2023年05月20日
2023年5月19日(金)佐和山城下町(鳥居本側)
本日は、レイカディア大学の課題学習での8回目の校外活動となります。
佐和山城下町大手口側(鳥居本側)の情報収集のため、城下町を学ぶ課題学習グループ"沙沙貴組"4名は、佐和山城下町を巡りました。
なお、佐和山城下町については、琵琶湖側の散策や下見を実施しており、その内容については、次のリンク先: 琵琶湖側、鳥居本側下見をご覧ください。佐和山城にも登っております。
本日は、あいにくの雨天でしたが、沙沙貴組のメンバーだけでなく、レイカディア地域文化学科のクラスメンバーと11:00に予約した蕎麦を食べる予定です。席待ちのため、そば処"百百百百"(国登録有形文化財の百々家住宅主屋でもあります)の駐車場に車を駐車し、ここをスタート地点とし、待ち時間を利用しての佐和山城下町の散策です。
彦根道に沿って、彦根に向かって西へとスタートです。
本日のコースを佐和山城下町の古絵図に示します。大きく四角く回ります。
古絵図はクリックすると拡大します。上が西、右が北です。
また、あまり開発が進んでいなかった1948年に撮影されたこの周辺の拡大可能な航空写真(国土地理院)へのリンクも付けておきました。
①佐和山城外堀として利用されていた小野川(江戸時代、鳥居本宿が整備される前に小野宿のあった彦根市小野町より流れる川)で、北(下流)の方を見ています。古絵図からすると、この辺りも特に「つるやゴルフ」と見えている左側は外堀の内側ですので、本町筋沿いの町家があったと思われます。
②佐和山城大手口: 彦根道側より本町筋を北に向かい、国道8号線を渡ってすぐに大手口に到着です。大手口案内板の向こうにガードレール見えますが、本町筋が北へと伸びています。左は登城道で、内堀の西法寺川を渡ったところで、土塁と登城道が交わる所に、下写真の彦根宗安寺の赤門(佐和山城大手門の移築門)が建てられていました。

