2023年01月23日

2023年1月22日(日)肥田城~六角義賢vs高野瀬秀隆・浅井長政 攻防戦

滋賀県主催の「近江の城」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭~近江源氏佐々木氏の城」第1回肥田城~六角義賢vs高野瀬秀隆・浅井長政 攻防戦に参加しました。訪問コースは以下の通りで、本文中の丸数字の番号は下記地図と一致させています。
稲枝駅→①水攻め土塁の痕跡→江戸時代の土塁→②住吉神社→③山王祠
→➃万葉歌碑→⑤高橋(宇曽川に架かる橋)→⑥江戸時代の土塁
→西町・東町→⑦崇徳寺
実地に訪問しながら、仲川靖先生の解説をお聞きします。
この講座は動画でも記録されています。

近江湖東の北端の平野部に位置する肥田城は、宇曽川対岸ですぐ近くにある高野瀬城を本拠とする六角氏家臣の高野瀬隆重により、大永年間(1521~1528)に築かれた平城で、永禄2(1559)年に日本で初めて水攻めを受けた城とされています。肥田城遺跡では地表面に現存する遺構はほとんどありませんが、田畑等の土地の地割り(土地の形)から、かつての姿を検討することができます。このような土地に残る痕跡から推定できる肥田城は、宇曽川のほとりに築かれた土塁・堀で囲まれた城館であった考えられます。

            高野瀬隆重           高野瀬秀隆

永禄元(1558)年以来、湖北を領した浅井氏が、湖東を領した六角氏の領地へと侵攻を繰り返しました。六角義賢はこれを撃退し、浅井久政の嫡男に自分の名前の一文字を与えて賢政(かたまさ、後の長政)と名乗らせたり、家臣平井定武の娘を嫁がせたりして従属させました。
ところが、1559年に肥田城主の高野瀬秀隆が浅井氏の調略により六角氏を見限って賢政に寝返り、義賢に叛旗をひるがえしたことが戦いの発端となりました。六角定頼・義賢親子の攻撃を何度も受けましたが、浅井氏の援軍を得て防衛しました。浅井氏滅亡後は織田氏に仕えましたが、天正2(1574)年に越前一揆に敗れて自害しています。

肥田城の地点より観音寺城のある繖山を望む: 肥田城から遠くないところに六角氏の観音寺城のある繖山が見えます。

永禄2(1559)年4月3日、観音寺城を出た六角軍は肥田城の近くに布陣し肥田城を囲む形で幅12間(約23メートル)、長さ58町(約6.3キロメートル)の堤防を築き、宇曽川と愛知川(現在よりも北を流れていました)の水を引き込んで水攻めとしました。土塁内には水が流れ込み、水かさは日に日に増しました(下写真の農道の左側に水が溜まりました)が、5月28日の大洪水により土塁が決壊し、水攻めは失敗に終わってしまいました。
翌永禄3(1560)年に六角氏は再度高野瀬氏を攻めるため肥田城を包囲しますが、今度は浅井賢政が高野瀬氏救援のため出陣し、佐和山城主百々盛実を先鋒として肥田城西方の野良田付近(下記写真の農道/土塁跡の右側)で両者は戦い、浅井賢政(当時はまだ「賢政」で、後に「長政」に改名)が勝利しました。
彦根藩士源義陳が寛政4(1792)年に編纂した『近江小間攫』には「本朝(日本)水攻ノ最初ハ此時ナリ」と記しています。実際には76年前に河内国(大阪府東部)若江城で畠山義就が行った水攻めが日本最初の水攻めですが、しっかりとした堤防を築いた水攻めとしては肥田城が最初で、羽柴秀吉による備中高松城水攻めより23年前の出来事でした。「肥田城水攻め」を発案者は記録に残っていませんが、六角義賢がその策を採用し実行させたのが現在の定説です。
高野瀬氏の後、蜂屋頼隆、長谷川秀一が城主となりましたが、長谷川秀一が朝鮮の役で病没すると文禄2(1593)年に肥田城は廃城となりました。

①水攻め土塁の痕跡: 南を向いて撮影。上記地図の茶色で示された土塁跡が、現在は農道であり、町界にもなっていることから、圃場整備が実施されたにもかかわらず、現在まで残されています。写真の農道の左側は肥田町、右側は野良田町

近江愛智郡志からの肥田の図: かつての地名「山王」「月山」に城郭の中枢が、その周囲にある「勘解由使邸」「丹波邸」「孫右衛門邸」「藤蔵屋敷」といった地名から家臣の屋敷が広がっていた様子がうかがえ、さらにこれらの周囲には「西町」「東町」などという地名があることから、町屋があったと考えられます。

