2024年10月28日
2024年10月25日(金)レイカディア地域文化43期'24秋のバス旅行「尾州犬山城とひつまぶしの旅」(愛知県)
レイカディア地域文化学科43期生で秋のバス旅行に出かけ、愛知県犬山市にある犬山城と青塚古墳を訪問しました。お昼は折角愛知県を訪れましたから、「ひつまぶし」を味わいました。
犬山城(いぬやまじょう)は、尾張国と美濃国の境、現在で言えば愛知県犬山市で、木曽川南岸の地「犬山」にあった日本の城です。江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつで、現存する天守では最古です。また、城跡は「犬山城跡」として国の史跡に指定され、天守が国宝指定された5城のうちの一つです(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)。日本城郭では最後(2004年まで)まで個人が所有されていました。
室町時代の天文6年(1537)、織田信長の叔父、織田信康による築城で、以前は「金山越え」の伝承に基づいて最古の現存天守と言われていましたが、解体修理の結果から天守の移築は否定され、天正13年(1585)から同18年(1590)頃に切り出された木材が使われていることから、科学的に最古であることが判明しました。
木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固(うしろけんご)の城」で、中山道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝として、戦国時代を通じて重要な拠点となりました。その後、犬山城主はめまぐるしく変わりましたが、江戸時代に入り、元和3年(1617)尾張徳川家の重臣成瀬正成(なるせまさなり)が拝領。このとき改良が加えられ、現在の天守の姿ができたといわれています。以後、成瀬家が幕末まで城主を務めることになります。
成瀬正成
犬山城縄張図: 天和元年(1681)の「尾張国犬山城絵図」の天守周辺部分です。図はクリックすると拡大します。
他にも縄張図がこちらで見ることができます。
南東方向からの犬山城古写真(明治初年): 明治時代には犬山城は廃城と決定され、櫓や門などは売り払われていきましたが、いくつかの櫓の写った解体前の犬山城の古写真がありましたので示します。
国宝犬山城石碑: 登城道入口で、ここから城の実際の訪問ですが、これから訪問する区域は犬山城二の丸と本丸に当たります。犬山城第1、第2駐車場は三の丸に当たります。
猿田彦神社: 写真右手は松の丸跡になり、猿田彦大神を祀る猿田彦神社が鎮座しています。犬山猿田彦神社ともいい、三光稲荷神社の境内社ですが、独立した存在で、社務所でも三光稲荷神社と猿田彦神社を併記しています。建築、方位除け、災難除け、開運、事業発展、五穀豊穣、大漁満足、家内安全、交通安全、海上安全など、古来多くの御神徳で知られています。
写真の橋の下は堀跡で、今は道路になっており、橋を渡ったところに中門跡があります。
なお、大手門は三の丸と城外の境(犬山市福祉会館跡地)にありましたが、現存していません。
中門の辺り: 犬山城は観光ボランティアガイドさんの説明で巡りました。中門があった所には、今は案内板が立てられています。中門は、ここから先、二の丸、そして本丸へと続くという位置にある門で、櫓門だったそうです。しかもこの案内板の辺りには番屋(詰所)がありました。さらにまっすぐ登城すると空堀にぶつかりますが、その左手に小さな空間があります。今は、そこに姉妹都市の日南市から寄贈されたベンチや机が置いてありますが、この辺りには門番のための風呂があったと言われています。
登城道の第二の門・矢来門は、ここにはありませんが、あったのは高麗門(こうらいもん)です。登城道から真っ直ぐに進んで、空堀にぶつかったところを右に曲がると、矢来門が待ち構えていました。現在は礎石(そせき)がひとつだけ残っています。高麗門は機能性重視の門で、城内から外の様子を見やすいように構造が工夫され、登城道において矢来門とこの次の黒門との間で敵を囲める工夫がなされていました。現在は扶桑町専修院に移築され東門となって存在しており、右側の大扉には潜り戸があります。明治7年(1874)当時の価格で20円(現在価値は39万円ほど)で払下げられました。
松の丸表門の位置表示: 針綱神社から三光稲荷神社のあたりは、松の丸という曲輪があり、松の丸御殿がありました。この表示の場所には登城道から松の丸に出入りするための高麗門の「松の丸表門」が建っていて、この門も73円(現在価値は143万円ほど)で払下げられて移築され、一宮市の浄蓮寺山門として現存しています。鬼瓦には犬山藩成瀬公の定紋かたばみ紋があります。
松の丸は城郭部分の第1の防衛ラインで、登城道は櫓門形式の中門により出入口は厳重に守られていました。
犬山城の門についてまとめたブログを見つけましたので、詳しくはこちらをご覧ください。なお、移築され、現存している門は計5つあります。
矢来門表示 松ノ丸表門表示