③佐和山城内堀: 現在は埋め立てられて田んぼ(右)になり細くなっていますが、佐和山城の内堀であった西法寺川(「おまん川」とも呼ばれます)で、北の方面を見ています。左側には現在も土居が残っています。
④佐和山城登城道: 正面の台形の山が佐和山で、ここに本丸があります。左手前の山に太鼓丸があり、古絵図によれば、写真の周辺は侍屋敷でした。城が存在した当時は次のように見えたものと思われます。
⑤本町筋: 本町筋をさらに北に進んで、古西法寺(内町)の集落までやって来ました。石田三成が城主の時代、この道の両側に商人が住んでおり、彦根城が築城されると、彦根京町通(現在の彦根「夢京町キャッスルロード」)沿いの「本町」に、町の名前はそのまま引き継いで、ごっそり移住させられました。
彦根への移住に当たり千坪近い敷地を割り当てられるような藩の有力御用達商人もいたこと、「本町」は彦根の城下町づくりの核となったことから、佐和山城が健在であった頃のこの本町筋沿いには、有力商人が、多数軒を並べていたものと想像されます。
また、この古西法寺からは寛永年間(1624~1645)に鳥居本宿を形成するため、中山道沿いで家数の少なかった鳥居本村の隣で現在の専宗寺辺りに住民が移され、西法寺村を形成しました。
⑥本町筋: 古西法寺集落側から見た本町筋で、本町筋の入口に木製の道標が立てられています。この辺りは本町筋の両側(古絵図には家屋が描かれていない)と異なり、古絵図が描かれた江戸時代にも家屋が描かれ、集落であったことかわかります。写真を右方向に行くと、かもう坂通り往還(別称、龍潭寺越え)で佐和山城の北端を東西に走り、龍潭寺前から延びる百間橋に連絡して松原にあった蔵屋敷につながります。陸路の東山道(江戸時代より中山道)と湖上交通の松原内湖及び琵琶湖を結ぶ重要な道でした。旅人の往来があり、佐和山城廃城後も、集落が残ったものと思われます。
⑦百々町筋: 古西法寺集落(内町)を西(山)側に向かいますと、遠くに案内板が見えました。そこへと到達する畦道は、百々町筋と呼ばれる道で、この辺りに下写真の説明のように百々町があったことが知られています。また、小字名として「通り道西」「通り道東」などの名が残っていて、「百々町筋」の調査では、現道の盛土の下より、佐和山城の時代の道や道を横断する石組み溝が見つかっています。水田の畦や水路が当時の街路を踏襲している可能性が高いことがわかっています。
⑧井戸跡: 上記案内板は井戸跡の説明でした。この井戸跡は小字「百々町」に位置していて、発掘調査が実施される前から、水田の一角に姿を留めていたとのことで、雨のために水に浸かっていますが、しっかりした石積み井戸です。
⑨佐和山城外堀: 古西法寺集落を東(国道8号線/鳥居本町)に向かって歩くと、佐和山城外堀であった小野川を横切ります。南側を見ています。現在は、この川の手前の佐和山城側が佐和町で、渡った先が鳥居本町で、町の境界となっています。
➉古西法寺集落を外れて、鳥居本町方面を見ています。この後、国道8号線を渡って、旧中山道に入ります。
⑪専宗寺: 旧中山道沿いにある浄土真宗本願寺派のお寺です。かつては、古西法寺の本町筋にあり、泉山泉寺と号していましたが、寛永17年(1640)に洞泉山専宗寺と改め、ここ西法寺に移転してきました。本堂などの建立時代は、18世紀後半のものと推定されています。
加えて、太鼓櫓の一層目の天井材に転用されている扉板は、佐和山城にあった門扉が使われていたと言われていました。佐和山城が落城するとき、石田三成を慕った足軽が、せめてお城の痕跡をどこかに残したいと、門の扉板を持ち出したという伝承があり、その扉板が、太鼓櫓の天井板だというのです。
しかし、太鼓櫓は撤去されてなくなっておりました。写真右の空間のある部分です。
⑪ところが、太鼓櫓にあった佐和山城のその門扉らしき扉が、専宗寺山門の左側に2枚立てかけてありました。門扉だけを残しているのは、貴重な品物の証拠ではないかと思います。確かに、残された扉には、門に使われる金具や蝶番の跡が板に残っていました。写真はクリックで拡大します。
本日の佐和山城下町(鳥居本側)の散策調査はここで終了し、時間も予約時間にほどよい頃となりました。
沙沙貴組のメンバーは百百百百に戻り、レイカディア地域文化学科のクラスメンバーと合流して、お昼として盛り蕎麦の大盛をいただきました。午後は、それぞれ人によりますが、鳥居本宿を巡った人、龍潭寺(ここには石田三成に関連する遺品がたくさん展示されています)を訪問した人などに別れ活動しました。本日は、雨の中、皆さまお疲れさまでした。 文責 岡島 敏広
佐和山城下町大手口側(鳥居本側)の情報収集のため、城下町を学ぶ課題学習グループ"沙沙貴組"4名は、佐和山城下町を巡りました。
なお、佐和山城下町については、琵琶湖側の散策や下見を実施しており、その内容については、次のリンク先: 琵琶湖側、鳥居本側下見をご覧ください。佐和山城にも登っております。
本日は、あいにくの雨天でしたが、沙沙貴組のメンバーだけでなく、レイカディア地域文化学科のクラスメンバーと11:00に予約した蕎麦を食べる予定です。席待ちのため、そば処"百百百百"(国登録有形文化財の百々家住宅主屋でもあります)の駐車場に車を駐車し、ここをスタート地点とし、待ち時間を利用しての佐和山城下町の散策です。
彦根道に沿って、彦根に向かって西へとスタートです。

本日のコースを佐和山城下町の古絵図に示します。大きく四角く回ります。
古絵図はクリックすると拡大します。上が西、右が北です。
また、あまり開発が進んでいなかった1948年に撮影されたこの周辺の拡大可能な航空写真(国土地理院)へのリンクも付けておきました。

