2023年06月26日

2023年6月24日(土) 滋賀県湖南市の城-阿星山の尾根に築かれた一村一城-

JR西日本ふれあいハイキング(湖南市)で「いにしえの古城と天然記念物ウツクシマツ-阿星山(あぼしやま)の尾根に築かれた一村一城-」が開催されました。参加者は82名で、参加者は4班に分かれて、湖南市の3つの城址、小島本陣及びウツクシマツの生える美松山を訪問しました。別途、湖南市の別の城郭を訪問しておりますが、その模様はこちらでご覧ください。

集合場所のJR石部駅で、湖南市観光協会で参加者の受付を行います。

出発時間まで石部駅前公園で待ちました。

石部駅出発後、旧東海道を歩き甲西駅に向かいますが、途中、石部宿の小島本陣跡→石部城址→丸岡城址・東丸岡城址→ウツクシマツ自生地(美松山)→平松城址の順に巡ります。

まず、計画に従い最初に石部宿の小島本陣跡を訪問しました。現在は本陣の施設は残されておらず、石碑と本陣跡を示す説明版がたてられているだけです。この小島本陣の斜め向かいには三大寺本陣跡と説明板もありましたが、現在は、建物は建て替えられ、その説明版も近くの交差点に移設されています。

小島本陣の古写真が残されていますので、それも示します。

次に、城址として石部城址(善隆寺)を訪問しました。

石部城
現在は、県道113号線に面した善隆寺(浄土宗)の境内となっている城址です。昭和30年代までは善隆寺と裏の石部小学校の間はV字状に深く切れ込んでいて、西・北・東の三方が急傾斜となっていました。この善隆寺のある丘陵地は字東谷、通称「とのしろ」とも呼ばれています。写真は県道113号線から見える山門です。地図の方はクリックにより拡大します。


寺の中に入ると、写真の本堂の裏は墓地となっており、寺自体が一段高い丘の上に建てられていること以外、石部城の痕跡は見受けられませんでした。
後に述べますように石部城廃城後の荒地に、廃城後100年程度経過後、善隆寺が移転してきて、城址は寺に利用されながら450年ほどの時が経過していますので、石部城の遺構が残っていないのは仕方ないのかもしれません。

石部城は、貞応元年(1222)、石部久綱(佐々木石部三郎左衛門)が承久の乱(1221)で戦功を挙げ、石部の庄の地頭職に補任されて館を築いたのが始まりです。また、文明年間(1469~1487)には、三雲氏によって山城が築かれましたが、本格的な戦闘用の城塁ではなく(『石部町史』)住居としての機能を持っていたと伝えられています。長享元年(1487)には近江守護・六角高頼が将軍・足利義尚に攻められた際にここに逃げこんでいます(下図、鈎の陣)。
享禄年間(1528~1532)には三雲氏に替わり、石部郷を支配してきた甲賀武士の青木氏(筑後守秀正)や、甲賀五十三家の一族で青木氏を名乗る石部氏(右馬允家長父子)などが居城していました(『日本城郭大系』)。
永禄11年(1568)、六角承禎・義治父子も足利義昭を擁した織田信長の上洛の阻止を試み、逆に織田信長の包囲攻撃を受けて観音寺城を脱出、甲賀の土豪望月氏の協力により、この石部城に逃れています。
しかし、織田武将佐久間信盛に付城(多喜山城)を築かれ、城の周囲に封柵を設置して包囲され、天正元年(1573)9 月から翌2 年(1574)4 月まで籠城した後、ついに力尽きて信楽へと落ち、廃城となっています。
また、貞享元年(1684)、城址の北側東海道の近くにあった石部氏の菩提寺善隆寺を石部の町場の火災の危険から守るため、荒地となっていた石部城跡地を膳所藩主本多氏から拝領し、そこに移転、現在の善隆寺となっています。

鈎の陣及び信長方、対六角方の城 『湖国と文化153,18-20,(2015)』

丸岡城・東丸岡城: 縄張図(甲賀郡志掲載の丸岡城)
両城址は、柑子袋集落南側の丘陵に築かれています。墓地の北側が丸岡城、その東側が東丸岡城です。
丸岡城は、墓地(下の地図「丸岡城」と書いてある辺り)によって南側が削減していますが、一城別郭の形式で大将の入る本城(本郭)の丸岡城に、部隊を収容する駐屯地である東丸岡城が併設された形となっています。
築城は古いですが、六角氏が観音寺城から追われ、上で訪問した石部城落城前に、六角氏が信長に対峙するために再整備された支城網の1つです。
丸岡城・東丸岡城を含む支城網は、六角氏が伊賀音羽氏城或いは甲賀から北進し、野洲河原の戦い(落窪合戦)三宅・金森籠城戦の前線への進撃に利用されました(『湖国と文化153,18-20,(2015)』)。