②住吉神社: 肥田集落の西端にあります。住吉大神は海中より出現されたため、海の神としての信仰があり、古くから航海関係者や漁民の間で、霊験あらたかな航海安全の神として崇敬されてきました。集落内には、同様に航海の安全にご利益のある金刀比羅神社もありましたので、この後の説明で出る舟運が盛んな集落であったと考えられます。

③山王祠: 城郭の中枢があったところと考えられます。周囲の家臣の屋敷は田畑になっています。

➃宇曽川堤防上にある万葉歌碑からの肥田城跡と比定される「新田」の眺望: 肥田城は、現在、田畑となっており、その姿を見ることはできず、構造も明らかではありませんが、発掘調査で16世紀代の屋敷跡が発見されています。

⑤高橋付近の発掘調査された家屋の配置図: 地図に宇曽川に架かる「高橋」が描かれていますが、この辺りが琵琶湖より東山道に向かって川をさかのぼることのできる限界で、肥田側の橋の東袂に船着場がありました。船着場まで「ひらた舟」が行き来し、琵琶湖からの舟運で肥田の集落は栄えました。この地図のT1,T2,T4,T7の家屋は船着場近くですが、発掘調査から、上層(江戸時代)及び下層(戦国時代)から遺構が見つかっています。遺構下層からは、茶の湯で用いられる天目茶碗が出土しています。このことから、肥田集落には裕福な町人が板葺き(又は富裕層は草葺きか茅葺き)の家に住んでいたと考えられます。遺構から瓦は出土していません。

発掘調査された家屋の1つ T7: 上地図の道がカーブしている地点です。

以上の知見を総合すると、肥田城は現在は何も無いような地点にある平城であっても、当時は街道と琵琶湖を結ぶ舟運の重要拠点にあり、領地争いや本拠観音寺城への近さだけでなく、六角氏の流通経済にとり、非常に重要な意義を持ったことから、近隣の高野瀬氏に立地上守備のしにくい所にわざわざ築城させ、また、寝返りは水攻めをしてでも許せなかったものと考えられます。

⑥江戸時代の東端土塁(左)、       ②住吉神社付近の土塁(右)
肥田集落を囲う土塁は、これまでの話とは異なり、後の江戸時代に作られたもので、肥田集落を愛知川の氾濫から守るためのものです。

⑦崇徳寺(そうとくじ): 高野瀬氏の先祖は藤原秀郷と伝えられ、秀郷から14代後の藤原隆重が1180年近江の高野瀬(現在の豊郷町高野瀬)に入り、高野瀬城を築城しています。そして、豪族として根付き、それから10代後の高野瀬隆重が上述のように肥田城を肥田に築城し、近くに菩提寺として崇徳寺を開創したと伝えています。崇徳寺には、高野瀬隆重の肖像画が残っています。

文責 岡島 敏広

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Posted by joukaku at 16:36 Comments(0)授業

2023年01月22日

2023年1月22日(日)佐和山城城下町下見(2)

佐和山城はその長い歴史のうち、城主が交代して徐々に整備されていることから、城下町は奥が深く、今回の下見は「2022年12月16日(金)佐和山城城下町下見」の続編に当たります。
2022年12月16日の記事で記載しましたように、佐和山の東側山麓の佐和山町・鳥居本町側に巨大な土塁が残されており、古絵図にも「元追手門」と記されていることから、古くから佐和山城の大手門跡の土塁と言われてきました。土塁の外側には城下町があったとされ、発掘調査でも伝承が証明されつつあります。

以下、「彦根市史上冊」「新修彦根市史第1巻、第10巻」の記載内容に従って記載しますが、彦根藩が事情聴取した「古城御山往昔咄聞集書(こじょうおんやまおうじゃくのはなしききあつめがき)」によれば、西側山麓にも城下町があったと考えられます。
こちら側は宅地化していることから、発掘調査が困難で文献による説明が中心となります。佐和山の南西麓 古沢町にあるモチノ木谷(書院植込のモチノキに由来)は石田三成の屋敷跡と伝えられ、「近江国坂田郡志第3巻」p.243では、江戸時代の土地台帳(水帳)において、ここは「御殿畑」「御殿道」などと呼ばれていたと記載されています。
写真は蛇谷にある「石田三成屋敷跡碑」と古地図にある「丸跡」の石垣です。

加えて、この近くの清凉寺(下写真: 慶長7年(1602)に井伊直政の墓所として創建)の敷地は、三成の時代には、「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」に登場する島左近の屋敷跡であったと伝えられています。また、清凉寺正面の山門は「唸り門」と言い、江戸時代に焼失するまでは、島左近邸の屋敷門が使用されていたそうです。
このような伝承が佐和山西山麓に集中しています。

