2024年12月18日

2024年12月10日(火)地域文化学科45期生校外学習 近江の江戸期の城「彦根城の見方、調べ方」

本日は滋賀県レイカディア大学中井均先生による地域文化学科45期生の彦根城での校外学習です。筆者はその学習サポーターとして学生に付き添いました。今回の校外学習での総歩行歩数は8,500歩でした。
ちなみに、本年の中井先生の授業では、甲賀の城、小谷城、岐阜城、安土城の4城を訪問した後の最後の訪問地となります。

この彦根城は、筆者も現役時代の中井先生の授業で訪問しており、その時(2022年)の彦根城についての授業内容はこちらで確認していただけます。
さらに、彦根城下町も課題学習(レイカディア大卒業研究)や城郭探訪会でも訪問しており、町については、次の2つ(1、 2)で、ご確認いただけます。

彦根城は、井伊直政の正室の子である井伊直継(のちに、直勝)により築城されました。しかし、築城当時、直継は若年であったことから、井伊直政が関ケ原の傷で亡くなるに当たり、筆頭家老の木俣土佐守守勝〔きまたとさのかみもりかつ〕は後事を託されました。そのときの直政の遺言は佐和山から磯山への城の移築でしたが、木俣守勝はその移築計画を徳川家康にはかり、許可を得て慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2キロメートルのここ彦根山において、築城工事を始めました。         

木俣土佐守守勝(関ケ原合戦図の部分)

その後、徳川家康と秀忠は、直政嫡子の直継の柔和な性格を危惧し、母と共に安中(群馬県安中市)に移封して、直政と侍女の子である井伊直孝(下図)に藩主を交代させ2代目としています。この移封時に、井伊家譜代の家臣は直継に付き従って安中に移っています。
彦根藩井伊家はこうして直孝の子孫が継承し明治維新に至ります。

         井伊直孝

まず、集合場所である表門橋前二の丸駐車場に集まり、中井先生に挨拶して授業の開始です。
本日は主に彦根城の内堀内を巡り学習します。

今回の学習コース全体を把握するため、パンフレットの彦根城城内図にコースを書き込み示しました。コース図はクリックすると拡大します。
別途、古絵図の城内絵図も拡大して確認していただけます(「御城内御絵図」)。

①表門橋から、モミジの左に表御殿の屋根が見えます。彦根藩の政庁であるとともに藩主の居館(きょかん)でもあった建物で、昭和62年(1987)2月に復元され、現在は彦根城博物館になっています。その中で唯一、能舞台だけは江戸時代のオリジナルの建物で、明治以降、博物館ができる前は井伊神社に移され、彦根市内の神社を転々としますが、博物館建設を機に本来の場所に移築復元されました。

明治9年の彦根城解体前のオリジナルの表御殿です。

これから、彦根城へ登城ですが、表門の内側の枡形に入りました。ここは表門橋を渡ってすぐの冠木門と二階表門櫓の櫓門の2つの門に挟まれた枡形空間で、ここから下写真のように②登り石垣を見ることができます。

登り石垣: 彦根城には全国的にも珍しい登り石垣が、5箇所に築かれています。登り石垣は、豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮侵略の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城(わじょう)」において顕著に見られるもので、高さ1~2メートルの石垣が山の斜面を登るように築かれています。斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれました。
国内では彦根城の他には、朝鮮に渡った経験のある大名が築城した洲本城(兵庫県)伊予松山城(愛媛県)竹田城米子城(鳥取県)にしか見ることができません。井伊氏は朝鮮に渡っていませんが、彦根城築城を主導した公儀奉行が朝鮮に渡っており、採用しています。この登り石垣の上には、さらに瓦塀が築かれていたようです。

下写真は②表門付近で、二階表門櫓跡横の登り石垣です。城の南側からの侵入・斜面の横移動を防ぐためのもので、左(南)側に竪堀も掘られています。

本日4箇所の登り石垣を確認しましたので、それらを学習コースとは別に、続けてお示しします。

③2つ目の鐘の丸西(二階大手門櫓跡横)の登り石垣を上方から見ています。

③【写真左】これも2つ目の鐘の丸西(二階大手門櫓跡横)の登り石垣を、今度は大手門(下側)から見ています。
なお、この写真上方の鐘の丸西面の石垣には、佐和山城を崩して持ち込まれた移築石垣が混ざっていることが確認されています。

