼が行われた墓所指定地が京都市左京区永観堂近くにあることから、落城時の親王自刃の地ではないかと見られています。この場所から経筒、和鏡、銅椀が出土しています。


金ヶ崎古戦場碑: 石碑は月見御殿の手前、古墳近くにあります。金ヶ崎城は、南北朝の戦い、守護斯波氏と守護代甲斐氏の戦い、元亀元年の金ヶ崎の戦いと多くの合戦の舞台になっていますが、この碑は南北朝時代の南朝の主力として北朝と戦った新田義貞の戦いを刻んだものです。

月見御殿(本郭): この付近は金ヶ崎の最高地(海抜86m)で月見崎といい、通称月見御殿と呼ばれます。南北朝時代の本丸跡で、戦国時代などにも武将が月見をしたと伝えられています。ここで集合写真を撮影しました。
織田・朝倉の金ヶ崎の戦いの時には、朝倉側は朝倉景恒を総大将のもと金ヶ崎城に籠っていましたが、兵力差もあり信長の降伏勧告を受け入れ開城しました。

三の木戸(城戸)跡: 南北朝時代の金ヶ崎城の第3の城門で、三の木戸、二の木戸、一の木戸それぞれの木戸跡には堀切が残されています。ここ三の木戸の地名は「水の手」と呼ばれ、当時の用水場で付近から清水が湧き出ていたと伝えられます。

焼米出土地: ここも三の木戸と同じ「水の手」と呼ばれる清水が湧き出ていたという平坦地にあり、江戸時代にこの場所から炭化米が出土しました。この付近には、金ヶ崎城の兵糧庫があり、織田・朝倉の攻防戦での落城の際、兵糧庫が焼け落ちたものと思われます。

二の木戸(城戸)跡: 南北朝時代の金ヶ崎城の第2の関門跡で、この付近で激戦があったと伝えられています。その南北朝時代の戦いが記された「太平記」にも、一の木戸と二の木戸の陥落についての記述があり、防御上の要だったことがうかがえます。

二の木戸と一の木戸間の堀切: 上掲の金ヶ崎城址探訪コース図に、堀切や畝状竪堀の位置が示されていますが、写真のような堀切が切られています。

一の木戸(城戸)跡: 南北朝時代の金ヶ崎城の最初の関門跡で、この付近で激戦があったと伝えられています。ここにある堀切は敵の侵入を妨害する役割を持ち、戦国時代の金ヶ崎の戦いでは朝倉氏も利用しています。

手筒山城跡: 天筒山城は中世の戦いの舞台となった金ヶ崎城の支城で、金ヶ崎城から尾根筋を南東に辿ると到達します。天筒山(171.3m)の最高所を主郭として、派生する尾根上にいくつもの曲輪群が設けられていたようです。構造は、山頂一帯の主郭群、山頂から金ヶ崎城に向かう尾根筋上に北Ⅰ群、南西に延びた稜線上に南Ⅰ群、その南に南Ⅱ群、南端に南Ⅲ群の五群からなる大規模な城砦です。金ヶ崎城ほど有名ではありませんが、このように城の堅牢さでは金ヶ崎城を上回ると考えられ、一体となって本来の機能が発揮出来る構成でした。
今回は、時間の関係で山頂を訪問したのみで、主郭の中央に設置された高さ約15mの観光用展望塔から周囲の風景を見晴らしました。
織田・朝倉の金ヶ崎の戦いにおいては、天筒山城に気比社の社家、嶋、宇野各氏や上田、中村、吉川、萩原入道などが立て篭もっていましたが、信長軍は天筒山城東南の池見湿地から天筒山城に一気に攻めのぼり、一日で天筒山城を陥落させました(信長公記巻3、元亀元年4月25日)。金ヶ崎城にいた朝倉景恒も、天筒山城に来て戦いましたが敗れ、一乗谷からの朝倉義景本隊の支援が遅れていたことから、信長からの降伏勧告を受入れ金ヶ崎城も開城して、府中(現越前市)で朝倉義景本隊に合流しようとしました。
しかし、ここで一乗谷上城戸近くの盛源寺南に朝倉氏から屋敷地(屋敷跡の小字名「浅井殿(あざいどん)」や「浅井前」が残る)を与えられ、主従関係にあった浅井長政が朝倉軍として参戦し、信長の金ヶ崎の退き口の話となります。

手筒山にて敦賀湾を背景に集合写真を撮影: 撮影後、林道に沿って天筒山登山口まで下りました。

気比神宮鳥居: 手筒山よりJR敦賀駅まで戻る途中、越前国一宮の気比神宮に立ち寄りました。
気比神宮は、北陸道諸国から畿内への入り口となる敦賀港を有する地に立地し、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にもあたる要衝であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社でした。大宝2年(702)の建立と伝えられています。
織田信長による金ヶ崎の戦いで、気比神宮は灰燼に帰し、社僧離散、社領没収、祭祀廃絶するまでに至りましたが、江戸時代越前福井藩により復興しました。

気比神宮本殿

気比神宮訪問後は、JR敦賀駅に戻り、本日の例会は解散となりました。
例会実施にご尽力いただきました39期OB会員の皆様に感謝いたします。
文責 岡島敏広
次回は、2024年11月14日(木)に日爪城探訪が計画されています。
2025年2月27日(木)城郭OB第87回例会「北之庄城(岩崎山城)跡」
2024年12月5日(木)城郭OB第85回例会「佐和山城と大洞弁財天を巡る」
2024年11月14日(木)城郭OB第84回例会「近江日爪城址」
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」
2024年4月13日(土)第114回例会「小脇館跡と太郎坊宮、瓦屋禅寺をめぐる」
2024年12月5日(木)城郭OB第85回例会「佐和山城と大洞弁財天を巡る」
2024年11月14日(木)城郭OB第84回例会「近江日爪城址」
2024年6月15日(土)第116回例会「宇佐山城跡と近江神宮から近江大津宮へ」
2024年5月18日(土)第115回例会「賤ヶ岳古戦場」
2024年4月13日(土)第114回例会「小脇館跡と太郎坊宮、瓦屋禅寺をめぐる」
Posted by
joukaku
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13:03
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