①佐和山城外堀として利用されていた小野川(江戸時代、鳥居本宿が整備される前に小野宿のあった彦根市小野町より流れる川)で、北(下流)の方を見ています。古絵図からすると、この辺りも特に「つるやゴルフ」と見えている左側は外堀の内側ですので、本町筋沿いの町家があったと思われます。

②佐和山城大手口: 彦根道側より本町筋を北に向かい、国道8号線を渡ってすぐに大手口に到着です。大手口案内板の向こうにガードレール見えますが、本町筋が北へと伸びています。左は登城道で、内堀の西法寺川を渡ったところで、土塁と登城道が交わる所に、下写真の彦根宗安寺の赤門(佐和山城大手門の移築門)が建てられていました。

彦根宗安寺の赤門

③佐和山城内堀: 現在は埋め立てられて田んぼ(右)になり細くなっていますが、佐和山城の内堀であった西法寺川(「おまん川」とも呼ばれます)で、北の方面を見ています。左側には現在も土居が残っています。

④佐和山城登城道: 正面の台形の山が佐和山で、ここに本丸があります。左手前の山に太鼓丸があり、古絵図によれば、写真の周辺は侍屋敷でした。城が存在した当時は次のように見えたものと思われます。

⑤本町筋: 本町筋をさらに北に進んで、古西法寺(内町)の集落までやって来ました。石田三成が城主の時代、この道の両側に商人が住んでおり、彦根城が築城されると、彦根京町通(現在の彦根「夢京町キャッスルロード」)沿いの「本町」に、町の名前はそのまま引き継いで、ごっそり移住させられました。
彦根への移住に当たり千坪近い敷地を割り当てられるような藩の有力御用達商人もいたこと、「本町」は彦根の城下町づくりの核となったことから、佐和山城が健在であった頃のこの本町筋沿いには、有力商人が、多数軒を並べていたものと想像されます。
また、この古西法寺からは寛永年間(1624~1645)に鳥居本宿を形成するため、中山道沿いで家数の少なかった鳥居本村の隣で現在の専宗寺辺りに住民が移され、西法寺村を形成しました。

⑥本町筋: 古西法寺集落側から見た本町筋で、本町筋の入口に木製の道標が立てられています。この辺りは本町筋の両側(古絵図には家屋が描かれていない)と異なり、古絵図が描かれた江戸時代にも家屋が描かれ、集落であったことかわかります。写真を右方向に行くと、かもう坂通り往還(別称、龍潭寺越え)で佐和山城の北端を東西に走り、龍潭寺前から延びる百間橋に連絡して松原にあった蔵屋敷につながります。陸路の東山道(江戸時代より中山道)と湖上交通の松原内湖及び琵琶湖を結ぶ重要な道でした。旅人の往来があり、佐和山城廃城後も、集落が残ったものと思われます。

⑦百々町筋: 古西法寺集落(内町)を西(山)側に向かいますと、遠くに案内板が見えました。そこへと到達する畦道は、百々町筋と呼ばれる道で、この辺りに下写真の説明のように百々町があったことが知られています。また、小字名として「通り道西」「通り道東」などの名が残っていて、「百々町筋」の調査では、現道の盛土の下より、佐和山城の時代の道や道を横断する石組み溝が見つかっています。水田の畦や水路が当時の街路を踏襲している可能性が高いことがわかっています。

⑧井戸跡: 上記案内板は井戸跡の説明でした。この井戸跡は小字「百々町」に位置していて、発掘調査が実施される前から、水田の一角に姿を留めていたとのことで、雨のために水に浸かっていますが、しっかりした石積み井戸です。

⑨佐和山城外堀: 古西法寺集落を東(国道8号線/鳥居本町)に向かって歩くと、佐和山城外堀であった小野川を横切ります。南側を見ています。現在は、この川の手前の佐和山城側が佐和町で、渡った先が鳥居本町で、町の境界となっています。