④【写真右】3つ目の出曲輪東側(黒門付近)の登り石垣です。石垣の右(琵琶湖)側に竪堀が掘られ、琵琶湖側から来る敵を封鎖しています。

⑤4つ目の出曲輪西側、西の丸三重櫓下の登り石垣です。石垣の左(琵琶湖)側に竪堀も掘られ、琵琶湖側から来る敵を封鎖しています。登り石垣の先には西の丸三重櫓があります。
これで彦根城5箇所の登り石垣のうち、4箇所を見学しました。
残りの1つは表御殿裏にあります。

⑥入場券提示後、表門からの登城道を山切岸を左に見ながら坂を上ります。山切岸は彦根城の特徴です。4-9間(8-17m)の高さで山全体に切岸が施されていることから、山の斜面を登るのは不可能で、彦根城には限られた経路からしか登ることができません。

⑦「鐘の丸」と「太鼓丸」の間の大堀切にたどり着きました。

大堀切: 彦根城を縄張り、つまり城本来の軍事的な防衛施設として見ると、その発達した様子がわかります。南北に長い尾根を整地して、曲輪を連ねた連郭式〔れんかくしき〕の平山城で、南から「鐘の丸」「太鼓丸」「本丸」そして「西の丸」が直線的に連なり、「本丸」の前後で地続きとならないよう、彦根山の尾根を断ち切る大堀切が切られています。

現在、「鐘の丸」と「太鼓丸」の間の大堀切におり、大堀切に架かる橋(昭和40 年(1965)建設)と天秤櫓を見上げていますが、「御城内御絵図」を拡大して見ると、この架け橋は往時は両側に壁があり屋根の付いた「廊下橋」で、中の人の動きが外からは見えないようにしてありました。
この橋の辺りを境にして、「太鼓丸」の左右で石垣の積み方が変わっています。写真向こう(表門)側は井伊直継により築城された当時の古いもの(野面積み)、手前(大手門)側は幕末の積み直しによるもの(落とし積み)です。石垣はこれまで16回崩れて積み直されています。

⑦現在の橋脚はコンクリート台に載せていますが、オリジナルの廊下橋は石垣の写真に白矢印で示すように、石垣の窪みに橋脚を載せていました。

③の鐘の丸西の登り石垣を上方から見るために、大手口に続く登城道を少し下り、天秤櫓を見上げたところです。
天秤櫓の二重櫓の窓が真正面に位置し、この登城道は二重櫓から真っすぐ鉄砲で侵入者を狙えるよう設計されていることがわかります。

本丸に向かうには大堀切から一旦「鐘の丸」に登り、180°ターンして(させられて)、再度、先ほどの大堀切の方向に向かい、廊下橋を渡って天秤櫓(てんびんやぐら)に入ります。

⑧鐘の丸井戸: 築城工事が開始された年の慶長9年(1604)末には、早くも鐘の丸の御広間(7間半×11間)が完成し、井伊直継は、さっそく佐和山城から鐘の丸に移っています。そして2年後の慶長11年(1606)頃、本丸に天守が完成すると、天守前に新たに御広間(6間×15間)が建立され、直継は再び移ってそれを御殿としています。当初から本丸に御殿を建立するという計画があって、鐘の丸の御広間はあくまで仮の御殿であったのだと考えられます。
しかし、ここ鐘の丸には「大広間」や「御守殿」などの建物も、徳川秀忠の娘和子(まさこ)の皇室への入内に当たって、京への途上の宿泊施設として造営されました。ところが、京へは東海道を使用したことから彦根城に立ち寄ることはなく、その建物は一度も使用されることなく大広間は享保17年(1732)に解体され、江戸に運ばれて彦根藩江戸屋敷の広間に転用されました。写真は鐘の丸に建物が建てられたことから掘られた井戸です。
「鐘の丸」とは鐘楼が存在したことから名づけられていますが、この場所からでは鐘の音が城下(特に北側)にいきわたらなかったため、より高所の太鼓丸の現在の位置に移設されています。
また、鐘の丸は大坂城真田丸などでも有名な武田氏の城の作り方(早川幸豊による甲州流)の「丸馬出」を、彦根城での曲輪として実現したものです。