丸岡城は土塁に囲まれた方形郭の内部の複雑な仕切り方が、この城の特徴と言えます。
墓地より丸岡城の南東の隅から入って行くと、墓地から三重の横堀が残り、写真のように土塁を繋ぐ土橋(写真左右の土塁を接続)も確認できます(西を向いて撮影、写真左の南側には墓地が見えます)。

土塁から主郭に下りて、木は生えていますが、平坦地であることを確認しました。

また、北側の土塁にまでゆき、切岸となっている斜面を確認しました。

城の東に向かい虎口を通り、

虎口から出て、城の東側を通る舗装道路に出ました。
ここは後世の破壊口とも言われ、正規の虎口はこの虎口から道に出る前の平場(土塁の向こう側)を北(右)に向かった所のようです。

本城である丸岡城の縄張りは、甲賀の城郭に多く見られる方形の縄張りですが、主郭は分厚い土塁に囲まれています。城を出るのに通ってきた東側の虎口から3m程の深さの堀底道を経て主郭に至る縄張りは、甲賀の他の城では例を見ない複雑な縄張りです。甲賀の城の中でも見応えのある城と言えます。建久年間(1190~98)に甲賀五十三家のひとつ青木藤兵衛頼忠が築きました。別名養林寺城といわれます(『甲賀郡志』,『甲西町教育委員会 甲西町内遺跡詳細分布調査報告書1990.3』)。

東丸岡城は、山道を挟んだ僅か50m程の場所に位置し、暦応年間(1338~41)の頃に青木頼秋が拠点とした城で出城(部隊を収容する駐屯地)として築かれたものと考えられます。自然地形に逆らわず、50m四方のゆがんだ方形の小振りな城ですが、高い土塁で囲まれた堅牢な構造になっています。1585年頃に丸岡城とともに取り壊されました。

東丸岡城址西側平虎口: 西側に加え北側にも確認できる平虎口と土橋は後年の改修と思われます。写真左に写る土塁は南側土塁の一端

東丸岡城址南側土塁: 写真右側に南側の高い土塁の一端が見えていますが、奥へと伸び、写真左端にまで写っています。

この後、丸岡城・東丸岡城を離れ、歴史の小径を通って、ウツクシマツ自生地を訪問しました。アカマツの一種で写真のように地面からすぐに枝分かれして(一つ下のシンボルツリーがわかりやすい)、特に剪定などしなくても自然に美しい形のまま生長する珍しい松です。写真中の小さく丸くまとまっている木はウツクシマツの若木です。このウツクシマツはここ以外には日本のどこにも自生しておらず、天然記念物となっています。

下の写真はウツクシマツのシンボルツリーですが、最近枯死してしまいました。それがきっかけとなり、現在は保護活動が活発化しています。

ウツクシマツの自生地は東海道から少し外れたこの場所にあることは昔から知られており、下のように浮世絵にも描かれています。

ウツクシマツ自生地の見学の後は、再度、城址の訪問となります。

平松城(宮島城)
平松城の位置を以下の地図に示します。城の遺構は竹藪に覆われ、竹藪の部分と考えられています。地図はクリックにより拡大します。

竹藪の北側に平松城の解説の看板がありますが、

東側(手前側)から裏に回り込んでも、竹藪であることには変わりなく、目にみえるような遺構はありませんでした。

平松城(宮島城)は宮島氏代々の居城です。室町時代、宮島掃部介(かもんのすけ)宗久による築城と考えられていますが、遺構らしきものは上記のように歩いて回ってもありません。
宮島氏は甲賀五十三家のひとつに数えられる一族で、室町時代中期に平松の地に移りました。宮島氏は大伴姓で、九代大伴善平は、平松太郎と号し甲賀太郎と称しました。大原氏、上野氏など三河から甲賀に移住した富永一党は、この大伴姓宮島氏を頼り甲賀へ移りました。頼男、善頼、善平、武清と代々続き、寛正~応仁年間(1490~1469)中務尉、兵庫允は大慈院領の下司を務めています。
西照寺の西側にある薮内が城域とされ「里屋敷」の字名が残っています。
なお、伊賀上野城主 藤堂高虎も宮島氏の出身です。