➉古西法寺集落を外れて、鳥居本町方面を見ています。この後、国道8号線を渡って、旧中山道に入ります。

⑪専宗寺: 旧中山道沿いにある浄土真宗本願寺派のお寺です。かつては、古西法寺の本町筋にあり、泉山泉寺と号していましたが、寛永17年(1640)に洞泉山専宗寺と改め、ここ西法寺に移転してきました。本堂などの建立時代は、18世紀後半のものと推定されています。
加えて、太鼓櫓の一層目の天井材に転用されている扉板は、佐和山城にあった門扉が使われていたと言われていました。佐和山城が落城するとき、石田三成を慕った足軽が、せめてお城の痕跡をどこかに残したいと、門の扉板を持ち出したという伝承があり、その扉板が、太鼓櫓の天井板だというのです。
しかし、太鼓櫓は撤去されてなくなっておりました。写真右の空間のある部分です。

⑪ところが、太鼓櫓にあった佐和山城のその門扉らしき扉が、専宗寺山門の左側に2枚立てかけてありました。門扉だけを残しているのは、貴重な品物の証拠ではないかと思います。確かに、残された扉には、門に使われる金具や蝶番の跡が板に残っていました。写真はクリックで拡大します。
本日の佐和山城下町(鳥居本側)の散策調査はここで終了し、時間も予約時間にほどよい頃となりました。
沙沙貴組のメンバーは百百百百に戻り、レイカディア地域文化学科のクラスメンバーと合流して、お昼として盛り蕎麦の大盛をいただきました。午後は、それぞれ人によりますが、鳥居本宿を巡った人、龍潭寺(ここには石田三成に関連する遺品がたくさん展示されています)を訪問した人などに別れ活動しました。本日は、雨の中、皆さまお疲れさまでした。 文責 岡島 敏広
2023年05月13日
2023年5月11日(木)第105回例会「佐和山城跡探訪」
城郭探訪会第105回例会が、彦根市の佐和山城跡を探訪地として、彦根校北近江文化学科と健康づくり学科の合同担当により開催されました。今回は29名(43期12名、44期17名)の会員が参加しました。
なお、佐和山城には秋期にも別の登城ルートより訪問しています。その報告はこちらをご覧ください。
本日は、すがすがしい好天で、結果的には佐和山城跡への登城経路が木陰で涼しい風が吹き、登山には絶好の条件となりました。
参加者が全員集合しましたので、例会コースの説明から開始です。
佐和山城には、鎌倉時代(1190年代)の築城から1606年の廃城まで長い歴史がありますが、文禄4年(1595)に、石田三成が佐和山城主となった時代に、城が拡張整備され、天守も建てられました。その時の統治が、私腹を肥やすことなく善政で、「佐和山城」=「石田三成の城」くらいにも伝えられています。
ちなみに、関ヶ原合戦で、家康に従軍した板坂卜斎は、陥落した佐和山城には金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記しています(『慶長年中卜斎記』)。
本日の探訪コースを赤色立体地図に書き込みました。以下の説明に付けた丸数字は、地図上の丸数字の位置の説明となるようにしています。この地図はクリックにより拡大します。
なお、今回の訪問地点に入れなかった二の丸、三の丸は、石田三成後の井伊直政時代、それぞれ木俣土佐、中野越後が住していました。
①本日は、一般に利用される龍潭寺から登る登山道ではなく、佐和山南麓の古沢町姫袋にある国道8号側登山口から入り、法華丸の麓から北東方向に登ります。
①この入口の正面(国道8号線の向こう側)には、今は廃墟と化した佐和山遊園の建物が見えます。
②法華丸下の曲輪: 上の赤色立体地図を見ますと、②と示したこの曲輪は尾根や斜面が大きくえぐられ、広い平地になっていることがわかります。したがって、この写真に見える平地は中に入ってしまうとわからないものですが、人工的に作られたものです。
③法華丸入口: ガイドを勤めていただいたK.S.さんの向こう側(南西方向)の藪を先に進むと法華丸があります。今回は、残念ながら、ここは私有地であり、参加人数も多いことから、訪問は断念しました。
「法華丸」という名称はそこに法華(日蓮)宗の寺院があったことから名付けられたとのことです。そのような寺院が置かれたのは、敵に攻められたときに、心の拠り所の寺院を打ち壊してまで攻めないだろうとのことで、そのような考え方も城の防御の考え方の一つなのかもしれません。
別途、彦根城下町を調査のため散策した時に、彦根市河原町の「はなしょうぶ通り」に建つ妙源寺に佐和山城法華丸の城門が移築されているのを確認しました。日蓮宗のこの妙源寺は文禄元年(1592)の創立で、もうひとつ同じく日蓮宗の蓮成寺(1593年創建)も、佐和山城法華丸を移転した寺院(蓮成寺山門は佐和山武家屋敷の門)と伝えられています。
