アクセスカウンタ
プロフィール
joukaku
joukaku
レイカディア大学草津校
43期OB。
カテゴリ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 2人
QRコード
QRCODE

2025年01月28日

2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

滋賀県主催の「近江の城」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」に参加しました。
田中城は歴史上史料に4度登場し、明智光秀に係わりの深い城です。
なお、その史料の内容は本文の最後にまとめて示しました。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

本日巡るコースは以下の通り、高島市安曇川町の田中城を訪問し、その後、下ノ城集落、南市を訪れます。本日の総歩行歩数は15,000歩でした。

JR安曇川駅→田中城→下ノ城集落→南市→JR安曇川駅(地図はクリックにより拡大します)
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

最初、JR安曇川駅西口に集合し、松下浩先生による田中城の簡単な説明の後、実地に訪問しながら、その各地点においても解説をお聞きします。
今回は60名が参加しました。

なお、筆者は田中城には以前に2度訪問しております。その時の模様もまとめておりますので、興味のある方はこちら(下見例会本番)をご覧ください。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

田中城は、近江源氏佐々木氏の一族で高島七頭(高島氏を中心として、平井(能登氏)、朽木、永田、横山、田中、山崎氏)のうちの田中郷の領主・田中氏の居城で、湖西平野の西に位置する泰山寺野台地から舌状にのびる標高約240m の支丘の先端部に築かれた中世末期の山城です。現在も上寺(うえでら)集落西側の山間部に、その遺構を残しています。城は鎌倉時代後期、田中播磨守実氏(さねうじ)により築城されました。
『近江輿地志略』には、「この城 上の城と号し、南市村城を下の城と称す」と記されることから、地元の伝承として古くから「上の城」や、地名から「上寺城(うえでらじょう)」とも呼ばれています。
元亀争乱の中で、田中城は織田軍の攻撃を受け、最後に城は明智光秀に与えられました。 城は、i.山腹に広がる東側の郭群と ii.尾根上に伸びる西側の郭群に大別されます。

JR安曇川駅から田中城まで(3.5km)は、長い直線道路を黙々と歩きました。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

上寺バス停留所での松下先生による田中城の説明
i. 東側の郭群は、西端に位置する松蓋寺の遺構とされる観音堂を頂点に、斜面が削平されて土塁に囲われた方形の郭が並列しています。寺院の遺構を利用したものと思われます。
ii. 西側の郭群は尾根上に土塁や空堀で囲われた郭が並ぶ城郭の遺構で、i に比べ時代的に新しいと考えられます。

松下先生は i. 東側の郭群は田中氏時代のもので、ii. 西側の郭群は明智光秀によって整備されたと考えておられます。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

田中城の縄張り(田中城跡見学ルート図)を下に示します。
ほぼ頂上にある田中城主郭Gから東方に広がる山腹一帯には、地名の由来となった上寺である天台密教の山岳寺院「松蓋寺(しょうがいじ)」の寺坊跡があり、田中城は当初この遺構を利用し築造されたと推定されています。
図はクリックすると拡大します。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

入口石碑: ①田中城入口石碑: 田中城跡入口です。イノシシなどの動物による麓の農作物の被害防止のため、城跡はフェンスで囲われており、扉を開けて中に入ります。
この入口の手前のお家に、登山者用の「田中城跡歴史ハイキングMAP」が設置され、自由に持ち帰ることができるようになっています。
ここからまず松蓋寺跡と考えられる麓の東側の郭群 i を見学します。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

A郭の見張所跡: 入口より松蓋寺の参道であったと考えられる登城道を上って、見張所跡などのある平坦地(A郭)にまで行きます。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

A郭: 少し進んで登城道から見下ろしたA郭です。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

B郭: 田中城跡見学ルート図に従い、A郭の後、登城道より平虎口を通ってB郭に入りました。ここで、松下先生の説明を聞きました。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

B郭→C郭への平虎口: 2つの郭の間の平虎口を通り、北側のC郭へ入ります。この辺りの虎口は「平虎口」と単純で、より古い時代のものであることを示しています。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