本日は、旧東海道散策により、小島本陣とウツクシマツの見学に加えて、湖南市の3つの城址を見学を終えました。このあとJR甲西駅に向かい、解散となりました。お疲れさまでした。
                                文責 岡島 敏広

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Posted by joukaku at 19:32 Comments(0)JRハイキング

2023年06月14日

2023年6月13日(火)ボランティアガイド養成講座「大津百町と膳所城下町」

レイカディア大学地域文化学科の選択講座でボランティアガイド養成講座の開始です。D,E,Fの3グループ12名で、午前中は「大津城址と大津百町を訪ねる」をFグループの案内で巡ります。S木さんのコースの説明で散策開始です。

なお、大津百町については、課題学習グループ沙沙貴組も調査しております。
その報告はこちらに記載されていますので、ご覧ください。

以下は、今回の「大津城址と大津百町を訪ねる」の案内文です。
結論は、大津は城下町として発展しますが、城は大津籠城戦がもとで廃城となり、町の政治色がなくなった後、商業、通運、門前町として、さらに発展します。

散策コースを以下の地図に青線で示しまとめました。地図上及び本文の丸数字は訪問地点とその説明で、地図の方はクリックすると拡大します。

①大津本陣前で、本陣の説明をしてくださったT野さん: 大津には将軍や大名、公家などが宿泊・休憩をとる本陣2つ、脇本陣1つがありましたが、場所が判明しているのは、この石碑と説明板のある大坂屋嘉右衛門(大塚本陣)の本陣だけです。

木曾海道六拾九次之内 大津 歌川広重画
京都から大津に入ってくる東海道のこの辺りは「八丁筋」(八町通)と呼ばれ、本陣や庶民の宿である旅籠屋が並んでいました。浮世絵は、八町通を描いたものです。両側には宿屋が立ち並び、旅人や大津の港から京への荷物を乗せた牛車が行きかい、奥には琵琶湖が見えています。

②高札場「札の辻」です。T野さんの解説: 大津から各地までのを距離を測る基点が設置されています。この地点は東海道と北國海道が交差する地点で、ここから浜大津へと降りて行く道は細い道だったそうです。京阪電車も大正14年(1925)に道が拡張されるまではここ札の辻に駅があり、終点であったそうです。

遊廓跡: 細い道を抜け、柴屋町で遊廓の写真を見せ説明をするS木さん。S木さんの後ろは更地となった遊郭跡。現在、遊郭の建物は老朽化により解体され部材は保存されているとのことです。

④S木さんによる木村家住宅の説明: 軒切りで道路を拡張して町家の姿が変化する中、現在も江戸期の姿を保つ町家で、国の有形文化財となっています。材木商を営んでいたそうです。

⑤大津城石垣として唯一現存する大津城外堀の石垣の説明をT木さんより受けました。大津祭曳山展示館東横にあります。矢穴が見られます。

⑥みずほ銀行の横に設置された「坂本町」石碑前で、朝日生命の発掘調査の状況を説明するT木さん。朝日生命ビル建設工事のときに、外堀の石垣が出土しています。

⑦城の周辺部から、いよいよ城下町の中心に迫ります。
遠く(左下の手すりの上)に大津城跡石碑を小さく見ながら、T田さんに大津城の位置及び天守(想像図)の説明をしていただきました。

⑧最後に、スカイプラザ浜大津6F(実際の天守の高さ)まで登り、天守からの眺望を体験した後、6F にある大津城天守模型前で、T田さんの関ヶ原の戦い前の大津籠城戦の説明と城主京極高次が徳川家康の勝利に貢献したお話を聞き、午前の「大津城址と大津百町を訪ねる」の部は終了しました。
この後、楽しい昼食です。

昼食後、浜大津駅から京阪電車に乗って錦駅まで移動し、午後の部のEグループによる「膳所城下町」散策開始です。
なお、膳所城下町については、課題学習グループ沙沙貴組も調査しております。その報告はこちらに記載されていますので、ご覧ください。

