2024年10月14日
2024年10月7日(月)長野県諏訪高島城訪問
個人旅行で、飯田城に引き続き、諏訪高島城を訪問しました。
諏訪高島城は続日本100名城に選定され、No.130です。
概要
諏訪湖畔に築かれた平城(水城)
築城年 文禄元年(1592)着工、慶長3年(1598)完成
築城者 豊臣秀吉の武将・日根野高吉(ひねのたかよし)
築城当時の高島城 本丸、二之丸、三之丸などの主要な郭をほぼ一直線上に連続配置した連郭式で、諏訪湖と数条の河川に囲まれた水を守りとする難攻不落の水城でした。
諏訪高島城は、諏訪郡を領していた諏訪頼忠が転封となり、代わって入った豊臣秀吉の家臣「日根野織部正高吉」により慶長3年(1598)築城され、のちには再度諏訪氏の居城となって、その威容と要害堅固を誇ってきました。
日根野高吉が築城の適地とした高島は、当時諏訪湖畔に島状を呈していたと思われる場所で「浮島」とも呼ばれ、ここには主に漁業を営む村落があったことが記録に残っています。高吉はこの村をまるごと移転させて高島城を築いたといわれています。
完成当時は、城のまわりは湖水と湿地に囲まれ、下図のようにあたかも諏訪湖中に浮かぶようであったので、別名「諏訪の浮城(うきしろ)」と呼ばれました。
慶長6年(1601)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封。再び諏訪氏がこの地の領主となり明治維新まで続くこととなりました。かつては諏訪湖に突き出した水城でしたが、江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ、水城の面影は失われました。
さらに、明治の廃藩置県により、封建制のシンボルである城郭の撤去が決定し、明治8年(1875)には天守が撤去されました。その後、諏訪市民の高島城への愛着が強く、昭和45年(1970)5月に天守が復興され、美しい姿を再び堀の水に映すようになっています。
下の「御枕屏風」に描かれた高島城からわかるように、城の北側には城下町(兼甲州道中上諏訪宿)が設けられ、城下町から城までは一本の道しかありませんでした。
城は、北から衣之渡郭(えのどくるわ)、三之丸、二之丸、本丸が一直線に並ぶ「連郭式」と呼ばれる形態です。
御枕屏風の高島城部分
本日は本丸のみを訪問し、他の郭は下に説明のみ記載します。
【本丸】三層の天守と城主の御殿や書院、政務をとる御用部屋、郡方、賄方。その他、能舞台、氷餅部屋など多くの建物がありました。現在は、高島公園となっています。図は上が南側となっています。
本丸諏訪湖側(駐車場付近)から見た②諏訪高島城天守: 天守は三層三階の望楼型天守が建てられましたが、天守をはじめ主要な建物の屋根が瓦葺きではなく、檜の薄い板を葺いた柿葺(こけらぶき)という珍しいもので(復興後は銅板葺き)だったことも、高島城の大きな特徴です。
これは、湖畔の軟弱地盤で重い瓦が使えなかったからとか、諏訪の寒冷で瓦は凍み割れてしまい、堪えられる瓦が調達できなかったためとも言われています。また、築城当時の石垣は、自然石を加工せずに積み上げた野面積(のづらづみ)でした。
復興天守(南西面) 破却前天守古写真(北面)