④太鼓丸入口: こちらはロープが張られていて立入禁止でしたので、訪問しませんでした。太鼓丸に行かれた方がいますので、こちらのブログをご覧ください。
多賀町高源寺総門表側: 佐和山城から南に10km程の多賀町にある高源寺は彦根藩の脇家と宇津木家の菩提寺で、佐和山城の城門(裏門)が移築されており、太鼓丸近くの切通口(上の赤色立体地図をご確認ください)の枡形門であったとのことです。昭和22年に改築されています。
高源寺総門裏側: 裏から見ると薬医門であることがわかります。
⑤佐和山登城道(尾根東側): 立入禁止となっている太鼓丸入口の東側に、鳥居本の大手門跡から来る佐和山城本丸への登城道(写真正面)が接続し、西側には竪堀がありました。
登城道は今は使われていませんので、藪になっており、鳥居本の大手口方面には進んでいくことができませんでした。
⑤竪堀(尾根西側): 上の赤色立体地図でも地面が縦に掘られている様子が確認できます。写真はわかりにくいですが、右の尾根道から左の谷底へと竪堀が掘られています。
⑥千貫井: 佐和山の南斜面にある城中の飲料水として用いられた井戸で、渇水することがなく金千貫の値打ちがあるほど貴重な水資源であったという意味で命名されたものです。今は濁っていますが、城内の名水であったと言われています。
⑥千貫井からは、眼下に彦根の町並みが広がり、正面に荒神山が見えました。
⑦女郎谷: 藪になっていてわかりにくいですが、本丸の東側の谷です。ここは、関ヶ原合戦で三成が敗れ、佐和山城落城のとき、城内の女性たちが集団で身投げし、悲鳴やうめき声が三日三晩続いたという悲話が残っています。そのため「女郎ヶ谷」と名付けられています。ガイドしていただいたK.S.さんご自身も以前ここを藪漕ぎした際に、金縛りにあったという体験を話してくださいました。見たところ、谷は急斜面ではなかったことから、身投げしても即死とはならず、大怪我をして苦しんだものと思われました。
⑧隅石垣: 本丸も近くなってきました。天守の基部を固めていた石垣の遺構がたった2つですが、算木積みとなって残存しています。他にもほんの少しですが、石垣は残されているようです。
佐和山城の石垣は、材料調達や築城時間を節約するため、彦根城築城の材料として持ち去られ、その後、三成の治政を忘れさせるよう跡形もなくなるまで徹底的に破城されています。
⑨本丸跡: 本丸に到着し、しばし休憩です。本丸跡は東西約100m、南北で約45mほどの広さがあります。
本丸跡で参加者の集合写真を撮影しました。
本丸には五層の天守が建てられていたと言われていますが、それに係る絵図を集めてみました。以下に示します。
西明寺蔵 佐和山城合戦図絵馬(部分): 元禄15年(1702)に石田三成旧臣の子孫が奉納したもの
その他には、
i, 「澤山城図」滋賀県犬上郡多賀町多賀大社蔵「多賀大社社頭絵図」
ii. 大手口からの佐和山城
iii. 石田三成居城・佐和山城搦手鳥瞰図(石田三成同族会と友の会保管)
iv. 関ヶ原合戦翌日、徳川軍は佐和山城を攻め、落城しますが、そのときの記録に「てんす(天守)やけ(焼け)申候」とあり、焼けた瓦等は見つかりませんが、佐和山城天守は焼け落ちたことが知られています。井伊家の菩提寺・龍潭寺にその記録に符合する佐和山城落城の屏風絵が伝わっています。
ちなみに、城主や家族は、通常、詰めの城の倉庫のような天守には居住せず、石田三成の場合は佐和山南西山麓のモチノキ谷にあった石田三成屋敷に住んでいました。
⑨眺めの良い本丸跡から、彦根市街(右から伸びる緑は彦根城)と
⑨米原方面も撮影しました。右に伊吹山が見えます。
➉西の丸下段 塩硝櫓(焔硝櫓): 火薬の原料となる硝石を保管した櫓で、人が立つ手前に大きな土坑が残されています。穴を掘った目的は明確にはわかりませんが、半地下の施設があったのではないかと思われます。
⑪ここからは、最終ゴールの龍潭寺に向けて、一般に利用される龍潭寺からの登山道に沿って山を下りました。
龍潭寺前で例会は終了し、解散となりましたので、最後に、個人的に龍潭寺を拝観しました。
龍潭寺には庭園(枯山水の「ふだらくの庭」、池泉庭園の「鶴亀蓬莱庭園」等)やだるまなど、見どころはいくつもありますが、石田三成に因んだ遺物がいくつも寺内に残され、また、展示されていました。入口の銅像や改築前は佐和山城の移築城門であったといわれる山門などが代表的です。
そのような遺構の中で、桜の描かれた「伝 石田三成屋敷 襖絵」を撮影しましたので、以下に示します。私たちがイメージする紙の襖とは異なり、杉板で出来ており、絵も板に直接描かれておりました。8枚現存するようです。龍潭寺開山の旲天和尚は佐和山城落城直後に佐和山に来ていたことから、遺構を取り込むのに便宜があったと思われます。
また、龍潭寺の梵鐘も元は佐和山の陣鐘であったと言われています。