以下は、午後の「膳所城下町」散策の案内文です。
現代の地図(上)に加えて、江戸時代の状況を描いた古地図(下)に従って、東海道を歩いてゆきます。下の古地図はクリックすると拡大します(滋賀県立図書館にリンクしています)。かなり詳細な部分まで拡大して確認できますので、興味ある部分を拡大してご確認ください。

「リーダー・挨拶」担当のT田さんによるコースの概要と交通安全の訓示を受け、「主進行」担当のI永さんの案内で出発です。この後の訪問地の解説は、ほとんどI永さんに行っていただきました。
午後の散策の部の結論としては、膳所城下町は大津から政治・軍事機能だけを移植した町で、物理的距離も近く機能分担していたことです。散策によりその雰囲気を体験します。

「補助進行」担当の筆者のO島が、膳所城下町の古地図を示し説明します。本日は午前の散策で全員既に疲れていました。予定していた城下町の南の出口に当たる瀬田口総門まで行かないことが明確になったことから、瀬田口総門の場所を古地図で示し、総門の番所が最近まで存在していたこと、総門の門が現在も大阪泉大津市に移築されて存在することを説明しました。

六体地蔵堂 膳所城御椀倉: 午前中の疲労及び午後の歩行時間を考慮し、計画変更したついでに、計画になかった六体地蔵堂を、I永さんに案内され訪れました。この建物は膳所城の御椀倉を移築した建物です。

六体地蔵堂内部には、文字通り六体の地蔵が安置されておりましたが、そのお顔はお化粧したように異様に美しく白いものでした。ここは膳所城下町から外れた墓地に向かう墓地入口に当たる部分です。ここから相模川に沿って下流(琵琶湖)方向に防塁があった所まで歩きます。

防塁(古地図の拡大図): 大津口から膳所城下町に入ると、古地図右下の相模川と記載した所に架けられている橋(右下に一部描かれています)にたどり着きます。この橋を渡り、島状の防塁に入って、松で縁取られた土橋を渡り薄い赤で示された東海道に沿って町家の間を進んで行きます。響忍寺と防塁の間には、竹藪が描かれています。西から豊臣(秀頼)軍が攻めてきた場合は、防塁(島)上の敵を響忍寺(当時は膳所藩家老屋敷)の竹藪に隠れて、弓、鉄砲で撃退できるような構造になっています。なお、現在は相模川以外は埋め立てられて、水の部分は残っていませんので、地形は大きく変わっています。

現在の防塁の姿: ガードレールが設置された相模川の手前で、"本当の旧東海道"は写真正面のベージュのお家の右にある鉄板の橋(古絵図の木橋が鉄板に変わっている)を渡って、路地を左に曲がると現在の旧東海道に繋がります。防塁に入り「左に曲がって」次に右方向の土橋へ行くという方向性は変わっていません。

響忍寺: 膳所藩家老屋敷の長屋門がそのまま寺の門となっています。この寺(当時は家老屋敷)の裏が竹藪となっていて、防塁を攻撃できるようになっていました。

北大手門: 和田神社の辺りから東海道を外れて古地図の北大手門の方に向かいました。北大手門の辺りは、堀が埋め立てられ、門自体も篠津神社に移築されており、現地には形跡は何も無く、アスファルト敷の月極駐車場となっていました。

篠津神社に移築された北大手門

船繋ぎ石: 月極駐車場の前で、上の古地図を使って北大手門の説明をしておりますと、本ブログの古地図の手前方向の中堀の角に当たるお家の奥様が声をかけてくださいました。私たちが昔の膳所を地図で確かめていることを説明しますと、親切にお庭に残されている船繋ぎ石見せて下さる事になりました。我々12名全員がお庭にお邪魔させてもらい、説明もして下さいました。

船繋ぎ石: 真ん中の木の右側に船繋ぎ石がありますが、左側の石にもロープ(又は鎖?)が結ばれ、それが削ったらしく、左の石の根元がえぐれていました。

船繋ぎ石: 左側の石のえぐれた部分の拡大図です。

船繋ぎ石の下には、中堀の石垣らしきものも残っておりました。見せていただいたお礼を申し上げて、次は北大手門や中堀に当たる所を通り過ぎて丸の内の中へと進みました。

北大手門町: 城下町の東海道沿いの町家に比べ、この辺りは丸の内で武家屋敷であったことから、周辺に建てられている邸宅の区画が大きいことを確かめながら散策しました。

中大手門近くに到達し、その近くで、「点呼・記録」担当のO村さんのリクエストにより写真を撮影しました。古地図を見ると、実際の中大手門の建てられていた位置は、現在石碑の設置されている位置とは少し異なることも確認しました。なお、残念ながら、中大手門そのものは失われています。