破却前の高島城遠景(明治4年、1871)
石垣補修のようす: 天明6年(1786)には大掛かりな補修によって石垣の大部分は整備されましたが、現在でもその一部が残されています。
写真の模型のように櫓を組んで、天守を持ち上げ、石垣が補修されました。
高島城北面(左から⑨角櫓、⑥冠木門・⑤冠木橋、②天守)
⑥冠木門: 本丸の正面玄関にあたります。「冠木門」とは柱に貫と呼ばれる棒を横に通した造りの門のことをいいます。信濃国諏訪郡高嶋城絵図では冠木門は棟門又は高麗門になっています。この名前は形式的なものか、初めは冠木門であったのが後から作り替えられた可能性があります。
⑥冠木門(櫓門)上部
⑤冠木橋
⑨角櫓: 本丸東側には3棟の二重櫓(角櫓、持方月櫓、富士見櫓)が置かれ櫓と櫓の間には多門櫓が配されていました。
諏訪護国神社: 創建は明治33年(1900)。諏訪地域出身の国家のために殉難した人の霊(英霊)を祀るために創られました。
⑦御川渡門跡に移築された三之丸御殿裏門: 高島城破却後、茅野市湖東の民家に移築されていた三之丸御殿裏門が、昭和63年(1988)に所有者から諏訪市に寄贈されました。
現在設置されている三之丸御殿裏門の位置が本来とは異なりますが、高島城が湖に面していた頃は、ここの位置にあった御川渡門から舟に乗ることができたそうです。
本丸諏訪湖側から見た②天守(南面)
高島城本丸以外の郭の説明を以下にまとめます。
【衣之渡郭】
内海櫓(うつみやぐら)と内海門という門があったほか、上級藩士の屋敷がありました。
【三之丸】
楼門(三之門)があり、藩主の私的空間として利用された三之丸御殿、家老の三之丸屋敷、藩の会計を預かる御勘定所などがありました。
【二之丸】
楼門(二之門)があり、家老諏訪家の二之丸屋敷、職人が詰めて働く御作事屋、貯米蔵、貯銭蔵、馬場などがありました。
【南之丸】
寛永3年(1626)に徳川家康六男の松平忠輝を預かることとなり、南之丸を増設し、監禁場所としました。以降、南之丸は、幕府から預かった流人の監禁場所として使用され、不要となったのちには薬草などの栽培場所となったとされています。
ここで諏訪高島城訪問は終わり、この後は、本日の次の訪問地の龍岡城五稜郭へと移動しました。
文責 岡島 敏広
諏訪高島城は続日本100名城に選定され、No.130です。
概要
諏訪湖畔に築かれた平城(水城)
築城年 文禄元年(1592)着工、慶長3年(1598)完成
築城者 豊臣秀吉の武将・日根野高吉(ひねのたかよし)
築城当時の高島城 本丸、二之丸、三之丸などの主要な郭をほぼ一直線上に連続配置した連郭式で、諏訪湖と数条の河川に囲まれた水を守りとする難攻不落の水城でした。
諏訪高島城は、諏訪郡を領していた諏訪頼忠が転封となり、代わって入った豊臣秀吉の家臣「日根野織部正高吉」により慶長3年(1598)築城され、のちには再度諏訪氏の居城となって、その威容と要害堅固を誇ってきました。
日根野高吉が築城の適地とした高島は、当時諏訪湖畔に島状を呈していたと思われる場所で「浮島」とも呼ばれ、ここには主に漁業を営む村落があったことが記録に残っています。高吉はこの村をまるごと移転させて高島城を築いたといわれています。
完成当時は、城のまわりは湖水と湿地に囲まれ、下図のようにあたかも諏訪湖中に浮かぶようであったので、別名「諏訪の浮城(うきしろ)」と呼ばれました。
慶長6年(1601)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封。再び諏訪氏がこの地の領主となり明治維新まで続くこととなりました。かつては諏訪湖に突き出した水城でしたが、江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ、水城の面影は失われました。
さらに、明治の廃藩置県により、封建制のシンボルである城郭の撤去が決定し、明治8年(1875)には天守が撤去されました。その後、諏訪市民の高島城への愛着が強く、昭和45年(1970)5月に天守が復興され、美しい姿を再び堀の水に映すようになっています。
下の「御枕屏風」に描かれた高島城からわかるように、城の北側には城下町(兼甲州道中上諏訪宿)が設けられ、城下町から城までは一本の道しかありませんでした。
城は、北から衣之渡郭(えのどくるわ)、三之丸、二之丸、本丸が一直線に並ぶ「連郭式」と呼ばれる形態です。
御枕屏風の高島城部分