⑨天秤櫓: 廊下橋に接続する櫓門部分を中央に、大手門・表門からの両坂道に面している多聞櫓の角を二重櫓とすることで左右対称となっており、それが天秤櫓の名の由来となっています。天秤櫓が築かれるのは、築城の開始から数年後と考えられています。彦根藩主井伊家の家譜である『井伊年譜』には、この櫓が長浜城の大手門を移築したものであると記され、また、棟瓦の鬼板に長浜城主内藤信正の藤の丸(内藤藤)の家紋の入った紋瓦が遺されており、元和元年(1615)長浜城廃城に伴い移築されたものと考えられます。しかし、昭和30年代の解体修理では、移築された建物であることは確認されましたが、天秤櫓の前身が『井伊年譜』の記載どおり長浜城大手門と断定するには至っていません。

彦根城の正面である大手門と表門からの敵に対しては、両者が合流する天秤櫓の外側に先ほど通過した大堀切で切られています。現在は橋が架かっていますが、この橋を落とせば天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸方面へ侵入できません。
同様に、搦め手(からめて:裏手)からの敵に対しては、西の丸の三重櫓の外に大堀切があり、本丸方面への侵入を阻んでいます。

⑨天秤櫓内に入りました。中井先生の前の四角い穴は天秤櫓内の隠狭間です。隠狭間はここと天守内に設けられていますが、特に天守では外観の美しさが大切であることから、天守近くの天秤櫓も含め隠狭間とされています。
また、人の高さ(頭近く)の横木までは土壁が分厚く塗られており、それより上の壁は薄くなっています。そのようにしているのは、鉄砲玉の貫通の防御を考慮してのものです。天秤櫓内は純粋に軍事施設であることから、簡素で天井は張られていません。

⑩次に訪れる太鼓門は、天守がある本丸表口をかためる櫓門で「本丸」への最終の門です。城内合図用の太鼓を置いたところから名付けられたと言われています。
写真は「本丸」の外側から撮影していますが、外枡形となっており、場所によっては石垣を積むだけでなく、天然の岩を削って枡形を作り、また、排水も岩を削って溝を作っています。
なお、彦根城の石垣には彦根藩の石切り場のあった荒神山より切り出された湖東流紋岩が用いられています。風化した表面は白っぽくなっていますが、石を割ると内部はネズミ色をしています。櫓など建物の軒下の石垣では風雨による風化が遅れることから、同じ石でも風化の進んだ白色や進んでいないネズミ色の石の混じった石が見られます。

⑩太鼓門内側及び続櫓: 櫓門の背面は解放され、高欄付きの廊下となっており、櫓では大変稀な構造となっています。通常の櫓門は石垣の上に櫓が載っているだけで、縁のある例は他にありません。
なお、解体修理に伴う部材調査により、どこかの城門を移築したものであることが判明しています。

⑪本丸に入りましたが、多数の学生の足元に見える石は本丸御殿跡の礎石で、ここに一部二階の本丸御殿が建てられ、彦根城築城当初、井伊直継をはじめ藩主はここに住んでいました。台所や長局も付設されており、主だった家臣や侍女たちもここに詰めたと考えられます。
天守はこの位置からは御殿の屋根越しでしか見えませんでした。この御殿は幕末まで存在していましたが、大坂夏の陣が終わり大坂との緊張が無くなって後、参勤交代などで大坂よりも江戸を重視するようになると、江戸側の麓の表門の方に表御殿が建てられ、移っています。

⑫いよいよ天守ですが、通常表門から入り天守をめざすと、下写真の天守左側面(南面)を見ます。しかし、そちら側は正面ではありません。天守台は尾張衆により積まれたものです。

⑫天守南・東面: 天守には破風がたくさん用いられて、大きく見えるようにしていますし、花頭窓も通常の城では最上階に設けられますが、最上階の三階に加えて二階にも用いられています。また、三階には外には出ることが出来ませんが、飾りとして高欄付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置いたつくりになっています。
彦根城天守は戦いで落ちない目出度い天守であるとして大津城天守を、徳川家康が井伊家に与え、移築したものですが、大津城は四重五階であったものを、彦根城では材木だけを用いて三重三階に作り変えています。

⑫天守西面: 下は天守の西面です。彦根城は関ケ原合戦後、大阪の豊臣秀頼を仮想敵と想定して建てられた城であることから、西側が大手側(正面)であり、さらに、長方形の天守であることから、南・北面よりも大きく、かつ豪華に見えます。

⑫天守北面: 西の丸や琵琶湖から見える姿になります。

⑫天守内に入りましたが、⑨の天秤櫓と同じで、狭間を隠狭間にしています。彦根城天守内部には何もありませんでしたが、天守には物置のように歴代の城主の甲冑が納められていたと古文書に記録されているそうです。