膳所神社: 予定していた行程の半分でしたが、終了時間になりましたので、集合写真を撮影し、N嶌先生のお言葉を頂いて、本日の授業を終了しました。
ちなみに、灯籠の後ろに見えている門は、移築された膳所城伝二の丸北東の門です。


解散のあと、沙沙貴組のメンバーが多かったことから、いつものように反省会を開き、喉を潤しました。お疲れさまでした。
                                 文責 岡島

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Posted by joukaku at 22:08 Comments(0)授業

2023年06月05日

2023年6月3日(土)第106回例会「豊臣秀次ゆかりの八幡山城址」

城郭探訪会第106回例会が、近江八幡市の 八幡山城址を探訪地として、彦根校園芸学科により開催されました。前日の台風接近に伴う大雨で、例会開催が危ぶまれ、たくさんの参加キャンセルがありましたが、それでも42名(43期22名、44期20名)の会員が参加しました。台風が過ぎ去りましたので、一転して天候は青空を伴う快晴で、風も吹いていましたので、登山途中で歩く木陰では心地良い状況でした。
なお、八幡山城下町はレイカディア大学課題学習で訪問しており、その様子はこちらから確認できます。

八幡山城址は、近江八幡市街地のすぐ北側、標高283mの鶴翼山、通称八幡山山頂にあります。安土城が落城してから3年後、豊臣秀吉の権力下、下図の豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が築いた城です。八幡山築城の狙いは、豊臣秀次の宿老に田中吉政を配し、水口岡山城に中村一氏、長浜城に山内一豊、佐和山城に堀尾吉晴、竹ヶ鼻城に一柳直末を配して、近江国を軍事的、経済的要衝として万全な体制にすることにありました。

最頂部に本丸(現瑞龍寺)を設け、その南東に二の丸(現ロープウェイ八幡城址駅、八幡山展望館)、西に西の丸(本日の昼食場所)、北に北の丸、南西の尾根上一段低く出丸(270°の視界を有する曲輪)を配置する構造で、山頂から八の字形に広がる尾根上の小曲輪と、尾根に挟まれた南斜面中腹に秀次館跡と家臣団館跡群と思われる曲輪群が階段状に残っています。本日はこれらをすべて巡ります。

参加者は市営小幡観光駐車場に集合しました。まず、本日の計画を伝えて、ガイドさんの紹介を行います。柔軟体操後、出発です。

鶴翼山登山口: 写真は日牟禮八幡宮の裏にある八幡山城址への登山口です。
登山前に近江八幡の街の名所を訪問し、ガイドさんからその説明を受けましたが、以前に記載しました八幡山城下町の説明と重複する部分もありますので、割愛します。

登山状況: 登山口から二の丸にあるロープウェイ八幡城址駅までは、長い距離をゆっくり登って行きますので、緩やかな斜面の登山となります。

ロープウェイ八幡城址駅に到着です。駅の裏から入ります。この辺りは八幡山城址の二の丸に当たります。

本丸石垣: 八幡城址駅から西の丸に向かう途中右手に本丸石垣が見えます。

西の丸: 西の丸からの景色です。写真左に小さな山が湖岸に見えていますが、これは水茎岡山城です。

西の丸では参加者の集合写真(1班)を撮影しました。

西の丸で楽しいランチタイムです。

昼食後、出丸にまで降りますが、途中、西の丸の石垣が見られます。

この後、出丸まで降りました。出丸は「八幡山の景観を良くする会」の方々が整備してくださっています。
ここからは、八幡山城の城下町であった近江八幡の道が直角に交叉し碁盤の目状になっていることがわかります。碁盤の目状の道の左上遠い先(南東方向)に見える山は長光寺山で、柴田勝家が長光寺(瓶割山)城を築いた場所です。