ちなみに、龍潭寺(元和3年(1617)建立)には佐和山城縁のものが多くあり、建立当時の山門は佐和山城の城門を移築したものだったそうですが、写真の現在のものは違うようです。

「沢山古城之絵図」では西側山麓(沢山古城之絵図の上側、2つ下の彦根市史上冊の図を参照)に「侍屋敷跡」「馬喰町跡」「魚屋町跡」「石ケ崎町跡」「新町筋跡」などの町屋をはじめ、「枡形門跡」「馬屋跡」が記されており、しかも整然とした方形区画によって構築されています。石田屋敷(モチノ木谷)の前面には堀跡も描かれていて、城下町が存在したことを示唆しています。
また、絵図の青く彩られた松原内湖には「百間橋」が架けられており、琵琶湖に直接面した松原湊と城下を結び、龍潭寺越えによって陸路の物資を湊に直接運ぶことが可能です。こうした施設が佐和山城が築城された頃から実存していたことを絵図が示しているのであれば、東側山麓に比べ桁外れに充実した施設が西側山麓に存在したことになります。

沢山古城之絵図

佐和山城之古図(屋敷地などが示されている。近江国坂田郡志第3巻より。上が北、左が西で松原内湖、琵琶湖が描かれている。クリックで拡大)

西側山麓部分の拡大図(彦根市史上冊より。クリックでさらに拡大)
下側が琵琶湖(西)側で松原内湖が描かれています。

彦根市教育委員会が作成した赤色立体図に上「西側山麓部分の拡大図」記載地名を書き加えた図: 最初の写真に示した「石田三成屋敷跡」の碑の位置がもちの木谷にはありませんが、現状でも龍潭寺からもちの木谷の範囲には、多数の方形区画の土地が見られます。

さらに、明治7年(1874)に作成された古沢村地券取調総絵図の地割には、西側山麓に三重の堀で区画されていたことを示す痕跡が見事に描かれています(方形区画を乱す区画に注目)。少なくとも三成の時代には、松原内湖側が大手となり、家臣屋敷や城下町が造営されたものと考えられます。

古沢村地券取調総絵図(新修彦根市史第10巻より)

すなわち、戦国時代には東側山麓の佐和山町・鳥居本町側の東山道(中山道)に面していた大手が、ある時期には琵琶湖側に付け替えられたと推測されます。その時期は、織田信長により封じされた丹羽長秀による改修によると推測されます。


そのように推測される理由は、①東側山麓の大手土塁には石垣の痕跡を示す栗石が一切認められず、瓦片も認められないことより、築造は戦国時代にまで遡り、織田信長時代ではないと考えられること。②信長が丹羽長秀に松原内湖で大船を建造させていること。からその時期に大手が琵琶湖側に移されたと推測されています。しかし、東側山麓の屋敷地の出土品に三成時代の遺物も含まれたことから、西側山麓だけでは城下地が狭く、家臣団を収容できず、佐和山周囲の谷すべてを用いたものと推測されています。また、廃城前4年間の最終の城主が井伊氏であり、内堀跡の外側において町屋名(「馬喰町跡」「魚屋町跡」「新町筋跡」)と侍屋敷が混在している所があることから、彦根城築城に際し必要に迫られ形成された部分もあると指摘される先生もいらっしゃいます。 文責 岡島 敏広

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Posted by joukaku at 23:16 Comments(0)下見課題学習

2023年01月19日

2023年1月18日(水)第103回例会「田中城跡」下見

天気予報は曇りでしたが、結論としてはその予報が外れて、ほぼ1日雨の中を城郭探訪会例会の下見として、高島市の田中城を訪問しました。
高島七頭(高島氏を中心として、平井(能登氏)、朽木、永田、横山、田中、山崎氏)のうちの田中郷の領主・田中氏の居城であった田中城は、泰山寺野台地から舌状にのびる支丘の先端部に築かれた中世末期の山城で、現在も上寺(うえでら)集落西側の山間部にその遺構を残しています。『近江輿地志略』には「この城 上の城と号し、南市村城を下の城と称す」と記されることから、地元の伝承として古くから「上の城」や、地名から「上寺城(うえでらじょう)」とも呼ばれています。
田中城主郭があったと推定される郭の標高は220m、平地の標高が160mで、両者の比高差はわずか60mです。同時期の山城と比べて標高の低い場所に位置しますが、城域の要所に堀切、土塁、武者隠しなど外敵を防ぐための遺構が見られ、相当の規模を誇る城郭であったことがうかがえます。
本日は「ボランティアガイド トラベル高島」の同姓Kさん2名(YK, SK)のガイドさんにご案内いただき、下見しました。上寺バス停の所にある田中城跡案内板前でガイドさんと待ち合わせ、地域史に詳しい「先生」と呼ばれておりました方のSKさんによるご説明から、城は鎌倉時代後期、田中播磨守実氏(さねうじ)により築城されたとのことです。その他、城主田中氏や田中郷の説明を受けてから、登山を開始しました。