⑬西の丸三重櫓外観: 西の丸の北西に建つ櫓で、さらに西に張り出した出曲輪との間に深い大堀切が設けられています。西方の搦め手(裏手)からの敵に備えた守りの要でした。三重櫓は、この搦め手を見下ろす位置に設けられ、平時には琵琶湖を監視する役目もありました。

⑬西の丸三重櫓三階内部

⑭現在、西の丸と出曲輪との間に架かる木造橋が傷んでおり修復工事中のため、西の丸を天守まで戻り、「井戸曲輪」から黒門を目指して北側に下りました。写真は「井戸曲輪」の内側よりその門と西の丸東面石垣を見たものです。

⑭敵が井戸曲輪にまで登ってくる坂道は、写真のように「くの字状」に曲げられて、ようやく上写真の井戸曲輪の門に辿り着くと通路が細く、門を通れるのはたった1人、門を通り抜けても正面にある天守続櫓や多聞櫓の狭間が真正面です。鉄砲での狙い撃ちを受け命はありません。

⑭「井戸曲輪」の外からの東側石垣の眺望で、「井戸曲輪」と「本丸着見櫓台」の石垣が見えています。江戸時代にはこちら側は琵琶湖に面したことから周辺の切岸は総石垣で組まれました。
中井先生のお話では、以前ここには樹木が生えており、折角の壮大な石垣が見えなかったことから、彦根市から現在のように眺望の良い景観とするため、樹木伐採の相談を受けたそうです。しかし、先生ご自身は樹木には明るくなく、貴重な樹木は伐採してはいけないと、その筋の専門家にも議論に入ってもらったそうです。すると、今度は樹木によっては猛禽類が営巣する木にしていることもあるからということで、鳥類の専門家にも参加してもらった上で、1年間巣作りの様子を観察して、ようやく樹木伐採に至ったそうです。

彦根城北側の干拓前の松原内湖で、手前には楽々園が見えます。

⑮私たちは、そのまま「くの字状」の坂道を下まで下りて黒門にまで行きます。
12月ですが、本年は暖冬のため、たくさんの紅葉が見られましたし、写真のように赤いモミジの絨毯が土手に美しく敷き詰められていました。

黒門の古写真を示しました。今は城内に桜が植えられたり、広葉樹が生えていますが、当時は、松を植えるのが奨励されていました。松は縁起が良いこともありますが、よく燃えて薪にできます。古写真にはたくさんの松が生えているのが見えます。
現在は黒門には櫓門などの建物はなく、門の跡があるだけです。

⑯山崎曲輪(山崎郭): 黒門よりさらに北に向かって、山崎曲輪にまで来ました。ここは、佐和口の彦根市開国記念館横にある木俣屋敷が移転前にあった場所です。大坂冬の陣から凱旋した井伊直孝は、当時の藩主直継をはばかり、当時は天守横にあった御殿には入らず、この山崎曲輪にあった木俣家で迎えられ寄宿したといわれています。
木俣屋敷は元和年間(1615~1624)に佐和口門脇の現在地へ移ったと「井伊年譜」等に伝わります。

⑰山崎口冠木門内側: かつて山崎門がありました。内堀を渡って本丸に入る門は大手口、表門口、裏門口、黒門口、山崎口の5箇所に設けられていましたが、その内、山崎口に現存する門です。この冠木門は城下から移設されたと伝わりますが、詳細は明らかでありません。
江戸~明治時代には下の古写真のように内堀に木造橋が架けられていましたが、現在は架橋されておりません。

⑰山崎口冠木門外側

山崎口古写真: 山崎曲輪にあった三重櫓(左)と山崎門と木造橋(右)とが写っています。

⑱写真は水門跡で「御城内御絵図」では「埋御門」があったと描かれています。舟を用いた米の搬出・搬入に使用された門で、米の運搬には経路が長くなることから枡形にはなっていません。現在は門の左右の石垣が残っており、門の内側は梅林になっています。元は幕府からの預かり米5万石を保管するための公儀御用米の米蔵が17棟建てられていました。「御城内御絵図」では、門の外側には船着場としての石段が描かれ、水門からやや離れた所に「御番所」が描かれています。
彦根城築城当初は重臣の鈴木主馬川手主水の屋敷が在ったところであり、その時には水門が無かったものと考えられます。井伊直継の安中移封に伴い鈴木主馬も従い、その後、彦根藩が幕府からの預かり米5万石を得た時点で当該地に米蔵が築造されました。米蔵水門もこの時点で新設されたものと考えられます。
ちなみに、現在においても米蔵が残されている城は、1つだけで二条城です。