C郭: 松下先生はここが明智光秀が入城する前の田中氏時代の主郭と考えておられました。その根拠は、
①大手側は登城道との間にB郭やD郭が緩衝地帯としてあり守られている。
②搦手側は帯郭や土橋・堀切となって厳重に守られている。
③面積が最も広い。
などが挙げられます。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

C郭から西側郭外に出てD郭土塁の堀切(南側)を見ました: D郭の次に訪問する観音堂のある郭(D郭上)とD郭の土塁の連結を断ち切るように、堀切が写真のように設けられ、観音堂のある郭に到達するには、急な斜面を這い上がるか、次に上る石段を使用するしかありません。
ここは田中城の紹介でよく撮影されるスポットのひとつです。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

D郭: 堀切から下方のD郭を眺めました。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

D郭側から堀切を見上げました: 堀切のある北側から南側へと下り、観音堂の一段下のD郭内に入ります。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

水の手: D郭南側下方には小川が流れていて、「水の手」という表示が掲げられていました。山城では限られた水源となります。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

観音堂への階段: D郭の上にある松蓋寺観音堂には、石造りの阿弥陀如来坐像を横に見ながら石段を上ってゆきます。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

石造阿弥陀如来坐像: 風化の具合から、石段を作られた時と同様、新しいものと思われますが、観音堂への登り口横で、観音堂への参拝者を見守っています。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

松蓋寺観音堂: 松蓋寺は「高嶋七ヵ寺」の1つで、天平3年(731)に僧良弁が建立しましたが、室町時代頃には衰退し廃寺と化して、現在はこの観音堂一宇が残されているだけです。
このあと、観音堂の南側(写真左側)上段の寺の塔が立っていたと思われる基壇状遺構を通過して、高島方面が見える見張所のあるE郭まで行き、主郭Gを目指しました。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

ここまでは、観音堂の下方に広がる寺坊の遺構に土塁や堀を付け足して城に再利用した古い郭(i)を見学してきました。
この後訪問するのは、時代的には、より新しい時期に城として整備された遺構(ii)となります。

E郭: 観音堂より上方のE郭からは、明智光秀により造られたと考えられる西側の郭群となります。観音堂からさらに一段上がった尾根上には4つの郭が連続して築かれており、さらに上方には、土塁で囲まれた虎口状の施設を挟んで、地図上で「G郭」と表示されている主郭Gがあります。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

F郭: 「田中城跡見学ルート図」で見ると新しい時代の郭のうち、E郭から数えると3つ目の郭です。この後、急坂になった尾根をロープを頼って主郭G虎口まで登ります。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

主郭G虎口: 写真に見える登城道らしき道をまっすぐには進まず、現在は標識がありますので、それに従い、右に90°曲がって主郭Gに入って行きます。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

主郭G: 主郭Gの標高は220m、平地の標高が160mで、両者の比高差はわずか60mです。見晴らしの良い主郭Gでは、写真のとおり、琵琶湖を含めて、安曇川の町が見渡せました。遠くにはこの時期雪で白くなった伊吹山も見えます。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

のろし台、つぶて石: 主郭G上方のこののろし台は戦国時代にはなかったものと思われますが、ここに据えられているのろし台は、勤労感謝の日に琵琶湖周辺の山城が連携して実施する「琵琶湖一周のろし駅伝」用のものです。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

地点G-Hの間の切岸: 主郭Gの訪問後、さらに西方に進みます。主郭Gの背後は馬の背状の通路になっています。通路の先端には尾根を切断した堀切Hがあり、土橋Hも架けられ主郭G背後の防備を固めています。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

堀切H: この馬の背状の通路に通じる泰山寺野台地へ警戒として切られたものと考えられます。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

堀切Hに架かる土橋で、参加者が土橋の上に立っています。この周辺に落ちている石や土から露出している石は、不思議なことに山から取れる石ではなく、安曇川から運ばれたような角の取れた川原石でした。土橋を作るのに運び込まれたのでしょうか?また、上記のろし台にあったつぶて石もかなりの割合が川原石でした。
ここが田中城の最西端となります。ここからは田中城跡入口まで戻り、そこから田中下ノ城に向かいました。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