田中城跡入口です。イノシシなどの動物による被害防止のために城跡はフェンスで囲われており、扉を開けて中に入ります。

この入口の手前のお家に、登山者用に下に示しました「田中城跡歴史ハイキングMAP」が設置されており自由に持ち帰ることができるようになっていました。
山城から東方に広がる山腹一帯には、地名の由来となった上寺である天台密教の山岳寺院「松蓋寺(しょうがいじ)」の寺坊跡があり、田中城はこの遺構を再利用し築造されたと推定されています。松蓋寺は「高嶋七ヵ寺」の1つで、今は下地図⑤の観音堂一宇が残されているだけです。城の縄張には、この⑤観音堂の下方に広がる寺の遺構を城に再利用した郭(i)と、観音堂背後の尾根上に遺された元来から城として機能していた遺構(ii)がありますが、大部分は寺の遺構を再利用した郭(i)です。
i. 観音堂よりも一段下方、山裾に広がる遺構群は、寺坊跡を利用して、土塁や堀を付け足したもので、屋敷跡と考えられる遺構です。その一段上には観音堂⑤の前面に広がる遺構群があり、ここも土塁で区画された大きな郭や、郭群の周囲には堀や土橋、武者隠しなどの遺構②が見られます。観音堂⑤の左手(⑤⑥の間)には寺の塔が立っていたと思われる基壇状の遺構や礎石が見られます。
ii. ここからさらに一段上がった尾根上には四つの郭が連続して築かれており、さらに上方には、土塁で囲まれた虎口状の施設を挟んで、「天主跡」と表示されている主郭⑦があります。その背後は馬の背状の通路⑧になっており、通路の先端には尾根を切断した大堀切があり、主郭背後の防備を固めています。

①金刀比羅宮: 山裾に広がる屋敷跡と考えられる郭群を抜けて、観音堂の前面に広がる郭群に入ると郭の土塁上に(上記MAPの①)、神仏習合の神金毘羅権現が祀られています。讃岐の金刀比羅宮から海上交通の守り神として勧請されたもので、琵琶湖や安曇川の運航の安全を祈願したものと思われます。この辺りは土塁で区画されています。

②土橋、武者隠し: 2番目の郭群の北の端に位置し、写真のように山を土橋に沿って下ると突然、急な谷になっています。逆に登ってきた攻め手は傾斜が緩やかになってホッとします。しかし、この細い土橋に沿って一列に通るときには見えないよう、土橋の山(南)側に武者隠しが設けられており、守兵はそこに隠れて、弓や鉄砲又は一斉攻撃で突き落とすなどで攻め手を撃退します。武者隠しは近江の城では事例の少ないものです。

③堀切: 観音堂のある郭とその麓(東)側の郭を断ち切るように、堀切が設けられ、観音堂のある郭に到達するには、急な斜面を這い上がるか、次の石段を上るしかありません。

➃観音堂への階段: 我々は無理をせず、観音堂には石造りの阿弥陀如来を横に見て石段を上ってゆきます。

⑤松蓋寺観音堂: 天平3年(731)に僧良弁が建立しましたが、室町時代頃には衰退し廃寺と化して、現在はこの観音堂が残るのみです。

⑥見張所: ここからは、木が邪魔でしたが、MAPに説明のとおり、高島方面が見えました。

⑦主郭: 見張所からは観音堂の背後の急坂の尾根をロープを頼って主郭部へ登ります。この尾根の北西側斜面(城の背後に当たる)は切岸が施されていて、通常よりも人工的に切り立った状態で、当然、そちら側から登ることはできません。主郭では、写真のとおり、琵琶湖を含めて、現在の安曇川の町が見渡せました。

⑧切岸が施された尾根: 主郭より北西方面に向かう尾根の先は堀切で切られて、行き来できないようようにされていますが、この尾根の両側も切岸が施され転落すると命がなくなるような切り立った尾根でした。