⑲大手口横の二重櫓跡と多聞櫓跡の石垣: 櫓に昇降するため、雁木という階段状の石造物が設けられています。いざという時、多くの兵が一気に櫓内に駆け込み、城を守るという設計になっています。
下大手口古写真の二重櫓・多聞櫓の裏側に当たります。

⑲大手口古写真: 大手門は彦根城の南西に位置し当時は大坂城への抑えから、軍事的に重要な位置を占めました。一の門と二の門からなる枡形門で一の門には付櫓を配し、二の門は櫓門として厳重な押さえとし、大手橋に平行するように二重櫓と多聞櫓を配置することで敵からの進入を阻止するような工夫が見られます。
豊臣家が滅ぶと次第に大手口の重要性が失われましたが、正式的な門は大手門とされ、朝鮮使節団の一行の宿営地も大手筋の寺院などを利用しています。

⑲大手門跡: 櫓門であった二の門の跡です。

⑲大手口枡形と大手門橋: 大手門橋の左側に一の門がありました。

大手門橋を渡り出発地点の表門橋に向かっていますが、彦根城で見られるめずらしい石垣の積み方の説明を受けました。
堀の水面に接しているのが「腰巻石垣」、その上の緑の土塁のさらに上にあるのが「鉢巻石垣」で関東に多い様式です。

⑳表門橋を通り過ぎ、最後に馬屋を訪問しました。写真は馬屋の長屋門で表御殿の付属施設としてここに設置され、藩主の馬を飼育した施設です。屋根の葺き替えの痕跡から、元禄13年(1700)頃に建てられたと推定されています。明和4年(1767)に二の丸佐和口多聞櫓が焼失した際、同櫓に隣接した馬屋の部分が焼失し、明和年間(1764~1772)に再建されました。

天守は「現存12天守」と言われ、12残されているのが有名ですが、この写真の馬屋はここ彦根城にしか残されていない唯一のもので、国の重要文化財に指定されています。ちなみに、お城の御殿は4つ残されているのだそうです。

写真は馬屋内部で、21頭収容できました。

この後、再度、朝に集合した二の丸駐車場にまで戻り、学習は終了し解散となりました。
お疲れさまでした。
                               文責 岡島 敏広

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Posted by joukaku at 14:47 Comments(0)授業

2024年12月11日

2024年12月5日(木)城郭OB第85回例会「佐和山城と大洞弁財天を巡る」

レイカディア大学42期生主催により、彦根市の佐和山城跡を探訪地として城郭探訪OB会第85回例会が開催されました。今回は58名のOB会会員が参加しました。
例会では参加者はJR彦根駅に集合し、そこからスタートして、佐和山城大洞弁財天(長寿院)を訪問した後、JR彦根駅にまで戻りました。例会の総歩行歩数は13,000歩でした。
なお、佐和山城には初夏に別のルートからも登山しています。
その様子はこちらをご覧ください。

佐和山城には、鎌倉時代(1190年代)の築城から1606年の廃城まで長い歴史がありますが、文禄4年(1595)に、石田三成が佐和山城主となった時代に、城が拡張整備され、天守も建てられました。その時の統治が、私腹を肥やすことなく善政で、「佐和山城」=「石田三成の城」くらいにも伝えられています。
ちなみに、関ヶ原合戦で、家康に従軍した板坂卜斎は、陥落した佐和山城には金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記しています(『慶長年中卜斎記』)。

本日は彦根の町から日常的に見える佐和山にある佐和山城を探訪します。

暖冬の本年は、12月に入っても紅葉が残っていたことから、佐和山城への登山には色とりどりに彩られた登城路を辿る例会となりました。佐和山城登山で最もポピュラーな「かもう坂通往還(龍潭寺越)」から登るために、東山公園グラウンドとJR琵琶湖線に挟まれた通路を、登り口のある龍潭寺に向かって歩きます。

祥壽山清涼寺: 佐和山城のある佐和山は、井伊直政公を開基として1603年に創建され、井伊家代々の菩提所となっている清涼寺の寺有地です。
グループで登山する場合は清涼寺の許可を得る必要があることから、まず、ご挨拶に訪問しました。