田中下ノ城: 先に訪問した田中城の「上の城」に対するもので、大字田中のほぼ中央にある「下ノ城」という集落に向かいました。
田中下ノ城は、田中城の山麓から2.3km北東に進んだ平地に位置します。写真は下地図の①地点で東向きに歩行中の参加者を撮影したものです。写真の道路左の畑は「字戌亥堂」で、道路右の畑は「字堀の内」に当たります。電柱左側に見える民家は下ノ城集落の「字下ノ城」に位置しています。
この「下ノ城」の字名から、写真の民家の辺りに城(又は居館)があったと推定されます。周囲に残る水路は堀の痕跡とも考えられますが、現在は明瞭な城郭遺構は残っていません。
当時の城の構成に倣うと、田中城が合戦時に籠る山城であるのに対し、こちらは平時に暮らす居館とも考えられますが、両社の距離があまりに離れていることから、もとは平地に暮らしていたものが、戦国時代末期に山城に居住場所を移したものではないかと松下先生は考えておられます。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

現在の下ノ城周辺地図: 上記写真は地図の①の地点付近を歩く参加者を撮影したものです。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

織田信長が登場するまでは、城は、山城と平地や麓にある館がセットで築かれ、この「下ノ城」が平地の館に当たります。しかし、松下先生は上述のように2つの城の間の距離から、平地に暮らしていたものが、戦国時代末期に山城の居住場所を移したと考えておられます。
『近江輿地志略』に「南市村城を下の城と称す」と記述されていますが、この後に通過する「南市」には城郭が築かれた形跡がないことから、下ノ城集落に位置する田中氏館が『近江輿地志略』のいう「下の城」であると考えられています。田中氏館が存在した痕跡は、地表には見受けられませんが、その付近には下地図にあるように「北堀」「東堀」「南堀」「堀之内」という堀の存在を示す小字名が残されており、この範囲に田中氏の居館が存在していたと考えられています。また、 「堀」という地名がそれぞれ付くことから、周囲に堀を巡らす居館であったことが伺えます。西堀という字名はありませんが、江戸後期の田中村絵図には「西ノ口」という地名が残されており、その地域の中に田中氏の居館の正面入り口が存在したことも伺えます。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

写真は地図の②の地点で西向きに風景を撮影。道路左の畑は「字南堀」で、道路右や写真に写る建物は「字下ノ城」に当たる地に建てられています。現状では、「字下ノ城」には住宅があるだけで、土塁など遺構が残っている様子はありませんが、平成17年の発掘調査で住宅周辺で堀跡の一部が見つかっています。
また、この地区の古老のお話では、北堀の水田では耕作中大きく沈む場所があり、農耕しづらく、この付近の地中から石仏が多く見つかるのだそうです。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

②の地点で、南向きに撮影。左の畑は「字東堀」で、人のいる右道路のさらに右向こうは字南堀」に当たります。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

高島南市と近江の中世商業
近江は東西日本のほぼ中央に位置し、東西を結ぶ多くの街道が通ります。また琵琶湖水運を通じて日本海と伊勢湾を結ぶ、南北の流通の要衝でもありました。
東西南北の物流の要である近江には、古くから各所を拠点とする商人が活動していました。中でも五箇商人[八坂・薩摩(彦根市)、田中江(近江八幡市)、小幡(東近江市)、高島南市(高島市)]と四本商人[沓掛(愛荘町)、小幡・保内・石塔(東近江市)]は流通路の独占をめぐって激しく争いを繰り広げていました。
『近江輿地志略』では「南市村城」という名前が出ていますが、写真の南市は北国海道沿いで市場が開かれていた場所です。広い道幅は現代になって整備されたものではなく、遠い昔から変化しておりません。昔の常識からすると非常に広い道で、その両側で、南市商人や地元生産者により産物や商品を売買する市が立てられていました。このように、領主の田中氏は地域の生産基盤の掌握だけでなく、交通路支配も大きな収入源としていました。
2025年1月19日(日)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第1回「田中城跡」参加