ところで、田中城は『信長公記』に3度登場しています。
1回目は元亀元年(1570)4月21日、信長が京都から越前へ向かった際に高島の「田中の城」に逗留したという記録です。このとき信長は朝倉義景を討つため越前を目指しており、途中の高島を通過し、浅井長政の勢力下にあった田中城に宿泊したと考えられます。この軍勢には後の豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康も参加していました。この8日後に浅井氏が離反を起こし、田中城は信長の敵方の城となりました。他方、信長は「金ヶ崎の退き口」の名で有名で、朽木経由で京都まで逃げ帰ります。
2回目は元亀3年(1572)3月11日で、信長が高島の地で浅井・朝倉軍を攻撃した際の記録です。このとき、信長方の明智光秀や丹羽長秀らが木戸(清水山)・田中両城を監視しています。
3回目は翌年の元亀4年(1573)7月26日、信長は大船で湖上から浅井長政の勢力下に置かれていた高島を攻撃し、陸からも木戸・田中両城を攻撃したとの記録です。この結果、落城した木戸・田中両城が明智光秀に与えられました。
さらに、『信長公記』の記述以前のことで、近年発見された熊本藩(細川家)の家老米田家に伝わる医学書『針薬方』(永禄9年)の奥書に「明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」とあります。田中城と光秀に関するもので、文献上に光秀が登場する最古級の発見で注目されました。奥書には、沼田勘解由左衛門が田中城で光秀の口伝を記し、永禄9(1566)年10月に米田貞能が江州坂本で写したものと記されています。このことから、少なくとも1566年以前の田中城に光秀が近江国と関係をもちながら、籠城していた可能性が指摘されています。光秀がどのような立場で田中城に籠城していたかは定かではありませんが、この頃にはひとかどの武将として活躍していたようです。

田中城訪問の後は、田中氏ゆかりの玉泉寺と田中神社を訪れました。
玉泉寺: 創建は奈良時代の天平年間で行基が開祖と伝えられ、享禄4年(1531)の大火により寺地を失いましたが、天文2年(1533)には、田中城の城主であった田中下野守理春(しもつけのかみみちはる)が荒廃を嘆き、再興したと伝承しています。玉泉寺境内の本堂前に、「鵜川四十八体石仏」(高島市)と同じ坐像形式の石仏五体が南面して並んでいます。五智如来と呼ばれ、左から阿弥陀如来・薬師如来・大日如来・弥勒菩薩・釈迦如来です。室町時代後期の作で、製作には「鵜川四十八体石仏」と石工技術を同じくする集団の影響が考えられます。このほかにも、墓地内で多種多様な石仏を見ることができる高島では指折りの石仏スポットと言えます。

田中神社: 社伝によると田中郷の総産土神で、鎌倉時代の石造品が6基ほどあり、往時の豊かな文化をしのばせています。

この後、JR安曇川駅をめざして戻りますが、その途中に今回訪問した田中城の「上の城」に対し、大字田中のほぼ中央の平地に「下ノ城」という集落があります(下図左上)。『近江輿地志略』に記述され、最後に通る「南市」には城郭が築かれた形跡がないことから、下ノ城集落に位置する田中氏館が「下の城」であると考えられています。田中氏館が存在した痕跡は、地表には見受けられませんが、その付近には「北堀」「東堀」「南堀」「堀之内」という堀が存在したことを示す小字名が残されており、この範囲に田中氏の居館が存在していたと考えられています。また、 「堀」という地名がそれぞれ付くことから、周囲に堀を巡らす居館であったことが伺えます。西堀という字名はありませんが、江戸後期の田中村絵図には「西ノ口」という地名が残されており、その地域の中に田中氏の居館の正面入り口が存在したことが伺えます。

下ノ城集落西側入口で先生より説明を聞く様子: 現状では周囲には住宅があるだけで、土塁など遺構が残っている様子はありませんが、平成17年の発掘調査で堀跡の一部がこの辺りで見つかっています(上記地図青色部分)。また、この地区の古老のお話では、北堀の水田では耕作中大きく沈む場所があり、農耕しづらく、この付近の地中から石仏が多く見つかるのだそうです。

北国海道沿いで市場が開かれていた場所: 上記地図の右(東)側にある「南市」交差点で、南北に走る北国海道の道の両側に水路があることから、この広い道幅は昔から変化しておらず、この道の奥まで両側に産物や商品を売買する市が立てられていました。田中氏は地域の生産基盤の掌握だけでなく、交通路支配も大きな収入源としていました。

最後に、雨の中をご協力いただいて、無事に下見を終了でき、駅まで戻れました。ご協力いただきました城郭探訪会の皆様及びボランティアガイド トラベル高島のYK, SK様お二人に感謝いたします。
例会本番は2023年3月30日に予定されています。 文責 岡島 敏広

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Posted by joukaku at 21:37 Comments(0)例会下見
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