弘徳山龍潭寺前での集合写真: 登山前に登山口である龍潭寺と紅葉を背景に参加者の集合写真を撮影しました。

龍潭寺の石田三成像: 今回は訪問しませんが、龍潭寺には石田三成に因む遺品や物品がたくさん収集されています。

龍潭寺が佐和山への登山口ですので、そこから伸びる「かもう坂通往還(龍潭寺越)」を登ります。

かもう坂通往還の堀切(切通し): 登りきって、右に曲がり、先に進むと西の丸跡下段に到達します。この切通しは佐和山城の北西方面尾根を防御するために設けられた堀切をそのまま往還に利用しているものです。
切通しのすぐ南側(右側)には櫓台状の高まりが確認され、番所などの施設が存在したと考えられます。

かもう坂通往還峠付近: 右に曲がり、櫓台状の高まりから、かもう坂通往還の龍潭寺側を見ています。

西の丸跡下段 塩硝櫓(焔硝櫓): 写真は西の丸跡北西端部(下段)に位置する土坑(穴)で、西の丸跡に入ってすぐにあります。下段の曲輪はかもう坂通往還を見下ろす位置にあり、その立地より搦手からの敵の侵入を防ぐ役割を担っていたと考えられます。写真の土坑の用途は不明で、説明板には「謎の土坑」と記載されていますが、2015年に発掘調査されています。穴を掘った目的は明確にはわかりませんが、半地下の施設があったのではないかと思われます。
この曲輪には多数の瓦片が散乱しており、城が機能していた当時、塩硝櫓(焔硝櫓)とありますから、火薬の原料となる硝石を保管した瓦葺の建物(櫓)が存在していたと考えられます。

西の丸跡の縄張: 本日西の丸跡で歩いた探訪コースを縄張図に書き込みました。上写真の土坑と下写真の竪堀の位置(赤矢印)を示します。西の丸は「かもう坂通往還」の切通から本丸に至る途中に築かれた丸を総称して呼んでいます。井伊家に伝来する佐和山城絵図では西の丸跡には3段の曲輪が描かれ、上段が「焔硝櫓」、下段に「塩櫓」と記されています。しかし、現在は下段を「焔硝櫓」と通称して、名称に混乱が見られます。
井伊家の絵図には描かれていませんが、下の縄張図のように北西に伸びる尾根(写真左下)にも2段の曲輪が明瞭に確認できます。

西の丸跡中段・上段間の竪堀: 倒れた竹の下から写真左の細い木の幹に向けて竪堀が掘られています。

本丸跡での集合写真: 本丸跡に到着し、まず、参加者の集合写真を撮影しました。本丸跡は彦根城築城に際して10mほど切り崩されたという伝承があるように、周囲には城郭遺構は認められませんでした。

本丸跡から見える彦根城: 本丸跡からは眺望が優れ、本日の天候もあり、彦根城が綺麗に見えました。

算木積みの隅石垣: 本丸跡から南側に下りると、天守の基部を固めていた算木積みの隅石垣の遺構がたった2つですが残存しています。隅石垣の基底部と思われます。
本丸跡の外周が調査されていますが、ほぼ同じ高さの7箇所で新たに基底部らしい石垣が見つかっており、本丸跡の石垣の想定ラインを復元する上で貴重な情報とのことです。他の曲輪などにも少しですが、石垣は残されているようです。
1910年出版の『彦根山由来記』p.25によれば、井伊氏は彦根城築城に際して、佐和山城など4つの旧城(他に大津、安土、長浜)より石材を転用したとされ、実際にも佐和山城の石垣は、材料調達や築城時間を節約するため、彦根城築城の材料として持ち去られています。
その後、三成時代の治政を忘れさせるよう、跡形もなくなるまで徹底的に破城されています。

千貫井: 佐和山の南斜面にある城中の飲料水として用いられた井戸で、岩間を流れた地下水がここに湧き出ていたと考えられます。渇水することがなく、山上に築かれた佐和山城にとって、金千貫の値打ちがあるほど貴重な水資源であったという意味で命名されたものです。
しかし、今回の訪問時には水がなく、1年前訪問した時には濁った水を湛えていましたが、城内の名水であったと言われています。

崩れた千貫井の小屋: 戦前、彦根商業高校学生が掘り直し、屋根のある小屋も設けられて、下の旧写真では形を保っていますが、今は手入れも不十分で小屋や囲いも朽ちかけています。