最後に、今回の例会は、彦根校北近江文化学科と健康づくり学科が協力して開催しました。参加者数が1班でまとまれる程度でしたので、ボランティアガイドさんに依頼せず、解説は北近江文化学科のK.S.さんにすべて頼りました。その内容は本などでは得られない詳しいもので、何も残されていないと思っていた佐和山城の見方が、大きく変わりました。
例会を無事終了でき、参加者は快い疲れを感じながら帰宅しました。例会の開催にご協力いただきました城郭探訪会の皆様に感謝いたします。
なお、本例会の佐和山城は佐和山城下町1、佐和山城下町2、彦根城、彦根城下町とも大きく関連していますので、興味ありましたら、リンク先の説明もご覧ください。
次回例会は、2023年6月3日(土)に、八幡山城跡の探訪が予定されています。
文責 岡島 敏広
なお、佐和山城には秋期にも別の登城ルートより訪問しています。その報告はこちらをご覧ください。
本日は、すがすがしい好天で、結果的には佐和山城跡への登城経路が木陰で涼しい風が吹き、登山には絶好の条件となりました。
参加者が全員集合しましたので、例会コースの説明から開始です。

佐和山城には、鎌倉時代(1190年代)の築城から1606年の廃城まで長い歴史がありますが、文禄4年(1595)に、石田三成が佐和山城主となった時代に、城が拡張整備され、天守も建てられました。その時の統治が、私腹を肥やすことなく善政で、「佐和山城」=「石田三成の城」くらいにも伝えられています。
ちなみに、関ヶ原合戦で、家康に従軍した板坂卜斎は、陥落した佐和山城には金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記しています(『慶長年中卜斎記』)。