三光稲荷神社: 創建は明らかではありませんが、天正14年(1586)の伝承があります。犬山城内三狐寺山に鎮座され(現在の丸の内緑地公園内)、古きより織田信長の叔父織田信康の崇敬殊に厚く、また犬山城主成瀬家歴代の守護神として天下泰平、五穀豊穣、商売繁昌、交通安全の祈願を籠め、数々の神宝が寄進されました。現在の地(針綱神社西)には、昭和39年(1964)10月に移築されました。神仏習合で三光寺とも称していましたが、明治時代初期の神仏分離により三光稲荷神社となりました。
横堀(空堀): 登城道北側には江戸時代から堀がありました。人工的につくった切岸や石垣とともに、本丸へ続く登城道から直進させない役割があり、鉄壁の防御を誇っていました。
かつては水堀の時代もあったようですが、後世に空堀となり、犬山城郭内で唯一埋められていない堀です。
黒門の位置表示: 江戸時代、この表示のある場所には登城道の第3の門で高麗門の「黒門」があり、今も礎石が残っています。この場所で敵を食い止めるとともに、道具櫓(現在の神社社務所の位置)や樅の丸(もみのまる)から攻撃できるなど、攻守に秀でた構造となっていました。黒門は明治9年(1876)に当時の価格で23円(現在価値は45万円ほど)で払下げられ、丹羽郡大口町の徳林寺山門として、移築されています。
針綱神社: 桐ノ丸跡にあります。太古より犬山の峰(現在の犬山城天守閣付近)に鎮座し、濃尾の総鎮守でした。創建年は不明ですが、延喜式に記載されていることから1000年以上この犬山の地に鎮座しています。
古くは現在の犬山城天守閣付近に鎮座していましたが、天文6年(1537)犬山城築城に際し、織田信康により白山平山(現在地より東方にある山)に遷座され、その後の慶長11年(1606)市内名栗町に遷座されています。そして明治維新の後の明治15年(1882)、現在の場所に再び遷座されました。過去鎮座された白山平山(小島町)と名栗町には犬山祭の際、御神輿が渡御されます。
小銃(鉄砲)櫓: 鉄筋コンクリート造りで復興されたものです。二層二階の櫓で、このすぐ下に高麗門の岩坂門があったことから、守備面で重要な櫓です。復興された櫓は茶室用の模擬櫓ですが、棟の向き、外形などは旧櫓とは異なっています。

鉄門(くろがねもん): 登城道最後の本丸入口の門で、写真のように鉄板で防御されていたことから、かつて鉄門と呼ばれていました。絵図からは門の上が櫓になっている櫓門で、写真の建物は往時の建物ではなく、鉄筋コンクリート造りで昭和40年(1965)に復興された建物です。
本丸には出入口は2つしかなく、もう一つは搦手門の七曲門です。
望楼型天守 外観三重(内部四階、石垣の中二階付)で、天守南東側に天守に直結した形で切妻の付櫓が設けられています。最上階には花頭窓が見えますが、実際には窓はなく、装飾の窓枠が付けられたものです。