水の涸れた2024年の千貫池   千貫井と千貫池の旧写真

2023年初夏の水を湛える千貫池

千貫井訪問後は、南にある太鼓丸跡へ向いました。

太鼓丸跡入口: 入口まで到達しましたが、こちらはロープが張られていて立入禁止でしたので、この先は訪問しませんでした。この先の太鼓丸跡には2段の曲輪があるそうです。
太鼓丸跡に行かれた方がいますので、こちらのブログの報告をご覧ください。

太鼓丸跡入口西(琵琶湖)側の竪堀: ロープが張られている地点の西(琵琶湖)側には、写真右の尾根道から左の谷底へと竪堀が掘られています。
この反対の東(鳥居本)側には大手門から佐和山城本丸へと続く登城道がありますが、現在は使用されていないことから荒れて藪になっており、通行不能となっています。

紅葉の本丸跡: 太鼓丸跡入口まで行き、そこから引き返して、紅葉の本丸跡に戻り、しばし昼食休憩となりました。本丸跡は東西約100m、南北で約45mほどの広さがあります。

昼食: 本丸跡で紅葉と彦根市街を眺めながらの昼食です。

以下は、2023年に訪問した時の報告と重複しますが、本丸の情報を記載します。
本丸には五層の天守が建てられていたと言われています。在りし日の佐和山城をイメージするため、天守に係る絵図を集めてみました。以下に示します。

西明寺蔵 佐和山城合戦図絵馬(部分): 元禄15年(1702)に石田三成旧臣の子孫が奉納したものです。

その他には、
i, 「澤山城図」滋賀県犬上郡多賀町多賀大社蔵「多賀大社社頭絵図」
ii. 大手口からの佐和山城
iii. 石田三成居城・佐和山城搦手鳥瞰図(石田三成同族会と友の会保管)
iv. 関ヶ原合戦翌日、徳川軍は佐和山城を攻め、落城しますが、そのときの記録に「てんす(天守)やけ(焼け)申候」とあり、焼けた瓦等は見つかりませんが、佐和山城天守は焼け落ちたことが知られています。井伊家の菩提寺・龍潭寺にその記録に符合する佐和山城落城の屏風絵が伝わっています。
ちなみに、城主や家族は、通常、詰めの城の倉庫のような天守には居住せず、石田三成の場合は佐和山南西山麓のモチノキ谷にあった石田三成屋敷に住んでいました。

大洞弁財天(長寿院弁財天堂:
佐和山城跡訪問後は、大洞弁財天)を訪問しました。元禄8年(1695)に彦根藩主井伊直興が、領内の安泰と彦根藩領内にあったかつての古城の主237人を慰霊するために、彦根城の鬼門にあたる地に当寺を建立しました。

   井伊直興

弁財天堂は寺院建築に例の少ない権現造(ごんげんづくり)の形式をとり、極彩色の彫刻が各所に見られるなど、日光東照宮との共通性を見て取れますが、これは直興が元禄元年(1688)に日光東照宮修復の奉行に命じられ、工事の指揮をとっていたことが影響していると考えられます。

楼門: 元禄8年(1695)に建てられたもので入母屋、本瓦葺、三間一戸、八脚楼門で、二天門との別称あります。この楼門上層部には高さ10cmほどの大黒天像4千体が安置されています。その大黒天像は、かつて松原内湖に掛けられていた百間橋が、佐和山城落城後解体され、その木材で1万体作られたと伝えられ、触ると腹が痛むと言われます。
下層部正面左右には毘沙門天像、堅牢地神像、裏の左右には白狐像が安置されています。

百間橋大黒天像

楼門からの彦根城: 楼門から額に入れた絵のように美しい彦根城が見え、それを堪能した後、大洞弁財天を離れました。

大洞弁財天訪問後は、JR彦根駅に戻り、本日の例会は終了して解散となりました。
本日は城郭だけでなく、紅葉も同時に楽しむことができました。例会実施にご尽力いただきました42期OB会員の皆様に感謝いたします。

なお、本例会の佐和山城は佐和山城下町(琵琶湖側)佐和山城下町(鳥居本側)彦根城彦根城下町とも大きく関連していますので、興味ありましたら、リンク先の説明もご覧ください。
                              文責 岡島敏広

次回は、2025年1月15日(水)に多喜山城址探訪が計画されています。

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Posted by joukaku at 17:48 Comments(0)例会
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