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2022年12月19日

2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

太尾山城跡・青岸寺を探訪地として、記念すべき第100回例会を実施しました。担当学科は彦根校43期北近江文化と健康づくり学科です。今回は39名(42期6名、43期16名、44期17名)の会員が参加しました。太尾山城跡は、JR米原駅の東にそびえる太尾山にあります。
米原駅東口に集合し、まず、写真の湯谷神社まで歩きました。もとは青岸寺の境内にある鎮守社であるとともに、米原村の氏神としての役割を担ってきた神社です。「湯谷」の地名は、この地で見つかった温泉に祠を建てたのが始まりと伝えられ、神社はその名に因んだものです。現在は温泉は出ません。
2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

ここでラジオ体操により、体をほぐして、
2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

本日探訪する太尾山城についての概要の説明を班のリーダーより受けて出発です。
2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

太尾山城の歴史を以下にまとめます。
太尾山城は東山道(後の中山道)と北国街道の分岐点を押さえる位置にあり、美濃と近江、江北と江南の境目の城として重視されました。それは以下の歴史からも窺えます。
まず、築城年代は定かではありませんが、太尾山城の原初のものは、在地土豪の米原氏によって築かれたといわれています。
文明3年(1471): 美濃守護代 齋藤妙椿が近江に侵攻し、米原山で合戦したとの記録があり、この山が太尾山と考えられています。
天文7年(1538): 六角定頼による北近江攻めでは、湖西から参戦の永田伊豆守や能登殿が太尾に在陣したのが記録され、六角氏方の城となっています。
天文21年(1552): 京極高広が今井氏に、六角方 佐治太郎左衛門尉(甲賀郡)が城番の太尾山城の攻略を命じましたが、失敗しました。
永禄4年(1561): 浅井長政により、吉田安芸守(愛知郡)が城番の太尾山城攻めが開始され、攻撃に加わった今井定清が夜襲で誤って味方の槍を受け、討ち死にしますが、城はようやく攻略し、浅井氏家臣の中嶋宗左衛門直頼(伊香郡)が城番をつとめました。
このように太尾山城は領国争いの境目で、最前線基地であって、支配者と城番がめまぐるしく変わり、城番は支配者の領国後方から派遣されています。そのたびに城の守備を強固にするための改修もされたと思われます。また、六角義賢から城番 佐治氏をねぎらう書状も残されていることから、この城の城番は、敵前での過酷な任務であったことが推察されます。そして、最後は、元亀2年(1571)に織田信長による浅井氏攻めで、長政の救援なく佐和山城が開城すると、中嶋宗左衛門直頼も太尾山城を退き、以後、境目地域が消滅して、城の役割を終え、廃城となっています。

探訪の方に戻り、急な登山道を登りますが、途中、早速、敵兵の山の斜面での移動を阻止するための畝状の竪堀と竪土塁がいくつも見られました。竪土塁は竪堀を掘って出た土を積み上げたものです。
2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

写真がわかりにくいですが、その畝状の竪堀と竪土塁です。
2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

この太尾山城は、南城と北城にそれぞれ主郭があり、南北二城が独立しつつ、お互いに1つの城として機能する「別城一郭」と呼ばれるものです。今も南城には堀切や土塁が、北城には土塁の遺構を確認できます。この城の城主が交代して、ある時は南の敵に対して機能し、ある時には北の敵を監視するなど、美濃と近江、江北と江南の境目の城として、時代の変遷とともに果たす役割を変えてきたことが、こうした城の縄張りにも窺えます。

中井均先生が作成された太尾山城の縄張図です。湯谷神社から登ると、縄張図の下3分の1の所に見える北城と南城の間の堀切に西(左)側から登ってきます。本日のコースはこの堀切から南に下って、南城を見学の後、北へ最初の堀切まで戻り、さらに進んで北城へ行きます。最も高い北-I曲輪に到達後、北-I曲輪の周囲を、南の北-III曲輪からの通路や帯曲輪に沿って反時計回りに回って、最も北にある北-II曲輪を見学後、近くにある降り口から西の青岸寺の方に下ります。
2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

まず、南城の見学です。南城跡は標高242.4mの山頂にあり、方形の主郭を中心にして尾根筋を削平して曲輪を配し、南城の北と南西の尾根筋には巨大な堀切を設け、尾根続きを遮断しています。
写真は土塁囲いされた南-II曲輪東側の土塁の上から、一段低い南-II曲輪内(西側、琵琶湖側)を撮影しています。
2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