本日の探訪コースを赤色立体地図に書き込みました。以下の説明に付けた丸数字は、地図上の丸数字の位置の説明となるようにしています。この地図はクリックにより拡大します。
なお、今回の訪問地点に入れなかった二の丸、三の丸は、石田三成後の井伊直政時代、それぞれ木俣土佐、中野越後が住していました。

①本日は、一般に利用される龍潭寺から登る登山道ではなく、佐和山南麓の古沢町姫袋にある国道8号側登山口から入り、法華丸の麓から北東方向に登ります。

①この入口の正面(国道8号線の向こう側)には、今は廃墟と化した佐和山遊園の建物が見えます。

②法華丸下の曲輪: 上の赤色立体地図を見ますと、②と示したこの曲輪は尾根や斜面が大きくえぐられ、広い平地になっていることがわかります。したがって、この写真に見える平地は中に入ってしまうとわからないものですが、人工的に作られたものです。

③法華丸入口: ガイドを勤めていただいたK.S.さんの向こう側(南西方向)の藪を先に進むと法華丸があります。今回は、残念ながら、ここは私有地であり、参加人数も多いことから、訪問は断念しました。
「法華丸」という名称はそこに法華(日蓮)宗の寺院があったことから名付けられたとのことです。そのような寺院が置かれたのは、敵に攻められたときに、心の拠り所の寺院を打ち壊してまで攻めないだろうとのことで、そのような考え方も城の防御の考え方の一つなのかもしれません。
別途、彦根城下町を調査のため散策した時に、彦根市河原町の「はなしょうぶ通り」に建つ妙源寺に佐和山城法華丸の城門が移築されているのを確認しました。日蓮宗のこの妙源寺は文禄元年(1592)の創立で、もうひとつ同じく日蓮宗の蓮成寺(1593年創建)も、佐和山城法華丸を移転した寺院(蓮成寺山門は佐和山武家屋敷の門)と伝えられています。

④太鼓丸入口: こちらはロープが張られていて立入禁止でしたので、訪問しませんでした。太鼓丸に行かれた方がいますので、こちらのブログをご覧ください。

多賀町高源寺総門表側: 佐和山城から南に10km程の多賀町にある高源寺は彦根藩の脇家と宇津木家の菩提寺で、佐和山城の城門(裏門)が移築されており、太鼓丸近くの切通口(上の赤色立体地図をご確認ください)の枡形門であったとのことです。昭和22年に改築されています。

高源寺総門裏側: 裏から見ると薬医門であることがわかります。

⑤佐和山登城道(尾根東側): 立入禁止となっている太鼓丸入口の東側に、鳥居本の大手門跡から来る佐和山城本丸への登城道(写真正面)が接続し、西側には竪堀がありました。
登城道は今は使われていませんので、藪になっており、鳥居本の大手口方面には進んでいくことができませんでした。

⑤竪堀(尾根西側): 上の赤色立体地図でも地面が縦に掘られている様子が確認できます。写真はわかりにくいですが、右の尾根道から左の谷底へと竪堀が掘られています。

⑥千貫井: 佐和山の南斜面にある城中の飲料水として用いられた井戸で、渇水することがなく金千貫の値打ちがあるほど貴重な水資源であったという意味で命名されたものです。今は濁っていますが、城内の名水であったと言われています。

⑥千貫井からは、眼下に彦根の町並みが広がり、正面に荒神山が見えました。

⑦女郎谷: 藪になっていてわかりにくいですが、本丸の東側の谷です。ここは、関ヶ原合戦で三成が敗れ、佐和山城落城のとき、城内の女性たちが集団で身投げし、悲鳴やうめき声が三日三晩続いたという悲話が残っています。そのため「女郎ヶ谷」と名付けられています。ガイドしていただいたK.S.さんご自身も以前ここを藪漕ぎした際に、金縛りにあったという体験を話してくださいました。見たところ、谷は急斜面ではなかったことから、身投げしても即死とはならず、大怪我をして苦しんだものと思われました。