ここで、訪問予定はすべて終了で、講座参加者は解散となり、このあと、出発地点のJR安曇川駅に向かいました。
次回は、長浜市横山城跡が計画されています。

                            文責 岡島 敏広

参考: 以下、参考として田中城に関係する史料の内容を示します。
田中城は『信長公記』に3度登場しています。
1回目は 元亀元年 「四月廿日、信長公京都より直に越前御進発。坂本を打越し、其日和邇に御陣取。廿一日高嶋の内田中が城に御泊り。廿二日若州熊河松宮玄蕃所御陣宿。廿三日佐柿粟屋越中所に至つて御着陣。翌日御逗留。」
元亀元年(1570)4月21日、信長が京都から越前へ向かった際に高島の「田中の城」に逗留したという記録です。このとき信長は朝倉義景を討つため越前を目指しており、途中の高島を通過し、浅井長政の勢力下にあった田中城に宿泊したと考えられます。この軍勢には後の豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康も参加していました。逗留の8日後に浅井氏が離反を起こし、田中城は信長の敵方の城となりました。この事件は「金ヶ崎の退き口」の名称で有名で、秀吉や光秀らは殿(しんがり)として残り、信長は田中氏の親戚の朽木氏(いずれも佐々木源氏)に助けられて、朽木経由で京都まで逃げ帰ります。

2回目は元亀三年 「三月十一日、志賀郡へ御出陣。和邇に御陣を移させられ、木戸・田中推詰め、御取仰付けられ、明智十兵衛・中川八郎右衛門・丹羽五郎左衛門、両三人取出にをかせられ、」
元亀3年(1572)3月11日で、信長が高島の地で浅井・朝倉軍を攻撃した際の記録です。このとき、信長方の明智光秀や丹羽長秀らが木戸(清水山)・田中両城を監視しています。

3回目は元亀四年 「七月廿六日、信長公御下り、直に江州高嶋表彼大船を以て御参陣。陸は御敵城木戸・田中両城へ取懸け攻められ、海手は大船を推付け、信長公御馬廻を以てせめさせらるべき処、降参申し罷退く。則、木戸・田中両城明智十兵衛に下さる。」
翌年の元亀4年(1573)7月26日、信長は長さ三十間、すなわち55mの大船で浅井長政の勢力下に置かれていた高島を湖上から攻撃し、陸からも木戸(清水山)・田中両城を攻撃したとの記録です。攻撃の結果、落城した木戸(清水山)・田中両城は明智光秀に与えられました。

さらに、『信長公記』の記述以前のことで、近年発見された熊本藩(細川家)の家老米田家に伝わる医学書『針薬方』(永禄9年)の奥書に、「明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」とあります。田中城と光秀に関するもので、文献上に光秀が登場する最古級の発見で注目されました。奥書には、沼田勘解由左衛門が田中城で光秀の口伝を記し、永禄9(1566)年10月に米田貞能が江州坂本で写したものと記されています。このことから、少なくとも1566年以前の田中城に光秀が近江国と関係をもちながら、籠城していた可能性が指摘されています。光秀がどのような立場で田中城に籠城していたかは定かではありませんが、この頃にはひとかどの武将として活躍していたようです。     以上

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

同じカテゴリー(授業)の記事画像
2025年2月15日(土)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第2回「横山城跡」参加
2024年12月10日(火)地域文化学科45期生校外学習 近江の江戸期の城「彦根城の見方、調べ方」
2024年3月16日(土)「近江の城郭~徳川家康と近江の城」姉川古戦場参加
2024年2月18日(日)「近江の城郭~徳川家康と近江の城」永原御殿参加
2023年7月20-22日レイカディア大学大学祭
2023年6月13日(火)ボランティアガイド養成講座「大津百町と膳所城下町」
同じカテゴリー(授業)の記事
 2025年2月15日(土)連続講座「近江の城郭~北近江の戦国史」第2回「横山城跡」参加 (2025-02-17 21:38)
 2024年12月10日(火)地域文化学科45期生校外学習 近江の江戸期の城「彦根城の見方、調べ方」 (2024-12-18 14:47)
 2024年3月16日(土)「近江の城郭~徳川家康と近江の城」姉川古戦場参加 (2024-03-22 15:56)
 2024年2月18日(日)「近江の城郭~徳川家康と近江の城」永原御殿参加 (2024-02-21 15:11)
 2023年7月20-22日レイカディア大学大学祭 (2023-07-23 13:20)
 2023年6月13日(火)ボランティアガイド養成講座「大津百町と膳所城下町」 (2023-06-14 22:08)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。