南城の発掘調査の結果、この南側の最も高くなった小さい主郭(南-I曲輪)から三間x三間(5.4mx5.4m)の礎石建物が検出され、それは櫓台であったようです。
また、主郭(南-II曲輪)からは四間x四間(7.2mx7.2m)以上の礎石建物が検出され、そこからは多くの土師器皿やすり鉢、中国製白磁皿、天目茶碗、鉄釘などが出土し、ここでは恒常的な施設や生活が営まれていたことがわかりました。写真のように南-II曲輪の遺構保護のために、ブルーシートが敷かれています。他の場所も同様でブルーシートが敷かれているところは遺構保護の目的で行われたものです。
南城は土塁囲いや堀切による遮断、方形の曲輪などが施され、技巧的な進んだ縄張であると言えます。
2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

南城から北城へ堀切を越えて移動します(北城側から撮影)。
北城は254.3mの山頂に築かれています。その構造は北辺に土塁を巡らせた主郭(北-I曲輪)と南方の3段の曲輪(北-III~北-V)からなり、その先端は堀切によって尾根筋を切断しています。
2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

北-IV曲輪の東側下にある帯曲輪を見ています。
2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

北-IV曲輪とその北側の北-III曲輪の間は、枯葉で埋もれていますが土橋で繋がれています。
2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」


最も高い位置の北城主郭(北-I曲輪)に到達しました。人の後ろに伐採した木が積まれていますのでわかりにくいですが、北-I曲輪の北及び東面に土塁が築かれています。最も広い曲輪ですので、ここで休憩し、昼食の時間を取りました。
2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

北-I曲輪からの眺望で、右(北西)の方には竹生島や海津大崎、菅浦方面が良く見えます。左(西)の方は対岸の高島です。
2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

この後、南側の北-III曲輪に下り、そこからの通路を通って北-I曲輪下の周囲を反時計回りに回って北-II曲輪に辿り着きました。北-II曲輪からの眺望です。長浜の町が真ん中の案内板あたりに良く見え、その左の小さな三角の山は山本山です。
この北-I曲輪北側にある小曲輪(北-II)は、北-I曲輪による急斜面直下に位置し、土塁に囲まれています。ここからは北-II敷地全域を総柱とした礎石建物が検出されており、倉庫又は櫓であったと考えられます。また、土師器、中国製の青花と呼ばれる染付磁器、白磁、鉄釘なども出土しており、16世紀後半に築かれたものと考えられます。さらに、「中嶋宗左衛門直頼書状」からも伊吹の上野の材木が門・櫓に用いられたことが記録されていることから、太尾山城には建物があったことが、出土品と古文書の双方から示されています。
2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

最後に、北-II曲輪から青岸寺へと下りる途中で、盗人岩に寄りました。このように、集合写真を撮影して、楽しい1日が終了しました。
2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

本会の準備・運営に協力いただきました皆様、参加いただき会を楽しく盛り上げていただいた皆様に感謝いたします。

追記: クラブ例会は青岸寺前で解散となり終了しましたが、曹洞宗の青岸寺には美しい庭がありますので、希望者は個人的に訪れておりました。
青岸寺は南北朝時代に佐々木道誉が自ら書き写した経典を納めて、開創したとされる曹洞宗の古刹で、もとは不動山米泉寺と称しました。戦国時代に兵火を受け、観音像1体を残して寺は荒廃しましたが、江戸時代前期に彦根藩主井伊直澄の命を受けて入山した彦根大雲寺の要津禅師によって再興され、現在の寺号に改められました。この頃に造営された築山林泉式枯山水庭園は、彦根城の玄宮園や楽々園を築いた井伊家家臣の香取氏による作庭と伝えられ、昭和9年に国の名勝に指定されています。以下に、一部写真で紹介して終わりとします。
2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

2022年12月16日(金)第100回例会「太尾山城跡・青岸寺探訪」

お疲れさまでした。
次回例会は2023年1月27日(佐生日吉城址と伊庭城址)に予定されていましたが、残念ながら、降雪により中止となりました。その次の第102回例会は「大津城跡と膳所城跡」の探訪です。 文責 岡島 敏広

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