内部に入り見学します。
地下1階、階段部以外の3面は石垣。地下2階からこの階までは石垣の内部です。
1階: 納戸の間、中央部には4室が配置され、その周囲は武者走りとなっています。
2階: 武具の間、中央に武具の間があり、その周囲を武者走りが廻ります。
3階: 破風の間、入母屋屋根の中にあり、望楼部分の下部になります。ガイドさんの話では、落城時には城主は窓を閉めて真っ暗にした中、ここで切腹をするとのことでした。
4階: 高欄の間、最上部の望楼部分にあたり、周囲を廻縁と高欄が巡ります。歴代の城主の肖像画が掲げられていました。4階の天井は他の現存天守と異なり、通常の住宅の天井のように天井が張られていました。ごく最近まで個人所有だったからなのだと思われます。
「犬山城を楽しむためのウェブサイト」に詳しい情報がまとめられていますので、紹介いたします。
レストラン備長でのひつまぶしの昼食: お昼は折角、愛知県に来ましたから、ひつまぶしに舌鼓を打ちました。ひつまぶしの発祥には津市と名古屋市の2つの説があるようです。
青塚古墳の説明風景: 昼食後は青塚古墳を訪問し、学芸員さんによる解説を受けました。
青塚古墳は墳長123m、高さ約12mの前方後円墳で犬山市では、こちらも昭和58年(1983)に国史跡として指定されています。東海地区最大級の大きさを誇り、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いの際には秀吉陣営の砦として使用されたことから、別名「青塚砦」とも呼ばれています。
青塚古墳墳丘: 青塚古墳の約3.5km東にある尾張二宮大縣(おおあがた)神社では、「青塚古墳は大縣神社の御祭神である神裔 大荒田命(おおあらたのみこと)の墳墓である」と伝えられています。
これで計画された訪問先はすべてこなしました。
本日は、地域文化学科卒業生にふさわしい研修に主眼をおいた旅行を企画いただき、かつ、往復のバス内では楽しく過ごし親睦を深められるよう、綿密に計画いただいた幹事さん(H.S.さん、M.T.さん)をはじめ、それを支援いただいた皆様に感謝いたします。
文責 岡島 敏広
犬山城(いぬやまじょう)は、尾張国と美濃国の境、現在で言えば愛知県犬山市で、木曽川南岸の地「犬山」にあった日本の城です。江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつで、現存する天守では最古です。また、城跡は「犬山城跡」として国の史跡に指定され、天守が国宝指定された5城のうちの一つです(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)。日本城郭では最後(2004年まで)まで個人が所有されていました。
室町時代の天文6年(1537)、織田信長の叔父、織田信康による築城で、以前は「金山越え」の伝承に基づいて最古の現存天守と言われていましたが、解体修理の結果から天守の移築は否定され、天正13年(1585)から同18年(1590)頃に切り出された木材が使われていることから、科学的に最古であることが判明しました。
木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固(うしろけんご)の城」で、中山道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝として、戦国時代を通じて重要な拠点となりました。その後、犬山城主はめまぐるしく変わりましたが、江戸時代に入り、元和3年(1617)尾張徳川家の重臣成瀬正成(なるせまさなり)が拝領。このとき改良が加えられ、現在の天守の姿ができたといわれています。以後、成瀬家が幕末まで城主を務めることになります。
成瀬正成

犬山城縄張図: 天和元年(1681)の「尾張国犬山城絵図」の天守周辺部分です。図はクリックすると拡大します。
他にも縄張図がこちらで見ることができます。

南東方向からの犬山城古写真(明治初年): 明治時代には犬山城は廃城と決定され、櫓や門などは売り払われていきましたが、いくつかの櫓の写った解体前の犬山城の古写真がありましたので示します。

国宝犬山城石碑: 登城道入口で、ここから城の実際の訪問ですが、これから訪問する区域は犬山城二の丸と本丸に当たります。犬山城第1、第2駐車場は三の丸に当たります。

猿田彦神社: 写真右手は松の丸跡になり、猿田彦大神を祀る猿田彦神社が鎮座しています。犬山猿田彦神社ともいい、三光稲荷神社の境内社ですが、独立した存在で、社務所でも三光稲荷神社と猿田彦神社を併記しています。建築、方位除け、災難除け、開運、事業発展、五穀豊穣、大漁満足、家内安全、交通安全、海上安全など、古来多くの御神徳で知られています。
写真の橋の下は堀跡で、今は道路になっており、橋を渡ったところに中門跡があります。
なお、大手門は三の丸と城外の境(犬山市福祉会館跡地)にありましたが、現存していません。