出丸でも、参加者の集合写真(2班)を撮影しました。

この後、下に降りて、出丸の石垣を見学しました。

出丸の上で近江八幡の街を見たときに目に入った枯木も見えます。

麓(日牟禮八幡宮辺り)から見える出丸も示します。

この後、北の丸に移動し、

そこから眺めると、北西側には長命寺と

東側には、左から延びる西の湖に接して位置する緑色の濃い小さな安土山(ここには安土城があります)と、写真のほぼ真ん中に見える観音寺城のある繖山が見えました。

北の丸への移動には、本丸の周囲を巡り、本丸の南西側隅部石垣の算木積み(この部分に矢穴技法で割られた石が多く用いられているようです)と

本丸北西側隅部石垣を見ました。上写真の南西側に比べ、北西側は自然石を用い粗雑で、算木積みとは言い難く、古い時期に積まれたもののように見えました。八幡山城主が秀次から京極高次に代わっていますので、古い時期の石垣は秀次、南西側隅部石垣は京極高次の時期のものと考えられます。

瑞龍寺山門まで来ますと、そこは本丸の枡形虎口となっていました。現在は他の曲輪と同様、石垣を残すのみですが、本丸跡には秀次菩提寺の村雲御所瑞龍寺(むらくもごしょずいりゅうじ)が昭和36年(1961)に京都の都市計画の影響を受け、堀川今出川から移築されています。

このあと、ロープウェイ八幡城址駅に戻り、登ってきた登山道を逆戻りして下山しましたが、途中の分かれ道で登山口に向かわずに、八幡公園の方に行きました。
ここから、秀次館跡に向かいます。その縄張図を以下に示します。

秀次館跡の周囲が比較的整備された石垣前(縄張図位置①)で、参加者の集合写真(3班)を撮影しました。
秀次館跡からは金箔瓦を含む大量の瓦が出土し、とくに秀次の馬印である沢瀉紋(おもだかもん)の金箔飾り瓦が発見されており、築城当時の館の豪華さが伺えます。金箔瓦は凸面に金を施しており、聚楽第や大坂城で羽柴秀吉が採用したものと同種のものです。また、使用される瓦は山上の城の方が古式で、居館部は新しい様式であったことが知られ、山上は安土城跡などの瓦を集めて再利用、それに対して、秀次館出土瓦は、秀吉が大坂城築城中の瓦工人を編成し、製作させたというように推定できます。
以上のことからも、八幡山城は、近江の中心として豊臣政権の権力を具体的な形で表した城郭であったと言えます。

(縄張図位置②)上記集合写真を撮影した石垣の左にある階段を登って行くと、前面は食い違い虎口で、この手前の階段状平坦地となった山麓部は秀次の重臣たちの屋敷地でした。

(縄張図位置③)写真は、秀次館に至る大手道ですが、

(縄張図位置③)階段の正面には、他の場所の石垣とは異なり、特に大きく立派な石が鏡石として石垣に用いられていました。
ここからは秀次の平時の居館ですが、出入り口は巨大な食い違い状の内枡形虎口で、極めて軍事性の高いつくりになっています。秀次館は写真右の石垣のさらに右(山側)にありますが、近江八幡市により発掘調査が実施され、多数の礎石などの建物遺構が検出されています。敷地の西側にある礎石群が主要な建物跡と思われ、建物の構造は不明ですが、西側に縁が付く書院造の建物ではないかと推定されています。
秀次は謀反の疑いで豊臣秀吉に切腹させられ、それに伴い八幡山城は破却され、建物破却後には砕いた瓦を屋敷跡の地表面に敷き詰められ、固い粘土を用いて固く叩き締めて屋敷跡が覆われていたことが明らかとなっています。屋敷跡の再利用はおろか、秀次の生活の痕跡を封印するような行為で、秀吉は秀次に対して、よほどの憎しみがあったものと思われます。

豊臣秀次公銅像: コースの最後として八幡公園にある豊臣秀次公の銅像を見て、スタート地点の市営小幡観光駐車場に戻りました。

最後に、今回の例会は、前日の荒天の状況下、空を予想する天気予報は快晴とのことでしたが、登山の足元が安全であるかについては、当日朝、彦根校園芸学科の方々が例会開催前に実地に登って確認し、開催してくださいました。
結果として、心地よい天候・気温の中、快晴で眺望もよく最高の例会でした。本例会の開催を準備いただきました城郭探訪会の皆様、特に彦根校園芸学科の方々に感謝いたします。

次回例会は、2023年7月24日(月)に、沖島の城跡の探訪が予定されています。 文責 岡島 敏広

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Posted by joukaku at 18:16 Comments(0)例会
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