⑧隅石垣: 本丸も近くなってきました。天守の基部を固めていた石垣の遺構がたった2つですが、算木積みとなって残存しています。他にもほんの少しですが、石垣は残されているようです。
佐和山城の石垣は、材料調達や築城時間を節約するため、彦根城築城の材料として持ち去られ、その後、三成の治政を忘れさせるよう跡形もなくなるまで徹底的に破城されています。

⑨本丸跡: 本丸に到着し、しばし休憩です。本丸跡は東西約100m、南北で約45mほどの広さがあります。

本丸跡で参加者の集合写真を撮影しました。

本丸には五層の天守が建てられていたと言われていますが、それに係る絵図を集めてみました。以下に示します。
西明寺蔵 佐和山城合戦図絵馬(部分): 元禄15年(1702)に石田三成旧臣の子孫が奉納したもの

その他には、
i, 「澤山城図」滋賀県犬上郡多賀町多賀大社蔵「多賀大社社頭絵図」
ii. 大手口からの佐和山城
iii. 石田三成居城・佐和山城搦手鳥瞰図(石田三成同族会と友の会保管)
iv. 関ヶ原合戦翌日、徳川軍は佐和山城を攻め、落城しますが、そのときの記録に「てんす(天守)やけ(焼け)申候」とあり、焼けた瓦等は見つかりませんが、佐和山城天守は焼け落ちたことが知られています。井伊家の菩提寺・龍潭寺にその記録に符合する佐和山城落城の屏風絵が伝わっています。
ちなみに、城主や家族は、通常、詰めの城の倉庫のような天守には居住せず、石田三成の場合は佐和山南西山麓のモチノキ谷にあった石田三成屋敷に住んでいました。
⑨眺めの良い本丸跡から、彦根市街(右から伸びる緑は彦根城)と

⑨米原方面も撮影しました。右に伊吹山が見えます。

➉西の丸下段 塩硝櫓(焔硝櫓): 火薬の原料となる硝石を保管した櫓で、人が立つ手前に大きな土坑が残されています。穴を掘った目的は明確にはわかりませんが、半地下の施設があったのではないかと思われます。

⑪ここからは、最終ゴールの龍潭寺に向けて、一般に利用される龍潭寺からの登山道に沿って山を下りました。

龍潭寺前で例会は終了し、解散となりましたので、最後に、個人的に龍潭寺を拝観しました。
龍潭寺には庭園(枯山水の「ふだらくの庭」、池泉庭園の「鶴亀蓬莱庭園」等)やだるまなど、見どころはいくつもありますが、石田三成に因んだ遺物がいくつも寺内に残され、また、展示されていました。入口の銅像や改築前は佐和山城の移築城門であったといわれる山門などが代表的です。
そのような遺構の中で、桜の描かれた「伝 石田三成屋敷 襖絵」を撮影しましたので、以下に示します。私たちがイメージする紙の襖とは異なり、杉板で出来ており、絵も板に直接描かれておりました。8枚現存するようです。龍潭寺開山の旲天和尚は佐和山城落城直後に佐和山に来ていたことから、遺構を取り込むのに便宜があったと思われます。
また、龍潭寺の梵鐘も元は佐和山の陣鐘であったと言われています。


最後に、今回の例会は、彦根校北近江文化学科と健康づくり学科が協力して開催しました。参加者数が1班でまとまれる程度でしたので、ボランティアガイドさんに依頼せず、解説は北近江文化学科のK.S.さんにすべて頼りました。その内容は本などでは得られない詳しいもので、何も残されていないと思っていた佐和山城の見方が、大きく変わりました。
例会を無事終了でき、参加者は快い疲れを感じながら帰宅しました。例会の開催にご協力いただきました城郭探訪会の皆様に感謝いたします。
なお、本例会の佐和山城は佐和山城下町1、佐和山城下町2、彦根城、彦根城下町とも大きく関連していますので、興味ありましたら、リンク先の説明もご覧ください。
次回例会は、2023年6月3日(土)に、八幡山城跡の探訪が予定されています。
文責 岡島 敏広