中門の辺り: 犬山城は観光ボランティアガイドさんの説明で巡りました。中門があった所には、今は案内板が立てられています。中門は、ここから先、二の丸、そして本丸へと続くという位置にある門で、櫓門だったそうです。しかもこの案内板の辺りには番屋(詰所)がありました。さらにまっすぐ登城すると空堀にぶつかりますが、その左手に小さな空間があります。今は、そこに姉妹都市の日南市から寄贈されたベンチや机が置いてありますが、この辺りには門番のための風呂があったと言われています。

登城道の第二の門・矢来門は、ここにはありませんが、あったのは高麗門(こうらいもん)です。登城道から真っ直ぐに進んで、空堀にぶつかったところを右に曲がると、矢来門が待ち構えていました。現在は礎石(そせき)がひとつだけ残っています。高麗門は機能性重視の門で、城内から外の様子を見やすいように構造が工夫され、登城道において矢来門とこの次の黒門との間で敵を囲める工夫がなされていました。現在は扶桑町専修院に移築され東門となって存在しており、右側の大扉には潜り戸があります。明治7年(1874)当時の価格で20円(現在価値は39万円ほど)で払下げられました。
松の丸表門の位置表示: 針綱神社から三光稲荷神社のあたりは、松の丸という曲輪があり、松の丸御殿がありました。この表示の場所には登城道から松の丸に出入りするための高麗門の「松の丸表門」が建っていて、この門も73円(現在価値は143万円ほど)で払下げられて移築され、一宮市の浄蓮寺山門として現存しています。鬼瓦には犬山藩成瀬公の定紋かたばみ紋があります。
松の丸は城郭部分の第1の防衛ラインで、登城道は櫓門形式の中門により出入口は厳重に守られていました。
犬山城の門についてまとめたブログを見つけましたので、詳しくはこちらをご覧ください。なお、移築され、現存している門は計5つあります。
矢来門表示 松ノ丸表門表示


三光稲荷神社: 創建は明らかではありませんが、天正14年(1586)の伝承があります。犬山城内三狐寺山に鎮座され(現在の丸の内緑地公園内)、古きより織田信長の叔父織田信康の崇敬殊に厚く、また犬山城主成瀬家歴代の守護神として天下泰平、五穀豊穣、商売繁昌、交通安全の祈願を籠め、数々の神宝が寄進されました。現在の地(針綱神社西)には、昭和39年(1964)10月に移築されました。神仏習合で三光寺とも称していましたが、明治時代初期の神仏分離により三光稲荷神社となりました。

横堀(空堀): 登城道北側には江戸時代から堀がありました。人工的につくった切岸や石垣とともに、本丸へ続く登城道から直進させない役割があり、鉄壁の防御を誇っていました。
かつては水堀の時代もあったようですが、後世に空堀となり、犬山城郭内で唯一埋められていない堀です。

黒門の位置表示: 江戸時代、この表示のある場所には登城道の第3の門で高麗門の「黒門」があり、今も礎石が残っています。この場所で敵を食い止めるとともに、道具櫓(現在の神社社務所の位置)や樅の丸(もみのまる)から攻撃できるなど、攻守に秀でた構造となっていました。黒門は明治9年(1876)に当時の価格で23円(現在価値は45万円ほど)で払下げられ、丹羽郡大口町の徳林寺山門として、移築されています。

針綱神社: 桐ノ丸跡にあります。太古より犬山の峰(現在の犬山城天守閣付近)に鎮座し、濃尾の総鎮守でした。創建年は不明ですが、延喜式に記載されていることから1000年以上この犬山の地に鎮座しています。
古くは現在の犬山城天守閣付近に鎮座していましたが、天文6年(1537)犬山城築城に際し、織田信康により白山平山(現在地より東方にある山)に遷座され、その後の慶長11年(1606)市内名栗町に遷座されています。そして明治維新の後の明治15年(1882)、現在の場所に再び遷座されました。過去鎮座された白山平山(小島町)と名栗町には犬山祭の際、御神輿が渡御されます。