本日は本丸のみを訪問し、他の郭は下に説明のみ記載します。
【本丸】三層の天守と城主の御殿や書院、政務をとる御用部屋、郡方、賄方。その他、能舞台、氷餅部屋など多くの建物がありました。現在は、高島公園となっています。図は上が南側となっています。

本丸諏訪湖側(駐車場付近)から見た②諏訪高島城天守: 天守は三層三階の望楼型天守が建てられましたが、天守をはじめ主要な建物の屋根が瓦葺きではなく、檜の薄い板を葺いた柿葺(こけらぶき)という珍しいもので(復興後は銅板葺き)だったことも、高島城の大きな特徴です。
これは、湖畔の軟弱地盤で重い瓦が使えなかったからとか、諏訪の寒冷で瓦は凍み割れてしまい、堪えられる瓦が調達できなかったためとも言われています。また、築城当時の石垣は、自然石を加工せずに積み上げた野面積(のづらづみ)でした。
復興天守(南西面) 破却前天守古写真(北面)


破却前の高島城遠景(明治4年、1871)

石垣補修のようす: 天明6年(1786)には大掛かりな補修によって石垣の大部分は整備されましたが、現在でもその一部が残されています。
写真の模型のように櫓を組んで、天守を持ち上げ、石垣が補修されました。

高島城北面(左から⑨角櫓、⑥冠木門・⑤冠木橋、②天守)

⑥冠木門: 本丸の正面玄関にあたります。「冠木門」とは柱に貫と呼ばれる棒を横に通した造りの門のことをいいます。信濃国諏訪郡高嶋城絵図では冠木門は棟門又は高麗門になっています。この名前は形式的なものか、初めは冠木門であったのが後から作り替えられた可能性があります。

⑥冠木門(櫓門)上部

⑤冠木橋

⑨角櫓: 本丸東側には3棟の二重櫓(角櫓、持方月櫓、富士見櫓)が置かれ櫓と櫓の間には多門櫓が配されていました。

諏訪護国神社: 創建は明治33年(1900)。諏訪地域出身の国家のために殉難した人の霊(英霊)を祀るために創られました。

⑦御川渡門跡に移築された三之丸御殿裏門: 高島城破却後、茅野市湖東の民家に移築されていた三之丸御殿裏門が、昭和63年(1988)に所有者から諏訪市に寄贈されました。
現在設置されている三之丸御殿裏門の位置が本来とは異なりますが、高島城が湖に面していた頃は、ここの位置にあった御川渡門から舟に乗ることができたそうです。

本丸諏訪湖側から見た②天守(南面)

高島城本丸以外の郭の説明を以下にまとめます。
【衣之渡郭】
内海櫓(うつみやぐら)と内海門という門があったほか、上級藩士の屋敷がありました。
【三之丸】
楼門(三之門)があり、藩主の私的空間として利用された三之丸御殿、家老の三之丸屋敷、藩の会計を預かる御勘定所などがありました。
【二之丸】
楼門(二之門)があり、家老諏訪家の二之丸屋敷、職人が詰めて働く御作事屋、貯米蔵、貯銭蔵、馬場などがありました。
【南之丸】
寛永3年(1626)に徳川家康六男の松平忠輝を預かることとなり、南之丸を増設し、監禁場所としました。以降、南之丸は、幕府から預かった流人の監禁場所として使用され、不要となったのちには薬草などの栽培場所となったとされています。
ここで諏訪高島城訪問は終わり、この後は、本日の次の訪問地の龍岡城五稜郭へと移動しました。
文責 岡島 敏広
2025年2月17日(月)三上陣屋跡訪問(野洲市)
2025年1月15~16日沖縄県石垣島(石垣市)のグスク・士族屋敷訪問
2025年1月14日(火)沖縄県竹富島(竹富町)の小城盛(クスクムイ)と蔵元
2024年10月25日(金)レイカディア地域文化43期'24秋のバス旅行「尾州犬山城とひつまぶしの旅」(愛知県)
2024年10月9日(水)岐阜県飛騨高山陣屋訪問
2024年10月8日(火)長野県信州松代城訪問
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2024年10月8日(火)長野県信州松代城訪問
Posted by
joukaku
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