小銃(鉄砲)櫓: 鉄筋コンクリート造りで復興されたものです。二層二階の櫓で、このすぐ下に高麗門の岩坂門があったことから、守備面で重要な櫓です。復興された櫓は茶室用の模擬櫓ですが、棟の向き、外形などは旧櫓とは異なっています。


鉄門(くろがねもん): 登城道最後の本丸入口の門で、写真のように鉄板で防御されていたことから、かつて鉄門と呼ばれていました。絵図からは門の上が櫓になっている櫓門で、写真の建物は往時の建物ではなく、鉄筋コンクリート造りで昭和40年(1965)に復興された建物です。
本丸には出入口は2つしかなく、もう一つは搦手門の七曲門です。

望楼型天守 外観三重(内部四階、石垣の中二階付)で、天守南東側に天守に直結した形で切妻の付櫓が設けられています。最上階には花頭窓が見えますが、実際には窓はなく、装飾の窓枠が付けられたものです。


内部に入り見学します。
地下1階、階段部以外の3面は石垣。地下2階からこの階までは石垣の内部です。

1階: 納戸の間、中央部には4室が配置され、その周囲は武者走りとなっています。

2階: 武具の間、中央に武具の間があり、その周囲を武者走りが廻ります。

3階: 破風の間、入母屋屋根の中にあり、望楼部分の下部になります。ガイドさんの話では、落城時には城主は窓を閉めて真っ暗にした中、ここで切腹をするとのことでした。

4階: 高欄の間、最上部の望楼部分にあたり、周囲を廻縁と高欄が巡ります。歴代の城主の肖像画が掲げられていました。4階の天井は他の現存天守と異なり、通常の住宅の天井のように天井が張られていました。ごく最近まで個人所有だったからなのだと思われます。
「犬山城を楽しむためのウェブサイト」に詳しい情報がまとめられていますので、紹介いたします。
レストラン備長でのひつまぶしの昼食: お昼は折角、愛知県に来ましたから、ひつまぶしに舌鼓を打ちました。ひつまぶしの発祥には津市と名古屋市の2つの説があるようです。

青塚古墳の説明風景: 昼食後は青塚古墳を訪問し、学芸員さんによる解説を受けました。
青塚古墳は墳長123m、高さ約12mの前方後円墳で犬山市では、こちらも昭和58年(1983)に国史跡として指定されています。東海地区最大級の大きさを誇り、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いの際には秀吉陣営の砦として使用されたことから、別名「青塚砦」とも呼ばれています。

青塚古墳墳丘: 青塚古墳の約3.5km東にある尾張二宮大縣(おおあがた)神社では、「青塚古墳は大縣神社の御祭神である神裔 大荒田命(おおあらたのみこと)の墳墓である」と伝えられています。

これで計画された訪問先はすべてこなしました。
本日は、地域文化学科卒業生にふさわしい研修に主眼をおいた旅行を企画いただき、かつ、往復のバス内では楽しく過ごし親睦を深められるよう、綿密に計画いただいた幹事さん(H.S.さん、M.T.さん)をはじめ、それを支援いただいた皆様に感謝いたします。
文責 岡島 敏広
2025年2月17日(月)三上陣屋跡訪問(野洲市)
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
2025年1月14日(火)沖縄県竹富島(竹富町)の小城盛(クスクムイ)と蔵元
2024年10月9日(水)岐阜県飛騨高山陣屋訪問
2024年10月8日(火)長野県信州松代城訪問
2024年10月7日(月)長野県信濃国小諸城址訪問
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
2025年1月14日(火)沖縄県竹富島(竹富町)の小城盛(クスクムイ)と蔵元
2024年10月9日(水)岐阜県飛騨高山陣屋訪問
2024年10月8日(火)長野県信州松代城訪問
2024年10月7日(月)長野県信濃国小諸城址訪問
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joukaku
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